今日の人227.山路健造さん [2024年07月20日(Sat)]
今日の人は一般社団法人多文化人材活躍支援センター通称「たぶさぽ」代表理事で、多文化社会コーディネーターの山路健造さんです。
輪島のトレーラーハウスにて 山路さんは1984年12月2日に大分で生まれました。幼稚園の時にはまっていたのはウルトラマン!小さい頃は体が弱く、病弱でしたが、入院中にウルトラマン図鑑をずっと読んでいたのを覚えています。特に好きだったのはウルトラマンセブンでした。 山路さんが通っていた幼稚園は英語教育に力を入れていたのですが、山路さん自身英語がとても好きだったこともあって、幼稚園の卒園後も、幼稚園の先生が開く小学生向けの英語教室に通っていました。これが山路さんにとっての多文化共生との出会いの始まりでした。英語の暗唱大会ではジョン万次郎のスピーチをして優勝するなど、英語に触れているのがとても楽しかったのです。 ソフトボールクラブに入ってからは体も強くなり、クラブではキャプテンもしていました。クラスでもいつも学級委員をやらされていました(風邪で休んだ日も、学級委員に推薦されていました)し、いつも何かをやらされるのは今も変わっていないようです。人のいい山路さんは頼まれると断れない性分なのでした。 中学校に入っても英語は常に1番。それくらい英語が好きでした。いや、英語だけではありません。お父さんがインドネシアに赴任していて、現地に遊びに行った時も、山路さんは現地の人の話すインドネシア語をすぐに理解したので、お母さんに「あなたは語学の才能があるね」と言われました。そういうこともあって、将来は英語の先生になろうかなと思っていました。 中学校では野球部、高校で入ったのはなんとフェンシング部です。体験入部して、そのままなんとなく入ってしまったのですが、フェンシングはとても面白かった。でも、それ以上に面白かったのはやはり英語です。外国語を勉強するなら東京外大で勉強したいと思っていた山路さんは、東京外大を受けます。しかし、受けた年のセンター試験で、大得意な英語で失敗してしまいました。でも、やはり外国に多く関係する大学がよかったので、半数が外国人学生のAPU立命館アジア太平洋大学の4期生になりました。 三国志も大好きだったこともあり、第2外国語には中国語を選びます。2年になる年の春休みには1か月間中国の復旦大学に語学研修に行きました。買い物に出かけるだけでも楽しくとても充実していました。ある週末、南京へ遊びに出かけたのですが、行きの電車が大雨で遅れて当日中に帰れなくなりました。泊まることを想定していなかったのでパスポートを持ってきていません。さて困ったどうしようと思いましたが、タクシーの運転手さんと仲良くなり、その運転手さんは方々を訪ね廻ってホテルを見つけてくれたのです。本当にありがたいと思って、お金を渡そうとしたら、お前は友だちだからいいと、受け取ってくれませんでした。南京で日本人と言うだけでもまずいかもしれないのに、ずっと廻ってホテルを探してくれて、ホテル代まで出してくれて、人のあたたかさをひしひしと感じた中国での出来事でした。人をヒトとして好きになれるっていいな。心からそう思った山路さんは大学の友だちと一緒に「こここりあ」というサークルに入りました。サークルでは在日コリアンの人と一緒に東アジアの問題について熱く語り合いました。どこの国の人だっていいじゃん。何人(なにじん)だっていいじゃん。人をヒトをして好きになれる社会を創る。これは山路さんにとっての人生の理念です。そういう体験もあって、3年で単位を取り終えて、4年生の時は留学したかったのですが、長期留学は親が許してくれませんでした。 山路さんは1年生の時にとったメディア論がとても面白くてジャーナリズムにも興味を持っていました。長期留学の道はあきらめましたが、山路さんはジャーナリストになることを目指しました。