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今日の人224.ニエケ ひとみさん [2023年06月19日(Mon)]
 今日の人は茨城県八千代町地域おこし協力隊員・認定多文化共生マネージャー・多文化共生社会実現プロジェクト担当のニエケひとみさんです。
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最愛の娘さんと一緒のひとみさん


八千代町は人口2万人あまりの自治体ですが、外国人住民は7%を超え、まさに多文化共生がまちづくりのキーワードになっている場所だと言っても過言ではないでしょう。

 ひとみさんは東京の世田谷で生まれ育ちました。お転婆で男の子と秘密基地を作り、サッカーやドッチボールをして遊ぶのが好きでした。といっても家の中での一人遊びも好きでした。お母さんが病弱だったので、お母さんの枕元でパズルをしたり、お話のレコードを聞いてひとしきり遊んでから、外に行って遊ぶことが多かったのです。お母さんがレコードで音楽を聴くのが好きだったこともあって、ひとみさんもレコードが大好きになりました。

 小柄できゃしゃでしたが、すばしっこくてドッチボール大会では優勝してトロフィーをもらいました。体を動かすことがとにかく好きで、体操、ダンス、モダンバレエ、水泳といろいろやっていました。中でもモダンバレエはいちばん長く続きました。
子どもの頃は庭いじりも好きで、庭でトマトを作ったりもしていました。小学校の卒業アルバムには、将来の夢は「農家の嫁」と書きました。都会の真ん中で育ったひとみさんでしたが、庭いじりが好きだったので、農家の嫁と書いたのでしょうか?今、農業が盛んな八千代町にいるのが、なんだか不思議な気もするのです。でも、実はひとみさん、野菜(葉物)が苦手なのでした。

 中学生になった頃は、神奈川の座間市に住んでいました。当時、神奈川県はアチーブメントテスト(通称アテスト)という試験があって、中2までに志望校がほぼ確定してしまうシステムでした。ものすごく勉強していたひとみさんは全教科でほぼ満点の点数を取り、進学校の厚木高校に入りました。でも、中学校でのガリ勉でもう勉強する気はなくなってしまい、ダンスはやりたいけれど特に大学には行く気はありませんでした。けれど、ご両親に大学には行かなきゃダメだと説得され、5つの推薦枠の大学から選べと言われた中のひとつ、東京経済大学経営学部に指定校推薦で入学しました。推薦入試の日、電車に乗り間違え、2時間遅刻をして周囲が冷や冷やしているのをよそに、その後せっかく新宿まで出たので、映画館で映画を観て帰宅した少し変わったところもあったようでした。

 家から大学までは通学時間が片道2時間半かかりましたが、ご両親は一人暮らしを許してくれず、往復5時間かけて大学に通っていました。
ひとみさんはアメフトが大好きで、アメフトに関われることを何かしたいと思っていました。でもマネージャーは男に使われる感じがして性に合わないと思いました。そんな時に学長が学内の部活応援に力を入れたい、チアリーディング部を創部して欲しいというリクエストで“これなら間近でアメフト応援できる︎自分の得意なダンスも生かせる︎と一念発起して、チアリーディング部をクラスメート3人で発足しました。

 アメフト専用のチアがいる日大のアメフト部に行かせてもらって、そこでいろいろ学ばせてもらいました。空中から落ちて救急車で搬送され、前歯が欠けてしまうという経験もしましたが、とにかくチアは楽しかったし、0から立ち上げていく日々はとても充実していました。その他にエアロビのインストラクターの資格もとって、エアロビやアクアビクスのスポーツインストラクターもやっていました。通学に往復5時間もかかるのにチアリーディング部の部長をして、インストラクターもやって、どこにそんな時間があったのだろうというくらいにパワフルなひとみさんなのでした。
 
 その後、ドイツ人のニエケさんとの結婚を機に、欧州に移住することになり、1人目の女の子を出産したばかりのひとみさんはスイスに渡ったのでした。娘さんをおんぶしながらドイツ語を学び、MBAスクールに通う目的でTOEFLのスコアも取りましたが、2人目の妊娠がわかって、ささやかな夢を断念...子育て中はとにかく孤独で、毎日お母さんと電話で話すのが唯一いろいろな想いを吐露できる場でした。
 
 その後、ニエケさんの赴任先が変わる毎に欧州を移動、行く先々で好きな語学も学びました。渡航する国々の人の生活に入り込みたい、仲良くなりたい、子供を安全に育てない一心で、これらの国々の言葉を学びました。その中でオランダの滞在がいちばん長く、2007年からはずっと現在までオランダ在住、ひとみさんはフルで銀行員としても働いていました。子どもたちはインターナショナルスクールに通い、土曜だけ日本人学校にも行っていたのですが、日本に帰国する日本人駐在員のご子息の為に構成されている授業内容、山盛りの宿題が課せられた厳しい日本人学校だったので、親子関係の悪化を嫌ったひとみさんは、日本人学校の宿題てんこ盛りの教育方針に違和感を覚え、子供が辞めたいと意向を受け入れました。一方、ニエケさんには大きくなって後悔するのは貴方ですと言われ、当時はそんな事はない、当時の子供との時間を優先してしまった今、ひとみさんはニエケさんが正しかったと肩を落としているようです。そうした背景から、今、日本に住む外国ルーツの子どもたちを見るにつけ、母語を教える大切さ、語学学習の大切さを思うひとみさんなのでした。

 こうしてオランダで普通の生活を送っていたひとみさんでしたが、2年半前にお父様が高齢者施設に入居することになり、その時は最愛のお母様は亡くなっていたので、入居の保証人にひとみさんがなりました。それで日本帰国を余儀なくされました。この帰国は旦那さまや子どもたちをオランダに残しての単身でのもので、大きな決断でありました。

 帰国して、最初は六本木の日本貿易振興機構ジェトロ本部で働きましたが、ひとみさんのやりたいこととは何か違うと感じていました。私はもっと、かゆい所に手が届くような支援がやりたい、本当に必要な人の所に行きたい、そんな風に思っていた時に目にしたのが多文化共生で地域おこし協力隊員を募集していた八千代町の案内でした。
 何かに導かれるようにして目に飛び込んできた案内、こうしてとりあえず話を聞きに行ったら、何故か不動産屋に連れていかれ、気づいたら八千代町の地域おこし協力隊員第一号として、八千代町の広報誌の表紙をガッツポーツで飾ることになっていたのです。

 それまで多文化共生という言葉すら知らなかったひとみさん。多文化共生じゃなくて“多文化強制”と思っていたくらいです。でも、多文化共生はひとみさん自身、長い海外生活で自然と身につけていたものでした。だから、これほどこの職にうってつけの人はいないでしょう。

 こうして2022年に八千代町にやってきたひとみさん。地域おこし協力隊員の任期は3年。その3年の間に、自分がいなくなってもやっていける土台作りをしようと日々積極的に動いています。昨年は多文化共生マネージャー研修も受け、多文化共生マネージャーにもなりました。かめのり財団の多文化共生塾でご一緒したことがきっかけとなり、私はひとみさんと出会いました。
 その共生塾の最中も八千代町の外国人住民から連絡が入り、流暢な中国語で話していたひとみさん。八千代町の外国人住民はなんと7%超だそうですが、そんな外国人住民に寄り添い、既に八千代町にとってなくてはならない存在になっています。オランダやポーランドの大学生と八千代町の人たちをやさしい日本語×英語でつないだり、毎週日本語講座を開いたり、月に一回多文化共生セミナーを開く等、本当にいろいろな取り組みをしています。多文化共生セミナーを年に1回開くだけでもあれこれ大変なのに、それを月に1回のペースで開いているなんて、ホントにすごいと感心します。そんな企画だけでなく、毎日オンラインで外国ルーツの子どもに日本語を教えているひとみさん。本当に愛の溢れた方なのです。

 ゆくゆくは八千代町に多文化共生センターと外国人相談窓口を一本化させたものを作りたい、ボランティアに頼るだけではなく、有償化してお金を生み出す仕組みづくりもしていきたい。3年の任期の間に仕組みを作ってバトンタッチできるようにしておかねば!と今を全力で走っているひとみさんですが、任期が終わった後のことは考えていません。でも、八千代町の人たちのことはとにかく大好きです。本当に心がピュアで温かい人たちで、今まで住んだたくさんの町の中でいちばんホッとする町だと感じています。たまたま見つけた八千代町の地域おこし協力隊員の募集のページですが、それは偶然ではなくてきっと必然だったに違いありませんね。そんな八千代町の人たちが大好きなひとみさんだから、自分がやったことで町の人が喜んでくれると本当に嬉しいし楽しい!もちろん家族と離れているのは寂しいけれど、3か月に1回は定期的にオランダに帰ってリフレッシュしています。
映画と温泉も大好き。忙しくても映画は一日に一本は見ています。本当に時間を生み出す天才ですね。

 いつも明るい笑顔で周囲を元気にしてくれるニエケひとみさん。多文化共生社会実現プロジェクト担当の名の通り、八千代町はきっと多文化共生社会をリードする地域になる!そう思わせてくれる今回のインタビューでした。
 ひとみちゃんの任期中に、八千代町にきっと行くからねウインク
今日の人212.林広麗さん [2021年08月08日(Sun)]
 今日の人は、株式会社林インターナショナル代表取締役社長で、富山県華僑華人会会長等も務められ、富山で日中友好に長く貢献されている林広麗さんです。
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コロナ禍でマスク不足だった時にマスクを寄贈した林さん

 林さんは1968年11月2日、中国遼寧省瀋陽市で生まれました。両親とも大学教員で宿舎がキャンパス内にあったので、小さい頃は大学の中で育ったようなものでした。活発な子で外で体を動かすのも大好きでした。小学生のころから英語を習い始め、英語が大好きだったので、その頃 将来は外交官になりたいと思っていました。
 電力分野の教授だったお父さんが電力会社に転職したのをきっかけに引っ越しましたが、お父さんが夜間大学で教員もしていたので、一緒に夜間大学にいって、大学生に交じって英語の授業を聴講していました。14歳の時には、大学の英語の統一試験に最年少で合格し、新聞報道され一躍時の人にもなりました。

 中学生の頃は昼は中学校、夜は夜間大学に行って勉強する日々でした。この頃になると、英語だけではなく、哲学、心理学、歴史、宗教等、いろいろな本を読むようになりました。図書館は大好きな場所で、思索に耽るのが好きでした。でも、本ばかり読んでいたわけではなく、スポーツも得意でした。陸上は長距離も短距離も得意でしたし、スケートは試合に出るくらいでした。
 高校に入ると起業していたお父さんの傍でビジネスの世界にも触れました。お父さんは全国から作家を集めて数多くの電力関係の本を出版する敏腕編集長でした。その時、来ていた人民日報の記者から、「これから勉強するならフランス語がいいよ」、と言われ、フランス語とロシア語も勉強し始めた林さん。もちろん英語の勉強も続けていて、TOEFLの試験を受けるために北京に行ったときは、お父さんの友達にあちこち連れていってもらったのもいい思い出です。高校生の頃はローラースケートや卓球もやっていて相変わらずアクティブでした。もちろん図書館通いも続いていて、アメリカに留学したいと、中国東北大学の学生とも交流したりもしていましたが、まだ米国留学するには若すぎるからと留学は断念しました。今の中国なら可能ですが、その当時の中国では高校生のアメリカ留学などまだまだ難しい時代だったのです。

 アメリカ留学を断念した林さんは中国の大学に入りました。大学生の時は、英語の通訳としても活躍しました。広州や北京、いろいろな場所で通訳をしました。お父さんの関係で電力会社で働く道もありましたが、もっと貿易や翻訳の力を身に着けたい、という思いが日増しに強くなりました。その頃、瀋陽から私費留学生としてエリートの子どもたち30名が日本に留学する計画が持ち上がりました。林さんは留学したい気持ちをプレゼンし、ご両親を説得して、派遣メンバーの1人になりました。昔からプレゼン能力が高く、難しい相手であればあるほどやる気が出てくるのでした。1989年出国予定でしたが、天安門事件の影響で手続きが一時的にストップします。その時間も無駄にしないのが林さん。大学の1〜4年生まで全ての日本語の授業を聴講し、語学的センスの良さもあって、みるみる日本語も上達しました。
こうして出国する前の半年だけ日本語を勉強し、1990年11月に来日したのです。東京の日本語学校で10月生のクラスに入りましたが、そのクラスは簡単すぎたので、4月生のクラスに飛び級しました。東京での生活はいろいろ大変でした。バイト先でもトラブルが起きたり、留学生活の厳しさを味わった時期でした。4か月間、東京の日本語学校で勉強した後、林さんは富山大学人文学部の研究生になりました。しかし、言語学科や日本文学の授業は林さんにとってあまり心惹かれるものがなく、聞いていると眠くなってきてしまうのでした。せっかくだから一度しっかり経済を根本から勉強しようと、経済学部の受験を決めます。その頃、留学生の共通試験と言えば私費留学生統一試験でした。林さんは、統一試験の成績が大変よく、東大でも行けると言われましたが、そのまま富山に残りました。一緒に瀋陽から留学した30人のうちの1人が亡くなったこともあって、ストレスの多い東京での生活より、富山で留学生活を送ったほうがいいと感じたのです。その判断は大正解でした。林さんは富山では通訳としても貴重な存在で、学生生活の中で重鎮たちの通訳も数多くこなしました。大学3年の時にはカナダ留学も果たします。高校生の時、アメリカ留学はできなかったけれど、いろいろなことにチャレンジしているとチャンスの神様はやってきてくれて、何よりそれをしっかりキャッチできるのが林さんなのです。

 大学4年の時には、合弁会社設立のサポートもやり、会社に気に入られた林さんは中国にも工場を作るからとその会社に採用されました。そうして大学を卒業してから半年だけ、その会社で働きました。なぜ半年かというと、北京に作る予定だった工場がベトナムに作られることになったからです。

 大学を卒業した年の9月に自分の会社を設立した林さん。それが今の株式会社林インターナショナル。最初は数坪の一軒家での輸入食材や雑貨の販売からのスタートでした。
 しかし、ここで困った問題がありました。最初、会社に採用された時は通訳のビザだった林さんは自分が経営者になったことで投資経営のビザを申請しましたが、却下されてしまいます。この時は3か月の短期滞在ビザしかもらえませんでした。こうして泣く泣く通訳のビザに申請しなおしましたが、再上陸という形になってしまい、大きなショックを受けます。2年後、ようやく投資経営のビザが認められたのですが、申請の際に「なぜ通訳のビザなのですか?」と質問されるなど(入管が最初の申請を認めてくれなかったからなのにその質問はひどい)入管行政の在り方にはいろいろと疑問を持たずにはいられない出来事でした。

 1998年富山大連便初就航の時には、テレビ局の記者さながらにインタビュアーとしても活躍しました。多くの共感者の支援もあって、林さんの会社は急速に成長していき、今では6つの事業部を持つまでになりました。ひとつは、中国直輸入の食品、食材から雑貨までを取り扱う貿易事業部。ひとつは、中国直輸入の石材・墓石、墓地の販売管理までこなす石材事業部。ひとつは、中国自社工場で製造する金型・金属加工・自動機装置事業部。ひとつは、蛍光灯から看板まで幅広く取り扱うLED事業部。ひとつは、優秀な人材の派遣と中国進出起業のサポート人材派遣事業部。そして最後のひとつは留学生・実習生から特定技能のサポート支援、登録支援機関です。まさに八面六臂の活躍ぶりですね。

2006年、設立10周年の時は、当時大人気だった女子十二楽坊のコンサートを開催。2011年、15周年にはジュディオングのコンサート、2016年、20周年には林インターナショナルカップ・富山国際ユースサッカー2016を企画開催し、日中の文化交流やスポーツ交流にも尽力しています。
コロナ禍にあっても、いちはやく医療機関や保育園にマスク支援をするなどしている林さん。そして、今年は設立25周年の節目の年。今、林さんは考えていることがあります。それは外国語学校の開校です。技能実習生で培ったノウハウや、たくさんの企業とのつながりを活かし、留学生が生活やアルバイトで困らないようバックアップしていこうと考えています。林さんが創立の富瀋国際事業協同組合はコロナ禍の中でも600人を超える技能実習生を有し、富山の中小企業活性化の基盤にもなっています。これからの富山にとって優秀な外国人材を確保することは持続可能な地域づくりに必要不可欠なことです。私たちも多文化共生の活動をずっとやってきましたが、林さんの外国語学校が新しい風を吹かせてくださることを期待しています。

