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今日の人207.澤田典久さん [2021年04月09日(Fri)]
今日の人は、氷見の暮らしを体験できるゲストハウスBed&Kitchen SORAIRO 〜ソライロ〜 オーナーの澤田典久さんです。
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澤田さんは昭和40年9月25日、菊人形で有名な福井県武生で生まれ育ちました。
小さい頃は体が大きく、健康優良児として市で表彰されるほどでした。しかし、体の大きさには似合わず、とても人見知りで幼稚園でもいじめっ子たちに泣かされてばかりいました。幼稚園の教室には入らず、軒下に隠れてよく泣いていたものです。

 だから、遊びに行くときはいつも一人で近所の川でザリガニや魚を獲ったりしていました。小学校3年生まではずっとそれを引きずっていたのですが、小学校4年生からスポーツ少年団で柔道をやり始めたことが、澤田さんに大きな転機をもたらします。小学校5年生の終わりに、澤田さんをいじめた子と取っ組み合いのケンカになったことがありました。その時、澤田さんはその子をボコボコにして大勝します。その時から、みんなが澤田さんを見る目はガラッと変わり、いじめられることは皆無になりました。

 釣りは相変わらず好きで、夏休みは短パンで川に入りながら釣りをしていました。一度ナマズに竿を折られて、絶対にリベンジしようと思ったのですが、もう一回釣ることができなかったことはとても心残りなのでした。

 その頃はコックになりたいと考えていて、小学生男子にしては珍しく、NHKの料理番組を見るのが好きでした。料理っておもしろいなぁといつも思っていたのです。今、その時の料理好きが生かされる仕事についていることも運命なのかもしれませんね。

 小学校6年生の時は、柔道に加えて水泳を習わされました。太りすぎていたので、親が心配したのです。しかし、中学校に入ると、背も伸びて、体重も自然に落ちてきました。中学校でも柔道部に入ったかと思うと、さにあらず。入ったのはバレーボール部でした。その頃澤田さんは学年で2番目に背が高く、何かチーム競技をしたいなぁと思った時に、小さいボールは嫌いだったので、バレーボール部を選んだのです。部活はハードでしたが、澤田さんはエースアタッカーとなり、2年の後半から3年にかけてはキャプテンも務めました。部活は遅くまでやっていたのでへとへとでしたが、キャプテンとしての責任感もあり、部活漬けの毎日は充実していました。でも、部活だけやっていたわけではありません。この頃、音楽にも目覚め、最後の学園祭ではステージに立って歌も歌いました。ちなみに歌ったのは、長渕剛の順子でした。

 高校は進学校の県立武生高校に。ここでもバレー部に入りましたが、なんとこの時、澤田さん始め3つの中学校のキャプテン経験者が集まるというバレー部史上最強チームが結成されたのです。ただ、音楽にもますます興味が出てきたので、入学祝に買ってもらったステレオコンポでいろいろな音楽を聴きました。浜田省吾、佐野元春、ツイストChar…私たち世代には懐かしい名前が並びます。Bed&Kitchen SORAIRO 〜ソライロ〜に行くと、当時のLPが並んでいるので、ファンにはたまらない感じです。今度お店に行かれたら、ぜひチェックしてみてくださいね。

 高校3年生になった時、澤田さんは膝を悪くして、バレーをリタイヤしました。しかし、音楽熱はますます上がり、学祭ではバンドを組んで、ギターとベースを担当していました。ちなみに、その時使っていたベースもソライロに置いてあります。
 その頃は、コックさんではなく、学校の先生になろうかなぁと漠然と思っていて、地元の国立大学に入ろうかと思っていましたが、共通一次でコケてしまいます。しかし、浪人になる気はなかったので、京都産業大学の経済学部へ進学しました。

 大学では2年で単位をほとんど取って、社会の教員免許も取得しました。サークルは音楽サークルに入り、ベースを専門にやってライブハウスでも演奏していました。
バイトもいろいろやりました。1回生の時は東山のホテルで配膳の補助をやり、2回生になると、ホテルの最上階の厨房で皿洗いと調理補助をやりました。3回生と4回生の2年間はラウンジでバーテンのアルバイトをしました。これにどっぷりはまり、カクテルもさまざま作れるようになりましたし、お酒の知識も格段に増えました。

 世の中は俗にいうバブルで超売り手市場だった時代。証券会社や銀行など名だたる企業から内定をもらいましたが、澤田さんが選んだのは、地元の某地方銀行でした。大阪採用になった澤田さんは昭和63年の4月から大阪平野支店で3年半を過ごしました。東住吉の社員寮から平野支店まで毎日自転車通勤をしていました。バンド仲間とはたまに会う程度でほとんど音楽をする時間はありませんでした。ストレス解消法は毎日居酒屋で飲むことでした。そんな澤田さん、仕事を始めて2年半で結婚します。お相手は大学2年の時に合コンで知り合った方です。出会ったときに自分のバンドのライブのチケットを渡すと、ライブに来てくれて、それから5年お付き合いして結婚したのです。

 銀行員時代は転勤また転勤の連続でした。大阪から福井へ、そして高岡、また福井、富山、輪島、富山と銀行員として激務の毎日を過ごしていました。でも、体を壊してもう限界だと思いました。それがちょうど男の42の厄年の頃でした。

 心身を回復させて、高校の臨時教師をやろうと思っていましたが、ちがう会社から声がかかりました。企業立地マッチング促進事業で物件情報のマッチングサイトの立ち上げや物件の調査をする仕事をやってほしいと言われたのです。それは富山市からの委託事業で3年間やりました。動かない物件を動かすことが地域の活性化につながることを実感した澤田さんは、これがきっかけでまちづくりに関わっていくようになりました。そして、とやま起業未来塾の7期生となり、多様な人とのつながりが出来ました。私もいつも活動しているフードバンクとやまの川口代表もその時の同期です。未来塾の先生の紹介で、ホテルの支配人を3年間やり、宿泊業のノウハウもその時得ることもできました。

 その後、氷見地域おこし協力隊になります。銀行員時代、輪島に単身赴任をしていた時に、氷見はよく通っていた場所でした。氷見は山も海も近くて本当にいいところなのに、過疎化が進んで限界集落ばかりになっています。この地をなんとかしたい。そんな気持ちもあって、氷見地域おこし協力隊員になったのです。特に氷見市速川地区の人たちや地区のために盛り上げたいという気持ちが強く、この地区の農産物を加工して6次産業化して売り出すことにしました。速川地区の特産になる干し芋を作り、酒販売の免許申請とNPOの申請をして芋焼酎を作り、県内5番目の移住定住のモデル地域になって国の事業補助を受けて、Bed&Kitchen SORAIRO 〜ソライロ〜を建てたのです。ソライロは澤田さんが協力隊の任期が終わる2月に建ちました。銀行員時代の財務や税務の知識、バイトしていた時の料理やお酒の知識、ホテルの支配人をしていた時の宿泊業の知識、全てを活かせる場所が出来上がったのです。
Bed&Kitchen SORAIRO 〜ソライロ〜はレストラン、ゲストハウス、干し芋の加工場、お菓子の加工場、いろいろな機能がありますが、移住者と地元の人とのつなぎ役をしていきたいという想いが強くあります。まず、このゲストハウスに泊まってもらって、ここで地域の人と交流してもらい、地域のしきたりを知ってもらってから移住してもらいたい。何も知らずに、ただ田舎暮らしにあこがれて移住してきてしまうと、「え、万雑(マンゾウ)って何?聞いてないし」ということになりかねないからです。(ちなみに万雑とは、聞きなれない言葉ですが、田舎の町内会費みたいなものだそうです。)
そうして、澤田さんの思いの通りに、今ソライロは地域の人の笑い声が響く場所になっています。
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ソライロの店内
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素敵なものが並ぶソライロ。みなさんもいろいろ探してみてください。
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速川地区

そんな澤田さんがこれからやっていきたいことは、物件ではなく人バージョンの地域プロジェクトマネージャーの会社を立ち上げることです。氷見地域おこし協力隊の起業支援や精神的援助などの後方支援、学生のおためし協力隊やおためし移住の促進、氷見でまだ地域づくり協議会のできていない場所の協議会設立の支援、やりたいことはたくさんあります。
また、ソライロのすぐ近くにある廃校の小学校を活用したい思いもあります。そこは独居老人と若い人が一緒に住める場所にしたいと思っています。他にもやりたいことはたくさんあって、氷見には今、湾岸サイクリングはあるのですが、実は氷見は山にも魅力がたくさんあるので、山のサイクリングコースを作りたいし、自分が大好きだった音楽で氷見を盛り上げる構想など、想いは次々に湧き上がってきます。そして、想いだけに終わらずに実行に移すのが澤田さんのすごいところ!
澤田さんは思います。今までは長い地ならしの期間でした。これまで蒔いた種はきっとこれから芽を出すにちがいない。芽が出るのをワクワクして待ちながら、次の種の準備を始めている澤田さんなのでした。
これから澤田さんが氷見でどんな花を咲かせてくださるのか、目が離せませんね。
今日の人206.舘谷美里さん [2021年02月27日(Sat)]
今日の人は、しゃみせん楽家店長の舘谷美里さんです。
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美里さんは1990年3月25日に八尾町下新町で生まれ育ちました。
8歳年上のお姉さんがいる美里さん、小さい頃は天真爛漫で、外遊びが大好きな子でした。人形遊びなどの女の子らしい遊びはせず、外で鬼ごっこや砂遊びや花いちもんめをして遊んでいました。越中おわらの八尾町らしく、よちよち歩けるようになると、もうおわら踊りについて踊っていました。DNAに刷り込まれているかのように、おわら踊りは美里さんの体の一部になっていったのでした。
 小学生になっても相変わらず外で遊ぶのが好きでした。一輪車や竹馬をしたり、男子と一緒に野球をしていました。とにかくじっとしているのが嫌いだったのです。バトミントンクラブに入ってバトミントンでも汗を流していました。
ものづくりも好きで、漫画を書いたりするのも好きでした。ただ、自分から何かを取り組むのはいいのですが、なにか課題を与えられてそれをやるのは苦痛でした。興味のあることはとことんやるけど、興味のないことには見向きもしない。それは今もあまり変わらないかもしれません。
中学生になると部活はバスケ部に入りました。週1回あったクラブ活動の時間は英語やお茶などある中、三味線を選びました。おわらでお父さんがずっと地方(じかた)で三味線をしていた影響もあったのかもしれません。三味線クラブには地域の人が教えに来てくれてとても楽しかったのです。

高校は地元の八尾高校へ。そこで美里さんは郷土芸能部に入りました。その頃、八尾高校郷土芸能部はほとんど帰宅部と化していてほぼ活動していませんでした。中学の3年間三味線をやっていて、一緒に三味線をやっていた仲良しの友達も郷土芸能部に入りました。入った1年生は3人。美里さんは郷土芸能部で毎日練習を始めました。すぐには無理でも目標は高等学校文化祭に出場することでした。美里さんの働きかけで地元の地方(じかた)の方やお父さん、そして音楽の声楽の先生にも交渉して、いろんな方の協力で練習を続けました。ただ三味線、胡弓、歌、太鼓、囃子を部員だけで全部そろえなければなりません。人が足りませんでした。美里さんが2年で部長になったとき、1年生が4人入ってくれました。そこで、茶道部に入っている友達に兼部をしてもらって、2人の助っ人に入ってもらい、9人で高校文化祭に出ることが出来たのです。帰宅部だった郷土芸能部が高文祭に出られたのはそれだけで快挙でした。ただ、控室では平高校の郷土芸能部と一緒になりました。そこで実力の差を実感します。その時、平高校で尺八を吹いていたのが、今シンガーとして活躍しているCHIKOさんです。
時を経た今、八尾高校の郷土芸能部は全国大会にも出場するほどの実力校になりました。いろいろな舞台への出演もひっぱりだこです。その礎を築いたのは、間違いなく美里さんだったのです。

こうして部活に明け暮れる高校生活を送り、美里さんは推薦で富山大学経済学部に入学しました。バイトもいろいろやりましたし、サークルは軽音楽部に入ってベースを弾いていました。
美里さんは夜間部だったので、卒論のいらない夜ゼミでよかったのですが、卒論のいる昼ゼミに入って卒論も書きました。昼の授業も取って3年の始めには卒論以外の全ての単位をとり終わっていました。それだけ頑張れたのは、将来公務員になって八尾に貢献したい、地元をもっと元気にしたい、そんな思いがあったからです。
しかし、公務員試験に落ちてしまい、2度目のチャレンジをしようとは思いませんでした。リーマンショックの次の年で、公務員志望者がいつもよりうんと多い年でした。
 
卒業ギリギリに内定をもらって、倉庫業の会社に就職しました。最初は梱包や発送の仕事で人間関係もうまくいっていました。しかし、車椅子や介護用ベッドのレンタル等福祉分野の営業やメンテナンスに配属先が変わって、そこで大きな挫折を味わいました。自分の仕事のできなさ加減におちこみ、人間関係もうまくいきませんでした。会社に行く前、朝ごはんを食べると吐き気が襲ってきました。仕事に行きたくなくて、怒られるのが怖くて、何をするにもびくびくするようになっていました。3年間は我慢しようと思いましたが、体がいうことを聴かなくなりました。こうして、美里さんは会社を辞めました。

美里さんは、2013年、23歳の時からしゃみせん楽家で津軽三味線を習い始めていました。ずっとおわらの三味線をやっていたけど、一度津軽三味線をやってみたいと思っていた時に情報誌で津軽三味線の教室を見つけたのです。それがしゃみせん楽家との出会いでした。仕事を辞めた後のレッスンの時に、先生の濱谷拓也さんに「私仕事辞めたんですよ」と言いました。その時、濱谷さんが「じゃあ、うちでバイトする?」と言いました。こうして、美里さんはしゃみせん楽家でバイトを始めたのです。バイトをしながら、職業専門校でパソコンのデザインの勉強も始めました。濱谷さんは三味線への夢を熱く語っていました。その想いに触れ、大好きな三味線を通して、やりたかった地元への貢献もできるかもしれないと思うようになっていきました。
こうして、「一緒に夢を実現しよう!」との濱谷さんの熱い想いに共感し、2015年の春から、しゃみせん楽家の正社員になりました。

今、美里さんは楽家でレッスンもしますし、三味線の教則本もたくさん作っています。今までの教則本とはちがい、イラストがたくさんあって、とてもわかりやすくなっています。そのイラストには、昔漫画を描いていた時の腕が活かされています。
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三味線が好きだから、好きな三味線に携われるのが嬉しい。そして、演奏して喜んでもらえるのも嬉しい。知り合いも増え、新しい世界にもたくさん出会えました。
一方、お客さん商売なので、怒られることももちろんあります。できないことに落ち込んでしまう癖はまだ直っていません。でも、少しずつ考え方を変えてこられたかなとも思っています。
こうして6年間、楽家で仕事をしてきた美里さん。Web担当としてしゃみせんBOXが初めて売れた時の喜びはいつまでも忘れられません。Webの月商が着実に伸びていっているのもシャミリー(三味線family)が増えているのを実感できてとても嬉しいことです。

そんな美里さんがこれからやっていきたいことは、胡弓をもっと普及させていくことです。高校の郷土芸能部の時、胡弓には触らなかった美里さん。こんな難しい楽器無理、と思っていました。けれど、2年前から胡弓もやり始め、いろいろな演奏の機会でも胡弓を取り入れていく中で、胡弓の存在を知らない人が多いことに愕然とします。中国の二胡と同じ楽器だと思っている人も多い。八尾のおわらには胡弓はなくてはならない楽器だけど、胡弓を使っている民謡は全国的にはとても少ないのです。胡弓の魅力をもっともっとたくさんの人に知ってもらいたい。そのために今、シャボの胡弓版も作成中です。これが完成すると、胡弓は格段に手に取りやすくなります。そして、胡弓のYouTubeチャンネルも配信しようと思っています。楽家のYouTubeのラインナップを超かんたん三味線、シャボチャンネル、そして胡弓チャンネルの3本柱でやっていきたい、美里さんの想いはどんどん膨らんでいます。

美里さんの故郷八尾町はおわら風の盆でとても有名になりました。でも、いつの間にかこんなことをしちゃいけない、あんなことはしちゃいけない、そんな枠にとらわれすぎて小さくまとまってしまっている感は否めません。もともと、おわらは芸者遊びから始まりました。もっと自由闊達におわらを楽しむ雰囲気を作っていきたい、そのためには八尾町の中からだけではなく、外からの力が必要だと思っています。町の外にもおわらが好きな人たちもとても多いから、そんな人と八尾町をつなぐ役割も美里さんは担っていきたいと考えています。そして、魅力がある人、人の集まる町にしなくちゃ、そう思っています。
美里さんはおわらの踊りの名手でもあります。昭和初期のおわらを踊れるのは今たった二人しかいません。美里さんはその貴重な一人なのです。パンフレットにも美里さんの美しい踊り姿が載っています。
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美里さんが中学生の時、お父さんに県外に連れて行ってもらって踊ったことが何回かあります。その時、美里さんの踊り姿を見て泣いて喜んでくださる人がいて、美里さんは八尾がもっと好きになりました。だから、公務員になって八尾町を盛り上げたいと思ったのかもしれません。でも、今はしゃみせん楽家の舘田美里として、八尾町をもっともっと盛り上げていきたい、大好きな八尾を元気にしたい、そう思っています。
そうして、三味線や胡弓をもっと身近な楽器にしたい、そのために自分がやれることはどんどんやっていく決意です。
あなたも、一度、三味線や胡弓の音色に触れてみてください。そして自分の手でつま弾いてみてください。心の奥底でなにかくすぐったい感じがしたら、あなたも今日からシャミリーの一員です。

今日の人205.サリム・マゼンMazen Slmさん [2021年02月15日(Mon)]
 今日の人は、TMC富山ムスリム協会代表のサリム・マゼンさんです。
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 マゼンさんは1974年にシリアのダマスカスで生まれました。小さい頃からエンジンが好きだったマゼンさんは、おもちゃもエンジンがないものは興味が持てませんでした。それで、ラジカセを分解してモーターを取り出し、レゴで作った車にエンジンをつけて走らせたりしていました。
 水泳も得意で、ダマスカスで水泳のチャンピオンになったこともあります。お母さんは厳格な人で、子どもの頃はとても厳しく育てられました。マゼンさんは5人兄弟の長男で、みんなのお手本でもあったので、特に厳しく育てられたのでした。外遊びもさせてもらえませんでしたが、マゼンさんは勉強もとても得意だったのです。厳しく育てられたことに対して感謝こそすれ、反発を覚えるようなことはなかったそうです。日本だったら、思春期に反抗してしまいそうですが、イスラムの教えを厳しく守っているマゼンさんは親に反抗するなんて思いもよらないことでした。
 語学も好きで、アラビア語、英語、ロシア語が堪能です。
 ロシアに留学したマゼンさんはモスクワ大学に入りました。その後ロシアで7年過ごしました。イスラム教徒として、いろいろリミットのある生活をしていたマゼンさんは、ロシアにいるときに、一度リミットなしの生活をしてみました。リミットがないはずなのに、逆に自分は一人になってしまった、という孤独感が襲ってきたのです。それは、イスラムのリミットのある生活をしている時には感じたことのない感覚でした。マゼンさんはそこで思います。やはり神はいる。そしてそれはイスラムのリミットのある生活の中でこそ感じられるものだと。

 ロシアで車のトランスポートの仕事などに携わった後、日本に来たマゼンさん。日本でも車のトランスポートの仕事をしています。そうして、1年に2回シリアに帰り、帰った時は1か月シリアで過ごすという生活をしていました。帰国している時に、出会ったのが奥様です。マゼンさんは奥様にひとめぼれします。奥様は当時まだ大学院生だったのですが、マゼンさんと日本に行くことを選びました。それで、ダマスカスでひらがなとカナカナを勉強して、マゼンさんと一緒に日本に来たのです。その後、シリアの内戦が激しくなり、今は両親も日本に呼び寄せて一緒に暮らしています。今、小学校5年生と3年生の子どももいます。外国につながる子どもたちは勉強の面でサポートが必要になる子も多いのですが、マゼンさんの子どもたちは全くそんな心配はなく、逆に日本の小学校でクラスリーダーとして活躍しています。
 そうして自らの仕事の傍ら、2013年には仲間と一緒に富山ムスリムセンター(TMC)の組合を作り、2014年には富山市五福にTMCの建物をオープンさせました。マゼンさんはTMCの代表を務めています。そして、マゼンさんはTMCの活動は全てボランティアでやっています。活動の原点は、人としての義務を守らなければならないという想いです。マゼンさんのいう人としての義務とは、困っている人がいたら助けなければならない、ということです。そしてムスリムとして宗教を守ること。これらの活動をやっていかなくてはならない。それが自分の使命だと思っています。
 マゼンさんは自分が死ぬまで、一人でもたくさんの人を助けたい、そして平和へ到達する道をほんの少しでも短くしたいと思っています。そして、その想いを子どもたちが継いでいってくれることが夢です。
 自分がボランティアをしたことによって、困っていた人たちが心からの「ありがとう」を言ってくれた時、どんなに疲れていてもその疲れは吹っ飛ぶと言います。マゼンさんは内戦の続くシリアの難民キャンプに富山学校を設立し、現地の子どもたちが教育を受けられるようにせいいっぱい支援しています。今、シリアの別の場所でも富山学校を建てる予定でいます。また現地に車椅子を送るなどの活動も続けています。シリアにとどまらず、バングラデシュに避難したミャンマーの少数派イスラム教徒ロヒンギャの難民キャンプに寺子屋式の学校も開校しました。
 ボランティア活動は日本国内でも同様に行っており、日本各地の災害の時には、支援物資を積んですぐに駆け付け、現地でハラールに対応したカレーを作ってふるまいます。熊本でも、広島でも、岐阜でも、TMCができた2013年以降に起きた全国の災害はひとつの漏れもなく駆けつけています。そんな時に、皆さんからの「ありがとう」を聞くと、またやりたいという気持ちがむくむくと湧きあがってくるのです。それが自分の魂のリフレッシュになり、魂のビタミンになります。ですから、TMCとしてのボランティア活動は、自分が病気になって動けなくなるまではずっと続けていきたいと考えています。
 本当にエネルギッシュなマゼンさんですが、そんな風に駆け回っているマゼンさんがホッとできる時間は、やはり子どもたちと遊ぶ時間です。

 マゼンさんの住んでいる高岡市牧野地区は、富山県内でいちばん外国人住民比率が高い地区です。そこでマゼンさんたちが中心になって、多文化共生の地域づくりを実践しています。地域に住む外国人と日本人が一緒に牧野校下多文化共生協議会も発足させ、さまざまな活動に取り組んでいます。マゼンさんの大きな願いは世界平和を作るということですが、まずその第一歩は自分たちの暮らす場所を平和にしていくということです。その一歩一歩のステップを大切にしていきたい、そう思っています。

 このコロナは、もちろん社会的に大きなマイナスをもたらしましたが、いいこともありました。まず、戦争が止まったこと。そして、人々は、人間の力のリミットを否応なく自覚できた。世界でみんなちがっても、みんな人間だということを意識させてくれた。そして、なかなか人に会えないことで、逆にコミュニケーションの大切さを、より深く感じさせてくれた。マゼンさんはそう思っています。

 マゼンさんは、外国につながる子どもたちの居場所作りにも今後取り組んでいきたいと考えています。できることなら、インターナショナルスクールを作りたい。日本はとてもすばらしい国だけど、日本の人々はもう少し、インターナショナルな考え方になってほしいと思っています。外国の考え方をもっと理解できれば、コミュニケーションはより取りやすくなります。マゼンさんの作るインターナショナルスクールで、外国につながる子どもたちも、日本の子どもたちも一緒に学べるようになれば、富山の多文化共生はさらに進むことでしょう。
 マゼンさんは自然の中で遊ぶのが大好きです。だから自然に囲まれた富山が大好きです。
これからも富山で一緒に多文化共生に取り組んでいける心強い仲間がいることがとても心強く感じたインタビューでした。
 
今日の人204.長尾実香さん [2021年01月01日(Fri)]
 今日の人は、株式会社ラ・ファミーユ代表取締役の長尾実香さんです。ラ・ファミーユは、在宅医療を必要とする小児から高齢者まで全ての方を対象に、難病や精神疾患にも対応した特に小児の専門性が高い訪問看護ステーションわか木と、重症心身障害と認定されているお子さんを対象とした多機能型重症児デイサービスおはなを運営しています。La・Famille(ラ・ファミーユ)という社名には1つの家族という思いが込められています。家族の一員のように、ケアを必要とする方々の日々の暮らしを支え、笑顔を支え、その人たちが地域の中で輝き続けられるように…そんな実香さんの想いが込められているのです。
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 実香さんは昭和51年に大門町で生まれました。子どもの時は、出血すると止まらなくなる血液の難病で、特によく鼻血を出すことがよくあり、また天然パーマで髪の毛がクルンとしていたのもあっていじめの対象になることがしばしばありました。そういうこともあってとても引っ込み思案な女の子でした。泣いて家に帰ってくると、おばあちゃんが話を聴いてなぐさめてくれました。お父さんは自営で、お母さんは仕事で忙しかったので、実香さんにとって、話を聴いて認めてくれるおばあちゃんはとても大切な存在だったのです。
 それでも小学4年生くらいになると、だんだん体力がついてきて、水泳や卓球の選手に選ばれるようになってきました。
 そんな実香さんがなりたかった職業は小さい時から看護師でした。というのも実香さんは4歳の時に入院したことがあって、その時の看護師さんとの出会いが忘れられなかったからです。4歳になると、もうお母さんが病院の付き添いをしてはいけなかったので、夜中に起きるとお母さんがおらず、実香さんは大泣きしていました。そんな時、その看護師さんは実香さんをずっとおんぶして歩いてくれたのです。看護師さんはおんぶしながら、保育器に入っている赤ちゃんにミルクをあげていました。看護師さんの背中で見たその光景が実香さんの頭の中にはずうっとあったのです。そういうわけで、看護師、特に小児科の看護師になりたいと思っていたのでした。ただ、絵を描くのが大好きで、実香さんが描いた作品はしょっちゅう入選していたので、一時デザイナーになりたいなと思ったこともありました。
 
 大門中学校に入ると体操部に入りました。ひとつ先輩の林原りかさんが体操部でバク転をしているのを見て、かっこいいなぁと思ったのです。そして、がんばって林原りかさんの次の代のキャプテンになりました。部活は楽しかったけど、苦行でもありました。それでもずっと部活のことばかりを考えていた中学時代でした。
 中学生になっても、なりたい職業は看護師だったので、最速で看護師になるために衛生看護科のある高校に入ろうと思いました。お母さんもおばあさんも「あんたは体が弱かったから看護師みたいな激務は務まらんちゃ」「やめとかれ」と言いましたが、実香さんの意思が固いのがわかってからは「どうせ看護師になるなら、上に立てる看護師になりなさい。そのためにまずは普通科に行った方がいい」とアドバイスをくれ、実香さんは大門高校の普通科に入りました。

