今日の人157.成田 裕さん [2016年03月19日(Sat)]
今日の人は自然体験を通して子どもたちと青少年への「心の教育」を行っているNPO法人ガイア自然学校代表の成田裕さんです。
http://gaia-natureschool.com/ 成田さんは昭和45年に京都で生まれ育ちました。伏見区で周りに自然も多く、そんな中で遊ぶのが大好きでした。幼稚園の時になりたかったのはゴジラか警察官でした。 小学校も寺の境内にあって、山も近くにあったので、虫捕りをしたりしていました。ツタでターザンごっこをして遊んでいた時に、ツタをつかんでいた手がつるっと滑ってバシャーンと川に落ちてしまったので、バシャーンというあだ名をつけられていた時もありました。体が小さくて弱かったので、強くなりたいと思い、小学校3年生から近所の道場で柔道を習い始めます。刑務所の看守さんがやっている道場で、ここで成田さんは高校まで柔道を続けました。 中学時代は水泳部に入りましたが、あまり外で出かけることはせず、家と学校の往復のみという感じでした。家にずっといてひたすらファミコンをやっていたので、今引きこもってゲームをしている人の気持ちも理解できます。しかし、中3からは勉強はしっかりがんばって、進学校の洛南高校に進みました。男子校で色恋めいたことは全くありませんでしたが、友だちがキャンプのボランティアに行って彼女が出来たことから、自分も彼女ができればいいなという考えでキャンプのボランティアに参加。それが成田さんの人生を大きく変えることになったのです。 そのキャンプは主に大学生のボランティアが障がいを持った子をキャンプに連れていくというものだったのですが、その大学生がみんなとてもいきいきとしている様子を見て、自分もこういう人になりたいと強く思いました。その思いがあまりにも強すぎて、キャンプ場を持っていることを基準にして大学を選びました。そうして推薦で京都産業大学の経済学部に入り、4年間はそれこそキャンプ漬けでした。あまり人付きあいが得意ではなかった成田さんでしたが、人とコミュニケーションが取れるようになり、人として大きく成長させてくれたのがキャンプでした。その活動を通して彼女もできました。(その後その彼女と結婚し、3人の男の子にも恵まれました。) 大学のキャンプ場は丹後にあったのですが、マネージメントも大学生自身がやっていました。一度担当が決まると、4年間通してそのネクター(担当者のことをネクターと呼びます)を責任を持ってやるのですが、人気が偏るのが海の安全管理のネクターでした。成田さんはいろいろ話し合った末、料理担当になりました。4年間、そうやって料理を担当したことが、今もすごく役立っています。料理の流れを組み立てるのは楽しいし、30人分とかの大量の料理はとても得意です。逆に少人数の料理が苦手なのでした。 そして就職もやはりキャンプと縁が切れないところをと考えて、キャンプ場を所有している進学塾に就職します。1年目は営業担当でしたが、2年目から夏に能登島でのキャンプ担当になりました。なにしろひと夏で1200人もの子どもたちが能登島にキャンプにやってきます。それで、夏の間はずっと能登島に張り付いていたのでした。そして夏だけではなく、普段から体験活動をやり始めます。こうして3年で塾の中で自然体験の部門で別会社を立ち上げろと言われた成田さん。自然体験・理科実験・英会話を柱にしたNPO法人を立ち上げたのでした。当初、キャンプも塾の人がやっていたのですが、やりたくない感が満載だったので、子どもたちもあまり乗ってきませんでした。これではいけないと、成田さんは、大学の時のやり方で、大学生でチームを作らせました。これが功を奏して、大学生も子どもたちもイキイキとし始めました。そして、能登島を年中使える施設にしろと言われ、能登島移住を決意します。ちょうど長男が1年生になるタイミングで、奥様も反対されなかったので、家族で能登島に移住してきたのでした。周囲の畑は手付かずだったので、これを何とかしようと畑も開墾し始めました。