 読書好きな林さんですが、最近は特に儒教や道家の本をよく読みます。細かいことに敏感にならずにストレスをためず大きな心でいられると感じています。異国で経営者としてやっていく重圧に耐えられるのはすごいと思うのですが、子どもの頃から読んでいる哲学書や、儒教や道家の教えによって、林さんは心のバランスをうまくとっていらっしゃるんだろうなと感じます。
 そんな林さんの日々の小さな楽しみは美味しいものを食べに行ったり、ジムに行ったり、自転車に乗ったりする時間。今は行けませんが、世界中を旅行するのも大好きです。富山や大連でエステに通ったりする癒しの時間も大切にしています。林さんはいつもとってもかわいいネイルをしていらっしゃるのですが、はやくコロナが終わって大連にもいつでもいけるようになる日が一日もはやく戻るといいですね。

 林さんのまなざしはすでにコロナ収束後に向いています。「経営者は儲けてこそ社会貢献もできる」、とはっきりした口調でおっしゃるのが印象的でした。強い信念と自信が一人の留学生が作った会社をここまで大きく成長させました。そのまなざしの先にはきっと富山と中国を繋ぐ新たな1ページがあるにちがいありません。
今日の人205.サリム・マゼンMazen Slmさん [2021年02月15日(Mon)]
 今日の人は、TMC富山ムスリム協会代表のサリム・マゼンさんです。
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 マゼンさんは1974年にシリアのダマスカスで生まれました。小さい頃からエンジンが好きだったマゼンさんは、おもちゃもエンジンがないものは興味が持てませんでした。それで、ラジカセを分解してモーターを取り出し、レゴで作った車にエンジンをつけて走らせたりしていました。
 水泳も得意で、ダマスカスで水泳のチャンピオンになったこともあります。お母さんは厳格な人で、子どもの頃はとても厳しく育てられました。マゼンさんは5人兄弟の長男で、みんなのお手本でもあったので、特に厳しく育てられたのでした。外遊びもさせてもらえませんでしたが、マゼンさんは勉強もとても得意だったのです。厳しく育てられたことに対して感謝こそすれ、反発を覚えるようなことはなかったそうです。日本だったら、思春期に反抗してしまいそうですが、イスラムの教えを厳しく守っているマゼンさんは親に反抗するなんて思いもよらないことでした。
 語学も好きで、アラビア語、英語、ロシア語が堪能です。
 ロシアに留学したマゼンさんはモスクワ大学に入りました。その後ロシアで7年過ごしました。イスラム教徒として、いろいろリミットのある生活をしていたマゼンさんは、ロシアにいるときに、一度リミットなしの生活をしてみました。リミットがないはずなのに、逆に自分は一人になってしまった、という孤独感が襲ってきたのです。それは、イスラムのリミットのある生活をしている時には感じたことのない感覚でした。マゼンさんはそこで思います。やはり神はいる。そしてそれはイスラムのリミットのある生活の中でこそ感じられるものだと。

 ロシアで車のトランスポートの仕事などに携わった後、日本に来たマゼンさん。日本でも車のトランスポートの仕事をしています。そうして、1年に2回シリアに帰り、帰った時は1か月シリアで過ごすという生活をしていました。帰国している時に、出会ったのが奥様です。マゼンさんは奥様にひとめぼれします。奥様は当時まだ大学院生だったのですが、マゼンさんと日本に行くことを選びました。それで、ダマスカスでひらがなとカナカナを勉強して、マゼンさんと一緒に日本に来たのです。その後、シリアの内戦が激しくなり、今は両親も日本に呼び寄せて一緒に暮らしています。今、小学校5年生と3年生の子どももいます。外国につながる子どもたちは勉強の面でサポートが必要になる子も多いのですが、マゼンさんの子どもたちは全くそんな心配はなく、逆に日本の小学校でクラスリーダーとして活躍しています。
 そうして自らの仕事の傍ら、2013年には仲間と一緒に富山ムスリムセンター(TMC)の組合を作り、2014年には富山市五福にTMCの建物をオープンさせました。マゼンさんはTMCの代表を務めています。そして、マゼンさんはTMCの活動は全てボランティアでやっています。活動の原点は、人としての義務を守らなければならないという想いです。マゼンさんのいう人としての義務とは、困っている人がいたら助けなければならない、ということです。そしてムスリムとして宗教を守ること。これらの活動をやっていかなくてはならない。それが自分の使命だと思っています。
 マゼンさんは自分が死ぬまで、一人でもたくさんの人を助けたい、そして平和へ到達する道をほんの少しでも短くしたいと思っています。そして、その想いを子どもたちが継いでいってくれることが夢です。
 自分がボランティアをしたことによって、困っていた人たちが心からの「ありがとう」を言ってくれた時、どんなに疲れていてもその疲れは吹っ飛ぶと言います。マゼンさんは内戦の続くシリアの難民キャンプに富山学校を設立し、現地の子どもたちが教育を受けられるようにせいいっぱい支援しています。今、シリアの別の場所でも富山学校を建てる予定でいます。また現地に車椅子を送るなどの活動も続けています。シリアにとどまらず、バングラデシュに避難したミャンマーの少数派イスラム教徒ロヒンギャの難民キャンプに寺子屋式の学校も開校しました。
 ボランティア活動は日本国内でも同様に行っており、日本各地の災害の時には、支援物資を積んですぐに駆け付け、現地でハラールに対応したカレーを作ってふるまいます。熊本でも、広島でも、岐阜でも、TMCができた2013年以降に起きた全国の災害はひとつの漏れもなく駆けつけています。そんな時に、皆さんからの「ありがとう」を聞くと、またやりたいという気持ちがむくむくと湧きあがってくるのです。それが自分の魂のリフレッシュになり、魂のビタミンになります。ですから、TMCとしてのボランティア活動は、自分が病気になって動けなくなるまではずっと続けていきたいと考えています。
 本当にエネルギッシュなマゼンさんですが、そんな風に駆け回っているマゼンさんがホッとできる時間は、やはり子どもたちと遊ぶ時間です。

 マゼンさんの住んでいる高岡市牧野地区は、富山県内でいちばん外国人住民比率が高い地区です。そこでマゼンさんたちが中心になって、多文化共生の地域づくりを実践しています。地域に住む外国人と日本人が一緒に牧野校下多文化共生協議会も発足させ、さまざまな活動に取り組んでいます。マゼンさんの大きな願いは世界平和を作るということですが、まずその第一歩は自分たちの暮らす場所を平和にしていくということです。その一歩一歩のステップを大切にしていきたい、そう思っています。

 このコロナは、もちろん社会的に大きなマイナスをもたらしましたが、いいこともありました。まず、戦争が止まったこと。そして、人々は、人間の力のリミットを否応なく自覚できた。世界でみんなちがっても、みんな人間だということを意識させてくれた。そして、なかなか人に会えないことで、逆にコミュニケーションの大切さを、より深く感じさせてくれた。マゼンさんはそう思っています。

 マゼンさんは、外国につながる子どもたちの居場所作りにも今後取り組んでいきたいと考えています。できることなら、インターナショナルスクールを作りたい。日本はとてもすばらしい国だけど、日本の人々はもう少し、インターナショナルな考え方になってほしいと思っています。外国の考え方をもっと理解できれば、コミュニケーションはより取りやすくなります。マゼンさんの作るインターナショナルスクールで、外国につながる子どもたちも、日本の子どもたちも一緒に学べるようになれば、富山の多文化共生はさらに進むことでしょう。
 マゼンさんは自然の中で遊ぶのが大好きです。だから自然に囲まれた富山が大好きです。
これからも富山で一緒に多文化共生に取り組んでいける心強い仲間がいることがとても心強く感じたインタビューでした。
 
今日の人187.小田島 道朗さん [2019年07月14日(Sun)]
今日の人は(公社)北海道国際交流・協力総合センター 交流・協力部課長で多文化共生マネージャーでもある小田島 道朗さんです。北海道の多文化共生推進の中心とも言える小田島さんに、札幌でお話を伺いました。
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小田島さんは1970年に北海道旭川で生まれました。小さい時から外で遊ぶのが大好きで、家で遊んでいた記憶はあまりありません。両親とも先生だったこともあり、躾にはなかなか厳しく、ゲームは買ってもらえませんでした。それで、ゲームをしたい時は友だちの家に行ってやっていたものでした。
小さい頃から生き物が好きで、当時やっていた「野生の王国」等の動物番組をよく見ていました。図鑑を見るのも好きでした。でも、小学生の時に、当時飼っていたポメラニアンが死んでしまい、それが本当にショックだったので、それ以来ペットは飼っていません。
スポーツ少年でもあった小田島さんは、小学生の時は野球とテニス、冬になるとスキーをやっていました。北海道には長靴に履くミニスキーもあって、子どもの時はよくそのミニスキーでも遊んだものでした。(それ、富山にもありました。懐かしい!)
そんな小田島さんが小学生の頃になりたかったのは、ラーメン屋さんです。それくらい地元の旭川ラーメンが大好きでした。だから、大学で札幌に出た時は札幌ラーメンの味に全然馴染めなかったのです。さすがに今は、札幌ラーメンの味にも慣れましたが、やっぱり一番好きなのはずっと旭川ラーメンです。
また、高学年の時は、仲良しの女の子と交換日記をしたりもしていました。そう、当時は交換日記がとても流行っていたのです。多分、同年代の人はみんな交換日記の経験があるんじゃないかなぁ。はい、もちろん私もやっていました。

中学生になると、バスケ部に入ります。小田島さんの通っていた北海道教育大学附属中学校は当時バスケ部がなかなか強かったのです。テニスもやりたかったのですが、中学には軟式テニス部しかなくて(小学生の時は硬式テニス)、バスケ部を選んだのでした。運動好きな小田島さんのことですから、バスケも真剣に取り組みました。1,2年の時はポイントガード、3年の時はセンターがポジションでした。中学の時は、将来体育の先生のなりたいと思っていました。

高校に入ると、硬式テニス部に入ります。といっても、そこまで真剣にはやっていませんでした。高校には夏の間は自転車で、冬になるとバスで通っていました。いろいろと友だちとつるんで遊んでいました。今は布袋寅泰に似ている小田島さんですが、この頃は野球の清原に似ていると時々言われていました。

大学進学で、札幌に出てきた小田島さん。大学では英語英米文学科に進みます。テニスを教えるアルバイトで人に教える楽しさを知り、将来は英語教師になろうかと思っていました。けれど、2年の時に、このままでいいのかと痛切に思うようになります。このままでいても、自分は英語も身につかないし、中途半端なまま卒業を迎えてしまいそうだと思ったのです。
 そこで小田島さんはハワイの大学に留学することにしました。学びたい教授がいたこともあって、アメリカ・ハワイ州へ留学することに決めたのです。
でも、アメリカの大学ではでは成績が悪いと除籍になります。次の授業まで原書で100ぺージ読んでいかなくてはいけないこともざらにありました。それで、最初の頃はとにかく必死で勉強しました。ハワイにいても日焼けをする暇はなかったのです。
4年生になって、ようやく自由な時間が増え、アルバイトをする余裕もできました。タンタラスの丘という観光客に大人気のワイキキの夜景の広がる場所で、リムジンに乗って来る観光客の写真を夜景をバックに撮るというバイトをしていました。そうして、ゴルフをするのも大好きになりました。なにしろ、ハワイは現地に住んでいる人は、日本でのカラオケ一回分くらいの料金でラウンドできるのです。今もゴルフをするのが大好きな小田島さんは、毎年12月に奥様と一緒にハワイに行ってゴルフをするのが何よりの楽しみです。
 こうしてとても充実したハワイでの大学生活を終えて、日本に戻ってきたのでした。

 帰国して、最初は英語教師になろうと英会話学校へ面接に行きます。けれど、学校は会話はネイティブの先生が欲しい、文法のクラスだったら教えてほしいと言いました。文法を教えるクラスなんてつまらない。それなら、自分のために英語を使おう。そう思った小田島さんは北海道庁の国際課で通訳翻訳のアルバイトを始めます。そこで、知ったのが今、小田島さんが勤める北海道国際交流・協力総合センター(HIECC、当時は北方圏センター)の存在でした。

こうしてハイエックで働くことになった小田島さん。それ以来さまざまなことを手掛けてきました。
 ます、携わったのは、海外技術研修員の担当者としての仕事でした。南米や中国から来る技術研修員を受け入れ、北海道との懸け橋の役割を担う人材の育成を図りました。
 次にJICA北海道国際センターで研修事業の実施を担当しました。
 その後、本部に戻ってからは北欧との大きな交流イベントを手掛けたり、道内の高校生を開発途上国に派遣し地球規模の問題を身近に考える現地研修を行う「高校生・アジアの架橋養成事業」を手掛けたり、今も続く様々な取り組みを作ってきました。
 
 でも、その頃、小田島さんはまだ多文化共生という言葉を知りませんでした。その言葉を知ったのはハイエックに就職して何年も経ってからです。国際交流ではなく、多文化共生、そんな視点があったのか。その頃、ちょうどニセコにどんどん外国人が増えてきていました。なぜ、過疎で苦しんでいた町にこんなに外国人が来るようになったのか?その部分を深く知りたくて、多文化共生マネージャー養成講座を受けることに決めました。
 小田島さんが多文化共生マネージャー養成講座を受けたのは、2009年のことです。2008年にリーマンショックが起き、日本に住む外国人にも激震が走った翌年のことでした。

 それ以来、小田島さんは北海道の多文化共生をずっと牽引してきました。
救急救命表示板を作成して、道内の全救急車に配備したのも小田島さんの尽力です。
言葉が通じず救急車に乗ってもお互いに何も伝えられなかった外国人と救急隊員にとって、この表示板はどれだけ心強い味方になったことでしょう。
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小田島さんの手掛けた救急救命表示板

 また札幌国際プラザと一緒にワークショップを開催する等して、多文化共生マネージャー同士でお互いの知識と意識を高めあっています。そんな仲間がいることもとても嬉しいと小田島さん。その一方でどんなに頑張ってもなかなか人の意識が変わらず、はがゆい想いをしてきたことも事実です。広い北海道全土に多文化共生の考え方を浸透していくのは、本当に大変なことだと思います。でも、小田島さんたちの一歩一歩は、確実に広がっているにちがいないのです。

 今、全国的に外国人ワンストップセンターが動き出しましたが、ハイエック内にもワンストップセンターが開設されることになり、今年は北海道の多文化共生を更に前に進める年になると思っています。
今、吹いてきた風をとらえて、北海道の地域国際化協会として、信頼される団体にしたい、それは小田島さんが必ずやろうと思っていることです。また、道庁と災害時協定を締結するなどし、被災した外国人への支援などの活動がHIECCとしてできる体制を構築していきたいとも思っています。昨年9月に発生した「北海道胆振東部地震」の時の様に、何かしたくても何も出来ない、そんなジレンマはもうたくさん。そのために、小田島さんは今日も走っています。

今日の人176.Amit Kanaskarさん [2018年06月11日(Mon)]
 今日の人は銀行員としてお仕事をしながら、アートオブリビングの講師として呼吸法や瞑想を教えていらっしゃるアミット カナスカールさんです。
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 アミットさんはインドマハラシュトラ州で生まれました。
幼い時はとてもやんちゃで、縛っておかないとじっとしていられないような子でした。落ち着いたのは7歳違いの弟が生まれてからです。お母さんに「あなたはお父さんの代わりになるからお願いね」と言われ、兄としての責任感が生まれたのでした。

