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今日の人124.伊東 翼さん [2014年07月22日(Tue)]
 今日の人は東京育ちで今は氷見に住む氷見市役所職員、伊東 翼さんです。
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氷見市役所にて 向かって右が伊東さん

 伊東さんは1983年生まれ。東京は江東区の門前仲町で育ちました。大好きだったのは虫捕りです。弟もいたので、弟や友だちと一緒にザリガニやハゼを釣って遊ぶのも好きでした。お母さんの実家が氷見だったので、そこに遊びに行くのが楽しみでたまらなかった。なにしろ虫捕りをするのに、こんなに素晴らしい場所はなかったですから。

 小学3年生からはサッカーを始めます。サッカーチームに所属して頑張っていました。この頃の夢はサッカー選手。まさにキャプテン翼!という感じですが、お父さんが翼という名前を付けたのは、パイロットに憧れてのことだったのでした。
 
 そんな父の影響もあったのでしょう。パイロットになるには理系かなぁとなんとなく感じ、最初は理系だった伊東さん。サッカーもずっと続け、中学時代も高校時代もキャプテンでした。しかし、高校生の時、サッカーだけでは物足りなくなります。何か創作がしたいと思うようになり、映画を作ろうと思い立ちます。そうしてサッカーをやりつつも同好会を作って、映画製作に乗り出します。もちろん、映画を作るなんて初めてですから、脚本を書いてもボロクソに言われました。でも、友だちを集め、編集や音楽担当を決め、高校の全クラスを周って出演交渉をし、映画が出来上がったときの感動といったら!そしてその作品を文化祭で上映。こんなに素晴らしいことってあるんだな、伊東さんは言いようのない感動を覚えたのでした。それが高校2年の時です。それまで理系でしたが、この映画創作の経験をして、文転することを決意します。文系の方が創造的だと思ったからでした。
 進学校だったので、当然勉強もきつかったのですが、それでもサッカー部で活動し、映画作りは2年に続いて3年でもやりました。

 大学は千葉大の法経学部に進み、放送研究会にも入ります。年に2,3回発表会があり、1年の時はとにかく作品を作りたくて作りたくてたまりませんでした。作れば作るほど楽しくなって、図書館で映画作りのために本を読んだり映画を見たりもたくさんしました。2年になるとサークルの会長となり、50人程のサークル員をまとめていました。
 といっても単位はしっかり取るのが伊東さん。3年生で取ったゼミの先生はフランス政治学を教える先生でした。ゼミ生は伊東さん含めて2人だけ。なぜ、伊東さんがこのゼミを選んだかというと、フランス語が勉強できるからなのでした。

 3年になると就活も始まります。伊東さんは将来は映像系に行きたいと思っていたので、TV局などを受けました。しかし、就活をやっていくうちに、何かちがうぞと思うようになっていったのです。自分で作っているときにはものすごくワクワク感があった。でも、マスコミ業界で働いている人の話を聞くと、みんなつらそうだ。TV局に受からなかったこともあり、伊藤さんは4年生の後期になって、これまでの考えを1回リセットしようと思いました。

 こうして大学を1年休学。半年アルバイトをしてお金をため、残り半年はカナダのモントリオールに留学したのです。今でいうGap Yearの走りだったのですね。
 アルバイトはデイズニーシーの駐車場でやりました。ディズニーシーでは駐車場でもショーをやります。現場が大好きな人もたくさんいて、現場にこだわって社員になる道を断り、ずっとアルバイトでいつづける人もいました。みんな誇りを持って仕事をしている。アルバイトでこんな経験ができたのは、伊東さんにとって本当に大きな財産になりました。
 そして留学。カナダはご存知のように移民の多い国です。モントリオールではイタリア出身の家族の家でホームスティしました。イタリア系なだけにみんな底抜けに明るかった。そしてカナダではみんな5~6ヶ国語は話せるのが普通でした。伊東さんはここでも大きな刺激を受けました。そして語学学校で英語を3ヶ月、フランス語を3ヶ月やりました。

