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今日の人189.市山貴章さん [2019年08月13日(Tue)]
 今日の人は俳優として、また俳優養成所の教官としてご活躍中の市山貴章さんです。
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市山さんは、1950年に高岡で生まれ育ちました。小さい時は、富山弁で言う「しょわしない」子でした。いつも田んぼや公園で走り回っていましたが、授業中はとにかくボーっとしていたので、小3の時の先生には普通級に置いておけないと言われたくらいでした。
 でも、集中力は人一倍。そして、小さい頃から絵を描くのは大好きでした。
中学の時は、絵のコンテストで金、銀、銅の全てを制覇したので、高校の美術の先生から君が来るのを楽しみにしていると言われていたほどです。市山さんにはお兄さんがいるのですが、お兄さんも抜群に絵のうまい人で、小学2年の時に描いた絵を「親が子どもの絵を描かないでください」と注意されたくらいです。今もお兄さんは絵を描き、それをブログにも綴っていらっしゃるので、ぜひご覧ください。→昭和の子供たち・やよい町15番地
市山さんはこのお兄さんから受けた影響もとても大きかったのです。

中学の時は、シェイクスピア全集を読破してしまうくらい、シェイクスピアにもハマっていました。また宗教本も好きで、宗教に関する本も読みこんでいました。俳優にならなかったら、宗教家になっていたかもしれない市山さんなのでした。

高岡工芸高校に進み、美術を勉強していた市山さん。絵画だけではなく、彫刻、写真もやっていました。写真は高校生のコンクールで入賞していましたし、お兄さんにはお前は写真家になれと言われていたくらいの腕前でした。今も写真は大好きでよく撮ります。また三島や太宰、そして外国文学を読みふけっていたのもこの時期でした。中学も高校も美術部の部長でした。とってもイケメンでいらっしゃるので、さぞかしモテモテだったんだろうなぁと思います。

卒業後は富山でデザイナーの仕事をしていました。高岡にあったアマチュアの演劇集団に加入したりもしていました。
そんな時に起こった事件が、三島由紀夫の割腹自殺です。市山さんは思いました。ああ、自分は田舎で安穏と暮らしていてはだめだ!
こうして、市山さんは何の当てもないまま上京したのです。

東京で入った会社でもデザイナーをしましたが、社長に「お前はサラリーマンに向いていないな。フーテンになれ」と言われ、2ヶ月でその会社も辞めてしまいます。そして新宿駅の西口に座って手作りのものを売ると一時間で3000円分も売れてしまいました。当時は、喫茶店でアルバイトして、一日分のバイト代が800円ほどの時代です。それが一時間に3000円もうけちゃうんですから、社長が言っていたフーテンになれというのは、まんざら間違いではなかったようです。でも、市山さんは、フーテンにはなりませんでした。一日で嫌気がさしてしまったのです。

市山さんはお茶の水にあったレモンという喫茶店でバイトを始めます。ガロの曲のモデルになった喫茶店でもありました。喫茶店のバイトだけではなく、とにかくいろいろなバイトをやりました。高層ビルの窓ふき、解体屋、ガソリンスタンド、いろいろな肉体労働もやりました。

そんなある日、電車の中で眉のない女と目が合った市山さん。なぜか見つめ合いにらみ合いになったその女性は、天井桟敷の女優でした。
「自主映画をやるけど、一緒にやらない?」市山さんは誘われます。
「真っ裸になるけど、いい?」
「いいよ」
そうして、市山さんは東京で演劇を始めました。
彼女とは恋人になったわけでもなんでもなかったのですが、無理して生きている感じがして、市山さんは彼女に「結婚すればいい」という言葉を投げかけ、彼女は「あんたは俳優になればいい」と言いました。お互いに何気なく言ったその言葉が、それぞれの人生に大きく影響していったのでした。

その後、市山さんはある劇団に入ったのですが、「バカ、頭悪い、下手くそ」としか言われませんでした。もうやめよう、そう思って受けたオーディションに受かった市山さん、その後はおもしろいようにオーディションに受かりまくります。NHKの少年ドラマシリーズ「幕末未来人」では沖田総司役をやり、段ボールいっぱいにファンレターが届きました。
朝ドラの風見鶏でもレギュラーに。この頃は、ファンの女の子がアパートを見つけだして待ち伏せされたり、なかなか大変でした。
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でも、売れていた絶頂の時に、市山さんは俳優に専念するのをやめ、新宿のアパレルショップでアルバイトを始めました。そこの社長に「売れたのにもったいない」と言われましたが、市山さんにはそこまでテレビの売れっ子に執着はなかったのです。もちろん、俳優を完全に辞めてしまったわけではなく、何か役がある時は真剣にこなしていました。
市山さんは、中森明菜のデビュー曲「スローモーション」のPVにも彼氏役で出演していらっしゃいます。貴重な画像がこちら→https://youtu.be/0NEakkQ_wbA

市山さんが俳優という仕事を本当に面白いと心から思ったのは50を過ぎてからです。そうして最近は、ジジイに変化していくのもいいもんだと思うようになりました。
今、市山さんは日本各地の俳優養成講座で俳優の卵たちに演じることについて教えています。最初、教えることに乗り気ではなかったのですが、俳優になりたがっていた子が19歳で交通事故で亡くなってしまい、本人がやりたいと言っていることはやらせてあげるべきではなかったか、と後悔したのです。その後、自分のしていることで伝えられることがあったらやるべきだ、と思うようになり、今、全国を飛び回っているのでした。
教えるのはとても楽しいけれど、大変な作業でもあります。けれど、自分の考えたことを全力で伝えらえることができる、そんな時間が好きだから、これからも伝え続けたい、そう思っています。
市山さんは、生きているものの全てがやるのが演劇だと思っています。そんな気持ちで毎日を送るとちがう視点が見えてきそうです。市山さんは言います。あなたのための人生は、あなたが主役だよ。だから、生きている間にできることをたくさんしなさい、と。今はネットの世界に閉じこもって、リアルを疎かにしている若者が多すぎる。それじゃあ、演劇にはならない。生きている、今の時間を楽しんでほしい。だから、ちゃんとあなたを演じてほしい。生きることは演劇だとおっしゃる市山さんご出演のコマーシャルでとても心に残るものがあります。若い俳優では出せない、歩みを重ねてきた人が醸し出す味わい深いコマーシャルです。ぜひご覧ください。→https://youtu.be/RFStWK7vtnI

そんな市山さんが今やりたいことは広いキャンパスにその瞬間を描くこと。今の一瞬を書のような絵で描きたい。市山さんがこれからどんな絵を描いていかれるのか、楽しみにしています。


今日の人161.佐藤 剛(タケシィ)さん [2016年10月10日(Mon)]
 今日の人は、唄三線奏者として日本全国のみならず海外でもご活躍中のタケシィさんこと佐藤剛さんです。
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 タケシィさんは小田原で育ちました。小さい時は虫捕りや野球をして遊んでいましたが、カエルはなぜか苦手な少年でした。(実は今も苦手です。) 家の中ではトランプや人生ゲームをして遊んでいました。進んで先頭に立つタイプではありませんでしたが、まわりの子に注目はされたいなぁと思ってはいました。
 ロボットアニメやNHKの人形劇も好きでした。特に好きだった人形劇は新八犬伝です。当時流行っていたアメリカ横断ウルトラクイズのマネをして、友だちと一緒に「ニューヨークへ行きたいか~」と言ってクイズを出し合っていたのもいい思い出です。テッパンのサザエさんや意地悪ばあさんもよく見ていました。そしてタケシィさんは子どもの頃からなぜか目上の人に可愛がられる性分でした。今もそうですが、人懐っこい笑顔が周囲を和ませていたのだと思います。

 小学校の高学年の頃は、鉄道が好きな鉄ちゃんだったので、将来は車掌になりたいと思っていました。特に憧れていたのは、ブルートレインの車掌でした。学級委員はいつも引き受けていて、小学校では児童会長もやりました。

 中学ではひたすら勉強していました。ひたすらやったらトップクラスになり、そこから落ちないようにまたひたすら勉強するのでした。そんなタケシィさんの息抜きは音楽でした。聴いた音を耳コピーして弾けたので、当時はまっていたYMOをオルガンやシンセサイザーで弾いていました。自分でDJをしてラジオ番組を作って、それをカセットテープに吹き込んで友だちに回したりもしていました。

 こうして進学校の小田原高校に進んだタケシィさん。高校では鉄道研究会に入ります。駅名はほとんど全部わかったし、駅名を聞くと、距離感もわかるという相当な鉄道好きでした。それなのに、大人になってからタケシィさんは鉄道とは関係のない仕事に就き、鉄道に興味のなかったお兄さんがJRに就職したのですから、不思議なものです。

 この頃は鉄道研究会のみんなと野球をやったりもしていたし、音楽の幅はもっと広がって、フュージョン、ラテンフュージョンもいつも聞いていたし、洋楽にもはまりました。MTVやベストヒットUSAをずっと流しっぱなしにしていたし、基地向けの英語の放送も聴いていました。片思いの女の子もいました。といっても、恋に恋してる感じでした。

 最初、理系を選んでいたタケシィさん。でも理系科目の物理や化学が不得意科目で、英語、国語、社会が得意だったので、途中で文系にチェンジします。そうして、つぶしが利きそうな法学部を受験することに。途中で文系に変えたし、浪人も覚悟していたのですが、第一志望の中央大学の法学部に現役合格しました。

 法学部に入ったからには弁護士を目指そうかと、最初は意気込んでいたのですが、大学の授業を受けて、あ、無理だと思い、すぐにあきらめてしまいます。代わりに、大学時代に夢中になったのは、ギター・マンドリンクラブでの活動でした。家にギターがあったのを思い出し、軽い気持ちで入ったのですが、入ると体育会系の超ハードなクラブだったのです。春と秋の定期演奏会に加え、合同演奏会や部内発表会、合宿と、まるでクラブをしに大学に行っている感じさえしました。パート毎に合奏練習をし、夜中に個人練習をする毎日。時には徹夜で練習している時もありました。4年生の時には4年のギターパートが1人になってしまい、やめるなんてとてもできない状況に。そしてトップリーダーも任せられ、おまけにその年はなんと中央大学ギターマンドリンクラブ50周年という節目の年だったからさあ大変。50周年記念コンサートをOBも交えて東京、大阪、名古屋で開催することになったのです。おかげで4年になっても就活する暇など全くありませんでした。記念コンサートが終わった後は、感動というより脱力という言葉がぴったりでした。それほど力を使いはたしたタケシィさんなのでした。

 そして、4年の6月からようやく就職活動を始めます。その時、世の中は超売り手市場でした。タケシィさんは、ほとんど就職活動することなく、最初に受けた企業から内定をもらったのです。就職事情の厳しい今の学生から見ると、考えられないことかもしれませんね。内々定の日には、箱根のコテージにご招待されました。当時は、内定を出した学生がほかの所に行かないように、一流ホテルや豪華客船に缶詰にされるなんてこともあったのです。
結局、部活は11月まで続け、卒業に必要な単位を取った後で、卒業旅行にも出かけました。

卒業後、トステムに営業職として入ります。研修が終わって配属になったのは福島県の郡山でした。一人暮らしはこの時初めてだったので、知っている人が誰もいない、日曜に誰とも話さないで過ごす、そんなこともあり、親のありがたみをひしひしと感じました。

 2年目になって、少し仕事に余裕が出てくると、何かやろうと思えるようになりました。そうだ、自分は泳げないから泳げるようになろう、そう思ってプールに通うようになりました。すると、プール仲間が出来て、スキューバーダイビングにも誘われるように。たくさん仲間が出来て、一緒に猪苗代湖でキャンプをしたり、スノボにも行くようになりました。この時、スノボに ものすごくはまりました。まだスノボ人口は少ない頃だったので、本気でオリンピック選手を目指そうかしらと考えたほど のめりこみました。タケシィさんは、のめりこむと とことんな人なのです。週末遊ぶために、仕事もがんばれました。この時、キャンプで知り合った女性と結婚しました。なんと彼女は、同じビルの同じフロアで働いている人だったのです。なんだか運命の糸を感じて、2人は結婚したのです。

 こうして6年半の福島勤務を経て、東京に転勤に。でも、この頃になると仕事への情熱はなくなっていました。営業相手がエンドユーザーではないので、客の顔が見えにくいというのもあって、なんだかノルマのためだけに働いているような気になることもしばしばありました。けれど、嫁をもらった以上、仕事を辞めるわけにはいかない、そう思って働きました。この頃は旅行に行ったり、映画を見たりして余暇を過ごしていました。

 しかし、奥さんにどうしてもやりたいことが見つかって、2人は離婚。なんとか気持ちを奮い立たせようと、プールに行ったり山登りに行ったりしていました。

 その頃、朝ドラで「ちゅらさん」が人気になり、沖縄料理の店が流行っていました。そんな時に、夏川りみと古謝美佐子のジョイントコンサートがあって、見に行くことに。そのコンサートで、沖縄民謡も歌われました。舞台で正座で弾く生の三線の音に、タケシィさんは一気に心を持っていかれました。これをやりたい!そう思いました。すると、会社の子が、すぐ近くに三線教室がありますよ、と教えてくれました。
 その門を叩いて三線を習い始めたタケシィさん。三線の楽譜は、五線譜とは全然違う工工四という楽譜です。最初「なんだ、これは?」と思いましたが、好きになるととことんのめり込むタケシィさんの本領発揮です。あっという間に工工四の譜面を読めるようになり、弾くのが大好きになりました。もっともっとと練習しているうちにあれよあれよと上達し、先生のデモ演奏に一緒に行くようになりました。そして1年もたつと、人前に出て三線の演奏をするようになっていました。