 アミットさんは子どもの頃から、ひたすら親の話を聞き、家族の状況に敏感でした。何かが欲しいと親におねだりしたことは一度もありません。お母さんのお手伝いをするのがとても楽しい子ども時代でした。家にお客さんが来た時に飲み物を出したりするのが嬉しかった。
動物も好きで、動物園に行くのが好きでした。動物を飽きずにずっと見ていました。家でインコも2羽飼っていましたが、そのインコが死んで木の下に埋めた時に、悲しくてすごく泣きました。あまりに泣いたので、次に飼ってもらえることはありませんでした。とてもセンシティブな子だったのです。
 
 お父さんは2人の子どもを学校に通わせるために花火の行商など2~3の仕事を掛け持ちして家族を養ってくれました。お母さんはとても家族思いで、アミットさんが大学生になっても必ず手作りのお弁当を作って持たせてくれる、そんな優しいお母さんでした。アミットさんは内向的な性格であまり外に自分を出すことはなく、それは自分の弱みじゃないかとずっと思ってきました。でも、その悩みを誰かに話すことはありませんでした。友だちにパーティに誘われたりもしましたが、行ったことはありません。

 ただ、高校に入った頃に親戚が連れて行ってくれたヨガスートラにはとても心惹かれるものがありました。そこで瞑想にも興味を持ちました。ヨガスートラの本を読んで、ベジタリアンになることも決めました。

 進学校で学んでいたアミットさんは、エンジニアになってほしいというご両親の希望のままに、インドの名門プネ大学コンピューター・エンジニアリングに入学します。プネ (Pune)は、「東のオックスフォード」として知られる学術都市で、インド国内のみならず、世界中から学生が集まってきます。近年はIT産業を中心にインドでもっとも目覚しい発展を遂げており、「東のシリコンバレー」ともいわれています。

 そんなアミットさんが日本語に出会ったのは大学2年の時でした。大学でドイツ語をやっている友だちから、日本語をやるから来ない?と誘われていった日本語の授業がとても楽しかった。それで昼は大学、夜は日本語学校に通う日々が始まったのです。アミットさんが自分から何かをやると決めたのは、これが初めてでした。日本語の勉強に夢中になったアミットさんは、大学の講義のメモを日本語で取るくらいでした。それで、日本語の勉強を始めた大学2年の時は日本語能力試験の4級、3年生で3級、4年生で2級に合格したのです。文科省の主催する日本語弁論大会にも出場しました。優秀な人が3人選ばれるのですが、アミットさんは4番目でした。それがすごくショックでした。でも、いつか日本に行こう、それは強く思っていました。

 そして、大学卒業後はインドでソフトウエア会社に就職。出張で日本に来る機会もありました。インドのご両親は息子にMBAを取って欲しいという夢も持っていたので、アミットさんはハワイ大学に渡り、ハワイ大学と日米経営研究所(JAIMS)でMBAを取得。ハワイ大には日本語のプログラムもあって奨学金も出ました。アミットさんは日本で3か月インターンシップをし、その後日本で仕事を探しました。最初は生保で1年半仕事をし、その後現在勤める銀行に転職。今は5人の部下を持つマネージャーをしています。インドにいた時は6年間SEとして働きました。ずっとコンピューターの前にいる仕事は、今は絶対にイヤだなと思っています。いろいろあっても、やはり人と話せる仕事の方がいいとアミットさんは思うのでした。

 アミットさんがアートオブリビングに出会ったのは友だちに紹介されたのがきっかけです。インドの家の近くでコースがあるから受けるといいよと言われ、2003年の12月に6日間のコースを受けます。すると自分の内側がとても静かになって満たされていく感覚を深く味わいました。すっかりこのプログラムに心酔したアミットさんは基本コースが終わる前には上級コースを受ける予約を入れたほどでした。このアートオブリビングの創設者であり、ヨガの大家でもあるシュリシュリの智慧の講話を聴いた時、ずっと涙が出て止まりませんでした。シュリシュリの深い愛と真実を感じたアミットさんは2004年の1月から6月までの間に開講されている全てのコースを受け、最後は両親にも受講してもらいました。そして、4月にインドの会社を辞め、6月にハワイ大学の留学へと向かったのです。ハワイで出迎えてくれたのもまた、アートオブリビングの先生でした。アートオブリビングは世界155か国、1万箇所以上に拠点を持つ国際NGOなのです。

 アミットさんはMBAを取って、日本でインターンシップを終えた後すぐに2週間休みを取りました。その2週間でアートオブリビングの講師養成プログラムに参加します。その後日本で働きながら、アートオブリビングの活動を続け、日本版のホームぺージを作ったりもしました。
アートオブリビングJapanのホームページはこちら⇒https://www.artofliving.org/jp-ja
 そして2010年には講師養成の残りのプログラムも終了し、正式に講師の資格を得たのでした。

アミットさんは今、日本のあちこちでアートオブリビングの講師として活躍しています。ここ富山でも鵜飼ひろ子さんと一緒にプログラムを展開していらっしゃるので、興味のある方はぜひ一度訪ねてみてください。私も一番基本の3日間のハピネスプログラムに参加しましたが、呼吸法でとても穏やかな心地になることを身を持って体験しました。
 アミットさんは、会社員として働いている平日も、呼吸法や瞑想は欠かさないそうです。それでいつも囚われのない穏やかな表情をされているのだなぁと納得の私なのでした。

 アミットさんはこれまで学んできたことを体験として気付けた時がとても楽しいとおっしゃいます。姪っ子が無邪気に遊ぶ動画がインドに住む弟さんから送られてきて、それを見ることが癒やしの時間です。

 
 ヒンドゥ教のお正月のお祭り、ディワリの時は約2週間帰国するようにしているアミットさん。その時は親元で過ごし、ひと時親孝行をしてくるのでした。

 平日は会社員、週末はアートオブリビングの講師として忙しい毎日を送っているアミットさんですが、かつて柔道や茶道も習いに行っていました。京都や奈良に行くのも落ち着きます。ダジャレや落語も好きで、いつか自分自身で落語もやってみたいと思っています。
とにかく日本が大好きなのです。

 そんなアミットさん、会社でもアートオブリビングの智慧を取り入れていきたいと思っています。普通の仕事の中でもその智慧を取り入れることができたら、きっと仕事のストレスや人間関係の軋轢はうんと減るにちがいないですね。

そして夢は、昔のヨガの環境を再現した遊園地(テーマパーク)を造ること。その遊園地、ぜひ行ってみたいです!

富山でアミットさんのプログラムを受けてみたい人はこちらをチェック
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次項有そして6月21日は国連の定めた国際ヨガデーです。
皆さんも国際ヨガデーのイベントに参加してヨガに触れてみませんか?
イベントはこちら⇒https://www.artofliving.org/jp-ja/international-yoga-day/Schedule2018

今日の人174.横田宗親さん [2018年02月12日(Mon)]
 今日の人は、自治体国際化協会多文化共生部部長の横田宗親さんです。
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多文化共生に関わる仲間たちと 
向かって右端が横田さん

横田さんは1987年に群馬県庁に入庁後、1989年に自治省(現総務省)に入省。国際室係長、財政課係長、兵庫県宝塚市行財政改革担当部長、埼玉県さいたま市財政部長、自治税務局固定資産税課交納付金管理官などを歴任。2017年4月より一般財団法人自治体国際化協会多文化共生部長として自治体や国際交流協会における災害時外国人支援や多文化共生施策の支援に取り組んでいらっしゃいます。
経歴だけ見ると、「うわ~」って思っちゃいますが、横田さん、実はグレてたことがある!

 横田さんは昭和42年に前橋で生まれ前橋で育ちました。家はサッカーで有名な前橋育英高校のすぐそばです。
今はとっても陽気で誰とでもすぐに友だちになれる横田さんですが、小さい時はとてもおとなしかったそうです。あまりにもしゃべらないので、お母さんが心配して児童センターに相談したくらいでした。

 しかし、小学校に入ってからはすっかりおしゃべりになり、クラスの人気者に。仲良し5人組でいつも外で遊んでいました。昔ながらの缶蹴りをしたり、秘密基地を作ったり、川で釣りをしたり、みんなで将来の夢を書いたカプセルを埋めたり。ちなみにそのカプセルはまだ掘り出しておらず、またどんな夢を書いたのかも覚えていないそうです。カプセル、いつか見つかるといいですね。

 ピンクレディが好きでよくみんなの前で踊っていました。今の横田さんの風貌からは到底想像できないのですが…。今度機会があったら見てみたい♪
野球も好きで家中みんな巨人ファンでした。2歳年上のお兄ちゃんだけ、なぜか中日ファンでした。お兄ちゃんとはよくケンカもしましたが、今ではとても仲の良い兄弟です。

 5年生の時、塾の先生に恋をします。石野真子似のとってもキュートな先生でした。そこで俄然勉強も頑張り出した宗親少年。一気に成績が伸びました。

中学ではバスケ部に。同学年の部員が20人もいる大所帯でしたが、とても楽しく、夏休みには自主練もこなすくらい熱も入っていました。中三ではレギュラーを勝ち取ります。
クラスでは学級委員で、生徒会長選挙にも立候補。残念ながら当選はしなかったのですが、生徒会では書記を務めていました。バレー部の同級生の子と当時流行っていた交換日記も回したりして、楽しい中学生時代を過ごしたのでした。

 高校受験は、模擬試験で合格圏内に数回しか入らなかったにもかかわらず、お父さんに県内一の進学校の前橋高校を受けろと薦められ、そこを受験することに。横田さんご自身は本当は別の高校に行きたかったのですが、そこを受けることはできませんでした。しかし、前橋高校には落ちてしまい、東京農業大学附属高校に行くことに。これが横田さんの一つ目のターニングポイントになりました。行きたい高校に行けず、高校に落ちたショックからか、ぐれ始めたのです。内緒でバイクに乗ったり、ロカビリーにハマったり、とにかく家には帰らず、友だちの家にたむろったりと遊び呆けていました。 そんな中、お母さんは「あの子は本当は別の高校を受験したかったのよ」とお父さんにちらっと言った時に、お父さんが怒って、お母さんにてをあげたことがありました。それに腹を立てた横田さんはその後ずっとお父さんとは口をききませんでした。  
けれど、お母さんのことを悲しませては絶対にいけないと思っていたので、グレても人に迷惑をかけるようなことは決してしませんでした。  

 高校3年生になった時、就職しようと横田さんは考えていたのですが、ここでまたお父さんから群馬県立農業大学校に行くことを薦められ、薦めのままに全寮制の2年制の農業大学校に入りました。しかし、ここでもちっとも勉強はせず、ひたすら遊びまくりました。派手な車に乗り、ナンパ街道と言われているところで、友だちと可愛いい子を追っかけまくってました。そんな中、20歳になる手前、就職のことを考えなくてはいけなくなった時、横田さんははたと思ったのです。今までさんざん親に迷惑や心配もかけたし、ここで何とか男気を見せよう!そうして、2か月猛勉強して、県庁職の公務員試験に合格したのでした。    

 こうして20歳の時に群馬県庁に入ります。最初に配属されたのは精神病院の医事課でした。辞令交付後の初仕事は、なんと亡くなった患者さんの立ち合い。家族が来るまでの1時間半。霊安室で過ごしたのです。
 精神病院には実にさまざまな人がやってきます。それは自分がそれまでに経験したことのない世界でした。全身に入れ墨を入れた人、アルコール中毒や薬中毒の人、外来患者で仲良くなって、なんとか来なくてもよくなった人たちが、何か月かしてまた再びやってくる。そして、いい時と悪くなった時はまるでちがう人になっています。
「こんな病気で苦しむ人たちが世の中にいるんだ、自分はなんて幸せ者、もっと頑張らなきゃあかん!」最初に精神病院に配属されたことは横田さんにとって自分の人生を真剣に考えるとても大きなきっかけになりました。そうして、自分にはもっと本気を出してやれることがあるんじゃないか、そう思うようになりました。
 
 ちょうどそんな時、自治省に行く試験があるから受けてみないかと上司に言われます。横田さんはその試験に見事パスし、自治省(現総務省)に入省したのでした。そして、入省後に夜間大学にも通わせてもらいました。

 自治省には東大を卒業したバリバリのエリートがたくさん入ってきます。そんな中で横田さんの経歴は異例かもしれないけれど、東大卒のエリートでは決して体験していないようなことを体験してきたことは紛れもなく横田さんにとっての宝物です。今まで挫折を味わったことがない人たちはポキッとすぐに折れてしまうけれど、横田さんには柳のようなしなやかさがあります。何があっても対処できる多様性があります。もし、横田さんが前橋高校に受かって、ずっと優等生の道を歩いてきたら、今のようにいろんな視点を持つことができなかったかもしれません。

 そんな横田さんの経験が発揮されたエピソードをひとつご紹介します。横田さんが兵庫県宝塚市行財政改革担当部長をされていた時のこと。督促状に怒った恐い人が部長室にまで怒鳴りこんできたことがありました。普通ならビビりそうなところですが、そこは昔やんちゃしていた横田さん。そんな怖い人に絡まれることもあったので、熱くなっている相手にとっても冷静に事態を収拾したのでした。きっと部下の皆さんもそんな部長を「なんて頼もしいんだ!」と思ったことでしょう。

 平成7年から9年にかけては国際室でJETや、ODA予算で途上国の政府機関幹部との交流事業をアレンジをする仕事をしていたのですが、これがとても楽しかった。ただ途上国の人たちと直接話したいと思っても通訳を介してのコミュニケーション、英語をもっと勉強してればと後悔したそうですが、昨年からクレアの多文化共生部勤務になったので、奮起して英語を習い始めました。宿題がとても多くて大変なのですが、五十の手習いもまた楽し、とレッスンに励んでいます。

 スポーツも得意な横田さん。若い頃のサーフィン、今はたまにのゴルフ、息子さんの野球の審判とこちらも多彩です。サーフィンをやっていて真っ黒だった若い時のニックネームはボブ。「あ~、なるほど」と横田さんに会ったことのある人はきっと思うにちがいないですね。
 五十歳になって、退職後のことも視野に入れて考えるようになってきました。子どもが大好きなので、子どもたちに何か教えたい、そんな場を作りたいとも思っていますし、日本語教師にも興味があります。居酒屋もやりたいと思っています。いっそ、夜は居酒屋をやって、その場所を昼は日本語教室や子どもたちの居場所にするというのはいかがでしょうか?そんな場所ができたら、きっと私もしょっちゅう顔を出します。

 そんな横田さんの座右の銘は「笑門来福」そして、座右の銘と一緒に心がけている言葉が「人生お一人様一回限り、楽しみま笑」
 だから、今日も横田さんは笑顔です。
 多文化共生に取り組む全国各地の多文化共生マネージャーの皆さんにはぜひとも一度会っていただきたいなぁと思う豪快で素敵な部長さんなのでした。 
今日の人151.Tamang Abee(タマン アスビル)さん [2015年10月11日(Sun)]
 今日の人はネパール出身のタマン・アスビルさんです。タマンさんは富山ネパール文化交流協会の主要メンバーで、ネパール大地震の復興支援コンサートでもギターと歌で盛り上げるなどして活躍しています。
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コンサートにて 真ん中がタマンさん

 タマンさんは1982年にネパールのカブレという村で6人兄弟の次男として生まれました。子どもの時から音楽が大好きで、いつもラジオで音楽を聴いていたし、竹やぶから竹を切り出して、自分で竹の笛を作って吹いていました。笛とラジオはいつもタマンさんのそばにありました。

 小学校はお兄さんと一緒に入学しました。5歳のタマンさんは同級生の中でいちばん年下でした。日本とちがって入学年齢は割合アバウトでした。給食はなく、お昼ご飯には乾燥トウモロコシを持っていきました。それを炒ってお昼に食べるのです。小学校ではカバティというネパールの鬼ごっこやチェスをして遊びました。でも、もちろん一番好きなのは音楽でした。

