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今日の人188.佐藤慎司さん [2019年07月24日(Wed)]
 今日の人はアメリカの超名門大学プリンストン大学日本語プログラムディレクター・主任講師の佐藤慎司さんです。佐藤さんは毎年夏にプリンストン大学の学生たちを連れてIJSP(石川ジャパニーズスタディーズプログラム)で金沢に来られていて、その時にお話を伺いました。
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 佐藤さんは1969年東海市で生まれました。妹さんが2人いて、小さい時からおしゃべりしんちゃんと呼ばれるくらい愛嬌のある子でした。かといって、いつも大勢に囲まれているのが好きなわけではなく、一人でいても平気な子でした。いろんなグループに行けるけれど、どこにも属さない。群れるという行為が好きではなかったのかもしれません。
 本は一度ハマると全部読んでしまいたくなるタイプだったので、忙しい時にそれをやってしまうと、大変なのでした。推理小説も大好きで江戸川乱歩やシャーロックホームズ等のシリーズ物は大体読破していました。
 自分から言い出してピアノや絵も習っていて、サッカークラブに剣道クラブなどにも入っていましたから、なかなかに忙しい子ども時代を過ごします。学校が大好きだったかというとそうでもなく、日曜夜にサザエさんを見ると、明日から学校かぁと憂鬱な気分になっていたものです。
でも、佐藤さんのご両親は子どもに何か指図することは決してしませんでした。一人の人格としていつもちゃんと意見を聞いてくれるのです。お母さんは小学校の6年生の時に子ども会の会長をされていたのですが、「子ども会の遠足をどうしたい?」と聞いてくれました。それまでは毎年同じお決まりのコースだったのですが、お母さんは佐藤さんの意見を組んでそれまで行ったことのない場所を提案します。行ったことのない場所で何かあったらどうするの?など、保守的なお母さん方の声もありましたが、その年は子どもの意見を尊重した子ども会の遠足になったのです。結果、子ども達からも大人からも大好評。佐藤さんのいろんな慣習に囚われずに新たなことにチャレンジしていく姿勢はきっとご両親の影響も大きいのでしょう。
お母さんは子ども達の健康にもとても気づかいのある方でした。夏休みも家に置いてあるおやつは冷やしたトマトと麦茶。ポテチ等のスナック菓子は家には一切なかったので、たまに友だちの家で食べるくらいだったのです。
お父さんはドライブ好きでしょっちゅう家族をあちこち旅行に連れていってくれました。お父さんはまだ1ドル360円の固定相場制だった頃に仕事でアメリカに行ったことがあり、広い野原で行われるバーベキューの集まりに参加し度肝を抜かれたり、英語が通じない中でもモテルのおばちゃんに親切にしてもらった経験から、子ども達にもいろいろなことを経験してほしいと、いろいろな場所に連れていってくれたのです。佐藤さんが旅行好きになったのは、そんなお父さんの影響も大いにあります。こうして、ご両親の愛情をたっぷり受けて育った子ども時代でした。

 中学高校時代はオーケストラでフレンチホルンを吹いていました。学生時代はピアノ、フレンチホルンをしていました。そして今は尺八もやっているので、常に音楽に囲まれた生活を送っている佐藤さんです。
 しかし、高校2年生の時に佐藤さんを大きな悲しみが襲います。大きな愛で包んでくれたお母さんが乳がんで亡くなったのです。お母さんが亡くなってからしばらくは、台所からふっとお母さんが出てくるような気がして仕方ありませんでした。生と死の境目ってはっきりしない、そして人ってこんな簡単に死んじゃうものなんだ、だったら、やりたいことをやらないと、高校2年の佐藤さんが胸に刻んだことでした。でも、お母さんが亡くなる前の3か月間、佐藤さんは毎日学校帰りに病院に寄ってお母さんに顔を見せていました。だから高校生の自分にできるせいいっぱいの親孝行はできたのではないかと思っています。
今も、お父さんに できるだけ顔を見せようと、アメリカから帰国した時は必ず実家に寄る佐藤さん。もっとも、お父さんは定年後も全く暇そうにしていることはなく、自分史を書いたり、マラソンやウォーキング、コンピューターを使ったり、料理もご自分でされたりと、とてもお元気です。