 カウンターしかない音楽バーにも顔を出すようになって、そこで三線でジョイント演奏をすることもあり、仕事以外は三線にどっぷりという日々を過ごしていました。しかし、そのお店にもなじんできた頃に、名古屋への転勤が決まります。名古屋へ行く前に、お店に行くと、名古屋のお店を紹介してくれました。名古屋に行き、そのお店で素人ミュージシャンと仲良くなりました。けれど仕事は最悪でした。そして、名古屋に行って1年、とうとう仕事を辞めました。

 仕事を辞め、東京に戻ったタケシィさんは、昭島でアパートを借りました。そして、再就職したのですが、その会社がいわゆるブラック企業で、こちらは1年で辞めることに。辞める時に、1年続いた奴は珍しいと言われたほどでした。この時、タケシィさんは、40歳。

 いろいろ考える前に3か月遊ぼう、そう思いました。沖縄で過ごしたり、Liveに出させてもらったり、そうして過ごしているうちに、『音楽でやっていきたい』その思いがどんどん強くなって、ミュージックバーのママに相談しました。はじめは「絶対やめた方がいい」と強く反対されました。いや、こんなこともう出来ないから絶対やる!タケシィさんの強い思いを聞いて、ママは最後には応援すると言ってくれました。

 こうして唄三線奏者のタケシィが誕生しました。最初のうちはご祝儀的にお客さんが来てくれました。しかし、その年リーマンショックがあり、お客さんはガクッと減りました。
 でも、タケシィさんはもう迷いませんでした。この道でやっていくと決めたんだから、動揺することはするまい、そう思っていたのです。とにかく場数を踏みました。そしてステージをこなせばこなすだけ、たくさんの出会いが生まれていったのです。

 そんな出会いのひとつに富山の竹野佑都さんがいました。竹野さんに、富山でどこか演奏するところがあったら教えてほしいと言ったところ、氷見にある「紅茶のとびら」を紹介してくれました。こうして4年前に初めて富山でのLiveを行いました。紅茶のとびらで、金沢のお店も紹介してもらい、金沢ともつながりが出来ました。しゃみせん楽家の濱谷さんとも知り合って、おわら船で三線を弾いたりもしました。そしておわら風の盆の時期には、八尾で過ごす場所も出来ました。タケシィさんは本当に人とつながる才能がおありなのだと思います。どこに行っても、すうっと友達が出来るのです。

 今年の富山ではいろいろな所でLiveを行いました。日本全国でそうやってLiveが出来る日々が本当に楽しいとタケシィさん。サラリーマンをしていた時に比べると、手元に残るお金は少ないけれど、心はうんと豊かです。人との出会い、土地との出会い。日本のことでも、いかに知らないことが多いかというのを毎回思うのです。そして、この日本の文化を海外の人にも知らせなければ、と思うのです。そんなタケシィさんは、海外でもLiveをしています。この秋にはカンボジアでもLiveします。どんな出逢いが待っているか、とてもワクワクしています。

 芸の道に終わりなし。唄三線の道はまるで人生そのもののようだと感じています。もちろん、プレッシャーを感じることもありますが、でもそれをはるかに勝って楽しいのです。

 自分は沖縄の人と同じように伝えることはできない。けれど、沖縄の人とはちがう役割で伝えることができる。自分は沖縄の音楽の入り口的な役割を担って、それを人々に伝えていきたい、そう思っています。

 タケシィさんの周りでは、そんな生き方の影響を受けて、自分のやりたいことをやる人が増えています。唄三線奏者として歩き始めて9年目。本当に勢いだけで始めたと言ってもいいけれど、その前に20年間サラリーマンをやっていたからこそ、9年続けていられる自分がいるとも思うのです。

 そんなタケシィさんに、夢を伺ってみました。夢はずっと現役で歌い続けること、そして世界各地で歌うこと。いつかは紅白歌合戦にも出る!その夢、きっとかないますね。
 だって妄想したら、もう そうするしかないですから。

 土地を愛し、人を愛し、三線を愛す、そんなタケシィさんはこれからどんな唄を紡いでいってくれるでしょう。今度あなたの土地でタケシィさんのLiveがあったら、ぜひ、訪ねてみてください。きっと居心地のよい時間が、そこにはあります。

 タケシィさんのLive情報右矢印1http://takec.jp/schedule.html
今日の人131.辻幸一郎さん [2014年10月18日(Sat)]
 今日の人は、辻安全食品代表取締役 辻幸一郎さんです。
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辻安全食品は創業35年の食物アレルギー対応食品会社で、調味料、パン各種、お菓子、冷凍食品、レトルト食品、スキンケア商品等、幅広い商品アイテムを用意しています。大半の食品は、アレルギー特定原材料27品目除去となっており、多種類食物アレルギー患者にも対応が可能。ホテルや全国の病院や保育園にも納めていて、栄養士による食事無料相談や料理教室も実施中です。

辻さんは1968年、東京杉並区で生まれ育ちました。小さい時はザリガニを釣ったり、カブトムシを捕まえたり、コマ、メンコ、竹とんぼなどをして活発に遊ぶ少年でした。

 小さい頃からどちらかと言えばガキ大将タイプだった辻さんですが、小学校3年生の時に頭蓋骨骨折という大きな怪我をします。おばあちゃんの自転車の荷台に立ち乗りをしていた時に、後頭部から地面に落ちてしまい、頭蓋骨が割れてしまったのです。それで、しばらくはアイスホッケーの選手のようなヘルメットをかぶって通学していました。その時「ヘルメット小僧」とか「ヘルメットおじさん」と言われ周りの子にいじめられるようになりました。『好きでヘルメットをかぶっているわけじゃないのに、なんでこんなことを言われなくちゃいけないんだ!』辻さんの心の中に芽生えた怒りはだんだん大きくなっていきます。周囲の子による辻さんへのいじめは、先生が「そんなことでいじめちゃダメ!」と注意してくれるまで続きました。
 いじめられなくなって一件落着と思いきや、今度は今までさんざん自分をいじめてきた子たちをいじめ返すようになったのです。いじめ返しても誰も何も言わないので、辻さんのいじめはますますエスカレートしていき、やがて学校一のワルと呼ばれるようになっていきました。

 中学に入ると暴走族のグループに入り、集会にも出かけるようになります。敵対するグループと抗争したりしていたので、しょっちゅう警察にも捕まっていました。しかし、ある時、警察に辻さんと弟さん(弟さんもグループに入っていました)を引き取りに来たお母さんが自分の髪を掻き上げて、円形脱毛症になっているのを見せてくれました。『ああ、俺はおふくろにこんなに心配をかけているのか』深く反省した辻さんは、もう親に心配かけることはすまいと心に誓い、弟さんとも約束します。そうして、親から見えるところでは、悪いことはしなくなりました。

 一見不良でありながらも、辻さんは中学で応援団長を務めるなどし、リーダーシップを発揮していました。いろんな部活にも顔を出し、友だちもとても多かったのです。

 高校に入ってからも、歌舞伎町のディスコに出入りするなど、相変わらずの生活を送っていましたが、決して表立って警察のお世話になるようなことはしませんでした。そう、親に心配をかけまいと誓ったことは忠実に守っていたのでした。

 その頃は、どうしたら女の子にモテるかということを一番に考えていました。それで、女の子にモテるであろうことはなんでもやりました。サーフィンしかり、ディスコでの黒スーツしかり、でもいちばんのめり込んだのはスキーでした。ある先輩のスキーの滑りがあまりに素晴らしく、スキー場で女の子に取り囲まれる先輩を見て、これだ!と思ったのです。こうして高校の時からスキー場でアルバイトをして、SIAメダル検定でゴールドメダルを取得するほどのスキーの腕前になったのでした。

 家での空いた時間はもっぱら映画を見て過ごしました。寝る時間がもったいなくて、ほとんど寝ずに映画を見ていた辻さん。もっとも、授業中に起きていたことは一回もなかったのですが…。

 こうして、大学受験を迎えたわけですが、当然全く勉強していなかったわけですから、いくらなんでもそう世の中甘くはありません。受けた四年制大学は見事に全部落ちました。そして、最後に受けた短大に合格して、そこに入ります。
 その後、大学の編入試験に挑戦した辻さん。3年生に編入する編入試験は毎年受験者が殺到し、超難関です。辻さんの受けた関東学院大学の編入試験に課せられたのは英語と小論文。小論文で出されたテーマは「旅行」でした。ここで、辻さんのそれまでの豊富な人生経験が役に立ちます。「人間はいつもいる場所にいてはいけない」という書き出しから始めて、一気に書き上げた小論文。こうして数百倍という倍率を乗り越えて編入試験に見事合格したのです。やる時はやる、それが辻幸一郎という人なのでした。

もっとも大学に入ってしまうと、またスキーばかりして、留年の危機もあったのですが、ここでもとんでもない集中力を発揮してなんとかそれは乗り越えます。
就職活動も一風変わっていた辻さん。本来転職者が対象で新卒者は一人も来ない適職フェアに顔を出し、そこで志望していた医療機器商社の社長にすっかり気に入られてしまったのです。こうして、新卒者としてただ一人その会社に入社の決まった辻さん。たくさんの会社から人が集まる営業マン研修でいきなり一番になり、トロフィーをもらってきたことで、ますます社長に気に入られ、以降、新入社員ながら、会社でやりたい放題になり、本当に毎日楽しいサラリーマン時代でした。そんなにやりたい放題やって、先輩社員に何か言われなかったのかとお聞きしたところ、それは一切なかったそうです。そう、辻さんは新入社員にして、相手の心をガッツリつかむ、トップ営業マンの素質を持ちあわせていたのです。それは、中学生の時から、暴走族のグループをはじめ学校以外の世界で様々な経験をしてきたことがベースになっているのかもしれません。まさしく人間万事塞翁が馬。そういえば以前お話しを伺った方が「男の子は少しくらいヤンチャな方がたくましく育っていい。親が押さえつけて育ててはいけない。その代わり親はいつも家に菓子箱を常備していつでも先方様に謝りに行けるようにいておかないといけない。」とおっしゃっていたのを思い出しました。辻さんのご両親も、辻さんや弟さんが気付かないところで、たくさん頭を下げていらしたのかもしれませんね。

そんな風にとてもハッピーなサラリーマン時代を過ごしていた辻さんでしたが、お父さんからは「サラリーマンは3年はやれ。でも5年以上やるな」と言われていました。好き放題やってきた辻さんでしたが、そういう親の真摯な思いはちゃんと受け入れる青年でした。こうして、サラリーマンを潔く辞め、次は自分で商売をやるために専門学校に通いはじめます。その時は焼肉屋をやろうと考えていました。しかし、そんな時にお父さんが倒れます。倒れたはずみでメガネが割れて血だらけになった姿を見て、ああ、もう自分はチャラチャラしている場合じゃないと思ったのです。

お父さんは辻さんが10歳の時に体を壊し、玄米菜食にし、身土不二の食生活を心がけたことで、健康な体に戻りました。そんな自らの体験から食の大切さを実感し、その当時まだ全然対応食品がなかったアレルギーの子たちを助けたいと辻安全食品を立ちあげたのでした。
オヤジの会社に入ってオヤジを助けたい、お父さんが倒れた時、辻さんは心からそう感じたのです。

こうして辻安全食品に入社した辻さん。それからは生活がガラリと変わりました。それまではどちらかというと派手な生活でした。お金も稼いでいたし、ポルシェを乗り回して女の子とも遊んでいた辻さんでしたが、それまでつき合っていた女の子とは一切縁を切りました。お父さんを安心させるために、「この1年以内に結婚し、そして孫の顔も見せてあげたい」と思ったのです。そうして、それを実現させた辻さんなのでした。

そしてお父さんと一緒に働き、全く遊ばないよき旦那さん、よきパパになりました。他の女性にどう思われようと関係ないやと思っていると、どんどん体重が増えていきました。お腹が出るのは抱っこして歩くときに赤ん坊をそこに乗せるのにちょうどいいから、そんな風に言っていたくらいでした。

 お父さんと一緒に働いて10年。お父さんは69歳の時にポックリ亡くなりました。「人からの頼まれ事は全部やれ」そういつも言っていたお父さん。なんだか心にポッカリ穴が空いたように感じました。
 お父さんが亡くなって1年後、辻さんは友人から霊媒師の方を紹介されます。きっとあまり元気のない辻さんを見かねてのことだったのかもしれません。
お父さんの霊は辻さんにこうおっしゃったそうです。
  「お前、足るを知れよ。10年も同じ職場で働ける親子がどこにいるんだ。
俺は楽しかったよ。」
 本当にお父さんの霊がそう言ったのか、それはわかりません。けれど、そのひと言がポッカリと穴が空いていた辻さんの心を救った、それは事実です。

