今日の人は、富山で有機農業といえば知る人ぞ知る農業家の杉林外文さんです。杉林さんの作る野菜は一度食べると忘れられない美味しさで、野菜嫌いな子どもたちが杉林さんの作ったピーマンやナスなら生でパクパク食べて、まだ食べたい!というくらいです。ミニトマトも驚異の糖度18度!もちろん化学肥料や農薬や除草剤は一切使いません。土の微生物の力で栄養たっぷりの本当においしくて強い野菜は虫も食べずとてもきれいな野菜で、有機野菜は虫が食うものという概念も払拭されます。そんな杉林さんの農法を学びたい方は多く、今年は富山で農業を始めた軟式globe ラップ担当パークマンサーさんにも農業指導をしておられます。さぞかし若い時から農業に取り組まれているから、伝説の農業家になられたのかと思うとさにあらず。杉林さんが農業を始められたのは不惑の年、40歳のことでした。
杉林さんの無臭ニンニク 生のままスライスして食べると最高です♪
杉林さんは1961年3月24日に婦中町で生まれました。3人兄弟の真ん中だったので、ばあちゃんたちが旅行に行く時はまず連れて行くのは1歳年上の兄、しばらく経つと4歳年下の弟だったので、杉林さんは旅行に連れて行ってもらったことはありません。そして旅行に連れて行ってもらった兄ちゃんや弟は旅先でおもちゃを買ってもらえるけれど、杉林さんは買ってもらったことがなかったので、そのおもちゃで遊んで兄弟喧嘩になって叱られるということがしばしばありました。普通、生と死について考えるというと思春期ですが、杉林さんは小学生の時に死について考えたことがありました。家でも兄や弟の方が可愛がられるし、3月24日生まれの杉林さんは小学校低学年の頃は勉強も運動もできが悪かったのです。自分はいなくてもいいんじゃないか、死んでしまっても誰も悲しまないんじゃないか、そんなふうに感じたこともありました。そんな時にいつでも慰めてくれたのは自然の中でした。山や川が傷ついた少年の心を癒してくれました。山でカブトムシやクワガタをとったり、川で魚を捕まえたりしていると、いつの間にか嫌なことも忘れているのでした。そんな風だったので、性格が屈折しているようなところは一切なく、外で友達と思い切り遊び回るたくましい男の子だったのです。
小学生の時は野球が好きで、中学に入ったら野球部に入ろうと思っていました。けれど、小学校6年生の雨の日に、近所の友だちと硬球でキャッチボールをしていて肩を壊してしまったのです。それもあって、中学校ではサッカー部に。3月生まれだった少年は小学校低学年の頃は何をやっても同級生から少し遅れてしまうことがあったけれど、小学校高学年になると、体育関係のことは誰にも負けなくなりました。中学校ではますますそれが加速し、サッカーも練習すればするだけどんどん上手くなりました。それが自信になって、ますますサッカーにのめり込んでいったのです。サッカーをしている杉林さんはとにかくカッコ良くて、各学年に杉林さんのファンクラブができたくらいです。そんな杉林さんの姿に憧れて、サッカー部の部員はどんどん増えていきました。そうして杉林さんがキャプテンの時に、速星中学校は初めて県大会に出場します。とにかくサッカー馬鹿というくらいにサッカー漬けの毎日。何かにハマったらひたすら一直線に進んでしまうのでした。サッカーも上手で足も速くて、運動会ではもちろん花形、しかもイケメン。そんなわけで大モテだった杉林さんはバレンタインデーにもらったチョコの数も半端なかったのですが、この頃はチョコレートは好きじゃなかったので、全部お母さんにあげていました。息子が大量のチョコレートをもらってきたら、母親としては嬉しいような心配なような複雑な心境かもしれません。でも、その頃の杉林さんはサッカーにしか目がなかったので、どんなにモテても女の子にうつつを抜かすようなことはなかったのでした。
