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今日の人99.山内健太郎さん [2013年07月22日(Mon)]
 今日の人はドリプラ富山2013プレゼンター、高齢者の方を笑顔にすべくケアマネ−ジャーとして活躍している山内健太郎さんです。
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 山内さんは3人兄弟の長男でした。小さい頃から数字に興味があって、幼稚園の頃には自然に九九は覚えていました。でも、アンバランスさがあって、数字にはめっぽう強いけれど、図形になるとさっぱりわからなくなります。立方体なんていうのはお手上げでした。目が極度に悪く、平衡感覚がつかめません。立体感も感じることができません。
 
 5歳からはピアノを習い始めます。いえ、正確には習わされたのですが…。
最初は練習が嫌で嫌でたまりませんでした。高校の音楽教師だったお母さんは、山内さんが練習している時に間違うと、自分がご飯を作っていてもピアノのところまできて山内さんを叩きました。それくらいスパルタな人でした。

おばあちゃんはユニークな人で、ゲームの攻略本を一緒になって読んでいるような人でした。民謡が大好きでいつもおわら節を歌っていました。
その頃の山内さんはゲーム音楽をずっとピアノで弾いていました。なにしろ一度聴くと忘れないのです。
そんな音楽が自然にある環境で育った山内さんは物音が全部ドレミに聞こえます。つまり絶対音感があるのです。

でも、中学に入るといじめられるようになりました。メガネを壊されたり、くつを隠されたり…。ホワイトデーに好きな女の子にピアスを渡そうとしたら、彼女に渡すためのプレゼントの袋にパンツを入れられていて、思いっきりふられたこともあります。それからしばらくは恋愛恐怖症で女の子に近づけなかった山内さん。

山内さんは得意なことと不得意なことがはっきり分かれていました。国語の現代文はなにを言っているのかてんでわからない。図形も苦手。技術家庭で何かを作ることは徹底的に苦手でした。
けれど、得意なことは本当に得意でした。絶対音感がある音楽、一度見たら忘れない数字。そして、歴史も大好きでした。
実は山内さんのお父さんが歴史好きで、小さい頃にしょっちゅうお城に連れていかれました。それで山内さんもすっかりお城マニア、歴史マニアになったのです。
 小学生の時の夢はピアノの先生でしたが、中学生になると、歴史番組のコメンテーターになりたいと思うようになりました。

 高校に入るとレスリング部に入りますが、そこでもまたいじめに遭います。たばこ、お酒、髪を染める、そういうこともやっていた高校時代でした。そしてCDにも目覚めました。中古で買ったCDをひたすら聴く毎日。ですから、その頃はサウンドクリエイターになりたいと思うようになりました。

 音楽の専門学校に行きたい!と言いましたが、お金を出さないと言われあえなく却下。神戸の私大の経済学部に入ります。後から自分は歴史が好きなのに、なんで史学科に行かなかったんだろうと後悔することになりましたが・・・。
そういうわけで授業は楽しくありませんでしたが、バンド活動は楽しかった!
キーボード、ギター、いろんな曲をやりました。
大学2年の時にはバンドのリーダーになって、好きな曲をライブで弾くのがたまらなく楽しく、生きてるっていう実感がありました。
 この頃、山内さんには長崎の彼女がいましたが、彼女にオリジナル曲を作ってメロディメールで送る、ということもやっていました。
 やっぱり自分は音楽をやりたい!そう思って受けた会社はことごとく不採用。
 山内さんは、両親に言われます。「富山に帰って来なさい」

 こうして富山に戻ってきた山内さんでしたが、息子の将来を心配したお父さんはあんま鍼灸を習いに行けと言います。お父さんにしてみれば、これだけ目の悪い息子でもちゃんとやっていける仕事につかせてやりたいという親心で言ったのにちがいありませんが、山内さんには不満でした。なんで目が悪かったらあんま鍼灸になるんだよ?

