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今日の人185.門野久雄さん [2019年05月24日(Fri)]
 今日の人は、私の父、門野久雄さんです。といっても、直接いろいろ聞くことができないまま、父は帰らぬ人となりました。私が思い出せる範囲で父のことを綴っておこうと思いこれを書いています。
 
 久雄さんは昭和10年12月12日、新湊の堀岡で生まれました。
3人兄弟の末っ子で、当時の写真を見ると、私は父に似ていますね。
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上の写真の右から2番目が父、下の写真の子どもが私

 おばの話によると、兄弟3人の中でおじと父は大変頭がよく、村でも評判だったそうです。おばは「自分だけ頭が悪かったがいちゃ」と言って笑いましたが、86歳の今も、現役で仕事をしていて、認知症とも無縁なのですから、どうしてどうして。
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実家にあった父の通知表

 父のお父さんは、遠洋漁業の漁師でした。長い航海中の博打で、ほとんど収入がないまま帰ってくることもたびたびあったそうです。しかし、お母さんは子ども達のために苦労をいとわない人で、子ども達をすぐに働かせることはせず(当時は中学校を出てすぐに働きに出る子も多かった時代です)、3人ともちゃんと学校へ行かせたのでした。父の口から祖母のことを聞いたことはありませんが、とにかく苦労の連続の人生で、子ども達がやっと親孝行ができる年になった矢先に亡くなってしまって父は本当に悲しがっていたと母から聞いたことがあります。

 父がどんな青春時代を過ごし、どんな20代だったのか、その時代のことを私は知りません。生前の母に父はその時代に大きな挫折を経験したのだと、聞いたことがあります。母も直接父に聞いたわけではないそうですが、その大きな挫折経験があったから、父は誰よりも人の痛みがわかって子どものことを優しく見守ってくれる人であったのかもしれません。少なくとも子どもの私からすれば、家族第一でとにかく子煩悩な父でいてくれたのは本当に幸せなことでした。

 父が母と知り合ったのは26歳の時。翌年結婚。新湊の魚屋の2階に間借りした小さな部屋からのスタートでした。その後、高岡のアパートに引っ越し。アパートと言っても、当時は台所も共同でした。それでも、夫婦仲が良ければ、貧乏は苦にならないものでした。娯楽もまだ少ない時代です。よく、自転車に2人乗りして、映画を見に行っていたと母が言っていました。

 昭和41年、待望の男の子を出産。本当に愛らしい子でした。しかし、わずか3か月で天へ召されてしまいます。3か月で止まった育児記録…。その悲しみは計り知れません。その前に死産でも子どもを失っていたので、2度も逆縁にあったのです。人生においてこれほど残酷なことがあるでしょうか。

 深い悲しみを背負っていた2人がまた子どもを授かったのは昭和43年。今度は女の子でした。この子は健康優良児的にすくすくと育ちました。それが私です。2年後には男の子も生まれました。

 父は、私たちが少しでも風邪を引こうものなら、夜中ずっと起きて様子を見ていたそうです。それは孫の時も同じで、息子がじいちゃんの家に泊まった時に風邪気味だったりしたら、一晩中そばにいて自分は全然寝なかったそうです。きっと兄のことがあったので、子どもの病気には人一倍敏感だったのでしょう。

 私はまだ2,3歳の頃から、父の帰りを今か今かと玄関前で待っていました。それだけお父さんっ子だったんですね。父はとにかく、子どもと遊ぶのが上手だったので、どこに行ってもすぐに小さな子と仲良くなってしまうのでした。「こんなに子どもが好きだし、子どもに好かれるんだから、保父さんや小学校の先生になればよかったのにね」と昔よく母と言っていたのを思い出します。

 私が2歳の時に弟が生まれます。母は病院にいるので、父は夜勤の仕事に行く時に親戚の家に私を預けていったのですが、私はその時ほとんど知らない家に父も母もいないのに泊まるのがイヤでたまらず、泣きじゃくっていたのを覚えています。その時の本当に困った父の顔を見て、幼心に父にこんな思いをさせてはいけないと感じ、それ以降親の前で涙を見せることはほとんどなくなりました。

 父は仕事から帰ると、怪獣ごっこ(父が怪獣になり、私や弟がウルトラマンやゴレンジャーになって父をやっつける)をしたり、将棋をしたり、一緒に工作をしたり、とにかく、子ども第一でした。