 お母さんが亡くなってから、3日に1回料理当番が回ってくるようになりました。最初こそ、ハンバーグにつなぎを入れなかったり、すき焼きなのにみそを入れたりしましたが、そのうちに残り物を使っての料理もお手の物になり、料理は全く苦にならなくなりました。そうして家族はみんなおしゃべりなので、いつも笑いの絶えない佐藤家だったのは、幸せなことでした。

 大学に入る時に、佐藤さんがお父さんから言われたことは2つありました。ひとつは自分の家から通うな、もうひとつは卒業する前に海外を経験しろ、ということでした。
 そこで佐藤さんが選んだのは東北大学の経済学部でした。ゼミは日本人が5人、留学生が5人でダイバーシティがありました。留学生といろいろ話をする中で、佐藤さんは異文化コミュニケーションの楽しさを感じました。日本人も全国から集まってきているので、各地の言葉の違いも楽しかったのです。もちろん東北名物の芋煮もやりましたし、アルバイトもいろいろやりました。家庭教師、カフェや立ち食い蕎麦屋の店員、交通量調査、試験監督、町工場で選挙ポスター掲示板の設営、パン工場等、とにかくいろんなジャンルのバイトをやりました。
 お父さんとのもう一つの約束は大学4年の時に果たします。夏休みにニューヨークのロングアイランドにホームスティをしました。ホストファミリーは決してお金持ちの家ではなく、変に親切でもなかった。でもそれがすごくよかった。ホストファミリーのお父さんはベトナム退役軍人で日雇いの仕事をしていて、お母さんとは再婚でした。信号が赤で止まったら車もガス欠。それでもなんとかなるさと陽気に笑っている家族でした。天気もよく、空も広い、言葉が通じなくてもなんとかなる、それを肌で感じたとてもいい時間になりました。
へんてこな旅行にもよく行きました。青春18きっぷで下関まで行き、下関からフェリーで釜山へ、フェリーの中で仲良くなった早稲田の韓国人留学生から簡単なフレーズを習って韓国に初上陸。釜山からソウルまではバスで、ソウルから中国遼東半島までフェリーで行きました。そのフェリーに乗っていた外国人は3人だけで、着いた場所は青島の近くの威海です。中国語は話せないので筆談で勝負。すると中国人用の安い切符を買ってやるから車内で話すなと言われ、地元の人しか乗らない列車に乗って上海に行くことになりました。車内は床で子どもにおしっこをさせているなど、まさにカオスな空間に日本人の佐藤さんが紛れ込んでいたのでした。
上海では中国人の友だちに会いました。当時上海で外食は中国人平均給与の半分程の値段だったのですが、ご馳走してくれ、中国の人のもてなしの心に触れたのでした。上海から香港までは、打って変わって一番いい寝台で行きました。昔も今も、自分の心がワクワクするところを佐藤さんは常に追いかけていらっしゃるのかもしれませんね。

 こうして大学を卒業した佐藤さんは、クレジットカード会社に就職します。社員の90%が20代でノリは体育会系、すごくおもしろい人が集まっている会社でした。でも、会社にはゼミに日常的にいたような外国人がいませんでした。佐藤さんにはずっと外国の人と関わっていたい思いもあり、新聞で見つけた日本語ボランティアに参加することにしました。会社の寮は鶴見にありましたが、世田谷まで日本語ボランティアに通いました。その教室にはいろいろな国籍の人が来ていて、どうやったら心を開いてくれるか、どうやったらおもしろくなるか、いつも考えていました。教科書通りに教えてもちっとも盛り上がらない。けれど、「これはあなたの国の言葉で何て言うの?」そのひと言で、学習者との距離がぐっと縮まりました。こうして言語学習を通じていろんな人とコミュニケーションを取る時間は佐藤さんにとってとても大切な時間となりました。