 高校に入ると、志貴野中学の体操部のキャプテン、小杉高校の体操部のキャプテンもそろっていました。その時、大門高校には男子体操部しかなかったのですが、中学の女子体操部のキャプテンが3人も揃ったので、これはもう女子体操部を作るしかないでしょ、と女子体操部を作りました。ただ、実香さんは部活もしましたが、勉強をよりがんばる方にシフトしていました。高校時代の3年間ほど勉強をがんばった期間はないと言ってもいいくらい必死で勉強しました。そんな実香さんを見て、高校1年の時の先生がすごく応援してくれました。わざわざみんなを集めて視聴覚室で医療系のドキュメンタリーを見せてくれたりしたのです。
 本当は推薦で行きたかった大学もありましたが、大門高校は当時まだ新しい学校で、推薦で行くのがなかなか難しく、進学したのは金沢大学医療技術短期大学の看護学科でした。結果的にこの短大に進学したのは大正解でした。なぜなら、同級生も先生方もみんなとても熱心で、人生観が変わるくらいの影響を受けたからです。実習の時には、レポートを夜中の2時3時まで書いていることもありましたが、そんな遅い時間でも先生も残って指導してくださるくらいの熱血ぶりでした。
 実香さんは特に小児の実習への思いは強く、自分と同じ難病の子の受け持ちになると、3歳の子でも病気が理解できるようにと絵本を描いてプレゼントしました。
 そんな風にとても充実した時間を過ごし、金沢大学附属病院の内定ももらったのですが小児科で働けるという確証はありませんでした。でも、どうしても小児科で働きたいという思いの強かった実香さんは、その内定を蹴って東京にある国立小児病院へ就職しました。
小児病院で4年、国立成育医療研究センターで5年、ひたすら小児医療の現場に身を置き続け、新生児期から成人期を迎えるまでの患者さんを一通り担当しました。特に成育医療研究センターに移ったあとは、大変なことがたくさんありました。成育に入院している子たちの中には、生まれてから一度も退院した事がなく、ずっと何年も入院している子がいて、家に帰る場所を確保しておかないと、親御さんが面会に来なくなることもありました。2歳のTくんという子は実香さんに懐いて、実香さんを母親のように思っていました。そのTくんが亡くなってしまった時のショックは今も心から離れません。
だんだん進行していく神経の病気を抱えたお子さんのいる親御さんのレスパイトをどのように受け入れていくべきなのか、病院ではなく、家にいてサポートしてあげるべきではないか、そういうことをよく考えていました。
 その頃、移植の子を送り出す場面もありました。その時は、自分がもし親の立場だったらつらいだろうなと思っていましたが、まさかそれが自分に課されるとはその時は夢にも思いませんでした。

 東京で9年を過ごした後、実香さんは広島の呉へ行きました。お医者さまをしているご主人と知り合い、その実家のある呉へと行ったのです。長女も生まれ、その長女の通う幼稚園のママ友とは仲良くしていたのですが、夫の実家にはどうしてもなじめませんでした。そこで、病院の院長をしていた義父に頼んで、病院で働くことにしました。お義父さんはとてもいい人で、病院の裏方の仕事についていろいろ教えてくれました。この時の経験は今も役に立っていると感じています。
 長女を生んだ後、3年後に長男がその3年後に次女が生まれました。子ども2人の時も育児は完全に実香さんのワンオペ状態でした。3人になって、ワンオペはとても無理だ、そう感じた実香さんは、次女が生まれる前に富山に戻って子育てをする準備を始めていました。ワンオペがきつかった以上に、広島では自分の子育てはおろか、存在意義さえ全否定される日々が続きました。もうこれ以上は耐えられない。限界が来ていた実香さんは、長女を富山の小学校に、長男を富山の幼稚園に入れる準備をしていたのです。

 そうして富山の病院で次女の澄花ちゃんを産んだ時、実香さんは孤独でどん底の気分でした。それに追い打ちをかけるように、出産13日後、澄花ちゃんは重症の心不全に陥ってしまったのです。すぐに富山大学附属病院のNICUへ入りました。澄花ちゃんは心不全の2回目の重症化の時に心臓が動かなくなりましたが、1週間後に動き始めました。しばらく薬でコントロールしていましたが、子どもの補助人工心臓の治験が日本で3台だけ行われて、その3台目を澄花ちゃんに、という話が持ち上がりました。
 4か月富山大学附属病院の小児病棟で過ごした後、大阪大学医学部附属病院に救急車で転院しました。しかし、状態が悪くなり、ICUに入ります。血圧が40にまで下がり、心不全で高熱を出したまま澄花ちゃんはオペ室へ。そしてすぐに補助人工心臓の手術が行われたのです。幸い術後の経過は順調でした。安静度も制限がなくなりました。それまで飲むものも制限されていましたが、飲みたいものを好きなだけ飲めるのは本当にありがたいことでした。
 病棟で7か月を過ごし、一緒に入院していた子の親御さんとは連帯感が生まれました。
もちろんそれで終わりではありません。治験が終わったらいよいよ渡航移植に向けての準備が始まりました。ご存じのように渡航しての心臓移植には莫大な費用がかかります。ですから、募金でその費用を集めるしかありません。
大阪大学の先生がいろいろ打診してくれた中で、アメリカのピッツバーグ小児病院で受け入れてくれるという返事がきました。ピッツバーグ小児病院で日本人を受け入れてくれるのは澄花ちゃんが初めてでした。
 しかし、澄花ちゃんは脳梗塞を起こしてしまいます。そうなると、募金活動もあきらめなければならないかと思われましたが、そんな時いつも澄花ちゃんは持ち直してくれるのでした。
こうして「澄花ちゃんを守る会」が結成され、2014年3月から募金活動が開始されました。富山でも有志が募金を続け、広島ではママ友が頑張ってくれました。そしてわずか3週間で目標額を達成することができたのです。
 澄花ちゃんの心臓移植の渡航準備は整いました。その時、ピッツバーグから移植チームがくまのぬいぐるみを持って日本に澄花ちゃんを迎えに来てくれたのです!その中には日本人の医師もいました。
 こうして澄花ちゃんは補助人工心臓2台を積んだチャーター機でアメリカピッツバーグへと旅立ちました。
 ピッツバーグに渡ってから、待期期間が2か月ありました。でも、アメリカは待期期間もただ待っているだけではなく、いろいろなイベントがありました。そうして、プロムパーティで澄花ちゃんが猫のフェイスペイントをした翌日に、ドナーが見つかったのです。
 手術は無事に終わりました。けれど、心臓がうまく動いてくれず、もう一度胸を開いてエクモを取り付け、血漿を交換しました。もし72時間を超えても動かなかったらあきらめなければなりませんでした。でも、澄花ちゃんはがんばりました。心臓は動き始め、エクモを離脱することができたのです。
 つらいことがある時は、阪大の心臓外科の先生にメールしたり、富山の友人で今も同僚の中谷さんに電話したりしていました。ピッツバーグの日本人コミュニティにも助けられました。そうして術後1か月経って、退院できたのです。

 もちろん退院したからと言って、すぐに日本に帰れるわけではありませんでした。実香さんは澄花ちゃんと一緒にマクドナルドハウスに滞在し、2か月目に上のお子さん2人と妹さんもピッツバーグに呼んだのです。ずっとお母さんと離れ離れの生活に、上の子たちのストレスが極限に来ていたので、呼び寄せてアメリカで学校に通わせることにしたのでした。兄弟の真ん中の3歳の長男は日本では幼稚園に通えない状態でしたが、実香さんのそばで元気を取り戻し、アメリカの幼稚園に通うようになれたのです。長女はアメリカで小学校に通いました。

 こうして1年アメリカで滞在した後、実香さんと3人の子どもたちは日本へ戻ってきました。帰国後は阪大病院で2〜3週間入院し、その後、富山に帰ってきたのです。
 その2か月後、実香さんを大事にしてくれた義父が亡くなりました。そうして、もう広島へ足が向くことはありませんでした。
 澄花ちゃんは、感染症で下痢をずっとしていた時もありましたが、入院をきっかけに復活し、その後は検査入院以外はしていません。
 就園に関しても就学に関しても、苦労らしい苦労はありませんでした。
保育園も小学校も、澄花ちゃんに寄り添った就園就学支援をしてくれて、澄花ちゃんはすんなり学校生活に入っていけたのでした。そんな澄花ちゃんも、今年小学校2年生になりました。
 
 澄花ちゃんが元気になって、実香さんは中谷さんが立ち上げた訪問看護の仕事を週に2〜3回入るようになっていましたが、もっともっと仕事がしたい、小児の訪問看護をしたいと思うようになりました。そして、澄花ちゃんのような子を預けられる場所も作りたい、そう思いました。
こうして作ったのが、訪問看護ステーションわか木と多機能型重症児デイサービスおはなを運営する株式会社ラ・ファミーユでした。
 今、ラ・ファミーユには富大病院で澄花ちゃんの担当だった看護師さんもスタッフとして加わってくれています。嘱託医は、当時澄花ちゃんの心不全を見つけ、緊急搬送に付き添って下さった先生がなってくれました。志の高いスタッフに囲まれて、実香さんの思いもどんどん高まっています。
 ラ・ファミーユを18歳を過ぎた介護が必要な子も預けられる場所にしたい、訪問看護で関わる高齢の方々の介護や穏やかな最期を過ごせる場所にしたいと、看護小規模多機能の設立も目指しています。ここにくれば子どもたちもそして親もホッとできる、一時期だけではなくてずっとそうなる場所にしたい、いやそんな場所にしていこう、そう決意しています。
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壁の絵もとってもかわいくて本当に居心地がいい場所です♪

 そして今、実香さんの活躍の場所は富山にとどまりません。ひょんなことからネパールとインドの心臓専門のこども病院のお世話をしている人と知り合いになり、日本で暮らす海外の子どもたちやお母さんの医療サポートをして欲しいと頼まれ、Sri Sathya SaiSanjeevani Hospitals trust Japan の理事になりました。そしてまた今度は、子どもたちの医療移送を担い、海外の子供達も安心して在宅医療を受けられるようにと小児専門の訪問看護ステーションを立ち上げて欲しいと頼まれ、一般社団法人『Ohana International』を設立する事になり、そこの代表理事に就任する予定になっています。
ですから、この後、実香さんはますますワールドワイドに羽ばたいていかれることでしょう。

 毎日仕事に追われている実香さんはなかなか時間も作れませんが、土日は子供たちと一緒に過ごす時間を大切にしています。平日は実香さんのご両親に子どもたちの食事も任せているのですが、土日は実香さんが作り、「ママのご飯を食べられるのが嬉しい」と子どもたちが言ってくれるのが嬉しいとお母さんの顔を見せる実香さんなのでした。

ラ・ファミーユのリーフレットには英語でこう書かれています。
Who is a precious one for you?
Who is the light of your life?
大切な人を守り、その人もそしてその人を支える家族も輝き続けられるように、実香さんたちは今日も家族の一員としてとびっきりの笑顔で全力でサポートしていかれるのでしょう。


今日の人203.渋谷秀樹さん [2020年12月17日(Thu)]
 今日の人は、NPO法人バンブーセーブジアース代表や焚き火フェスin大長谷実行委員長、ヨットチーム竜神のメンバー、そして企業と求職者の未来をつなぐ有限会社hs style代表として多方面でご活躍中の渋谷秀樹さんです。
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幼竹伐採にて

 
 渋谷さんは1970年4月に富山市奥田で生まれました。小さい時はお父さんに連れられて海釣りに行ったり、近所のガキ大将について外で遊びまわる元気な子どもでした。
 おじいちゃんは渋谷鉄工所という鉄工所を営み、お父さんは転職が多かったものの大工をしていたので、祖父や父が高いところでかっこよく働く姿にあこがれて大工になりたいと思っていました。
 
 しかし、小学校4年生の時に、お父さんが事故死してしまいます。大きな大きなショックでした。でも、さらにショックだったのはお母さんが1週間あまりずっと仏壇の前で泣いている姿を見ることでした。でも、その後のお母さんは強かった。渋谷さんと2つ下の妹さんをちゃんと育てていかなければと固く誓われたのでしょう。ノエビア化粧品の販売をがんばってどんどん業績を上げ、ご自分で販売会社まで作られたのでした。
 そういうわけで、小4からはほとんどじいちゃんばあちゃんに育てられたような感じでした。ばあちゃんが作るおかずは茶色いおかずが多く、弁当箱を広げてもちっともおしゃれじゃないので、当時はそれがすごくイヤでした。今となればそんなばあちゃんの料理が何よりのごちそうだと思えるけれど、子ども時代はそうは思えなかったのです。
 普段忙しいお母さんも、運動会の時は弁当を作ってくれました。しかし、なぜかお母さんの作る弁当には必ずと言っていいほど、駄菓子屋で売っているイカフライがドーンと入っているのでした。今でもイカフライを見ると、それを懐かしく思い出します。
 
 渋谷さんはラジオが大好きでした。オールナイトニッポンも小学生の時から聴いていたし、洋楽ベスト20という番組が大好きでいつも洋楽を聴いていました。草むしりやふろそうじのお手伝いをするときも、いつもハードなロックを聴いているのでした。

 中学校は奥田中学に。その頃の奥田中学は荒れてることで有名でしたが、上学年に仲良しの子がいたので、あまりそういうゴタゴタには巻き込まれずに済みました。
 部活はサッカー部に入りました。町内の1つ上のガキ大将がサッカー部に「お前入れ」と言われ、答えは「はい」か「イエス」しかありませんでした。好きで入ったサッカー部でもなかったので、そんなに性根は入りませんでした。ゲーセンにはしょっちゅう行っていました。そして中学生のころもまだ大工になりたいと思っていました。
 中3の時には卒業旅行として自分たちで東京へ行きました。当時通っていた歯医者においてあった週刊誌に黒服日記という連載があって、その中にはこんな芸能人が来たなどの記事があり、そこへ行けば自分も芸能人に会えるような気がして、東京へ旅行したのです。当時流行っていた六本木サーカスというディスコビルへ行ったけれど、まだ誰もいない時間でもちろん芸能人には会えませんでした。友達は先にホテルへ戻ってしまい、六本木をプラプラ散歩して部屋に戻ると友達が寝込んでいて、ホテルの部屋に入れないというおまけつきでした。

 高校に行ってからは富山のディスコにしょっちゅう出入りするようになりました。部活は一応サッカー部に入りましたが、遊ぶのが楽しくて名ばかりサッカー部でした。そしてその頃、バンドに目覚め他校の人と一緒にバンドを組んでコンテストに応募したりライブで歌ったりしていました。そうして友達の家で週末は過ごすという高校時代を送っていました。

 高校を卒業した後は、神戸の大学へ。音楽好きの友達と音楽パブに入り浸っていました。いろんなバイトもしました。海辺のレストランで働いたり、バーテンダー、クラブの黒服、いろいろやりました。黒服をしていたクラブは老舗の品のいいクラブでしたが、ヤクザとマルボウの警察官が同じフロアで飲んでいたり、有名な会社の社長が来ていたりして、すごくいい社会勉強になりました。

 渋谷さんは自分で新しいことを企画したり何か作り出すのが好き(作るのが好きという点では大工との共通点がありますね)だったので、広告会社に就職したいと思うようになっていました。就職活動で富山に帰ってきていたとき、息子に自分の会社を継がせたいお母さんは、ある社員と息子を飲みに行かせました。そこで4軒はしごさせられて、その時に「ノエビアに若い世代が来れば、富山を変えられますよ」と熱く語られ、すっかりその気になった渋谷さんはノエビア本社に入社することに決めたのです。

 こうして社会人1年目。赴任地は名古屋でした。半年の研修では47000円の化粧品のセットを10セット飛び込みで売り切るという課題も課せられました。150人いた同期の中でも、10セット売り切ったのはトップクラスでした。
1〜2年経って慣れたころには仕事帰りに毎日タワーレコードに寄って3時間レコードを聴き、ハッピーアワーのビールを飲んで家に帰るというのが日課でした。
 そんなある日、ダイビングショップにふっと立ち寄った時に、ダイビングの魅力に惹かれ、50万円のダイビングセットを買ってしまいました。そうして、ノエビアの仲間と、伊豆、福井、京都、グアム、いろいろな場所へ潜りに行きました。
 冬はドライスーツを着て冬の海に潜るほどではないなぁと思っていた時に、今度はスノボのショップに顔を出して、20万でスノボのセットを買ってしまいます。
 専門ショップに顔を出すと、年齢、性別、社会的な地位を超えたつながりができる感覚が渋谷さんは好きでした。その感覚が、NPO活動でつながりを作っていくときの原点になっているのかもしれません。

 こうして名古屋で充実した日々を過ごし、27歳の時に富山に戻ってきました。
けれど、ずっと富山にしかいない人の考え方や行動範囲がすごく小さく見えて、埋められない距離感を感じました。一人で金沢チームの人と飲みに行くなどして、自分のスケール感は小さくならないように意識していました。今でもそれは意識していて、自分の経験不足を感じさせてくれる10歳年上の人、新しい感覚を教えてくれる10歳年下の人と意識的に付き合うようにしています。

 その頃は素潜りしてアワビやサザエを獲ったり、何か面白いことをしたいといろんな企画を立てました。市内で自販機を探してシールを貼るチキチキバンバンレース(詳しい内容は渋谷さんに直に聞いてみてくださいw)をしてその後に飲み会をしたり、とにかく何かを企むことが大好きだったのです。
 ある時、飲み会で知り合った女性が「私、あんたのことを知っとるよ」と言いました。なんと、渋谷さんが高校の時に付き合っていた子の友達だったのです。二人は意気投合し、二人とも五福で一人暮らしだったことから、よく会うようになりました。その時32歳。
 するとお母さんから食事会をしよう、向こうのご両親も一緒にと誘われ、食事会の流れになりました。そして、「一日も早く結婚せんとダメやちゃ」と言われ、その後大学時代を過ごした神戸に行ってプロポーズ。こうして33歳で結婚し、35歳と39歳の時には、男の子ができました。

 結婚した翌年、山を持っている奥さんの実家からタケノコ堀りに連れていってやると言われました。その竹林は整備していなかったけれど、タケノコ堀りはとても楽しかった。ネットで調べると、放置された竹林が多くなって問題になっていることを知りました。かつては竹は生活と結びついていたけれど、プラスチックにとって代わられた。でも、竹を使って代替燃料にしたり、繊維にしたりと研究をしているところもあります。そして竹は無尽蔵にあるといっていい。これはビジネスになるのでは、と最初は思いました。竹のボランティアチームを作ろうと思い立ち、とやま森の楽校に所属してボランティアのノウハウを身につけていきました。きんたろうクラブにも入って、NPOについていろいろ勉強しました。
そして属していた商工会議所青年部で、協力してくれそうな仲間に声をかけました。それが、今もバンブーセーブジアースで一緒の活動している酒井隆幸さんや田畑さんでした。
 奥田商店街の一角で火曜に打ち合わせが始まりました。今もバンブーの打ち合わせは火曜日なのですが、この時からずっと火曜の打ち合わせが続いているのですね。

 こうしてバンブーセーブジアースは2007年にスタートしました。
 最初に仕掛けたのは、竹で花器を作って、そこに花を飾って奥田商店街の店先に飾るというものでした。商店街の竹の花器作戦は新聞にでかでかと載って、渋谷さんはアドレナリンが出まくりました。メディアをジャックするのが楽しくなって、ローカルメディアすべてにバンブーの活動が取材されました。新聞に継続的に載っていると、手伝いたいという人が現れ始め、15人超のメンバーになりました。そうしてバンブーセーブジアースをNPO法人化したのです。2010年のことでした。
 イベント関連はどれも大成功でした。しかし一方でこれをビジネスにするのは無理だとわかりました。それからは、週末活動としてのサードプレイスと割り切るようになりました。そうするとNPOの活動ももっと楽しめるようになりました。次はどんな楽しいことをやろうか、どんどん提案してそれを実現させていきました。竹のブランコを作ったり、竹でジャングルジムを作ったり、その中で次第にバンブーの認知度もアップしていきました。NPOが次々になくなっていく中で、バンブーセーブジアースは今も確実に活動を続けている団体だという自負があります。

 仕事の上では48歳の時に大きな転機が訪れます。27歳から21年間、母が代表の会社でずっと働いてきました。しかし、48歳の時に独立し、自分で会社を立ち上げたのです。最初はお母さんを説得するのが大変でした。でも、今ではお母さんも「大きい経費がかからなくなったわ」と冗談交じりに言ってくれるまでになりました。
 仕事が忙しくなり、バンブーの活動は控えざるを得なくなると、代わりに副代表の酒井さんががんばってくれるようになりました。今では、バンブーセーブジアースのほとんどの活動は酒井さんに任せるようになっています。
 バンブーの活動拠点もいくつか変わりましたが、今は八ケ山で落ち着いています。多分、ここがバンブーの終の棲家になるのではないかと思っています。酒井さんたちバンブーのメンバーもここで流しソーメンや地域の縁日を開催するなど、地域の交流の拠点になるようにがんばってくれています。

 大長谷にも2011年くらいから通うようになりました。最初は市の広報にそば畑のオーナー募集という記事を奥さんが見つけて、「あなたこれ好きそうだよね」と言ってくれたのです。もちろん飛びつきました。そうして大長谷のそば祭りや山菜祭りの手伝いをするようになって何度も行き来するうちに、大長谷の人たちとも仲良くなって大長谷そばクラブを結成しました。大長谷で作った小麦粉とそば粉を合わせた二八そばの絶品さと言ったら。(ちなみにその小麦とそばを育てたのは先日ブログにご登場いただいた杉林さんです)
 大長谷の郵便局の跡地を友達3人で買ってダッシュ村にしようという計画も立てました。
でも、大長谷に住む若い人たちは決していい給料とは言えません。何か若い人が収益を上げられることができないか、と考えたときに思いついたのが焚き火フェスでした。焚き火をしながらみんなで飲みながら語らう。今年はコロナのこともあって、あまり大きくはできませんしたが、これからもやりたいことを楽しみながらみんなでやって、大長谷のような、限界集落だけどかけがえのない魅力のある地域の宝物のような場所を大切にしていきたいと思っています。

 ヨットも趣味の一つです。富山で開催されたタモリカップには4回とも出場しています。最初に乗っていたヨットはエンジンが動かなくなって手放したのですが、その後、竜神というヨットのメンバーになりました。船のオーナーはヨットを70歳で始めたのですが、82歳になる今も海竜マリーナからロシア、チンタオへとヨットで回り、世界中の船とレースしている憧れの存在です。年を重ねると、憧れの存在がだんだん少なくなってくるけれど、そんなにすごい人が身近にいて、一緒に活動できることが本当に楽しいのです。仕事をがんばるモチベーションの一つがヨットでもあります。平日の3〜4日、ヨットに乗れるように仕事もがんばろう、そう思うのです。

 渋谷さんのポリシーのひとつに「楽しいからやろう」があります。NPO活動もそう。会社の中だけにいては到底出会うことのない人たちとも出会え、そんないろいろな人たちからたくさんの刺激をもらえるのがNPO活動のいいところ。そこを義務感だけでやっていては長続きしない。やはりやっている人たちが楽しめないとだめだ、そう思っています。

 そんな渋谷さんがご自分の会社を立ち上げたのは2018年の4月でした。その会社ではNPO精神も大いに発揮されています。渋谷さんが代表を務める有限会社hs styleは富山の会社の魅力を伝える動画を作っています。ローカル会社がハローワークに求人を出しても、人が集まりません。それは会社の魅力がちゃんと伝わらないからです。動画なら、その会社の魅力をちゃんと伝えることができる。動画の力を使って、求人の力になりたい!そう思って始めた会社です。ノエビア時代の飛び込み訪問のノウハウも生かして、飛び込みで注文をもらっていきました。富山の家族経営企業には、大手に負けない魅力があるところがたくさんあって技術もたくさん持っているのに、広告を出せないばかりに人が集まらない企業がたくさんあります。そんな企業の動画を作って、その魅力を伝えたい。そんな動画がこちらで見られます。一度ぜひご覧になってください。
https://www.youtube.com/channel/UC97w1Pn5_v9W5XKxtftfv6Q?view_as=subscriber
もちろん、渋谷さん自身の会社もどこよりも魅力のある会社にしたいと思っています。会社の理念は「富山でいちばん家族を入れたい会社づくり」そして、子どもに「俺、親父の会社に入りたい」と言ってもらえる会社にしたいのです。働き方も出社、帰社時間の縛りはなし、そして社員がみんなで顔を合わせるのは金曜の夕方だけ。ワーケーション制度を取り入れていて、沖縄に行きたかったら沖縄で働けばいいし、場所と時間を縛っていないのです。働き方の満足度をうんと高めて、どんどんとんがった人に働きに来てもらいたいと思っています。新卒じゃないと終わりみたいな風潮はもうクソくらえです。失敗した人にこそどんどん来てほしい。面接マニュアルに書いてあるようなきれいな答えは求めていない。自分の足で歩かないと自分の言葉がみつかるわけがない。自分の言葉でどんどん語って、ぶつかって、いい会社にしていきたい。渋谷さんのそんな熱い想いがガツンと伝わってきます。
そうして、これからも自分がNPOで培ってきたことを会社で活かしていきたい、そして今度はバンブーに営利的なものをフィードバックして、バンブーセーブジアースをもっと人が集まる場にしていけたらいいなと思っています。
 マルチステークホルダーの仕組み作りがうまくいけば、きっと企業もNPOもハッピーになりますね。私たちもその一端を担っていけたらいいなと感じた今回のインタビューでした。そしていつか、渋谷さんのヨットに乗せてもらえる日を楽しみにしています。
今日の人202.森 和宏さん [2020年12月10日(Thu)]
 今日の人は、PainAllier パンアリエの店主でパン職人、そして野菜ソムリエでもある森和宏さんです。パンアリエでは国産小麦粉、農家さんから直接仕入れたこだわりの旬野菜を中心としたパンを提供します。店名はフランス語でpain=パン・ allier=結ぶ、調和を意味し、パンを通じて様々な人と物を結んでいきたいという想いがあります。
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 森さんは1982年1月に射水市金山地区で生まれました。金山地区は自然が豊かなところで、森さんも家のすぐ裏にある山が遊び場所でした。子どもたち同士で木の上に秘密基地を作ったり、あたりまえに自然の中で遊んでいました。
 金山地区は保育園から小学校6年生まで全学年1クラスずつの小さな学校です。でも、森さんの学年はスポーツができる次男坊が多く、長男であがりやの森さんは自分はスポーツもできないし、勉強もできない、何の取り柄もない、と劣等感の塊だったのです。
少年野球チームにいてもレギュラーにはなれず、なんでみんなスポーツできるんかなぁ、自分なんかがんばってもなぁという心境でいました。
 でも、細々としたものをつくるのは好きでした。家にあるものをなんでもバラシて、それをまた組み立てるのです。自分では何の取り柄もないと思っていたけれど、本当は手先が器用でものづくりが得意な子だったのです。
他には「こち亀」のマンガが好きで、マンガ本を小学校の頃からコツコツとずうっと集めていました。小学校の時から集めた全200巻は今も大事に持っています。
 でも、将来これをやりたい!というものはなく、親が配管業をしていたので、なんとなくそれを継ぐのかなぁという気持ちで過ごしていました。

