今日の人142.川田真紀さん [2015年05月02日(Sat)]
今日の人は看板屋さんとしてたくさんの看板を製作し、また「なんと里山なりわい塾」で地元の間伐材で割り箸活用を進めたり、里山を守る活動について小学校などで特別授業をしたりして幅広く活躍中の川田真紀さんです。
真紀さんは福光生まれの福光育ち。小さい時は山の中を走り回るのが好きでした。背戸の川のほとりでおままごとをしたり、友達と秘密基地を作ったり…。でも、ある日、秘密基地で火を炊いているのを爺ちゃんに見つかってしまったからさぁ大変!真紀さんは蔵に閉じ込められてしまったのです。南砺市の家は大きくて、蔵のあるうちもたくさんあるのですが、蔵に閉じ込められるのはそれは怖かった。なにしろ蔵には光が差し込まないので、真っ暗になってしまうのです。それが幼心に怖くて怖くて仕方がなかったのでした。それ以外にも、何かいたずらをしたり時間を守らなかったりしたら蔵に入れられました。入れるのはいつもお父さん、そして出してくれるのはいつもおばあちゃんでした。 真紀さんには弟がいるのですが、弟さんは体が弱く、いろいろな家の仕事をやらなくてもよかったので、不公平だなぁと感じていました。昔の家は家中みんな働き者で、まして農家もしていましたから、真紀さんも子どもの頃から働くのが当たり前、働かざるもの食うべからず、という感覚でいました。稲刈りの後の落ち葉拾いなども決まって真紀さんの仕事でした。 おばあちゃんはいつも「女も手に職があるといい」と言っていて、父方のおばが3人共看護師をしていたこともあって、真紀さんもいつの頃からか将来は看護師になろうと思うようになっていました。一方、お母さんが独身の時からデザインの仕事をしていて、結婚後はペンキ屋さんで看板を作る仕事をしていたことも影響してか、デザイン関係にも興味がありました。それに真紀さん自身、美術の成績がとってもよかったのです。 看護科かデザイン科か、乙女心は揺れましたが、高校の体験入学をした時に、高岡工芸の印象がよかったので、デザイン科に進むことに決めたのでした。 実は若い時にデザインの仕事をしていたお母さんからは「あんたがおらんかったらこの家出て行っとったわ」とよく言われていました。「かたい子(富山弁でいい子という意味)でおれ」といつも言われていました。だから、かたい子が価値があって、かたい子なら愛してもらえると思っていた真紀さんは、かたい子でいるためにいっつもお手伝いをしていたし、先生にも可愛がられるようにしていました。 事実先生にはとても可愛がられました。それが他の子には真紀さんばかりが贔屓されているように写ったのです。ある出来事がきっかけで6年生のある時期にクラスのみんなから無視されていたことがありました。でも、かたい子でいなくてはいけないという思いが強かった真紀さんは誰にも相談できず、ただ耐えました。そんな真紀さんにそっと励ましの手紙をくれた友だちがいました。偽名を使ってあったけど、それが誰かははっきりわかりました。本当に嬉しかった。 そんな日々の中でのある集会でのことです。校長先生の話に真紀さんの心は大きく揺さぶられました。校長先生は仏教でいうところの七施のお話をしてくれました。その中に和顔悦色施(わげんえつじきせ)「にこやかな顔で接する」 という話がありました。たとえイヤなことがあっても、笑顔でいる。笑顔でいると周りにいる人も笑顔になれる。そんな話だったのですが、それを聴きながら、真紀さんは自分の中の価値観がグワンと回転する感覚になったのです。 今まで自分は自分のことを可哀想だと思い、してもらうことばっかり考えていた。だからいつもしてもらえないという不満を抱いていた。そうじゃない。自分が笑顔になって周りも笑顔にしていけばいいんだ!そう思ったのです。6年生でそう素直に思った真紀さんの感性がすごい!