 お父さんはこうもおっしゃいました。
 「どんなにキレイな所の水でも、水は淀んだら腐る。だからいつも流れてる。」
 だから、辻さんは止まりません。誰かに休んだら?と言われても動き続けます。自分は止まったら腐ってしまうから。そして、決して頼まれ事は断りません。

 辻さんが10歳の時に、お父さんは辻安全食品を立ちあげた。そして、今、辻さんには3人の息子さんがいて、そんな時に自分にもやらなければならない使命ができた、そう感じています。
それは、「アレルギーで良かった」がコンセプトの辻安全食品の実践していることを一人でも多くの人に伝えること、そしてアレルギーや発達障がいで苦しんでいる子どもたちやそこの親に心から笑顔になってもらうこと。(辻さんが富山で講演された時の様子をHPにアップしましたので、そちらをご覧になっていただければ、「アレルギーで良かった」の意味がわかります。
http://diversity-toyama.org/?p=1332

ご自身もアレルゲンの卵を食べなくなったことで、辻さんは運動やダイエットを一切せずに20sも体重が落ち、今やウエスト69センチ。男性用の最もスリムなジーンズが履ける体型になったのです。健康診断でも健康そのもの。
ベストコンディションで今日も全国を飛び回っていらっしゃいます。

そして辻さんは、たくさんの子どもたちに笑顔になってもらうために、食物アレルギー児や自閉症児を対象にしたツアーの監修を行っています。アレルギーがあってそれを食べると死の危険さえあって、今まで外食なんて夢のまた夢だった子どもたちが、ビュッフェで好きなものを好きなだけ食べられるのです。そして、その子どもたちの笑顔を見ているお父さんお母さんも本当に幸せそう。
自閉症の子どもたちのツアーでは、今まで一度もカメラ目線の写真なんてなかった子が、満面の笑顔でカメラに向かって微笑んでいます。お母さんたちは口々に言います。
「奇跡が起きました!」
辻さんは、もっともっとこの笑顔を広げていきたいと思っています。それが、オヤジからこの会社を引き継いだ俺の使命だから。

また、日本航空と全日空の国際線には、辻安全食品プロデュースの安全な食物アレルギー対応機内食が出されています。このプロジェクトにより、それまで海外旅行を諦めざるを得なかった食物アレルギーの方が安心して楽しく世界中を旅することが可能になったのです。

辻さんがやっているのはそれだけではありません。フィリピンカリボ島では、2万本のマングローブの植樹を行い、インドネシアでは5haの広さにサゴ椰子の計画的な栽培に着手。サゴ椰子から作ったクッキーを味見させていただきましたが、小麦粉から作ったクッキーと何ら遜色なく、いえ、むしろ小麦粉のクッキーより美味しいくらいでした。
欲しい方はぜひこちらから⇒http://www.allergy-food.jp/products/list37.html
こうしてアレルギーに配慮した食品を作るためにサゴ椰子等を植えることで、地球温暖化の防止にも役立っているのです。

辻さんは今度はアフリカのブルキナファソに行ってきます。危険だから行かない、ではないのです。危険だから行く。辻さんは子どもの時、新造人間キャシャーンがお好きだったそうですが、そのキャシャーンの決め台詞「キャシャーンがやらねば誰がやる」の如く「俺がやらねば誰がやる」の想いで動いていらっしゃるのでしょう。

そして最近では、アメリカ大使館、アメリカ穀物協会からの依頼により、グルテンやカゼイン除去の商品も開発しています。自閉症や発達障がいの症状緩和にグルテンやカゼイン等の除去した食事が有効であると報告されているためです。今まで脳が原因とされてきた病気が、実は腸が原因かもしれないとすると、私達の前にはとても大きな明かりが灯っているように感じる母の一人なのでした。

台湾にも健康和食のレストランをオープン予定の辻さん。本当にいつ寝ていらっしゃるのかしらという位に多忙を極めていらっしゃいますが、そんな辻さんが今いちばんホッとできる時間は、次男と三男に挟まれるパパサンドイッチの時間。息子さん2人が辻さんを挟んで、ムギュ〜っと抱きついてくるのがたまらないとおっしゃいます。お忙しいからこそ、ご家族との時間がとても大切な至福のひと時です。

 辻さんは、以前対馬に行った時に神通力を持った方に言われた言葉をとても大切にしています。

・ご先祖様をキチンと供養すること
・親を大事にすること
・周りの人を大事にすること

それまではとても喧嘩っ早かった辻さん。昔の血が騒いで?電車に乗っていてもマナーが悪い人にはすぐに突っかかっていました。でも、その言葉を大切にするようになってからは、社員がどんなに失敗しようと笑って許せる仏の顔になったのです。そのことで、社員ものびのびと力を伸ばせる会社になりました。まさにコントローラーからメンターへ。とても素敵な会社なのがよく伝わってきます。

 きっと今頃、先代のお父様も天国から笑顔で辻さんを見守っていらっしゃることでしょう。
「おい、幸一郎。お前、よくやってるなぁ。」
そんなお父様の声が聴こえてきそうです。

これからもご自身の使命のために止まることなく動き続けていかれるであろう辻さん。今度お会いする時は、また素敵なお話がたくさん生まれていることでしょう。そのお話が聴ける日を楽しみにしています。

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とってもお茶目な面もお持ちの辻さんです♪
今日の人128.徳倉康之さん [2014年09月12日(Fri)]
 今日の人は、NPO法人ファザーリング・ジャパン事務局長の徳倉康之さんです。
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イクメン・カジダンという言葉が急速に浸透してきまたが、Fathering Japanは、父親支援事業による「Fathering=父親であることを楽しもう」の理解・浸 透こそが、「よい父親」ではなく「笑っている父親」を増やし、ひいてはそれが働き方の見直し、企業の意識改革、社会不安の解消、次世代の育成に繋がり、 10年後・20年後の日本社会に大きな変革をもたらすということを信じ、これを目的(ミッション)としてさまざまな事業を展開していく、ソーシャル・ビジ ネス・プロジェクトです。

 徳倉さんは1979年に香川県高松市で生まれ、18歳まで高松で育ちました。小さい頃は人見知りで引っ込み思案だったのですが、小学校3年生の時にクラスで級長になったことがきっかけで変わりました。自分が話してそれを相手がわかってくれるってなんて楽しいんだろう!伝える楽しさを実感したのです。実は後から知ったのですが、引っ込み思案な息子を心配して、お父さんが担任の先生に息子に何か役を与えてやって欲しいとお願いしていらしたのでした。徳倉さんが変わるきっかけを作ってくれたのはお父さんだったのです。そしてお父さんは、昔から家事、育児を当たり前にやる人でした。お母さんが病弱でよく入院していたというのもありますが、仕事のやりくりをしながら、家事育児を楽しんでやっているお父さんの姿が徳倉さんにとってはスタンダード。だから、あえてイクメン・カジダンという言葉を使わなくても、そうなることは徳倉さんにとってはごく自然なことだったのです。

 話すことの楽しさに目覚めた徳倉さんは放送委員にもなり、将来の夢はアナウンサーでした。児童会、その後中学や高校の生徒会でも全て副会長として活躍しました。会長よりも補佐して運営を仕切る副会長の方に魅力を感じる徳倉さん。それは今も変わっていないのかもしれません。

 中学に入ると、ソフトテニス部に入り、そこではキャプテンでした。進学校でしたが、勉強は特にせず、本ばかり読んでいました。本と靴は好きなだけ買ってやる、というのがお父さんの教育方針。あらゆるジャンルの本を読みました。釣りも小さい頃からずっと好きで、よく海釣りに出かけていました。ファミコン世代だったので、もちろんゲームもやっていたそうです。中学時代の夢は引き続きアナウンサー、しかし同時に実家の家業を継ぎたいという思いもありました。

 香川で一番の県立の進学校に落ちてしまった徳倉さんは私立高校へ。ここはまさにダイバーシティな高校でした。富山もそうなのですが、地方の私立高校は県立に落ちてしまった超優秀な生徒から、遊んでばかりいる生徒まで本当にいろいろな生徒が集まってきます。中学が進学校で優秀な生徒ばかりが集まっていた学校でしたので、高校で初めて多様な価値観を持つ人々に出会うことになった徳倉さん。ですから、この高校に入って本当によかったと思っています。高校では死ぬほど遊びました。でも、同時に勉強もやりました。「お前、勉強できるな」とほめられて、勉強も楽しくなってきたのです。部活は硬式テニス部に入っていました。

 大学進学にあたってお父さんから言われたことがあります。それは、「バイトはするな」というものでした。「毎月仕送りする。その金額でちゃんとやりくりしながら生活しなさい」
 徳倉さんは硬派なテニスサークルにも入ったので、最初はお金のやりくりがうまくいかず、サークルでお金を使い過ぎたり、好きな服を買ってしまったりで、残ったお金がとんでもなく少なくなりました。そうなると切り詰めざるを得ないのが食費。なんと、77sあった体重が1年で60sにまで落ちたのです。でも、そうやっていくうちに徐々にどうやりくりすればうまくいくのかわかってきました。この時、決まった額で生活したことは社会人になってからもとても役に立ちました。もしあの時、バイトをして自分に自由なお金が増えていたら、決して身につくことのなかった感覚でした。工夫して楽しめというお父さんの教育方針は実によかったのです。

 サークルは2年でやめて、大学時代しかできないことをしようと思いました。シアトルに留学している幼なじみがいたので、友だち3人でシアトルからカナダそして南下してメキシコまで超貧乏旅行をしたりもしました。なにしろ治安の悪い所で安いモーテルに泊まったりしたので、怖い思いもいっぱいしましたが、得難い体験もたくさんできたのでした。

 こうして充実した大学生活を送った徳倉さんは実家に入る前に、修行として大手メーカーで勤務することになりました。勤務地は埼玉県。およそ3年後転職しかし、仕事に追われる毎日の中、無理に無理を重ね、とうとう十二指腸潰瘍で入院。腹膜炎になり、命の危機にまでさらされたのです。なんとか峠を脱したものの、一ヶ月は水さえ飲めない状態で、骨と皮になるくらいに痩せこけました。25歳の時でした。療養のため、故郷に帰っていたのですが、その時に10年ぶりに再会したのが、中学校の同級生でもある奥さまでした。その時研修医だった奥さまと恋に落ちた徳倉さん。1年後修行していたメーカーへ復職して埼玉へ戻りましたが、遠距離恋愛が始まり、27歳で結婚します。奥さまは埼玉でお医者様として働きはじめました。

 大病後に復職した徳倉さんは働き方を考えないとバランスを崩すと痛感しました。ワーク・ライフ・バランスの概念に出会ったのです。そして、29歳の時に長男が誕生。奥さんのキャリアを重視して、息子さんが4ヶ月から1歳になる間、徳倉さんが育休を取ることにしました。徳倉さんの会社では男性の育休第一号でした。当時の営業部長は怒って2年も口をきいてくれないくらいでした。でも、徳倉さんは気にしませんでした。自分は営業でbPの成績を挙げていたし、何より自分のキャリアに対する考え方が変わっていたのです。何を大事にすべきか、一度死にかけた徳倉さんは仕事が全てというような生き方だけはしたくなかったのでした。

 2011年の5月には2人目のお子さんが生まれ、その時は奥さんが産休の時に徳倉さんが育休を取りました。1人目の時は奥さんは里帰り出産をしていたので、生まれた直後の育児は体験していなかった徳倉さん。ですから、2人目は、住んでいる町で産んでもらって最初から2人で一緒に育てたいという思いがあったのです。ちょうどその頃にファザーリング・ジャパンに出会い、ボランティアスタッフとして活動に参加するようになりました。活動する中で、ここでは自分の経験を生かせるという想いが大きくなり、2012年の2月に、「ここで働きたい」と申し出ました。

 こうして、やっていた仕事の引き継ぎ等をキチンとこなし、夏前にそれまでの営業の仕事をやめて、ファザーリング・ジャパンの事務局長となった徳倉さん。その後、イクメンという言葉は急速に広がり続けています。それはきっと徳倉さんが尽力された部分も大きいからでしょう。

 そうして、3,4年前は総論でさえNGだったイクメン話が今は、OKになってきました。しかし、各論ではまだまだNG。男が育休を取るなんてとんでもないという部署はまだまだたくさんあります。
 もちろん、今の流れでいけば、10年もすれば放っておいても変わる、そう思います。でも、10年を5年、3年にしたい。そのために、今やりたいのはイクボスを増やすこと。イクボスとはつまり、男性が育児をすることに理解のある上司のこと。イクメンのボス、つまりイクボスというわけです。
 管理職を変えていくことが社会の流れを変える近道になると思う、と徳倉さん。

 何より、夫婦で子育てできるのは本当に楽しいのです。子育てにもパートナーシップが肝心。お互いの苦手を把握して、補完し合えるからいいのです。子どもを授かって、子育てできるそんな環境に恵まれたなら、それを楽しまない手はありません。この楽しさを知らずに過ごすのは実にもったいないし、人生を損していると思います。期間限定でしかできない子育てを楽しんでもらいたい、と徳倉さんはおっしゃるのでした。

