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今日の人77.綿貫里美さん [2012年11月30日(Fri)]
 今日の人はドリプラ2012世界大会プレゼンターであり、オーストラリア、パロネラパークの現地ガイドとして活躍中の綿貫里美さんです。
satomi watanuki.jpg

 里美さんは群馬生まれの群馬育ち。小さい時はとっても泣き虫で、なかなかお母さんから離れられない子でした。小学校時代はピアノやソロバンを習っていたので、その先生になるのが夢でした。でも、その頃とっても好きだったのは遺跡の本を読むことでした。エジプトのピラミッドの本をワクワクしながら読みました。いったいどうやって人がこんな遺跡を作ったんだろう?考えれば考えるほどワクワクしました。
 
 小学校4年生まではとても活発だった里美さん。でも、5年生になって男の子を意識するようになると、とたんに静かになりました。まだまだあどけない周りの女の子から見ると、随分大人びた印象でした。
 いつも学級代表に選ばれて目立ってしまうのもとても嫌でした。運動神経が抜群で長距離走でもぶっちぎりで一位だったのですが、そのことで陰口を叩かれるのが嫌で、5,6年生の時は、故意にペースを落として、わざと負けていたのです。

 中学校でも陸上部に入り、市ではいつも入賞していました。その為県合宿にも参加する位の実力!目立つのは嫌いでしたが、その一方とにかく負けず嫌いだったので、記録のために食事制限までするくらいでした。競技中、興味本位で写真を撮りに来る人もいて、写真を撮られたりするのがすごく嫌でした。その事で先輩から目をつけられるのも嫌でした。とにかく先輩から目をつけられないように、目立たないよう目立たないよう振る舞っていました。ですから、学校はつまんないなーと感じる中学生時代だったのです。

 高校時代も特に夢もなく、とても地味に過ごしました。このままいくと人生つまんないな、と感じていました。
 でも、世界史だけはすごく好きでした。資料集や図鑑を見ているとワクワクして時間がすぐに過ぎました。「やっぱり私は遺跡の勉強がしたい、それが一番心が踊ることだもの。」
ピラミッドの研究者、吉村作治さんに師事したい!そう思って吉村さんの大学(W大)を受けますが、ダメでした。とても浪人まではさせてもらえそうになかったので、興味のない短大に入りました。そうしてヤル気がないまま学生時代を過ごします。彼氏と遊ぶか、友だちと遊ぶか、そうやって遊んでばかりで、就職活動さえろくにしませんでした。
 
 でも担当教官から、一社だけ就職試験を受けてくれと言われ応募だけはしておきました。面接試験の通知が届いていたのですが、ちょうどクリスマスで浮かれていて封さえ開けませんでした。年が明けて、単位がギリギリでなんとか卒業できることになった頃、先の会社から6次募集をしているから受けませんか、という案内が届きます。そこは地元の大きな電気系の会社。卒業後のことは何も決まっていなかったので、とりあえず受けておこうかと思って受けたところ、10人の中の2人に残ってなんと合格。
 
 最初配属された部署では作業服を着なければならず、それがとても嫌でした。次に配属された部署では作業服を着る必要はありませんでしたが、他の女子社員150人と同じ仕事はしたくなかった里美さんは図面を描く勉強を始めます。そこで負けず嫌いの性格に火がつき、真剣にCADの勉強を始めました。そしてCADの技術を身につけた里美さん、図面を描く仕事をはまってやっていました。

 しかし、入社から7年以上の時が過ぎ、おもしろいけど何か満たされない、そう感じていました。里美さんが心から満たされるのは、タイ、ベトナムといったアシアのいろいろな遺跡を訪ね歩いている時だけでした。カンボジアのアンコールワットでは1日中ここで遺跡を見ていたい、心からそう思いました。そこで韓国の男の子に声をかけられた時に、「あさって」という英単語が出てこず、自分の英語力のなさが悔しくて、帰国してから英語の語学サークルに通い始めます。その時に初めて「ワーキングホリデー」という制度があることを知りました。ずっと座り仕事で腰痛がひどくなっていたこともあって、仕事を辞めてワーホリに行く事を決意します。

 群馬は海がないので、行くんだったら海のあるところ、と考えオーストラリアを選びました。でも最初は楽しいことよりつらいことばかりでした。英語を話す機会が思っていたより少なかったし、仮に話したとしてもあまり通じなくてコミュニケーションできないことが情けなかった。「私、会社を辞めてきたのに、何をやってるんだろう…」

 そんな時に遊びに出かけたパロネラパーク、里美さんにとっては運命の出会いでした。
パロネラパークはホゼ・パロネラという人がスペインからの移民でオーストラリアに26歳のときに渡り、自分が稼いだお金を元に42歳から作り始めて、幾度の困難を乗り越えて完成させたお城です。まさに夢で作られたお城、里美さんはそう感じました。
 ホゼは何年も何十年もあきらめなかった。私はたかだか1年もたたずに何でこんなに落ち込んでいるんだろう。人間ってこんなに可能性があるんだ!私も自分を信じてオーストラリアでやってみよう!
 世界各地には様々な遺跡があるけれど、どんな人がどんな思いで作ったかに一番焦点を当てているのはこのお城だけです。里美さんは必死にオーナー夫妻に頼みました。私をここで働かせてほしい!と…。
 
 オーナー夫妻は里美さんの熱意にほだされました。そして初めての日本人スタッフとして里美さんを受け入れました。オーナー夫妻も、ホゼの想いに賛同してくれる人を探していたのです。そしてまさしくその想いに共感した里美さんを雇ったのでした。
 こうしてパロネラパークは里美さんの尽力もあって、ケアンズで3番目に有名な場所になりました。今では日本人スタッフも4人に増えています。里美さんはどうやってホゼが夢を叶えていったかをガイドしながら、いつも鳥肌が立つといいます。そして最後に必ず聞きます。「あなたの夢は何ですか?」

 そして震災後に始めたのがドリームレタープロジェクトでした。詳しくはホームページhttp://www.paronellapark.com.au/japan/kids-activity-letter.htmlを見ていただきたいのですが、これは、里美さんが日本の小学校を回って、パロネラパークの夢のストーリーを語り、子どもたちが自分の夢の手紙を書いてそれをパロネラパークに送り、そこに夢の刻印を押されて日本に戻ってくるというものです。「夢をあきらめなければ、お城だって作ることができるんだよ、だからみんなの夢だって絶対叶うんだよ」それを日本の子どもたちに伝えたい。そして、それが里美さん自身のドリームプランです。

 自分を殺して感動をすることをあまりせずに過ごした小学校高学年から大学までの時間、心からワクワクできなかった。でも、今はちがいます。夢に向かって、いつも感動しながら毎日をせいいっぱい生きている。そのことがたまらなくワクワクなのです。

 オーストラリアのパロネラパーク、夏は満天の星と1000匹以上のホタルが迎えてくれる地上の楽園、どこからでも滝から流れ落ちる水の音が聴こえ、熱帯の蝶が飛び交うそんな夢の場所を、そしてホゼの夢の道程を、一人でも多くの人に知ってもらいたい、そしてあなた自身が夢を追いかけてほしい!里美さん、ドリプラの舞台で自らの夢を最高の笑顔でプレゼンしてくれるにちがいありません。
 パロネラパーク、またひとつ、行きたい場所が増えました。