そして、もっとすばらしいのは真紀さんは思うだけではなく、実際にそれを実行したのです。そうすることで、真紀さんのことをシカトしていた友達が少しずつ真紀さんに話しかけるようになっていき、最後には真紀さんを無視し始めた一番の元だった人とも仲直りできたのでした。 お父さんが本を読ませるのが好きだったこともあって小さい時から読書好きだった真紀さん。お父さんが仕事の時に砺波の図書館に連れて行かれ、そこで一日過ごすこともありました。それはちっとも苦ではなく、むしろ好きな本に囲まれる素敵な時間だったのです。 中学校では美術部に入り、運動会のマスコットを描くなどもしていました。クラスで漫画を描くのが流行っていて、同人誌も流行り始めた頃でした。真紀さんも中3の時に同人誌を作り、学校で友達に売ったのですが、それが先生にバレて怒られて廊下に正座させられたこともありました。 天然パーマなのに疑われて、先生に水をかけられたこともあります。パーマだと水をかけるとくしゅくしゅっとなりますが、天パだと水をかけるとまっすぐになるのです。それでまっすぐになったのですが、先生は謝ってくれなかったので、腹が立って五分刈りにしちゃったこともありました。でも、その年最後の給食についてきたケーキを先生が真紀さんにくれたので、少しは先生も悪いと思ってくれていたのかな、とその時思ったのでした。 そんな少女時代を過ごして工芸高校のデザイン科に進んだ真紀さん。お母さんは賛成してくれたのですが、お父さんは工芸高校に行くことに反対でした。なにかうまくいかないことがあると、それみたことかと言われるので、絶対に言わないようにしていました。高校からは一番遠いところから通っていた真紀さんでしたが、そういうこともあって、親に送迎を頼むことはまずありませんでした。そうは言ってもやはり娘のことが心配だったのでしょう。よほど雪がひどいような日には迎えに来てくれました。 卒業したらすぐ手に職を持ちたいと思っていた真紀さんは、最初伝統工芸の道に進もうかとも考えました。でも、加賀友禅の世界に入った先輩がちっとも楽しそうじゃないのを見て、気持ちが揺れました。ちょうどその頃はまだ、映画の手描き看板が出ている時代でした。映画看板カッコいいな、そうおもった真紀さんは看板屋さんに就職したのです。しかし、そんな簡単に映画看板を描かせてもらえるはずもなく、普通の看板ばかり描くことになったのでした。しかし、それでもプロの世界はやはり厳しく、最初は思うように描けない日々。常に先輩のしていることを見ないとちゃんとできない、そんな世界でした。でも、何度も失敗を重ねて、ある日フッと出来るようになる瞬間があるのです。それがとても嬉しかった。 こうして少しずつ仕事を覚えていった20歳の時、ばあちゃんが亡くなります。その日の朝、ばあちゃんがむくんでいるのを見た真紀さんは「病院に行ったらいいよ」と言ってそのまま仕事に出かけたのです。その朝、ばあちゃんが笑いかけてくれたのに、真紀さんは視線を逸らして仕事に行ってしまった。そしてばあちゃんは病院に行かずに亡くなった。そのことが猛烈な後悔として残りました。 だから、ばあちゃんの代わりにじいちゃんの世話は私がせんなん、そんな気持ちでいました。真紀さんは私がじいちゃんを見る、と言ったのですが、お母さんが仕事を辞め、じいちゃんの介護にあたったのです。しかし、お母さんは仕事を辞め、家に入ったことで大きなストレスを抱え込みました。そして、お母さんの後を継いで、真紀さんがペンキ屋さんに入ったのですが、相当に苛酷な現場でした。そして苛酷な現場から家に帰っても、じいちゃんの介護が待っていましたから、この頃の家族はみんないっぱいいっぱいだったのです。そんな中で弟さんだけは大学生で家にいませんでしたから、とことんこの子は苦労しないようになっているんだなぁと真紀さんは思うのでした。 