 そして今年1月には3人目も誕生した徳倉家。男、男、女という3人のお子さんたちと毎日めいっぱい楽しんでいます。特に今楽しいのは、3人目の娘さんとじゃれあう時間。やっぱりお父さんって女の子にはメロメロになっちゃうようですね。でも、もちろん、息子さんたちと戦いごっこをしたり、釣りに行ったりする時間も心から楽しんでいます。

 今の仕事は世の中が変わっていくきっかけを作っているという手応えがあり、とても充実した毎日を送っている徳倉さん。出張も多く、東奔西走して日本中でイクメンカジダンのお話をされています。もちろん、今は世の中が変わっている過渡期ですから、いろいろなことを言ってくる人もいます。でも、25歳の時に一度死にかけた徳倉さんは、不思議とそういうことは気にならなくなりました。もう死ぬかもしれない、と思った時は、空が青いことさえありがたかった。だから誰かがとやかく言っていることなんてどうでもいいと思ってしまうのです。まさに死ぬこと以外はかすり傷、といった感じで達観されている徳倉さんなのでした。

 そんな徳倉さんの夢は、奥さまと世界中の素敵な所を旅すること。特に今いちばん見せたいのはドイツのエアフルトという街です。街の建築物は中世から近代にいたる各時代の荘厳な建築物が林立しており、「建築物の博物館」と評する建築家もいるくらい素晴らしい建築物がたくさん残っています。ゲーテやナポレオンが訪れた場所もそのまま残っていて、街全体の雰囲気がたまらないくいい。そんな街を奥さんとゆっくり歩いてみたいと思っています。

 そう、徳倉さんは誰よりも奥さんをまず愛していらっしゃる。実はそれがイクメンの一番大切なポイントなんだろうなぁと思った今回のインタビューでした。
徳倉さんたちの活動が広まることは、まさにダイバーシティな社会につながります。これからもますますワクワクのご活躍を!
今日の人95.山村宙史さん [2013年07月04日(Thu)]
 今日の人は、株式会社ブックマークス代表取締役、今注目の勉強カフェを都内と横浜で6店舗展開されている山村宙史さんです。
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 山村さんは北海道、函館山の麓で生まれ育ちました。ずっと学級委員でいい子、ドラえもんでいう出来杉君みたいな子ども時代でした。
 リトルリーグで野球もやっていました。好きなチームは西武。山村さんが生まれたのは1979年ですから、子ども時代は西武の全盛期と重なるわけですね。
 海も近かったので、カニ取りなどして遊ぶのも好きでした。でも、その頃流行っていたファミコンやマンガやアニメは興味がありませんでした。
 国語の音読が好きで、将来はアナウンサーになりたいと思っていた少年時代。

 中学に入ると、市内に引越します。お父さんの商売がうまくいって、ご自身で設計された素敵なお家を建てられたのでした。それまでの友だちとは離れ離れになってしまいましたが、その頃12歳離れた妹が生まれ、妹の子守が生活の中心になった感じでした。さぞかし可愛がられたんだろうなぁというのがよくわかります。

 山村さんに反抗期というものはありませんでした。親のレールに特に反発を覚えず名門の函館ラ・サール高校に進学します。
 函館ラ・サール高校は男子校です。多感な高校時代に女の子がいないのは問題でした。オタクな人が多く、学園祭になっても近くの女子校からちっとも遊びに来ない。しかも6~7割は寮生なのです。寮生にはプライバシーがほとんどなく、自習室で勉強を課されるような毎日を送らなければならないのですが、山村さんは自宅生でした。徹底した進学校ですから、勉強しない子は学校の本流から外れてしまいます。そんなわけで山村さんは自宅生仲間とつるんで遊んでいました。

 東京に出て、一人暮らしをしたい、もうこんなオタクな雰囲気の中にいたくない!そう思って都内の私立大学に進学します。
 大学ではテニスサークルに入ってはっちゃけて遊んでいました。1,2年生の間はそんな感じで遊んでばかりいました。
 
 しかし、3年生になった20歳の時、自分はどんな生き方がしたいんだろう、と考えるようになりました。今まで大人の敷いたレールの上を疑いも持たずに歩いてきた。でも、自分は本当は何をしたいんだろう。
 このままズルズルいくのがまずい!初めて自分の人生について真剣に考え始めました。
 山村さんはF1が好きで特に好きなチームはフェラーリでした。自分をおもいっきり変えるために外に行こう。そう思って選んだ先がイタリアでした。
 
 ラジオの語学講座でイタリア語を少し勉強し、飛行機のチケットだけ持ってイタリアへ飛びます。
 着いたその日にどこに泊まろうかとウロウロしていると、フレンドリーなイタリア人のことですから、親切にいろいろ教えてくれました。どこに行ってもそんな感じで受け入れてくれるのです。
 
 ただ、スーツケースはイタリアに行って2日目に盗まれてしまいます。
 でも、かえってそれがよかったのかもしれません。いろんなことが吹っ切れた気がしました。その後はホントに気ままにいろいろな所をまわりました。
 
 イタリア人は食事に2時間も3時間も時間をかける。それがひどく人間らしいなと感じました。経済的な豊かさは日本の方が上だけど、彼らの方が人生を謳歌しているのは間違いなさそうでした。人間的に豊かな生き方って素晴らしい!山村さんはすっかりイタリアのファンになってしまいました。
 
 そうして、20歳で3週間イタリア旅行をしたのを皮切りに、21歳、22歳と3年連続でイタリアを旅しました。
 山村さんが特に気に入ったのがバールです。田舎の町にも一軒のバールは必ずあって、朝起きると、みなバールに行ってコーヒーを一杯飲んで出かけるのです。昼はドルチェとコーヒーで、夜はサッカーやF1の観戦という具合にイタリアの人々の生活はバールがないと成り立たないのでした。
 小さくて質素だけれど、みんなが集まってワイワイできるこんなコミュニティはいいな、山村さんはバールに憧れました。
 
 こうしてすっかりイタリアの虜になった山村さんは、イタリアに関わる仕事がしたい、そう思うようになりました。こうして就職したのが、サイゼリヤでした。その時の担当者はいつかこの店をイタリアにも出店させたいという熱い思いを語っていました。山村さんはその話にも惹かれ、サイゼリヤに就職します。時間に対する意識が日本とは対極にあるイタリア。そのイタリアに関われたら素敵だな、そう思っていました。その時の山村さんのキーワードは「イタリア人の生き方」だったのです。
 
 サイゼリヤの理念はイタリアの身体にいい食材を安く提供すること。山村さんはサイゼリヤで5年半働きました。3年目からは店長も任され、やりがいもあったし、仕事も楽しかった。結婚もして、充実していました。
 
 ただ、27,8歳になって、自分の少し先を考えるようになりました。果たしてこの仕事をこの先10年、20年続けられるだろうか…この業界でキャリアを積むか、転職するか…外の世界も見てみたい、という葛藤もありました。他の業界で自分の力を試してみたい。30前の今じゃないと難しいかもしれない。こうして、山村さんは2007年に為替の会社に転職しました。コンサルの卵を育てるという上場直後の会社でした。今までとは全く違う為替の仕事。為替は国力が現れます。日本のイニシアチブが失われている、そう感じました。為替の世界に身をおいたことで、サラリーマンでいることのリスクを考えるようになりました。

 若い今のうちだったらリスクをとってもリカバリーできる。じゃあ、サラリーマン以外で自分にできることは何?
今村さんは自分の棚卸しをしました。ただ、起業しようにも自分には特技や資格がありません…。
 
 そんな時に大好きなイタリアのことが頭に浮かびました。イタリアのバールのようなコミュニティになりうる居場所が日本にあったらどうだろう。世界を股にかけたビジネスマンに自分はなれないけれど、その居場所でそうなりたい人をお手伝いできないか。頑張りたい人の背中を後ろから押し上げることができれば。
 
 では、今実際にどんな場所に意識の高い人が集まっているだろう?そう考えたら、そういう人たちが集まる場所がないことに気が付きました。
 
 家ではいろいろな誘惑があって集中できない。

 図書館は使い勝手が悪い。

 カフェに長居するのは気がひけるし、店側の気持ちもよく分かる。
 
 勉強したい人はたくさんいるのに、場所がない!有料の勉強場所もなにか違う。
そうじゃない勉強の仕方があってもいいはずだ。リラックスしながら勉強出来る場所が…。

 そうだ、ないんだったら僕が作ろう!
 
 土台は何もなかったけれど、スイッチが入ると猪突猛進型でした。根拠のない自信があった。ただ勉強だけする場所じゃない。交流もできるそんな場所があったら絶対にいい。考えるだけでワクワクしました。
 
 けれども現実は厳しかった。リーマン・ショックがちょうど過ぎたばかりで融資は断られ続けました。でも最終的には全額融資をしてくれるところに巡りあい、山を超えたと思いました。しかし、それは甘かったのです。
 
 お店を作ったのはいいけれど、知ってもらいたくても知ってもらえない。オープンして半年の間、会員数はわずか一桁でした。毎月のように大赤字。子どもも生まれたのに、このままだと一家で路頭に迷ってしまう。
 
 どうしたらいいだろう?いろいろなことを考えました。
 そしてまず、ネーミングを変更することにしました。
それまでは「会員制書斎空間ブックマークス」という名前をつけていました。しかし、これではわかりにくい。メイドカフェやネコカフェが流行っていましたから、名前にカフェをつけようと思いました。
 そこで次につけた名前が「プログレスカフェ」です。これはいける、と思いました。しかし、プログレスって何?と聞かれてしまいます。そうか、プログレスでもわかりにくいか…

 じゃあ、純粋にひと言で言ったら、なんて言えばいいんだろう…。その時ふっと浮かんだのが「勉強」でした。
 「勉強カフェ」シンプルで覚えやすくてわかりやすい!こうして、ネーミングを「勉強カフェ」に変更したのでした。
 
 次にしたことはブログを書き続けることでした。毎日ちょっとずつでもいい、地道にブログを書くことで少しでも勉強カフェのことを知ってもらおう、そう思いました。
 
 そして3番目はプレスリリースです。FAXで一社一社にリリース文を送っていきましたが、最初はナシのつぶて。全く連絡がありませんでしたが、リリース文の書き方を工夫していくうちに、読売新聞から取材させてくれと連絡が入ります。こうして、写真入りで朝刊に載りました。一度取材が入ると不思議なもので、NHK、日テレといいスパイラルで取材が入るようになりました。
 こうして毎月30人ずつ新規に入会してくれるようになったのです。あきらめずに地道に続けたことが花開いた瞬間でした。
 来月の家賃が払えなかったらもうおしまいだ、というまさに土壇場からの起死回生でした。

 そして勉強カフェは順調に成長を続け、今や都内に5店舗、横浜関内でも1店舗を構え会員数は1500人を超えるまでになりました。
 
 もちろん、山村さんの想いはここで終わりません。
 今、力を入れているのはパッケージ・ライセンス制度です。直営でもない、フランチャイズでもない、それぞれの地域で勉強カフェをやりたい人の想いを大切にしながら、今まで山村さんが積み重ねてきたトータルなものを提供したい。そうすることによって全国に学びを通じて幸せになる大人が増えるにちがいない。そうして全国の勉強カフェのチーム全体で成長して行きたい。そんな想いがとても強いのです。
 そして今、全国からパッケージ・ライセンス制度について問い合わせをもらっている山村さん。外に出向いて話を聞く時間がとてもワクワクだとおっしゃいます。
 
 勉強カフェのチーム憲章がこれまたとても素敵なのでご紹介します。

一、チームの目的は、「学びを通じて幸せになる大人を増やす」ことです。
一、チームメンバーを仲間として尊重し、お互いに貢献します
一、地域に根付いた、世代を越えた学びのプラットフォームを目指します
一、多様性を受け止め、変化を恐れず、柔軟な発想を大事にします

 ダイバーシティの考え方ともバッチリ合っていてすごくうれしくなっちゃう憲章ですよね。
 
 そんな山村さん、家では4歳と1歳の姉妹のお父さんでもあります。家族と過ごす時間ももちろんとても大切にしています。

 いろんな場所の勉強カフェの橋渡し役になるのが夢だとおっしゃる山村さん。
 でも、実はもうひとつ夢があります。
 それは、イタリアのバールのような小さなお店を自分の好きなものに囲まれてやりたいという夢です。地域の人たちが集い、いつものコーヒー、いつもの笑顔、そんな素敵があふれた幸せなバールを作りたい。
 
 全国各地の勉強カフェに集い、山村さんの素敵なバールに美味しいコーヒーを飲みに行く、そんな日が来ることを楽しみにしています。
今日の人82.仲山進也さん パート.2 [2012年12月26日(Wed)]
パート.1から続きます。
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 正義感が強くて、検事になろうと思っていた仲山さん。でも、ある出来事がきっかけになって、検事になるのはやっぱりよそうと思いました。どんな出来事がきっかけで…?