 長期休暇はやはり旅行に出かけていました。ヨーロッパに行った帰りに飛行機の中でフィリピンの人と友だちになり、翌年その人の住所だけを持ってフィリピンに行ったこともありました。フィリピンに着いてから、ここにどうやって行けばいい?と現地の人に聞くと、バスターミナルに連れていってくれました。バスの中で寝てしまい、降りるべきバス停がわからなくなってしまった佐藤さん、はてどうしようかと途方に暮れていると、乗り合わせた一人の学生がその友だちの家の前まで佐藤さんを送っていってくれたのです。お礼に佐藤さんはその子にハンバーガーをおごってあげました。訪ねて行った友人はホアンくんといい、その当時の佐藤さんにはかなり貧しく見える地域に住んでいました。ホワンくんのうちには家族親戚の小さいお子さんがたくさんいて、なんでこんなに目がきれいなんだろうというくらい、みんな目がきらきらしていました。日本ではほとんど見ることのなかったようなこの目の輝きは一生忘れられません。せっかく来たから観光しようと、大砲に十字架がある所に登って写真を撮ったりもしました。その時は、フィリピンの人たちはみんなニコニコして何も言わなかったけれど、日本に帰ってきてからその地について調べた佐藤さんは愕然とします。日本軍が攻撃した戦争の地で、自分は何を陽気に砲台に登って写真を撮っていたんだ。あの中には身内を日本兵に殺された人もいたかもしれない。それなのに、何も言わずに日本人の自分に優しくしてくれた人々。胸がチクチク痛みました。その時の痛みを佐藤さんは今も忘れていません。

 会社に勤めて4年、佐藤さんは仕事を辞めて留学する決意をします。会社の人は、「イヤで辞めるわけじゃないし、がんばってこい」と胴上げしてくれました。お父さんにも電話をかけました。「僕、海外の大学院に留学することにしたよ。」すると、お父さんは言いました。
「お前が一生会社に勤めるとは思わなかったよ。慎司は学者になると思っていたから」
お父さん、お見通しだったんですね。

 そして佐藤さんはマサチューセッツ州立大学で修士号を取ります。この時、佐藤さんのメンターともいえる先生との出会いがありました。その先生は学問に対する確固とした哲学を持っている先生で、自分に厳しく、人には優しい観音様のような先生です。その先生が佐藤さんに「博士号も取りなさい。そして教育学部に行くならできるだけ名の通った大学院で学びなさい」とおっしゃったのでした。こうして、佐藤さんは、名門コロンビア大学教育大学院(ティーチャーズカレッジ)の博士課程で再び学び始めました。しかし、常に孤独で苦しかった。パートタイムで日本語を教えてはいましたが、お金がない、時間もない、トンネルに入って出口が見えない、そんな日々を過ごしていたのです。それでも、ふんばりました。
 佐藤さんは当時文化習得に興味がありました。そのフィールドとして日本の保育園や幼稚園を10か所周りましたが、行く所によっていろいろなことが全部ちがっていました。教育観、宗教(仏教、キリスト教系など)、その地独特の風俗、そういうものによって園は全くちがうものになっていたのです。しかし、ひとつだけ共通していることがありました。それは、保育園にしても、幼稚園にしてもそして外国語教育の現場にしても、目の前の子供や学習者を大切に思う心ある多くの女性によって現場が成り立っているということです。それを搾取する心ない人がいて、それでも子どもたちや外国語教育を受けている学生たちのために、文句も言わずにがんばっている。ここをちゃんと研究者として明らかにして教育者を束ねていかないと、そう佐藤さんは思いました。
教育人類学の博士号を取得した佐藤さんは、ハーバード大学、ミドルベリーサマースクール、コロンビア大学講師を経て、2011年よりプリンストン大学日本語プログラムディレクター、主任講師となり、今、世界中を駆け回っています。

佐藤さんには大切にしている信念があります。それは、子どもも外国人も一人の人として意思を尊重すること。佐藤さん自身が幼少のころから、周りのみんなに意思を大切にされアイデンティティを育んでくることが出来た。だから相手がどんなに幼い子どもでも、人として尊重しているか、それを大切にしたいのです。尊重するからこそ対話が成立する、一方通行だとそれは対話とは言えないのだから。

対話によるコミュニケーションの大切さ、それをもっともっとちゃんと伝えていける教育者でありたい、仲のよい人とだけやっていくのは気持ちはいいけれど、相容れない人ともちゃんと話すこと、対話していくこと、それによって1+1が100になることだってある。だから、恐れずにどんどん対話をしていける世の中にしていきたい。
教育と人類学は佐藤さんの研究のテーマであり続けるのでした。

