今日の人104.伊藤 勝さん [2013年08月21日(Wed)]
今日の人は群馬で奇跡の眼科と呼ばれている「いとう眼科」の事務長、そして11月23日に初開催される日本人の生き方を問うサムライドリプラ実行委員長として、日夜東奔西走されている伊藤 勝さんです。伊藤さんはみなさんからえむさんと呼ばれ親しまれています。
えむさんは小さい頃から人気者で、みんなに可愛がられて育った次男坊でした。幼稚園の年中から剣道を始め、それは高校1年まで続きました。 中学の時は剣道部で抜きん出て強く、また勉強も出来る方だったので、文武両道を地で行っていました。彼女もいてルンルンの中学校時代。ビー・バップ・ハイスクールに憧れ、モテることばかり考えていました。でも、タバコを吸ったりするようなことはなく、明るく挫折ない道を歩いてきた思春期だったのです。 お母さんはえむさんをエリートサラリーマンにさせたいと思っていました。それで、えむさんもエリートになりたい。いい会社に入っていい生活をしたい!そんな風に思っていました。 お父さんは銀行員でした。といっても、近所のおじいちゃんおばあちゃんを担当している銀行員でしたから、外でお客さんに会うといつもペコペコ頭を下げていました。えむさんはそれを見るのがものすごくイヤでした。親父、カッコ悪いよなぁ。そう思っていました。こんな親父には絶対になりたくない、理想の父親とは真逆の父親像だったのです。今、思うとそう思っていた自分がホントに情けなくなりますが、当時はそう思っていました。 今でこそ読書家のえむさんですが、当時は漫画しか読まない少年でした。ジャンプの発売日の月曜になると、いつもお父さんはジャンプを買ってくれて、肉まんと一緒にえむさんの枕元に置いておいてくれました。ホントに優しいお父さん。それなのに、そんなお父さんを尊敬できない勝少年なのでした。 剣道で神童と呼ばれた中学時代から一転、高校は剣道部も強く、今までのようにチヤホヤされることはなくなりました。なんだか今までずっと日の当たる場所を歩いてきたのに、明るい道から突然、凡庸な道に落とされたようなそんな気分になりました。 もう剣道はいい、それより勉強をちゃんとやろう、そう思ったえむさんは部活を辞めました。と言ってもそのまま勉強に突っ走ったかと言えばそうではなく、バンドでギターを弾いて学園祭ではじけていました。当時流行っていたBOØWYを真似たりしました。それはやっぱり女の子にモテたいという思いがあったからです。 しかし、徐々に自分が自分勝手だということに気づきます。俺は本当の友だちがいないんじゃないか?女の子の取り合いとかそういうのばっかりだ。俺はなんて自己中心的なんだろう。 大学進学に際しては東京六大学に行きたいという思いがありました。少しでも就職に有利、そういう思いもありました。やはりお母さんの願いがえむさんに入り込んでいたのでしょうか。こうして法政大学の経済学部に入学します。しかし、サークルには入りませんでした。 大学1年の時に出会ったのが奥さまになる女性です。その後、えむさんはずっと彼女と一緒でした。友だちにもっと合コンとか出たらどう?と誘われましたが全くそういう気分にならなかった。波長の合う彼女とずっと一緒にいることは、えむさんにとってごく自然なことだったのです。高校時代までは女の子にモテることばかり考えていたえむさんのこの変わり様。きっと彼女と会うことがえむさんにとっての必然だったのでしょう。 サークルに入らなかったえむさんが一生懸命に取り組んだのはアルバイトでした。お金のためというよりは、親分かたぎの社長の生き方に影響を受けたからでした。体育会のようなノリのバイト先でしたが、親分肌でいつもどっしり構えている社長の姿勢に学ぶところがたくさんありましたし、厳しい中にもえむさん達をとても可愛がってくれました。えむさんはこのビジネスホテルで4年間ずっとバイトをやり続けたのでした。 しかし、大学生活自体にはあまり意義を見出せませんでした。何もがんばることをしていない自分。いったい何のためにここにいるのだろう。