 1年後日本に戻った伊東さんは再び就活を始めます。そして、今回は専門的な知識を身につけられる職場に就職しようと思いました。頭の片隅にはいつか地方に行って地方を元気にするための活動をしたいという思いがあったので、専門的な知識はきっと役に立つと思ったのです。こうして交通のインフラ関係の製造会社の経理部門で働くことになりました。最初は怒られてばかりで、仕事でいっぱいいっぱいでしたが、1~2年経った頃には仕事にも慣れ、なんだかもの足りなくなってきました。
そして社会人2年目には神奈川の藤野のパーマカルチャー塾で学ぶことにしたのです。 パーマカルチャーという語そのものは、パーマネント(permanent 永久の)とアグリカルチャー(agriculture 農業)をつづめたものですが、同時にパーマネントとカルチャー(文化)の縮約形でもあります。 自然の働きや仕組みを理解し、伝統文化を活かしながら地球上で永続可能に豊かに暮らすデザイン方法のことです。
伊東さんたち塾生はそれぞれ寝袋を持って古民家に集い、農業体験をしたり、持続可能なまちづくりについて話し合ったりしました。そこでは本当にいい仲間と出合い、夜遅くまで話が尽きることはありませんでした。その中のお一人が奥さまとなられた葉子さんでした。葉子さんは長野からパーマカルチャーに通っていたのですが、2人はすっかり意気投合し、翌年につき合い始め、その次の年に結婚が決まったのです。
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とっても素敵なお二人

結婚を6月に控え、葉子さんは東京に住み始めました。結婚式に向けていろいろ準備をし始めたその矢先、あの東日本大震災が起こったのでした。食べ物は買い占めで買えない。そして買えないと食べ物がない。原発の心配もある。いったいこの先ここでずっと生きていけるのか?

地方でなら自給自足で生活することもできる。やはり、今こそ地方ではないか。こうして本気で地方に行くことを考え始めた伊東さんは、週末毎に夜行バスに乗って地方に出かけていき、農家を訪ねたり、農業就業支援の人に会ったりしていました。

パーマカルチャーの仲間ともしょっちゅう会い、いろいろ話し込みました。でも、現実的に電気を使っている自分たちは原発反対と大きく声を上げることもできない。ならば、やはり自給自足の暮らしを自分たちで実践していくのが大事だよね、そういう話になるのでした。こういう時だから…と結婚式もやめようかと思ったのですが、家族に説得されて式を挙げ、その直後に大阪に転勤が決まります。

大阪ではできるだけ山に近い自然を感じられる場所に住みたいと、通勤に片道1.5時間かかる山の麓に住みました。職場は工業地帯にあったのですが、家に帰ってくると、周りのカエルの大合唱を聴いてホッとしていました。通勤時間は長くても、やはり自然の中に勝るものはない、そう感じる伊東さんなのでした。

関西は人もオープンでとても楽しかった。そして、東京のパーマカルチャーの仲間とトランジション・タウン運動も始めます。トランジション・タウンとは、ピークオイルと気候変動という危機を受け、市民の創意と工夫、および地域の資源を最大限に活用しながら脱石油型社会へ移行していくための草の根運動です。地域の自給を少しずつ高めていくことで少しずつなら暮らしを変えていける。みんなで知恵を出せばずっと楽しい生活ができる。ロケットストーブ作りのワークショップをやったり、地域通貨を作ったり、少しずつトランジションタウンの考えを広めていきました。

それと並行して地方で暮らす選択肢もずっと探していた伊東さん。インターネットで氷見市役所の採用情報を見つけます。氷見は昔から大好きな場所。幼い頃オニヤンマの通り道を見つけてワクワクしたこと、降り立った時の空気が全然ちがうこと、そんな大好きな場所に行けたら…。そして、氷見市役所の採用試験に合格。受かった直後に会社から、東京転勤の話を出され、「会社を辞めます」と辞表を出したのでした。

 伊東さんが氷見に住み始めたのは昨年3月。その前の年の秋から家探しをして古い家を見つけたのですが、なにしろボロボロな家でした。しかし、修理を頼もうとは全く考えなかったという伊東さん。雪が降る中、1週間泊まりこんで、自分たちで修理作業をしたのです。キッチンも解体して、自分たちで組み直して、床も張り替えて、そういういろいろな作業をしているのが全然苦ではなく、むしろ自分でちゃんとできるんだなと自信がつきました。そして、作業をしていて夕方近くになるとふくろうがホーホーと鳴き出すのです。その声を聴いて、ああ、ホントに来てよかったなぁとしみじみ思うのでした。

 氷見に越してきてから仕事が始まるまでの1ヶ月は家具を手作りしたり、畑を耕したりの日々。自分たちで桑で耕していると、そんなんじゃ無理だよと近所の人が機械でおこしてくれたり、親戚のおじちゃんおばちゃんが野菜や魚を持ってきてくれたり、なんて豊かな生活なんだろうと実感する日々でした。だいたい新鮮でキトキトの魚が1パック100円で売られているのも信じられない話でした。こんなに豊かですばらしい所で暮らしているということを富山の人たちはどれくらい自覚しているかな、そんな風にも感じました。

 氷見に移住してすぐに活動も始めました。まずやったのは鎌仲ひとみ監督の『六ヶ所村ラプソディー』の自主上映会やトークショーです。この上映会を通して新たな仲間にも出会いました。そして東京でトランジションタウンのシンポジウムがあったときは、ヒミングと東京をUstreamでつないだりもしました。