 ネパールの子どもたちにとって家のお手伝いをするのは当然でした。家には水牛、牛、ヤギ、鶏がいて、エサをやるのも子どもたちの仕事でした。今となってはとても懐かしい思い出です。しかし、村には小学校しかなかったので、中学校からはお母さんの実家に下宿して町の中学校に通いました。村までは遠かったので1年に1回くらいしか家には帰れなくなりました。お母さんの実家にはお母さんのお兄さん、つまりタマンさんにとってのおじさんが住んでいたのですが、おじさんには子どもがなく、タマンさんをわが子のようにかわいがってくれました。そのおじさんがタマンさんが中学生の時に亡くなります。それが中学校時代に一番心に残ったことでした。

 高校からはカトマンズに出て、1人暮らしを始めました。料理をはじめ家事全般もちろん自分でやりました。友だちからもらったギターに夢中になり、勉強もギターも一生懸命。とても充実した時代でした。

 大学はそのままカトマンズの大学に入り、経営経済の勉強をしました。けれど、オートバイを買って、授業をサボって出かけてばかりいました。その頃、友だちの間ではいろいろな国へ留学するのが流行っていました。中でも一番イメージが良かったのが日本です。タマンさんも留学したいと思っていて、最初はシンガポールに行こうかと思っていたのですが、シンガポールに留学していた先輩の話を聞くとあまりいい印象がありませんでした。それならやはり一番印象がいい日本がいい、小学生の時から憧れていた日本に行ってみたい!そう思いました。日本留学は人気があるだけあっていろいろな手続きは大変でしたが、タマンさんは日本に来るチャンスを手にすることができたのです。

こうして、大学の卒業を待たずに日本に留学したタマンさん。
日本での生活は思ったよりずっと大変でした。ショックだったのは食用油を買いたくてスーパーに行ったのに買えなかったこと。日本で食用油がどんな入れ物に入れられて売られているのかもわからなかったし、「あぶらをください」という日本語さえ言えなかったのです。国で少しは勉強してきたつもりでしたが、全然役に立ちませんでした。こうして、富山の日本語学校に入って日本語を勉強し始めたタマンさん。私はタマンさんが日本語学校2年生の時に担当したのですが、その時はもうかなり日本語は上手になっていて、ギターで日本語の歌を自作して聴かせてくれるくらいでした。日本語学校では花見に行ったり遠足に行ったりするのですが、タマンさんはそんな風に外に出かけて外でご飯を食べる時間が大好きだと言います。それは日本では全く普通にできることだけど、それを普通にできない国もたくさんあるのです。

タマンさんが日本語学校2年生の8月にバイト先で出会ったのが、奥様となった方でした。彼女は日本人。タマンさんが彼女のために曲を作っていたのを私もよく覚えています。そして、タマンさんが日本語学校を卒業した翌月の4月に2人は結婚したのでした。外国の人との結婚に反対がなかったのかと思いましたが、彼女の家は2人が良ければいいよとすんなりと受け入れてくれました。タマンさんのご両親も認めてくれました。
そんなタマンさんは今では小学校1年生と保育園年長の2人の子どものお父さんでもあります。掃除も洗濯も料理もなんでもする、カジダン、イクメンを地で行くタマンさんなのでした。

そして音楽は今もずっとタマンさんのそばにあります。時々ギターを手にLiveやコンサートにも出演しているタマンさん。大地震のあったネパールの復興支援コンサートに出演するために富山のみならず東京でも活動してきました。地震後は早々にネパール入りし、生まれ故郷のカブレに支援物資を運んだりしています。そして11月にも現地入りして活動してくる予定です。

富山に一軒家も構えたタマンさんは、いつかは自分の会社を持ちたいという夢も持っています。この先ネパールから留学する学生はもっと増えるでしょう。そんな留学生が留学後に安心して生活できて、そして日本での就職も紹介できる、そんな場所を提供できる会社を作れたら、そんな風に思っています。
 
 もう一つはギターや歌に関する夢です。これはきっともうすぐタマンさんから発表があるので、その時に情報をシェアしますね。

 最後にタマンさんに日本に実際何年も住んでみて抱いた思いを聞いてみました。
やはり日本は日本語のわからない外国人にとっては住みにくい。英語もなかなか通じない。それにどこか外国人に対する偏見を持っている。表面に出さない人もいるけど、露骨に出してくる人もいる。
 でも、日本ほどどこに行ってもきれいなところはないと思っています。システムも技術もしっかりしているし、なんでも安心できる。まず、日本に上陸してトイレに入った時にその違いを感じるそうです。そのトイレの快適さと同じ快適さがずっと続くのが日本だと。でも、そのすばらしさを実感していない日本人も多い。日本はこんなに素敵な国なんだよ、ということをもっと誇りに感じてほしい、そうタマンさんは言います。

 2人の子どもたちの成長に伴って、タマンさんがPTA活動などに関わっていく中で、またいろいろな新たな体験が生まれていくでしょう。日本人とはちがったタマンさんの視点でのお話をこれからもとっても楽しみにしています。
今日の人72.明木一悦(めいきかずよし)さん パート.2 [2012年11月12日(Mon)]
パート.1から続きます。

アメリカで7年を過ごしたKazさんは奥さんと共に、日本に戻って来ました。そして、やはり広島が大好きじゃからと、広島に戻ったのです。
フォードにヘッドハンティングされたKazさんはフォードで車の開発をしつつ、お父さんの生まれ故郷甲田町(現在は合併して安芸高田市)に移り住み、「夢心塾」を結成しての町おこしに力を入れ始めました。どんど焼き(左義長)の世界一を目指そうと1200本の竹を組んだり、手作り三輪車6時間耐久レースを企画したり、とにかく、「わしらが変えちゃる。変えんといけん!」との熱い想いでした。
 
こうして会社員をしながら、市議会議員にもなったKazさん。マニフェスト大賞でノミネートも受けました。市議会で、何か提案を言えば「思いつきでものを言うな」と言われました。経験と知識がないと思いつきも言えないだろ?Kazさんは議論して相手を徹底的に追い詰めるタイプでした。すると、逃げ場を作ってやれ、と言われます。
 議員提案をすると、そんなものは書けないでしょ?と言われ、予算修正案を書いても議会で却下されてしまう、議員が予算を書くと、職員の能力がないように思われるから困ると言われる等など、むなしくなる出来事が続き、Kazさんはこれではいかん、他の方法で市を変えなければ将来があぶないと議員を辞めました。
 
 議員をやめてからKazさんは大学院で公共経営を勉強します。やがて会社の経営方針に魅力を感じなくなり、会社も辞しました。
 
会社を辞めてしばらく時遊人らしく遊ぼうかと思っていた時に起きたのが、あの東日本大震災でした。時遊人は、Kazさんの肩書。
「動かなければ!」
九州の友だちがローソクや乾電池を送るために集めているのを知り、九州に送るより、自分で直接持って行こうと思いました。福山の市議から学用品が欲しいという要望を受けたこともあり、市長に市役所のトラックを貸してくれと掛け合いました。市長はすぐにOKを出してくれ、Kazさんは4月19日に陸前高田へ行き、学用品を渡してきたのです。
 こうしてボランティア活動に入り込んでいったKazさん。そんな時に安芸高田市の職員で多文化共生担当の原田さんから、市で多文化共生に取り組んでくれないか、と持ちかけられます。こうして、多文化共生の世界に入ったKazさん。そのおかげで、私も多文化共生マネージャー研修でお会いすることもできたのです。

 とにかく、人間力に溢れるKazさんは、全国に友だちがいて、友だちのネットワークは本当に強くて、みんな利害関係なしに動いてくれるのです。まさに「Kaz人間力」とでも呼ぶべき引き寄せ力でいろんな人を引き寄せているKazさん。
 生傷も耐えないけれど、それが自分の人生を作ってくれている。そして、楽しく夢を追って生きることが大事、と時遊人Kazさん。
 趣味も車、ヨット、ゴルフ、野球、作詞、企画と幅広く、今はスノボのジャンプにも挑戦中。料理もお得意で、そば打ちもするし、おせち料理だって作っちゃいます。
 
そんなKazさんが嬉しかったのは3人の息子さんたちが「言いたくないけれど、おやじのようになりたい」と言ってくれたこと。Kazさんは、反省と失敗が人間を育てると考え、何でも経験させることを大事にしてきました。
 
そして、今でもやっぱり船で暮らすのが夢。最期は船の上で静かに迎えたい。その前にお世話になった人みんなを呼んで、大パーティをして、みんな本当にありがとう!と言って楽しくお別れできたらいいなぁと思っています。
 子どものような夢を大人になっても持ち続けてほしい。そしてみんなとつながって広がっていって欲しい。自分の今の役割はたくさんの人と人とをつなぐことだとも思っています。
 
そして、日々の小さなワクワクは今もたくさんあります。
・孫に会えるとき(なんてダンディなおじいちゃま!)
・友だちに会えるとき(Kaz友ネットワークはすごい!)
・夢を語るとき(夢はあきらめなければきっと叶う!)
・何かに挑戦するとき(今も新しいことにどんどんチャレンジ)
・言葉が降りて来るとき(詩を書くのも趣味です)
・そして恋をするとき(いくつになってもドキドキは大切♪)

歳を重ねてなお、輝きを増すKazさん。
これからますますステキな男性になっていかれることでしょう。
そして、たくさんの人と人とをつないで、安芸高田市を多文化共生の先進地にしていってくださいね。
 私も富山から、Kaz友の一人としてずっと応援しています。

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多文化共生マネージャーの仲間との一枚 kazさんは向かって右端




今日の人72.明木一悦(めいきかずよし)さん パート.1 [2012年11月11日(Sun)]
 今日の人は、広島県安芸高田市国際交流協会事務局長の明木一悦さんです。
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 明木一悦さんことKazさんは友だちから21の顔を持つ男、と呼ばれています。ある時は役者、ある時は詩人、そしてエンジニア、海人、政治家、そして、良き夫、良きおやじ…
 いろんな顔を持つ、とっても素敵な歳の重ね方をしていらっしゃるKazさん、私は多文化共生マネージャー研修でご一緒させていただいたのですが、その時から、女性陣にだけでなく男性陣にも、もてもてでいらっしゃいました。

 Kazさんは、1958年広島生まれの広島育ち。とにかくやんちゃでチビっ子だったので、クラスで並ぶ時は常に一番前でした。
 小学生の頃は、夏休みになると、3時半に起きてカブトムシを捕りに山を一周してラジオ体操に行ったり、橋の下をつたって橋ゲタまで行って釣りをしたり、ダンボールをソリ代わりにして崖を滑り降りたり、とにかく外遊びが大好きなワンパク坊主でした。
近所中の屋根の上を走り回っていたこともあります。けれどそんな小学校の時の夢は新聞記者でした。

 川や海が好きで、自作の舟を作っては浮かべてみるのですが、いつも失敗して水面に放り出されていました。それでも船乗りになりたくて、商船高等専門学校に入りたかったのですが、親に反対されて断念しました。中学時代は国語や社会の時間にこっそり授業を抜けだして、屋上で空を眺めているロマンチストな一面も。

 海への想い断ちがたく、ヨット部のある高校を選びます。今のKazさんのイメージとは全然ちがうのですが、その頃はまだ背が低く、分厚いメガネをかけていて、同級生にいじめられていました。教室の後ろで4~5人に殴る蹴るといういじめが続きましたが、それでもKazさんは学校を休むことはありませんでしたし、卑屈になることもありませんでした。むしろその経験があったから、人に優しくできる自分になれたと優しい笑顔でおっしゃるKazさん。今は、そのいじめていた連中とも友だちとして付き合いがあるそうです。
 そしてその頃の夢は、やっぱり海、でした。ヨットで世界一周したい。とにかく、海に出ていたら幸せだと思っていました。

 大学は工学部に。ヨット部がなかったので作ろうとしましたが、許可が降りませんでした。友だち3人で一軒家を借りているところに居候し、みんなで麻雀したりドライブに行ったり、常に女の子も集まってきて、毎日青春を謳歌していました。ただ、お金はなかったので、具なしの味噌汁で猫マンマにしてみたり、塩だけがおかずのごはんを食べたり、誰かのバイト代が入った時は、みんなで吉野家へ繰り出して食べる牛丼がごちそうでした。そんな生活がたまらなく楽しかった大学時代。19の時に浜田省吾にはまり、それ以来ずっと浜省ファンです。なんと「悲しみは雪のように」のカラオケで100点を出したこともあるのだとか!
 英語の単位が足りずに留年してしまったKazさん。けれど、「American Graffiti」「BIG WAVE」などの洋画や片岡義男に影響を受けたこともあり、アメリカに行きたいと思っていました。

 そして、海外赴任のある会社に就職したKazさん。サウジアラビアに送る機械の担当になりました。サウジアラビアに送る機械の担当ということはつまり、機械が送られる時に、一緒にサウジアラビアに赴任になることを意味します。いや、ちがう、俺はサウジアラビアに行きたくてこの会社に入ったんじゃないんだ。アメリカに行きたいからこの会社に入ったんだ。Kazさんはずっと先輩や上司に訴え続けました。
 ある時、ボストン行きの機械が入って来ました。サウジアラビア行きの機械が一ヶ月後に出ると決まっていた時でした。ビザも取らなければ…
 いよいよ覚悟を決めなければいけないその時に、言われたのです。
「明木、ボストンに行け」
 こうして、念願だったアメリカに渡ることになったKazさん。
「夢は強く願い行動すれば叶う」を実感しました。

 英和辞典と和英辞典だけを抱えて渡米し、ボストンに降り立ったときには、思わずガッツポーズ!「よしっ、ここから俺のアメリカン・ドリームが始まる!」
…しかし、もちろん、現実はそんなに甘くはありませんでした。何しろ、英語の単位を落として留年しているのです。つまり、英語は苦手だったのですから。
最初は何もわかりませんでした。こいつは全然話せないから駄目だ、とクレームがついたこともあります。しかし、技術的なことを教えてあげると代わりに英語を教えてくれるようになったり、テレビで言っていた言葉を実際に使ってみたり、まさにSurvival Englishとして英語を習得していったのです。
 2年目、3年目になると、いろいろなところを回りました。カリフォルニア、デンバー、シカゴ、フロリダ…30州くらいは回ったでしょうか。
 当時20代前半の若さで、日本電気の社長をはじめとする重役たち、アメリカンドリームをかなえた起業家たち、アメリカの大手会社の取締役たち、毎日を一生懸命にそして楽しく暮らす労働者たちなど幅広いたくさんの人たちとの付き合いが、Kazさんの人間力を高めていきました。

 アメリカの勤務先であるNEC America本社に勤務していたアメリカ人女性エンジニアと恋に落ちます。彼女ができると英語が伸びなくなったんだよなぁ、とKazさん。逆だと思っていたけれど、そうではないみたい。釣った魚にエサはやらないタイプ?いえいえ、そんなことはありません。Kazさんは今でも大変な愛妻家。奥さんのために晩御飯を用意して待っていたりもされるとってもステキな旦那様なのですから。

 話を戻して、7年間のアメリカ生活時代には、いろんなエピソードには事欠きません。
ニューヨークはマンハッタンのアイスクリーム屋さんでバニラのアイスを注文したのですが、店のおばあさんに発音がちがう、と何度もvəníləの発音をやり直しさせられます。最後にようやくOKをもらったとき、後ろに並んでいた大勢のお客さんから拍手喝采。アメリカのあたたかさを感じた瞬間でした。かと思えば、警官に車を止められ、拳銃を突きつけられたこともあります。日本から来たばかりの社員が後部座席で不用意にポケットに手を入れてしまったため、警官に銃を取り出すと勘違いされたのです。Kazさんは「お前は絶対に俺の言うとおりにしろ、不用意に動くな」と、指示し、本当に緊迫の時間が流れました。こういうエピソードを紹介していると、それだけで1万字を超えそうなので、それは今度じっくりKazさんに聴いていただくとしましょう。

パート.2に続きます。
今日の人71.河村槙子さん [2012年11月09日(Fri)]
 今日の人は多文化共生リソースセンター東海事務局長の河村槙子さんです。
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 多文化共生リソースセンター東海は多文化共生社会づくりに役立つリソースの収集・整理・発信を通じて、東海地域の社会発展に貢献することを目的に2008年に設立されました。多文化共生理解促進事業をはじめ、外国人住民の社会参画促進事業、多文化共生関連の研修企画・運営及び講師派遣事業など、多文化共生社会に向けた活動に幅広く取り組んでいらっしゃいます。