高校に入ってもとにかくサッカー漬けの毎日。その頃は本気でプロのサッカー選手になろうと思っていました。プロになるためには体を鍛えなければと、走り込んで100mを11秒フラットで走れるようになっていたし、ベンチプレスで120Kgを持ち上げていました。サッカーの本場のブラジルで修行をするぞ!という意気込みだったのですが、高校2年の進路相談の時に、真面目な顔でブラジルに行くと行ったら、先生は困惑。お父さんにも「何をだらなことを言うとるがや!」と一喝されます。そこでブラジルに行けない、プロの道は自分にはない、と悟った杉林さん。それまでサッカーしかしてこなかった高校2年生は目の前の梯子が突然消えてしまって、何をしていいか全く分からなくなってしまいます。
そうなると、周りに誘惑はたくさんありました。友だちとバイクで走り回ったり、他校の番長クラスの人と街を闊歩したり、スナックに行ったりしてたくさん遊ぶようになりました。昔は今と違って、高校生が飲みに行ってもそこまでうるさくは言われなかったのです。おまけに杉林さんの家は酒屋さんをしていて、家がお酒を納めているお店も何軒もあったのです。
しかし、そこは高校生。いくらツッパっていても、スナックで飲んでいる周りの大人から見ると高校生だとわかって「おい、お前高校生だろう」と声をかけられることもありました。それでも、堂々としていたので逆に気に入られてしまいます。それが、ある筋の人だったりしたので、お前これで飲めや、と杉林さんにボトルを入れてくれたりしました。そんなお店が何軒もあって、一度夜の街に出ると朝まで過ごしてそのまま学校に行くと言う破天荒な生活をしていたのです。それでも、学校を休むことはほとんどなかったのですから、逆にすごい!休んだら先生に「お前出席にしてあるんだから、ちゃんと来い」と言われていたそうです。それだけ先生たちに可愛がられていた生徒だったのですね。
杉林さんはしょっちゅう昼の街にも繰り出していました。友だち10人で長々ランや長ランを着たまま富山一の繁華街の総曲輪通りを端から端まで並んでスキップしていたりもしました。もちろん真ん中は杉林さんです。そんな時、他校の女の子に呼び止められて「サインして♡」と言われる時もありました。サインを500円で買ってくれるならいいよと言ったら、喜んでサインを買ってくれるのです。実は、杉林さん、高校生になっても、他校にもファンクラブがあるくらい相変わらずモテモテだったのです。伝説の農家になるずっと前は伝説の高校生だったんですね。ビーバップハイスクールを地でいく、いえ、それ以上の高校生活を送っていたのでした!
そこまでモテても、杉林さんが高校生と付き合うことはありませんでした。なぜなら杉林さん、千里浜で出会った9歳年上の女性と付き合っていて、なんと高校2年生でパパになってしまったのです。
でも、誰かを傷つけたりするようなことは絶対になかったし、義理と人情に厚かったので、友だちも本当にたくさんいて、先生方からも可愛がられていました。
サッカー部のキャプテンだった杉林さんには条件のいい就職先がたくさんありました。いい条件の会社をいくらでも選べると就職指導の先生に言われました。担任の先生やサッカー部の顧問の先生には、大学に行って、先生になってサッカーの指導者になれと言われました。でも、お父さんは家の酒屋の仕事をしてくれと言いました。なぜなら、お兄さんは酒屋を継がず、おじいさんの開いた酒屋の後継者がいなかったからです。
そうして杉林さんは条件のいい就職先も、推薦入試の道も全て蹴って、家の酒屋に入りました。そんな風に酒屋に入ったのに、まだお父さんがお元気だったので、あまり真剣に仕事はしませんでした。プラプラしていたら、高校の時にバイトをしていたスーパーの社長に声をかけられます。そして、スーパーに入り、精肉部門を任せられるようになりました。ちなみに昔、富山のスーパーでも牛肉の刺身やタタキを売っていた時代がありましたが、富山であれを広めたのは杉林さんなのです。大阪に肉の研修に行った時に初めて牛刺しを食べてなんて美味しいんだろうと思った杉林さんは、富山でもこれを広めたいと思ったのです。富山はお魚がおいしいので、お正月などの家族親族が集まる時は肉はパタッと売れなくなりました。そこで、杉林さんは牛刺しや牛肉のタタキ、牛肉の昆布締をセットにしてお正月やお盆に売り出したところ、ものすごく売り上げが伸びたのです。