 中学校ではサッカー部に入りました。ちょうど小6の時にJリーグがスタートして、世の中サッカーブームだったので、サッカー部に入ったのですが、ここでも全然燃えてはいませんでした。ただ、部活の練習時間はとても長く、家に帰ると疲れて宿題もせずに寝てしまっていたので、家で宿題はしたためしがありません。
 このころからはまりだしたのが、車でした。特にスポーツカーに興味があって、よく車雑誌を買って食い入るように見ていました。そういうわけで、この頃は車関係の仕事ができたらいいなぁと漠然と思うようになりました。
 
 高校を選ぶときに、何科に行くか迷いましたが、車関係のことがしたいと思っていたので、車のエンジンの勉強ができると思って、高岡工芸の機械科へ行きました。しかし、実際はエンジンのことが書いてあるのはテキストの1ページに過ぎなくて、拍子抜けしてしまいます。
 部活は陸上部に入り、種目は棒高跳びでした。けれど、同じクラスに棒高跳びの県チャンピオンがいました。するとまた「俺なんかががんばっても」という気持ちがむくむくと湧いてくるのです。棒高跳びという枠で同じ学校から出られる人数は決まっていました。そんなチャンピオンがいるのに、自分が出られるわけがない、最初からそうあきらめてしまっていたのです。
 
 結局、中学も高校も不完全燃焼のままなんとなく過ぎていきました。そうして、車関係の仕事に就きたいと思っていた気持ちもいつのまにか、整備士になるより普通に会社員として働いて好きな車を買ったほうがいいんじゃないか、と思うようになっていました。
 3交代で働けばいい給料がもらえると聞き、高校卒業後は3交代の工場で4年働きました。ミニバンのカスタムカーを買いましたが、事故って車がぺしゃんこに。新しい車を買うためにまたガムシャラに働きましたが、上司との関係が悪化して仕事を辞めてしまいました。
 
 その頃、実家は配管業だけでなく、代行の仕事もしていました。それで、森さんは、夜に代行の仕事をすることにしたのです。昼はブラブラ、夜は代行という生活が何か月か続いたとき、「台風の被害で瓦が飛んでしまって、今、瓦屋が忙しい」と親に聞き、昼は瓦屋で働き、夜は代行の仕事をするようになりました。

 ある時、友達の紹介で奥さんになる人と出会います。しばらくしてから付き合うようになりました。奥さんの実家はパン屋でした。森さんは婿になってパン屋になってほしいと言われました。家族と仲良く暮らせるなら仕事は何でもいいと考えていたので、婿に入ってパン屋になることに抵抗はありませんでした。25歳の時でした。

 2008年から奥さんの実家のパン屋で働き始めました。最初はパンの製造補助や販売や配達が主な仕事でした。けれどパン屋で仕事をするうちに徐々に、自分自身の手で自分らしいパンを作りたいと思うようになりました。これまでずっと受け身の人生を送ってきた森さんが初めて自分から積極的にやりたいと思うことに出会ったのです。
 そんな時、大阪でおいしい野菜のパンを作っているパン屋が新店舗をオープンするのに人を探していました。「今いくしかない」森さんはそう思いました。
 こうして子ども2人と奥さんを富山に残して、一人単身で大阪へ修行に旅立ったのです。

 大阪で朝早くから夜遅くまでパンと向き合う日々、休みもあまりない中、月1回くらいしか富山には帰れませんでした。もちろんいつかは富山に帰って、自分のパンを焼きたい、そう思っていました。
「大阪の有名なお店で修業を積んだのだから、帰って来るのならすぐにでも自分でお店をやってみたらどう??」そうアドバイスをくれる人がいたのですが、まだ足りないと思っていたので、富山に帰ってきて、他のパン屋さんで働きつつ、奥さんと相談しながら、自身の店の開業をぼんやり考えていました。 野菜のパンがおいしい店で働いていたし、自分も野菜を使ったパンを焼きたい。でも、野菜そのもののことを自分はあまり知らないじゃないか!そう思った森さんは野菜ソムリエの勉強も始め、野菜ソムリエの資格も取ったのです。2017年の春のことでした。

 野菜ソムリエになると、イベントで、農家さん始めいろいろな人とつながりができました。これで、野菜を作った人の名前入りのパンも作ることができる、自分のやりたいことを形にできるパン屋ができる、そう確信した森さんはついにご自身のパン屋PainAllier パンアリエをオープンしたのです。

 PainAllier パンアリエのオープンは2018年3月でした。そうしてオープン以来、野菜や小麦粉にこだわったパンを毎日30〜40種類のパンを作っています。このやり方では、もちろん大量生産はできません。でも、お客さんに少しでも体にいいおいしいパンを食べてもらいたい。森さんは熱い想いで今日もパンを焼きます。小さいころからいろいろなことが不完全燃焼だった少年は今、パンに情熱を注げる職人になりました。もし、奥さんとの出会いがなければ、パンとの出会いもなかったでしょう。そう考えると、人と人の巡りあわせは本当に不思議です。でも、その巡りあわせを生かせるかどうかは、結局その人自身にかかっているのでしょう。

 ただ、やはり一人でやり続けるのは限界があります。今、コロナ禍で感じるのは、店もちゃんと休みを増やさないともたない、そして何も長時間営業しているからいいわけじゃない、長く営業しなくてもできるんだ、ということを実感したことでした。奥さんにもちゃんと休みの時間をあげたい、お互いの負担を減らせるような仕組みを作っていきたい、そう思っています。

 森さんには11歳の女の子を筆頭に、8歳の男の子、4歳の女の子、3人のお子さんがいます。忙しくてなかなか時間も作れないけれど、子どもたちと一緒に遊べる時間はやはり何より楽しい時間です。
「パパのメロンパン、おいしい!」というので、商品化したのがパンアリエのメロンパン。新しいパンを商品化するのは大変ですが、それでも子どもたちの「おいしい」は何よりのエネルギーになります。

 地産地消にもこだわっています。野菜もそうだし、小麦粉も、なるべく県産のものを使いたい。例えばドイツには風土に合ったパンがある。富山でも、富山に合ったパンを作りたい。そしてそれをこの土地に定着させたい!
 ネット販売も始め、インスタグラムで県外からもフォローされるようにもなってきました。パンアリエのインスタ、皆さんもぜひフォローしてください。
https://www.instagram.com/painallier/?igshid=1x1hpv4r4d49a

 とある巡りあわせからパン屋さんになったけれど、今はパン職人という仕事に誇りを持っています。何にも取り柄がないと言っていた消極的な少年は、パン作りを通していろいろな人と出会い、パンで富山を盛り上げていこうという志を持った素敵な大人になりました。これからも、パン職人森和宏さんが作り出す富山のパンに乞うご期待です!
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野菜がたっぷりでとってもきれいな森さんのパン もちろん美味しいです♪
今日の人201.塩井保彦さん [2020年12月01日(Tue)]
 今日の人は、株式会社広貫堂代表取締役で、この4月から富山経済同友会代表幹事にも就任された塩井保彦さんです。
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広貫堂の営むイタリア料理店BERAERバルツェルにて

 1954年に富山市安野屋で生まれた塩井さん。元北海道知事の高橋はるみ(旧姓新田)さんとは同級生で、安野屋小学校の時には塩井さんがチェロ、新田さんがピアノでヘンデルの「王宮と花火の音楽」より平和と歓喜を演奏したのでした。弟の新田八朗さんは盟友で、八朗さんが日本青年会議所会頭になられた時も、そして、今回の富山県知事選挙も、いちばん傍で支え続けたのは塩井さんだったのです。

 塩井さんはスポーツ少年でもありました。小学校の時から野球やスキーが得意で、ご自身が高校生になってからは安野屋1丁目の少年野球チームの監督もしていました。その時に鹿島町の少年野球チームの監督だったのが、若き日の中尾哲雄さんでした。中尾さんは監督としての采配が抜群にうまく、塩井さんの安野屋1丁目は安野屋校区20チームの試合で3年連続鹿島町に決勝戦で敗れます。塩井さんと中尾さんとの出会いは財界人としての出会いではなく、若き日の少年野球チームの監督としての出会いだったのです。

 塩井さんは中央大学に進んだ後も、少年野球チームの監督を務め、中尾さんのチームに3年連続負けた後は、3年連続優勝しました。3年連続勝つと、富山市大会にも出場できて、その時は校区のチームからも選手を補強できるのですが、その時補強のピッチャーとしてチームに加えたのが、芝園町1丁目の小泉稔さんでした。この小泉さんが実は、今回の知事選挙で大きな働きをされたのですが、それはまた後ほど。

 塩井さんは野球の監督だけではなく、八方尾根でスキーのインストラクターもしていました。最初はスキー宿でアルバイトをしていたのですが、その宿の主人が八方尾根のスキースクールの校長もしていました。その頃、スキーツアーのお客さんがどっと来てインストラクターの数が足りなくなっていました。塩井さんのスキーの腕を知っていた主人に見込まれて、宿でのアルバイトに加えてインストラクターもしていたのでした。

大学2年生の時からは、議員秘書のアルバイトもしていました。当時でいうとかなり高額な一日1万円のバイト料だったので、塩井青年は豪快に飲んだり麻雀したりと破天荒な学生生活を過ごしていました。大学4年の頃、巷でブランドが流行り始めました。塩井さんは富山の中央通りにあったお店から買い出しを頼まれ、本場ヨーロッパのブランドショップで「ここのネクタイを端から端まで全部ちょうだい」という爆買いをしたりもしました。なんとも豪快な大学生だったのですね。

大学4年生の12月から2月まではロンドンに滞在し、その後友達2人を呼び寄せてレンタカーを借りて3人で1か月ヨーロッパを廻ります。その時に特に印象的だったのが南フランスの地中海沿岸部コート・ダジュールのエズでした。コート・ダジュールには切り立った岩山や丘の頂に城壁をめぐらして築いた小さな村がいくつも存在し、鷲が卵や雛を守るために他の動物の手の届かない小高い場所に巣を作るので、鷲の巣村と呼ばれています。ニース近郊の鷲の巣村の中で、特に絶景なのが地中海を見下ろす海抜427mの岩山の上にある Èze(エズ)です。ここの景色は本当に素晴らしく、またここのオーベルジュの料理がたまらなく美味しくて、これが塩井さんがグルメに目覚めたきっかけでした。その頃はまだ1ドル360円の時代。そんな時代に、こんな旅をする行動力と実行力がある なんとも豪快な学生だったのです。

 そんな豪快で破天荒な塩井さんが就職先に選んだのは、大塚製薬でした。そこには、塩井さんに負けず劣らずの突き抜けた社員たちがいました。大塚製薬で大いに鍛えられた塩井さんが広貫堂に入るのは30歳のときです。
 
その後、ずっと第一線を走り続けてきた塩井さん。新田八朗さんが日本青年会議所の会頭に立候補したときは、切込み隊長として大活躍されました。
 ご自身も、富山市長選に出るつもりで準備していた矢先の20年前、脳梗塞で倒れます。毎日大量にお酒を飲んでいたけれど、自分の体力を過信していたところもありました。
ある朝、自室でふらつき、会社に行こうかと思ったけれど何かおかしいとホームドクターに相談したところ、すぐに救急車を呼べと言われ、病院に。病院に着いてCTを撮ると、小脳に梗塞があって、血圧は上が200に達していました。20日間入院したあと、高志リハビリ病院に転院。最初はピクリとも動かなかった左手でしたが、リハビリでとにかく動くと念じろとソフトテニスボールを渡されて、握り続けました。すると、3日でピクリと動いたのです!こうして毎日毎日リハビリを続け、3か月の入院を経て、退院します。それまでは何次会にも行って大変な量を飲んでいた酒豪でしたが、退院後、アルコールはポリフェノール豊富な赤ワインに変え1次会で帰ることにしました。リハビリ生活を続けていた時に、リハビリが終わったらどこのレストランへ行って、どこのワインを飲もうかと思っていたのですが、入院中に新田さんが持ってこられた沢木舞さんの著書『ミキータの人々』に「私の好きなワインはアマローネ」と書いてあるのを読み、1年後にイタリアに行ってそのワインを飲む計画を立てました。アマローネというのは、 ヴェネト州のヴェローナ地区で限られた生産者がごく少量生産し、かつては王侯貴族しか口にできなかったと言われるほど贅沢に造られた稀少なワインです。塩井さんはまずフランクフルトへ行き、アルプス越えをしてヴェローナへ。ヴェローナはあのロミオとジュリエットの舞台としても有名です。塩井さんはヴェローナのワイナリーでアマローネを何本も買い、充実の時間を過ごしたのでした。

 そして脳梗塞で倒れてから2年後の2001年6月、広貫堂の社長に就任します。
塩井さんが就任する前、社長室の前はいつも決済のハンコをもらう列がずらっとできていました。それでは考えない社員を作ってしまう。今、イノベーションを起こして変わらないと会社に明日はない。塩井さんは破壊と創造をキーフレーズにどんどん社内改革を進めました。そして社長室もなくしました。社用車や専属の運転手も持ちません。最初は営業のど真ん中に自分の机を置いていました。5〜6年たって机を置くのもやめました。会社に1〜2週間顔を出さないこともあります。社長の顔を知らない人もいるので、パートの人たちからは「どこのおっちゃんが来たんや?」という目で見られることもあるとか。

コロナのずっと昔から、塩井さんにとってテレワークは当たり前になっています。コロナが流行する前には南アフリカに行っていました。タブレットがあれば24時間いつでもどこにいても仕事ができるのです。社員に破壊と創造と言い続けて20年、ようやく社員たちの顔つきが変わってきたと感じています。ですから、この先がとても楽しみなのです。
社員の福利厚生を願って作ったイタリア料理店BARZERバルツェルでインフォーマルミーティングとして無礼講の食事会を開いて社員の話を聞くのも楽しみです。これは、内定者懇談会でもやっています。そしてもちろんバルツェルには、あのアマローネが常においてあるのでした。
広貫堂と言えば、薬膳カフェ癒楽甘 春々堂も人気ですね。

 ここ最近は特に忙しく過ごしていましたが、週に3回のジムとスポーツマッサージはかかしません。脳梗塞になる前は、ゴルフもシングルを目指してハンディ15で回っていましたが、今は歩くことを目的としたゴルフにしています。ですから今は昔より健康と言ってもいいかもしれません。

今回富山県内で大きな渦を巻き起こした富山県知事選挙で、塩井さんは「新田はちろうを囲む会」会長として大変大きな働きをされました。それは新田さんが青年会議所の会頭になられた時の切り込み隊長としての働きさながら、まさに参謀本部長といえるものでした。

新田さんが知事選へ出ると表明された1年前から、ひたすら動き続けていた塩井さん。新田さんの総決起集会ではアメリカの大統領選挙さながらの演出に皆さん度肝を抜かれ、これまでの選挙戦で見たことがないくらいの盛り上がりになったのは記憶に新しいと思いますが、これも実は塩井さんの働きがあってのことでした。
総決起集会をどんな風にやるか考えていた時に、塩井さんが相談したのがイベント企画立案を幅広く手掛けていた小泉稔さんでした。そう、かつて塩井さんが少年野球チームの監督をしていた時のピッチャーです。小泉さんは言いました。「アメリカの大統領選挙は狭い場所でいかにたくさんの人がいるかのように見せて、そして最大限に盛り上げる。それでみんな熱くなる。総合体育館に3000人集められたら最高に盛り上がる決起大会にできる!」
幸い総決起大会の予定日に総合体育館は空いていました。塩井さんはすぐに予約を入れ、総合体育館に3000人集めるべく動き出します。それはなんと総決起大会から10日前のことでした。そして、10日後の総決起大会は、今まで誰も経験したことがないような皆が興奮に包まれたすばらしいものになったのです。そこから一気にボルテージが上がったのは言うまでもありません。かつて少年野球チームの監督だった塩井さんの依頼に全力で応えた小泉さん。いろいろな出会いの1つ1つのピースが組み合わさって、新田さんのワンチームを作り上げていきました。
 そしてもちろん、塩井さんはこれからも盟友として新田さんを支え続けていきます。

 塩井さんがこれからやっていきたいことは、大きく2つあります。
 ひとつはwithコロナ、そしてnextコロナのグローバリゼーションの時代に、いかに広貫堂の製品を海外に事業展開していくかということ。
 もうひとつは未病予防としての製品開発です。未病予防として、一番大切なのは食で免疫力を上げること。農薬や化学肥料をたくさん含んだ野菜を食べてもそれは健康にはつながらない。ミネラル、ビタミン、微量元素がたっぷりの野菜を食べることが免疫力を高め病気にならない体を作ることができる。私たちが今やっている多文化共生畑もまさに同じ考えで、いかに土の微生物の力をとりこんだ野菜を作るか、そのために土作りに徹底的にこだわった畑つくりを農業家の杉林外文さんに指導してもらいながら取り組んでいます。
理想は食で免疫力を上げることですが、そうはできない人もいる。そんな人たちのために、機能性食品や医薬品で免疫力を上げる未病予防になる製品開発を塩井さんはやっていきたいと考えています。
免疫力を上げるとびきりおいしい野菜や未病予防になる広貫堂の製品を富山発で発信していけたら、それは世界に誇れる富山ブランドになるにちがいありません。

 広貫堂の社名には「救療の志を広く貫通する」という意味が込められています。創業以来140年の「救療の志」を世界へ広げるべく、これからも塩井さんは豪快に笑いながら歩み続けられることでしょう。
 経営者として懐が深い人ってこういう方のことを言うんだなぁとつくづく感じた今回のインタビューでした。

今日の人200.杉林外文さん [2020年11月10日(Tue)]
 今日の人は、富山で有機農業といえば知る人ぞ知る農業家の杉林外文さんです。杉林さんの作る野菜は一度食べると忘れられない美味しさで、野菜嫌いな子どもたちが杉林さんの作ったピーマンやナスなら生でパクパク食べて、まだ食べたい!というくらいです。ミニトマトも驚異の糖度18度!もちろん化学肥料や農薬や除草剤は一切使いません。土の微生物の力で栄養たっぷりの本当においしくて強い野菜は虫も食べずとてもきれいな野菜で、有機野菜は虫が食うものという概念も払拭されます。そんな杉林さんの農法を学びたい方は多く、今年は富山で農業を始めた軟式globe ラップ担当パークマンサーさんにも農業指導をしておられます。さぞかし若い時から農業に取り組まれているから、伝説の農業家になられたのかと思うとさにあらず。杉林さんが農業を始められたのは不惑の年、40歳のことでした。
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杉林さんの無臭ニンニク 生のままスライスして食べると最高です♪

 杉林さんは1961年3月24日に婦中町で生まれました。3人兄弟の真ん中だったので、ばあちゃんたちが旅行に行く時はまず連れて行くのは1歳年上の兄、しばらく経つと4歳年下の弟だったので、杉林さんは旅行に連れて行ってもらったことはありません。そして旅行に連れて行ってもらった兄ちゃんや弟は旅先でおもちゃを買ってもらえるけれど、杉林さんは買ってもらったことがなかったので、そのおもちゃで遊んで兄弟喧嘩になって叱られるということがしばしばありました。普通、生と死について考えるというと思春期ですが、杉林さんは小学生の時に死について考えたことがありました。家でも兄や弟の方が可愛がられるし、3月24日生まれの杉林さんは小学校低学年の頃は勉強も運動もできが悪かったのです。自分はいなくてもいいんじゃないか、死んでしまっても誰も悲しまないんじゃないか、そんなふうに感じたこともありました。そんな時にいつでも慰めてくれたのは自然の中でした。山や川が傷ついた少年の心を癒してくれました。山でカブトムシやクワガタをとったり、川で魚を捕まえたりしていると、いつの間にか嫌なことも忘れているのでした。そんな風だったので、性格が屈折しているようなところは一切なく、外で友達と思い切り遊び回るたくましい男の子だったのです。

 小学生の時は野球が好きで、中学に入ったら野球部に入ろうと思っていました。けれど、小学校6年生の雨の日に、近所の友だちと硬球でキャッチボールをしていて肩を壊してしまったのです。それもあって、中学校ではサッカー部に。3月生まれだった少年は小学校低学年の頃は何をやっても同級生から少し遅れてしまうことがあったけれど、小学校高学年になると、体育関係のことは誰にも負けなくなりました。中学校ではますますそれが加速し、サッカーも練習すればするだけどんどん上手くなりました。それが自信になって、ますますサッカーにのめり込んでいったのです。サッカーをしている杉林さんはとにかくカッコ良くて、各学年に杉林さんのファンクラブができたくらいです。そんな杉林さんの姿に憧れて、サッカー部の部員はどんどん増えていきました。そうして杉林さんがキャプテンの時に、速星中学校は初めて県大会に出場します。とにかくサッカー馬鹿というくらいにサッカー漬けの毎日。何かにハマったらひたすら一直線に進んでしまうのでした。サッカーも上手で足も速くて、運動会ではもちろん花形、しかもイケメン。そんなわけで大モテだった杉林さんはバレンタインデーにもらったチョコの数も半端なかったのですが、この頃はチョコレートは好きじゃなかったので、全部お母さんにあげていました。息子が大量のチョコレートをもらってきたら、母親としては嬉しいような心配なような複雑な心境かもしれません。でも、その頃の杉林さんはサッカーにしか目がなかったので、どんなにモテても女の子にうつつを抜かすようなことはなかったのでした。

 高校に入ってもとにかくサッカー漬けの毎日。その頃は本気でプロのサッカー選手になろうと思っていました。プロになるためには体を鍛えなければと、走り込んで100mを11秒フラットで走れるようになっていたし、ベンチプレスで120Kgを持ち上げていました。サッカーの本場のブラジルで修行をするぞ!という意気込みだったのですが、高校2年の進路相談の時に、真面目な顔でブラジルに行くと行ったら、先生は困惑。お父さんにも「何をだらなことを言うとるがや!」と一喝されます。そこでブラジルに行けない、プロの道は自分にはない、と悟った杉林さん。それまでサッカーしかしてこなかった高校2年生は目の前の梯子が突然消えてしまって、何をしていいか全く分からなくなってしまいます。

 そうなると、周りに誘惑はたくさんありました。友だちとバイクで走り回ったり、他校の番長クラスの人と街を闊歩したり、スナックに行ったりしてたくさん遊ぶようになりました。昔は今と違って、高校生が飲みに行ってもそこまでうるさくは言われなかったのです。おまけに杉林さんの家は酒屋さんをしていて、家がお酒を納めているお店も何軒もあったのです。
 しかし、そこは高校生。いくらツッパっていても、スナックで飲んでいる周りの大人から見ると高校生だとわかって「おい、お前高校生だろう」と声をかけられることもありました。それでも、堂々としていたので逆に気に入られてしまいます。それが、ある筋の人だったりしたので、お前これで飲めや、と杉林さんにボトルを入れてくれたりしました。そんなお店が何軒もあって、一度夜の街に出ると朝まで過ごしてそのまま学校に行くと言う破天荒な生活をしていたのです。それでも、学校を休むことはほとんどなかったのですから、逆にすごい!休んだら先生に「お前出席にしてあるんだから、ちゃんと来い」と言われていたそうです。それだけ先生たちに可愛がられていた生徒だったのですね。
 杉林さんはしょっちゅう昼の街にも繰り出していました。友だち10人で長々ランや長ランを着たまま富山一の繁華街の総曲輪通りを端から端まで並んでスキップしていたりもしました。もちろん真ん中は杉林さんです。そんな時、他校の女の子に呼び止められて「サインして♡」と言われる時もありました。サインを500円で買ってくれるならいいよと言ったら、喜んでサインを買ってくれるのです。実は、杉林さん、高校生になっても、他校にもファンクラブがあるくらい相変わらずモテモテだったのです。伝説の農家になるずっと前は伝説の高校生だったんですね。ビーバップハイスクールを地でいく、いえ、それ以上の高校生活を送っていたのでした!