西日本新聞が開催していたジャーナリスト講座を受け、月に2回、福岡まで通い、午前は記事の書き方、午後は現場の記者の話を聞きました。記者の話がとてもおもしろくて、西日本新聞に入りたいという気持ちが強くなっていきました。大阪の説明会にまで出向いたのですが、人事の担当の人と飲みに行くことになり、「注文の取り方、お皿の置き方がよかった」と宴会部長として(これはもちろん冗談)採用されることになりました。 山路さんが入社したのは、福岡で酒酔い運転のよる痛ましい幼児死亡事故のあった年でした。祭りと言えばお酒がつきものでしたが、博多山笠のなおらい(お酒を飲むこと)をやめます!という記事を書きました。5月の配属時月から7月15日の追い山まで、実際に自分も担ぎ手になって書いたルポはとても評判がよく、山路さんの新人記者としての出だしは上々だったと言えるでしょう。 筑豊の担当だった時は炭鉱町に朝鮮人労働者が働いていた記事を書いたり、トヨタ九州の工場担当になっていた時はリーマンショックの派遣切りを取材したり、さまざまな現場を担当しました。 東日本大震災の直後に佐賀に転勤になった山路さん。これが佐賀との出合いになりました。九州電力の原発再稼働をめぐる問題や諫早湾の干拓事業についての取材などをしていました。 2014年、LCCの春秋航空が佐賀空港と上海を結ぶ便を開設します。なんと佐賀から上海まで片道3000円で行けました。それに関連した様々な国際交流の取り組みを取材し、国際的な円卓会議の取材もしました。この円卓会議の事務局をしていたのが地球市民の会で、山路さんは4回シリーズの円卓会議を全て取材し、毎回飲み会まで参加してすっかり地球市民の会の人たちと仲良くなりました。その後も、地球市民の会の災害支援やミャンマー事業やタイ事業の記事をいろいろ書くうちに、いつの間にか地球市民の会の広報担当のようになっていました。 地球市民の会は 1983 年、九州で最初にできた NGO・NPOで、タイ、ミャンマー、スリランカでの国際協力事業や災害支援事業などを進めていました。「世界中のすべてのものの幸せを自分の幸せと感じられる社会をつくる」という理念にも共感を抱きましたが、何より事務局長の一言がズシリときました。 「伝える側ではなくて、プレーヤーとして関わりたいんじゃないの?」 「君はこっち側の人だよね」と言われた山路さんは新聞社を辞めてプレーヤーとして国際協力に関わりたいと青年海外協力隊に行くことを決意します。地球市民の会がラオス事業を展開しようとしていたこともあって、派遣先の希望をラオス、ネパール、インドネシアの順に書きました。けれど、実際に派遣先に決まったのはフィリピンでした。ルソン島の南にあるビコール地方南カマリネス州ティナンバック町に赴任が決まります。協力隊の2年間は全くちがう言語を勉強したいと思っていた山路さんでしたが、訓練言語は英語でした。けれど、現地についてからはテレビではタガログ語、現地ではビコール語を使っていたので、言葉を覚えるのもなかなか大変でした。それでも、もともと持っていた語学のセンスの良さで、ビコール語も話せるようになった山路さん。輪島の被災地でアセスメント調査に回っている時も、ビコール語を話すフィリピンの人に出会い、ビコール語で話しかけて嬉し泣きされてしまった山路さんなのでした。 現地での職種はコミュニティ開発で、有機農業リーダーを育てるというミッションがありました。北ルソンに木酢液を作る機械を作っているNGOの見学にも行きました。こうして、ゴミになっていたココナッツの殻から木酢液を作るという計画を立てました。 しかし、現地の町長選で町長派と副町長派に分かれて激しい選挙戦が繰り広げられ、町政がすっかり滞ってしまい。木酢液の機械の決裁をする人がいないという事態に。結局、選挙と雨で工事ができず、道半ばで任期が終わって帰ってくることになりました(木酢機械は、山路さんの任期後半年で、同僚が実現してくれました)。 