チェンソー、ユンボ、トラクターと格闘していましたが、やってみてわかったのは、自分は自然体験は好きだし得意だけど、農業は得意ではないということでした。実はその頃、ちょうど妹さん夫婦が就農するために農業研修に通い、農業出来る土地を探していたので、これはちょうどいいと、畑はそっくり妹さん夫婦にお願いすることにしたのです。 しかしキャンプを1年中回すというのももちろん大変なことでした。その頃、成田さんはなぜか極度の体調不良に陥っていました。いったいどうしたというのだろう、そう思って病院に行ったところC型肝炎になっていることが発覚。こうしてインターフェロンによる治療が始まったのですが、それがとてもきつかった。動けないわけではないけれど、体が常にだる重いので、はたから見るとなまけているように見られてしまいます。入院も生まれて初めて経験し、その時初めて「死」というものを意識したのです。今だって、好きなことを仕事にしていると言えばそうかもしれない。でも、心から自分がやりたいことをやっているだろうか?今死ぬとしたら、このままで俺は満足だと言えるのか?そんなことを考えるうち、独立して自分が本当にやりたいことをやろう!そう思うようになりました。 こうしてガイア自然学校を10年前に作り、その翌年の2007年にNPO法人にしました。最初は事務所もなく、金沢のインキュベーション施設エムザに入居しました。そこでの様々な出会いは今につながっています。そこは2年で卒業しなくてはいけなかったので、その後は金沢市内の一軒家を借り、そこを事務所にしました。キャンプを引っ張る大学生も徐々に増え、大学生と子どもがともに成長するという成田さんが思い描く形にだんだん近づいていきました。そしてそこで佛子園の方と出会ったのです。お子さんが成田さんのキャンプに参加されたことがきっかけの出会いでした。 そして社会福祉法人佛子園がShare金沢を展開する時に成田さんにも声がかかりました。そう、キャンプがきっかけで知り合いになった佛子園の方からの声かけでした。そうして、今、時の場所となっているShare金沢にガイア自然学校が入居したのです。シェア金沢は本当にすばらしい街なのですが、ご紹介しているとそれだけで何ページあっても足りないので、ぜひホームページをご覧ください。http://share-kanazawa.com/ こうしてガイア自然学校ではこの4月から学童保育にも本格的に力を入れ始めます。もちろん、ガイアらしく、自然体験のできる学童を特徴にします。今も大学生がたくさん在籍しているガイアですが、どうしてそんなに大学生が集まるのか成田さんにお聞きすると、まずは研修をしっかりしていることを挙げられました。そして、他の団体では、ボランティアをお手伝いと位置づけているところが多いのですが、ガイアではお手伝いではなく一緒に作っていく仲間として大学生と日々つき合っているのです。そんな風に認められているからこそ大学生ボランティアもやりがいを感じて関わり続けるのでしょう。 ちなみにガイア自然学校ではキャンプネームがあるのですが、成田さんはピッカラと呼ばれているそうです。もちろん学生たちにも。なぜピッカラなのかは…成田さんのお写真を見ながら想像してみてくださいね。 先日は学生たちとパラオにワールドキャンプに行ってきました。 ガイアらしく、全くのノープランで飛行機と宿だけ予約して、現地で聞き込み調査をしつつ、日々の予定を決めていました。そういうキャンプがたまらなく楽しくてワクワクする時間です。これからはどんどん海外にも出かけていきたい、そう思っています。 そんな成田さんの夢は、日本中、いや世界中にガイア自然学校が広がること。実はガイア自然学校は富山にもあります。キャンプに興味のある方はぜひ一度訪れてみてはいかがでしょうか。http://gaia-ns.com/toyama/001_how/gaia001_how.htm 「Life is adventure!」という言葉がぴったりでいくつになっても少年のようにキラキラした思いを忘れない、そんな成田さんなのでした。 |