 そこまでモテても、杉林さんが高校生と付き合うことはありませんでした。なぜなら杉林さん、千里浜で出会った9歳年上の女性と付き合っていて、なんと高校2年生でパパになってしまったのです。
 でも、誰かを傷つけたりするようなことは絶対になかったし、義理と人情に厚かったので、友だちも本当にたくさんいて、先生方からも可愛がられていました。

 サッカー部のキャプテンだった杉林さんには条件のいい就職先がたくさんありました。いい条件の会社をいくらでも選べると就職指導の先生に言われました。担任の先生やサッカー部の顧問の先生には、大学に行って、先生になってサッカーの指導者になれと言われました。でも、お父さんは家の酒屋の仕事をしてくれと言いました。なぜなら、お兄さんは酒屋を継がず、おじいさんの開いた酒屋の後継者がいなかったからです。

 そうして杉林さんは条件のいい就職先も、推薦入試の道も全て蹴って、家の酒屋に入りました。そんな風に酒屋に入ったのに、まだお父さんがお元気だったので、あまり真剣に仕事はしませんでした。プラプラしていたら、高校の時にバイトをしていたスーパーの社長に声をかけられます。そして、スーパーに入り、精肉部門を任せられるようになりました。ちなみに昔、富山のスーパーでも牛肉の刺身やタタキを売っていた時代がありましたが、富山であれを広めたのは杉林さんなのです。大阪に肉の研修に行った時に初めて牛刺しを食べてなんて美味しいんだろうと思った杉林さんは、富山でもこれを広めたいと思ったのです。富山はお魚がおいしいので、お正月などの家族親族が集まる時は肉はパタッと売れなくなりました。そこで、杉林さんは牛刺しや牛肉のタタキ、牛肉の昆布締をセットにしてお正月やお盆に売り出したところ、ものすごく売り上げが伸びたのです。

 サッカーの方も、北信越リーグのサッカーチームから声がかかったりしましたが、精肉の仕事は土日忙しくて休めないこともあって、それはできませんでした。でも、婦中町でサッカークラブを作らないか?と声がかかり、子どもたちの育成中心でやるなら、と婦中サッカークラブを作ります。杉林さんは子どもたちと過ごす時間が大好きでした。教える、と言う感覚ではなくて、自分も一緒に楽しみながらやるのです。子どもたちはすぐに杉林さんを慕うようになり、婦中サッカークラブはどんどんメンバーが増えて、今も続いているサッカークラブです。

 しかし、杉林さんが20歳の時に、高2の時に生まれた長女に続いて双子の男の子ができました。精肉の給料だけでは3人の子どもを育てていくのに大変なので、給料のいい仕事に代わりたいと退職を申し出ました。社長は給料をアップするから残ってくれと言いましたが、若い自分が先輩方を差し置いて高い給料をもらうわけにはいかないとその申し出を辞退しました。精肉部門でいろいろなアイディアを出して売り上げを伸ばしてきたのですから、それはもらっても全然おかしくないと思うのですが、そういう部分は昔気質な杉林さんなのでした。

 その頃はビデオテープ全盛の時代で、富山のマクセルの工場で夜勤をするといいお給料がもらえたので、マクセルの工場に入らせてもらいました。ビデオテープをある巻数以上を作るとその後は歩合制でどんどん増えたので、どんどん働きました。そのうちにライン生産だけではなく、メンテナンスもやるようになって、月に40〜50万は稼げるようになっていました。一緒に仕事をやっている人に利賀育ちの山の主もいて、夜中の2時に仕事が終わった後に、「おい山へ行くぞ」と声をかけられるのです。そうして車を走らせて空が白み始めた頃に利賀村について、山菜採りをしたり、イワナを釣ったり、山を精いっぱい楽しんで、また夜勤の仕事に戻るのでした。

 でも、そんな生活は6年くらいでピリオドを打ちます。酒屋の仕事は時々の手伝いくらいしかしていなかった杉林さんでしたが、お父さんが亡くなり、お母さんと弟さんだけでやっていたお店がどうにも回らなくなっていたのです。借金も重み、酒屋を人手に渡すという話も出ましたが、それなら俺が店に入る!と杉林さんは酒屋の仕事に専念することにしたのです。じいちゃんからの店をここで潰すわけにはいかないという生来の負けん気がむくむくと湧き上がってきたのでした。

 最初は得意先を回っても怒られてばかりでした。「お前の店は注文してもなかなか品物を持ってこないし、頼んだら払った後に請求書が何度も来たりして一体どうなってるんだ?」そんなお客さんの声に平身低頭謝っていました。得意先は大きな納屋のある家が多く、空きびんが納屋に積み重なっているのを見て、「よかったら空き瓶を持って行きましょうか?」と最初は空き瓶回収から始めました。そうして、どんな小さな注文にも誠心誠意応えているうちに次第に注文が増えていったのです。杉林さんが入った時は年商200万余りで火の車だったお店でしたが、こうした地道な努力で3〜4年経った頃には年商2000万円くらいになりました。
杉林さんは贈答品につける熨斗(のしも)にもこだわりました。それまでの酒屋は熨斗に無頓着な人も多く、蝶結びの熨斗を何にでも使っているお店もありましたが、蝶結びは簡単に解けて何度も結び直せるので、結婚や快気祝いなどの一度きりの方がいいお祝い事には使いません。一度きりの方がいいお祝い事には結び切りの熨斗を使います。そういうきめ細やかな心遣いを随所にしていきました。

唎酒師の資格も取ってお客さんに合わせたお酒の提案をしました。そして6年目には年商2億円を超え、県下で3本の指に入ると言われるほどの酒屋になったのです。ワインに合うパンを出したくて、手作りのパンもお店で出すようになりました。水や小麦粉にもこだわって作ったので、「あなたのとこのパン食べたらアレルギーの症状出なくなったわ」とパンだけ買いに来てくれるお客さんも増えました。体にいい水を使えば健康になれる、その時に水の大切さを実感したのです。それが農業で水を大切にするところにつながっているのですが、それはまだ先のこと。その時は、ワインの知識ももっと増やそうとソムリエの資格にもチャレンジを始めていました。とにかく、やるととことん突っ走ってしまう杉林さんなのでした。

 パン作りにも使っていたアレルギーや不調の人たちを治した水のことも、もっと知りたくていろいろ勉強しました。水のことを書き出すとそれだけで論文くらいになりそうなので割愛しますが、杉林さんは科学雑誌Natureにも掲載されていて、富山大学鏡森名誉教授が太鼓判を押した電解水を使ってパン作りをしていたのでした。

 そうして知れば知るほど水の大切さを実感します。そんな中、その水を使って有機農法をしている九州の農家さんから北陸でもやってみないかと声がかかり、九州から先生を呼んで10軒くらいの農家さんを集めて講演会を開きました。でも、有機は難しそうだ、と手を挙げる農家さんはいなかったのです。それなら自分でやってみるか、と有機農法でトマトを作り始めた杉林さん。農薬、化学肥料、除草剤などを一切使わず、3年経って糖度15°の本当に甘いトマトができました。そんなわけでトマト作りも面白くなってきたのですが、なにしろ本業の酒屋も忙しかったので、それ以上手を広げることはありませんでした。

 杉林さんは遊びにも全力でした。陸海空の全てを制覇したという感じでした。陸は山遊び、サッカー、スキー、テニス、バイク。海は釣り、素潜り。なんと杉林さん、素潜りで30m潜って、モリで魚を突くことができるのです。まるで未来少年コナンみたいですね。空はパラグライダーにヘリコプター。仕事も全力、遊びも全力、いったいいつ寝ていたんでしょう。

 ソムリエの勉強をしている時に、お酒を飲み過ぎてアルコール性肝炎で入院してしまったこともありました。退院して、友達が快気祝いをしてくれた時に、少しお酒を口にしましたが、美味しく感じなかったこともあって、それ以来パタっとお酒を飲まなくなりました。唎酒師だし、ソムリエの勉強もしていたので、お酒のウンチクは誰より語れるけど、今は全く飲まない杉林さんなのです。

 時代は、小泉政権の規制改革が始まっていました。それまで酒屋でしか買えなかったお酒がディスカウントストアやコンビニで買えるようになり、酒屋が大きな時代の渦に巻き込まれていきました。それでも、杉林さんは必死で頑張っていました。店をコンビニ形態にして、朝の7時から夜の12時まで営業。遅番の日は朝の3時からパンを仕込むので3時間睡眠が普通でした。

 お店を継いで10年目、地元に大型ショッピングモールができました。店の前の道は連日大渋滞が続きます。配達に出ても渋滞に巻き込まれてほとんど得意先を回れない。お客さんもお店に入れない。そんな日が3か月も続きました。小売のお店は日々お金を動かしていくことで商売が成り立っています。月に4、5千万は動かさないといけないのに、3か月も売り上げが止まってしまっては、もうどうしようもできなくなりました。

 杉林さんはそれまで自分が頑張ったらなんとかなる、そう思っていました。そして実際そうなってきました。でも、今回だけはどうしようもなかった。自分の中の糸がぷつんと切れました。奥さんも寝ずに毎日パンを焼いていましたが、何しろ買いに来たいお客さんがお店に入る余地が全くないのです。九州生まれの奥さんはそんな時でも働き続けました。『このまま俺といたら、こいつ死ぬわ』そう思った杉林さんは奥さんに言いました。「お願いだから出ていってくれ」奥さんはなかなか納得してくれませんでしたが、杉林さんは頑として譲りませんでした。奥さんが出ていった時、ああ、これでこいつを巻き込まなくても済む、とホッとしました。その気持ちは奥さんには言いませんでした。言うと絶対に一緒に頑張ると言うと思ったから。嫌いじゃないのに、別れなきゃいけないのは本当に切ないですね。

 ご飯が全く喉を通らず、水だけ飲んで仕事をしていました。でも、じいちゃんの代から続いた酒屋は潰れました。いや、その時、町の旧商店街のお店はほとんど潰れてしまったのです。

 杉林さんは入院しました。胃に十円玉大の穴が8つも開いていました。絶望の淵にあって死ぬことばかり考えていました。退院した後、何度も何度も死のうとしました。でも、いざ死のうとすると、体が動かなくなってしまうのです。死を望んでも死ぬことができない。一体どのくらいそんな時間を過ごしたでしょうか。
死ねないなら生きるしかない。そう思って仕事を探し始めましたが、世はリストラブームでした。40近い杉林さんを雇ってくれる会社はなかなかありませんでした。

 そんな時でした。ふっと ‘農業’という言葉が頭をよぎったのです。40歳。論語でいう不惑の年に杉林さんは農業をやる決意をしたのです。59歳になった今も、揺るぎなく農業家の道を歩いていることを思えば、ある意味「四十惑わず」は当たっていたのかもしれません。

 酒屋をやっている時に有機農法でトマトを育てて有機農法の素晴らしさは実感していたので、有機でやることに何の迷いもありませんでした。場所は大長谷か氷見かで迷ったのですが、森林組合の知人が協力してくれて、大長谷でうちを借りて再出発することになったのです。

 杉林さんは思いました。自分は1回死んだ人間だ。これまで40年、好き勝手やってきた。それなら残りの人生は人にお返ししていく道を行こう。大長谷は岐阜との県境の大変な山奥です。最初は開拓時代のように開墾からのスタートでした。木を切り倒し、木の根を抜き、草を刈り、土を起こしました。しかし、農機具を買うお金はありません。クワとスコップだけで3反の土地を耕しました。そうして街とは閉ざされたその村で、杉林さんは野菜作りに励みました。でも、独学でやっていったので、試行錯誤の連続でした。大長谷は標高が高く、平野で野菜を育てるのとは気候が違い、トマトも3年経ってようやく成功したのでした。じゃがいも、ビーツ、とうもろこし、ニラ、行者ニンニク…いろいろな野菜を育てました。それはある種、修行僧が山で荒業をするような修行に通じているようにも感じます。

 最初は土作りは肥料が大切だと考えていました。でもなかなかうまくいきませんでした。ある年、何度も何度も土を起こした時に、とても綺麗な野菜ができました。ハッとしました。肥料ではなく土着菌が野菜を育てるのだと体で感じたのです。土を作る。土着菌、微生物が豊富にある豊かな土が美味しい野菜を育ててくれるのです。大長谷でひたすら1人で土と対話してきた杉林さんはまるで太陽や土に導かれているように感じました。土は全てを教えてくれる。そうやって、土に対して敏感になっている状態で山に入ると、今度は山がいろいろなことを教えてくれました。山の木々や草花たち、そして山の動物たち。それら全ての息吹が杉林さんの体に入ってくる感覚だったのです。きっとそれはちょっと山に入ったくらいの人には感じられない、研ぎ澄まされた人だけが感じられる感覚に違いありません。

 杉林さんは一年中、八尾の山の中に入っていました。山菜採りやキノコ採りだけではなく、雪の中の熊追いもしていました。それで、八尾の全ての山々はまるで自分の庭のように手に取るようにわかったのです。一日のうちに歩いていくつも山越えするのも当たり前のようにやっていました。ほんの2,3時間山道を歩いただけで膝が笑うような街の人間とはまるで次元のちがう感覚です。そうして山の中を歩くと、土の働きがいかに大事かがわかるのです。毎日修験者のように山を駆け回る中で、土の微生物の働きで命が育まれていることが実感として体に入ってくるのでした。こうして野菜作りは土作りだという杉林農法の骨幹が築かれていったのです。

 大長谷は一般的に言えば過疎化が進んだ限界集落ですが、本当に豊かな所なのです。杉林さんの住んでいた家の周りには夏になると無数の蛍が舞い、冬は降り積もった雪を月明かりが照らし、この世のものとは思えないくらい幻想的で美しいのでした。夜には満点の星空。渡り鳥の季節になるとたくさんの渡り鳥が群れをなしてやってきました。その渡り鳥の群れの描く弧の美しさや、山で鷹が織りなす鷹柱の美麗さ。きっと名立たる観光地でどんなに有名なものを見ても、杉林さんの体験した自然の織りなす美の美しさに叶うものはないのではないでしょう。大長谷で過ごした12年間は杉林さんにとってかけがえのない宝物となったのでした。

 そうして12年間の大長谷の生活の中で確信しました。土着菌や微生物が私たちの体を作ってくれることを。土着菌や微生物を吸い込んだ野菜を食べることで、私たちの体にもそれらが取り込まれ、最高の腸内細菌が作られていくのです。今は水耕栽培の工場から出荷されている野菜も多くあります。でも、それでは土着菌や微生物が体に取り込めないのです。

 命を作る農に大切なのは水と土と空気です。食物連鎖は微生物連鎖でもある。体内の微生物が増えると、腸内フローラや細胞内のミトコンドリアの量が増え、それが病気にならない健康な体を作るのです。ただ綺麗でおいしい野菜だけの野菜ではなく、綺麗で美味しくて心身ともに健康にしてくれる野菜が作れるのです。そこに目を向けた農業の可能性は無限大で、これからの農を背負う若い人たちに、どんどん伝えていきたい、そう杉林さんは思っています。自分が試行錯誤してたくさん失敗しながら体得してきたノウハウを若い人たちに惜しみなく伝えてもったいなくないのかなぁと感じる浅はかな私ですが、杉林さんはそんなことは微塵も感じていません。それは、これからの日本経済は農業が背負っていくと信じているからです。でもそれは経済優先の農業ではありません。命優先の農業です。一度死んだも同じ自分の命を救ってくれたのも農だった。土だった。大長谷の大自然だった。だから、これから農業を始める人にどんどん伝えて、どんどんこの有機農法を広げていきたいと思っています。

 昔の有機農法といえば、糞を巻いたりして作った野菜でした。それに比べると化学肥料で作った今の野菜の栄養価は10分の1だと言われています。でも、杉林農法で作る野菜は、生産型でかつ、栄養価も昔の有機野菜よりも高いのです。また、有機農法の野菜は虫に食われてきれいじゃない、と思っている人も多いかと思いますが、ちゃんとした有機をやると、本当にきれいな野菜ができるのです。

 農業は全ての元です。体と心を作る元のものを作り出しているのは農家です。だから、農業をやる人はプライドを持って欲しいのです。ただ、残念ながら今の日本は化学肥料を使った農業が主流です。化学肥料を使った野菜は硝酸態窒素だらけです。それが腸内に入ると異常発酵してそれが毒になるのです。現代病の多くは腸内環境の乱れから来ているものがとても多いのです。健康にいいと思って食べ続けている野菜で腸内に毒素を溜め込むという本末転倒の現象が起きているのです。そして化学肥料をたくさん撒いた田んぼや畑は土が育っていません。微生物不足の田畑を、土着菌と微生物がたくさんいる土へと生まれ変わらせたい。病気にならない環境を取り戻す農業をしていきたい。そんな農業に変わる時がきっとくる。今、変わらなきゃ、いつ変わるんだ


 こんなに自然が豊かに見える富山も環境が変わってきています。水の国、富山ですが、今、伏流水が減ってきています。それは山の自然環境が杉林(本当の杉林です。杉林さんではありませんw)で崩されているからです。杉の木は下に根を伸ばしません。大雨が降ると、杉がひっくり返って大量の水が山の表面を流れ川が氾濫します。自然林に戻して、根を下に伸ばせば土の中に雨が入っていきます。表面だけを流れて川が氾濫することが少なくなるでしょう。でも、今、山仕事をする人が減って、杉が負の遺産になっているのです。それでも、なかなか日本の行政は動きません。いまだに工業が日本を救うと思っています。そうでしょうか?日本がこれから世界に誇るべきは、世界で屈指のきれいで豊かな水と、そして農業だと杉林さんは考えています。

 体を動かしているのは心です。心が不安定だと体も不安定になります。逆に心がしっかりしていればちょっとやそっとで人は崩れない。その心を作るのも食だと考えています。土着菌や微生物は腸内環境に働きかけます。今、腸が脳の働きに密接に関わっていることがわかってきました。腸を整えることで、体や心の不調が改善されていきます。たくさんの論文も発表されて大いに注目されている分野なのです。
 そして、杉林さんは野菜作りに使う水に徹底的にこだわっています。幼植成長の時は根の伸びを促進する酸性の水を使い、生殖成長の時はアルカリ水を使用して好気性微生物を活発にします。そうやって成長段階に合わせて野菜がいちばん必要な水を与えてやるのです。杉林さんは子育てする時のお母さんのように野菜の気持ちがよくわかるにちがいありません。なぜなら、杉林さんの育てた野菜の味は全然違うのです。本当の野菜ってこんな味だったんだ!ということを実感させてくれます。そしてその野菜の味に慣れてしまうと、化学肥料で育った野菜は体が受け付けなくなってしまうのです。体って実はとても賢いんですね。
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杉林農法について ぜひクリックしてお読みください。

 12年の大長谷生活を経て、杉林さんは八尾に移り住みました。それは自分が山で体得した農法を若い人たちに伝えていきたいという思いが強かったからです。杉林さんは不登校の子どもたちとも一緒に畑を作っています。野菜嫌いで全く野菜を食べなかった子どもたちが杉林さんの作ったピーマンを生でボリボリ食べるようになります。それはその場の雰囲気で食べられるようになったのではなく、理に叶ったわけがあるのです。それまで野菜を食べられなかった子は、化学肥料で育てられた野菜に含まれる硝酸態窒素に体が拒否反応を起こして、食べられなかったのです。でも、杉林さんの野菜には硝酸態窒素はなく、体が喜ぶ微生物がたっぷり含まれています。言葉で説明しなくても、体はそれを知っている。だから子どもたちは杉林さんの野菜だったらかぶりついて食べるのです。

 子どもたちと一緒に過ごす時間は本当に楽しい時間です。サッカーのコーチやスキーのインストラクターをしている時もそうですが、杉林さんには教えてあげているという感覚はありません。子どもたちと同じ目線で遊んでいる感じなのです。すると、子どもたちもすぐに心を開いてなんでも話すようになってくれます。でも、故意にそうしているのではなくて、自然にそうなっているのでした。子どもたちに対しても、野菜たちに対してもいつも愛情たっぷりなんですね。

 杉林さんは思うのです。今、ならなくてもいい病気になっている子どもたちがたくさんいる。でも、土着菌や微生物をたっぷり含んだ野菜を食べて腸内を整えれば、自然に治っていく病気がほとんどなのです。杉林農法で育てた野菜でそんな子どもたちを一人でも減らしたい。そして、子どもたちが笑顔になれる時間を増やしていきたいのです。そんな杉林さんは実はもう3人のお孫さんがいるおじいちゃんでもあります。杉林さんご自身は今59歳ですが、双子の息子さんたちは38歳で、3人一緒に写った写真は年の離れた兄弟のように見えるので、若いおじいちゃんですね。
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双子の息子さんたちと一緒に

 そんな杉林さんは、「この野菜食べて感動した!」と言ってもらえるのが最高に嬉しいとおっしゃいます。野菜を食べて美味しいっていう感想ではなく、感動した!と言われるのです。でも、実際に杉林さんの野菜を食べると感動します!皆さんもぜひ、杉林さんの野菜を食べてみてください。
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 今コロナ禍にあって、これまでの生き方を見つめ直している人は多いと思います。都会に憧れて都会のいい大学やいい会社に入ることがいい人生だと思っていた人も多いでしょう。でも、マスクをつけて通勤電車に長い時間揺られてヒートアイランド現象で熱を持った街にある会社に通うのが、果たして人として幸せなのか?
 自分が心豊かに過ごせる場所はどこなのか、立ち止まって考えるいい時なのかもしれません。
そしてもし、富山で農業をやりたくなったら、ぜひ杉林さんを訪ねてみてください。きっと少年のような純粋なキラキラした瞳で、農業のことを、土づくりのことを、熱く語ってくれます。
今日の人199.星井 光さん [2020年10月15日(Thu)]
 今日の人は、NPO法人PCTOOL理事、NPO法人市民活動サポートセンターとやま理事の星井 光さんです。
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光さんの自宅の仕事部屋&ルームシアター 
超大型テレビで映画鑑賞するのが最近の楽しみのひとつです。

 光さんは1962年12月に富山市で生まれました。お父さんは北朝鮮出身の人でしたが、韓国に亡命してその後日本に渡ってこられたそうです。どうやって韓国に亡命したのか、そしてどうやって来日して名前を手に入れたのか、詳しいことは光さんも知りません。なぜなら、別にご家庭がある中、お母さんと知り合って光さんと妹さんが生まれたので、光さんの戸籍には父親の欄に何も書かれていなかったのです。
 お父さんは岩瀬で焼肉屋をしていた後、石坂で養豚場を始めました。また、共同経営でパチンコ屋も始め金融業も営んでいて当時はとても羽振りがよかったのです。けれど、とても気性の激しい人で、飲んではケンカをして、家へ帰ってからまた外へケンカをしに行くといった風でした。幼い光さんも、もぐさで灸させられたり、病気の豚小屋に入れられたり、お父さんも怖かったのですが光さんも相当きかんかったらしいです。
 そんな風な毎日だったので、光さんが小学校へ上がる前にお母さんは光さんと妹さんを連れて家を出ました。そこからは3人でのアパート暮らしが始まったのです。お母さんは、昼夜働き、夜は西町で自分のスナックを経営していました。とても気さくな人で、お客さんもたくさんつき、また隠し事もしない人だったので、アパートに彼氏を連れてくることもありました。それが嫌だったこともありましたが、逆に隠し事を一切しないことで、母への絶対的な信頼感がありました。
1ヶ月に1回はお父さんとも会っていました。その時はお父さんも優しくて、光さんと妹さんに、何でも好きなものを買ってくれました。そういうわけで光さんたちは当時の女の子が欲しがっていたおもちゃは一通り持っていたと言っても過言ではありません。

 今はとても明るくて、誰とでも気さくに話す光さんですが、小さい頃は人見知りでおとなしい性格でした。人と話さず、編み物が好きな小学生でしたが、小さい時から、なぜか機械が好きで、ビデオデッキなども自分で設定していたものです。
 そんな機械好きが高じてか、入った高校は富山工業高校の設計計測科でした。中学校では部活も入らなかった光さんでしたが、高校では部活に入ろうと思って、最初はテニス部に。しかし、女子が自分だけだったという事もあり生徒会誌を作る、会誌部に入部したのです。そこがすごく楽しかった。夏、バンガローで合宿をするというのに、ワンピースにサンダル姿で行って周囲を驚かせたりもしました。でもみんなとても仲良くしてくれて、光さんのおしゃべりで明るい性格はそこで開花したと言ってもいいでしょう。
 だんだん行動的にもなっていきました。大好きだったロッド・スチュワートのコンサートに東京の武道館に一人で行ったりもするようになっていました。もっとも、東京駅にはすでに上京していた部活の先輩が迎えに来てくれていたのですが。

 けれど、高校生活でも理不尽な思いをしたこともありました。就職先を選ぶ時、第一志望の会社は母子家庭の子はダメだと言われました。なぜ本人の実力ではなくて、そんなことで差別されなくてはいけないのか、すごく悔しかった。でも、光さんは第一志望の会社に行かなくてよかったのです。なぜなら、光さんは最初の就職先で最愛のご主人に出会うことになったのですから。

 光さんは高校を出て就職し、ご主人は大学を出て就職して同期になったのでした。会社は荏原の駅から歩いて20分の所にあり、光さんもご主人も駅から歩いて通勤していました。会社でテニス合宿があって、光さんはご主人のことをいい人だな♡と意識し始めるようになりました。それで、仕事の帰りにご主人が出てくるのを待ち伏せして、一緒に帰ったりしていたのです。人見知りだった少女がうそのように、とっても積極的になっていたのです。
 やがて二人はつき合うようになり、結婚の話も出てきました。しかし、ご主人は田舎の長男です。お義父さんは興信所を使って光さんの身元を調べ、光さんの出自で結婚に反対しました。しかし、お義母さんが「息子が選んで連れてきた子なんだから、もらおう」と言ってくれたのです。
 そして光さんは21歳の時に結婚しました。結婚式にはお父さんも来てくれて、嫁入り道具も一式揃えてくれました。
 でも、市役所に婚姻届を出す時に、つらい思いもしました。窓口の人が「なぜ父親の名前がないのか?」としつこく聞いてきたのです。その対応に光さんは泣いてしまいました。その時、ご主人が毅然とした態度で光さんを守ってくれたのです。そのことを子どもたちに話すと、「お父さん、かっこいい所あるんだね」と言ってくれるのがまた嬉しい光さんなのでした。

 息子の連れてきた人だから、お嫁にもらおうと言ってくれたお義母さんでしたが、実際はとても厳しい人でした。同居だったので、つらい思いをすることもたくさんありました。
 でも、自分を振り返った時に、分岐点に出てくるのはいつもお義母さんだったのです。光さんにはお子さんが2人いるのですが、下の子が4歳くらいの時に、お義母さんが大病をして半年入院しました。最初の1週間、朝の6時から夕方6時まで毎日病院に詰めていました。きらいなお義母さんと日がな一日一緒にいなければならないので、3日くらいで気が変になりそうでした。でも、その時、ふっと「ああもう、どうなってもいい」と自分の心を解放しようと思ったのです。限界まで来たときに、もうなんでもいいや、なるようにしかならない、と心を解放したら、すごく楽になりました。それからは光さん自身の行動が変わり、お義母さんと普通に接することができるようになって、仲良くなれたのです。
 お義母さんは2年前の3月に亡くなられました。ちょうど、その頃は光さんが自分の心を見つめ直していた時で、お義母さんは自分の道先案内人だったんだと気付けたのでした。
 もちろん実家のお母さんのことも大好きでした。隠し事をしないさっぱりとした母の態度は光さん自身の子どもたちへの接し方の道標でもありました。お母さんは光さんが30歳の時、そしてお母さん自身が54歳の時にステージ3の癌を発症し、56歳で亡くなったのでした。

 光さん自身がお子さんを生んだのは24歳と28歳になる歳でした。どちらも夏生まれにしたくて、実際に上の息子さんは7月30日生まれ、下の息子さんは8月1日生まれなのです。その間も仕事はやり続けました。船舶の図面の設計をしたり、サッシ周りの図面の設計をしたり、そのうち3番目の会社にヘッドハンティングされたり、そして、設計とはおよそ畑ちがいの化粧品販売の代理店をしたりと外で積極的に活躍する光さんの力が発揮され始めていたのです。

 子どもたちが小学校から高校までの間はずっとPTAの役員もしていました。ある時、同じ役員をしていた人に、情報工房でインストラクター養成講座っていうのがあるから受けてみない?と薦められました。なんでも新しいこと好きの光さん、もちろん受けました。
 講座を受けていた小杉の4人で話が盛り上がって、小杉でIT講座を始めようよ!という話になりました。その中の一人が毎日役場へ通って、役場の講座を1コマだけゲットしてきました。こうして、2001年に小杉電脳塾を立ち上げ、IT講座を始めたのです。
 でも、実は、その時は光さん自身もパソコンの使い方をまだよく知らなかったのです。学びながら教えていく、そんな感じのスタートでした。でももともと機械をいじるのが大好きだった光さんはあっという間に技術を身につけていったのです。小杉電脳塾は大好評でどんどん広がっていきました。最初は1コマだけだった講座がどんどん増えて、月7〜8講座を担当するようになりました。企業の社内パソコン教室のアシスタントも担当するようになりました。そのメイン講師の一人がPCTOOLを立ち上げた能登さんでした。能登さんにメイン講師としてやってみないか?と言われ、一緒にいろいろ仕事をするようになっていきました。大山町では老人福祉施設で高齢者パソコン教室の講師をしました。最初は技術があまりなかったのが逆によかった。それは生徒の皆さんと一緒の気持ちで成長していけたことです。うまくなっていく喜びが共有できてそれが続けていくモチベーションにもなったのです。
 光さんの教え方は大変評判がよく、公民館での講座もどんどん増えていきました。南太閤山公民館から始まって、いろいろな所で10クラス立ち上げました。そんなクラスがもう十数年続いています。Word、Excel、ブログ、SNS、いろいろな講座をその時々に応じて開設しています。受講生の皆さんとも一回きりのつきあいではなく、ずっと長いつきあいが続いていて、そんな中から食事会を企画したり、デジカメ撮影会を企画したり、とにかく光さんは何かを企画して皆さんを楽しませることが大好きなのです。

 そんな企画は、コンサートの主催にも及びました。初めてコンサートを主催したのは2001年。6月城端中学校であった新垣勉さんのコンサートに誘われたのがきっかけでした。
 新垣勉さんは沖縄で在日米軍人だったメキシコ系アメリカ人の父と日本人の母の間に生まれ、生まれてすぐに間違って劇薬を点眼されて盲目になってしまったテノール歌手です。両親は1歳の時に離婚し、父はアメリカに帰国。育ててくれた祖母も他界し、自分の境遇に絶望して自暴自棄な中、教会に通うようになり、歌の道を志すようになります。ずっと父親を恨んでいましたが、歌の勉強をしている中で、「君の声は日本人離れしたラテン的な響きがある。神様からのプレゼント。お父さんに感謝だね」と言われ、ずっと憎んでいた父親の血が、自分を歌手として立たせてくれる大きなプレゼントになったのだ、父を許す気持ちになったのでした。光さんも負けず嫌いな性格はどう考えてもお父さん譲り。ともに外国人を父に持つ身として共感せずにはおれなかったのです。それよりなにより、新垣さんの歌声は本当に心の奥底に響いて、「私も新垣さんのコンサートを主催したい!」とコンサートなど企画したこともなかった素人が、800人入るラポールのひびきホールに9月に予約を入れてしまったのでした。いったい何人来てくれるのかもわからないコンサートの3日前、新垣さんのコンサート開催の記事が、地元紙のコラムに載りました。そこからは問い合わせの電話がひっきりなしにあり、なんと当日、ホールがいっぱいのお客さんで埋まったのです。そこからずっと、光さんはコンサートの主催をやり続けているのでした。
 