意味のない時間を過ごしているように思えました。 就職活動をしても何か虚しさがありました。都銀などを受けて受かったとしてもきっと一生地方まわりの運命だ。それならば、地元に帰って、地元の安定した企業を受けよう、とう思いました。 こうして就職したのは地元群馬の農業関連の総合商社でした。エリートとは言えないけれど、安定企業だし、落ち着いたよな、そう思いました。 実はこの時、群馬に彼女もついてきたのでした。大学時代は空虚だったとえむさんはおっしゃるけれど、その大学時代に生涯の伴侶を得たのですから、決して空虚だとは言えないですよね。 就職した頃は自分は最悪なサラリーマンだったとえむさんはおっしゃいます。 視野がとても狭く、チヤホヤされて育ったから自分はできると思い込んでいるという最悪なヤツでした。同僚と飲みに言って会社の愚痴を言うのは日常茶飯事。総務部では若くてもみんなに頭を下げられましたので、ますます調子にノリました。 時間内に仕事を終えられないヤツは使いもんにならん。そう思っていました。だから自分は6時きっかりに帰ります。仕事に楽しみはない。なんだか週末のために仕事をしているようで、虚しさばかりが胸に広がりました。自分は何のために働いているのだろう… このままでは俺はダメだ、何か勉強したい。そう思って始めたのが、社会保険労務士の資格を取る勉強でした。元々、やり始めるとハマりやすいえむさん。全ての遊びをやめ、飲み会の誘いも断り、ひたすら受験勉強に取り組みました。当時、えむさんのお嬢さんはまだ1歳だったのですが、そのお嬢さんと遊ぶこともほとんどなく、家族の娯楽はえむさんの受験勉強の合間に公園で一緒に奥さんの作ってくれたお弁当を食べるくらい。それでも、一切文句を言わない奥さまはなんと素晴らしい方でしょうか。 そこまで全てをかけてチャレンジした試験でしたが、最初の年は合格できませんでした。2ヶ月間、何も手がつかずに過ごしましたが、やはりチャレンジすることをあきらめきれず、もう一年頑張ることにしました。こうして2年目に社会保険労務士の試験に合格。 ちょうどその頃、眼科医のお兄さんに開業するから手伝ってくれないかと声をかけられました。その時えむさんは会社では600人を束ねる部署にいましたが、考えた末お兄さんと一緒に歩いていく道を選択。 こうしてえむさんは会社を辞め、他の眼科で4ヶ月修行した後、お兄さんの眼科で働き始めます。平成17年4月のことでした。 しかし、どうしようもない男が組織を作っても、所詮どうしようもない組織しかできない、それを実感することとなりました。 その頃、えむさんには感謝とか貢献といった概念がなかったとおっしゃいます。とにかく業績を伸ばさなければ!そのためにいいスタッフを集めよう!対外的にはほめられていましたが、実はスタッフ間の人間関係はよくありませんでした。押し付けでなんとか見栄えのいい形は作った。でもそこに中身は伴っていなかったのです。 そんなえむさんを変えたのは3つの出会いでした。まずは人との出会い。朝必ず自分からスタッフのところへ行って握手をしているという歯医者さんとの出会いがありました。医者がスタッフに感謝して毎朝握手までしている。衝撃的でした。こんな人がいるのか!次に本との出会い。本屋でたまたま手に取った「仕事が嫌になった人へ」という本。 それまで仕事は生活のためにやるものだと思っていたえむさんに、「仕事が楽しい」という考えは強烈でした。 3つ目はDVDとの出会い。それは居酒屋てっぺんの朝礼のDVDでした。(居酒屋てっぺんの朝礼についてはこちらをどうぞ⇒ )そこに写っている人たち一人一人の顔が輝いていました。自分もスタッフも輝くにはこれだ!そう思いました。 これらの出会いを経て、えむさんは今までの仕事への取り組み方を180度変えました。すると仕事が楽しくて仕方がなくなったのです。しかし、えむさんがその取り組みをやればやるほど、そのやり方に反発するスタッフとの対立は深くなりました。やがて12人いたスタッフの内9人が辞めてしまうという事態が起こりました。 その頃、既にいとう眼科は1日に160名の患者が来る病院になっていました。