サッカーの方も、北信越リーグのサッカーチームから声がかかったりしましたが、精肉の仕事は土日忙しくて休めないこともあって、それはできませんでした。でも、婦中町でサッカークラブを作らないか?と声がかかり、子どもたちの育成中心でやるなら、と婦中サッカークラブを作ります。杉林さんは子どもたちと過ごす時間が大好きでした。教える、と言う感覚ではなくて、自分も一緒に楽しみながらやるのです。子どもたちはすぐに杉林さんを慕うようになり、婦中サッカークラブはどんどんメンバーが増えて、今も続いているサッカークラブです。
しかし、杉林さんが20歳の時に、高2の時に生まれた長女に続いて双子の男の子ができました。精肉の給料だけでは3人の子どもを育てていくのに大変なので、給料のいい仕事に代わりたいと退職を申し出ました。社長は給料をアップするから残ってくれと言いましたが、若い自分が先輩方を差し置いて高い給料をもらうわけにはいかないとその申し出を辞退しました。精肉部門でいろいろなアイディアを出して売り上げを伸ばしてきたのですから、それはもらっても全然おかしくないと思うのですが、そういう部分は昔気質な杉林さんなのでした。
その頃はビデオテープ全盛の時代で、富山のマクセルの工場で夜勤をするといいお給料がもらえたので、マクセルの工場に入らせてもらいました。ビデオテープをある巻数以上を作るとその後は歩合制でどんどん増えたので、どんどん働きました。そのうちにライン生産だけではなく、メンテナンスもやるようになって、月に40〜50万は稼げるようになっていました。一緒に仕事をやっている人に利賀育ちの山の主もいて、夜中の2時に仕事が終わった後に、「おい山へ行くぞ」と声をかけられるのです。そうして車を走らせて空が白み始めた頃に利賀村について、山菜採りをしたり、イワナを釣ったり、山を精いっぱい楽しんで、また夜勤の仕事に戻るのでした。
でも、そんな生活は6年くらいでピリオドを打ちます。酒屋の仕事は時々の手伝いくらいしかしていなかった杉林さんでしたが、お父さんが亡くなり、お母さんと弟さんだけでやっていたお店がどうにも回らなくなっていたのです。借金も重み、酒屋を人手に渡すという話も出ましたが、それなら俺が店に入る!と杉林さんは酒屋の仕事に専念することにしたのです。じいちゃんからの店をここで潰すわけにはいかないという生来の負けん気がむくむくと湧き上がってきたのでした。
最初は得意先を回っても怒られてばかりでした。「お前の店は注文してもなかなか品物を持ってこないし、頼んだら払った後に請求書が何度も来たりして一体どうなってるんだ?」そんなお客さんの声に平身低頭謝っていました。得意先は大きな納屋のある家が多く、空きびんが納屋に積み重なっているのを見て、「よかったら空き瓶を持って行きましょうか?」と最初は空き瓶回収から始めました。そうして、どんな小さな注文にも誠心誠意応えているうちに次第に注文が増えていったのです。杉林さんが入った時は年商200万余りで火の車だったお店でしたが、こうした地道な努力で3〜4年経った頃には年商2000万円くらいになりました。
杉林さんは贈答品につける熨斗(のしも)にもこだわりました。それまでの酒屋は熨斗に無頓着な人も多く、蝶結びの熨斗を何にでも使っているお店もありましたが、蝶結びは簡単に解けて何度も結び直せるので、結婚や快気祝いなどの一度きりの方がいいお祝い事には使いません。一度きりの方がいいお祝い事には結び切りの熨斗を使います。そういうきめ細やかな心遣いを随所にしていきました。