 ある日実家に泥棒が入りました。警察が来た時、お母さんに尋ねたそうです。
「子どもさんは?」
お母さんは答えます。
「うちはみんな大学で道外だから、ここにはいません」
すると、警察官はこう言ったのです。
「なんだ。じゃあ、無理だな」

 つまり、まずは子どもを疑っていた!
 その時、仲山さんは思いました。警察と検事は同じような立ち位置だろう。だとすると、検事って、まず人を疑う仕事なんだな。…それで一気に検事という仕事への憧れが失せてしまったのです。それに、そもそも受験勉強というものが嫌いだった仲山さん。大学も推薦で入ったので、司法試験をそこまで根性入れて受けたくなかったし、検事が嫌だからといって弁護士に、という気持ちもさらさらありませんでした。

 もう一つ、仲山さんにとって大きなきっかけになった出来事があります。
 仲山さん、それまでソフトボール大会しかなかった大学のゼミの委員会で、ミニサッカー大会を企画。予算がないから勝手にやってくれと冷たく言われましたが、めげずにやりました!最初はグラウンドもない、と言われますが、ハンドボール用のグラウンドが当日場所取りをすれば使えることが判明。早起きして場所取りをし、手作りのビニールテープによるゴールネットを作り(見事にバリっと破けたけれど)なんと13チームものエントリーがあって、ミニサッカー大会は大いに盛り上がりました。

 最後は突然の大雨で決勝戦が流れてしまったけれど、解散するときにゼミの人がやって来て一言、「(ミニサッカー大会を)やってくれてありがとう。めちゃめちゃ楽しかったよ。ホントにありがとう。また絶対やってよね」と言って、手を差し伸べて握手を求めてくれました。
それがめちゃめちゃ嬉しかった仲山さん。人に楽しんでもらえて、ありがとうと言ってもらうことって、こんなに嬉しいものなんだ!

 その感動が仲山さんの進路を変える大きな要因になったそうです。司法試験に受かっても、人に楽しんでもらってありがとうと言ってもらえることは少なそう。それもあって、司法試験を受けるのはやめて、就職活動することにしました。
 
 そして大手電機メーカーに就職した仲山さん。でも、どうしても、何かを自分でやっているという実感が持ちにくかった。大きな会社の大きなプロジェクトの一部だから、いたしかたないのかもしれない。でも、ワクワクしない。
 
 そんな時にかつての仲間に誘われたのが、当時社員10人くらいのインターネットのべんちゃーな会社、そう、今の楽天の前身の「エム・ディー・エム」という会社でした。そして、インターネットのことをまともに知らないまま、三木谷さんと雑談して、入社することになった仲山さん。
 その後の楽天の成長ぶりは推して知るべし。
 
 仲山さんは、楽天の初代ECコンサルタント9人の1人となり、2000年に「楽天大学」を設立するなど、楽天市場出店者37,000社の成長パートナーとして活動中。Eコマースのマーケティングのみならず、楽天が20名から数千名の組織に成長するまでの経験をもとに、人とチームの成長法則を体系化。2008年に創業した仲山考材株式会社では、メーリングリスト型の戦略脳・企画脳トレーニングプログラム「私塾主宰者養成考座(通称:私塾ゼミ)」を主宰、志と伝道スキルを併せ持つ「私塾士型ファシリテーター」の育成に注力していらっしゃいます。

 そんな仲山さんにとっての褒め言葉は「変わっているね」と言われること。「普通だね」は絶対言われたくない言葉です。例えば、自分が講座をやった時のアンケートで、
「とても満足  満足  普通   やや不満  とても不満」
という項目があったとしたら、不満と書かれるより、満足と書かれる方が嫌だとおっしゃいます。みんな大人だから、まぁ普通と思っていたら、きっと満足に◯をつけるだろう。そして、不満だったら、その理由を書いてくれるけど、満足だとそれを書くこともない。響いてない感じが伝わってくるから、多少落ち込むそうです。そんな風に凹んだときの立ち直り方は、「まぁ、いーか」と思うこと。このアウトプットで響かないならしょうがない。響いた人にフォーカスできればいいかな、と思うことにしています。
 それに楽天の日々はかなり激しい日々なので、いちいち落ち込んではいられないと仲山さん。

 とにかく0から1を生み出していく仕事がワクワクしてたまらなく好きな、考える人なのです。
 
 そんな仲山さんが今、注目しているのは岐阜県!
岐阜県は今、とっても熱くてイケてるのです。何がイケてるかって、県庁がベンチャーを育成していて、ネットショップのトレーニングをやっていたり、高校生とネットショップがコラボして、ベーグルを開発し、ネットで3日間で7000個売り上げたりしている。
 
 行政の人は、すぐに地元の県産品を…と考えるけど、それじゃ絶対うまくいかない。岐阜発のベーグルだってレディ−スファッションだっていいわけで、大事なのはみんなで試行錯誤すること。みんなが思いを持ってワクワクしながら試行錯誤すると、みんながうまく行き始める!
 
 ちょっと、いつも地元の名産品をPRすることばかり考えているそこの行政の人、聞きました?これってホントに大事なことですよね。

 こんな風にいつもワクワクする仕事をしている仲山さんが気をつけていることがあります。それは、ワクワクしすぎてどっぷり症候群に陥らないようにすること。
 仲山さんは、ヴィッセル神戸のネットショップも任されていたのですが、ある年のヤマザキナビスコ杯の時にJリーグからポスターが何十枚か配られました。さあ、どうしようかな、これ、と思っていた時に、「ネットショップでプレゼントに出すのはどうですかね」という案が出て、そうすることに。すると、申し込み欄のコメントの熱いこと熱いこと!!

 サッカーに囲まれた環境の自分たちには気づかないけれど、外の人から見るとそれはとびきりキラキラの価値があるのだ!
 だから、俯瞰する目も忘れずにいる仲山さんなのでした。

 でも、やっぱり仲山さんは、基本ワクワクな人なので、仕事と仕事でないものの区別がありません。なんでも楽しい。そして、そんな仲山さん最近楽しんでいることのひとつは、自宅にあるレモンの木を育てること。これは、三重県の苗木屋さんが楽天でレモン部として販売したレモンの木。仲山さんはレモン部1期生。レモン部の規則は、月に一回レモンの写真を撮ってUPすること。そうすると、店長が部活の顧問としてコメントをくれるのです。同じレモンの苗が三重から全国へ旅立ち、そしてそれぞれに成長していく。そんなレモン部の部員向けのメルマガもとても味があります。ある時のメルマガには「結果と成果」について書いてありました。植物が実をつけることが結果。食べてみておいしくなかろうとそれは結果。それに対して、成果は、結果の中に作り手の思いが出た時に成果となる。
…そんな話を聞くと、私もレモン部に入部したくなるなぁ。
 
 仲山さんの志は世の中を元気にすること!そして、子どもが憧れる大人を増やすこと!イチローに憧れるみたいに、自分のお父さんやお母さん、近所のおじちゃんやおばちゃんに憧れる子どもたちを増やしたい。そのためには大人がキラキラしていないと!
 私もそんなキラキラした大人を増やしたいなぁと心から思います。まずは私もキラキラしていなきゃ。
 
 仲山進也さん、これからもたくさんのワクワクを生み出してくれるであろう、ステキな方でした。きっと、仲山さんの息子さんは、「お父さんみたいな大人になりたい!」そう思ってるにちがいありませんね。

仲山さんの最新刊ほこちらからどうぞ!
『今いるメンバーで「大金星」を挙げるチームの法則──『ジャイアントキリング』の流儀』
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今日の人82.仲山進也さん パート.1 [2012年12月25日(Tue)]
 今日の人は、楽天株式会社 楽天大学学長、仲山考材株式会社 代表取締役の仲山進也さんです。
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仲山さんは『楽天大学学長が教える「ビジネス頭」の磨き方』や『今いるメンバーで「大金星」を挙げるチームの法則』といった大人気のビジネス書の著者でもいらっしゃいます。

 仲山さんは北海道旭川生まれ。小さい時からずっと優等生でした。でも、真面目一辺倒というわけではありません。小学生の時からサッカーが大好きで、友だちと一緒に暗くなるまでサッカーをしているという日々。仲山さんは1973年生まれなので、ちょうどキャプテン翼に影響されたサッカー少年がたくさん出始めた頃でした。でも、まだまだ野球が主流の時代。仲山さんたちはグラウンドの隅っこでサッカーをしていたにもかかわらず、少年野球チームのコーチに、グラウンドから首根っこをつかまれて追いやられたことがあり、それがすっかりトラウマになってしまって、未だに野球にはアレルギーがあるそうです。

 放課後にサッカーする時は、途中から徐々に帰り出す子がいて、最後に残る子は少ししかいない、ということありました。そんな時、いかにみんなが最後まで残って楽しめるか、新たなルールを考えるのが好きでした。そのルールが面白くてたくさんの子どもが残ってくれると「よっしゃー!」と思いました。そして、みんなが飽きないようにちょっとずつルールを変えていくのです。そんなふうに昔から、考えを巡らせるのが好きだった仲山さん。

 冬場はサッカーゴルフをして遊んでいました。サッカーゴルフ?そう、雪に穴を掘って、その穴の中へボールを蹴りこむ遊びです。雪国ならではのサッカー遊びですね。

 そんな風に創意工夫をしてきた仲山さんだから、今の子どもたちは大人に指示されすぎているな、と感じます。もっと自分で楽しめるように工夫しなきゃ!これはそうさせている大人に問題がありそうです。

 仲山さんは3人兄弟の長男。1歳年下の弟もサッカー好きで、弟の友だちもサッカー仲間でした。お父さんはおじいちゃんの時からの会社を経営していたので、長男である自分は当然跡を継ぐものと思っていました。しかし、小学校の文集に書いた将来の夢は「サラリーマン」!
 なんでも、お父さんが自分のことを「サラリーマン」と表現していたので、「跡継ぎ=サラリーマン」と思っていた進也少年だったのでした。

 中学も高校もサッカー部に在籍し、サッカーに明け暮れた日々でした。授業をまじめに受け、部活でサッカーをして寄り道もせずに家に帰る、とってもマジメな生徒だったのです。(ご本人曰く、「寄り道しなかったのは、家が近すぎたからです(笑)」いや〜、私なんて、片道6kmを自転車通学していましたが、寄り道スポットはなかったです!←どんだけ田舎自慢)

 そんな少年は子どもの頃におもしろいルール作りをした経験から、世の中のルールについて勉強しよう、と思うようになりました。それで、大学では法学を勉強しようと決めました。子どもの頃から正義感がとても強かった仲山さんは自分がなるのは検事だ!そう思って、慶應義塾大学法学部法律学科に進学を決めます。そして、大学でもやっぱりとっても真面目に授業を受けていた仲山さん。取っていた授業の9割以上ちゃんと出席していたといいますから、本当に真面目な学生さんだったようです。

 でも、マジメな堅物、というわけではありません。仲山さんは国立競技場で売り子のバイトをしていました。ちょうどJリーグが開幕し、サッカー人気に火がつきはじめた頃でした。仲山さんは売り子の観察をします。売れる売り子と売れない売り子のちがいは何か?一番売れているのは、試合を1mmも見ずにひたすら売り歩いている人。しかし、仲山さんはそんなタイプの売り子にはなりたくありませんでした。何しろサッカーが大好きですから、試合中はなるべく試合を見たいのです!あ、ご本人の名誉のために言っておくと、歩合制ですから、単にサボっていらしたわけではありません(笑)

 仲山さんは試合前と休憩時間に主に売って、試合中は試合観戦をしていることが多かったのですが、ずっと売り歩いている人に引けをとらないくらい、いやそれ以上に売り上げを上げるようになりました。
それはなぜか?
 お客さんとサッカーについての雑談をしているうちに、玄人好みのお客さんと話が合って、「お兄ちゃんまたこっちに売りに来てや、おにいちゃん以外からは買わないからさ。」などと言われるようになっていきました。ちょっと離れた場所からビール10本!などと言われたら、ビールの注ぎ方のお手本をお客さんに見せて、お客さん自らに注いでもらい、自分は動かなくても商品が売れるという仲山マジック。ビールを注ぐのは案外難しいので、みなさんゲームのように楽しんでくださったそうです。

 その時の経験が今の仕事にも生きています。例えば、楽天に出店している店長さん達に講座をする時によく言うのは、毎日チラシを配るようなやり方は、競技場を大声で売り歩いているのと同じ。それではお客さんとの距離が縮まらない。それなら、メルマガに雑談を書いた方が、お客さんとの距離が縮まる。でも、それに固執するのもよくない。それこそ方法は100万通りある。いかに自分が負荷を感じずに多くの価値を見いだせるか。自分が勝負をかける強みはどこなのか、知っておくことが大切。でもそれは、ダイバーシティ的な視野がないとなかなか気づくことができないこと。


パート.2に続きます。
今日の人62.鈴木健司さん [2012年10月10日(Wed)]
 今日の人は学校法人大原学園大原日本語学院主任教員の鈴木健司さんです。
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 鈴木さんは、神主の資格もお持ちの日本語教師。
 
 子どもの頃は電車やバスの運転手になりたかった鈴木さんは、今も青春18切符で全国を旅するのが好きな鉄ちゃんでもあります。
 小学生の頃から歴史と考古学に興味があった鈴木さん。土を掘ることで、いろんな考え、技術を知ることができる。文献史学ではなく、文字のないところから歴史を知る。それは鈴木さんにとって、本当にワクワクすることなのです。
 
 そんな鈴木さんですから、小学生のとき飼っていたカブトムシが死んでしまった際も、なんと前方後円墳を作りました。しかも、三層の堀まで作ったというから、小学生とは思えない凝りよう。
 