 佐藤さんがプリンストン大学の学生を連れてIJSP(石川ジャパニーズスタディーズプログラム)に来るようになって、今年で7年目になりました。日本語教育の大家でプリンストン大学名誉教授の牧野成一先生から引き継いだ事業です。学生たちにとって、古都金沢でホームステイしながら学べるこのプログラムは、本当にすばらしい時間となっていて、佐藤さんにとっても金沢で過ごす時間はとても大切な時間です。そして、佐藤さん自身も後継者を育てていくことの大切さを思うようになりました。そんなことも考えこの夏には石川県国際交流協会との共催で「みんなで考えよう石川の未来」というイベントも主催しました。佐藤さんに会うことになったのも私がこのイベントに参加したためです。

 佐藤さんには、今、日曜のサザエさんの憂鬱はありません。いつも楽しい。時々、ペースダウンした方がいいかなと思うこともありますが、自分じゃないとできないことが増えている、そんな使命感も感じています。50代はまだまだ働き盛り。後継者を育てながら、ご自身も最前線を突っ走ってくださいね。

 そんな佐藤さんが楽しいことは人と人とのつながりを感じるとき。そして人と人を会わせて起こる化学反応にわくわくするのです。そう、佐藤さんはとにかく人が好き。プリンストン大学といえば世界の大学学術ランキング2018で6位(東京大学は22位)、プリンストン大学の合格率は、アイビー・リーグの8校のうち、3番目です。トップ3(ハーバード、イェール、プリンストン)の大学を総称して、ビッグスリー、またはイニシャルをとってHYPとも呼ばれています。そんな超有名大学の先生にもかかわらず、佐藤さんはえらそうな所はひとつもありません。本当に気さくで、日本語教育の世界に新しい風を吹き込んでくださる先生として期待大なのです。
 
 いろんな趣味があって、尺八、民藝や骨董集めも好きですし、ジムに行くのも好き、手でものを作るのも好き。料理も好きでコーヒーも豆から自分でひきます。もちろん、旅も大好きです。とにかく好奇心が半端なく、いくつになっても少年のような佐藤さん。
 これからも、おしゃべりしんちゃんの本領を発揮して、いろいろな場所で人と人をつないでいってくださいね。この世界を平和に導くのは、対話しかないと私も思っています。いろいろな見方を自分の味方にするのは、対話で生まれる愛だから。そしてその愛ある対話が日本語でも出来るように、私たち日本語教師は、今日も留学生や外国人労働者や外国にルーツを持つ子ども達と向き合っているのです。

演劇佐藤さんには近著「コミュニケーションとは何か―ポスト・コミュニカティブ・アプローチ 」を始め数々のご著書があります。
ぜひご覧になってください。下指差し
佐藤慎司さんの執筆本
今日の人126.Dadò 美鈴さん [2014年08月14日(Thu)]
 今日の人は小矢部生まれ小矢部育ちスイス在住のDadò 美鈴さんです。なぜDadòかというと、旦那さまがスイス人でいらっしゃるからです。美鈴さんは夏の間だけお子さんと一緒に小矢部で過ごされるので、その機会にインタビューさせていただきました。
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 美鈴さんは小さい時はとても恥ずかしがり屋でした。それが小学校1年の時に授業参観の学級会で司会者に選ばれて「あ、やってみるとおもしろいんだ」と思ったのがきっかけで少しずつ変わっていきました。といっても、やはりまだまだシャイで授業中に言いたいことがあっても言えず、授業後に言いに行くような子でした。
 その頃はまだ近所に子どもたちがとても多く、男の子と広場で野球をしたり、女の子とりかちゃん人形で遊んだりしていたものです。伝記を読むのも好きで、キュリー夫人やエジソン、ナイチンゲール等ワクワクしながら読んだものでした。夏休みの自由研究にナイチンゲールの紙芝居を作ったくらいです。宇宙の秘密や恐竜の秘密といった秘密シリーズも好きでした。あのシリーズ、端っこに書いてあるミニ知識がまたいいんですよね。

 そして、小学生の時から英語に興味がありました。中学に入る前に英語の参考書を書い、それを読んでいると興奮してお腹がぐるぐる回るのです。音声表も大好きで音声表の通りに発音するのが楽しくてたまらなかった。こうして、いつの間にか英語の発音記号を独学で覚えてしまったのでした。