そのじいちゃんも2年後に亡くなり、お母さんはまたペンキ屋さんに戻ってきました。母と娘が同じ職場で働く…かなり厳しいものがありました。 そんな時に真紀さんの気持ちを晴らしてくれたのが、オートバイでした。400ccのバイクを乗り回し、ツーリング仲間とあちこち出かけるのが何よりも楽しかったのです。 その頃真紀さんは、ペンキ屋の社長が入会させてくれたローターアクトクラブの活動にも顔を出していたのですが、そこで知り合ったのが、旦那さんでした。6歳年上の彼は、千葉で働いていたのですが、うつの療養で実家のある城端町にいました。その時に2人は出会ったのです。 真紀さんは彼の事情を聞いて、親切にしてあげんなん、と思いました。そうして一緒にカウンセリングの会に行って一緒に話を聞いたりしているうちに彼の状態がよくなっていきました。もしかしたら、私、この人のことを治せるかもしれない!そう思った真紀さんは、彼と結婚することを決意します。 けれど両親は大反対でした。しかし、真紀さんは押し切りました。 結婚後、彼は再起のために学校に行きたいと言いました。真紀さんも建築のことを学びたい気持ちがありましたから、2人で東京の専門学校に行くことにしました。昼は働きながら夜学の専門学校に通ったのでした。 しかし、お盆に彼の城端町の実家に帰省している時に、彼のご両親から「もうこっちに帰ってきてくれ」と言われます。その言葉にほだされて、結局二人で帰り、そのまま彼の実家で暮らすことになりました。 城端に住んで2年程は前のペンキ屋で働いていたのですが、ある人間模様を垣間見たことがきっかけでそこを辞め、仕方なく、という感じで独立しました。それが20年程前のことです。 その後、婦人会で出逢った人から頼まれて、看板屋の傍ら、学校の心の相談室で支援員もやりました。本好きだったこともあり、図書室で司書の補佐もやりました。心の相談室ですから、発達凸凹を抱えた子たちがやってきます。やりがいもあって13年やりました。しかし、自分には専門的なスキルがないのに、そういう凸凹のある子の相手をするのはどうなんだろう、次第にそう感じ始めた真紀さんは、ちゃんと専門的なスキルを持っている方に支援員をバトンタッチしました。 そうして支援員を辞めた時に、ちょうど「なんと里山元気塾」に入りました。里山で水害が起こるのは、ちゃんと山の手入れをしていなかったから、そういう話を知っていたので、自分にもできることを探したい、そういう気持ちが芽生えました。 そして真紀さんが考えだしたのが、「きくばりプロジェクト」でした。柱や建材にならない木でも割り箸にすることはできる。そうして里山の木の手入れをすることで、里山が荒れていくのを防ぐことができる。そしてそうやって作った割り箸の袋詰を福祉作業所の方に頼みました。この袋がまたとても素敵です。 また子どもたちとワークショップも開催しています。変わらない山河を子どもたちに残したい。それはひいては、未来の子どもたちのためにやりたいという自分のためなのだと真紀さん。 友人と一緒に3か所で手植え手刈りの稲作も始めました。完全に自給自足生活というわけにはいかないけれど、自然と共に暮らす、それがとっても心地いいのです。 そして、つい最近有志と「道プロジェクト」もスタートさせました。真紀さんを含むそれぞれに自分の道を歩いている南砺のスペシャリスト5人が講師になって学校で講演活動を行います。子どもたちにわくわくする人生を伝えたい−。何が正解なんてないんだよ。他の人じゃなく自分がわくわくするほうを選んで自分らしく生きてもらいたい。そんな思いで活動していきたい、そう思っています。 南砺の地で、しっかり地に足をつけて活動を続ける真紀さん。きっと真紀さんと一緒に活動したいという方の輪はこれからますます広がっていくことでしょう。これからもその素敵な生き方をたくさんの方に伝えていってくださいね。 |