2016年10月に帰国し、その後は地球市民の会に入って、タイ事業を担当することになりました。そんな中で声がかかったのが、佐賀県主催の「タイフェア in SAGA」(2017 年 10 月開催)でした。佐賀県は、タイからの映画やドラマの誘致に力を入れてロケ地となっていたことからタイからの観光客も増加。佐賀県とタイ王国政府芸術局は文化交流に関する覚書を締結していて、タイフェアもタイ文化を佐賀県民に紹介するイベントとして企画されました。 佐賀県に住むタイ人やタイが好きな人で実行委員会をつくり、タイ料理の屋台やタイ文化を紹介するブースを出展。その実行委員会事務局を任されたのが、地球市民の会でタイ事業を担当する山路さんだったのです。 イベントは、1日は台風で中止になったものの、大成功のうちに終わりました。でも、そんな中、気になった光景がありました。タイ人留学生同士でも、大学が違うと交流する場がないこと。県内には佐賀大学、西九州大学、日本語学校・ヒューマンアカデミー佐賀校(当時)にタイ人留学生が在籍していましたが、このイベントで初めて顔を合わせたという話でした。また、会場では、日本人配偶者として暮らすタイ人が「久しぶりにタイ語を話した」と喜び、朝から晩まで会場にいて交流する姿が見られました。 山路さん自身も青年海外協力隊としてフィリピン人に囲まれた生活を送り、たまにマニラ首都圏に上京すると、協力隊のドミトリーで夜遅くまで会話したり、大分県人会、立命館校友会に参加したりしながら、共通のテーマをもとに同胞で交流する場を求めていました。「そういう場が佐賀のタイ人にはないのか。横のつながりをつくってタイ人の孤立を防げないか」そう思って新たに設立したのが、「サワディー佐賀」です。 サワディー佐賀は、タイ映画のロケ地となり、観光客が増えていた祐徳稲荷神社(鹿島市)でのボランティアガイドをしたり、タイ語教室を開催し、タイ語を学びたい人向けに勉強する機会をつくったりしたほか、人気だったのがタイ料理教室。これらの中心を担うのは、日本人ではなくタイ人。ボランティアの交通費やタイ語教室・タイ料理教室の講師には、きちんと謝金を渡します。山路さんの「外国人住民の活躍」というキーワードの第一歩が、サワディー佐賀での活動でした。 一方、それまでの文化的な活動とは違う活動がスタートします。 2019 年 8 月の佐賀豪雨に端を発した、災害時のタイ語発信です。この時は機械翻訳でしかできず、不正確な情報を発信せざるを得なかった山路さんは、サワディー佐賀内に翻訳チームをつくりました。特徴は、タイ人同志で、タイ語のスペルなどをダブルチェックする体制。災害やコロナ情報など、タイ人住民に伝達したい事柄が起きたら、まず山路さんが情報を整理し、やさしい日本語で翻訳チームの LINE グループ(メインのLINEグループとは別に設立)に投稿。すると、日本語が得意なタイ人や、タイ語ができる日本人などが、そのやさしい日本語をタイ語に翻訳する。それをメインの LINE にすぐに投稿するのではなく、どんなに緊急的な情報でも、一度、タイ語ネイティブによるダブルチェックをしたうえで投稿します。万一スペルミスや意味を取り違えると、間違った行動につながってしまうからです。 この体制をつくったことで、 コロナ禍では感染者数や、緊急事態宣言などでもタイ語で情報発信が可能となりました。特別定額給付金の支給や、ワクチン接種情報も、国や県の説明文をタイ語に翻訳しました。佐賀県では 2021年 8月にも豪雨被害がありましたが、県の災害情報会議終了後30分で、ダブルチェックをしたうえで情報発信が可能となるなど、タイ人グループとしてのノウハウを確立することができました。これらの活動が認められ、サワディー佐賀は、2020 年度総務省ふるさとづくり大賞(団体表彰)を受賞したのです。 