 集会をオーガナイズするのが好きで、集会委員としても活躍していました。模造紙にいろいろ書いてみんなの前で発表するのが楽しかった。
 
 小矢部といえば全国的にもホッケーが強いことで有名なのですが、美鈴さんも5年生の時にホッケーを始めました。先生が厳しい方で毎日毎日きつい練習がありました。その後のつらいことはホッケーに比べればなんてことないという位きつい練習に堪えたことは大きな財産になりました。最初は補欠で始まりましたが、負けず嫌いの美鈴さんはいつしか全ポジションをこなせるオールマイティーなプレーヤーになっていました。

 しかし、小学校時代でホッケーは燃え尽きました。友だちが中学でもホッケー部を選ぶ中、美鈴さんが中学で選んだのはバレーボール部でした。
 なにしろやり始めると一直線なのが美鈴さん。バレーにも一生懸命に打ち込みます。しかしバレー部は上下関係が厳しく、それは苦手でした。生徒会役員も務めていたのですが、生徒会には上下関係がなく、そちらの方が居心地がよかったのです。

 中2の春休みにはアメリカのカリフォルニアでの短期留学プログラムに参加。実は行ってすぐにホームシックにかかってしまい、この時に家族の大切さに気付いて、反抗期が消えてしまった美鈴さん。しかし、ホームシックにかかっていたのは2日間だけ。プログラム自体はとても楽しく、ホームスティ先のホストファミリーと英語でコミュニケーションが取れるのがとても楽しかった。たった1つの英単語でもちゃんと話ができるんだ!完璧に話さなくても通じるんだ!英語へのハードルが下がり、ますます英語が好きになった美鈴さんなのでした。
 最後の夜は浴衣を来て、習字を書いてあげたり、おわらを踊ってあげたりしたのもいい思い出です。

 日本に帰国してすぐに美鈴さんはこのプログラムを主催していらした神父さんに手紙を書きました。こんな楽しい経験をさせてもらえるなんてなんて素敵な仕事なんでしょう。私もこの仕事がやりたい!と。神父さんからはこんな返事が来ました。いろんな世界を見て、それでもまだやりたかったら来なさい。
 
 こうしてどんどん英語の世界に入り込んでいった美鈴さんは福岡高校の英語科へ進みます。常に英語しか頭にない高校生活。高1の夏休みにはカナダにホームスティして、今でもそのファミリーとはクリスマスカードを交換しています。
英語科の友だちと一緒に金沢の英会話スクールにも通っていました。大学生や社会人がいる中で、文法中心ではなく、使えるフレーズがどんどん増えていくやり方がとてもよかった。

 美鈴さんのアメリカ病はどんどんひどくなる一方で、高3の6月からは単位交換ができる高校に1年間留学しました。しかし、この1年間の留学生活は、今までの短期のプログラムとはちがってアメリカの現実も見ることになりました。白人でお金がある人が優遇される、そんな場面に出会うことも何度もあって、あれ?ここが自分が思っていた天国でいいのかな?そんな疑問をいだくようになりました。できると思っていた英語もまだまだダメで、助けてくれたのが数学、生物、美術といった科目でした。日本ではスクールカウンセラーというと心理面のサポートをするというイメージが一般的ですが、アメリカでは授業の組み立てのサポートをしてくれるスクールカウンセラーもいます。それで、滞り無く単位も取れて、1年後の6月に帰国し、高校の校長室でただ一人の卒業式を迎えたのでした。

 アメリカの大学で学ぼうと思い、翌月には東京のトフルゼミナールに入って、TOEFLの受験に備えました。本当はアメリカのアート系の大学に行きたかったのですが、アート系でその後食べていけるのか不安になり、またその時教えてくれていた先生がアメリカに行くことを薦めなかったこともあって、アメリカの大学に進むことはやめた美鈴さん。代わりに候補になったのが、イギリス、オーストラリア、ニュージーランド、カナダの大学でした。ちょうどその頃、「天国にいちばん近い島」という映画が流行っていたこともあって、どうせならそっちがいいなと思い選んだのはニュージーランド。大学は2月スタートなのですが、9月から2月までは予定がなかったので、先に行って準備しようと思い、現地で英語学校に通い始めました。そこで出会ったのが、スイス人の旦那さま!彼とは一ヶ月だけ一緒に勉強しましたが、その後もずっと電話や手紙でやりとりを続けたのです。