 山の資源を使って地域おこしをする越の国自然エネルギー協議会のお手伝いもしました。木の駅プロジェクトの活動も取り入れようとも思いました。木の駅というのは山から木を切って運び、木材と地域通貨を交換することで地域が潤う仕組みです。お金とエネルギーをうまく循環させるというのが木の駅プロジェクト。しかし、氷見は木を切るにしても人手が足りない、そもそもその山主がどこにいるかわからない。そして、薪ボイラーを使ってもらおうと思っても、コスト面で受け入れてもらえない。また地域通貨も成功している地域に比べて大型スーパーが多くて馴染みにくい等、様々な問題がありました。

 でも、問題が多いからと言って、何もしないわけにはいきません。伊東さんは氷見で本格的にトランジションタウンをやろうと決意します。
まず、場を作ろう。そう思い、それまでつながりができた人たちを集めて、T.Tカフェを開催しました。15人くらい集まってひたすら妄想。するとすごく盛り上がってワクワクが止まらなくなりました。メンバーの一人は神奈川藤野のパーマカルチャーの出身でこちらに移住してヤギを飼って草刈りを始めました。ヤギの駅を作ろう。そこを地域の人との交流の場にしよう。時が経つのも忘れて話し込む伊東さんたちなのでした。

 このトランジションタウンをぜひ北陸で広めたい。伊東さんは11月下旬にトランジションタウンの合宿を氷見に誘致したいと考えています。きっと妄想が止まらない合宿になるんでしょうね。

 トランジションタウンでは夏祭も開催しているのですが、今年の開催場所は奥さま葉子さんの故郷長野。その夏祭りに氷見もブースを出すつもりです。こうして少しずつでも確実に氷見にトランジションタウンの根を張り始めた伊東さんです。

 氷見市役所の仕事の方も、1年目は市民課にいましたが、もっと24時間山と関わっていたい、そう思って異動届を出します。伊東さんの願いは叶えられ、2年目の今年4月からは農林畜産課の林業・循環エネルギー振興担当になる辞令が降りました。メインは林業で、山主や森林組合の人と山の整備に力を入れています。
 例えば市民プールにバイオマスボイラーを導入。製材した木の余りを有効利用して、ボイラーの燃料にしています。本当はこういう所に、山で切り捨てられる木を有効活用したい、それを木の駅とからめていければ…そういうふうにも思っています。

 そんな伊東さんが来たる7月27日、ドリプラ富山でプレゼンをされます。富山では他の場所から来た人のことを「旅の人」と呼びますが、まさに旅の人の伊東さんならではの視点で、氷見がいかにすばらしい場所かということを伝えたい。ここは地域の力がすごくあるんだよ、ここでもっともっとできるよ、ということを伝えたい。しかも、イヤイヤじゃなくて、ホントに楽しく生活できるということを伝えたいのです。
 
 今、都会の人でトランジションタウン活動に興味がある人は、西日本や九州、あるいは海外に行ってしまう人が多いのですが、北陸にこんなにおもしろい場所があって、こんなにおもしろい人がたくさんいることも知って欲しいと思っています。そうやって人の縁をつないでいくこともやっていきます。
 例えば空き家を改修して都会の人が滞在できるゲストハウスにする。そこは地元の人も集まれる寺子屋に。そうして、自然の中で勉強したり、山の手入れを一緒にできる。ここでは地域の人それぞれが先生で、お互いにできることとして欲しいことを交換して支えあって生きていく、そんな場所。
 食べ物、住む場所、教育、地域でいろんなものが循環していくことで、今大量に使っているエネルギーの量を減らしていくことができるでしょう。そして究極にはお金がなくてもやっていける、そんな暮らしが伊東さんの理想です。

 そんな想いを夜な夜な話せる仲間がいて、それがいつしか現実になっていく。みんなと話している時間がたまらなく楽しいと伊東さん。
 アメリカン・インディアンは7世代後のことを考えて、今やることを決めるというけれど、自分たちも未来の子どもたちのためにできることをやっていきたい。そしてそれは決してイヤイヤやることではなくて、本当に楽しくて清々しいことなのです。自分が未来のためにできることを考える時間、それは伊東さんにとってワクワクできて、氷見に来た意味を再確認できる素敵な時間にちがいありません。そして伊東さんはそれを机上の空論ではなく、実際に生活に結びつけていくことの出来る人なのです。
 
 急速な人口変動の中、消滅してしまう自治体も多く現れると言われている現実があります。今のままエネルギーを無駄に使い続けられる時代がそう長続きするともとても思えません。でも、伊東さんの描く氷見になれば、きっと人々が心豊かに暮らせる、そんな道を見つけられるでしょう。