一方、2020年度からは、タイグループで培った災害情報発信のノウハウ の「横展開」を行いました。ほかの少数派外国人をグループ化し、日本語が堪能なメンバーを中心に翻訳し、内容をダブルチェックしたうえで発信しようという狙いです。この事業により、ミャンマー人とスリランカ人の SNS グループをつくることができました。この佐賀県の少数派外国人支援を続ける中で、気づいたことがありました。ミャンマー政変に伴う相談会には、佐賀県外からのミャンマー人参加者がいました。「緊急時だからこそ、多くの人とつながりたい」との感想が、いつまでも耳に鳴り響いていました。「NPOならば、決して佐賀にこだわらなくてもいいのではないか?」。行政ならば、県は県域、市は市域と行政区分がある。しかし NPOなら定款で対象区域を絞っていない限り、県を越えた活動ができるはず。ミャンマーのみならず、災害にしても、線状降水帯が発生すれば県を越えた被害が発生するし、地震でも同じくだ。そこから構想したのが、「九州外国人支援ネットワーク」です。 なぜ広域の活動を考えたのか。それは、九州という地域が抱える課題があります。九州では、福岡をのぞいて、外国人が集住して暮らす地域が少なく、農村地域などに分かれて暮らす「散在地域」となっています。在留資格も、全国で多い「永住者」ではなく、「技能実習」が多く、また、外国人対応の経験のある士業も少なく、まだまだ首都圏に比べて遅れています。佐賀県は、行政による災害時の多言語情報発信の言語数が多いけれど、県域を越えた発信というのは難しい…。 災害時や日ごろの生活相談などの困りごとを解決するため、 NPO や行政、外国人コミュニティなどがセクターを超えて繋がりあい、それぞれの強みを生かした緩い連携をつくりたい、というのがこのネットワークの狙いです。行政職員は 3年程度で職員異動もあり、人が定着する民間で多文化共生に関するノウハウやネットワークを蓄積させるという意図もありました。 地球市民の会として打ち出したこの構想に関しては、公益財団法人かめのり財団がバックアップ。多文化共生に関する法律のセミナーを開催したり、水害が発生する佐賀県で、災害発生後の行動などをまとめた 多言語ハンドブック(認定 NPO 法人全国災害ボランティア支援団体ネットワーク JVOAD 監修、英語・中国語・タイ語・ミャンマー語・やさしい日本語に翻訳)を作成したり、ワークショップ「外国人のお困りごとをネットワークで解決しよう」を開催したりしました。 また、かめのり財団からの調査委託として、佐賀県内 20 市町や、九州の関係機関や NPO などに調査を実施しました。 そうして「1つの自治体、団体、機関ですべての外国人住民の『お困りごと』に対応するのは、難しくなってきた」という仮説を検証するレポートをまとめました。 山路さんの動きはとまりません。2022年2月に侵攻が始まって発生したウクライナ避難民の受入れにもいち早く動きました。 佐賀 NGO ネットワーク事務局を務める地球市民の会から市と県に対し、「それぞれで支援するのではなく、せっかくならば協働しませんか?」と申し入れ、全国で初めての官民連携によるウクライナ避難民支援が始まったのでした。佐賀の多文化共生を進めるチャンスにもなる」との思いで始めた避難民受け入れ事業でしたが、結果的に、様々なコミュニケーションツールの整備が進みました。まずは、ウクライナ語の会話帳。これは、簡単な挨拶や会話、ウクライナをサポートする言葉をまとめたもので、三つ折りの名刺サイズで印刷し、日本人に配布することで、財布などに入れて、ウクライナ人に話しかけてもらうことを目的に製作しました。そのほか、地球市民の会の日本財団助成金により、佐賀県国際交流協会の生活ガイドのウクライナ語版を作製したほか、水害ハンドブックについて、日本ウクライナ友好協会が「ウクライナ語版もつくりたい」と申し出があり、同協会の予算で製作するなど、避難民、在日ウクライナ人と対話をしながら、コミュニケーションツールを作製していきました。 