 英語学校に通ううち、美鈴さんは思うようになりました。私は英語圏の大学に行ければいい、科目は後で決めればいい、そう思って安易にニュージーランドの大学に行こうと思っていた。それでいいんだろうか。それに、スイスにいる彼に近い所にいたい!という思いもありました。それで、イギリスで勉強して、ケンブリッジ英検の一番難しいレベルに合格することを目標にしたのです。こうしてイギリスで1年、スイスで1年過ごし、その後イギリスの大学で3年間経済学を専攻して勉強を続けました。この3年間は本当に楽しかった。既に英語は思い通りに使えるようになっていたし、住んでいたスチューデントハウスにはいろんな国の人がいて夜はしょっちゅうパーティがあってたくさん友だちができました。いろんなちがいのある人がいるのが楽しくて仕方がありませんでした。ゲイの子もいっぱいいたけど、それもあたりまえのこととして捉えていました。◯◯人だからとかゲイだからとかレズビアンだからとか、そういうことで人を判断するのはバカらしいと心から思った。みんな地球人、そう考えることができたらきっと仲良くなれる。経済学の勉強よりも、こんな多様な人たちと知り合うために私はここに来たんだな、そう思いました。ですから大学を離れるときはとても寂しかったのです。

 その間、スイスの1年を除いてずっと遠距離恋愛だった美鈴さん。大学を出た後はスイスに行って彼と結婚しました。あれだけ英語を勉強してきたけれど、スイスの公用語はドイツ語、フランス語、イタリア語、ロマンシュ語。美鈴さんの住んでいる地域はイタリア語を使う地域でしたので、イタリア語の勉強もはじめました。イタリア語を勉強したことで、言葉の幅が大きく広がりました。ヨーロッパの人は、5ヶ国語話せるという人が普通にいますが、その意味がなんとなくわかるようになった美鈴さんです。

 さて、美鈴さんには子どもができる前に、しておきたい3つのことがありました。
まず、イタリア語で一人で何でもできるようになること。ちゃんとどこでも行けるように運転を上手になること。そして仕事の基礎を作ること。

 美鈴さんは銀行で2か月研修をしたのですが、どうも違う。やはり、英語が好き。じゃ、好きな英語を教えようと思い、ケンブリッジ大学英語検定機構の出している英語教授法認定資格CELTAとCELTYLを取得。自分は銀行で勤めるより、英語を教えている方がやりがいがあると思ったのです。そして日本語も教え始めました。
 
 こうして、語学学校で英語のクラスを担当しはじめた美鈴さん。同時に、日本語のイブニングコースの10月~5月のクラスも担当しました。それには訳がありました。スイスの産休は3ヶ月。6月に出産すれば10月からのクラスをまた担当できます。そして希望通り6月に長女を出産。3ヶ月後からは働き始めました。子育てしながら徹夜で授業の準備をしていたこともあります。仕事している間はお姑さんと旦那さんが交代でお子さんを預かってくれました。

 上の子と下の子は年が近い方がいいと思っていたら、またすぐに妊娠してとても嬉しかったのですが、その子は8週間で流産してしまいます。その後は、なかなか妊娠できず、また周囲の言葉で傷つく日々でもありました。きっとなぐさめるつもりで言ってくれているのでしょうが、「流産はよくあることよ」とか「1人いるからいいじゃない」とか言われるとグサグサ刺さりました。流産した後に落ち込んだままの人の気持ちが痛いほどわかりました。

 その後、美鈴さんは2人の女の子のお母さんになりました。常に寝不足で、産後鬱のような状態になってしまい、精神的に爆発してしまったこともあります。そんな時に頼りになるのは産婦人科でした。スイスの産婦人科は個人院で1人の先生が最初から最後までサポートしてくれることが多いのです。先生の奥様もたまたま日本人で、日本人の人はストレスがあっても内に秘めておく傾向があるから、何か変だなと思ったら、すぐに相談してね。と言われていたので、恥ずかしかったけど、先生に電話し、相談に乗ってもらっているうちに、爆発した気持ちを穏やかな気持ちに切り替えることができました。心が沈んでいる時こそストレッチでもいいから体を動かすことが心のバランスを取り戻すのには大切なんだと知りました。

