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今日の人122.岡崎朋也さん [2014年06月29日(Sun)]
 今日の人は富山県滑川市にある有限会社岡崎工務店代表取締役でドリプラ富山2014のプレゼンターでもいらっしゃる岡崎朋也さんです。
2014-05-29 14.18.13.jpg

 岡崎さんは二人兄弟の弟として生まれました。
今は写真を撮られるのが大の苦手ですが、幼稚園の時はとても目立ちたがりやで、写真を撮る時もいちばん目立つ所に率先して立つような子でした。ザリガニやクワガタを取って遊ぶのが好きでした。
 お母さんは習い事をさせるのが好きで、小さい時は水泳や柔道もやっていました。小学校でもサッカークラブに入って活躍していました。体を動かすことが大好きでした。
でも、勉強の方はさっぱりでした。勉強することに意義が全く見いだせなかったのです。そして、意義を見出せないことは頑としてやらない子でした。だから、宿題を提出したことは一度もありません。
 けれど、お母さんは勉強ができることに重きを置く人でした。弟とちがって、5歳年上のお兄さんはとにかくマジメで親の期待通りに育った子でした。岡崎さんはお母さんにホメられた記憶がありません。いつも言われていたのは「どうせできないでしょ」という言葉でした。そのせいかどうかはわかりませんが、ますます勉強なんかする気はおきませんでした。そしてお母さんには縛り付けられたり、お風呂で熱湯を掛けられたこともあります。その頃の岡崎さんに夢はありませんでした。夢の意味がわからなかった。

 中学校でもサッカー部とスキー部の活動だけは一生懸命やっていましたが、相変わらず勉強の方は全くしませんでした。鉛筆を持ったことなどないというほどそれは徹底していました。中3で部活を引退すると、体力を持て余してケンカもしょっちゅうしましたし、タバコを吸ったり万引きしたりするのは当たり前くらいの感覚でした。没頭するものが欲しくてパチンコに行ったりカラオケに行ったり飲みに行ったり…。でも、全く罪悪感はなかった。中3の時、一度万引きで捕まった時にお父さんが泣いたことがあります。あまり何も言わない父でしたが、その時は泣いたのです。お父さんはなぜその時、涙を流したのか…、その時の岡崎さんにはお父さんの気持ちを慮ることはできず、お父さんの涙にさほどショックを受けませんでした。

 高校は私立の職業科へ進みました。中学校よりなお学校の先生はゆるいと感じ、雨が降るとサボってパチンコ屋でくわえタバコでパチンコをしていたし、誰かと目が合うとケンカになりました。
 ある時、珍しくお父さんが好きなものを買ってやると言いました。後にも先にもそれきりだったけれど、お父さんは当時はやっていたオーディオキットを買ってくれました。どういうわけだかお父さんと腕相撲をして、あまりに弱くてなんだか悲しかったのも覚えています。

 そんな時でした。お父さんが末期がんだと知らされたのは…。でも、人が急に死ぬ、その実感がありませんでした。そうしてやはり好き放題をしていました。結局1年半の闘病生活の間、病室に顔を出したのは3回だけでした。その間、お母さんはお父さんに付き添ってずっと病院で寝泊まりしていました。
 ある日、親戚の人が家にやってきて、お父さんが危ないからと一緒に車に乗せられて病院へ。「お父さん」そう言って、お父さんに触れようとしたその時、お父さんは岡崎さんの手をふり払ったのです。
『そうだよな。こんな息子だもんな』その時、岡崎さんは思いました。
でも、死に際した父親が息子の手をふり払ったのは、息子を拒絶する意味だったのでしょうか?
岡崎さんが小学生の頃、お父さんは何回か海釣りに連れていってくれたことがありました。ほとんど話さなかったけれど、オーディオキットを買ってくれたお父さん、一緒に腕相撲したお父さん、息子が万引きで捕まったときに涙を流したお父さん…。今、岡崎さんには0歳の息子さんがいます。その息子さんの顔を見る時間が一番癒されると、岡崎さん。きっと、お父さんも仕事から疲れて帰ってきた時、小さな息子の顔を見て癒やされたことが何度もあったはずです。病床で死に際して思い出すのは息子のそんなあどけない頃や、一緒に海で釣りをしたことではなかったでしょうか。
 きっと、手をふりはらったのは、息子が嫌だからではなく、息子への叱咤激励だったのだ、私はそう思います。「おい朋也、俺はもうあっちへ逝くんだぞ、しっかりしろや」と。