こうしたさまざまな実践の中で山路さんが強く感じているのは「外国人住民を包摂するためのインフラが整えられていない」という課題です。実はこの課題について山路さんが身を持って感じた大きな出来事がありました。それはタイ人女性との国際結婚の失敗です。 山路さんはサワディー佐賀の活動の中で、 メンバーのタイ人から、タイ現地に暮らす妹さんを紹介されました。彼女がお姉さんに会いに佐賀に来た時に初めて出会い意気投合。ほどなく交際がスタートしました。そしてタイまで会いに行って婚約し、2018年11月に入籍し、日本での暮らしが始まりました。 彼女は、タイでは銀行に勤め、経営学修士(MBA)を取得したほどのエリート。でも、その職を辞し、日本での暮らしを選んだのです。日本語が堪能で、サワディー佐賀の活動を楽しむ姉の姿へのあこがれもあったのでしょう。彼女は日本語ゼロ初級で来日したため、「まずは日本語を」と、日本語学校へ入学。しかし、学費が高く、 通ったのは 3 か月のみで、 基礎まで身に付けてもらって、その後は山路さんの知り合いの日本語教室で学んでもらう予定にしていました。勉強熱心な彼女は完全なゼロ初級にもかかわらず、母国でN5 を取ってから入学したネパール人の同級生たちよりも成績が良かったのです。帰ってからも何度も漢字を書いては覚え、山路さんも会話練習の相手をしました。 こうしてクラストップの成績で 3 か月の授業を終えました。これからは日本語教室と独学で学びながらアルバイトも。そんなことを考えていましたが、日本語学校に通わなくなってから、だんだんと家に引きこもるようになりました。スーパーの店員さんの何気ない会話も聞き取れない。冷凍食品の作り方のレシピさえ読めない…。人見知りの性格も相まって、 タイ人とさえ会いたがらなくなってしまいました。一日家に引きこもり、タイの YouTube を見続ける日々。「私は、ここ(日本)では子どもになってしまったみたい」と漏らした言葉が山路さんの頭を離れません。タイ人の孤立を防ぐためにサワディー佐賀を作ったのに、自分の大切な人がタイ人メンバーと会うことさえ嫌がるようになってしまったことにとてもショックを覚えた山路さん。 そうして彼女は「少しタイに帰りたい」とコロナ禍前に一時帰国して、そのまま二度と日本に戻ってくることはありませんでした。 「たられば」を言えばきりがありませんが、外国人住民に対するインフラの未整備を思い知らされた、苦い経験でした。 しかし、同じようなケースは、ウクライナ避難民でも見られました。ウクライナ避難民の中には「よりウクライナから離れた場所へ避難したい」と様々なプログラムを探し、 SAGA Ukeire Network(佐賀県、佐賀市、CSOによる官民連携のネットワークで、それぞれの 機関・組織の強みを生かした「ワンストップでの受け入れ」を実践)に応募してくれた方がたくさんいました。その多くが日本への避難は想定していなかった人たちです。もちろん、日本語の学習は未経験。ひらがな、カタカナさえ分からない避難民がほとんどで、 母国で日本語の基礎を勉強したうえで来日したネパール人がひらがな、カタカナを書き、簡単な日常会話ができる中、まったく日本語学校の授業についていけずに、通うのをやめてしまったウクライナ避難民もいます。日本語で日本語を教える直接法が主流の日本語学校において、ゼロ初級の避難民が日本語を学ぶことは難しい。ホテルなどで勤務した経験もあり、流ちょうな英語を話す人でも、佐賀において就労には結び付いていません。 農業県である佐賀県では、 選果場やノリ養殖などの単純作業もある。ただ、ウクライナは大学進学率が高く、世界銀行のデータによると、高等教育機関への就学率は、ウクライナは2019 年で 84%。