 2008年には盲目のバイオリニスト穴澤雄介さんに出会います。最初はやはりコンサートを聞きにいったのがきっかけでした。穴澤さんの曲の中に、「あの木によりかかって」というお父さんのことを想って書かれた曲がありました。G線上のアリアと同じように、G線だけを使って書かれたその曲を聴いた時、光さんは涙があふれて止まらなくなりました。ちょうどその前年にお父さんを亡くしていた光さんは、その曲を聴いてお父さんへの想いが溢れ出したのです。泣いて泣いて泣き尽くして、なんだか浄化された気分になりました。
 そこから、穴澤さんのおっかけを始めて、なんとファンクラブの会長になってしまったのです。また、当時、穴澤さんはホームページを持っていませんでした。もうこれはパソコンに強い光さんの出番です。ホームページを作りましょうか、と提案し、富山のファンの集いの時にホームページのお披露目をしたのです。そうして2008年から12年間ずっと、穴澤雄介さんのホームページ作りに携わり続けているのでした。

 2012年にはマラソンにも挑戦を始めました。42.195qを2qずつタスキをつないでいく「いっちゃんリレーマラソン」に出場したのです。全く走ったことなどなかったのですが、「出る?」と言われたら、「いいよ」と答えてしまうのが光さん。こうして18人の仲間を集め、PCTOOLのTシャツも手作りして臨んだマラソン当日。リレーゾーンからはだんだん人が消えていき、PCTOOLチームはとうとう最後に残った1チームになってしまいました。でも、最後のランナーを迎えてみんなで抱き合って泣いている様子がテレビにも大写しになり、とても思い出深いリレーマラソンになったのです。
 その後もマラソンの挑戦は続きます。仲間の松岡さんという60歳の方が射水海王丸マラソンの10qコースに出る!と言われ、じゃあ、私も出来るはず、と10qに挑戦。すると、なんと松岡さん、富山マラソンにも出る、と言い出した。そして、そこはやっぱり負けず嫌いの光さん。2013年には10q、2014年にはハーフマラソン、そして2015年にはとうとうフルマラソンに挑戦したのです。フルマラソンを走った年は、なんと5月にひどい捻挫もしました。講座もスカイプで開講しているくらいでした。でも、2ヶ月半走るのを我慢して、11月1日の本番までにハーフマラソンを、そして当日、なんとフルマラソンを完走したのです。ゴールする時に泣いちゃうかなと思っていましたが、いろいろなことを思い出して1q前にポロポロ泣いたので、ゴールする時は思ったよりすっきりした顔でゴールできたのでした。次の日は歩けないかなぁと思ったけれど、ちゃんと歩けたので、おお私まだまだやれるじゃん、と思ってしまった光さん。というわけで、今も走り続けています。

 仕事でもよく使うデジカメの写真をきれいに撮りたいと思っていた時には、滝をスローシャッターできれいに撮ることにはまり、そこから滝にはまり、滝の近くのおいしいお店を見つけて、滝を見て写真を撮っておいしいものを食べて帰るという滝ツアーも月1で開催していました。

 そんな光さんのチャレンジは進行形で続いています。出町小学校の校長先生から光さんがファンクラブ会長を務める盲目のバイオリニスト穴澤雄介さんをコンサートに呼びたいとおっしゃった時、ちょうど散居村マラソンが開催されることを知った光さん。穴澤さんにマラソンに挑戦してもらいたい、穴澤さんはきっとやるにちがいない、そう思って、マラソンの伴走を申し出たのです。そうして穴澤さんは散居村マラソンの10qマラソンを走ることを決め、光さんたちは4人体制で伴走することに。東京へ行ったときに、伴走の練習をし、その時にストッキングでしばったら一番しっくりくることを感じたり、まさに手探りでの伴走マラソンでした。そうして穴澤さんは伴走者と共に見事10q完走!穴澤さんの走りたい意欲はヒートアップして、次は20qのハーフマラソン、次の年はフルマラソンを6時間で完走されたのです!自分だけじゃなくて、周囲の人のモチベーションもアップさせるのがお得意なのです。

 光さんは断食道場にも参加したり、皇居の勤労奉仕にも参加しています。皇居の勤労奉仕では団長になって、天皇陛下から直々にお言葉を賜りました。ありがたいことに、皇后陛下からもお言葉を賜ったそうです。そして万歳三唱の発声をしたのも光さん。そうやって、得難い体験を次から次へと成していくのでした。
 
楽しくなければ、PCTOOLじゃない!それが光さんのモットーにもなっています。外から見ている景色と中に入って見える景色はちがう。だから行きつくところまでいきたい。そうするといろんな気づきが生まれます。やったことがないことをやりたい、そしてみんなと楽しくやりたい、だから光さんはいつもキラキラしています。

 これからは独自の活動にも力を入れていきたいと考えています。若い人が一歩を踏み出したい時に、背中をポンと押してあげたい。リアルでもオンラインでもノウハウはあるので、そんなサポートをしていけたらなと思っています。

 もちろん社会貢献活動もずっとしていきたい。今まで自分がやりたいことにいろいろな人を巻き込んでやってきたから、これからは、誰かのきっかけを作るサポートに力を入れていきたいのです。

 きっとこれからも、多方面でいろんな仕掛けをしていくにちがいない光さん。興味がある人は、ぜひ一度光さんの講座の門を叩いてみてください。とても楽しい世界がそこには広がっています。
今日の人198.柳原 修さん [2020年09月19日(Sat)]
 今日の人は、人と未来をつなぐ仕事のプロモーター、傳楽denraku代表の柳原修さんです。
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 柳原さんは1957年1月1日に富山市丸の内で生まれました。お父さんは丸の内で建具屋を営み、お母さんは高岡伏木で美容院を営んでいました。それで、幼い頃はお母さんと一緒に伏木の六渡寺に住んでいたのです。当時、その地域は大気汚染がひどく、柳原さんも喘息になってしまいます。お母さんは息子の体を慮って六渡寺の美容院を引き払い、丸の内で美容院を開店させました。やがて喘息も治り、お父さんの建具屋もお母さんも美容院も繁盛していたので、何ひとつ不自由のない少年時代を過ごしました。
 小学校は今はなき総曲輪小学校へ。街の子なので、商店街も庭のようなものでした。街中や学校のグラウンドを走り回っていました。小さい頃からリーダーシップがあって、自然にガキ大将になっていました。というよりガキ大将の集まりのような学年で、どの子も元気で活発でした。今でも同窓会を開くとみんなが集まって賑やかなのですが、60歳の記念同窓会の時に開けたタイムカプセルから昔の文集が出てきました。そこには「ぼくは自動車レーサーになりたい、すばらしい生活をしたい」と書いてありました。子どもの頃からとにかく車が大好きで、本屋に行くと手に取るのは車の本ばかりでした。文集の結びの文は「絶対できるとぼくは自分自身を信じたいと思います」でした。そして実際にそれを実現させた柳原さんなのです。
芝園中学校では陸上部とバトミントン部₊補欠選手に入りました。部活は一生懸命やっていたわけではないのですが、バトミントン部の推薦で不二越工業高校へ進学しました。
 しかし15歳のときに、お母さんが他界。いろいろな物事を斜めに見るようになり、グレ始めました。それでなくても当時の不二越工業高校は男子校でツワモノ揃い。そして特に柳原さんの学年は元気な人が多く、上級生と戦っても1年生が勝つということが続きました。他校と格闘してももちろん柳原さんたちが勝ちました。そして暴力事件沙汰で新聞報道されてしまい、その年はありとあらゆる学校行事が中止になってしまいました。でも、学校行事はなくとも、退屈とは無縁の高校生活でした。お母さんの代わりにいろいろ世話を焼いてくれたのは叔母さんでしたが、叔母さんにしろお父さんにしろ、ケンカ沙汰で怒るようなことはありませんでした。男はケンカの一つや二つ当たり前だろうという肝の太い考え方だったのです。それにしてもケンカはしょっちゅうだったし、走り屋のリーダーをしたりもしていたので、警察には完全に目をつけられていました。取調室のお世話になったことも何回もあります。少年院送りの一歩手前だったと言っても過言ではありません。でも、窃盗の類は決してやりませんでした。バイクの免許代やガソリン代、自分の遊ぶお金を稼ぐのに、早朝から豆腐屋でアルバイトをしてお父さんの建具屋でもバイトをしていました。学校は寝に行くところでした。そんな柳原さんですが、生徒会の副会長に推されてなりました。けれど、やはり相変わらずケンカで直ぐに退任の道に。
人を殴ったら自分の拳も痛い、体の痛みは感じていましたが、高校生の頃は心の痛みは感じませんでした。その時はグレーゾーンにいたかった。その中でもトップになりたかった。ただ、そのグレーゾーンも何十人、何百人も集まると、リーダーがいないとまとまらない。そうとは意識しないままにリーダー術を身につけていった柳原さんなのです。そして、グレーゾーンの高校生はかろうじてブラックにならずに高校を卒業しました。
 高校卒業後、知り合いの自動車工場に就職します。何しろ車が大好きな柳原さん。車をいじるために自動車工場に入ったようなものでした。独学で学んでいたので、エンジンをばらした時にボルトが一つ余ったりすることもありましたが、それでも徐々に技術を身につけていきました。さぁ、そうなると走り屋の血がうずきだします。富山城前から流葉スキー場までどのくらいで行けるかを計るのにぶっ飛ばしたりもしました。パトカーに追いかけられても逃げられるようにナンバー灯を消すスイッチを自作したりもしました。そうは言っても、何度も捕まって罰金を取られるのでそんなことで罰金を払うのがもったいなくなってきました。そんな時に、ヤンキーのたむろになっていた喫茶店に来ていたレーサーになった先輩がいて、「お前そんなに走るのが好きならサーキットに連れて行ってやっちゃ」と鈴鹿サーキットに連れて行ってくれたのです。鈴鹿サーキットを見た途端、体に電気が走りました。「これだ!」と思いました。そしてレースカーを作るためにメカニックの腕も磨いて、ドライバー兼メカニックとして、鈴鹿サーキットや新潟の日本海間瀬サーキットに参加するようになりました。ある時、サーキットに友達が女性を連れてきました。彼女は無造作においてあった柳原さんの服をハンガーにかけて吊るしていました。サーキットが終わってレーシングスーツを脱いでおいておくと、今度はそのレーシングスーツがハンガーにかけてあるのです。そんな気遣いのできる女性は初めてでした。そして上着の襟が立っているのを直してくれた時に思ったのです。「結婚するならこいつだ!」と。そして、その彼女と24歳の時に結婚しました。しかしスポンサーもいない中でサーキットにしょっちゅう出ていては、とてもお金が続きません。もっとお金を貯めようと考え、ダートトライアルのドライバーを始めました。柳原さんはこのダートトライアルの成績がとてもよかった!タイヤメーカーもスポンサーにつき、全日本にまで進みました。どうやったら車が早く走れるかの構造もわかっているので全日本の仲間の車を富山の町工場で作ってあげたりもしました。25歳と29歳のときには女の子も生まれました。子どもが生まれてもラリーはずっと続けていました。そんな31歳のとき、ある競技会で走っていて20〜30mダイブしてしまったことがありました。そこまで飛んでしまったので柳原さんは鞭打ちで入院してしまいます。その時、奥さんや娘さんたちに言われました。「パパ、お願いだからもう現役をやめて」
この家族の言葉は無視できませんでした。そして、走る側から主催者側に、モータースポーツをオーガナイズする側に転身して、レーサーを育てる方に回ったのです。

 そんな頃、ブリヂストン富山販売(当時は北信産業)の社長だった稲田一朗さんから口説き落とされ、入社を決断。この稲田さんとの出会いが柳原さんの人生にとって本当に大きな出会いとなりました。稲田さんはとにかくなんでも自由にやらせてくれました。「やってみればいいじゃん。失敗したらやめればいいでしょ」と言ってくれたおかげで、柳原さんの行動力や企画力は輪をかけてグングン磨かれて行ったのです。日本人のメカニックが少なくなって来た時期で、フィリピンからメカニックを連れてくるのに、何度もフィリピンにも行きました。部品もろくに揃っていない中で作業をしているフィリピンのメカニックの器用さにびっくりした柳原さん。世界はやはり実際にこの目で見てみるものだ、と実感します。世はちょうどバブルの頃でF1も大変人気がありました。そこで、1991年から93年にかけてテクノホールで北陸版オートサロンの企画運営をし、中嶋悟をゲストに呼んでサロンショーを開くなど、大いに盛り上がるイベントを仕掛けたのです。
 新しい仕掛けはどんどん生まれます。F1にベネトンが参入したことで、ベネトンフォーミュラ1のアパレルをやろう、と、なんとアパレル業界にも進出。ベネトン本社にも行って打ち合わせをし、服屋さんにまでなってしまった柳原さんなのでした。しかし、幼い頃からお母さんや叔母さんたちが美容院をし、街中で育った柳原さんにはお洒落のセンスも備わっていました。人生の全ては何かにつながっているけれど、その縁をちゃんと生かせるかどうかは、その人次第なのかもしれません。柳原さんはその一つ一つの縁を大事にしてきた人なのです。
 稲田さんはラジャスタンというカレー屋も経営していました。今でこそ本場のカレー屋はあちこちにありますが、当時はインド人やスリランカ人が働いているお店は少なかったのです。ここで多くの外国の人と日本人の違いを感じました。多様な価値観があっていいと実感したのです。

 
 月刊タウン情報とやまに新車の試乗コラムを書いてくれと言われ、10年間連載しました。試乗した車の数は154台に上ります。パリダカールラリーにも参加する予定にしていましたが、テロが活発になって中止になって断念せざるを得ない憂き目にもあったりしましたが、とにかくなんにでも挑戦。Try&Error で失敗したりできなかったりしたことをくよくよしたりすることはしませんでした。むしろError は次につなげる大きなステップでしかないのです。

 小売のタイヤ販売もやってほしいと言われタイヤ館も作ります。インテックと協力してシステム作りから全てやりました。卸しでタイヤを売っている時と違い、小売になるとお客さんはその店で買うか買わないか、店に入った数秒が勝負になります。その数秒の間にお客さんの心をキャッチするにはどうしたらいいのか、いろいろな「どうしたら?」を真剣に考える時間はものすごく楽しかった。経営の勉強もとことんしましたし、人の使い方、経理の大切さ、そういうものを深く学べたのはこの小売の経験が教えてくれたと言っても過言ではありません。
 どうやったら人は動いてくれるのか、毎朝毎夕気づきがありました。課題を一つ一つ潰していくと、選んでもらえる会社、選んでもらえる売り子になれるのです。従業員たちには言っていました。「独立したかったらしてもいい、でもうまくいかなかったら戻ってきてもいい。お前の場所は残しておくから」そんな風に上司に言われたら、この人には絶対についていこう、と思っちゃいますよね。
 ただ、仕事が楽しすぎて休みなんてなくてもいいと思っていた柳原さんは部下にも同じことを求めて、それで離れてしまったり嘘をつかれたりしたこともありました。なんで嘘をつくんだと、その時は部下を責めましたが、自分が部下を追い込んでいたんだとハッとしたのです。この小売の経験が柳原さんに更なる人脈、人望をもたらしてくれました。
柳原さんはとにかく富山県中の面白い人、素敵な人とつながっています。そんな人たちにいつも言います。「俺の面倒を見たら面白いよ。面倒みない?」そうして意気投合して飲みに行ったりすることもしょっちゅう。もっとも、柳原さん自身はあまりお酒は強くはありません。でも、それが逆に良かったのかもしれませんね。お酒に強かったらきっと話し込んで朝まで飲んじゃうタイプだと思うので。
 こうして2005年にはブリヂストンタイヤ富山販売の取締役 販売本部長に、2009年には代表取締役専務に、そして翌2010年には代表取締役社長に就任しました。
 富山をもっともっと元気にしていこうと2013年には「アザーッス」という異業種交流会も発足させました。たくさんの会員が集まり出会いが出会いを呼び、素晴らしいキャッチボールが生まれ始めました。会員数はいっときは200人を超えるくらいになりましたが、今は130人くらいで落ち着いています。いつまでも柳原さんが引っ張っていくべきじゃないと考え、マンネリも打破したかったので、今は若い子に任せて、相談役に徹している柳原さんなのでした。

 会社の方も自分が60歳、会社創立70周年の時に会社から身を引こうと考えていました。社長に就任してからの8年間は後進を育てることに力を尽くし、会社創立70周年の2018年に実際にスパッと退任しました。残ると口を出してしまうから、と一切の手を引いたのです。男は引き際をカッコよく、それが柳原さんの男の美学です。
 社長を退任してすぐに数社からオファーがありました。その中で特に強く来てくださいと何度も懇願された小川博司さんの株式会社オリバーに取締役で入るつもりでいました。しかし、そんな時に、株式会社ガネーシャの本田大輝さんから、「一緒に楽しい事をやりませんか」と口説かれ、柳原さんはガネーシャで顧問をすることを引き受けたのです。今、オリバーでも顧問をしていて、両社ともぐんぐん業績を伸ばしています。
 傳楽という人と未来をつなぐ仕事のプロモーターもスタートさせています。人との縁を大事にしてきた柳原さんの周りにはとにかく熱くて素敵で変で面白い人たちがたくさん。そんな人たちをマッチングさせて富山にどんどん元気に楽しくいきたいと、考えています。口説き文句の一つは「俺にお前の力を貸してくれ」柳原さんにそう言われたらきっと誰だって何かしたいって思っちゃいますね。
 
 柳原さんは本を読んで、会いたいと思った著者にはどんどん連絡して実際に会ってナンパしてきます。知り合いに「新幹線の移動の時間だけ話をする時間をください」と頼んでどんどん会いたい人に会って人脈を広げている人がいますが、柳原さんの行動力を見るにつけ、やはりちゃんと自分から動く、そして動くだけじゃなくて、その後をどうするかが大切だと思わずにはいられないのでした。
 
 こんな風にたくさんの人に出会い続けている柳原さんですが、特に大きな出会いと感じているのは4人の方との出会いです。お一人はもちろん、ブリヂストン富山販売で様々な挑戦をさせてくれた稲田一朗さん。そして、宇宙人みたいにぶっ飛んだ太閤産業の八木さん、同じく宇宙人みたいな翔建工業の笹島さん、もうお一人はアルカスコーポレーションの岩崎弥一さん。岩崎さんとは57歳の時に出会いましたが、それからはすっかり意気投合し、お互いに読んだ本を紹介し合うなど常にやり取りしています。岩崎さんは私もお世話になっているのでなんだか嬉しい繋がりです。岩崎さんのインタビュー記事はこちら
https://blog.canpan.info/diversityt/archive/169

 仕事を辞めた後は、もっと元気が出てきて、どんどんいいアイディアが出てくると柳原さん。できる力を持っているのにできない人の背中を押して羽ばたかせてあげたいといつも動き続けています。男塾という若手男性経営者のための塾も始めました。あるセミナーで講話した時に、個人的に会ってくださいという若手経営者が数名いて、それならばと男塾を始めたのです。みんなが問題と思っていることは問題じゃない、それは課題なんだ。課題を一つ一つクリアしていくと、みんなあっという間に伸びていきます。ちゃんとやれるんだから待つな、自分から進んで前に出ろ、柳原さんの一押しで伸びていく若手経営者はこれからもっともっと増えていくでしょう。

 柳原さんは63歳とは思えないくらい、身体作りもしっかりされています。ゴルフのやり過ぎで半月板を取った後はスポーツサイクリングもやり始めました。すると自転車の楽しさに目覚め、自転車での街おこし企画を上市町で仕掛けました。競輪選手との自転車イベントも始め、富山競輪にくる選手たちとはみんな仲良しです。半月板を取るという一見マイナスに思えることもプラスにしかしない。後ろ向きになるな、常に元気で笑顔でいた方が楽しいよね、問題って言ったらダメだよ、問題って言ったら重くなる、問題じゃなくて課題なんだよ。柳原さんと話していると、私もいろいろできそうな気がしてくるから不思議です。いや、決して不思議ではないんでしょうね。実際にそうやって背中を押されて前に進んでいる人たちは本当にたくさんいるのです。
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颯爽と

 今、顧問をしているオリバーさんやガネーシャさん社員さん達ともディスカッションしている柳原さん。社員さん達の話には決して拒否をせずにちゃんと聞き、でも、こういう考えもあるよね、とちょっとヒントを出してあげる。とにかく気遣いの人なのです。だから社員はみんな笑顔になって頑張れるのでしょう。
 男塾の塾生たちにも無償で様々にアドバイスをしている柳原さん。塾生たちにはこう言っています。
「お前ら香典が少なかったら化けて出てやるw」 まだまだずっと先の話でしょうけど、なんだかとんでもない額の香典が集まるお葬式になりそうですね。

 柳原さんは言います。「本当のリーダーとは人の上に立つ勝者ではなく人の役に立つ勇者である」それはまさしくご自身が実践されてきた道に他なりません。
 これからの経営者の皆さんに特に言いたいのは、「定年を迎えてから、その人が一線で働いていた時の人脈・人望が浮かび上がってくる。今からでも遅くないので、一日でも早く『与えられる人』から『与える人』になって、その人達を引き上げステージに上がってもらい、羽ばたいてもらえるように導く。」ということです。そして「所詮、1人では何もできないのだから素直に助けてと言える人に」それが柳原さんからのエールです。

「俺、失敗しないから」と日焼けした顔でニッコリ笑う顔は人生を楽しむ達人の顔。人生を楽しむ達人、そして仕掛けの達人の柳原さんがこれから富山でどんな仕掛けをして、どんなイノベーションが生まれてくるのか、ますます楽しみになってきた今回のインタビューでした。



今日の人197.中川博司さん [2020年09月10日(Thu)]
 今日の人は児童発達支援・放課後等デイサービス「ミックスベリー」管理者の中川博司さんです。
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ミックスベリーは富山市平岡に昨年10月に開所した障害がある子ども向けの放課後等デイサービスです。4500uの広い敷地には築150年の古民家「いいとも広場」や広い畑もあり、利用者だけでなく、地域の人たちとも交流できる場になっています。
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いいとも広場
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いいとも畑

 中川さんは昭和46年3月に福岡町で生まれました。家の周りは田んぼだらけだったので、小川で魚をとったり野良猫を追いかけたり仮面ライダーごっこをしたり、とにかく外遊びばかりしていました。中川さんが子どもの頃はまだゲームと言えばウオッチマンくらいだったのです。家族はみんなヤクルトファンで、中川さんも杉浦亨選手の大ファンでした。ヤクルトが優勝した時は家族でヤクルトで乾杯したものです。
その頃、笑っていいともや俺たちひょうきん族などフジテレビの番組がテレビ界を席捲していました。テレビからスタッフの人たちの笑い声が聞こえてきて、とても新鮮な感じがしました。「楽しくなければテレビじゃない」というキャッチフレーズも心に響いて、中川さんは大人になったらフジテレビのカメラマンになりたいという夢を持ちました。

 中学校ではブラスバンド部に入ります。最初はサッカー部に仮入部したのですが、中学入学当時は142cmだった中川さんはサッカー部で3年過ごしても活躍できる余地は少ないなと感じたのでした。小学生の時から縦笛が得意で音楽の先生にも一目置かれていたので、ブラスバンド部の方が自分を生かせると感じたのですね。選んだ楽器はユーフォニアムでした。ユーフォニアムはいろいろなメロディが吹けてソロ部分もあってとてもやりがいのある楽器だったのです。
中学校で身長が30pも背が伸びた中川さんは女の子にも結構人気があったようです。部活の仲間や学級委員の仲間と一緒に誕生日パーティをしたり、川遊びをしたり、とても楽しい中学生時代を過ごしました。

 高校は地元の福岡高校へ。開校間もない入学当時は吹奏楽部がなかったので部活には入らず、勉強中心の生活になりました。理系だった中川さんが好きだった教科は数学と物理です。といっても、ずっと勉強ばかりしていたわけではありません。友達と高岡に出て遊んだり、青春18きっぷを使って京都に遊びに行ったりもしていました。

 そして富山大学工学部電子情報工学科へ入学。大学では1年生の時から車に乗り、オーケストラ部に入ってクラリネットにものめり込みました。大学時代はとにかくクラリネットと車とそしてバイトに明け暮れていました。バイトはいろいろやりました。レストランや居酒屋、結婚式場、イベント会場等、中でもいちばん長かったのはテレビ局のアルバイトです。記者とカメラマンの補助をしていたのですが、普段入れないところにも入れて、とても刺激的でした。でも、同時に思いました。やはりテレビ局のカメラマンというのは難しい仕事で、おいそれと目指せるものではないと。

 大学の4年間はとても楽しく、クラリネットに没頭したことで一つのことを極める楽しさも知りました。当時工学部の学生には一人当たりに20社ほどの求人がありましたが、中川さんはどんな生き方をしていくべきか悩んでいました。テレビ局のカメラマンはあきらめていましたが、このまま企業に就職するのはどうなんだろう、もっと自分の視野を広められることはないか、そう思っていた時に見つけたのが青年海外協力隊員だったのです。これだ!と思った中川さんは青年海外協力隊に応募し見事に合格。こうして研修期間を経て、青年海外協力隊員としてインドネシアに派遣されることになったのです。インドネシアでの派遣先は肢体不自由者リハビリセンターでした。ここで初めて福祉の世界と出会った中川さん。インドネシアで出会った障害を持った貧しい生徒たちの笑顔と元気さが中川さんが福祉に携わる原風景です。

 インドネシアに行く前はインドネシアに行ったら精神疾患になる人が多いから気をつけてと言われたけれど、中川さんはとても充実した2年間を過ごすことが出来ました。協力隊に行く前に言われたのは、理想を高く持ち過ぎていくとしんどくなるから、自分のできることをやるというスタンスで行けということでした。実際、大学を出たばかりの中川さんは現地で教えることより教えられることの方が多いと感じた2年間でした。