 河村さんは愛知県一宮市生まれ。4人姉妹の次女でした。ちょうど2歳ずつちがう姉妹はとっても仲良しで、昔も今もケンカをしたことはほとんどないそうです。そして実家は日蓮宗のお寺でもありました。
 
 小学校の時は、ミニバスケットボール、女子サッカー、マラソンとスポーツに明け暮れた日々でした。そして、中学校から大学まではずっとソフトテニス部に所属して汗を流していました。大学の時もサークルではなく、体育会のテニス部でしたから、相当ハードな練習だったはずです。
 
 高校生の時、始めは大学で栄養学を専攻しようかと考え、理系にいた河村さん。でも3年生の時に、途上国の映像をみて、何かはわからないけれど、自分も途上国に関われることをやりたいと南山大学総合政策学部総合政策学科に入ります。そこでNPONGOゼミを専攻し、紛争地域が専門の先生の元で学びました。他にもアジア系の歴史はしっかり勉強しましたし、元国連職員の先生もいらして、とても学びの多い大学生活だったと思っています。
 
 河村さんは4年生の秋から1年間休学して、アメリカへと渡ります。最初はニューヨーク州の大学の語学コースに入り、4ヶ月勉強。空いている時にボランティアをしたかったのですが、あまり治安がよくなく、東海岸から西海岸へと移動。オレゴンのポートランドで語学学校に通いながら、週末はフードバンクや教会で食事を配布するボランティアをやりました。コミュニケーションがなかなかうまく取れないことがはがゆかったですが、でもとても楽しい時間でした。
2ヶ月たって、今度はサンフランシスコで日本人のやっているNPOにインターンとして入ることになりました。ここでは日本向けの広報が自分に与えられた主な仕事でした。ここで広報を学んだことは、その後とても役に立ったと感じています。そのNPOは、日本とアメリカをつなぐのが目的のNPOでしたから、日本からの視察団がたびたび視察ツアーで訪れました。その視察ツアーで訪れる先は、例えば地域のお父さんが街に木を植えるNPOだったり、企業から協賛金をもらって移民向けの多言語教育を行うNPOの保育園だったりしました。この視察ツアーは、今の活動にとても深く影響を与えました。   

 そして、外に出たことで河村さんには変化が生まれました。自分は途上国のことをやりたいと思っていたけれど、実は日本国内でやれることがまだまだあるのではないか?視点が外から内へと移ったのでした。そう思うと、早く帰って取り組み始めたい!といてもたってもいられない気持ちになりました。

 帰国直前のある日、買い物帰りの道中でホームレスに話しかけられた河村さん。
「なんでそんなに暗い顔をして歩いているの?前を向いて明るくしてなきゃ!」
はっとしました。ホームレスだからどうだとか、ちょっとでもそういう風に思っていた自分はいなかったか?人に貴賎はないのだ。そう気づかせてくれたホームレスのおじさんに感謝でした。

 こうして帰国した河村さんは活発に活動を行い、新聞にコラムも連載していた多文化共生サークルsmileの代表希代翔さんに「何かしたい」と連絡を取ります。実は希代さんとはアメリカに渡る前に同じ授業をとっていた縁で友人になっていたのでした。
 
 河村さんはsmileのイベントの主軸になっていきます。在日のアフリカの人と動物園に行ったり、ビルマ難民の人と水かけ祭りでダンスをしたり、いろいろな企画を立てました。他にもブラジル人学校と日本の学校の子どもたちが三角ベースボールで交流する、というイベントを企画したりして、日本の中にある異文化に触れる機会が数多くあって、とても楽しかった。

 そうした中で市役所とJICA中部でもインターンをしていました。そして大学を卒業したら、当然の流れとしてNPONGOで働きたいと思っていました。民間企業は考えにくかったのです。

 でも、その考えを伝えるといろいろな人から言われます。「一回は民間企業で働いておいた方がいいよ。」あまりにたくさんの人からそう言われるので、それもそうかなと思い、ベンチャーの派遣会社に就職し、新規開拓の営業担当になりました。本社でみっちりビジネスマナーを仕込んでもらいましたし、営業、事務、事業計画の立て方、いろいろ経験させてもらって、確かに一度民間企業で働いたのは、とてもいい経験になりました。しかし、やはり私がやりたいのはこういう仕事ではない、とその会社を1年半で退社します。
 
 その頃、ちょうど多文化共生リソースセンター東海が立ち上がろうとしていましたが、やることを決めてもみんな仕事を持ちながらなので、なかなか動けない状態でした。そこで河村さんは自分が日中動けるようになりたいと、リソースセンターの専属になったのでした。
 しかし、最初は無給からのスタート。愛知県からの委託事業を請け負うようになり、ようやくお給料も出るようになりました。多文化共生マネージャーの研修も受け、たくさんのタブマネともつながりができました。(河村さんはタブマネ10期。私は14期なので、タブマネでは河村さんが先輩です☆)

 今、ワクワクすることは、外国人コミュニティの人といろいろなことを一緒にやることです。例えば、あるブラジルの団体は常に赤字の状態でしたが、河村さんたちがかかわって研修会を開催したり、助成金の申請の方法を伝えることで、赤字が補われるようになりました。それで、失ってくれたヤル気を取り戻してくれたのが本当に嬉しいといいます。
 またアフリカの一人代表の団体は、なかなか事業が進みませんでしたが、いろいろなことを一緒にしていく中で、彼女自身が変化して、心の中で思っていたことをやれるようになりました。
多文化共生リソースセンター東海は中間支援組織なので、実感を得る場というのは少ない。だから、そういう生の声は本当に嬉しいし、ありがたいのだと、とてもやさしい笑顔で話してくれました。

 そんな優しい笑顔の河村さん、実はsmileで一緒に活動していた方がご主人です。ですから、旦那様も河村さんの活動のことをよく理解して応援してくれています。
結婚して、今住んでいる地域もとても外国人の多い地域です。そんな人達と、多文化共生という言葉を使わずにプライベートでも接していけるようになりたい、それが河村さんの夢です。

「多文化共生リソースセンター東海は、こんなにしっかりしていて可愛い事務局長がいるから安泰ですね!」とリソースセンター代表の土井佳彦さんに言いたくなるような、とてもステキな河村槙子さんなのでした。
今日の人58.堀 永乃さん [2012年09月27日(Thu)]
 今日の人は、一般社団法人グローバル人財サポート浜松代表理事の堀 永乃(ほりひさの)さんです。
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 グローバル人財サポート浜松は、グローバル化が進む地域社会に貢献する人材の育成と活動の支援を行うこと、及び浜松市における共生社会の構築に寄与することを目的としています。そして在住外国人の社会的自立と高度人財化のために日本語教育や資格取得のための学習・就労サポートや企業内研修を行い、地域の多文化共生づくりのために担う手である人材の育成に努めています。
 
 堀さんはとにかくパワフル。そのパワフルさとアニマル柄が好きな所から着いた呼び名はライオン姫。命名者は多文化共生マネージャーのボスと言えばおなじみのあの方…
 
 一見、どこで雑魚寝しようが平気そうに見える堀さんですが、実は潔癖症。幼稚園の椅子に座れない。お砂場遊びなんてとんでもない。毎日、机の上にホコリがたまっていないかチェックする、という保母さん泣かせの園児でした。
 そして、小さい頃は身体も弱く、小学1年の2学期から小学2年の1学期末まで溶連菌感染症で、ずっと入院生活を送っていました。まだ院内学級のない時代です。学校に戻った最初の日に、いきなり九九のテストを受けることになった堀さん。「3バツ3って、いったい何?」そう。ずっと入院していた少女には「×(かける)」の概念がありませんでした。答えの欄全てに「わかりません」と書いて提出した堀さん。それを見た担任の伊藤さとみ先生は強いショックを受けました。「ああ、配慮が足りなかった。」と気づいてくれたのです。こうして担任の先生と友達たちとの夏休みの猛特訓が始まりました。でも、この「わからない」経験が、いま堀さんが外国人支援をするルーツになったといえるでしょう。

 退院したとはいえ、体調はそんなによくなく休みがちでした。堀さんは幼い頃お菓子はお母さんの手作り、服は全部オーダーメイドが当たり前の生活でした。既成品って何?という感覚だったので、その態度が鼻についたのでしょう。よくいじめられました。特に5年生の1年間はひどかった。そんな娘にお母さんは言いました。「人間の心には白い心と黒い心があるの。今、あなたをいじめている子は、黒い心が勝っているけれど、その子にも白い心はあるの。だから、あなたはその子のことを絶対にうらんじゃいけないのよ。」いじめっ子のリーダーの女の子は、母子家庭でとても寂しい思いをしていたようです。その妬みから堀さんをいじめてしまっていたのです。その後、その彼女とは互いの家を行き来するほど仲良くなりました。彼女にもちゃんと白い心があったのです。

 中高一貫校の名門女子学園に入学後堀さんは、いまの堀さんの原点を作り上げる様々な経験をしました。持ち前の本領を見事に発揮し、いきいきとした学園生活を過ごすようになりました。旅行会社と組んで学生ツアー旅行を企画したり、学年縦割り大運動会を企画したり、その頃から企画力は抜群だったようです。
 
 但し、遊んでばかりいると怒られるので、勉強もしっかりやりました。特に高2、高3の時の乾初江先生が負けん気を引き出してくれました。学年トップになったとしても「たかが83点、えらそうに言うな!」そう言われたので、あと17点をどうやってあげられるだろう、そういう風に考えるようになりました。戦略的に考える癖がついたのは、この先生のおかげだったのかもしれません。

 こうして東京の女子大に進学した堀さんは、大学でメルティング・ポットやサラダボウルという考えに触れて衝撃を受けました。一番興味を持ちだしたのが、ジェンダーについて、そして違いについてでした。

 20歳には、ニュージーランドに短期留学します。しかし英語ができると思って留学したのに、全く話せないし、聞き取れず、テストで30点をとってしまい、泣きながら帰ってきました。すると、ホストファミリーのママは、「すばらしいじゃない、あと70点じゃない」とにっこり。そうか、こんな風に考えればいいのね!…本当のママといい、ホストファミリーのママといい、堀さんの周りには素敵な言葉をくれる素敵な人たちがたくさんいらっしゃるのです。異文化も体験し、交流の楽しさも学びました。

 大学時代アルバイトもいろいろ経験します。赤坂の料亭、塾の先生、本屋…。どれもあまり長続きはしませんでしたが、塾の先生のバイトでは教え方がうまく、特に出来の悪い子に人気がありました。

 一番長く続いたのは羽田空港のチェックインカウンターでのバイトでした。いろんな事件もありました。手荷物検査のX線に恐竜らしき物体が写り、開けてみたらイグアナが入っていたり、芸能人が来た時はダミーで走らされたり、しかし、ここで堀さんはチームワークの大切さを肌で学ぶことができたのでした。そしてこの時、自分も世界に羽ばたく仕事がしたい、と日本語教育の勉強を始めました。    

 大学卒業後はイギリスで半年間日本語を教えました。そこは、日本語だけではなく、いろいろな言語を教える語学学校だったのですが、そこで堀さんは英国人スタッフに向けて日本語を教えていました。ある日「これ、それ、あれ」を教えていると、あっという間に理解してしまい、3分で授業が終わってしまいました。その時に言われます。「もっと楽しく授業することを考えなよ。」ここで堀さんは、楽しく勉強することの大切さに気づきます。


 こうして日本に戻ってきた堀さん。企業勤務の傍ら企業内日本語教室や地域のボランティア教室で日本語を教えていました。その時、ブラジル人の交通事故がとても多いこと、また彼らは日本語がわからないため不利な状況に立たされることが多いことを知り、彼らが日本語を知らないと自分の権利を守れないことを実感します。そんなとき、浜松国際交流協会から日本語コーディネーター就任の依頼を受けます。これまで見てきた外国人の状況を私が変えたる!そう決意して、浜松国際交流協会に入りました。

 当時OPIも勉強していた堀さんは、どうやったら「使える日本語」を教えられるのだろうと考えました。ふと目にした2006年に浜松市の外国人就労生活実態調査の結果で、日本語を習いたいと思いつつも日本語を勉強していない人が8割近くもいたということがわかって愕然とします。それまでの日本語教室が、ニーズに合っていないことの裏返しだと思った堀さん。「場面で使える日本語会話」を目指して、スーパーに実際に行って買い物をするなどのサバイバルジャパニーズを実践しました。
 
 企業内日本語教室を立ち上げたいと企業に日参し、やっとの思いで開講した日本語教室でも、「堀さん、こんなことをやっていて何が得られるの?」と。そんな痛烈な言葉をくれた人は、その後の堀さんに大きな力を与えてくれることになったヤマハ発動機の石岡修部長(当時)でした。そして、その言葉で堀さんは発奮します。それからというもの消防士、警察官、企業の人、お店の人…いろんな人を巻き込んだ日本語教室を展開していくようになりました。すると、評判が評判を呼び、企業内日本語教室は外国人労働者のみならず日本人従業員との人間関係構築の場となっていきました。

 大事なのは、出口デザイン。何のための日本語教育かという視点を決して忘れてはならない。人間関係が作られる日本語教育をしていかなければならない。それは堀さんが常に抱いている想いです。

 その想いを形にしていくためには、自らが社会起業家になろうと決意し、グローバル人財サポート浜松を設立しました。そして、堀さんの取り組みは次々と成果を上げています。
 
 地域に暮らす外国人にこそ、ずっと日本で活躍していけるための資格を、という視点で日本語の勉強と同時に介護ヘルパー2級の資格が取れる仕組みを作ったり、大学生と一緒に地域作りに取り組んだり、次世代を育成することをとても大切にしています。
堀さんたちの取り組みについて、詳しくはHPをご覧ください。
http://www.globaljinzai.or.jp/company/

 今彼女が考えているのは、日本語教育の社会起業家を作って行かなければ、ということ。グローバル化の進む中、地域でも多文化共生社会の構築への努力が続けられていますが、その課題解決に日本語教育が大きく関わっているとの思いで、社会の取り組みとして地域課題の解決を目指す人材を育成しよう!というのが堀さんの思いです。そこでCRIATIVA(クリアチバ)という団体を立ち上げます。

 いよいよその地域日本語教育「起業家」育成講座が、9月29日から開講します。
講師陣も素敵な方ばかり。
お申込み、お問い合せはこちらへどうぞ
http://criativa.blog.fc2.com/blog-entry-18.html

 自分は常に声をあげ続けて、みんなが求める最高の社会にしていきたい!きっぱりと言い切るところが実に凛々しくまさにライオン姫!その生き方に惚れる女子がいっぱいいそうです。
でも、堀さんは、実はとてもデリケートな乙女の部分を持ちあわせています。たまにはライオンじゃなくて、姫に戻る時間も大切にしてくださいね。

 多文化共生社会の実現のために、声なき人の声を拾うために、これからも走り続ける
堀 永乃さん。浜松を、そして地域社会の日本語教育を引っ張る、素敵女子なのでした。
今日の人56.高木和彦さん [2012年09月12日(Wed)]
 今日の人は、NPO多文化共生マネージャー全国協議会副代表の高木和彦さんです。
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高木さんは多文化共生マネージャーの間では、セニョールと呼ばれています。ぱっと見クールでとっても冷静沈着な高木さんですが、その秘めた情熱は素晴らしく熱い素敵なセニョールです。
 
 高木さんが生まれたのは、岐阜県の関ヶ原町。関ヶ原の戦いであまりにも有名ですが、東軍と西軍がぶつかったように西の文化と東の文化がぶつかる町でもあります。有名なのはお雑煮。関ヶ原町を堺に丸餅と角餅にわかれます。で、関ヶ原町はどちらか、これが東の角餅。でも味付けは西日本風のすまし。多文化共生の素地は生まれた町に既にあったのかもしれませんね。
 