 美鈴さんはお母さんにはちゃんと自分の気持ちを話せる環境があることがとても大事だと考えています。一人で抱え込むのが一番まずい。友だちでもいいし、カウンセラーでもいいし、近くにお姑さんがいるなら、彼女に話すことも大事だと思っています。美鈴さんもお子さんがおしゃぶりを3つも一度にくわえていることをお姑さんに言うと、「あら、お父さん(美鈴さんの旦那様)と一緒ね」と言ってもらったことで一緒に笑えました。そんな風に一緒に笑い合えることでどんなにか心が楽になることでしょう。

 こうして美鈴さんはスイスで子育てをしてきました。今、2人の娘さんは小学校5年生と3年生。毎年夏になったら日本に来ることを楽しみにしています。スイスも大好きだけど、日本も大好きな子どもたち。スイスにはないソフトクリームを食べるのもとっても楽しみにしているのだとか。

 最近、子育ても一段落して自分の時間が持てるようになった美鈴さん。今、楽しいことは自分探しの時間です。世界には様々な宗教があるし、宗教での悲しい争いもたくさんあるけれど、そもそも私たち地球人にとっての根源的な神のような存在って何だろう。きっと目に見えない、でも確かにある、そんな力ってあるはずだ。美鈴さんによると、そこにつながるのがハワイ語。今、ハワイ語、そしてハワイの思想を学ぶことが楽しくてたまらないのです。と同時にフラも学んでいます。ケアリイ・レイシェル、フラの世界では知らない人がいない彼のワークショップを受けに東京に飛んだことも2回あります。

 そして、美鈴さんは大好きな英語をもっともっと日本人が話せるようになるように自分ができることを模索しています。世界に出るための壁をゆるやかにしてくれるもののひとつが英語、その英語によって人と人をつなぐ役割を自分は担いたい。文法から入る英語ではなく、聞き取りとフレーズ練習で身についた英語で話せる楽しさを体験してもらいたい。そうしたら英語アレルギーになんてきっとならない。今まで美鈴さんが学んで来たものをアウトプットしていきたい、そう思っています。

 今はスイスに戻った美鈴さん。きっと来年の夏、また素敵なお話を携えて富山に里帰りされることでしょう。その日を楽しみにしています。
今日の人60.岩田弘志さん [2012年10月04日(Thu)]
 今日の人は、シンガポール和僑会代表理事、シンガポール経済新聞編集長の岩田弘志さんです。
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 シンガポール和僑会は世界中から注目を集める国際都市シンガポールの和僑会組織として、会員間の相互扶助、各会員のも目標達成の支援、及び地域・社会への貢献を目的として活動を続けています。そしてシンガポール経済新聞はシンガポールの街角で日々起こっているビジネス&カルチャーニュースをお届けするインターネットの情報配信サービスです。シンガポールのホットな話題がたくさんですから、ぜひご覧になってくださいね。

 岩田さんは富山県の入善生まれ。おとなしい子で小さい時から読書家でした。特にSFが好きでした。手塚治虫も大好きでほとんどの作品を持っていて、なかでもいちばん好きなのは火の鳥でした。実は、岩田さんが9歳の時に、3歳だった弟が用水で溺死してしまうという痛ましい事故が起きました。そこから、岩田さんは物事について深く考えるようになりました。人の生死、輪廻転生といったものを深く描いている火の鳥が好きになっていった少年の心の痛みはいかばかりだったでしょうか。
 
 中学校に入ると、異次元的な世界に興味を持ち、当時流行っていたムーという雑誌を愛読しているムー少年でした。音楽グループのカシオペアにもハマり、公会堂のコンサートでは並んでチケットをゲットしていました。そういうわけで、高校ではバンドを組んだりもしました。
 
 そして大学では軽音楽部やテニスサークルを掛け持ちする、バブル世代にはよくありがちな学生生活だったようです。けれど、子どもたちをキャンプに連れて行ったり、スキースクールで教えるというバイトもしていました。40日間志賀高原に篭りっぱなしだったことも。