 しかし、その時の岡崎さんはお父さんの死でさらにやけくそになり、ついには高校をやめてしまいます。群れるのは嫌いだった。求めてそうなったわけではないけれど、いつも一匹狼でした。感情が動くのはパチンコくらい。悲しさや虚しさをそこで埋めていたのかもしれません。

 このままではいけない。そう思って名古屋で住み込みで働いて自分を変えようと思いました。けれど、一週間ともたずに富山へ帰ってきてしまいます。さすがに実家に戻るわけにもいかず、昔のツレを頼って、高岡で住むことに。そこでもやはり日々ギャンブルしたり、ナンパしたりの日々でした。そんな時、ナンパで声をかけたのが、運命の人になる栄子さんでした。今まで自分が知っていたやんちゃなタイプの子とは全然ちがう栄子さんに岡崎さんは惹かれます。やがて、栄子さんは妊娠。岡崎さんは父になる決意をしました。

 19歳で結婚した岡崎さん。奥さんと二人、魚津で生活を始めました。「家族のために稼がなかれば」目的ができると岡崎さんはとことんまでやる人です。長距離ドライバーとしてがむしゃらに働きました。そしてある程度貯金も出来て、弱冠二十歳で家を建てることにしたのです。

 家が建っていく工程を見ながら、岡崎さんはワクワクしていました。そして、ないものが形になって目の前にマイホームとして現れた時に、言いようのない感動を覚えたのです。そして心から思いました。「自分もこんな風にお客さんに感動してもらえる仕事がしたい!」
こうして無謀にも家を建ててくれた住宅会社の社長さんに頼みました。
「いつか自分で住宅会社をやりたいので、大工さんの見習いとして雇ってもらえませんか?」
もちろん、社長さんからは無理だと断られました。それでも岡崎さんはあきらめませんでした。何回も何回も社長さんにお願いに行きました。そうして半年たったころ、とうとうOKしてもらえたのです。何度もお願いに行った岡崎さんの熱意についに社長がほだされたのでした。

 それからは何とか早く一人前の大工さんになろうと必死に働きました。
しかしその会社はなんと1年で倒産!そのあとに行った会社も自分が勤めて1年で倒産してしまったのです。それでも、家を建てた時のあの感動は岡崎さんの心から情熱を奪いませんでした。それまで何に対しても感動できなかった自分がこんなにも感動した「家づくり」をあきらめるなんて岡崎さんには考えられませんでした。そうして試行錯誤する中でいろんな人に助けてもらいながら24歳で独立を果たしたのでした。

 最初は、小さい仕事や下請けの仕事をしながら「30歳までに工務店になる!」と決め         
 色んな仕事をしました。その頃は、職人以外の経験がなく見積り・仕入れ・営業などは何もわからなかった。大工の仕事だけでは食べて行くことが出来ず、借金を返すために夜は、漁師をしていたこともありました。
「やはり何もわからないのはダメだ。この仕事をやっていくために、ちゃんと勉強しないと」初めて勉強することに意義を見出した岡崎さん。意義を見出したことには全力で取り組める岡崎さんは必死でさまざまなことを勉強しながら仕事をこなしていきました。
 やがて少しずつ仕事が増え、奥さんにも仕事を手伝ってもらう事になり、社員も3人雇えるまでになりました。そして、毎日、朝から晩まで現場で頑張っていました。
 しかし、どんなにがんばっていても、元請の会社が倒産したり未収金の為お金が払えないなどで借金がどんどん増えていきました。なんだか借金をなくす為に必死に仕事をこなしている感じでした。そして、借金がなくなると思ったとたん、また、元請の倒産。しばらく仕事をする気をなくしてしまい、とことん落ち込みました。

