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今日の人69.伊藤あづささん パート.1 [2012年11月01日(Thu)]
今日の人はドリームプラン・プレゼンテーション2012世界大会プレゼンター、一般社団法人ぶれいん・ゆに~くす代表理事の伊藤あづささんです。
SH3J05520001.jpg
(向かって右があづささん。お隣は「日本でいちばん大切にしたい会社」でもおなじみの全社員の70%以上が知的障がい者の日本理化学工業株式会社の大山会長)

 ぶれいん・ゆに~くすは、自閉症のある人たちが生きやすい社会は、すべての人が生きやすい社会の実現に繋がることを信念に「TEACCHアプローチの理念のもと自閉症スペクトラムのご本人とご家族の未来を創ること」をミッションとしていらっしゃいます。

 あづささんが生まれたのは長野でしたが、練馬、山形(神町)、盛岡、八戸と引越しを繰り返し、9歳の時からはずっと仙台にいらっしゃいます。
 心臓が弱く、6歳の時には心臓の手術を受けます。外で遊ぶなんてもっての外だったので、家の中で本を読んだり、リリアンを編んだりして静かに過ごす少女でした。小学校も1年遅れで入学しましたし、徒競走は6年になって初めて出場。プールはついぞ入ったことがありませんでした。
 
ご両親はあづささんが手術を受けた時に、「この子は結婚してお子さんを持つのは無理でしょう」と言われたので、なんとか一人ででも生きていける子にしなければと思い、ずっとあづささんに「先生になりなさい」と言ってきました。あづささんもそれについて全く逆らうことなく、私は先生になるんだと思っていました。
 実際、小学生の時には「二十四の瞳」を読んで大石先生に憧れ、中学生の時には「橋のない川」を読んで部落の子どもに平等に接する江川先生のようになりたいと思い、自分が教師になることに何の疑いも持ちませんでした。
 
体力的に運動は無理でしたが、頭はよく、もめごとも起こさず、全く親の思ったとおりに成長した娘でした。
 小学生の時は放送委員会、中学高校では放送部に所属し、高校ではNHK仙台放送局でアルバイトをしたりもしました。
 
そうして大学も教育大学に進みます。
 大学4年の時はNHK邦楽技能者育成会にも通いました。実はあづささんは小学校1年の時からずっとお箏も続けていたのです。NHKの邦楽技能者育成会というのは、芸大を出たようなトップクラスの人たちが通うところです。私も大学の時に三味線をかじったことがあるので分かるのですが、ちょっとやそっとで入れないところです。育成会に行けるというのは、あづささんのお箏の腕は、それだけでも立派な職業に出来るくらいに素晴らしいということを意味しています。毎週上京して、欠席なしで育成会に通ったあづささん。卒業演奏会の感動は今も胸に残っています。みなさん、邦楽というと、お箏だけとか、お箏と尺八とかのイメージがあるかもしれませんが、NHKの邦楽技能者育成会の合奏曲の迫力は、オーケストラにも劣りません。私も何回か見ましたが、本当に鳥肌が立ちます。音がピタっと合った時の感動ときたら!あづささんのお話を聴いて久しぶりに邦楽の合奏曲を弾きたくなったなぁ。

 あづささんが大学4年生の時から、教員採用試験で水泳が必修になりました。当然の如く、あづささんは泳げません。他の科目がどんなによくても、それができないというのは、真面目な性格のあづささんには認められませんでした。それに実際に、子どもたちに何かあったときに飛び込めないのでは学校の先生は無理だと思ったのです。
 
こうして大学卒業後は、公文の先生とお箏の先生をすることになりました。いち早く公文の教室にパソコンを取り入れたことで、情報処理の腕も磨いていったあづささん。5年間、公文の先生をしている間に、障害を持っている人も生活を楽しもうと黒柳徹子さんや永六輔さんを中心に始まった「われら人間コンサート」の仙台での2回目の開催時に誘われて行ったことでそういう活動にも携わるようになりました。
そして障害者職業訓練校で2年間、パソコンの指導をやり、その後コンピューター専門学校で専任になって情報処理を教え始めます。国家試験の合格者をたくさん出す先生でした。

 専門学校で若い女の子がとんでもない香りの香水をプンプンさせてすれ違うのに違和感を感じ、そういう子たちに自分に似合う香りのことを教えてあげたいと、香りの勉強も始めたあづささん。元来何かを始めるととことんやらないと済まない性格でしたから、東京へ通って、香りのコーディネーターやデザイナーの資格も取りました。フレグランス・オブザイヤーのフレンドリー大賞を取ったくらいです。
 しかし、その頃、仲間と呼べる人はとても少なかったとあづささん。正義を正義としてふりかざし、正論を決して曲げることはしなかった。常に自分が正しいというスタンスでいたので、周囲から煙たがられていたのです。

 一方であづささんは運命的にご主人になる方とその頃に出会います。あづささんはずっと音楽をやっていて、その音楽仲間である榊原光裕さん(なんと榊原さんは今回のドリプラのあづささんの音楽担当もしていらっしゃいます)がご主人の仲間でもありました。また、あづささんと同じ専門学校に日本語学科が出来た時に、日本語教育能力検定試験にパスしていたご主人(もともとは国語教員)が日本語教員として入って来られたのです。
同じ職場に夫婦でいることが許されず、あづささんが職場を去ることにしました。ちょうどその時、大学から新しい学科を作るから教員をやらないかと声がかかっていたので、あづささんは大学で働くことにしたのです。最初は講師でしたが、正規の教員になり、コンピューターの授業や香りの研究を受け持ちました。また香りのデザイナーを育てる、ということも始めました。大学で感性福祉研究所が新しく作られたこともあって、あづささんは引っ張りだこで、周囲から「あなたに風が吹いているね」と言われました。
 
 大学で正式な教員になった時に、赤ちゃんを授かりました。心臓病で子どもを望むなど無理だと思っていた自分に子どもができた。40歳の高齢出産でしたが、本当に嬉しかった。でも、高齢出産なので、やはり心配もあり、羊水検査もやりました。異常なし。ほっと胸をなでおろしました。

 そうして生まれたのは男の子でした。幸せだった。幸太朗と名を付けました。
初めはこの子がどこかちがいを持って生まれた子だとは思いませんでした。
しばらくして、幸太朗くんは高機能自閉症アスペルガー症候群では、と言われました。知的な遅れのある自閉症と解ったのがその後しばらくしてからのことでした。
 大学の研究室にいて、状況が好転するのを待っていても何も変わらないのはわかっていました。この子のために私ができることはなんだろう…


パート.2に続きます。