同年の日本の 62%より、 20 ポイント以上高いのです。「避難民だからどんな仕事もいとわず働く」のではない教育文化的背景も、日本社会は理解する必要があります。 このように、多文化共生の実践として、タイ人グループの設立からさらなる少数派外国人への横展開、九州外国人支援ネットワーク構想、そしてウクライナ避難民支援と続けてきた中で「社会的インフラの整備の重要性」という課題が山路さんの目の前に立ちふさがりました。これを解消・緩和すべく、地球市民の会でウクライナ避難民当事者インターンによる事業を進めようとしていました。また、タイからの外国人材受け入れ事業を進める予定でしたが、避難民の家族に対する支援の公平性とインターン雇用で意見の相違が発生しました。それで山路さんは地球市民の会を退職し、自ら一般社団法人多文化人材活躍支援センターを設立したのです。 一般社団法人多文化人材活躍支援センター通称「たぶさぽ」の一番の特徴は、ウクライナ避難民として佐賀で受け入れたポジダイェヴァ・アンナさんが理事として参画してくれたことです。 2022 年 2 月のウクライナ侵攻開始後に日本へ避難したウクライナ人当事者が設立した団体は初めてのケースとみられます。 彼女は、夫と娘 2 人と共に、SAGA Ukeire Networkの事業で佐賀県へ来ました。そして、地球市民の会でもインターンをしてくれた 1 人でした。 アンナさんは、 2000年代に福岡の美容学校で学んでいた経験もあり、日本語が堪能で、帰国後、首都キーウで美容サロンを営んでいましたが、侵攻開始直後に、サロンが入居するビルにミサイルが直撃し、国外への避難を考えました。ゆかりのある日本での受け入れプログラムを探す中で、かつて暮らした福岡の隣の佐賀県のプログラムを見つけて応募。 2022 年 11 月にまずは娘 2 人と 3 人で避難し、 2023 年 4 月には目に障害を持つ夫も 、徴兵免除となって出国が可能となり、 佐賀へ避難できました。地球市民の会インターンでは、それまでの日本人インターンの後任を公募したところ、「私たちでもサポート側でできることはありますか?」と応募してくれました。 祭りなどでの寄付募集の企画を中心で考えてくれたり、高齢者大学で講演をしてくれたりなどして活躍し、その後、山路さんが福岡県久留米市で 2023 年 8 月に発生した豪雨被害の被災者支援をしていることを知り、「日本人のおかげで私たち家族は避難できた。その恩返しをしたい。 何かできることはありますか?」と申し出てくれて、被災した子どもたち向けのウクライナ料理の炊き出しも実施しました。これは「ウクライナ避難民が豪雨被災地支援」ということで、 7 つのメディアに取り上げられるなど、注目を集めました。 その後、アンナさん一家は、2人の娘さんの教育機会を求めて東京へ転居。転居後も山路さんとはビザの身元保証人という関係もあり、連絡を続けていました。 その中で、アンナさん自身の体験やほかの避難民の経験から、やはり「避難民が日本で生きていくための日本語教育や就労には壁がある」との意見で一致。「同じく日本に長く暮らしたいと希望するウクライナ人と一緒に暮らしやすい社会をつくりたい」というアンナさんの思いを受け、法人化を決めたのです。 アンナさんと課題と話しているのは主に4 点。@永住を希望する避難民の自立(日本語、就労)が進んでいないA戦争の長期化、核リスクによる、さらなる避難希望者の増加が予想されるBウクライナという国へのマイナスイメージがついているC復興に向けたファンドレイジングの必要性と反比例し、戦争の長期化により寄付が減少しているという点です。 これにより「避難民支援事業」として実施したいと考えているのは、 大きく分けて 2 つ。 1つは、ウクライナ避難民の自立に向けた「能力強化」です。