 岩田さんは商学部なのですが、卒業の1年位前から、パイロットになりたいと思うようになりました。以前はパイロットと言えば理系の職業だったのですが、当時、文系にも道が開かれるようになっていました。しかし、試験を受けましたが、願いは叶わず…。
 
 とりあえず就職して5年間流通の仕事をしましたが、つまらないと感じ、アタッカーズ・ビジネススクールに入ります。
 その後、マレーシア、タイ、シンガポールをめぐる旅をしている時に、たまたまシンガポールで海外引越を専門とする「CROWN LINE」のCEO森 幹夫さんと会う機会に恵まれました。ただ、森さんに会いたくて会社訪問をしたので、旅行者そのままのジーンズにバックパックという格好で行ったのに、いつの間にか面接になっていて、森さんから、うちの会社に来ないかと言われたのです。
 兼業農家の長男、ということもあって、シンガポールに渡ることを3ヶ月悩みました。しかし、1998年9月にシンガポールに渡ることを決断。

 とにかく最初はがむしゃらに働きました。そのうち、シンガポールでフリーペーパーを始めるようになり、日本語ラジオ放送でパーソナリティも務めるようにもなりました。
 「海外ビジネス最前線」というブログでシンガポールからの記事を発信するようになりました。そんな時、関連会社で「シンガポール経済新聞」のプロジェクトが立ち上がることになり、岩田さんはそちらに移籍して、最初の編集者として最初の10ヶ月、体制づくりに尽力しました。訳あって会社を辞することになったものの、「◯◯経済新聞」の意義はずっと強く感じていました。

 その後は、他にも今では当たり前になったインターネットで日本のテレビ番組を配信する事業を先駆けてやったり、海外フリーペーパーのウェブサイトを作ったりと、さまざまなことを手がけました。
 そして、シンガポール経済新聞と別れてから3年後、本当にタイミングよくシンガポール経済新聞を引き取らないか、という話が降ってきて、岩田さんは編集長として、今も日々ホットなニュースを配信されています。

 シンガポールの魅力は自分の当たり前が壊れることだと岩田さんは言います。多様性を認めている国ですし、気候的に体調管理もラク、移動もラク、安心安全、そして文化的にとても軽く、おもしろいことはとりあえずやってみればいいじゃん、というノリ。そんなシンガポールが岩田さんは大好きです。

 ずっと現地にいる人だけでなく、現地に飛び込んで来た人が隅っこに追いやられずに活躍できるようにしたい、そのためにもフリーランスや独立してやっている人と連携していきたい、と岩田さんは考えています。

 この11月には世界各国から500人が集まる和僑会の大会を開催します。
 「和僑アジア大会2012inシンガポール」です!
 詳しくはこちらをチェック
http://www.greatwakyo.com


 今、地方の観光のウェブサイトは固定化されてしまっているものがとても多い。でも、お金を落とす層は観光地ではなく、街に集まると岩田さんは考えています。だから、みんなの経済新聞ネットワークでいろんなホットな街ネタを多言語で配信する。そうすれば世界中からその街に人が集まるのではないか?
 例えば、富山の街に、アキバのように流れの外国人がたくさん遊びに来るようになれば、本当におもしろい。でも、それは情報の発信の仕方次第で可能だと、岩田さんは考えているのです。

 海外からどんどん新しい風を入れてくれる岩田さん、そんな岩田さんが富山の若者に言いたいことは、とにかく、外に飛び出して行って見てこいよ!ということです。

 飛び出さないと、おもしろいことは起こらない。それは富山にずっといたって同じこと。
そんな富山の若者に世界で活躍する富山県人を紹介して、少しでも自分が飛び出す力にしてもらいたい、そう思って、岩田さんは「世界のとやま人」を富山で紹介する活動もなさっています。

 これからも、岩田さんはたくさんの新鮮な情報をシンガポールから発信なさってくださることでしょう。シンガポール経済新聞、ぜひみなさんもチェックをお忘れなく!
そして、富山経済新聞もまもなく配信されるであろうことも告知しておきます。富山経済新聞が多言語で即座に配信されれば、富山の海外での魅力はう~んとUPするでしょう。その日を心から楽しみにしています。