唎酒師の資格も取ってお客さんに合わせたお酒の提案をしました。そして6年目には年商2億円を超え、県下で3本の指に入ると言われるほどの酒屋になったのです。ワインに合うパンを出したくて、手作りのパンもお店で出すようになりました。水や小麦粉にもこだわって作ったので、「あなたのとこのパン食べたらアレルギーの症状出なくなったわ」とパンだけ買いに来てくれるお客さんも増えました。体にいい水を使えば健康になれる、その時に水の大切さを実感したのです。それが農業で水を大切にするところにつながっているのですが、それはまだ先のこと。その時は、ワインの知識ももっと増やそうとソムリエの資格にもチャレンジを始めていました。とにかく、やるととことん突っ走ってしまう杉林さんなのでした。
パン作りにも使っていたアレルギーや不調の人たちを治した水のことも、もっと知りたくていろいろ勉強しました。水のことを書き出すとそれだけで論文くらいになりそうなので割愛しますが、杉林さんは科学雑誌Natureにも掲載されていて、富山大学鏡森名誉教授が太鼓判を押した電解水を使ってパン作りをしていたのでした。
そうして知れば知るほど水の大切さを実感します。そんな中、その水を使って有機農法をしている九州の農家さんから北陸でもやってみないかと声がかかり、九州から先生を呼んで10軒くらいの農家さんを集めて講演会を開きました。でも、有機は難しそうだ、と手を挙げる農家さんはいなかったのです。それなら自分でやってみるか、と有機農法でトマトを作り始めた杉林さん。農薬、化学肥料、除草剤などを一切使わず、3年経って糖度15°の本当に甘いトマトができました。そんなわけでトマト作りも面白くなってきたのですが、なにしろ本業の酒屋も忙しかったので、それ以上手を広げることはありませんでした。
杉林さんは遊びにも全力でした。陸海空の全てを制覇したという感じでした。陸は山遊び、サッカー、スキー、テニス、バイク。海は釣り、素潜り。なんと杉林さん、素潜りで30m潜って、モリで魚を突くことができるのです。まるで未来少年コナンみたいですね。空はパラグライダーにヘリコプター。仕事も全力、遊びも全力、いったいいつ寝ていたんでしょう。
ソムリエの勉強をしている時に、お酒を飲み過ぎてアルコール性肝炎で入院してしまったこともありました。退院して、友達が快気祝いをしてくれた時に、少しお酒を口にしましたが、美味しく感じなかったこともあって、それ以来パタっとお酒を飲まなくなりました。唎酒師だし、ソムリエの勉強もしていたので、お酒のウンチクは誰より語れるけど、今は全く飲まない杉林さんなのです。
時代は、小泉政権の規制改革が始まっていました。それまで酒屋でしか買えなかったお酒がディスカウントストアやコンビニで買えるようになり、酒屋が大きな時代の渦に巻き込まれていきました。それでも、杉林さんは必死で頑張っていました。店をコンビニ形態にして、朝の7時から夜の12時まで営業。遅番の日は朝の3時からパンを仕込むので3時間睡眠が普通でした。
お店を継いで10年目、地元に大型ショッピングモールができました。店の前の道は連日大渋滞が続きます。配達に出ても渋滞に巻き込まれてほとんど得意先を回れない。お客さんもお店に入れない。そんな日が3か月も続きました。小売のお店は日々お金を動かしていくことで商売が成り立っています。月に4、5千万は動かさないといけないのに、3か月も売り上げが止まってしまっては、もうどうしようもできなくなりました。
杉林さんはそれまで自分が頑張ったらなんとかなる、そう思っていました。そして実際そうなってきました。でも、今回だけはどうしようもなかった。自分の中の糸がぷつんと切れました。奥さんも寝ずに毎日パンを焼いていましたが、何しろ買いに来たいお客さんがお店に入る余地が全くないのです。九州生まれの奥さんはそんな時でも働き続けました。『このまま俺といたら、こいつ死ぬわ』そう思った杉林さんは奥さんに言いました。「お願いだから出ていってくれ」奥さんはなかなか納得してくれませんでしたが、杉林さんは頑として譲りませんでした。奥さんが出ていった時、ああ、これでこいつを巻き込まなくても済む、とホッとしました。その気持ちは奥さんには言いませんでした。言うと絶対に一緒に頑張ると言うと思ったから。嫌いじゃないのに、別れなきゃいけないのは本当に切ないですね。