 山内さんは富山福祉短大の幼児教育学科に入りなおしました。この時、出会った尾崎豊の音楽にはまり、弾き語りをしたりしました。なんでこんなに弾けるの?と驚かれるのがとても気分よかった。
 発達心理学の授業にもはまりました。占いやスピリチュアル系のものに惹かれる自分がいることも知りました。

 ハンドベルのサークルも立ちあげ、クリスマスコンサート、絵本の読み聞かせ、七夕、いろいろな所で演奏していました。レクリエーション的なことをうまくやれる、そんな才能が山内さんにはあるのです。

 でも、就職活動はまたもやうまくいきませんでした。あなたの目では子どもたちを見るのは無理だと言われ保育所では働けませんでした。グループホームで働いた時も、遠近感がわかっていないから危ないと言われ3ヶ月で解雇。
「あの人と一緒だとやりにくいのよね」
そんな噂話も耳に入ってきます。自分はいったいどうしたらいいんだ。自分は何をしたいんだ…。

その頃、お母さんは癌を患っていました。
癌は既に頭にも転移しています。まだ小学校の時にお母さんと一緒にピアノで連弾したっけ。プリプリとか、懐かしいなぁ…
 お母さんは山内さんのピアノが聴きたいと言いました。
山内さんが弾いた曲は「Long long ago」それを聴いたお母さんの頬には涙の筋が伝いました。そして言いました「ありがとう…」
思えば厳しいお母さんでした。でも、誰よりも優しく包んでくれた母でした。お母さんがいなければ、山内さんがピアノに出会うこともなかったのですから。
こうしてお母さんは旅立っていきました。

 お母さんが亡くなって2年。山内さんは介護福祉士、そしてケアマネージャーの資格を取りました。お母さんが残していったたくさんの楽譜は、そのまま老人のリハビリに役に立ちました。その楽譜を使って一緒に歌を歌うとおじいちゃんやおばあちゃんは途端に笑顔になるのです。お母さんは大きな大きなプレゼントを残してくれたのでした。

 山内さんは今思っています。自分が一番楽しいのはピアノ、歴史を訪ねる旅、そしておじいちゃんやおばあちゃんを笑顔にすること。

 以前、こんなことがありました。失語症で普段めったに笑うことのないおじいさんがいました。そのおじいさんに、山内さんは戦艦大和ミュージアムで撮ってきた写真を見せました。するとおじいさんの表情がいきなりパッと輝いたのです。おじいさんは自分も大和に乗って仲間と一緒に日本のために戦いたかったのかもしれない。今は、失語症で表情もないおじいさんだけど、彼の生きていたたくさんの道のり、経験、そういうものがずっとベッドにいる生活で失われてしまっているのではないか。自分の写真や音楽でそれを取り戻すことができたら…。
そうだ、僕にはピアノがある。これで、おじいちゃんやおばあちゃんに時間旅行をプレゼントしよう。
ずっとベッドにいて、行きたくても行けない場所がある。帰りたくても帰れない時代がある。でも、音楽は時間を飛び越えることができる。

ただじっとベッドにいるだけだったおばあちゃんが、山内さんの写真と山内さんの音楽で時間旅行を楽しみます。実際に行くことができなくても、時間旅行という音楽療法を受けることで生きる気力が湧いてくるのです。そして山内さんのピアノの音色は、看護疲れのたまった家族も癒します。

 これから山内さんはどんな音色を奏でていくのでしょう。これからの日本はとんでもない高齢社会に突入していきます。お年寄りが希望を持って生きていける日本にしないといけない!それは私も強く感じています。きっと彼のメロディで生きる希望を持つお年寄りとその家族がたくさん増えるにちがいありません。ベッドにずっと寝たきりのおじいちゃんやおばあちゃんにもう一度笑顔になってほしいなぁと思っている人がいたら、ぜひ山内さんに声をかけてみてください。きっと素敵なメロディでそこにいる人みんなを笑顔にしてくれることでしょう。