 音楽も好きで、小6の時にラジオから聞こえてきたモンキーズをはじめとする60’Sロックにはまりました。それで中学の時からギターを始め、就職してからはバンド活動もやっているそうです。

 さて、考古学が大好きだった鈴木さんですが、大学は國學院大學の文学部神道学科
(現:神道文化学部神道学科)に進みます。考古学の方にストレートに行きたかったんだけどね~と苦笑されましたが、神道学科に進んだことで、素敵な出会いもたくさんありました。

 卒論指導の先生は、柳田國男折口信夫という民俗学者の二大巨頭とつながりのある平井直房先生でした。卒論のテーマを「古代出雲における蹄鉄とそれに関する信仰との関係」に決め、卒論締め切りの一ヶ月半前になってようやく先生の研究室へ。しかし、先生からはあっさりと、「キミの卒論の題目は『出雲の製鉄』にしましょう。それで、今更指導しても仕方がないから、思うように書いて!!査問会で勝負しよう!」と言われてしまいます。

 とにかくフィールド・ワークを大切にし、歩いて歩いて論文をまとめるタイプ柳田國男先生。対してインスピレーションを論文にまとめるタイプの折口信夫先生。鈴木さんの指導教官の平井直房先生はどちらかというと柳田先生のタイプ。鈴木さん自身は、インスピレーションタイプで、ものすごい集中力での論文を書き上げたのでした。
 さて、問題の査問会。平井先生から「私の所に来なかった割りには、まともな論文だね」とほめられます。そして、神主を募集している超有名な神社まで紹介してくださいましたが、そこがあまりに低月給だったため、鈴木さんはやんわりとお断りしました。

 教員になりたいという思いもあり、教員採用試験も受けましたが、落ちてしまいます。次の年も受けようかと思いましたが、そこで考えなおしました。大学を出て、ろくに社会のことも知らずに教職に着くのはどうなんだろう?それでちゃんと社会のことが教えられるんだろうか。
そう考えた鈴木さんは教員採用試験を受けることはやめ、大原学園に事務職員として就職することになりました。そして、学生管理課や広報課で6年半、仕事をしました。仕事はそれなりに充実感もありましたし、仕事仲間とバンド活動などして、プライベートも充実していました。

 しかし、どうしても考古学を勉強したい、との気持ちが抑えられなくなり、國學院大學史学科考古学専攻に学士入学をします。2回目の学生生活、ずっと土と対話する日々はとても充実していました。こうして、死ぬまでに一度はやりたかったという学問にものめり込むことができた鈴木さんでした。

 そして、ちょうど2度目の就職を考える頃、元職場の上司である大原法律専門学校の校長先生から電話がかかってきました。「今職場が混沌としているから戻ってきてほしい」という電話でした。鈴木さんは言いました。「面倒くさい仕事はやりたくない」

 それを聞いた校長先生は言いました。
「何を甘いこと言ってるんだ。ラクな仕事なんてあるわけがないだろう!厳しい仕事だからお前に頼むんじゃないか」
 その言葉を聞いて鈴木さんははっとします。そうだ、そのとおりだ。なんで俺はラクな方に流れようとしていたんだろう?
そうして言いました。「お金云々は言いません。3年で結果を出すから、やりましょう」
そして、約束通り結果を出した鈴木さん。その部署には37ヶ月と1日いました。
それでは、そのあとはどこに?

 そのあとで移ったところが、そう、大原学園の作った日本語学校だったのです。
同じ学園内の日本語学校とはいえ、広報課で結果を残し広報課長のポストも用意されていたのに、なぜ新たな日本語教育の世界に…?

 それは鈴木さんが神道学科で実習していた時に遡ります。國學院の実習ですから、実習する神社も伊勢神宮や明治神宮といった、それこそ日本を代表する神社ばかり。外国人観光客も当然大勢来ています。鈴木さんが禊(みそぎ)実習をしていた時のこと、英語で質問されました。「禊(みそぎ)って何?」と。
 一生懸命説明しながら、鈴木さんは思ったのです。こういうのを欲している人がいるなら、伝授する役割がある。そして、それは神職に至らなかった自分が担っている役割なのではないかと…。
 
 神道学科で勉強したこと、史学科で勉強したこと、広報課で仕事をしたこと、全てが日本語教育への一本の道につながる!鈴木さんの中で強い確信が生まれました。
 そして、その後は日本語教育の一本道を真摯に歩いて来られました。
 
 よく多文化共生って難しいですね、という人がいるけれど、それは難しいことではないんだと結論づけることが、宗教をやり、歴史をやり、日本語教育をやってきた自分がやりたいことなのだと、力強くおっしゃってくださるのでした。
 
 日本語教育の世界では以前このブログでも書かせていただいた金子史朗先生がマブダチです。金子先生は東京外大ボート部OBなのですが、新しいボートの進水式をやった時は、鈴木さんが烏帽子をかぶり神主の格好でお祓いをされたそうです。そんな金子先生はじめ及川先生中村先生と日本語教育について議論を戦わせることがとても楽しい時間です。
 とにかく今は仕事が楽しい!と本当に楽しそうにおっしゃるのでした。
 
 そして、仕事以外の楽しみは青春18切符で各駅停車の旅をすること。富山にも白馬経由で真夏にいらしたことがあるそうですが、今度はぜひ冬のお魚の美味しい季節においでください。富山の美味しいお酒を飲みながら、日本語教育のこと、多文化共生のことについてお話させていただくのを楽しみにしています。
今日の人51.及川信之さん [2012年08月08日(Wed)]
 今日の人は、東京三立学院副校長兼教務主任の及川信之さんです。及川先生は日本語教育振興協会の主任教員研修実行委員長も務めていらっしゃいます。
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 及川先生は1964年、東京オリンピックの年に札幌で生まれ、18歳まで札幌で育ちました。子どもの頃は、今と真逆の性格で、自分に全く自信がなく、コンプレックスの塊でした。5歳くらいの時に、いつも一歩引いている自分を自覚していたそうです。
 それが変わったのは小学校4年生の時でした。その時まで及川少年は自転車に乗れませんでした。それまではお下がりの自転車しか持っていなかったし、下手くそと言われるのが嫌で、あえて乗ろうとはしなかったのですが、新品の自転車を買ってもらい、必死に練習したのです。きっと自分に中にも、自分を変えたいという思いがあったのかもしれない。そして自転車に乗れるようになった時、「僕もやればできるんだ!」という自信が生まれました。そして、とび箱で3段多く飛べるようになったり、走るのが速くなったりしたことも自信につながり、友達の数がうんと増えました。
 この時、及川少年は思ったのです。自分が変われば環境は変えられるんだ。いろんなことに受け身でいちゃいけないんだ、と。
  
 こうして、積極的になっていった及川先生。中学生の時には、教育雑誌の読者のページで「みんなでつながりませんか」と呼びかけて、毎月全国の100人から手紙をもらって、その手紙を元に新聞を作っていました。みんなが書いてくれたひと言を新聞に載せ、それをまたみんなに送るのです。この時思いました。「誰かが何かを始めないと、新しいことは生まれない。僕は何かを生み出していける人間になろう」
 
 高校の時は生徒会の文化委員長として活躍します。イベントが好きで、いいね、と感じたことはやろう、という主義でした。やろうとして頓挫するのは仕方がないけれど、やらないうちにあきらめるのは面白くない。何か欲しいけれど、それがない時は、外から買ってくるんじゃなくて、まず組み合わせを考えて自分たちで作り出そう。全てのアイディアは組み合わせの妙から生まれると思っています。自分ができることを工夫して価値を生むことに喜びを感じる及川先生。
 ですから、先生の作られる教材はいつも創意工夫にあふれています。常に何かの価値を生み出していきたい!それは及川先生にとって、一生をかけた課題です。

 大学時代には、新宿のスナックでのアルバイトも経験しました。ここで、いろいろな人の話しを傾聴することの大切さを学びました。こんな話、自分には関係ないや、ではなく、全てのことが自分に関係があるんだと感じました。こちらの受け止め方次第で、どんな話にも興味が持てるし、こちらが真剣に聞けば聞くほど、真剣に話してくれました。60代の会社の重役の人たちが、こんな若造相手に想いを吐露してくれる、ああ、聴くって大事なんだなぁと、身を持って実感したのでした。
 
 大学を卒業した及川先生は、大阪で半年営業の仕事をやりました。しかし、自分でいいと思ったものでないと売れない性格だったので、営業の仕事は半年で辞め、その後、塾や予備校の講師の仕事を始めます。大阪で2年半過ごしましたが、及川先生は関西弁に染まりませんでした。なんちゃって関西弁を使いたくなかったのです。しかし、関西弁を使わなくても、よそ者扱いをされず、関西の懐の深さを感じました。異文化を排除するのではなく、相手の良さを認めて、自分のアイデンティティも守ることの大切さを学んだのでした。マイノリティをどう受け止めるか、及川先生がその素地を伝えてもらったところは新宿のスナックであり、大阪だったのでした。
 
 この時の経験から、そして、日本語教師をしてきた経験から、外国の人が日本に入ってきた時に、自国の文化、アイデンティティを守りながら、その土地の文化をしなやかに吸収して、かつ自分の文化も上手に伝えていくこと、それが大事だと及川先生は考えています。

 さて、大阪で予備校の講師をしていた及川先生が日本語教育に出会ったのは、30歳を過ぎてからでした。留学生は純粋に学びたい人たちにちがいない、と勘違い?した及川先生は、養成講座を受け、日本語教師としてスタートします。創意工夫して新しいものを作り出していくことが大好きだった及川先生に日本語教育の現場はぴったりでした。そして、自分が大阪でしなやかに受け止めてもらえたように、自分も外国の人たちをしなやかにうけとめていこう、そう思って日々留学生と接しています。留学生には多様な人がいます。その学生の多様性を受け入れていく力、これは日本語教師にとっては欠くべからざる要素です。
 
 今、多くの若い日本語教師を指導する立場にある及川先生が伝えたいことは、何もないところから作り出す力を大切にしてほしい、ということです。例えば、教材が何もない砂漠でも日本語を教えられる、そんな教師になってほしい。何かがなければできません、という教師にはなってほしくない。
 及川先生は留学生に何かを考えさせる時間を授業の中でたくさん取り入れています。教師はQ&Aではなく、Q&Hでいこう。Hはヒントです。答えを与えてしまうのではなく、ヒントを与えて、答えを出すのはあくまでも学習者であって欲しい、そう思っています。
 
 こんなふうに日本語教育に情熱たっぷりの及川先生、プライベートではいろいろな分野の第一線で活躍している人たちを見るのが大好きです。演劇、スポーツ、音楽、共通して、何かを極めた人のすごさを感じます。生で見るのはもちろんその凄さをいちばん感じられて好きですが、画面を通してでも、そのエネルギーを感じることができます。何かを突破した人は美しい。その美しさは人の心の奥底に響きます。その美しさを感じるのが大好きなのだ、と及川先生。ロンドンオリンピックで生まれる数々のトップアスリートのドラマにきっと寝不足の毎日を送られていることでしょう!
 
 そして及川先生は、日本語教育の世界で自分がトップアスリートでいたい、そう思っています。しかし、それと同時に、次の世代をきちんと育てていきたい、それもとても大切にしています。日本語教育振興協会の主任教員研修実行委員長として、全国の日本語教師を指導する立場の及川先生。日本語教師のネットワーク作りにも力を注いでいらっしゃいます。

 これからもその日本語教育にかける情熱で、たくさんの若い日本語教師を育てていってくださいね。私も日本語教育に関わる一人として、そしてダイバーシティを広めていく一人として、地域と日本語教師をつないでいきたい、そう思っています。

次項有
アクラス日本語教育研究所で、「『これからの日本語学校』について考えてみませんか」と題した日本語サロンが開催されます。及川先生が講師なので、お近くの方はぜひいらしてくださいね!
http://www.acras.jp/?p=502

8月は日本語教育関係の大会が盛りだくさんです。

8月10日、11日 日本語教育振興協会 日本語学校教育研究大会

8月17日~19日 日本語教育学会主催 2012日本語教育国際研究大会 名古屋2012
この学会では17日の特別企画イベントで「みんなのまちづくり-震災のあと行ってきたこと、これから行っていくこと」が行われますし、18日は多文化映画祭も行われて、日本語教育と多文化共生をつなぐ学会にもなりそうです。

8月31日 文化庁日本語教育大会
こちらも特別講演とパネルディスカッションのファシリテーターは田村太郎さん!今年の夏は今まで近そうで遠かった日本語教育の分野と多文化共生の分野をつなぐ企画が盛りだくさんです!
今日の人47.嶋田和子さん [2012年07月18日(Wed)]
 今日の人は、一般社団法人アクラス日本語教育研究所代表理事、社団法人日本語教育学会副会長の嶋田和子さんです。
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 嶋田先生は日本語教育に携わっている人間だったら、知らない人はいない位、有名な先生です。でも、そんなことをちっとも感じさせずにとっても気さくにお話くださる温かな先生なのです。
 
 嶋田先生は1946年生まれ、子どもの頃は外遊びが好きで、いつも近所の仲間とわいわい外で遊んでいました。運動も得意で短距離走、長距離走ともに学校代表を務めたりしていました。今よりずっと男性中心社会だった当時としては珍しく、中学時代には女子として初の生徒会長を務めます。そして津田塾大学の英文科で学び、大学ではテニス部で活躍するなど、まさに文武両道を地で行く学生時代だったのでした。

 大学を卒業後は、単なる事務職になるのが嫌で、外資系の銀行に就職します。でも、まだまだ親の意向には逆らえない時代。親の薦めでお見合い結婚し、専業主婦に。
 長男が生まれ、その翌年には双子の次男三男が生まれ、子育てに忙しい毎日でした。でも、ただ子育てしているわけではありませんでした。子育てしながら、勉強会をいろいろと開催していました。そして、いかに家事を効率的にやるかも研究しました。でもそれは手抜きして効率的に、というやり方ではありません。その時の嶋田先生は、パンも味噌も全て手作り。編み物も全て自分でやるという徹底ぶりでした。
 そうして下の子どもたちが小学校を卒業するまで、専業主婦を続けました。そして、彼らが小学校を卒業するとき、家族と話し合いの時間を持ちました。「これからお母さんは働こうと思うの。でもそうなると、あなた達にもお手伝いしてもらわなきゃいけないわ」
母が働きに出るのを子どもたちは反対するかと思いきや、返ってきたのは「やった~!」という反応でした。子どもたちは言いました。
「一度鍵っ子になってみたかったんだよね」

 嶋田先生は、カウンセリングにも興味があり、心理研究所でも勉強していました。ある時、英語のカウンセリングを目にする機会があり、言語のちがいでカウンセリングにもこんなにちがいが出るものなのか、と驚きます。それがきっかけで、言語のちがいに興味を持つようになりました。そして、日本語教育に出会ったのです!