ご飯が全く喉を通らず、水だけ飲んで仕事をしていました。でも、じいちゃんの代から続いた酒屋は潰れました。いや、その時、町の旧商店街のお店はほとんど潰れてしまったのです。
杉林さんは入院しました。胃に十円玉大の穴が8つも開いていました。絶望の淵にあって死ぬことばかり考えていました。退院した後、何度も何度も死のうとしました。でも、いざ死のうとすると、体が動かなくなってしまうのです。死を望んでも死ぬことができない。一体どのくらいそんな時間を過ごしたでしょうか。
死ねないなら生きるしかない。そう思って仕事を探し始めましたが、世はリストラブームでした。40近い杉林さんを雇ってくれる会社はなかなかありませんでした。
そんな時でした。ふっと ‘農業’という言葉が頭をよぎったのです。40歳。論語でいう不惑の年に杉林さんは農業をやる決意をしたのです。59歳になった今も、揺るぎなく農業家の道を歩いていることを思えば、ある意味「四十惑わず」は当たっていたのかもしれません。
酒屋をやっている時に有機農法でトマトを育てて有機農法の素晴らしさは実感していたので、有機でやることに何の迷いもありませんでした。場所は大長谷か氷見かで迷ったのですが、森林組合の知人が協力してくれて、大長谷でうちを借りて再出発することになったのです。
杉林さんは思いました。自分は1回死んだ人間だ。これまで40年、好き勝手やってきた。それなら残りの人生は人にお返ししていく道を行こう。大長谷は岐阜との県境の大変な山奥です。最初は開拓時代のように開墾からのスタートでした。木を切り倒し、木の根を抜き、草を刈り、土を起こしました。しかし、農機具を買うお金はありません。クワとスコップだけで3反の土地を耕しました。そうして街とは閉ざされたその村で、杉林さんは野菜作りに励みました。でも、独学でやっていったので、試行錯誤の連続でした。大長谷は標高が高く、平野で野菜を育てるのとは気候が違い、トマトも3年経ってようやく成功したのでした。じゃがいも、ビーツ、とうもろこし、ニラ、行者ニンニク…いろいろな野菜を育てました。それはある種、修行僧が山で荒業をするような修行に通じているようにも感じます。
最初は土作りは肥料が大切だと考えていました。でもなかなかうまくいきませんでした。ある年、何度も何度も土を起こした時に、とても綺麗な野菜ができました。ハッとしました。肥料ではなく土着菌が野菜を育てるのだと体で感じたのです。土を作る。土着菌、微生物が豊富にある豊かな土が美味しい野菜を育ててくれるのです。大長谷でひたすら1人で土と対話してきた杉林さんはまるで太陽や土に導かれているように感じました。土は全てを教えてくれる。そうやって、土に対して敏感になっている状態で山に入ると、今度は山がいろいろなことを教えてくれました。山の木々や草花たち、そして山の動物たち。それら全ての息吹が杉林さんの体に入ってくる感覚だったのです。きっとそれはちょっと山に入ったくらいの人には感じられない、研ぎ澄まされた人だけが感じられる感覚に違いありません。
杉林さんは一年中、八尾の山の中に入っていました。山菜採りやキノコ採りだけではなく、雪の中の熊追いもしていました。それで、八尾の全ての山々はまるで自分の庭のように手に取るようにわかったのです。一日のうちに歩いていくつも山越えするのも当たり前のようにやっていました。ほんの2,3時間山道を歩いただけで膝が笑うような街の人間とはまるで次元のちがう感覚です。そうして山の中を歩くと、土の働きがいかに大事かがわかるのです。毎日修験者のように山を駆け回る中で、土の微生物の働きで命が育まれていることが実感として体に入ってくるのでした。こうして野菜作りは土作りだという杉林農法の骨幹が築かれていったのです。