今後、戦争の長期化により、 メンタルヘルスの不調や、男性(18〜60 歳)が出国できないことによる離婚の増加などが 考えられます。医師や弁護士などの資格を持つ避難民に相談できる体制を整えたいと話しています。また、日本語のできる避難民が通訳・翻訳として活躍できるように、コミュニティ通訳の研修会も実施したいと考えています。そのほか、直説法では習得が難しいウクライナ避難民向けに、ウクライナ語やロシア語で日本語を教える体制づくりも検討しています。 実は、たぶさぽの理事の一人は、ロシアで日本語教師の経験を持つ、佐賀女子短期大学グローバル教育センター副センター長の金武雅美さんです。 APU で留学生向けにも長く日本語を教えた経験もあり、今後、 避難民向けにロシア語などを使ったサバイバル日本語の講座を検討しています。 2つ目は、ウクライナのポジティブなイメージの発信です。「戦争」というイメージが ついたウクライナについて、ポジティブなイメージを持ってもらいたい、とのアンナさんや 他の避難民の思いを受けた企画です。具体的には、アンナさんが全国を巡りながら、得意 の料理の腕を生かした料理教室と体験談を聞くセミナーをセットにした「全国キャラバン」 や、高校での出前講座を企画しています。 そのほか、 YouTubeを使って動画配信も実施し、ウクライナ料理や観光地、日本での生活など、ポジティブなイメージを発信していきたいと考えています。現在考えている事業はすべて、アンナさんが発案した企画。避難民という「ゲスト」として入国したアンナさんだからこそ、避難民たちの ニーズをとらえた支援側=ホストとして活躍できると考えています。そうして山路さんは今後、カフェやウクライナからの輸入、スタディツアーなど、ウクライナと日本を繋ぐソーシャルビジネスを生み、ウクライナ人の雇用をつくりたいと考えています。 実は2024年8月10日から3日間、被災地輪島でウクライナ料理の炊き出しをすることも決まっています。なぜ、輪島かというと、山路さんは能登半島地震の発災後、5か月にわたって輪島にいたのです。ダイバーシティ研究所の田村太郎さんから、金沢に一週間行ってくれと言われ、気づいたら輪島に5か月。石川県がJVOAD(認定NPO法人 全国災害ボランティア支援団体ネットワーク)へ委託して実施した奥能登5市町を対象地域とする「被災高齢者等把握事業」の再委託先がダイバーシティ研究所で、被災した方々の生活実態や避難の状況、今後の再建の見通しを尋ねる事業に取り組んできたのですが、2月から現地にずっと常駐することになったのが山路さんだったのです。 地震後に認知症や障がいの度合いが進んだり、在宅まで支援が届いていなかったり…。そんなケースを1件でも見つけ、行政や福祉サービスの支援につなげるためにも、すべての家庭を訪問する活動を実施しました。山路さんはロジ担当のリーダー、そしてコーディネーターを支え、1300人を超えるスタッフを受け入れるために大きな役割を果たしたのです。 4月以降は輪島市からの依頼に基づいて、市内の全て世帯を訪問。6月末までに空き家や倒壊家屋も含め市内の全世帯の訪問を終えました。 2月からずっとトレーラーハウスで暮らしてきた山路さん、いつの間にかトレーラーハウスのベッドがいちばん寝やすくなったのでした。たくさんのケアマネさんや相談支援員さん、全国から来る訪問スタッフ、輪島での出会いは、山路さんにとってかけがえのないものになりました。 そうして山路さんは大きな決断をします。ウクライナ避難民の事業をやりつつ、これからは輪島に拠を構え、輪島で活動していきたい、そうして仕組み作りをやっていきたい!そう決めたのです。 今は輪島での5か月を振り返りつつ、次のステップへの準備をしています。 お酒とキャンプが大好きな山路さん。もうちょっと落ち着いたら、輪島でソロキャンプができるかな。でも、くれぐれも飲みすぎには注意ですよ。 大好きになった輪島の夕景 |