 高木さんは子どもの頃は空気が全く読めない、いわゆるKYな子どもでした。小学校にお母さんが呼び出されることもしばしば。しかし、本人は何を怒られたのか、全く記憶にないのだとか。大物になる気配たっぷりの小学生時代だったようです。
 中学校でようやく空気が読めるようになって勝手な行動はしなくなったという高木さん。中学高校時代はテニス部に所属します。どちらかと言えばポッチャリ体型だった高木さんは、高校2年の時にダイエットを敢行します。炭水化物抜きダイエットで、一気に22kgの減量に成功。しかも、それ以来一度もリバウンドしていないというから、驚きです。今はとってもスリムで、太っていたという面影は全くないセニョールです。
 
 文系だけど、物理と数学が大好きだったという高木さん。大学は経済学部に進学。そして卒業後は滋賀県庁に就職し、以来ずっと滋賀に住んでいます。
 県庁職員は2~3年でちがう部署に異動することが多いのですが、高木さんはなんと12年も国際課にいらっしゃいます。滋賀の多文化共生といえば即、高木さん!という声が挙がるくらい、ご活躍でいらっしゃるのです。
 
 姉妹都市であるブラジルのリオグランデ・ド・スル州に2001年9月~2003年1月までの1年半派遣された経験が高木さんがセニョールと呼ばれる所以にもなっています。そして、移民国家ブラジルで人種差別されないことを肌で感じた高木さんは、帰国後、日本で在住外国人支援に本腰を入れていかなければ、との思いを強くしました。
 
 そんな時に受けた多文化共生マネージャー研修。そこで田村太郎さんの話を聞いたことで、高木さんの考え方は大きく変わりました。多文化共生は外国人のためではなかった、他ならぬ自分たちの地域のための多文化共生だったのだ。その道を取らなければ、地域社会は生き残っていけないのだ。この視点を得たことは本当に大きかった。それは私たち多文化共生マネージャーが共通して持つ強い思いだとも言えるでしょう。 

 滋賀医科大学と一緒に、ブラジル人家庭300軒の調査で、彼らの生の声を聞いたことも、高木さんに新たな視点をもたらしてくれました。
 それは、「在住外国人」なんていう人はいない、ということです。在住外国人なんて一括りにできるわけがないではないか。彼ら一人ひとりが、この地域で今日も生活している人なのだ!調査を通してそれを実感し、彼らが滋賀に住んでくれているなら、いかによりよい滋賀にしていくか、そういうことに心を砕ける行政マンでありたいと思っています。
 そして、市役所や国際交流協会がうまく動けるように、中間支援組織的な役割を担っていける県でありたい、そのためにも、部下育てはとても大事だとおっしゃる高木さん。
「ただ、自分としては多文化共生だけでなく『ダイバーシティ』に取り組んでいきたいのだけどね」とおっしゃいます。それは、私たちとしてはなんとも嬉しいお言葉!

 そんな高木さんの趣味はなんとバス釣りです。なにしろ琵琶湖は目と鼻の先ですから、平日は朝4時に起きて、釣竿を持って家から自転車で5分の琵琶湖へ行って釣り糸を垂らし、仕事が早く終われば再び釣り糸を垂らす、というほどお好きなんだとか。
 さらに、今の仕事をしていなかったら、エンジニアになりたかったとおっしゃるように、大変機械にも強く、富山に来られた時に私のAQUA(Hybrid Car)に乗られたときも、エンジンのことをとっても詳しく説明してくれるのです。私にはさっぱりな世界なのですが、そういう話をされている時ときたら、まるで少年のようにワクワク感いっぱいで話されるので、こちらも伝染して嬉しくなっちゃう位なのでした。

 いつかまたブラジルに住んでみたいなぁと思っている高木さん。ブラジルの懐の深さに魅了されてやまないのです。ただ、高木さんが再びブラジルに渡るまでには、もう少し時間がかかりそうです。なぜなら、まだまだ日本でたくさんの出番が待っていますもの。
 NPOタブマネの副代表としても全国で研修等があり、なかなか休む暇がないセニョールなのでした。

 どうぞこれからも、その少年のようなワクワク感で、滋賀県のそして全国の多文化共生を更に加速させていってくださいね。そしてダイバーシティな地域社会を共に作っていく仲間として、これからもよろしくお願いします。
今日の人55.諏訪淳美さん [2012年09月06日(Thu)]
 今日の人は、財団法人CLAIR(クレア)自治体国際化協会多文化共生部多文化共生課の
諏訪淳美さんです。
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諏訪さんは、多文化共生マネージャーの同期、とっても笑顔の可愛い癒し系の女性です。

 諏訪さんは東京生まれの東京育ち。幼稚園の頃は、種から野菜を育てるのが大好きな菜園少女でした。いろんな野菜や果物を育てて楽しんでいたそうです。(そういえばうちの子たちも、ばばばあちゃんの「すいかのたね」っていう絵本を読んで、すいかの種を庭に植えていました。ホントに芽が出てつるが伸びて親の私もワクワクしたのを覚えています。)
 小学生からガールスカウトに所属していたので、アウトドアが大好きになり、お父さまの影響を受けてオートバイの免許も取ってしまうほど、以前はアウトドア派でした。
 
 中学校では陸上部で活躍。短距離が得意で、リレーやハードルの選手でした。高校では水泳部に所属し、平泳ぎでエースでした。
 そんな風にスポーツが得意だったので、体育の先生になるのもいいなぁと思っていましたが、中学の友だちが「フライトアテンダントになりたい!」と言っていたのを聞いて、それもいいなと思います。「流されやすかったんです~」と諏訪さん。でも、フライトアテンダントみたいな花形職業、流されてすぐなれるものではありませんもの。ちゃんと努力した賜物だと思います。

 短大を卒業したあと、フライトアテンダントの世界へ。4年間勤めて、国際線へという話もありましたが、もっと視野を広げたいと思いを抑えきれず、仕事を辞めてアメリカに渡ります。インターンシップで現地の小学生たちに日本語や日本文化を教えるというプログラムに参加しました。そこで出会った先生に日本人補習校に行ってみてはと進められ、最初は手伝いのつもりで通っていましたが、やがて小学3年生の担任を任されます。

 アメリカで生活したのはメキシコ近くの都市。バイリンガルになれない(つまり英語を話せない)子どもたちが学校での勉強についていけない現状、補習校では日本人の子どもたちが自分の居場所を見つけられず悩んでいる姿を見て、「何とかしたい」と思うようになりました。このことが、諏訪さんが多文化共生の世界に関わるきっかけになったのかもしれません。

 帰国後は、教育についてきちんと学びたいと思い、大学に入り直し、教職を取りました。そして、昼は仕事、夜は学校という生活を4年間送りました。
 大学には現役の学生から会社社長まで色々な方がいてまさに多文化。たくさんの刺激を受けました。

 大学3年生の時にかながわ国際交流財団で職員募集があり、職員に採用されます。そして、かながわ国際交流財団での仕事が8年目になった昨年、今働いているクレア自治体国際化協会に出向することになりました。多文化共生課に配属された今年は、多文化共生の分野で様々な事業に取り組んでいますが、答えがないのが悩みです。
 そこで多文化共生マネージャーの研修を受けることにした諏訪さん。全国で多文化共生に取り組む仲間と出会い、ここでも刺激を受けました。どこかで言い訳している自分を感じて、もっと殻をやぶって突き進まなきゃ!と思っています。 
「新たな自分に出会いたい!」とってもキラキラした目でそう話してくれました。
  
 もし時間があったら、長い旅行に行きたい!と諏訪さん。昔、グアテマラやコスタリカを一ヶ月かけてまわったことがあるので、またバックパッカーをやってみたいな、と思っています。
諏訪さんは、見た目は守ってあげたくなるタイプなのですが、実はとっても行動的でしっかりしているのです。

 音楽も好きで、小さい頃に習っていたピアノをもう一度習いたいと思っています。いろんなことに好奇心旺盛な諏訪さん。その好奇心で、どんどん新たなことにチャレンジして、ますますキラキラした女性になってくださいね。

 そして読者のみなさん、クレアのホームページで、多文化共生の取り組みについても、ぜひご覧ください。

クレア多文化共生⇒http://www.clair.or.jp/j/multiculture/index.html
多文化共生ポータルサイト⇒http://www.clair.or.jp/tabunka/portal/
今日の人54.マット・ダグラス(Matt Douglas)さん [2012年08月29日(Wed)]
 今日の人は、CLAIR(クレア)財団法人自治体国際化協会の多文化共生部多文化共生課兼協力支援部経済交流課のマット・ダグラスさんです。
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マットさんはオーストラリア、ニューサウスウェールズ州スワンシーの出身。7人兄弟の末っ子で家族からはベイビーと呼ばれて育ちました。そんなベイビーは、小さい頃からとにかく外で遊ぶのが大好きでした。食事までに戻らなくて、呼ばれても聞こえないふりをして遊び続けていました。家族でキャンプに行くのも大好きで、山登りをしたり、川で砂金を集めたりして遊びました。オーストラリアにはゴールドラッシュの名残で、まだ金が混じっている川もあるそうです。

こんな風にアウトドアが大好きなベイビーでしたが、小学校に入ると勉強も大好きになります。
 そして、小学校の3年生の時に衝撃的な出会いがありました。担任の先生が病気で数日学校を休んだ時、代わりに来てくれた先生が日本語ができる人でした。その先生は授業の時に、ひらがなを教えてくれたのです。初めて目にしたアルファベット以外の文字に衝撃を受けたマット少年!「こんな文字があるんだ!勉強したい!!」
そう強く思ってしまった小学校3年生の男の子は親に頼んで、日本語の家庭教師をつけてもらいました。こうして、マットさんと日本語の長い付き合いが始まったのです。

初めて日本に来たのは15歳の時。日本語のスピーチ大会で優勝し、2週間の日本への旅がプレゼントされたのでした。スピーチ大会の審査基準は「ラム肉は柔らかくておいしいです」をなめらかに言える人、だったらしい。(真偽の程は定かではありませんが…。でも確かに、やわらかいの発音はなかなか難しいですね。)
こうして高校2年の時に2回来日したマットさんは、超名門校オーストラリア国立大学に入学した後ももちろん日本語を専攻。しかし、ここで日本語だけではなく、生物学も専攻してしまうところが、さすがです!
オーストラリア国立大学には、なんと歌舞伎部があります!そこでマットさんは、女形を演じていました。三島由紀夫の歌舞伎「鰯売恋曳網」では蛍火を演じるなど、我々よりはるかに歌舞伎への造詣が深いマットさん。今、お勤めのクレアは国立劇場が近いので、時々見に行っていますよ、とニッコリ笑顔になられました。

大学の時に交換留学生として、東北大学にも1年間在籍しました。そして、卒業後は日系企業で一年働いた後、JETプログラムで来日し、高知県で4年間勤務しました。今でも日本の中で一番帰属感のある場所は高知です。四国山脈で隔てられた高知は、日本国内ではなく太平洋に目が向いている特異な土地柄です。「自由は土佐の山間より」という言葉があるように自由民権運動はまさに土佐から。オープンで誰でも受け入れてくれる県民性、ひろめ広場へ行くと、すぐに友だちができる、そんな高知が大好きなマットさん。
JETのみんなで土佐弁による外国人ミュージカルを行ったり、「ちょびっとJAPAN映像祭」と称して、テーマを変えて3分以内で高知を伝える映像を作ったりと、本当に楽しい時間でした。

 高知で町役場、そして県庁での仕事に携わり、その後 国の機関であるクレアで働きはじめて、8月でちょうど3年になります。町、県、国、それぞれの仕事を経験できたことは、それぞれの立場を知る上でもとてもいい勉強になりました。
クレアでは東日本大震災での多言語支援センターの仕事をしたり、国際交流協会の職員対象の研修会の企画立案をしたり、外国人の心のケアの研修を行うなど、自分に得るものが大きかった。
また海外の地方自治体等の職員を日本の地方自治体に受け入れる際、財政面や受入実務面での支援を行う「自治体職員協力交流事業」(Local Government Officials Training Program in Japan)も担当しました。世界8カ国から自治体職員を招集してJIAM(全国市町村国際文化研修所)で5~6月にかけて泊まりこみの研修もあるのですが、その期間は彼らとずっと泊まりこみだったマットさん。2ヶ月近く一緒にいて、すっかり仲良くなったので、彼らが帰国したら、韓国、中国、ベトナム、インドネシア等、世界各国を回りたいなぁと思っています。

そんなマットさんの夢のひとつは、日本の100名山を制覇すること!
今77山まで登ったので、あと23山を制覇したい!ととっても楽しそうに話すマットさん。ベイビーのアウトドア好きは大人になっても変わらないようです。
もう一つの夢は、大学の先生になること。日本かアメリカの大学で日本語と日本文化を教えたいと思っています。日本語教育の世界でマットさんが大活躍してくれたら、一介の日本語教師としてこんなにうれしいことはありません。

防災にしろ、何にしろ、日本人が外国人を支援するという一方的な構造は絶対によくない、社会の構成員として、相互支援しあえる関係、そして、草の根レベルで支え合える関係がいい。でも、そうしていくためには、やはり国のリーダーシップがないと難しいと言うマットさん。
でも、日本は差別が浅い国だと思うので、ダイバーシティ的な考えがみんなに伝われば、結構はやく変わるんじゃないかなと、とっても素敵な笑顔で言ってくれました。
その言葉、私たちには大きな力になります。
これからも、その深い洞察力とみんなを惹きつける笑顔で、末永くぜひ日本でご活躍くださいね!
今日の人52.土井佳彦さん パート.2 [2012年08月16日(Thu)]
パート.1から続きます。 

 2006年3月。土井さんはその後の人生になくてはならなくなるある人に出会います。所属するボランティア団体の研修会に来られていた講師、それが田村太郎さんでした。今まで日本語教育の道で来たけど、田村さんとの出会いから「多文化共生」というものを知り、「自分がやりたかったのはこれかもしれない」と思いはじめました。

 2007年の12月には東海地域で今後の多文化共生を考える懇談会が開かれました。翌2月から正式に中間支援組織を起ち上げる準備委員会に携わるようになりました。週に二回くらい集まって、時には合宿のように話し合う日々はとても楽しかったそうです。

 しかし2008年4月から、名古屋大学留学生センターのスタッフとして、地域日本語学習支援を始めます。準備委員会には勉強がてら参加していましたが、ひょんなことから代表を任されることになってしまいました。いえ、でもまだ本当には覚悟していなかったのかもしれません。この時はまだ、本業は日本語教育だったからです。

 2008年10月、仲間とともに多文化共生リソースセンター東海を起ち上げた土井さん。まずは、多文化共生に関する全6回の連続セミナーを開催しました。翌年、多文化共生リソースセンター東海をNPO法人にします。それまで、広域で取り組んでいるところがなかったことから、委託事業も増えました。最初は名古屋大学留学生センターの仕事もフルタイムでやっていた土井さんでしたが、3年目には週4日に、4年目には週3日にし、そして今年からは、大学職員を辞めてリソースセンターメインでいくと、覚悟を決めました。

 そう覚悟したのは去年の経験が大きかった・・・。
 
 去年の3月13日。そう、あの東日本大震災から2日後。土井さん達はJIAM全国市町村国際文化研修所にいました。田村太郎さんの呼びかけで、NPO法人多文化共生マネージャー全国協議会(NPOタブマネ)の有志のメンバーが集まったのでした。地震発生直後、NPOタブマネは、外国人被災者らの支援に取り組むべく、JIAMの協力を得て、同研修所内に「東北地方太平洋沖地震多言語支援センター」を設置しました。

「今この時に被災外国人の支援をやらずして、今後も多文化共生に取り組めるか?難しいことだけど、日頃から取り組んでいる俺達だからこそできるんだ。」
田村さんの強烈な言葉でした。

 その後、田村さんが東京で支援活動に当たることになり、多言語支援センターのセンター長になった土井さん。ただただ必死でした。51日間、JIAMに泊まり込んで多言語支援センターを動かし続けました。土井さん達の奮闘記録は、「東北地方太平洋沖地震多言語支援センター」活動報告書(←リンク https://blog.canpan.info/tabumane/archive/59 )をぜひお読みください。

 この51日間は、確実に土井さんの中で人生のターニングポイントになりました。
いつも、「田村さんだったら、どうするんだろう」そう考えていました。多文化共生に携わっている人にとっては、それだけ「田村太郎」という人は大きい存在なのです。
「田村さん、すみません。田村さんだったら、もっとできることがあったろうに…」

 でも、土井さんはせいいっぱいやったのです。他の多文化共生マネージャー達と一緒にそれこそ死力を尽くした51日間だったといっても過言ではないでしょう。そして、田村さんが復興庁の上席政策調査官の仕事で忙しくなった今、多文化共生を引っ張っていくのは、土井さんたち、若い人達に世代交代もしていかなくてはいけない。それは、確かにとても重荷には違いありません。でも、土井さんは言います。
「追いつこうとしても、どんどん先に進んで離れていってしまう人がいてくれるのはとてもありがたい」のだと・・・。

 土井さんは思います。第一世代は田村さんのようなカリスマであっていい、いやカリスマじゃないとここまで多文化共生は広まらなかったと思う。けれど、自分たち第二世代は「あの人がいるからあの団体がある」というのじゃダメ。そういうカリスマ的な人がいなくても、みんなで多文化共生に取り組み、広めていけるようにしたいと思っています。

 今まで多文化共生に関するたくさんの事例を見てきて、「事例はもういい。大事だけど、それを取り上げて紹介するだけじゃダメだ」と思っている土井さん。これからは特定の地域での事例を、地域を超えて共通の制度や当たり前のものに変えていきたい。多言語支援センターに携わって、災害時に多言語で情報入手や相談ができる状態をすべての地域にとって当たり前のことにしていきたいと思った。地域の日本語教育にしても、災害時対応にしてもそう。とにかく、それらがスタンダードになる仕組み作りをしていきたい、と土井さん。
その情熱があれば、きっと大丈夫。あなたならできる!と信じています。そのための仲間は、私も含め(これはあんまり頼りにならんけど)たくさんたくさんいますもの!