 こうして協力隊を終えて帰ってきた中川さんはこの先も福祉の世界で生きていこうと心を決めていました。
そして就職先に選んだのは、立ち上がって2年目の障害者支援施設いみず苑でした。それまでの障害者支援施設はコロニー型で人里離れたところにあることが多かったのですが、いみず苑は県内で初めて平野部にできた障害者支援施設だったのです。若い職員がとても多くてみんなが施設をよくしようと意気込んでいました。その時掲げられていたのは「ノーロックで利用者主体」というとてもわかりやすいスタンスでした。そこに向かってみんなが一つになれたのです。やがて、さまざまな仕事を任されていく中で、地域支援も担当します。地域生活体験ホームも作りましたが、施設自体が壁になって、その壁を乗り越えるのが大変だと痛感しました。施設からではなく、地域から変えていかないといけない、その時そう痛感したのです。そんな時に出会ったのが惣万佳代子さんが創設された富山型デイサービスの「このゆびとーまれ」でした。
「お年寄りはお年寄りの施設」「障がい者は障がい者の施設」と仕切りを作るのではなく、おじいちゃんも、
おばあちゃんも、こどもたちも、赤ちゃんも、障がいがあってもなくても、いろんな人たちが一緒に楽しく過ごす・・・そんな福祉サービスが「富山型デイサービス」です。(このゆびとーまれのホームページより)
 地域を知ろうと地元の特養ホームで1年働いたあと、このゆびとーまれで13年半働いた中川さん。
できることもできないこともあっていい、お互いがお互いを補って現場を作り上げる心地よさが共生型福祉にはありました。一方で高齢者福祉の現場では、例えば転倒のリスクを減らすために、床に一滴の水も落とすな等、専門性を突き詰めることもあり、職員の心理的負担は多い。それは取りも直さず利用者のストレスにも直結するのです。障害福祉の現場にも同様の話は意外と多い。じゃあ、福祉って何だろう?中川さんは考えました。例えば、よそ見をして食事が進まない子に、職員が自立を促す声掛けをする。そんな姿をよそに、一緒に生活しているおじいちゃん、おばあちゃんは、優しい声をかけて食べさせてくれたりする。いろんな愛情を受けることで人の生活は豊かになる。それは床に水一滴すら落とすな、という現場では体感できない感覚です。利用者だけでなく、福祉に携わる人が福祉って楽しいという心の余裕がないところでどうやっていい福祉ができるのでしょう。強みも弱みもお互いに補える環境でチャレンジしていきたい、そしていつまでも惣万さんたち富山型の先駆者に頼っているのではなく、自分たちでチャレンジしていきたい、それが惣万さんたちに対しての恩返しにもなる。そんな中川さんの熱い思いが素敵な場所と素敵な人との出会いを引き寄せ、今の場所で放課後等デイサービスミックスベリーを開所する運びになったのです。

 昨年の10月に開所して来月で1年を迎えるミックスベリー。スタッフと忌憚なく話し合える関係もとても心地よく、みんなそれぞれ好きなことをやれていると感じています。今まで好きな生き方をしてきたから、自分の子どもたちを含めて次世代のために何かしていきたい。惣万さんたち大先輩が築いてきた大事な共生型福祉を次世代へちゃんとバトンをつないでいけるように。自分に与えられた使命のようなものがあって、残りの人生でやらなくてはいけないと思っています。でも、それは肩に力を入れてやるのではなく、自分もスタッフもそして利用者もみんなのQOLを大切にしながらやっていきたいと思っています。

 そんな中川さんが今、楽しいことは1400坪ある敷地の中にみんなが遊べる空間を作ったり、DIYでいろいろなものを手作りしたりすること。ワクワクな空間がどんどん増えています。
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中川さん手作りのバスケットゴールやBBQ台が置かれています

 いつか時間ができたら、かつて青年海外協力隊で2年を過ごしたインドネシアにいって、のんびりしてみたい。奥さまと一緒に家でビールを飲みながら、ゆっくりそんな話をする時間も大切にしています。

中川さんたちの活躍で、富山の共生型福祉はこれからもっともっとワクワクする場になっていくことを予感させる、そんなインタビューでした。
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明るくて開放的な雰囲気のミックスベリー
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今日の人196.米山勝規さん [2020年08月24日(Mon)]
 今日の人は人と住まいを結ぶ不動産屋株式会社リボン代表取締役の米山勝規さんです。
リボンの名前には御縁結びのribbonと生まれ変わりのrebornの意味が込められています。
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会社の前で

 米山さんは1984年7月1日に砺波市で生まれました。3人兄弟の末っ子で、家は4世代同居の大家族だったので、みんなから大事にされて育ちました。小さい時はおとなしくて甘えん坊で、ドラクエやファイナルファンタジー等のゲームをするのが大好きな子でした。ドラクエの中のキャラクターに影響されてか、おばあちゃんに将来の夢を聞かれた時は「遊び人」と答えていたものです。
 小学校5年生の時に、スノボに出会いめちゃめちゃハマりました。お年玉がなくなるまでひたすらスキー場に滑りに行っていました。もっとも、今から考えると文句も言わずに南砺市のたいらスキー場まで送迎してくれていたお母さんには本当に感謝です。
 中学ではソフトテニス部へ入ります。相変わらずゲームも好きで、部活とゲームで日々が過ぎていく感じでした。中2の時に、ロサンゼルスで2週間ホームステイをしたのですが、あまり感情を表に出すタイプではなかったので、「思っていることをちゃんと言葉にしないと伝わらないよ」と言われとてもショックでした。でも、そうやって文化の違いを肌で感じられたのは得難い体験でした。
お母さんの勧めで小説も読み始めました。課題図書じゃないものを読むのはそれが始めてでした。それからホラー系の小説を読むのが好きになりました。
 高校は地元の進学校砺波高校でやはりソフトテニス部でした。多感な時代、女の子にちょっと変わった振られ方をして、そこから女性恐怖症になってしまいます。純粋な高校1年生はその後、グレてうっかり勉強に打ち込んでしまい、現役で早稲田の理工学部に合格しました。

 大学では硬式テニスサークルに入りました。夏はテニス、冬はスノボとまるで絵に描いたような大学生活を送っていたのです。女性恐怖症を克服しようとしていましたが、その頃はすごくやきもち焼きだったので、まだそれを払拭できていなかったようでした。
電気系の学科だったので、地元の電力会社に就職したいと思いましたが、就職が決まらなかったので、大学院へと進学します。都庁へ勤めた先輩の話を聞いて、それまで考えたこともなかったけれど、公務員の道もいいなぁと考え始めました。電力会社に就職したいと思ったのもコンセントに電気が常に来ている状況ってめちゃめちゃすごいことで、そんな公共性のある仕事に関わりたいと思っていたからです。その意味でいうと公務員は公共性のある仕事No.1なので公務員もいいなと思ったのでした。そこで、マスター1年の時に、国家公務員の試験を受け、厚労省に採用が決まりました。1年目はあまり上司に恵まれなかったのですが、2年目は仕事の基本をきっちり教えてくれる上司に出会いました。この時に、怒ると叱るの違いを感じて、自分は決して怒る上司にはなるまいと決めました。
ただ、公務員の世界はやはり縦割りがひどく、なかなか他部署の人の話を聞く機会がありませんでした。バーで知り合った人と飲んでいて世界が広がるのを感じた米山さんは、中央省庁横断飲み会を企画します。2〜3ヶ月に1回開催し、1年半で11省庁70人にまで参加者が増えました。そう、米山さんは自分も飲み会が大好きなので、飲み会を企画するのがすごく得意なのです。この頃は、女性恐怖症も克服されて、極端なやきもち焼きも治っていました。厚労省の中では若手飲み会に誘われ、そこで出会ったのが1歳年下の奥さまになる人でした。東京で出会った彼女はなんと富山市出身の人でした。
3年目の異動ではまたそりの合わない上司になりました。でも、自己啓発の勉強会で出会った人に自分がご機嫌でいると上司との関係も良くなる。相手じゃなくて全ては自分と言われ、それを実践すると確かに上司との関係は良くなりました。ただ、公務員の仕事自体には興味が持てなくなっていました。その思いに拍車をかけたのは2011年3月11日に起きた東日本大震災でした。実はその翌日の3月12日から米山さんは奥さんと一緒に住むつもりにしていました。その前日に襲った地震。幸い住んでいるところはそこまで大きな被害はありませんでしたが、米山さんは思います。ずっとここで仕事をしていたらきっと後悔する。

 そして様々なことにチャレンジをしはじめ、経営者になるためにいろいろ試行錯誤してきました。けれど、いろいろなことが全然うまくいかず、体に無理がたたったのか金属アレルギーなって左半身全体に蕁麻疹が広がりました。経営者のお父さんからは毎月50万円しっかり稼げるのなら続けたらいい。でも、それさえ稼げないようならやめておけ、と言われました。しかしその頃の米山さんは遅くやってきた反抗期の絶頂期でなかなかお父さんの言うことを素直に聞けませんでした。無理に無理を重ねて体も心もボロボロでした。でも、お母さんからの「富山へ帰ってきてください」との手紙で心が溶けました。ああ、富山へ帰ってやり直そう。

 こうして富山に戻った米山さんは2014年の7月にエコフィールへ入社。それは人生の師匠であるお父さんが紹介してくれた不動産会社でした。そしてエコフィールの社長は今も仕事の師匠と言える人です。その社長についていきながら体で仕事を覚えていきました。

 社長のもとで修行を重ね、2016年12月に独立。不動産会社リボンを立ち上げました。今、事務所がある場所は、奇しくもお父さんの会社ワイケイホームが始まった場所なのです。そんな場所で自分も仕事を始めることができたのはとてもラッキーなことでした。
 お父さんのアドバイスもあって売り上げの目処が立たない状況からパート社員を入れていました。自分の給料はゼロの状態が続き、コンビニに入って就職情報誌でバイトの欄を見たりしていましたが、寝る時間を削ってバイトしたりしたら仕事のクオリティが絶対に下がってしまう。そんなことをしては絶対にダメだ、と自分に喝を入れました。
売り上げのない時に「チラシを出したらどうだ」と言われ、出費が痛いのも事実でしたが、チラシを出していたらそのうち売り上げがついてきました。
 また、倫理法人会で経営者の倫理に出会ったのがとても大きな出来事でした。一流の経営者仲間が多くできたのも大きいし、モーニングセミナーはダイレクトに人生に影響を与えてくれていると感じています。苦難福門であったり、子は親の鏡であったり、得るは捨つるにありであったり、学びのひとつひとつがとても響いてくるのです。
 そしてそれらを実践していくことで、次第にリボンの経営も安定してきました。今年は初めてのアパート経営にも取り組んでいます。何と畑付きのアパートです。
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完成間近の米山さん経営の畑つきメゾネットタイプのアパート

他にも空き家管理もとても重要な仕事です。今、空き家はどこでも問題になっていますが、使えるものはちゃんと使い、本当にボロボロな家だけ解体して土地を利用する。そんな風に土地も家も人も適材適所で生かしていきたい、そう思っています。今、コロナでますます田舎で住むことの大切さが言われていますが、都会からの移住も促進していきたいし、移住してきた人が働けるように雇用もサポートしていきたい。そんな風に夢はどんどん広がっています。

 公務員時代からずっと米山さんを支えてくれた奥さまとの間には今、4歳と1歳の可愛い娘さんがいます。その子たちと遊ぶ時間が何よりリラックスできる時間です。そして、米山さんには夫婦円満の秘訣があります。それは奥さまを褒め続けること♪米山さんのSNSを見るといつだって、奥さまに最高の褒め言葉を贈っていらっしゃいます。私たち世代の平均的日本人男子は、奥さんのことはまぁ褒めない!(うちの旦那を筆頭にw)ので、隔世の感があるのでした。
 
 テニスもまた再開しました。米山さんは常に新しいことにチャレンジするのが好きなので、今両利きを目指してトレーニングしています。富山マラソンでフルマラソンを走ったり、司法書士試験を受けたり、アパート経営を始めたり、何かしら毎年新しいことにチャレンジしています。
そして、経営者仲間と家族ぐるみでバーベキューをしたり、飲み会をしたり、やはりいろいろ企画するのが大好きな米山さんなのでした。
 まだ36歳になったばかりの若手経営者はこれからどんなことに挑んでいくのでしょう。きっとこれからの富山をもっともっとワクワクする場所にしていってくれるに違いありません。
今日の人195.池田 薫さん [2020年08月11日(Tue)]
今日の人は養蜂家であり、はちみつやhttps://hachimituya.jp/の池田薫さんです。
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 薫さんは1964年、東京オリンピックの年に大沢野町で生まれました。大沢野は自然に囲まれたところです。小さい頃は友だちと秘密基地を作るなどしてよく外で遊んでいました。けれど、活発というよりはおとなしい子でした。家は祖父母もいる7人家族で、テレビのチャンネルの主導権はおじいちゃんが握っていましたから、芸能界の話題には全くついていけませんでした。
 小学校高学年の時は、お琴やお茶も習っていました。何か伝統的なものに心惹かれる少女だったのです。お茶は最近また習い始め、当時はわからなかった所作の意味が腑に落ちるようになって、茶道の奥深さを感じています。

 中学校では剣道部に所属。この頃は友だちとお菓子作りをするのもハマっていました。よくケーキやクッキーを作って、学校で友だちと分けていました。「詩とメルヘン」というポエム雑誌も好きで、よく自分で詩を書いていました。それをどこかに投稿するということはなかったのですが、文章を書くのが好きだったのです。
 
 高校は家から遠いところに行きたくて、富山北部高校へ。大沢野町は富山市の南にあるので、一番南から一番北まで通っていたわけです。富山駅で乗り換えなければならないのですが、それは億劫なことではなくてむしろ好きでした。まだ駅前周辺は雑然としていた時で、駅周辺にはバラックのようなお店も残っていました。入ってはいけない場所という雰囲気だったのですが、なんとなくワクワクしたものです。家はお小遣い制ではなかったので、まとまったお小遣いはもらえませんでした。友だちとカフェに入ることなんて滅多になく、たまにハンバーグを買うのが楽しみでした。

 ある時、立山町の粟巣野にあるKAKI家具工房に友だちと遊びに行って、そこで染色家の方とたまたま出会いました。その方に京都に染色の学校があると聞き、とても心惹かれた池田さん。そうして、高校卒業後に京都にある川島テキスタイルスクールに入り、2年間染色の勉強をしたのです。古都京都で開催される蚤の市もとても素敵で、よく足を運んでいました。
 
 卒業後は富山に戻っていたのですが、アフリカを旅した友だちの話に刺激を受け、自分もアフリカに行ってみたい!と思うようになります。アフリカに行くための資金を貯めるために、大和のモロゾフでバイトを始めました。この時、包装の仕事が結構多かったのですが、その時身につけた包装の技術が、今の仕事にも生かされているので、人間万事塞翁が馬ということを感じる薫さんなのでした。そして、友だちを誘って3ヶ月間アフリカ大陸を旅しました。女友達との二人旅でしたが、トラブルに巻き込まれることなく、楽しいアフリカ旅行になりました。ただ、とても残念なのは、その時一緒に旅した友だちがずいぶん早くに逝ってしまったことです。今もいろいろな仲間のいる薫さんですが、アフリカ旅行に3ヶ月も一緒に行ってくれた友だちの存在はとても大きかったのです。
 
 日本に戻ってからは、モロゾフでバイトを再開。そうしているうちに、自然に結婚という流れになったのです。そして今はちみつやの店舗も構える、富山市茶屋町に嫁いで来た薫さんなのでした。
 結婚後は3人のお子さんの子育てに追われる日々でしたが、一番下のお子さんが幼稚園の時に、ヤクルトやんない?と誘われてヤクルトレディを1年くらい経験しました。その後、近所の大学内での事務の仕事に誘われて11年間勤めました。

 そんな薫さんに転機が訪れたのは2010年のことです。家に配られて来たフリーペーパーに立山町の養蜂家佐伯元さんのことが載っていました。何か心がワクワクして、佐伯さんに一度見学に行かせて欲しいと頼むと「6月9日に来て」と言われました。きっと見学希望者が何人もいて、まとめての見学になるんだろうなと思って行くと、見学者は薫さん一人だけ。佐伯さんは6月9日のロックの日にはちみつを採りたかったらしく、その写真を撮ってくれる人がいなかったので、それを薫さんに頼みたくて6月9日を指定して来られたのでした。
見学をした薫さんの指に、佐伯さんは雄蜂を一匹のせてくれました。それを見て、可愛いなと思った薫さん。佐伯さんは「養蜂をやりたかったら、やってみたらいいよ」と言ってくれました。佐伯さんのやっているみつばちに優しい養蜂がとても気に入った薫さんはその年から本格的に養蜂の勉強を始めたのです。
翌年の2011年に東日本大震災が起きて、お金をもらうことに価値観を置くのは違うという思いが決定的になりました。生産性のあるものを持っていたい、そういう生き方をしたい、それは自分にとってみつばちだ、そう思いました。
そうして、家の庭でみつばちを一群飼い始めました。最初は可愛いから飼ってる、はちみつが採れなくてもいいやと思っていましたが、案外たくさん採れました。そして道具代くらいは儲けようと思ってはちみつを売ったら売れたのです。薫さん自身知らなかったのですが、呉羽でみつばちを育てる養蜂家はかつては何人もいらしたのです。でも、それを受け継ぐ人がいなかった。薫さんはますます、この地で養蜂することの意義を感じるようになりました。そしてみつばちの巣箱を増やし、庭ではなくて、呉羽丘陵の畑の中で養蜂を続けています。
アカシア、ハゼノキ、カラスザンショウ、ウラミズザクラ、クズ、そして他にも多くの花々。みつばちはせっせとその花蜜と花粉を巣箱に持って来てくれます。そんな薫さんのはちみつは何も加えず、熱もかけない本物のはちみつです。ですから、その時々で味が違い、その時集めた花の香りがするはちみつです。みつばちの命はたった3ヶ月。その短い命を、楽しそうに、そして精一杯生きているみつばちが愛おしくてたまらない薫さんなのでした。
 3年前、自宅を改装して「はちみつや」をオープン。珪藻土の壁は自分で塗りました。庭にはたくさんの花々も咲いています。庭にある花々で花束を作ったり、ミツロウキャンドルやミツロウラップを作るワークショップも開催しています。
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たくさんの植物が迎えてくれる「はちみつや」さんの入り口
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季節季節の花の香りのする生はちみつが並びます。
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ミツロウラップやミツロウキャンドル
ワークショップで作ることもできます♪

薫さんは生活の場の中で仕事をするのがいいと考えています。仕事の場と生活の場が離れているのは、不自然だと思うのです。ですから、家の近くの呉羽丘陵にみつばちの巣箱を置き、自宅の敷地内にあるはちみつやではちみつを売ったり、ワークショップをしたり、花を育てたりできる今の暮らしは、本当に肩の凝らない、自然体で暮らせる暮らし方なのです。
みつばちの世話もみつばちが増えるのを見ることも、庭づくりも、友だちがはちみつを買いに来てくれる時間も、愛犬と過ごす時間も、全部が楽しい時間です。
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落ち着くお部屋

そして今、息子さんも養蜂家になって、一緒にみつばちを育てています。受け継ぐ人のいなかった呉羽の養蜂を薫さんが受け継ぎ、そのバトンを息子さんが繋いでくれた。なんて素敵なリレーでしょう。
薫さんの名刺には表面に「いえがあり かぞくがいて 庭がある」と書かれています。そして裏面はLand of milk and honeyという聖書の言葉から始まります。直訳するとミルクとはちみつの土地になりますが、豊かな大地という意味があります。
「大切な人と、作りだす喜びを分かち合う 生活の場を持つこと。そんな豊かさの中で、ミツバチと共にある暮らしを。
何も足さない 加熱もしない 粗しぼりそのままの 生はちみつの生産・販売」それが薫さんの名刺の裏面の言葉です。
これからも生活の場の中で仕事をして、いろいろな人と作りだす喜びを分かち合っていきたい。そしてずっとみつばちと仕事をしていきたい。薫さんはそう思っています。
皆さんも一度、はちみつやさんに足を運んでみてください。そして花の香りいっぱいの生はちみつの美味しさを味わってみてください。そして薫さんの話を聞いてみてください。
きっとはちみつの価値観、変わります。
今日の人194.古川陽一さん [2020年08月02日(Sun)]
今日の人は、Webサイト・システム開発を手掛けるマルチメディア工房陽https://creators-navi.jp/archives/1711代表の古川陽一さんです。
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 古川さんは1962年、魚津市で生まれ育ちました。小さい頃は恥ずかしがり屋で保育園で劇をする時も、やりたい役になかなか手が挙げられず、最後に残ったアヒルの役を女の子に混じってやっていた思い出があります。
 ご両親とも音楽の先生で仕事が忙しかったこともあり、小学校4年生までは知り合いのお宅に預けられていました。そこのおばさんがとても優しい人で、古川さんはその近所の女の子と一緒に遊んでいました。おままごともやらされていたそうです。
 高学年になってからは缶蹴りや野球など、積極的に外遊びもするようになりました。その頃はやっていたケーキ屋ケンちゃんの影響もあって、将来はケーキ屋さんになりたいと考えていた古川さん。家にお菓子作りのレシピ本もあって、レシピ本を見ながらよくケーキを作っていました。ある時、プリンを作って蒸した時に、冷ますのが待てなくて、外の雪の上に置いておいたら、野良犬に食べられてしまったことがありました。せっかく美味しそうなプリンだったのにショックでした。そういう記憶ってずっと残るものですよね。

 中学校では、軟式テニス部に入りました。自分ではおとなしい性格が変わったとは思っていなかったのですが、勉強も得意で文武両道だったからか、キャプテンをやらされました。文化委員会の委員長もやっていました。部活も学校も忙しかったのですが、海釣りに一人で行く時もありました。さほど釣れた訳ではありませんが、一人で釣り糸を垂らしている時間はなにかホッとできる時間でした。

 高校は地元の進学校、魚津高校へ。高校2年生の時、他校からお父さんが赴任してきました。古川さんの芸術の選択科目は音楽だったので、2年間、お父さんから音楽を習うことになってしまいます。頑張っても普通点しかつけられなかったので、なんだか腑に落ちなかったのですが、今となってはいい思い出です。高校でも軟式テニス部のキャプテンだった古川さん。部活と勉強で忙しく遊びに行った記憶はほとんどない高校時代でした。
 
 そうして金沢大学工学部電気工学科入学します。大学でも体育会の軟式テニス部に入ったのですが、体育会なだけあって上下関係も練習も大変厳しかったのです。そして、先輩に教えられた麻雀やパチンコにもハマってしまい、わずかな単位が取れずに2年生の途中で留年が決まってしまいました。そこで、古川さんは軟式テニス部を辞めました。留年と言っても取れていない単位はわずかだったので、その1年間はバイトに精を出しました。縄文式土器を発掘したり復元したりするバイトです。貯めたバイト代で自転車で四国一周もしました。金沢から名古屋へ出て、そこから大阪、そして神戸からフェリーで四国へ。23日間の旅の間、ほとんどはユースホステルに泊まりましたが、野宿をした日もありました。旅の中では思い出に残る出来事もいくつかありました。四日市では膝が痛くなってしまい、コンビニで休んでいると、女性に「膝が痛そうですね」と声をかけられ、手を当てられました。すると、本当に痛みが引いたのでとても不思議に思いました。愛媛の食堂では帰り際に食堂の女将さんに「お金はいらないから」と言われ、常連さんらしきお客さんに冷やかされたりしました。
愛媛県の一番西の佐田岬半島の突端まで行った時は雨も降っていたのですが、着いた時にさーっと晴れ間が出て、海を挟んだ大分県の佐賀関半島も見えてとても感動したのを覚えています。

 専門課程に入ってからは、勉強に専念します。自分が長男だということも考え、富山に戻って就職することにした古川さん。県内の大手企業から複数内定をもらいましたが、その中から就職先に選んだのはYKKでした。新入社員だけで100人以上もいた時代です。そして、職場の隣にいたのが奥様でした。就職して2年目に初めて話した二人。最初はグループ交際をしていましたが、やがて付き合うようになり、古川さんが26歳の時に結婚しました。

 この頃、古川さんはコンピューターの設計部門にいて、工場で使う制御パソコンを作っていました。とにかく厳しい部署で、朝の8時半から夜の7時半まで集中して仕事をして毎日ヘトヘトになるという生活が続いていました。
 古川さんは走るのが好きで、駅伝に出たり、ハーフマラソンに出たりもしていたのですが、練習が終わって何か膝が痛いと感じるようになったのは30歳を過ぎた頃でした。湿布をしても痛い日が続き、そのうち足首まで痛くなってきました。医者をいくつか転々としましたが、原因がわかりませんでした。関節リウマチに近い症状だけれど、リウマチ因子は見つからず、それでもどんどん腫れてきて歩くのも大変になってきました。

 そうして34歳の時に、1年仕事を休んで治療に専念することにしたのです。金沢の病院にも通いました。それでも症状は一向に改善せず、これ以上会社で仕事を続けるのは無理だと判断した1年後、会社を辞めたのです。

 この時には古川さんには二人のお子さんがいました。二人のためにも仕事はやらなければなりません。しかし1998年、36歳の年、腰まで痛くなってきて、とうとう寝たきりの状態になりました。ちょうどその頃、インターネットが世の中に普及し始めていました。富山県でもホームページを作りませんか、という仕事があって応募します。県の仕事を請け負っていたのがCAPで、CAPから仕事が来るようになりました。某ホームページの動画編集の仕事の依頼もあり、毎日2〜3時間、動画編集をするようになりました。全く仕事がない中での仕事は本当にありがたかった。それからは徐々にホームページ制作の依頼が来始め、仕事が広がっていきました。

 2002年日本と韓国が舞台のW杯が開催されます。その時、中田英寿の姿から勇気をもらった古川さん。自分もずっと寝たきりじゃダメだ!と強く思いました。そして看護師の友人に相談し、手術をする決意をします。それは腰と膝に人工関節を入れるというものでした。こうして2002年の夏に腰、冬に膝に人工関節を入れる手術をし、見事成功。運転までできるようになったのです。
それまで寝たきりだったことを思うと、何をしても楽しい、第2の人生が始まったと思えるのでした。徐々に仕事も増えていきました。

 次の転機になったのは、8年前にWordBench Toyamaの勉強会のコミュニティに参加したことです。最初は高岡の伏木で開催していましたが、その後富山でやるようになり、富山開催から古川さんが代表をすることになりました。Toyama WordPress Meetup https://www.meetup.com/ja-JP/Toyama-WordPress-Meetup/という名前に変わりましたが、活動は今も続けています。そしてこの中で人脈がとても広がり、それが仕事にもつながっています。
SOHOの集まりも富山で立ち上げていて、その時は会員が100人くらいいました。そこで知り合ったのが以前このブログでもご紹介した齋藤秀峰さんです。齋藤さんに誘われて2012年の富山ドリプラの支援会でプレゼンターの動画作りを手伝った古川さん。それがご縁で私もお会いすることになりました。
  
 古川さんは、50代後半になって、自分の知識をもっと後進に伝えていきたいと思うようになりました。自分のように体の都合が悪い人がよりしっかり仕事できるように伝えたいとも思っています。古川さんの仕事は言ってみればずっと前からリモートワークでした。それが今急速に広がって、古川さんたちスペシャリストの知識を必要としている人はたくさんいます。だからこそ、人と人をつなげる仕事も自分の役割だと思っているし、そうやって社会貢献できることがとても楽しいのです。いろんな人に助けてもらって今の自分があるから、これからはお返ししていく時だと思っています。寝たきりになっていた4年間も心のどこかではなんとかなるだろうと思っていて、実際にその時に回ってきた仕事もあった。それは古川さんが腐らずに、できることに最善を尽くしてきたからに違いありません。