 でも、とことん落ち込んだ後に決めたのです。「もう、下請けは、やらない!これからは、「お客様の為だけの家づくりをしよう!」と。
「30歳までに工務店になる!」それが現実になった瞬間でした。

 それからは、お客さんにいかに満足してもらうかを大切に、一軒一軒丁寧に家づくりをしてきました。家づくりを通じてお客さんに感動を与えられていることが岡崎さんにはこの上ない喜びでした。
 
 しかし工務店を初めて5年がたったころから住宅の受注が思うようにできなくなりました。不安を感じて、初めて東京まで行って住宅会社の経営勉強会に参加しました。そこで感じた事は、今までがむしゃらに仕事に取り組んできたと思っていたけれど、自分はまだ全然勉強が足りなかったのだということでした。
 それからは本を読んだり、さまざまな研修を受けるようになりました。そこで気づいたのは、お客さんの為に一生懸命にしていたつもりだったけれど、実は自分の考えを押し付けていただけだったのだということでした。「自分はお客様に感動を与えたいと言いながら、お客様の声に耳を傾ける事をせず、自分の事を理解されたい為だけに必死に頑張っていたのだ…」
もっと大きかったのは、今まで自分一人だけで必死で頑張ってきたと思っていた事に気づけたことでした。自分はどれだけの支えがあって今があるのかということに初めて気づくことができたのです。
 文句も言わず現場にも出てくれる奥さん、休日も仕事で何処にも連れて行けないのに明るく素直に育ってくれている娘たち、そして家の事を全部してくれているお母さん…。他にもいろんな人に支えられて今の自分がいるのだ。
 思えば、お母さんも言葉や態度は厳しくても、愛情は深い人でした。そういえば、小さい頃デパートに連れて行ってもらった時、なにか募金活動をしている人がいると、お母さんはいつも岡崎さんに100円玉を渡して募金させていました。岡崎さんもどんなにケンカしたりしていても、弱い子やイジメられている子はかばうそんな少年でした。みんなに気持ち悪がられて不登校になっている女の子の家に迎えに行って、運動会の時に一緒に走ったりしたこともあります。自分は一人で育ってきたような気になっていたけれど、決してそうではなかった。お父さんもお母さんも自分に愛情を注いでくれていたのだ。そして、今は奥さんにも子どもたちにも、そして周りの人たちにも自分はこんなにも支えられている…。

 色々考えているうちに浮かんできたことは、自分に夢を持たせてくれた建築業界に恩返しをしたいという強い思いでした。今こうして自分が楽しく仕事が出来るのは、ずっと日本の建築業界を引っ張ってきてくれた過去の職人さん達のおかげなのだ。今自分がここにいるのは、決して当たり前のことではない。だからこそ、未来の建築業界の為にも、日本の伝統建築を絶やさないためにも、これからの大工さんを育成し、世界に日本建築の素晴らしさを伝えていかなければ!今、動かないと日本の建築業界は後進が育たなくなってしまう。今やらないで、自分がやらないでどうするのだ!
 子どもたちに物づくりの楽しさや価値を本気で伝え、自分たちが世界に誇れるプロフェッショナル集団になっていこう!…それが今の岡崎さんの本気の思いです。
 
 10代の夢の持てなかった時、ただ自分の欲求を満たすのが目的だった。それは、どんなに欲してどんなに手に入れても、決して心が満たされることはありませんでした。
 でも、40代で夢を持てた今、建築業界のために、子どもたちのために、自分ができることを命をかけてやっていきたいという想いが溢れる泉のように湧き続けてくるのです。

 「自分はお父さんを失望させてしまった。だから、お父さんにほめられる、そんな男になりたい。」岡崎さんはそうおっしゃいます。
 でもね岡崎さん、私はお父さんはきっと向こうでこんな話をしていると思うんです。
「おい、あれが俺の息子だ。自分で工務店を立ちあげて、これから従業員もバンバン雇って、富山で建築業界の伝説を作っていく自慢の息子だ」って…

 岡崎朋也さん、本気の男の生き様をみせてくれるとても素敵な方です。コワモテだけど、はにかんだ笑顔がとってもキュート。そんな岡崎さんのプレゼンを見に、ぜひ7月27日は富山国際会議場へお運びくださいね。