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日本語教育国際研究大会名古屋2012の土曜つながる広場で開催される「多文化映画祭」のプログラムです。
18日はみなさんぜひ名古屋へ!
もちろん私も行きます(^^)
今日の人52.土井佳彦さん パート.1 [2012年08月14日(Tue)]
 今日の人は、NPO法人「多文化共生リソースセンター東海」代表理事の土井佳彦さんです。
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多文化リソースセンター東海は、多文化共生社会づくりに役立つリソースの収集・整理・発信を通じて、東海地域の社会発展に貢献することを目的に2008年に設立されました。多文化共生理解促進事業をはじめ、外国人住民の社会参画促進事業、多文化共生関連の研修企画・運営及び講師派遣事業など、多文化共生社会に向けた活動に幅広く取り組んでいらっしゃいます。

 土井さんは広島生まれ、18歳まで広島で過ごしました。広島といえば、広島東洋カープ。でも、土井さんはカープのファンクラブに入りながらも、実は巨人ファンで、巨人戦の時だけ、球場に足を運んでいたのでした。特に好きだった選手は緒方耕一選手と川相昌弘選手。緒方選手、かっこよかったですよね〜。

ご自身も小学校の時はソフトボール、中学では野球をやっていました。高校では新しいスポーツにチャレンジしようとバスケットボール部に入ります。
バスケット自体はとても楽しかったのですが、顧問の先生とそりが合わず高2の春に辞めてしまい、人生初めての「帰宅部」生活が始まります。

 その頃、土井さんのクラスに広島大学の学生が実習生として国語を教えにきていました。彼の授業はいつも半分は脱線して、自分がバックパッカーで周った世界一人旅の話でした。でも、土井さんはその話が大好きでした。アラスカ空港のうどん屋さんの話、タイで船頭にナイフを突きつけられて大河を泳いで逃げた話・・・。いつか自分もそんな旅がしてみたいと思いました。そして、その先生が貸してくれた沢木耕太郎の「深夜特急」新潮文庫版の全6巻。面白くてワクワクしながら読みました。「世界遺産」という番組も大好きで、日本では常識だと思っていることが、世界では常識ではない、そのことにすごく心惹かれるものを感じました。

 そしてついに、土井少年は一人旅を決意します。今いる場所から一番離れたところに行こう!夏休みに入ってまもなく、時刻表も読めなかった土井少年は、青春18きっぷを握りしめて、なんのあてもないまま西行きの電車に乗ったのでした。そして、なんとか鹿児島まで辿り着き、そこからフェリーに乗って25時間、沖縄本島につきました。思っていたより「都会」だった沖縄に違和感を覚えた土井少年は、フェリーを乗り継ぐこと13時間、石垣島に辿りついたのでした。そこで拠点となる民宿を確保し、あちこちと島巡りをはじめました。
 石垣島、西表島、由布島、竹富島を回り、たくさんの地元民や旅行客、バックパッカーのお兄さん・お姉さんたちと語り合った10日間は、それからの土井さんの生き方に大きな影響を与えたそうです。旅行から帰った土井さんは、初めて大学進学のことについても考え始めました。「これから僕がやっていくことはなんだろう。僕は知らない世界をもっと知りたい。僕は外国に行こう。外国に行くにはどうしたらいいか…」

 その頃、ちょうど、「ドク」というドラマをやっていました。私はその時もう日本語教師でしたので、よく覚えているのですが、香取慎吾が日本語学校で学ぶ外国人学生役、安田成美が日本語教師役のドラマでした。土井さんはドクを見て日本語教師という職業を知り、「日本語教師になったら世界各国を転々としながら生活できるんじゃないか」と思って夢の実現に向けて歩き始めます。こうして、大学で日本語教育を学ぶことに決めたのでした。

 大学生になり、いろいろなアルバイトも経験しましたが、就職活動はしなかった土井さん。しかし、まるでそんな土井さんを待っていたかのように、ひょこんと留学生別科に講師の空きができます。「まぁ、とりあえず申し込んでみるか」と軽いノリで申しこんで、その後土井さんはオーストラリアへ語学留学に行っている友人のもとへ遊びに行きます。そこで大学の日本語教育の授業を見せてもらいました。そして、小学校2年生の子どもたちの日本語の授業を見て、とても感動します。「ああ、子どもたちがいきいきと勉強している時って、こんなにいい表情をしているんだ!やっぱり日本語教育って素敵だ!」そう感じて日本に戻ってきたのは、実に大学の卒業式の2日前のことでした。そして、その時、ちょうど家のポストに大学からの採用通知が届いていたのでした。

 こうして留学生別科で読解と聴解の授業を受け持つことになったものの、教授法が全く身についておらず、ろくに教えられないことに気付きます。これではいけないと、先輩教師に紹介してもらった地域の日本語ボランティア教室に通うことになりました。ボランティア教室とは言っても、ここで教えている人はほとんどがプロの先生で、教授スタイルも日本語学校と同じような形式だったので、ここなら「ちゃんとした教え方」が身につくと思ったのです。
 
 ある時、ALTの学習者に授業をしていると、「これは何と言いますか?」と「黒板消し」のことを指します。ALTだから教室で子どもたちに授業をする時に、毎日使っているだろうに、「黒板消し」を知らないなんて!・・・でも、確かにそんな単語は、日本語の教科書には出てきません。ああ、そうだな。必要な語彙は人によって違うんだ。一見当たり前だけど、すごく大事なことに、その時土井さんは気付いたのでした。

 日本語教育の世界で食べていくためには、学士では心もとない、修士だけはとっておけ、と周囲から強く薦められたこともあって、土井さんは大学院に通うことにします。当時、考え方に興味を持っていた細川英雄先生のいらっしゃる早稲田に行こうか、教育ファシリテーションのコースがある南山に行くかで迷いましたが、授業見学をして感銘を受けた南山を選びました。この選択も、のちの土井さんの進む方向を決めた選択だったといえるでしょう。

 大学院の学費を稼ぐため、半年間、トヨタ自動車で期間工として働いた土井さん。その間、ボランティアで地域の農家にお嫁に来た外国人女性に日本語を教えていました。奥さんたちは、日本語が上手になりたいと市販の教科書を持って教室に来ますが、実際には「今日は暑いで、はよ帰ろうや」など、その地域の方言を使っていました。でも、それを直す必要があるのか?彼女たちに必要なのは、まさにこの地域の日本語なのであって、教科書通りの日本語ではない。そういう生活日本語について考えさせられました。

 その後、縁があって豊田市の保見団地の日本語教室に参加するようになります。保見団地は、住民の半数近くが外国人住民という外国人集住団地です。そこで、日本語教育というよりは、外国人が地域住民と交流しながら生活に必要な日本語を身につけていく現場を目にします。ボランティアが教科書にそって日本語を教えている、というのではなく、みんなでおしゃべりしながらわからないことを聞きあっているイメージ。でも、みんな日本語を覚えていくのです。コミュニケーションしながら日本語を習得していく、きっと自分がやりたかったのは、こういうことなんだ。土井さんは大学院に通いながら、保見団地にも毎週通うようになりました。

パート.2に続きます。

次項有お知らせ
今週末(8月17日~20日)日本語教育国際研究大会2012が名古屋で開催されます。
その中の「土曜つながる広場」では土井さんたちが企画した「多文化映画祭」を開催。
「だれもが暮らしやすい社会の実現」「多様な人々がたがいにつながりを持って生きていける社会」は,みんなの願い。
でも,どうしたらそんな社会になるのでしょうか? 「移民」「難民」「ろう者」の生活から現在の日本社会の「多様性」を映し出した3作品には,そのヒントがいっぱい。
全作品入場無料,上映後に監督のトークショーもあります。
みなさん、18日はぜひ名古屋大学東山キャンパスへ!
http://www.nkg.or.jp/icjle2012/events2.html

今日の人48.藤分治紀さん [2012年07月24日(Tue)]
 今日の人は、(財)かながわ国際交流財団の藤分治紀さんです。
藤分さんは多文化共生マネージャーの同期。とっても的確に物事の本質をつかまれる方で、且つとってもお茶目なところもある素敵な方です。
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 藤分さんは鹿児島生まれ。中学高校ではバレー部で汗を流し、ベースもやっていました。昔からひとつのことに深くはのめり込まない性格だったので、バレーをしつつベースも、というのがちょうどいい感じでした。
 大学は鹿児島を遠く離れ、山梨県に。教育学を専攻した藤分さん。卒業後は鹿児島に戻って、4年間小学校教員をしていました。
 
 その後、飲食店勤務を経て上京し、明治学院大学で科目履修生として石坂健治さんの授業をとったことで、アジアに目が向くようになります。アジア映画史が専門の石坂先生の授業で、今まで見たことがなかったタイ、フィリピン、韓国などの映画を見て、初めて“多文化”というものを感じるようになりました。そしてほぼ同時期に映画館でアルバイトをします。そこでは北朝鮮、中央アジアなどの映画が上映されました。そしてますます、アジアの国々に惹かれていきました。
 
 そんな時にかながわ国際交流財団でアルバイトを募集していたので、応募したところ採用されます。その後、正式採用され、それから10年、多文化共生の世界に携わって来ました。
 
 藤分さんにとって、多文化共生の入り口はアジアの映画、そして、飲みに行った先で声をかけて、いろんな国の友だちを作ること。「どうやったら、外国人の人と友だちになれるの?」と相談されることがありますが、いちばんいいのは一緒にお酒を飲むことだと、思っています。神奈川には161カ国の人々が住んでいるので、いながらにして多文化を感じることができるのです。

 仕事では今、外国人コミュニティ調査に取り組んでいます。 調査をする上で大事なのは、現場で直接声を聞くことだ、と藤分さんは言います。直接話して見えてくるものは多い。現場に行かないと見えないもの、聞こえないもの、それをちゃんと拾っていきたい。効率的にやることを考えるのはもちろん重要だけど、効率性から見落とされるものに目を向けることを忘れずにやっていきたい。
 今後は、コミュニティリーダーに声をかけて、情報交換や発信の支援をしていきたいと思っています。そしてコミュニティ間の連携をサポートするウェブサイトを運営したいそうです。
 
 大きなやりがいを今の仕事に感じている藤分さん。それは、この仕事は現状を変えていける仕事だと思うからです。多少なりとも社会に働きかけていくことで、社会が変わっていく可能性がある仕事。それが、多文化共生に関わる仕事です。

 藤分さんは言います。どんなことでも当たり前を疑う、ということが大切だ、と。私たちは思い込みで動き過ぎているところがあるかもしれません。自分の常識が相手の常識だとは限らない。自分の価値観とはちがうから、とそこで拒絶してしまっては、新しいものは生まれない。それだとちっとも面白くないよね!
 そう、それが、ダイバーシティを考える上でも、一番大切な入り口だと私も思っています。

 新しいものを作っているときはとても楽しい。それはとてもクリエイティブな作業だから、とおっしゃる藤分さん。
時間がとれたら、南の島のビーチで一日のんびり本を読んで過ごす、というのが今の夢です。それ、いいですね~。多文化共生マネージャー14期の同窓会は南の島?

 これからも、クールにそして熱く、クリエイティブな仕事に取り組んでいってくださいね!私もずっと応援しています!
今日の人46.時 光さん [2012年07月14日(Sat)]
 今日の人は(特活)多文化共生マネージャー全国協議会(NPOタブマネ)事務局長の時 光さんです。
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 時さんは中国遼寧省撫順市生まれ。子どもの頃は川で遊んだり、山でキノコ採りをしたり、ぶどう畑でぶどうをもいで食べたり、とにかく自然いっぱいの中で育ちました。小学校の時からとても活発で、男の子とサッカーをして過ごす一方、スピーチコンテストで表彰されるなど、ずっと学級代表としてクラスを引っ張っていました。
 
 中学2年生からはずっと寮生活。中学も勉強が厳しかったのですが、高校に行くと、輪をかけて厳しくなり、ひたすら勉強させられる威圧的な雰囲気に、プレッシャーから頭痛になることもしばしばでした。ちょっと日本の高校からは考えにくいのですが、学校の自習室は朝6時から開くので、5時に起きなければなりません。冬は−30度にもなる、そんな厳しい環境で朝の6時から勉強する生活が3年間続きました。そして夜は寮が9時半に消灯になるのですが、ふとんの中で懐中電灯で照らしながら勉強を続けていた同級生もいました。日曜の午後しか休みがなく、ずっと勉強ばかり、という毎日に多分心身ともに疲れ果てたのでしょう。神経痛になってしまいます。
 高校の寮は家からすごく離れた場所にあったのですが、お父さんは毎週来て病院まで連れていってくれました。それまで、父の愛をあまり感じたことはありませんでしたが、自分のことをこんなにも想ってくれているのだと実感しました。今も雪の中で一緒に病院に行ってくれた時の父の背中を鮮明に覚えています。それが素直にとても嬉しかったのでした。
 そんな過酷な高校生活でしたが、楽しかったこともありました。冬になると、先生が校庭に特設のスケートリンクを作ってくれました。(マイナス30度の世界ですから、水をまいておけば、あっという間にリンクの完成です)友達と滑っていた時間は、本当に楽しかった。でも、ちょっとおしゃれをするだけでも白い目で見られるようなそんな高校でしたから、全体的にはとてもつらかった。
 
 そんな勉強漬けの毎日から逃避したい、という思いが強くなり、時さんは高校卒業後、日本に来るという道を選びました。おばさんが日本にいらしたこともあって日本に興味がありました。でも、自分の中の日本人のイメージは、みんな袴をはいておにぎりを食べている、そんな印象でした。(すごいイメージだなぁ)
 
 まず大阪の日本語学校で1年間日本語を勉強してから、和歌山大学に入学しました。
そして大学時代、初めて日本人の彼ができました。ガールズトークで「日本人の彼ができると日本語がうまくなるよ」って言われていたけど、「実践によると(笑)、不思議とならなかったんです」と時さん。いいえ、自分で気づいてなくても、日本語のニュアンス的なものはきっとその時かなりうまくなったと思いますよ!(これでも私、日本語教師歴21年です^_^;)
 