 わずか一ヶ月だけ養成講座に通って、すぐに日本語教師になった嶋田先生。そこからまっしぐらに日本語教育に打ち込んできました。なにしろ、全てが手探りなので、なんでも自分で作り出していくしかありませんでした。そして、嶋田先生の素晴らしいところは、それを自分一人のものにしておかないということでした。自分の作り出したものはすべて惜しみなくシェアしました。嶋田先生がシェアし続けていると、周りの先生方も変わり始めました。みんなそれを倣って、自分の考えたものをシェアするようになっていったのです。こうして、嶋田先生が働いていらしたイーストウエスト日本語学校は、学びの協働体へと変わって行きました。

 嶋田先生は1997年にOPIに出会ったのも大きかったとおっしゃいます。OPIというのは外国語学習者の会話のタスク達成能力を、一般的な能力基準を参照しながら対面のインタビュー方式で判定するテストのことです。
OPIに出会い、言語教育観が変わりました。そして、OPIを取り入れていくうちに、イーストウエスト日本語学校のカリキュラムも変わっていきました。

 1997年は財団法人日本語教育振興協会主催の日本語教育研究大会で初めて日本語教師による口頭発表会も行われた年でした。現場を多く知る日本語学校の日本語教師が口頭発表の場に出たのです。そして、それを発表したのが嶋田先生でした。先生は「韓国語話者の発音指導について」発表されたのですが、みなさんに好評で、大学の先生方や他の日本語学校の校長などから「大変おもしろかったので、ぜひ講義をしてほしい」と言われました。
 それまで、そのような場で発表したことはありませんでした。発表について指導してくれる人もいなかったし、経験もなかった。でも、それまで現場で教えてきた、その実践の積み重ねがありました。その発表を機会にして、次々に発表する機会も増えていきました。

 日本語教師の中には、私は発表の仕方なんてわからないから、やったことがないから、と尻込みする人も多いけれど、なんでも捨て身でチャレンジしていくと、必ず次につながっていくものよ、と嶋田先生は力強くおっしゃいます。

 そして1999年には日本語教育学会の評議員にも選ばれます。こちらも、それまでは大学の先生ばかりで、日本語学校の日本語教師が選ばれたことはほとんどありませんでした。しかし、選ばれたからには、と嶋田先生は一度も評議会を休まず、日本語学校を代表する気持ちでずっと意見を言い続けました。すると、日本語教育学会も変わっていったのです。
 今や嶋田先生は日本語教育学会の副会長にまでなられました。

 こうして、日本語教育界で日本語学校の日本語教師の地位をぐっと押し上げてくださったのが嶋田和子先生その人なのでした。

 何かあったらとにかく動く、そして個人の学びを組織の知見にしていくことで、その組織は活性化する。そういう作業をコツコツと積み重ねてこられた嶋田先生。その大きな成果のひとつが、「できる日本語」という日本語の教科書です。
「できる日本語」はこれまでとはまったくコンセプトのちがう新しい教科書。文法積み上げ式ではなく、日本語によるコミュニケーションができることを目指し、「自分のこと/自分の考えを伝える力」「伝え合う・語り合う日本語力」を身に付けることを目的にした教科書です。コミュニケーションで重要なのは、言語知識そのものでなく、自分の持つ言語知識を使って何ができるか、ということです。この考え方を重視し開発されたのが、「できる日本語」です。そして、この教科書の開発に携わったのは18人の教師、そして出版社も日本語の大手の出版社2社が協働でできた教科書。それこそ、個人の学びを組織の知見に、そしてみんながつながってものを作り上げていく、という嶋田先生の想いがぎゅっと込められた教科書が出来上がったのでした。それを如実に物語っているのが、教科書の最後のページです。教科書作成に携わった教師、編集者、出版社、そのページには、たくさんの人のつながりの輪が表されているのです。
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 今、嶋田先生は、「できる日本語」のコンセプトをもっともっと広めていきたいと思っています。そのために勉強会に呼ばれれば、全国各地に出かけています。
 そして、日本の教育を日本語教育で変えることが、嶋田先生の夢です。制度をきちんと整え、日本語教育で教育界全体を活性化していきたい。それが夢物語だとは思っていません。そんな嶋田先生たちの想いが描かれた本があります。
日本語教育でつくる社会 私たちの見取り図 著者:日本語教育政策マスタープラン研究会」
この本の中で、嶋田先生は、「地域力を育む日本語学校」として日本語教育の生きた現場としての日本語学校が、外国人に日本語を教えるだけでなく、地域を元気にする力を持っていることを示し、その力をフルに引き出すために体制整備が重要であると強調されています。
そして、日本語教師が社会でもっと活躍できるように、もっと認知されるようにしていきたい、日本語教師といろいろな人々をつないでいきたい!そういう想いで、今年の3月末に「アクラス日本語教育研究所」を設立されたのです。アクラスというのは、「明日に向かって」という意味があるそうです。利益をうまなくてもいいから、みんなが集える場を作りたかった。学会でもなく、日本語学校でもなく、大学でもなく、誰でも気軽に集えて、そして学べて、つながっていける場、それがアクラスなのです。

「人生何が起きるかわからないものよ、私は何かが起こった時に、即決断するようにしているの。」と嶋田先生。
 長年勤めてきたイーストウエストをお辞めになることになるとき、「私がしたいのは人つなぎ!」と他からのお誘いは断り、颯爽とアクラス日本語教育研究所を立ち上げられたのです。
そして今、嶋田先生はご自身でホームヘルパー2級の実習にも通っておられます。それは、定住外国人の社会参加や自己実現の一つの方法として、介護の道があると考えたからなのです。そのためには、まずは介護の現場を知りたいと考え、講座に通い始めました。
 介護の日本語教育によって、定住外国人は「ホームヘルパー→介護士→ケアマネージャー」といったキャリアデザインが考えられます。また、日本語教師の雇用創出にも繋がりますし、さらには地域社会の活性化にもつながります。そんな思いで、今、ホームヘルパー2級の実習に通っているのだそうです。

 今まで接したことのない人たちの中に行くと、全てが新鮮です。そして新たな学びを得ることが非常に多い。それが全て日本語教育にもフィードバックされてくるのが楽しくてたまらない、と嶋田先生。

 日本語学校、日本語教師、地域の人たち、全てをつないでいきたい
そうアクラス、明日に向かって…

 嶋田先生の情熱を、私たちも少しでも見習って、地域を元気にしていくためにがんばっていきたいとの想いを強くした、今回のインタビューでした。


次項有嶋田先生がいつも発信していらっしゃるページはこちら!
日本語教育〈みんなの広場〉
http://nihongohiroba.com/
アクラス日本語教育研究所
http://www.acras.jp/
今日の人36.川合 径さん パート.2 [2012年04月19日(Thu)]
(パート.1からつづきます)

大学3年生になると、明治大農学部でいちばん厳しいといわれているゼミに入りました。都市緑化、そして街と共存していくことをテーマとして扱うそのゼミで、人類の発展と自然との共存ができる循環型社会の仕組みに出会い、心が震えました。

3年の終わりには就職が決まった径さん。ビジネスのことを何も知らずに環境や循環社会のことを唱えても、ただの絵空事になると思ったので、まずはビジネスの世界に飛び込んでみようと思ったのでした。

入社したのは、半導体の商社です。ビジネスの世界は刺激的でした。いろんなことを自分自身で背負っていかなければならなかったけれど、それがおもしろかった。そうして無我夢中で3年の歳月が流れましたが、ただ、それだけに夢中になっているのは何か違う気がしました。
 
自分の原点の想いは何か?そう環境問題に取り組むことで循環型社会を創っていくこと。そこで径さんは、仕事とは別に街づくりのボランティア、「渋谷Flowerプロジェクト」の活動に真剣に取り組むようになりました。渋谷で遊んで、買い物して、ご飯を食べて、花を育てる。若者が変われば渋谷が変わる。渋谷が変われば東京が変わる。東京が変われば日本が変わる。渋谷を花と緑でいっぱいの街に!そこから始まる新しいカタチ、それが『渋谷Flowerプロジェクト』でした。

その活動に真剣に取り組めば取り組むほどに、径さんは、自分の本当にやりたいことは半導体の営業ではなく、循環型社会を創るために動いていくことだと強く思うようになっていきました。そして、ビジネススクールでちゃんと勉強しようと思い、2006年に入ったビジネススクールで、福島正伸さんと出会います。そして、その出会いが径さんの運命を変えることになります。

2007年10月、会社から部署異動を告げられた径さん、営業からマーケティング部門への異動でした。そこで径さんは思います。社内で新しい仕事をするにせよ、社外で新しい仕事をするにせよ、いずれにしても新たな仕事に取り組むなら、自分の夢を追いかけられる仕事をしよう!そう決意した径さんは、商社を辞めて、アントレプレナーセンターへ転職。そしてそこからはドリームプランプレゼンテーション世界大会の事務局長として八面六臂のご活躍です。

ドリプラを通して、仕事を通して、勉学を通して、生活を通して、今まで自分を育ててくれた仲間に心から感謝。育ててもらった分、待ってもらった分、もらってばかりだった分、恩返しをしたい。次は機会を生み出す、出番をつくる人間となりたい。
子どもに対して、親としての背中を見せたい。今まで自分がしてもらってきたように。勇気を持って、道を切り開き、出番をつくっていきたい。
ドリプラを通して、全国各地に素晴らしい仲間ができた。その仲間と世の中を変えていくツールがドリプラなのだ!
そう思った時に、もっと地域を元気にしていこう!もっと日本をよくしていこう!そういう使命感がふつふつと湧いてくるのです。だから決して妥協できない。
・・・それが、径さんのドリプラに関わる思いです。

アントレプレナーセンターに入って5年目。そろそろ新しい何かにチャレンジしていこうと思っている径さん。今、夢の国東北プロジェクトの事務局として、東北にも深く関わっています。東北の人自らが自分たちの地域を作っていくために夢を語る、そんなプロジェクトに携われることに誇りを感じます。なぜなら径さん自身の夢が、地域が自立して自然環境を整え、それを次の世代に継承していく、そんな循環型の社会を創ることだから。

今、全国各地で限界集落がものすごく増えている。でも、脈々と受け継がれてきたものを、自分たちの時代でつぶしていいのか?ずっと昔から引き継がれてきたこの世界を、ちゃんと次の世代へと引き継いでいかなければならない、それが径さんの深い想いです。

自分は不器用で、同じことを同時にやるのは無理だと思っていたけれど、ドリプラのこと、東北プロジェクトのこと、そして家族のこと、同時にやるのがすごく楽しいと語る径さん。それぞれ別のことをやっているように見えたとしても、実はそれは全てつながっているのだ、そう強く思います。

そして、何かを為す時は、常に自分の意志で選んでいこう!そう決めています。
常に自ら行動して、突破口を開いてきた径さん。これまでも、そしてこれからも、夢とともに走り続けるカッコイイ男なのでした。


次項有径さんが事務局長をされているドリームプランプレゼンテーション世界大会をはじめとして、日本各地でドリプラは開催中です。
ここ北陸でも、4月7日に行われた、杉谷ドリプラを皮切りに、4月22日には福井ドリプラ、6月3日に、春の金沢ドリプラ、8月19日に富山ドリプラ、9月30日に秋の金沢ドリプラが開催されます。6月3日の金沢ドリプラには私もゲストプレゼンターとして参加させていただきます。たくさんの方とドリプラでお会いできることを楽しみにしています!