 そんな古川さんは好きなこともたくさんあります。カメラもライフワークの一つで14、5年前に一眼レフに出会ってからはいろいろなメーカーを使い、今はキャノンのカメラを愛用しています。その腕は古川さんの作るホームページにも生かされています。こちらは3年前に撮った蜃気楼の写真。なんとこの写真、フジテレビのあまたつのお天気コーナーに使わせて欲しいと連絡があったのだとか!
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映画やテレビドラマを見るのも好きです。以前は週1で映画館に行っていたくらいでした。そしてもちろんスポーツ観戦も大好きです。野球、サッカー、バレーボール観戦はテレビだけでなく、スタジアムに足を運ぶことも多かったのです。今年はコロナで小休止ですが、また生で観戦できる日を楽しみにしている古川さんなのでした。そしてご自身で体を動かされることも好きです。25mプールで息継ぎせずに泳げるので、パラリンピックに出られるかなと思ったのですが、調べてみたら、パラリンピックに出る基準タイムには遠く及びませんでした。そんなわけでオリパラは応援することに専念しようと思っています。
 
 スポーツマンで健康でマラソンまで走っていた方が、全然歩けなくなって寝たきりにまでなったら、人生を絶望して悩んでどん底にまでいってしまいそうですが、古川さんはそうならなかった。いつもケセラセラ、なるようになると人生を歩んできました。そこに古川さんの強さを見た気がした今回のインタビューでした。
今日の人193.岡村祥子さん [2020年07月26日(Sun)]
今日の人は、姿勢と歩き方crescendo、NPO法人元気やネット代表の岡村祥子さんです。岡村さんは姿勢と歩き方のスペシャリストとして、ミスユニバース富山大会の講師をされたり、更年期に悩む女性のレッスンをされたり、オンライン講座でも教えられたりと幅広くご活躍です。
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 岡村さん、通称さっちさんは1956年、青森県弘前市で生まれました。おうちは桜で有名な弘前城のすぐそばで、桜並木の下をくぐって学校に通っていたものです。
 カトリック系の幼稚園に行っていましたが、その頃は病弱で月の半分以上は登園できずに休んでいました。今、月に60本ものレッスンをこなす姿からはとても想像できませんね。その時、さっちさんの家はお手伝いさんもいて、幼稚園には外車で送り迎えという花輪くんちのようなおうちだったようです。親に遊んでもらった記憶はほとんどなく、遊び相手はもっぱらお手伝いの姉やさんでした。親からは暗くて笑わない子だと言われていました。事実、小学校の低学年くらいまでは友達と遊ばず、一人遊びが多かったのです。ピアノは小さい頃から習っていて、家に置いてある少年少女名作全集を読むのも好きでした。
 外で友達と遊ぶようになったのは小学校4年生くらいからです。遠くのプールまで友達と泳ぎに行くようになり、その頃から風邪を引く回数もめっきり減りました。

 中学校ではバレー部に入ります。身長も高かったさっちさん。でも、小さい時に外で遊んでいなかったので、体の使い方が身についておらず、自分の体をうまく使えないことに劣等感を感じていました。中学生なのに、腰や肩も痛かった。でもこの「体をうまく使えない」という劣等感が今の仕事につながっているのです。
動物が大好きで、将来は獣医さんになりたいと思っていたのはこの頃です。

 高校に入ってもやはりバレー部で活躍しました。さっちさんは学年に1クラスしかない理数科だったので、3年間ずっと同じクラスでした。クラスの仲間たちと、クラス新聞を作ったり、運動会や文化祭で既存のルールに囚われない独自のプログラムをやったり、その中心にいたのはいつもさっちさんでした。何かやってやろうという反骨精神はこの頃から養われていったようです。今は颯爽としたショートヘアがお似合いですが、この頃はサラサラロングヘアでした。しかも、その当時流行っていた「愛と誠」のような姫カットで、実はその時さっちさんに憧れていた男子生徒はたくさんいたのです。でも、さっちさんが好きなリーダータイプの男子には「お前、男だったらよかったのにな」と言われていたそうです。

 進学先を決めるにあたって、獣医学部も調べていたのですが、その頃、さっちさんの家の商売は破綻してしまい、住む家も失ってしまいます。さっちさんは進学するとしたら、お金のかからない地元の国立大学しか残されておらず、弘前大学教育学部に進学しました。学費も生活費も全て奨学金とアルバイトでまかないました。昔はお手伝いさんのいる家のお嬢様だったけれど、逆境にも負けない強さがさっちさんにはありました。肉はいちばん安いマトンや鯨の肉を買い、お風呂も銭湯、という学生時代でしたが、それでも、辛いとか惨めだと思ったことはなく、一人暮らしになった気楽さもあって、学生生活を謳歌していたのです。

 さっちさんは教育学部の体育専攻だったので、遠泳やスキー実習の特別授業もありました。それがとても楽しかった。スキーは−八甲田山をクロスカントリーで歩いたりもしましたが、そのあと、みんなで温泉に入ったらそれが混浴で、湯煙の中で同級生の男子に鉢合わせというパプニングもあったりしました。そして大学時代ももちろんバレー部だったのでした。

 さっちさんが大学生の時、ちょうど青森国体があって、体育教員が増員されていました。増員後だったので、青森で教員試験を受けても体育教師になれる見込みは少なく、さっちさんは北海道で体育教師として働き始めました。
 赴任先は函館の聾学校でした。そこで体育と音楽を担当しました。函館はとても綺麗な街でした。音楽を聴くのも好きだったさっちさんは、よくジャズ喫茶へ行っていました。そこで知り合ったのがご主人です。ご主人もジャズが好きでよく通っていたのでした。そこで意気投合した二人は付き合い始めます。ご主人はその時、富山での就職が決まっていました。青森で生まれ、北海道で仕事をしていたさっちさんはもちろん富山に来たことはありませんでした。ご主人に金沢の近くの街で買い物もしょっちゅう金沢に行けると聞かされて富山に来たさっちさん。でも、実際は金沢まで出て買い物するなんてそうそうできなかったのです。

 その後、さっちさんは5人のお子さんに恵まれます。上は女の子が3人、下は男の子が2人。しかもおじいちゃんおばあちゃんに面倒を見てもらえるわけではなかったので、子育ての負担はずっしりさっちさんにのしかかりました。それが大変だと感じる余裕もなく、時間は過ぎていきました。
 次女が1歳の時から、さっちさんはエアロビの教室をやり始めました。自分の子どものこともあって、託児つきで始めたのです。今から32年前のことでした。当時は今と違って託児付きの教室は皆無に等しい状況でしたので、体を動かしたいお母さんたちには願ったり叶ったりの教室でした。こうして、徐々にレッスン数は増えていき内容もエアロビ、気功、ピラティス、歩き方、体幹トレーニングと徐々にメニューも増えていきました。今は一人ひとりに合わせてレッスンを組み立てるパーソナルトレーニングに力を入れています。

 もちろん、ずっと順風満帆だったわけではありません。5人の子育て中、悩んで落ち込んだことは数知れずありました。だからこそ、悩んでいる人に寄り添えるそんな教室にしたい、体を整えることで心も整っていくことを体験的に知っているさっちさんだからこそできるそんなレッスンをしていきたい。介護で疲れている人や介護を受けている人にも体と心を元気にしてほしい。そんな思いもあって、平成16年にNPO法人元気やネットを立ち上げます。

 さっちさんが手掛けていることはたくさんありますが、やっていることは一つ。「体の軸を整えていくと、心にも軸ができていく」いろいろ形を変えながら体と心の軸づくりをしているのです。そしてそのキャッチフレーズは「カッコよく歩いてカッコよく生きよう」
さっちさんご自身のカッコよさがよく現れているフレーズです。実際、さっちさんは私より一回り年上にはどうしたって見えません。64歳であんなにカッコよくいられるなら、年を重ねるのも素敵だなと素直に思えます。
 
 でも、そのバイタリティはどこから来るのでしょう。実はさっちさん、ずっと自己肯定感が低い子でした。中・高・大とずっとバレー部だったけど、下手だという思いからはついに離れられなかったし、人に甘えられず頼れず、私なんかダメだ!という思いがついつい出てきていました。それが変わってきたのは、つい最近なのです。心の面で大きかったのは、2年前に神田昌典さんの実践会に入ったこと。経営コンサルタントや作家として著名な神田昌典さんですが、さっちさんにも気さくに声をかけてくれ、毎週月曜日のオンライン朝活でいつも大きな気づきをもらっています。この出会いで、心のブレがうんと少なくなったのです。
そして、体の面から目から鱗の考え方を教えてくれたのは石井完厚さんでした。石井完厚さんは骨格にアプローチして、骨格が変わると体のラインがびっくりするほど変わるということを伝えてくださっているのですが、これがすごい。ずっと体を意識してきたさっちさんですが、このやり方には本当にやられました。そして実際に骨格にアプローチする方法で、さっちさんのレッスンでもみるみる体が変わって行く生徒さんが増えているのです。
ですから、今楽しいことは大好きな先生方からインプットしたことを大好きな生徒さんたちにアウトプットできること。それが楽しくてたまりません。また、伝えたいことを文章にするのも好きです。いちばん苦手なのはお金の計算。経営者としてそれが苦手なのはよくないんでしょうけど、私もそれがいちばん苦手なので、その気持ち、よくわかりますw

 プライベートで楽しいことは演劇鑑賞や音楽鑑賞、そして5人のお子さんや3人のお孫さんたちに会うこと。地元に残っているのは次男さんだけで、小学校の時からの「大工さんになりたい」という夢を地元の建築会社で実らせ、高校の同級生だった奥様と一歳になるお嬢さんとでよく遊びに来てくれます。長女さんは東京でバックなどのデザイナーを経て上司と結婚され二児のママとなり、逗子のご自宅でウェブデザイナーとして再出発されています。次女さんは劇団四季の舞台で主役も務めるミュージカル女優さん。私も次女さんが主役の「夢から醒めた夢」をオーバードホールで拝見したことがありますが、伸びやかな歌声と確かな演技力に大感動で涙が止まりませんでした。三女さんは富山で幼稚園教諭をされていたのですが、心機一転!東京で営業の仕事にとびこみ、同じく上司と結婚され、都心でがんばっています。そして、長男さんは陸上自衛隊の看護合同実習でひとめぼれされ栄養士さんと結婚(ホントに絵に描いたような美男美女のカップルです♡)水陸機動団で活躍されていて、レンジャー訓練終了後、息子さんがチヌークという大型ヘリで佐世保基地に帰還した時は大感動だったそうです。そうして、さっちさんはその58人乗りの大型ヘリが好きで、58に夢を重ね58人の10倍、いえ100倍の仲間を集めることを夢に掲げています。その仲間たちと一緒に、軸のある体を作り、いろいろな情報に惑わされない心を作り、国を愛し、なんでも話し合えるコミュニティを作っていきたい、そう思っています。きっとそれはそう遠くない未来に実現することでしょう。

そんなさっちさんの熱い想いを心と体で感じられるイベントが8月22日に開催されます。
その名もZenWalk×歩き禅@最勝寺 

詳細
先々の不安や心のザワザワ、様々な変化を受け入れていくために
「歩き」を通して心静かに自分自身と向き合ってみませんか?

猫背やゆるみなど、身体のバランスを整える「ZenWalk」は、
最勝寺さんの歩き禅にヒントを得て生まれたエクササイズです。

その歩きのエクササイズと伝統的な歩き禅の両方を体験できる催し

歩きの理論と実技、歩き禅や坐禅など動と静を体感しながら 心身のケアをするひと時です。

【ZenWalk×歩き禅】

8月22日(土)
13:30  開 場
14:00 ZenWalk 岡村 祥子
「身体が楽になる、呼吸と軸、歩きのエクササイズ」

15:00 禅 谷内 良徹 
「歩き禅・坐禅(イス可)・禅トーク」

16:00 トークセッション
質疑応答

17:00前 終了

会 場 最勝寺 www.saishozen.com
   富山市蜷川377
   駐車場は寺の裏手にございます

会 費 2000円(当日支払い*要予約)

さっちさんのZenWalkと曹洞宗最勝寺の禅僧 谷内良徹さんの歩き禅で体と心の軸をすっきりと整える最高の時間になること間違いなしです。
詳しくはこちら
https://www.facebook.com/events/972042683233386/

他にもさっちさんのパーソナルレッスンやクラスレッスンを受けてみたい、何歳からでも美ボディを目指したい、そして体もそして心も元気でいたい!そう思っている方は、ぜひこちらのホームページを訪ねてみてくださいね。
https://crescendo6.com/

人はいくつになっても夢を持てる、そしていくつになっても輝き続けることができる、それを目の前で見せてくれる素敵な人生の先輩、岡村祥子さんでした。




今日の人192.笹川征一さん [2020年02月02日(Sun)]
 今日の人は、笹川建築、笹川建築設計事務所、オーダー家具sasagaku、空き家アドバイザー、古民家再生等、住みやすい住環境のためにさまざまな取り組んでいらっしゃるsasakawa family代表取締役の笹川征一さんです。笹川さんは他にも一般社団法人富山県中央古民家再生協会代表理事、一般社団法人住教育推進機構 富山県支部長、富山県新民家推進協会 会長、富山県木の住まい支援協会 会長とさまざまにご活躍です。
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 笹川さんは昭和47年に3人兄弟の長男として射水市大江で生まれ育ちました。小さい頃から何か作るのが大好きで、家から材木を取ってきて(お父さんも大工さんでした)、木の上に家を作って遊んだりしていました。小学校高学年になる頃には、自転車を改造して、ハーレーダビッドソンに見せかけた自転車を作ったりもしました。グリップをつけてエンジン音もなるようにするなかなか凝ったものでした。モトクロスも好きで、自分でジャンプ台を作ったり、プラモデルを作って、それに爆竹を入れて壊して、どこが壊れたのか調べるなんてこともやっていました。とにかくそういう研究や発明は大好きでした。
 ところが、机の上の勉強は大嫌い。読書はおろか漫画もほぼ読みませんでした。
体を動かすのは大好きだったので、少年相撲やサッカーでも活躍しました。サッカーは小6の時に全国大会に行ったくらいです。そんな笹川さん、小5の時から彼女がいました。もっとも、手紙を交換するくらいだったので、それを彼女と言っていいのかどうかはなんとも言えないのですが、その手紙の交換は中学校まで続いたのでした。

 小杉中学校に入った笹川さんは柔道部に入ります。小杉中学の柔道部と言えば、強豪で全国でも有名です。なぜ、わざわざそんなきつい部に入ったかというと、最初卓球部に仮入部した時に、ひたすら走らされるのがイヤで、なんとなく柔道部に行ったら、入部届に名前を書かされてしまったからでした。柔道部の練習はとにかくスパルタで、とても人間と思われていないような厳しさでした。でも、その後の大工の厳しい修行時代を乗り越えられたのは、この3年間で、忍耐と根性を叩きこまれたからだと思っています。
 そんな柔道部で3年間を過ごしたのだから、きっと推薦で高校に、と思うとさにあらず。三者面談の時に、先生から「この子に県立を受けさせたら他の子に迷惑がかかる」と言われ、私立高校だけ受けることになりました。

 高校では、リーゼントをして、赤いカーディガンに白い靴が定番の格好、相当なやんちゃぶりだったようです。この頃、親にはホントに迷惑かけたなぁと感じます。体育指導部に呼び出されたことも数知れずでしたが、なんとか退学にならずには済みました。やんちゃの数々をしていた笹川さんでしたが、夏休みにはお父さんに現場に連れていかれて、大工の仕事の手伝いはちゃんとやっていたのでした。
 
 進路を決める時になり、先生に俺でも入れるところはないかと聞いて、北陸工業専門学校に入って建築を学びました。学んだというのは語弊があるかもしれません。学校に行って、名前だけ書いて、後はパチンコ屋に行くような毎日でした。車を改造してぺしゃんこにして、2年間遊びまくりました。ナンパの成功率もとっても高かったそうです(笑)
その頃の友だちとは今もいい仲間です。

 ただ、専門学校卒業後の修業先はお父さんにもう決められていました。お父さんの跡を継いで大工になるという気持ちは決まっていましたから、そこはすんなりと受け入れました。
修業先の親方は昔気質の無口な人で、仕事は見て覚えろというタイプでした。だから具体的なことは何も教えてくれませんでしたが、笹川さんは目で見て体で覚えていきました。

 ある時、お客さんにほめられたことで、大工っていい仕事だなと心から感じ、大工の道に入っていく覚悟が出来ました。刃物を研ぐにしても、ただ研ぐんじゃなくて、気持ちで研ぐ。
真冬も真水でしか研ぐことはできないので、だんだん手の感覚がなくなってきます。でも、柔道部の時に雪のグラウンドを裸足で走った根性も役に立ちました。そうやって鑿と向き合っていると、ある時、ふっと鑿と一体化できる時が来るのです。その感覚をつかめた修行時代でした。

 こうして5年2ヶ月を親方の元で過ごし、その後は、お父さんの元で大工を始めました。
1999年には結婚、3人の子宝にも恵まれました。小さい頃からの発明好きも功を奏して、大工道具の特許もいくつか取得し、大工が天職だと感じる笹川さんなのでした。
 
 でも、大工は大手の工務店の下請けになると、お客さんと直接対話することは少なくなってしまいます。自分から動かないと9割以上は工務店の下請けになってしまう。下請けはダメだ、元請けでしっかりお客さんと話さなきゃだめだ。そうしないと、昔からある古民家や伝統工法がどんどん消えていってしまう。大工としての誇りを守っていかなくてはいけない。職人としての道を作ってあげる誰かがいなければならない。その誰かに自分がなろう。そう思った笹川さんは、8年前に笹川建築を株式会社にしました。そのことにお父さんは何も言わずに自由にさせてくれました。

 大工さんになりたいという子はたくさんいるけれど、実際に大工になる子はとても少ない。それは、大工になる道が少ないから。だったら、ちゃんとその道を作ってあげないと、笹川さんにはそんな熱い想いがあります。今は何でもチャンレンジすることがとても楽しい、と笹川さん。
笹川建築だけがよければいいんじゃなくて、日本全体の建築業界がよくないとこの業界は生き残っていけない。そんな風に大きな視点で建築業界のことを考えている笹川さんなのでした。
かつてのやんちゃ坊主はすっかりステキな社長さんになって、今日も若い社員たちと熱く語り合っています。これから、笹川さんとその仲間たちが、建築業界に起こしていくであろうイノベーションを楽しみにしています。
今日の人191.伊藤大樹さん [2020年01月22日(Wed)]
 今日の人は、認定NPO法人3keys Mex(ミークスは、家族や友達・からだ・勉強など人には言えない「困ったかも」を手助けする10代のためのWebサイト)担当の伊藤大樹さんです。伊藤さんは現役の大学生でもあります。
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 伊藤さんは1997年福井県敦賀市で生まれました。幼い頃に石川に引っ越し、6歳で愛知に。低学年の時は授業中に歩き回っているタイプでした。3〜4年になると、落ち着きましたが、体を動かすのは大好きで、休み時間になると友だちとドッジボールをしたり、グラウンドを走り回ったりしていました。放課後は缶蹴りをしたり、ボールを壁に当てて遊んだり、駄菓子のキャベツ太郎が好きで、自転車で遠くの駄菓子屋まで買いに行っていたものでした。
 4年生の秋に再び石川に引っ越します。偶然2〜3歳の頃の保育園の友だちと一緒になり、引っ越し後もすぐに打ち解けることが出来たのでした。この頃、少年野球チームにも入り、野球も大好きでした。
そして自身が4年生の時の卒業生を送る会で自分で卒業生に送るムービーを作ったことがきっかけで、コンピューターって楽しい!と思うようになりました。お母さんからも「大樹はITの社長になれるわ!」とほめられ、自分でもITの会社を立ち上げたいとその気になりました。
 中学生の時、塾の友だちとカラオケ行ったりコンビニでずっと立ち話をして遅くなると、付き合う友だちのことで注意されたりするようになりました。友だちのことでとやかく言われたくなかったのと、はやく自立して一人暮らしをしたいという思いとで、高校選びは寮のある所を優先に考えました。そこで目をつけたのが富山高専の国際ビジネスコースでした。わざわざ石川から富山高専に行く生徒はいなかったので、周囲もびっくりしていましたが、決めたら頑固なのが伊藤さん。ただ学校説明会に行ったら来ていたのがほぼ女子でびっくりしました。そして実際に入学した時も40人中男子は5人しかいなかったのです。しばらくは学校でおとなしくしていたのですが、先生にビジネスコンテストに出てみないかと言われたのがきっかけで、ビジネスコンテストに応募したところ、なんと最優秀賞を受賞します。一度学外に出ると、学校の中だけにいるのがつまらなくなり、どんどん外で活動するようになりました。いろいろなイベントでボランティアスタッフとして参加するうちに、富山県内各地につながりが生まれました。射水市では竹炭パウダーの入ったピザ作りをしたり、氷見のTEDxに関わったり、中央通りの牛島屋の着付け室に寝泊まりさせてもらいながら富山高専の学生主体のセレクトショップを開いたりもしました。
 いろいろやっているうちに、県外から来た人に地元感を感じてもらって、一緒に食卓を囲める場所を作りたい、商店街にゲストハウスを作りたい、と思いました。思い立ったら実行せずにはおれないのが伊藤さん。こうして富山市内の桃井町にまちなかハウス「マチトボクラ」を作ったのです。富山高専を卒業前の19歳の時のことでした。この頃シアトルにある米国NPO法人iLEAP(アイリープ)とマイクロソフト社による、社会企業家に興味を持つ学生や社会人を対象とした短期留学プログラムをシアトルのマイクロソフト本社で受講して、ソーシャルイノベーションのなんたるかを学びました。
 民泊をやっていると、ゲストは地元の人と話したいといい、日本人の学生はここに住みたいと言い出しました。そうしてマチトボクラはゲストハウスであると同時に学生向けのシェアハウスになりました。伊藤さんは合同会社を設立し、会社経営にも乗り出します。
 高専卒業後は中央大学経済学部経済学科の3年生に編入。月曜から木曜までは東京で授業を受け、木曜の夜に夜行バスで富山に来て、日曜の夜にまた東京へ戻るという生活を1年続けて、1年間で必要な単位を取ってしまいました。今、大学4年生ではありますが、単位は全部取ってしまったので、大学には行かずに学外で動いている毎日です。それなら、東京ではなくて富山で中心に動いているのかといえばさにあらず。最初にご紹介したように、伊藤さんは今、子どもの支援をしている3keysのスタッフでもあるので、拠点の半分は東京なのです。認定NPO法人3keysは、生まれ育った環境によって子どもの権利が保障されない子どもたちをゼロにするという理念で活動しています。事業には学習支援事業、子どもの権利保障推進事業、啓発活動事業の3本の柱があって、伊藤さんが担当しているMexは子どもの権利保障推進事業を担っています。詳しくはこちら⇒https://3keys.jp/service/mex/
伊藤さんが3keysで活動したいと思ったのは、これまで高専の学生や大学生と活動してきて、その年代だともう人として形成されてきているので、もっと大人になる課程の子どもたちから関わってみたいと思ったからです。そういうわけで昨年の4月にマチトボクラの運営は後輩に譲り、今は3keysにフルタイムで関わり、富山には時々帰ってきて、合同会社での仕事に関わるというペースで仕事をやっています。
 伊藤さんは子どもの頃、泡を吹いて倒れたことが何度もありました。早く死んでしまうかもしれない、それなら早めに何かをしたいという思いが常にありました。家族は仲良しではあったけれど、転勤族で家族しかコミュニティがないと、親とケンカしてしまうと自分の居場所がなくなってしまいます。家の近くで近所の人と話ができないというのはなんとも寂しいものです。
高専で活動を始めた時は、新しいことは外にある、と思って動き始めました。人のために何かしたい、という強い思いがありました。商店街の人とつながった時は、家族以外の人と繋がれる幸せを感じ、この幸せを大学生で富山に来た人に体験してほしい、何か仕組みとして残せないかなぁとマチトボクラを作りました。その輪は少しずつ広がっていると自負しています。
でも今、小さい子どもでSOSを出したいけれど、それを自覚していない子どもたちのために動きたいという気持ちがとても強くあります。行政側からではなく、街から子どもへの支援ができたら。商店街の人とのつながりの心地よさを自分が感じたように、子ども達にも家族以外の人とのつながりで幸せを感じてもらいたい。学童よりもしばりのない居場所を作りたい。伊藤さんは今、子ども達のおかれている状況を調べながら、どうやったら自分がワクワクして取り組んでいけるか、を考えています。
現役大学生にして既にいろいろなことを手掛けてきた伊藤さん。この先この22歳の青年が富山で東京で、どんな人とどんな取り組みをしていくのか、私も楽しみにしています。


…ちなみに
富山ではじめるSDGs Book、ダイバーシティとやまとマチトボクラが並んでいるのに、ようやく気づいた私ですw
興味ある人、こちらも手にしてみてくださいねウインク
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今日の人190.池田 誠さん [2019年08月25日(Sun)]
 今日の人は、一般財団法人 北海道国際交流センター(HIF)事務局長 大沼マイルストーン22代表、NICE評議員、ボラナビ倶楽部理事、大沼ラムサール協議会会長と、数多くの顔をお持ちの池田誠さんです。
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ホッとできる場所「Caffee Classic」で

 池田さんは昭和36年北海道知内町湯の里で生まれました。湯の里は青函トンネルの北海道側の出入り口のある場所です。1クラス20人くらいの小さな学校にいた池田さんは、自然の中で走り回ったり、虫捕りをするのが好きなおとなしい子でした。お父さんは小学校の先生で、とても教育熱心でした。毎朝5時に起きて4q走って縄跳びを500回、帰宅後はそろばん、書道というのが日課でした。小学校入学前に九九は覚えていましたし、そろばんは小2の時に1級でした。学校の成績はとても優秀でしたが、あまり積極的な子ではありませんでした。
 小学校の5年生からは函館の大きな学校に引っ越しましたが、田舎が好きだった池田さんはその学校になじめず、学校の先生に反抗していました。家で親に反抗できなかった分、学校の先生に反抗する方にいってしまったのかもしれません。家ではドリフなどの娯楽番組やゲームは禁止でしたし、とにかくお父さんは厳しい人で、そのお父さんに反抗するなど思いもよらないことでした。
 巨人の王選手が好きだった池田さんは、子どものころ野球選手になりたい、と思っていました。中学校では野球部に入り、ショートで3番を打っていました。校内のマラソン大会でも1位で、まさに文武両道だったのです。社会的なことに興味を持ちだしたのもこの頃で、中学3年の時に新聞に投稿していました。
 
 高校は函館中部高校へ。陸上部のキャプテンでしたが、本もたくさん読んでいて、小説の公募にも応募していました。勉強、部活、読書に忙しく、悩みなど特に感じていませんでした。数学が得意なこともあって、理系にいたけれど、文系に進みたい気持ちも強くて、北海道大学の文学部を目指していました。しかし、共通一次で思ったような点数が取れず、さりとて浪人する気もなかったので、二次試験が数学、国語、英語の得意科目で行ける小樽商科大学の商学部へ入ります。
 大学では陸上部と、落研にも入りました。落研に入ったのは合コンがしたかったからです。高校の時は女の子に全く興味がなかった?のに、大学に入ってから急にはじけてしまった池田さん。1年の秋からパブでバイトをし始めたことで、ずいぶん社会勉強にもなりました。仕送りは一切もらっていませんでした。大学の後半には合コンの主催者もよくしていました。