 留学生を支援している団体の活動(例えば和歌山らしい八朔狩り等)に参加したりはしましたが、大学生活全般を通してみると、そこまで日本人の友だちは作れませんでした。どうしても日本人学生とうまく溶け込めず、自分で殻を作ってしまうということを自分自身が感じていましたが、どうにもできませんでした。そうして日本社会に警戒心を持っていたので、心の休まる暇がありませんでした。
  
 卒業後は和歌山県国際交流協会嘱託職員として働き始めます。そして、多文化共生マネージャーの研修を受け、2007年7月の新潟中越沖地震の際は現地に赴いて、柏崎災害時多言語支援センターで通訳・翻訳・避難所巡回ボランティアとして、外国人住民の支援活動に携わったのでした。こうして、2009年の4月からはJIAM全国市長村国際文化研修所で多文化共生コーディネーターとして採用されます。
 
 この頃から、ようやく時さんは自分自身のことについて考える余裕が持てるようになりました。そうして、日本人に対して、自分が殻に閉じこもってしまうのではなく、自分から心を開いて話しかけるようにしようと思いました。すると、今まで冷たいと思っていた人が実はそうではなかったということに気づきます。自分から心を開けば、相手もよい反応を示してくれる、ということを実感しました。自転車のこぎ方がわかれば、どんどんうまくなるのと一緒で、人も心を開けば、どんどん信頼できる仲間が増えていくのだ、と気づいたのでした。
  
 こうして時さんは多文化共生コーディネーターとして全国各地を飛び回るようになり、東日本大震災の時も多言語支援センターの立ち上げ、被災地での支援に関わるなど、大車輪の働きをしたのです。
 
 そして、今年の4月から、多文化共生マネージャー全国協議会の事務局長に就任し、大阪十三の商店街の中にあるコワーキングスペースで忙しく働いています。十三は昔ながらの商店街。いろんな文化が入り混ざっていて多文化共生を地で行っている街です。そんな街で、時さんは今日も多文化共生社会の形成のために走り回っています。時さんが書いているNPOタブマネのブログもあります。それはこちらをどうぞ⇒https://blog.canpan.info/tabumane/
 
 そんな忙しい時さんが落ち着くのは、家庭菜園をしている時間。きゅうり、ゴーヤ、レタス、コリアンダー等、いろいろ育てて楽しんでいます。
 「今は一人暮らしだから、誰か一緒に住んでくれないかなぁ。」と時さん。
 いつか心が通い合う家族を作って楽しく暮らしたいというのが一つ目の夢。
 もうひとつの夢は、ハンディを持っている人を含めて、自信を持って生きていける世の中にしていくこと。 
 その夢、ダイバーシティとやまの夢と重なります。
 これからもその優しい笑顔で、時ちゃんファンをたくさん作って、多文化共生をどんどん全国に広げていってくださいね!
 
今日の人45.尹成化さん [2012年07月12日(Thu)]
 今日の人は、韓国出身、広島の市民活動グループええじゃん(Asian)でご活躍、多文化共生マネージャー同期の尹成化(ユンソンファ)さんです。
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 尹さんは韓国ソウルで生まれ育ちました。お母さんはお嬢様だったのですが、仲人に騙され、貧しかったお父さんと格差婚をしてしまします。韓国では結納の時、女性側から男性側に贈り物をするそうですが(日本と反対ですね)、お母さんの実家ががお父さんに贈ったのは、ロレックスの時計だったそうです。価値観のちがいから二人がケンカすることもありましたが、娘に対する愛情はどちらもたっぶりでした。
 
 本が大好きな少女だった尹さん。カトリックの教えに感動し、一人で入信してカトリック信者となります。幼いころから信仰の自由を求めていたなんて、さすがの行動力。その後、弟さん、お母さんも入信させました。
 そして、中学生の頃からはボランティア活動にも参加していました。1993年に家族法が成立する前の韓国は、戸籍に乗らない孤児がたくさんいました。そんな孤児の世話をするボランティアや、結核の患者やハンセン病の患者の世話をするボランティア等に積極的に取り組んでいました。
 
 高校は韓国で一番だと言われる女子高。卒業後は保安官の仕事をしていたのですが、社会に矛盾を感じて、シスターになろうと決意。1年で仕事を辞めて、修道院に入り見習いシスターになります。
 しかし、とっても自己主張の強かった尹さん。先輩シスターとの意見衝突も多く、「マリアはね、こんな性格だから、結婚して子どもを生んだらきっと幸せに暮らせるわよ」とさりげなく引導を渡されます。

 でも、マザー・マリア・ユンでいく!と決めたのに、簡単に家に帰るのはプライドが許しませんでした。そんな時に新聞で留学の斡旋会社の広告を目にします。そこには、広島ならビザがすぐに降りると書かれていました。思い立ったらすぐ行動する尹さん。荷物をまとめて修道院から飛行場へ直行。そして日本に旅立ちました。後になって、お母さんが引き止めに空港まで来たことを知りましたが、もう飛行機に乗った後だったのでした。

 こうして「おはよう」さえ知らず、辞書さえ持たずに来日した尹さん。最初の1年間は日本語学校で学び、その後、広島修道大学に入ります。そして日本語学校時代に知り合った韓国の男性と大学1年の、1992年2月結婚。その1年後妊娠も判明しました。二人とも学生で仕送りもなく、どうやって育てていくんだろうと、不安でいっぱいでした。でも、この子を生まなきゃという一念で妊娠期間を乗り越えます。お金がないので、あまり検診にも行かずに臨月を迎えました。そして1993年の11月、とても元気な女の子が生まれて、心底嬉しかった。
 
 ベビー用品は、自分たちは子供服を少ししか買えなかったのですが、支援してくださる方から、たくさんのベビー服や子供用品をもらい、またいろいろと世話してもらいました。今まで、ずっと支援する側だった尹さんが支援される立場に立った。このことは、後々尹さんの活動にとても大きな影響を与えたといってもいいでしょう。両方の気持ちがわかる、それはとても大事な視点です。

 子どもを産んですぐに大学に復帰しようと考えていた尹さんに、教授はこう言いました。
 「子どもを産んですぐに来なくたっていいから」
 でも、行かないわけにはいかなかったのです。単位をとらないと奨学金ももらえない。それは苦しい生活を続けている尹さんにとってとても大事なことだったのですが、教授にはそこがわかってもらえませんでした。でも、ここで引き下がらないのが、尹さんのすばらしいところです。先生方を説得して、子連れでも授業に通えることになりました。赤ちゃんの時はかごに入れて冷たいセメント床に子どもを寝かせ授業に参加した事もありました。また、子どもが歩けるようになってからは授業中、教室の外の廊下で子どもが尹さんを待っていたこともありました。とにかく頑張り抜きました。

 そんな尹さんのモチベーションを支えていたのは自分自身との“約束”でした。親に対して恥ずかしくない娘でいなければ。そして、日本に来たからには、ちゃんと何かを成さなければ。「そう、私は尹成化、名前の通り、何かを成す人間になる!」それは自分に対して誓ったことでした。

 こうして授業とアルバイトと子育てとに追われた学生生活を乗り越え、なんとか卒業証書を手にしました。その後一年はご主人の就職に伴って、福山で過ごしますが、夫婦して勉強好きなんでしょう、一年後には、二人共別々ですが大学院に通うことになりました。

 尹さんが通ったのは広島大学の大学院。修論のテーマは「広島県下の留学生の配偶者と子どもの人格形成についての研究」尹さんがどんな論文を書かれたのか、機会があったら読んでみたいですね。
 大学院での学生生活の中で、日本人の学生とご飯を食べに行った時のこと、ある学生が公然と「僕は韓国人はきらいだ」と言い放ちました。それを聞いて尹さんは、「この人と仲良くなれば、ここに入った意味がある」と思いました。そうして、積極的にその人と過ごし、いろいろ話しをするようにしました。そのうちすっかり仲良くなって、彼は悩み事があったらまず尹さんに相談するまでになったそうです。

 こうして修士課程を終えた尹さんは主婦として二人の子どもを育てつつ、やはりいろいろなボランティア活動や韓国語講師等をしていました。そして、韓国語を教えていた生徒さんが「市民活動グループええじゃん(Asian)」を立ち上げられ、尹さんにもぜひ手伝ってほしいと声がかかります。ちょうど子育てが一段落したこともあり、その申し出を快諾し、それ以後、ええじゃんでの市民活動を中心にしながら、コミュニティFMでの多言語放送の中で韓国語のパーソナリティをしたり、よりそいホットラインで全国電話相談を受けたり、幅広く活躍してらっしゃいます。

 日本に来て20年。きっとつらいことしんどいことがいっぱいあったに違いありません。でも、尹さんは言います。「つらいとかしんどいとかは感じないようにしているの。私のモットーは“いいことも悪いことも通り過ぎる”だから」と言ってにっこり笑われるのでした。

 尹さんには夢が3つあります。
 ひとつは3食のうち、1食は誰かにおごる。これは、ご飯だけのことではなく、例えば相談に来た人に電話だけで対応するだけでなく、実際に窓口まで連れていってあげたりするなどして、自分が持っている何かを誰かと分ちあうこと。
 もう一つの夢は、自分の子以外に子どもが5人欲しい、ということ。実際に育てるというより、金銭的に援助をして、卒業するまでは面倒をみてあげたいと思っています。シングルマザーの子どもたちに接するときは、韓国のオンマになったつもりでわが子と思って接するなど、そういう支援も含めてわが子以外に5人の子どもを持つこと。
 そして、3つ目の夢は、経済的に独立していること。自分がやりたいことは自分の力で成し遂げたい。女だもん…を絶対理由にしたくない。
 だから、ご主人にはとても感謝しています。尹さんは自分の稼いだ分は、社会のため、自分のために使っています。でも、ご主人は尹さんの生き方を応援してくれています。
 
 尹さんは言います。子はかすがいというけれど、私はそうは思わない。やはり、夫婦に愛があればこそ。結婚して20年経つけど、まだ夫とたくさん話したい。そして、仕事を引退したら、夫と二人で世界一周旅行をして、二人でゆっくり過ごしたい。今は家族と一緒だから無理だけど、夫を一人占めしていっぱい話したいの、ととても幸せそうにお話になる尹さんなのでした。
…ということは全然ケンカしないんですか?と聞いたところ、「とんでもない。しょっちゅうしてるわよ。ケンカするときは値段が高くないもの、壊れてもいいものを投げるの!」と尹さん。
ケンカする時は全部吐き出すことが大事。溜め込んだらダメなの!…溜め込んじゃう私には耳の痛いお言葉でした。
 
 これからも、その明るさとバイタリティで、広島をもっともっと元気に、そして多文化共生にあふれた街にしていってください。
 いつか尹さんと一緒に広島で広島風お好み焼を食べたり、カープの応援をしたりするのを楽しみにして、私も富山でがんばります。
今日の人41.ファリアス ビルマル デ ソウザさん [2012年06月14日(Thu)]
 今日の人は、高岡市戸出で富山県産牛乳を100%使用したチーズ
とやまチーズを手作りで生産販売されているファリアス ビルマル デ ソウザさんです。何を隠そう、とやまチーズはブラジルチーズなのです。
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 ビルさんがブラジルの首都ブラジリアから来日したのは19年前、1993年のことでした。ブラジルでは銀行員だったビルさん。日本で働かないかと声をかけられ、日本に来て、一番最初に派遣されたのは、材木業の仕事でした。その後は、食品会社、下水管工事、溶接など、いろいろな仕事を経験します。最初日本語は全然できなかったので言葉では苦労しましたが、それ以外にはそんなにつらいと感じることはありませんでした。むしろ、ビルさんには、富山の自然の美しさ、街の美しさ、人々の生き方、全てが新鮮でした。
 
 ビルさんはブラジルでチーズ作りを勉強したことがあり、日本でも最初は家族のために作っていたそうです。しかし、次第にこのチーズが評判を呼び、ぜひ売ってくれと声がかかるようになります。
 ビルさんはブラジルチーズの美味しさをみんなに伝えたい、そう思うようになりました。しかし、チーズを製造販売するためには食品衛生法の営業許可証が必要になります。
高岡市の保健所の担当の方も最初は「前例がない」と渋っていましたが、ビルさんの熱意に、反対に応援してくれるようになりました。
  
 そしてとうとう、チーズ作りでは高岡市で第一号の食品衛生法営業許可証を取得したのです。保健所の人が一生懸命になってくれたのが本当にうれしかったとビルさん。
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 2003年からビルさんのチーズ販売はスタートしました。
 それから、100%手作りでチーズ作りに専念する日々が続きました。
 ビルさんのチーズは評判を呼び、順調に売れ行きを伸ばしていました。
 
 しかし、リーマンショックが起き、状況は一変します。チーズが売れなくなりました。そこで、日本語の得意な友人の木口エルメス実さんが力を貸し、スーパー等での販売に力を入れるようになりました。今は県内ではフレッシュ佐竹道の駅高岡富山市そよかぜ農産物直売所、リカーショップことぶきや等でとやまチーズを販売しています。他にもネット販売も行っています。

 今もまだ順調とは言えませんが、ビルさんは決して下を向いたりはしません。とにかくチーズ作りが大好き!とおっしゃるビルさん。ビルさんの作ったチーズで笑顔になる人が一人でも増えてほしいと、今日も丹精込めてチーズを作っています。

 モーモーちゃん号での移動販売も開始しました。県内外の物産展などでも販売していますし、先日はブラジル大使館前でも販売してきました。
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 そして、土日に東京青山の国連大学前で開かれるファーマーズマーケットにも毎回出店することになりました。金曜日に作ったフレッシュなチーズを土曜日には東京でのファーマーズマーケットに並べる。ほとんど寝ずに毎週東京に行くことになるので、それは本当に大変な作業だと思うのですが、ビルさんは食べる人に少しでも新鮮なものを食べてほしいので、それは少しも苦痛じゃないと、とってもキュートな笑顔でおっしゃるのです。
 
 実は、私も来週の月曜に県外へ行くためのお土産にビルさんのチーズを買いたいと思って「今日買いたいのですが」と言ったところ、「明日新しいのを作るから、そっちを持っていってね」とおっしゃるのです。今、残っているものを少しでもさばきたい、ではなく、少しでもいいものをみんなに食べさせてあげたい、そんな想いがひしひしと伝わってきて、胸が熱くなりました。
  
 ビルさんのチーズはどれも美味しいのですが、特にフレッシュチーズを焼きチーズにすると絶品です!
 まだ召し上がったことのない方はぜひ、やってみてください。油を引かずに、ホットプレートやフライパンでこんがりと両面焼いて出来上がり。ただし、火加減はご注意を。きっと食べたことのない食感に病みつきになること間違いなしです。
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 19年前に来日したばかりの時は、お金を稼いだらブラジルに戻るつもりでいました。でも、富山に住み、富山が大好きになりました。もう、ここを離れるつもりはありません。こんなに自然豊かで素敵な街はない。確かに首都圏から少し遠いのはネックかもしれないけど、それに代えられない豊かさが富山にはある。だから富山の若者には、富山に残って富山で夢を叶えてほしいと思っています。
  
 そんなビルさん自身の夢は、とやまチーズの大きな工場を作って、富山の産業として育てること。そうすれば、富山の酪農家も元気にすることができる。富山の若者や外国籍の若者にも働く場を提供することができる。そして、チーズ作りも広めて、後継者も育てていきたい。自分は富山の人の支えで、とやまチーズを作ることができたから、富山に少しでも貢献していきたい、それがビルさんの夢です。

 本当に熱くて愛情に溢れたビルさん。
「富山の人はもっと富山に誇りを持って!こんなに素敵なところはないよ!」
 ビルさんの言葉、富山のたくさんの若者に、とやまチーズの美味しさと共に届けたいと思いました。

 これからもビルさんは手作りでチーズを作り続けます。
みなさんどこかでモーモーちゃん号を見かけたらビルさんに声をかけてくださいね。とってもフレンドリーなビルさん。きっとすぐに仲良くなれますよ。
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