大長谷は一般的に言えば過疎化が進んだ限界集落ですが、本当に豊かな所なのです。杉林さんの住んでいた家の周りには夏になると無数の蛍が舞い、冬は降り積もった雪を月明かりが照らし、この世のものとは思えないくらい幻想的で美しいのでした。夜には満点の星空。渡り鳥の季節になるとたくさんの渡り鳥が群れをなしてやってきました。その渡り鳥の群れの描く弧の美しさや、山で鷹が織りなす鷹柱の美麗さ。きっと名立たる観光地でどんなに有名なものを見ても、杉林さんの体験した自然の織りなす美の美しさに叶うものはないのではないでしょう。大長谷で過ごした12年間は杉林さんにとってかけがえのない宝物となったのでした。
そうして12年間の大長谷の生活の中で確信しました。土着菌や微生物が私たちの体を作ってくれることを。土着菌や微生物を吸い込んだ野菜を食べることで、私たちの体にもそれらが取り込まれ、最高の腸内細菌が作られていくのです。今は水耕栽培の工場から出荷されている野菜も多くあります。でも、それでは土着菌や微生物が体に取り込めないのです。
命を作る農に大切なのは水と土と空気です。食物連鎖は微生物連鎖でもある。体内の微生物が増えると、腸内フローラや細胞内のミトコンドリアの量が増え、それが病気にならない健康な体を作るのです。ただ綺麗でおいしい野菜だけの野菜ではなく、綺麗で美味しくて心身ともに健康にしてくれる野菜が作れるのです。そこに目を向けた農業の可能性は無限大で、これからの農を背負う若い人たちに、どんどん伝えていきたい、そう杉林さんは思っています。自分が試行錯誤してたくさん失敗しながら体得してきたノウハウを若い人たちに惜しみなく伝えてもったいなくないのかなぁと感じる浅はかな私ですが、杉林さんはそんなことは微塵も感じていません。それは、これからの日本経済は農業が背負っていくと信じているからです。でもそれは経済優先の農業ではありません。命優先の農業です。一度死んだも同じ自分の命を救ってくれたのも農だった。土だった。大長谷の大自然だった。だから、これから農業を始める人にどんどん伝えて、どんどんこの有機農法を広げていきたいと思っています。
昔の有機農法といえば、糞を巻いたりして作った野菜でした。それに比べると化学肥料で作った今の野菜の栄養価は10分の1だと言われています。でも、杉林農法で作る野菜は、生産型でかつ、栄養価も昔の有機野菜よりも高いのです。また、有機農法の野菜は虫に食われてきれいじゃない、と思っている人も多いかと思いますが、ちゃんとした有機をやると、本当にきれいな野菜ができるのです。
農業は全ての元です。体と心を作る元のものを作り出しているのは農家です。だから、農業をやる人はプライドを持って欲しいのです。ただ、残念ながら今の日本は化学肥料を使った農業が主流です。化学肥料を使った野菜は硝酸態窒素だらけです。それが腸内に入ると異常発酵してそれが毒になるのです。現代病の多くは腸内環境の乱れから来ているものがとても多いのです。健康にいいと思って食べ続けている野菜で腸内に毒素を溜め込むという本末転倒の現象が起きているのです。そして化学肥料をたくさん撒いた田んぼや畑は土が育っていません。微生物不足の田畑を、土着菌と微生物がたくさんいる土へと生まれ変わらせたい。病気にならない環境を取り戻す農業をしていきたい。そんな農業に変わる時がきっとくる。今、変わらなきゃ、いつ変わるんだ
こんなに自然が豊かに見える富山も環境が変わってきています。水の国、富山ですが、今、伏流水が減ってきています。それは山の自然環境が杉林(本当の杉林です。杉林さんではありませんw)で崩されているからです。杉の木は下に根を伸ばしません。大雨が降ると、杉がひっくり返って大量の水が山の表面を流れ川が氾濫します。自然林に戻して、根を下に伸ばせば土の中に雨が入っていきます。表面だけを流れて川が氾濫することが少なくなるでしょう。でも、今、山仕事をする人が減って、杉が負の遺産になっているのです。それでも、なかなか日本の行政は動きません。いまだに工業が日本を救うと思っています。そうでしょうか?日本がこれから世界に誇るべきは、世界で屈指のきれいで豊かな水と、そして農業だと杉林さんは考えています。