 大学3年の春休みにはアメリカに1ヶ月ホームスティをします。語学講座のコマーシャルで「君もカリフォルニアの風に吹かれてみないか?」と言っているのを聞いて行ってみたい!と思ったのでした。このホームスティの体験は池田さんに大きな影響を与えました。そしてホームスティをたくさんの人に広められる仕事をしたいと旅行会社のJTBに就職しました。働きながら、「北海道国際交流センター(HIF)」が主催する国際交流活動にボランティアとしても関わっていました。
 HIF は1979年、早稲田大学の要請で16人の留学生を七飯町の農家に2週間滞在させ、当時としては非常に珍しい草の根の国際交流を成功させたことで組織化された法人でした。毎年多くの留学生が北海道に来て、芋掘りや牛の餌やり、昆布干しなどを体験するのです。受け入れるホストファミリーは、畑作や酪農、漁業に携わる皆さんでした。そんな皆さんと出会って、池田さんは次第に農業をやりたい!と思うようになっていったのです。幼い頃に、自然の中で走り回って楽しかった池田さんの原風景と農業とが結びついたのかもしれません。

 池田さんは29歳の時に、職場で知り合った女性と結婚しましたが、11年働いたJTBを辞め、子どもが2歳の時に、家族でニュージーランドに渡ったのです。何か当てがあったわけではありません。小樽市役所に電話して、自分はニュージーランドと日本の架橋になりたいと熱く語り、ダニーデンの農家でファームステイをしてもいいという許可をもらったのです。1ヶ月いたその農家はおじいさん一人で牛1万頭、羊5万頭を飼っているところでした。そのおじいさんは池田さんの奥さんの日本食に感激して、日本に帰ってきてから遊びに来てくれたこともあります。その他にもハーブ農園や牧場等20か所近くに住み込んで、グリーンツーリズムや、パーマカルチャー、バイオダイナミックなどを学びました。「I’m farmer」と自負を持って働く農家の人々。Do it yourselfを大切にするニュージーランドの人々は壁が壊れても、井戸が詰まっても、車がオーバーヒートしても何とかしてしまいます。 このニュージーランドでの日々は池田さんのその後の人生を語る上で、なくてはならない1年間になったのでした。

 帰国後は、共働学舎新得農場で心身にハンディキャップのある人たちと、有機農業とナチュラルチーズづくりをしながら自給自足で暮らしました。約60人と共同生活し、皆が支え合って暮らすダイバーシティとの出会いとなったのです。ここで多様性の大切さを実感し、また自然と共に生きることが池田さんのテーマになりました。この共働学舎で作ったチーズは日本で初めてのチーズコンテストで日本一になったそうです。どんな味なのか食べてみたいですね。

 その後、搾乳のアルバイトをしながら新聞の通信員をしたり、コミュニティFMのパーソナリティをしたりしていました。そんな時に、かつてボランティアをしていたHIFの代表理事からうちで仕事をやってみないか、と声をかけられます。こうして、2001年から池田さんはHIFの事務局長として働き始めました。主に留学生の夏のホームスティの受入れをやってきたHIFですが、冬は何をやっているんですかと留学生に聞かれます。
 HIF では、ホームステイ事業以外にも、国際交流に関する様々な事業を展開していきます。一つは、2004年から実施している環境のための「国際ワークキャンプ」の実施。これは、留学生と日本人が、共にボランティアとして地域の植樹や湖の浄化活動などを行うものです。2008年の洞爺湖サミットでは、ヨーロッパやアジア8カ国と日本の若者が一緒に道内で植樹活動をし、さらに地球環境への思いを短冊に書いて、G8に集まった世界の首脳に届けました。また、タイやマレーシア、韓国などでスタディツアーも実施しています。マリンツーリズムを進めるフィリピンへのツアーでは、地元のNGO の協力で現地入りし海洋調査を行いました。2004年には、ボラナビを参考に、道南のボランティア情報誌「ボラット」を創刊。2010年には、若者の厳しい雇用の現状に国際的な視点で臨むために、若者の就労をサポートする「はこだて若者サポートステーション」を始めたり、名古屋で行われた生物多様性条約第10回締約国会議(COP10)に北海道環境省パートナーシップオフィスと連携して出展したりしました。

 このように、池田さんは事務局長として次々に新しいことに取り組んできました。そして、「ボラット」の後継情報誌として「@h」という季刊誌も発行し、子どもの貧困、まちづくり、国際、環境、農業など様々な社会課題について発信しています。知りたい場所に行き、会いたい人に会う、ここではJTBの仕事も生きていると池田さん。そう、今までやってきたことは全部つながっているのです。そして、どこからどこまでが自分にとって仕事かわからないと池田さん。人と会い、人と関わることが好きだから、その時間がとても楽しい。
 実は池田さんにはとても優秀な妹さんがいて、東北大を首席で卒業した秀才なのですが、池田さんは妹さんとずっと比べられるというコンプレックスが強くありました。それもあって普通の生き方ではなく、自分のペースで生きられる方向に進んだということもあります。けれど、社会を変える活動に関わることが出来る今の自分に満足しています。

 そんな池田さんが今ホッとできるのは、お気に入りの「Caffee Classic」で気の合う店主の夫妻と過ごす時間。私も連れていってもらいましたが、ヒュッゲのようなゆったりとした時間が流れていて、なるほどホッとできる場所というのも納得でした。
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どこか懐かしい味わいのプリン、奥の絵本はマスターの近藤伸さん作の絵本Live the Magic
とってもあったかい絵本です。おすすめです!


 何も背負っているものがなかったら、行きたい場所は沖縄と秋田。沖縄は場所がいい、秋田は美人が多いから、だそうです。さすが合コンキングですね。
外国だったらやっぱりニュージーランド!
 そうしていつか、共働学舎のような場所を作りたい、それが池田さんの夢でもあります。
 素敵だな、と思ったことは全部やってきたという池田さん。いつか富山の留学生たちを連れて池田さんの作った共働学舎のような場所にお邪魔することを楽しみにしています。



今日の人189.市山貴章さん [2019年08月13日(Tue)]
 今日の人は俳優として、また俳優養成所の教官としてご活躍中の市山貴章さんです。
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市山さんは、1950年に高岡で生まれ育ちました。小さい時は、富山弁で言う「しょわしない」子でした。いつも田んぼや公園で走り回っていましたが、授業中はとにかくボーっとしていたので、小3の時の先生には普通級に置いておけないと言われたくらいでした。
 でも、集中力は人一倍。そして、小さい頃から絵を描くのは大好きでした。
中学の時は、絵のコンテストで金、銀、銅の全てを制覇したので、高校の美術の先生から君が来るのを楽しみにしていると言われていたほどです。市山さんにはお兄さんがいるのですが、お兄さんも抜群に絵のうまい人で、小学2年の時に描いた絵を「親が子どもの絵を描かないでください」と注意されたくらいです。今もお兄さんは絵を描き、それをブログにも綴っていらっしゃるので、ぜひご覧ください。→昭和の子供たち・やよい町15番地
市山さんはこのお兄さんから受けた影響もとても大きかったのです。

中学の時は、シェイクスピア全集を読破してしまうくらい、シェイクスピアにもハマっていました。また宗教本も好きで、宗教に関する本も読みこんでいました。俳優にならなかったら、宗教家になっていたかもしれない市山さんなのでした。

高岡工芸高校に進み、美術を勉強していた市山さん。絵画だけではなく、彫刻、写真もやっていました。写真は高校生のコンクールで入賞していましたし、お兄さんにはお前は写真家になれと言われていたくらいの腕前でした。今も写真は大好きでよく撮ります。また三島や太宰、そして外国文学を読みふけっていたのもこの時期でした。中学も高校も美術部の部長でした。とってもイケメンでいらっしゃるので、さぞかしモテモテだったんだろうなぁと思います。

卒業後は富山でデザイナーの仕事をしていました。高岡にあったアマチュアの演劇集団に加入したりもしていました。
そんな時に起こった事件が、三島由紀夫の割腹自殺です。市山さんは思いました。ああ、自分は田舎で安穏と暮らしていてはだめだ!
こうして、市山さんは何の当てもないまま上京したのです。

東京で入った会社でもデザイナーをしましたが、社長に「お前はサラリーマンに向いていないな。フーテンになれ」と言われ、2ヶ月でその会社も辞めてしまいます。そして新宿駅の西口に座って手作りのものを売ると一時間で3000円分も売れてしまいました。当時は、喫茶店でアルバイトして、一日分のバイト代が800円ほどの時代です。それが一時間に3000円もうけちゃうんですから、社長が言っていたフーテンになれというのは、まんざら間違いではなかったようです。でも、市山さんは、フーテンにはなりませんでした。一日で嫌気がさしてしまったのです。

市山さんはお茶の水にあったレモンという喫茶店でバイトを始めます。ガロの曲のモデルになった喫茶店でもありました。喫茶店のバイトだけではなく、とにかくいろいろなバイトをやりました。高層ビルの窓ふき、解体屋、ガソリンスタンド、いろいろな肉体労働もやりました。

そんなある日、電車の中で眉のない女と目が合った市山さん。なぜか見つめ合いにらみ合いになったその女性は、天井桟敷の女優でした。
「自主映画をやるけど、一緒にやらない?」市山さんは誘われます。
「真っ裸になるけど、いい?」
「いいよ」
そうして、市山さんは東京で演劇を始めました。
彼女とは恋人になったわけでもなんでもなかったのですが、無理して生きている感じがして、市山さんは彼女に「結婚すればいい」という言葉を投げかけ、彼女は「あんたは俳優になればいい」と言いました。お互いに何気なく言ったその言葉が、それぞれの人生に大きく影響していったのでした。

その後、市山さんはある劇団に入ったのですが、「バカ、頭悪い、下手くそ」としか言われませんでした。もうやめよう、そう思って受けたオーディションに受かった市山さん、その後はおもしろいようにオーディションに受かりまくります。NHKの少年ドラマシリーズ「幕末未来人」では沖田総司役をやり、段ボールいっぱいにファンレターが届きました。
朝ドラの風見鶏でもレギュラーに。この頃は、ファンの女の子がアパートを見つけだして待ち伏せされたり、なかなか大変でした。
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でも、売れていた絶頂の時に、市山さんは俳優に専念するのをやめ、新宿のアパレルショップでアルバイトを始めました。そこの社長に「売れたのにもったいない」と言われましたが、市山さんにはそこまでテレビの売れっ子に執着はなかったのです。もちろん、俳優を完全に辞めてしまったわけではなく、何か役がある時は真剣にこなしていました。
市山さんは、中森明菜のデビュー曲「スローモーション」のPVにも彼氏役で出演していらっしゃいます。貴重な画像がこちら→https://youtu.be/0NEakkQ_wbA

市山さんが俳優という仕事を本当に面白いと心から思ったのは50を過ぎてからです。そうして最近は、ジジイに変化していくのもいいもんだと思うようになりました。
今、市山さんは日本各地の俳優養成講座で俳優の卵たちに演じることについて教えています。最初、教えることに乗り気ではなかったのですが、俳優になりたがっていた子が19歳で交通事故で亡くなってしまい、本人がやりたいと言っていることはやらせてあげるべきではなかったか、と後悔したのです。その後、自分のしていることで伝えられることがあったらやるべきだ、と思うようになり、今、全国を飛び回っているのでした。
教えるのはとても楽しいけれど、大変な作業でもあります。けれど、自分の考えたことを全力で伝えらえることができる、そんな時間が好きだから、これからも伝え続けたい、そう思っています。
市山さんは、生きているものの全てがやるのが演劇だと思っています。そんな気持ちで毎日を送るとちがう視点が見えてきそうです。市山さんは言います。あなたのための人生は、あなたが主役だよ。だから、生きている間にできることをたくさんしなさい、と。今はネットの世界に閉じこもって、リアルを疎かにしている若者が多すぎる。それじゃあ、演劇にはならない。生きている、今の時間を楽しんでほしい。だから、ちゃんとあなたを演じてほしい。生きることは演劇だとおっしゃる市山さんご出演のコマーシャルでとても心に残るものがあります。若い俳優では出せない、歩みを重ねてきた人が醸し出す味わい深いコマーシャルです。ぜひご覧ください。→https://youtu.be/RFStWK7vtnI

そんな市山さんが今やりたいことは広いキャンパスにその瞬間を描くこと。今の一瞬を書のような絵で描きたい。市山さんがこれからどんな絵を描いていかれるのか、楽しみにしています。


今日の人188.佐藤慎司さん [2019年07月24日(Wed)]
 今日の人はアメリカの超名門大学プリンストン大学日本語プログラムディレクター・主任講師の佐藤慎司さんです。佐藤さんは毎年夏にプリンストン大学の学生たちを連れてIJSP(石川ジャパニーズスタディーズプログラム)で金沢に来られていて、その時にお話を伺いました。
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 佐藤さんは1969年東海市で生まれました。妹さんが2人いて、小さい時からおしゃべりしんちゃんと呼ばれるくらい愛嬌のある子でした。かといって、いつも大勢に囲まれているのが好きなわけではなく、一人でいても平気な子でした。いろんなグループに行けるけれど、どこにも属さない。群れるという行為が好きではなかったのかもしれません。
 本は一度ハマると全部読んでしまいたくなるタイプだったので、忙しい時にそれをやってしまうと、大変なのでした。推理小説も大好きで江戸川乱歩やシャーロックホームズ等のシリーズ物は大体読破していました。
 自分から言い出してピアノや絵も習っていて、サッカークラブに剣道クラブなどにも入っていましたから、なかなかに忙しい子ども時代を過ごします。学校が大好きだったかというとそうでもなく、日曜夜にサザエさんを見ると、明日から学校かぁと憂鬱な気分になっていたものです。
でも、佐藤さんのご両親は子どもに何か指図することは決してしませんでした。一人の人格としていつもちゃんと意見を聞いてくれるのです。お母さんは小学校の6年生の時に子ども会の会長をされていたのですが、「子ども会の遠足をどうしたい?」と聞いてくれました。それまでは毎年同じお決まりのコースだったのですが、お母さんは佐藤さんの意見を組んでそれまで行ったことのない場所を提案します。行ったことのない場所で何かあったらどうするの?など、保守的なお母さん方の声もありましたが、その年は子どもの意見を尊重した子ども会の遠足になったのです。結果、子ども達からも大人からも大好評。佐藤さんのいろんな慣習に囚われずに新たなことにチャレンジしていく姿勢はきっとご両親の影響も大きいのでしょう。
お母さんは子ども達の健康にもとても気づかいのある方でした。夏休みも家に置いてあるおやつは冷やしたトマトと麦茶。ポテチ等のスナック菓子は家には一切なかったので、たまに友だちの家で食べるくらいだったのです。
お父さんはドライブ好きでしょっちゅう家族をあちこち旅行に連れていってくれました。お父さんはまだ1ドル360円の固定相場制だった頃に仕事でアメリカに行ったことがあり、広い野原で行われるバーベキューの集まりに参加し度肝を抜かれたり、英語が通じない中でもモテルのおばちゃんに親切にしてもらった経験から、子ども達にもいろいろなことを経験してほしいと、いろいろな場所に連れていってくれたのです。佐藤さんが旅行好きになったのは、そんなお父さんの影響も大いにあります。こうして、ご両親の愛情をたっぷり受けて育った子ども時代でした。

 中学高校時代はオーケストラでフレンチホルンを吹いていました。学生時代はピアノ、フレンチホルンをしていました。そして今は尺八もやっているので、常に音楽に囲まれた生活を送っている佐藤さんです。
 しかし、高校2年生の時に佐藤さんを大きな悲しみが襲います。大きな愛で包んでくれたお母さんが乳がんで亡くなったのです。お母さんが亡くなってからしばらくは、台所からふっとお母さんが出てくるような気がして仕方ありませんでした。生と死の境目ってはっきりしない、そして人ってこんな簡単に死んじゃうものなんだ、だったら、やりたいことをやらないと、高校2年の佐藤さんが胸に刻んだことでした。でも、お母さんが亡くなる前の3か月間、佐藤さんは毎日学校帰りに病院に寄ってお母さんに顔を見せていました。だから高校生の自分にできるせいいっぱいの親孝行はできたのではないかと思っています。
今も、お父さんに できるだけ顔を見せようと、アメリカから帰国した時は必ず実家に寄る佐藤さん。もっとも、お父さんは定年後も全く暇そうにしていることはなく、自分史を書いたり、マラソンやウォーキング、コンピューターを使ったり、料理もご自分でされたりと、とてもお元気です。

 お母さんが亡くなってから、3日に1回料理当番が回ってくるようになりました。最初こそ、ハンバーグにつなぎを入れなかったり、すき焼きなのにみそを入れたりしましたが、そのうちに残り物を使っての料理もお手の物になり、料理は全く苦にならなくなりました。そうして家族はみんなおしゃべりなので、いつも笑いの絶えない佐藤家だったのは、幸せなことでした。

 大学に入る時に、佐藤さんがお父さんから言われたことは2つありました。ひとつは自分の家から通うな、もうひとつは卒業する前に海外を経験しろ、ということでした。
 そこで佐藤さんが選んだのは東北大学の経済学部でした。ゼミは日本人が5人、留学生が5人でダイバーシティがありました。留学生といろいろ話をする中で、佐藤さんは異文化コミュニケーションの楽しさを感じました。日本人も全国から集まってきているので、各地の言葉の違いも楽しかったのです。もちろん東北名物の芋煮もやりましたし、アルバイトもいろいろやりました。家庭教師、カフェや立ち食い蕎麦屋の店員、交通量調査、試験監督、町工場で選挙ポスター掲示板の設営、パン工場等、とにかくいろんなジャンルのバイトをやりました。
 お父さんとのもう一つの約束は大学4年の時に果たします。夏休みにニューヨークのロングアイランドにホームスティをしました。ホストファミリーは決してお金持ちの家ではなく、変に親切でもなかった。でもそれがすごくよかった。ホストファミリーのお父さんはベトナム退役軍人で日雇いの仕事をしていて、お母さんとは再婚でした。信号が赤で止まったら車もガス欠。それでもなんとかなるさと陽気に笑っている家族でした。天気もよく、空も広い、言葉が通じなくてもなんとかなる、それを肌で感じたとてもいい時間になりました。
へんてこな旅行にもよく行きました。青春18きっぷで下関まで行き、下関からフェリーで釜山へ、フェリーの中で仲良くなった早稲田の韓国人留学生から簡単なフレーズを習って韓国に初上陸。釜山からソウルまではバスで、ソウルから中国遼東半島までフェリーで行きました。そのフェリーに乗っていた外国人は3人だけで、着いた場所は青島の近くの威海です。中国語は話せないので筆談で勝負。すると中国人用の安い切符を買ってやるから車内で話すなと言われ、地元の人しか乗らない列車に乗って上海に行くことになりました。車内は床で子どもにおしっこをさせているなど、まさにカオスな空間に日本人の佐藤さんが紛れ込んでいたのでした。
上海では中国人の友だちに会いました。当時上海で外食は中国人平均給与の半分程の値段だったのですが、ご馳走してくれ、中国の人のもてなしの心に触れたのでした。上海から香港までは、打って変わって一番いい寝台で行きました。昔も今も、自分の心がワクワクするところを佐藤さんは常に追いかけていらっしゃるのかもしれませんね。

 こうして大学を卒業した佐藤さんは、クレジットカード会社に就職します。社員の90%が20代でノリは体育会系、すごくおもしろい人が集まっている会社でした。でも、会社にはゼミに日常的にいたような外国人がいませんでした。佐藤さんにはずっと外国の人と関わっていたい思いもあり、新聞で見つけた日本語ボランティアに参加することにしました。会社の寮は鶴見にありましたが、世田谷まで日本語ボランティアに通いました。その教室にはいろいろな国籍の人が来ていて、どうやったら心を開いてくれるか、どうやったらおもしろくなるか、いつも考えていました。教科書通りに教えてもちっとも盛り上がらない。けれど、「これはあなたの国の言葉で何て言うの?」そのひと言で、学習者との距離がぐっと縮まりました。こうして言語学習を通じていろんな人とコミュニケーションを取る時間は佐藤さんにとってとても大切な時間となりました。

 長期休暇はやはり旅行に出かけていました。ヨーロッパに行った帰りに飛行機の中でフィリピンの人と友だちになり、翌年その人の住所だけを持ってフィリピンに行ったこともありました。フィリピンに着いてから、ここにどうやって行けばいい?と現地の人に聞くと、バスターミナルに連れていってくれました。バスの中で寝てしまい、降りるべきバス停がわからなくなってしまった佐藤さん、はてどうしようかと途方に暮れていると、乗り合わせた一人の学生がその友だちの家の前まで佐藤さんを送っていってくれたのです。お礼に佐藤さんはその子にハンバーガーをおごってあげました。訪ねて行った友人はホアンくんといい、その当時の佐藤さんにはかなり貧しく見える地域に住んでいました。ホワンくんのうちには家族親戚の小さいお子さんがたくさんいて、なんでこんなに目がきれいなんだろうというくらい、みんな目がきらきらしていました。日本ではほとんど見ることのなかったようなこの目の輝きは一生忘れられません。せっかく来たから観光しようと、大砲に十字架がある所に登って写真を撮ったりもしました。その時は、フィリピンの人たちはみんなニコニコして何も言わなかったけれど、日本に帰ってきてからその地について調べた佐藤さんは愕然とします。日本軍が攻撃した戦争の地で、自分は何を陽気に砲台に登って写真を撮っていたんだ。あの中には身内を日本兵に殺された人もいたかもしれない。それなのに、何も言わずに日本人の自分に優しくしてくれた人々。胸がチクチク痛みました。その時の痛みを佐藤さんは今も忘れていません。

 会社に勤めて4年、佐藤さんは仕事を辞めて留学する決意をします。会社の人は、「イヤで辞めるわけじゃないし、がんばってこい」と胴上げしてくれました。お父さんにも電話をかけました。「僕、海外の大学院に留学することにしたよ。」すると、お父さんは言いました。
「お前が一生会社に勤めるとは思わなかったよ。慎司は学者になると思っていたから」
お父さん、お見通しだったんですね。

 そして佐藤さんはマサチューセッツ州立大学で修士号を取ります。この時、佐藤さんのメンターともいえる先生との出会いがありました。その先生は学問に対する確固とした哲学を持っている先生で、自分に厳しく、人には優しい観音様のような先生です。その先生が佐藤さんに「博士号も取りなさい。そして教育学部に行くならできるだけ名の通った大学院で学びなさい」とおっしゃったのでした。こうして、佐藤さんは、名門コロンビア大学教育大学院(ティーチャーズカレッジ)の博士課程で再び学び始めました。しかし、常に孤独で苦しかった。パートタイムで日本語を教えてはいましたが、お金がない、時間もない、トンネルに入って出口が見えない、そんな日々を過ごしていたのです。それでも、ふんばりました。
 佐藤さんは当時文化習得に興味がありました。そのフィールドとして日本の保育園や幼稚園を10か所周りましたが、行く所によっていろいろなことが全部ちがっていました。教育観、宗教(仏教、キリスト教系など)、その地独特の風俗、そういうものによって園は全くちがうものになっていたのです。しかし、ひとつだけ共通していることがありました。それは、保育園にしても、幼稚園にしてもそして外国語教育の現場にしても、目の前の子供や学習者を大切に思う心ある多くの女性によって現場が成り立っているということです。それを搾取する心ない人がいて、それでも子どもたちや外国語教育を受けている学生たちのために、文句も言わずにがんばっている。ここをちゃんと研究者として明らかにして教育者を束ねていかないと、そう佐藤さんは思いました。
教育人類学の博士号を取得した佐藤さんは、ハーバード大学、ミドルベリーサマースクール、コロンビア大学講師を経て、2011年よりプリンストン大学日本語プログラムディレクター、主任講師となり、今、世界中を駆け回っています。

佐藤さんには大切にしている信念があります。それは、子どもも外国人も一人の人として意思を尊重すること。佐藤さん自身が幼少のころから、周りのみんなに意思を大切にされアイデンティティを育んでくることが出来た。だから相手がどんなに幼い子どもでも、人として尊重しているか、それを大切にしたいのです。尊重するからこそ対話が成立する、一方通行だとそれは対話とは言えないのだから。

対話によるコミュニケーションの大切さ、それをもっともっとちゃんと伝えていける教育者でありたい、仲のよい人とだけやっていくのは気持ちはいいけれど、相容れない人ともちゃんと話すこと、対話していくこと、それによって1+1が100になることだってある。だから、恐れずにどんどん対話をしていける世の中にしていきたい。
教育と人類学は佐藤さんの研究のテーマであり続けるのでした。

 佐藤さんがプリンストン大学の学生を連れてIJSP(石川ジャパニーズスタディーズプログラム)に来るようになって、今年で7年目になりました。日本語教育の大家でプリンストン大学名誉教授の牧野成一先生から引き継いだ事業です。学生たちにとって、古都金沢でホームステイしながら学べるこのプログラムは、本当にすばらしい時間となっていて、佐藤さんにとっても金沢で過ごす時間はとても大切な時間です。そして、佐藤さん自身も後継者を育てていくことの大切さを思うようになりました。そんなことも考えこの夏には石川県国際交流協会との共催で「みんなで考えよう石川の未来」というイベントも主催しました。佐藤さんに会うことになったのも私がこのイベントに参加したためです。

 佐藤さんには、今、日曜のサザエさんの憂鬱はありません。いつも楽しい。時々、ペースダウンした方がいいかなと思うこともありますが、自分じゃないとできないことが増えている、そんな使命感も感じています。50代はまだまだ働き盛り。後継者を育てながら、ご自身も最前線を突っ走ってくださいね。

 そんな佐藤さんが楽しいことは人と人とのつながりを感じるとき。そして人と人を会わせて起こる化学反応にわくわくするのです。そう、佐藤さんはとにかく人が好き。プリンストン大学といえば世界の大学学術ランキング2018で6位(東京大学は22位)、プリンストン大学の合格率は、アイビー・リーグの8校のうち、3番目です。トップ3(ハーバード、イェール、プリンストン)の大学を総称して、ビッグスリー、またはイニシャルをとってHYPとも呼ばれています。そんな超有名大学の先生にもかかわらず、佐藤さんはえらそうな所はひとつもありません。本当に気さくで、日本語教育の世界に新しい風を吹き込んでくださる先生として期待大なのです。
 
 いろんな趣味があって、尺八、民藝や骨董集めも好きですし、ジムに行くのも好き、手でものを作るのも好き。料理も好きでコーヒーも豆から自分でひきます。もちろん、旅も大好きです。とにかく好奇心が半端なく、いくつになっても少年のような佐藤さん。
 これからも、おしゃべりしんちゃんの本領を発揮して、いろいろな場所で人と人をつないでいってくださいね。この世界を平和に導くのは、対話しかないと私も思っています。いろいろな見方を自分の味方にするのは、対話で生まれる愛だから。そしてその愛ある対話が日本語でも出来るように、私たち日本語教師は、今日も留学生や外国人労働者や外国にルーツを持つ子ども達と向き合っているのです。

演劇佐藤さんには近著「コミュニケーションとは何か―ポスト・コミュニカティブ・アプローチ 」を始め数々のご著書があります。
ぜひご覧になってください。下指差し
佐藤慎司さんの執筆本