今まで12人のスタッフでやっていたものを3人で回さなければならない。お兄さんである院長の苦悩は深く、わずか2日で体重が5s落ちました。 辞めた9人のうち、2人は戻って来てくれましたが、それでもまだ5人。 これでは患者さんに迷惑が及ぶことになってしまう。 えむさんは一旦病院を閉めようという大胆な提案をします。そうして残ってくれたスタッフ5人と一緒にできることをとことん考えました。今までの制服も辞め、ユニクロに行って、かっこよさげな服を選び、それをユニフォームにしました。 理念は「仕事を通じて社会に貢献したい」 その想いに共感してくれた人のみを採用していきました。 こうして、その後2年の間にいとう眼科は「奇跡の眼科」と呼ばれるようになるまでになったのです。その2年間はチーム作りをみんなでワクワクしながら取り組めましたし、もっと本質的なものがあるんじゃないかとの思いでドリプラにも取り組みました。 えむさんは3つのドリプラの実行委員長を同時にやられたそうです。ドリプラの実行委員長というのは、ひとつでも大変なはずなのに、それを3つ同時にだなんて、まさに変態です。(ここでいう変態はいい意味です。常人離れしていて、すごい人という意味です) こうして9月に群馬ドリプラ、10月に眼科ドリプラ、11月に大阪歯科ドリプラという3つのドリプラの実行委員長をやり遂げたえむさん。 ドリプラに取り組むというのは、自分のお金、労力、時間を手放すことだと思っています。そしてそれはボディブローのようにジワジワと効いてくるのです。もちろんいい意味で。実行委員長が何かに固執していては形だけのドリプラにしかならない。いい意味でも悪い意味でも実行委員長の姿勢が出てしまう場、それがドリプラだとえむさんは言います。 こうして、いとう眼科はどうしたって「いいチームですね」と言われるチームに育っていきました。 その頃のえむさんのキーワードは「輝き」です。 どういうものが輝き?どういう状態が幸せ?どうやったら成長? 常に自分に問い続けていました。時にそれらの問いはえむさんを苦しめることがありました。僕はスタッフが大好きだ。これは真実だ。では幸せってなんだろう?いいものを着て、美味しいものを食べることが幸せ?スタッフにそういう想いをさせてあげるのが幸せ?いや、そうではないはずだ。 しかし、そういう曖昧だったことを全て明らかにしてくれるものに出会いました。えむさんにとってそれは仏教でした。仏教の教えは途方もなく深く、到底ここで語れるものではありません。 ただ言えることは、仏教の深い教えに出会ってから、えむさんのキーワードは「真」になったということです。そして、奇跡は必然なのだと悟ります。自分は生きていると思っていたがそうではなかった、自分は生かしてもらっているのだ、と初めて気づいたのです。そこで自分の中にブレない軸が出来ました。迷いがなくなったのですから、あとはやるしかないのです。 今まで、先人たちが長い年月をかけて培ってきた精神、それを自分たちは次の世代に残せるのか。今までは自分のためとまわりのためという想いでなんでもやってきたけれど、これからは私心なく「未来の子どもたちのために」その思いで生きていきたい、そのために自分がやれることはひたすらやるのだと決めています。 11月23日に開催するサムライドリプラも愚直にまっすぐに 「未来の子どもたちのために」 それのみがテーマなのです。 このままの日本で、子どもたちは幸せなのでしょうか。どうしたら子どもたちのために誇れる未来を創っていけるのでしょうか。 そのことを真剣に考えたい人はぜひ足を運んでみてください。 詳しくはこちらをどうぞ⇒http://mana378.wix.com/samurai えむさんは日々ブログでもご自身の想いを発信していらっしゃいます。そちらもぜひお読みください⇒http://ameblo.jp/em-u/ 爽やかな笑顔の中に強い決意を持ったステキなサムライ、そんなえむさんのお話を伺っていると、私も自分の使命を果たしていこうと強く思えるのでした。 |