体を動かしているのは心です。心が不安定だと体も不安定になります。逆に心がしっかりしていればちょっとやそっとで人は崩れない。その心を作るのも食だと考えています。土着菌や微生物は腸内環境に働きかけます。今、腸が脳の働きに密接に関わっていることがわかってきました。腸を整えることで、体や心の不調が改善されていきます。たくさんの論文も発表されて大いに注目されている分野なのです。
そして、杉林さんは野菜作りに使う水に徹底的にこだわっています。幼植成長の時は根の伸びを促進する酸性の水を使い、生殖成長の時はアルカリ水を使用して好気性微生物を活発にします。そうやって成長段階に合わせて野菜がいちばん必要な水を与えてやるのです。杉林さんは子育てする時のお母さんのように野菜の気持ちがよくわかるにちがいありません。なぜなら、杉林さんの育てた野菜の味は全然違うのです。本当の野菜ってこんな味だったんだ!ということを実感させてくれます。そしてその野菜の味に慣れてしまうと、化学肥料で育った野菜は体が受け付けなくなってしまうのです。体って実はとても賢いんですね。
杉林農法について ぜひクリックしてお読みください。
12年の大長谷生活を経て、杉林さんは八尾に移り住みました。それは自分が山で体得した農法を若い人たちに伝えていきたいという思いが強かったからです。杉林さんは不登校の子どもたちとも一緒に畑を作っています。野菜嫌いで全く野菜を食べなかった子どもたちが杉林さんの作ったピーマンを生でボリボリ食べるようになります。それはその場の雰囲気で食べられるようになったのではなく、理に叶ったわけがあるのです。それまで野菜を食べられなかった子は、化学肥料で育てられた野菜に含まれる硝酸態窒素に体が拒否反応を起こして、食べられなかったのです。でも、杉林さんの野菜には硝酸態窒素はなく、体が喜ぶ微生物がたっぷり含まれています。言葉で説明しなくても、体はそれを知っている。だから子どもたちは杉林さんの野菜だったらかぶりついて食べるのです。
子どもたちと一緒に過ごす時間は本当に楽しい時間です。サッカーのコーチやスキーのインストラクターをしている時もそうですが、杉林さんには教えてあげているという感覚はありません。子どもたちと同じ目線で遊んでいる感じなのです。すると、子どもたちもすぐに心を開いてなんでも話すようになってくれます。でも、故意にそうしているのではなくて、自然にそうなっているのでした。子どもたちに対しても、野菜たちに対してもいつも愛情たっぷりなんですね。
杉林さんは思うのです。今、ならなくてもいい病気になっている子どもたちがたくさんいる。でも、土着菌や微生物をたっぷり含んだ野菜を食べて腸内を整えれば、自然に治っていく病気がほとんどなのです。杉林農法で育てた野菜でそんな子どもたちを一人でも減らしたい。そして、子どもたちが笑顔になれる時間を増やしていきたいのです。そんな杉林さんは実はもう3人のお孫さんがいるおじいちゃんでもあります。杉林さんご自身は今59歳ですが、双子の息子さんたちは38歳で、3人一緒に写った写真は年の離れた兄弟のように見えるので、若いおじいちゃんですね。
双子の息子さんたちと一緒に
そんな杉林さんは、「この野菜食べて感動した!」と言ってもらえるのが最高に嬉しいとおっしゃいます。野菜を食べて美味しいっていう感想ではなく、感動した!と言われるのです。でも、実際に杉林さんの野菜を食べると感動します!皆さんもぜひ、杉林さんの野菜を食べてみてください。
www.jibamonya.com/?tid=100006&pd_id=17 今コロナ禍にあって、これまでの生き方を見つめ直している人は多いと思います。都会に憧れて都会のいい大学やいい会社に入ることがいい人生だと思っていた人も多いでしょう。でも、マスクをつけて通勤電車に長い時間揺られてヒートアイランド現象で熱を持った街にある会社に通うのが、果たして人として幸せなのか?
自分が心豊かに過ごせる場所はどこなのか、立ち止まって考えるいい時なのかもしれません。
そしてもし、富山で農業をやりたくなったら、ぜひ杉林さんを訪ねてみてください。きっと少年のような純粋なキラキラした瞳で、農業のことを、土づくりのことを、熱く語ってくれます。