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ドリプラで最高のチームがうまれます!
今日の人36.川合 径さん パート.1 [2012年04月18日(Wed)]
 今日の人は、ドリームプランプレゼンテーション世界大会事務局長、川合 径さんです。
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径さんは千葉県野田市生まれ。中学校のときに寅さんでおなじみの東京の葛飾柴又に引っ越します。初恋の人は銀河鉄道999のメーテル!でも、そんなロマンチストな面がある一方、少年時代は野球に明け暮れ、友達と廃墟の病院で探検ごっこをし、暗くなるまで毎日元気に外で遊ぶ子どもでした。今は本当に熱い男のイメージの径さんですが、実はとっても人見知りで恥ずかしがり屋だったそうです。二卵性双生児のお兄さんとは喧嘩ばかりしていました。とにかく野球が大好きで、小学校の時は花形ポジションのショートを守っていましたが、中学ではその兄も野球部に入ったことから、野球部は断念。代わりに入ったのがワンダーフォーゲル部でした。親が山登りが好きで、小さい時から山登りをしていたので、自然に山に足が向いたのかもしれません。
 シャイだけど、行動せずにはいられないのが径さん。小学校の時は児童会で、中学では生徒会長として活躍しました。何ができるかはわからないけど、とにかく打ち上げてやってみる、それがモットーでした。都内の各中学校からオーストラリアとニュージーランドに10日間派遣された時のメンバーにも選ばれました。それまで、友達といえば近所か学校にしかいなかったけど、違うところに飛び込んでも気心が知れる友達がすぐにできるんだ!そして、海外に行ってもなんとかなるんだ!この経験が、知らないところに行っても大丈夫だという径さんの自信につながりました。
 高校は都立国際高校、帰国子女が多く、女子対男子の割合が6:1という高校でした。自由な校風でのびのびとした高校生活。授業をさぼって遊んでいたこともありましたが、文化祭や体育祭では応援団としても活躍しました。野球部に入りたかったのですが、なにしろ男子の少ない学校、野球部はなく、バスケ部を選んだ径さんなのでした。
 いつも自分にとって厳しい方を選んでしまうのは昔から変わらないようです。当時も生物学系なのに、物理を選んで苦労したりもしていました。帰国子女が多い学校にもかかわらず、アメリカの在り方について異論を唱えて議論になったりもしましたが、どんなに議論になろうと、決して友達から嫌われるようなことがないのが径さん。一緒にいる人を包み込んでしまう、そんな素敵な魅力を持った人なのです。
 径さんは小さいときからずっと自然の中にいるのが好きでした。緑を守りたい、そして環境問題がやりたい、そう思って、大学では農学部を選びました。でも1年生の時は自分が夢中になれることが見つからず、自分が切り替わるポイントはどこだろうと思いながら悶々と過ごす日々が続きました。しかし、大学2年の春休みに、友達と二人で東南アジアに2週間のバックパックに行ったことで、径さんはバックパックの魅力に取りつかれます。すっかり放浪癖がつき、タイ、ベトナム、ラオス、トルコ、シリア、ヨルダン、イスラエル、インド、モロッコと歩きました。シリアで経験したことも忘れられません。いつも悪いイメージの報道ばかりされているアラブ人にしろ、クルド人にしろ、径さんには本当に親切にしてくれました。「この人たちはこんなに純粋で、旅人にこんなに親切にしてくれる人たちなんだ」この経験から、径さんは本当のことは現地に行ってみないとわからないということを強く感じました。そして、日本の報道はなんてアメリカ寄りなんだろうということも痛感し、巷にあふれる情報をうのみにせず、自分自身が見て聞いたことを大切にしていこうと固く心に誓いました。と同時に、人は絶対に評価してはいけない、評価してしまうとそのことに振り回されてしまう、との思いにも至ったのでした。

(パート.2に続きます)
今日の人21.岩田真理子さん [2011年12月19日(Mon)]
 今日の人は、東京在住、ERAN株式会社代表取締役の岩田真理子さんです。

岩田さんは小学校1年生の時からJALのスチュワーデスになろうと決めていたそうです。お友達のお母様にとても素敵な方がいらして、その方がJALのスチュワーデスだったので、こんな素敵な大人になりたい、と思い一途にその思いを貫きました。
そして、狭き門をくぐりぬけて本当にJALのスチュワーデスになったのでした。なりたくてなりたくて仕方なかった仕事です。もう毎日が楽しくて、8年間全く風邪も引かず、無欠勤を通していました。
しかし、8年目のある時、フライト中に首を痛め、しばらく休むことになりました。時間ができると今まで考えなかったいろいろなことが頭に浮かびます。フライトでは、いつも一流企業のトップの人たちが乗ってこられるけど、乗っているおじさまたちの行動言動がとてもトップの人とは思えないことが多すぎる・・・。こういう人たちが日本経済を動かしていて日本は大丈夫なの・・・?いえ、大丈夫じゃない、と思った岩田さん。
あんなに好きでたまらなかった仕事を「このままじゃ日本は危ないのでやめます!」と言って辞めたのです。
その後はたくさんの企業の社長さんたちにコーチングをする仕事もしていましたが、お金や地位の幻想に囚われすぎて、好きなことだけしてなんて生きていけるものか、と思っている人があまりにも多いことに愕然としました。それなら、好きなことだけして生きていける、のサンプルになりたい、と決意したのです。
今の世の中、正しさの仮面をかぶって裏で愚痴を言ったり不平不満を抱いている人が多すぎる。それは身体をいじめていることにもなる、と感じる岩田さん。自分が思っているより、体はよりよく生きようと思っている。そのためにはまず、自律神経を整えて、体を解放してあげることで、心もいきいきとしてくるとおっしゃいます。
 仕事を言い訳にして、家族のことも自分の身体のことも放っておいたら、いずれ病気になってしまいます。自分の命が喜ばないようなことをしない、体の声をちゃんと聴く、そんな実践をしている岩田さん、今は言葉の波動の研究もしていらっしゃいます。言葉には波動がある。いい言葉を使うようにすると、体が喜びます。逆に悪い言葉を使っていると体に不調が現れる。確かに言葉にはそれだけのパワーがあるのでしょうね。
親の言葉がけひとつで子どもの態度が全然ちがってくることを見てもそれはひしひしと感じます。いっつも子ども達にプラスの言葉がけをしてやれているかしら、と反省。
 岩田さんの会社はERANといいます。EN(縁)の中にRA(裸〜素の自分〜)という言葉を入れてありのままでお互いを受け入れあえる社会という願いが込められています。楽しくないという人が減って、命に感謝して生きられる地球になったらいいな、と岩田さん。今、これだけたくさんの人が飢えでなくなっている現実をどうにかしたい。総カロリーでは地球上の全ての人が生存できるカロリー量を満たしているのに。
 人間はみんなハッピーになる遺伝子を持っている。全ての人がそこがオンになれば、きっと笑って楽しく暮らせる地球になると信じているクローバーと岩田さん。
 こちらまで明るい気分にさせてくれる言葉の力を持った方でしたウインク

今日の人8.金子史朗さん [2011年11月21日(Mon)]
 今日の人は学校法人トラベルジャーナル学園東京日本語文化学校教務主任の金子史朗さんです。金子先生は月刊日本語で連載もお持ちですし、もお書きになっていらして、日本語教育界にはファンもたくさん笑い
 そんな金子先生、実は私と同じ1968年生まれです。中曽根内閣の発表した留学生10万人計画によって日本語教師が1万人必要になるというニュースを耳にしたのが高校1年生のとき。せっかく日本に留学するなら、せめて日本に来る前に「こんにちは」と「ありがとう」くらいは覚えてきてほしい!そうだ!どうせなら自分が外国へ行ってそれを教える人間になろう!じゃあ、どこの国がいい?やっぱりアジアだな。アジア…東南アジア…そうだ、インドネシアに行って教えようびっくり
なぜ、インドネシアだったのかはご自分でもわからないそうですが、とにかく、インドネシアだと思われたそうです。そのためには自分もインドネシア語を学んでおかなくちゃ、と思って東京外大でインドネシア語を専攻。思ったことを確実に実行されるところがホントにすばらしいキラキラその後、インターカルト日本語学校の日本語教員養成研究所で学ばれ(実はインターカルトで学んだ、というのも金子先生と私の共通点なのでしたウインク)、卒業後はインターカルト日本語学校インドネシア校で1年半教えてこられました。金子先生にとって、この1年半は今振り返っても一番楽しい時間だったそうです。中学高校時代にサッカー部だった金子先生は、インドネシアのサッカーチームにも入って週末にはサッカーを楽しみました。そしてその後はみんなで茶話会です。(インドネシアはイスラムの人が多く、お酒を飲まないのでお茶になるのです)早口になると3割くらいしか聞き取れなかったけれど、この時間が実に楽しかった笑顔
 でも、居心地のいいインドネシアにずっといては、日本語教師のレベルとしては高いクオリティを持てないと判断して、帰国。その後はずっと第一線でご活躍です。今も学校で教務主任としてお忙しい毎日の傍ら、日本語教育学会の実践研究フォーラムの委員等でご活躍。
 そんな金子先生、ちがいをプラスにするには、とにかく相手をリスぺクトすることだとおっしゃいます。リスペクトしていれば、自然に相手を受け入れられるようになる。そのためにも、ご自身もいろんな場に身をおくようにされています。大学のボート部OB会の事務局長をされたり、カトリック小岩教会の運営委員長をされたりと八面六臂のご活躍。多様な価値観を尊敬をもって受け入れる、まさにダイバーシティなお考えの金子先生なのでした。
 
今日の人7.中村和弘さん [2011年11月19日(Sat)]
 今日の人はカイ日本語スクール教務主任の中村和弘さんです。全国で(財)日本語教育振興協会の認定している日本語教育機関は22年度で449校、学生数は43669人に上りますが、日本語教育機関で働いている日本語教師の間では超有名人の中村先生でいらっしゃいます。笑顔
 中村先生、友人が卒業旅行でヨーロッパに旅行しているのを見て、自分もヨーロッパを旅してまわろうと思われたそうです。その時に5年間働いて1年間ヨーロッパをまわろうと決め、実際にそれを実行なさったところがすごい!そしてロケバスの運転手等してヨーロッパ行の資金を貯め、ヨーロッパに渡りました。大学で仏文学を専攻されていたので、フランス語の学校に行こうかと思いましたが、仏語の学校は高かった。それで値段が3分の1くらいのスペイン語の学校に入ろうと決め、「スペイン語のすすめ」という本でとりあえず「こんにちは」と「ありがとう」は覚えてスペインのマラガに。マラガは地中海に面した都市で、ピカソの出身地としても有名です。そこで2か月勉強し、少しは話せるようになったころ、ルームメイトのスウェーデン人が帰国するといったので、一緒にスウェーデンに行ったり、12月のビーチで止めてあるボートに入って寝泊りしたり、また戻って勉強したり、と、とにかく自由にヨーロッパ中を旅して歩いた1年間でした。今までで一番楽しかった時はいつかと振り返ると、やっぱりこの1年間だったと思う、とホントに楽しそうに言われる中村先生。
 日本に帰ってきた時は、日本語教育の草創期。中曽根内閣が留学生10万人計画を打ち上げて留学生が増えている時期でもありました。でも、まだ日本語教師養成のはっきりとしたカリキュラムのある時代ではなく、’88年に信濃町にあった日本スペイン教会で40時間の日本語教師養成講座を受け、その後すぐに日本語教師として授業を受け持つことに。なんと今では考えられないことですが、1クラス40人!バングラ、フィリピン、中国の学生たちが混在するクラスで、熱気むんむんでした。そんな大所帯なクラスでも授業が大変だと感じたことは一度もなく、むしろいつもわくわくしながら授業にあたられていたそうです。
 その後、何回か仕事先を変えましたが、13年前からはずっとカイ日本語スクールで教えられている中村先生。自分が日本語教師を始めたころは、午前に授業をして、午後は場所を変え、長居できる喫茶店などで「今日の授業のこの文型はね…」「こういう教え方だとね」と日本語教師同士で熱く語りあっていらしたそうです。その後 飲みに行って、時には夜中まで話し込むことも。遊びつつ、勉強しつつ、そんな毎日が楽しくて仕方なかったと、中村先生。
50代になった今は教務主任として大変お忙しい毎日を過ごしていらっしゃいますが、仕事だけにとどまらず、町内会の行事で焼き鳥を1500本焼いたり、少年ソフトの審判をしたり、といろんな所でご活躍です。
 多い時には50か国の学生が学んでいるカイ日本語スクール。ちがいをプラスにするには、何でもおもしろがることが大切じゃないかな、とおっしゃる中村先生。
例えば未知の食べ物があったとしたら、え〜やだ〜、と眉間にしわを寄せるんじゃなくて、どんな味かな、と食べてみようとする。同じ価値観をもってる人間は、つっこむところが少ない。ちがうから突っ込みどころ満載でおもしろいんだよね。なんでも食わず嫌いはやめて、首をつっこもうよ、その方が人生ぜったいおもしろいから音符そう、いくつになっても好奇心にあふれてわくわくしている方のそばにいると、こちらもわくわくしてきますよねウインク
 これからもそのバイタリティで日本語教育界を引っ張っていってくださいね!