 当時わが家には車がなかったので、どこへ行くにも自転車でした。父が自転車の前に弟を後ろに私を乗せて、おばの家に行った時に、着いたら自転車の後ろで私が寝ていたこともありました。落ちていた可能性もあったわけなので(子ども用のシートは前だけで後ろは単なる荷台)、父にしたらびっくりだったでしょう。きっと私は父の背中が気持ちよくて安心して寝ちゃったんでしょうね。

 小学校に入ると父と自転車を連ねて、毎週図書館に行くのが楽しみでした。父は日曜日ごとに、私を図書館へ連れていってくれました。父は読書好きで特に歴史書が好きでした。私も毎週いろいろな本を借りていました。当時は借りる本を自分で貸出票に書き込み、それを図書カードに記入してもらうのです。鉛筆で本の題名をカリカリ書き込んでいる時に、はやくその本が読みたくてワクワクしていたものでした。当時、図書館は高岡古城公園内にあって、図書館で本を借りたあとは、古城公園で遊んだり、帰りに御旅屋通りを通って父が好きだった「宮田のたいやき」(高岡の名物でした。当然その時の私の姓は宮田ではありません)を買って食べながら帰ったりしたものでした。当時住んでいた家は屋根の上に布団が干せました。あまり高くない屋根だったので、その干した布団の上に寝転がって借りてきた本を読んだり流れる雲を見ているのは本当に気持ちよかったのです。

父と一緒に毎週図書館へ行く生活は小学校の4年生くらいまで続いたでしょうか。その後は友だちと出かけることが多くなったので、父とどこかへ行くことはだんだん減っていきました。それでも、父が戦争特集などの過去を振り返る番組やシルクロードや歴史物を見ている時は一緒に見ていましたし、私が社会的なことに興味を持つようになったのは父の影響が大きいと思います。

 また私が小学校に入ってからは、毎年夏休みに必ず家族旅行にも連れていってくれました。小学校1年の時の名古屋にはじまって、2年生は大阪、3年生は京都…というように、父はどこに連れていったら私たちが喜んでくれるかを考えて、自分で全て計画してくれました。私も誰かを案内する時に自分でいろいろ組み立てるのが好きですが、父のそういう所を見て来たからかもしれません。
 
 父は掃除や洗濯など家事がとても得意でした。うっかりすると、私の部屋まできれいに掃除してあって、「お父さんが勝手に掃除して困る」と親友に愚痴っていたことがあるようです。(私は覚えていなかったのですが、親友が覚えていました)そんな父をずっと見てきたので、自分が結婚した時に、夫がとにかく全く何もやらない人なのにはすごくカルチャーショックを受けたのでした。
 しかし、なんでも得意だった父が唯一苦手だったのが料理です。私が小学生の時に、父と母が珍しくけんかをして、母がしばらくおばの家に泊まっていたことがありました。その間、晩御飯は毎日お惣菜のコロッケとちゃんと千切りになっていないキャベツ、出汁の味がしないみそ汁でした。それでも父は毎日私たちのために作ってくれるのですが、私は「お母さん、早く帰ってきて〜」と思っていたのを覚えています。4,5日経って母が帰って来た時は心底ほっとしましたが、一番ほっとしていたのは父だったことでしょう。私が覚えている両親の大きなケンカはそれが最初で最後でした。

 私が中学3年の時に、父は労災事故に遭います。会社でドロドロの熱いパルプの中に落ちてしまい、大やけどを負いました。病室に駆けつけた時、父は頭から足先まで全身包帯でぐるぐる巻きになっていて、ミイラのようでした。けれど、2人の中学生の子どもを残してまだ死ねないと思ったのでしょう。父は1年近く入院しましたが、無事に退院できたのです。父の足はケロイド状になって、何度も手術もしていました。さらに輸血のせいで、父はC型肝炎にも感染してしまったのです。
 私はその時水泳部だったのですが、当時の県営プールが父の入院している市民病院の近くにありました。大会で泳いだ後、父の病院に行って、そのまま父のベッドで寝てしまったこともありました。「妙ちゃん、そろそろ起きられ」と父に起こされたなぁ。自転車で家まで帰るので、遅くなるのを父が心配したのでしょう。(もしくはベッドが占領されて父が困ったかw)

 退院後も父のケロイドの足はいつも痒そうでしたが、それでも、父は私たちに弱音を吐いたりするようなことは一回もなかったのでした。弱音もそうですが、私は父から人の悪口を聞いたことがありません。

 父は私に教員になってもらいたいと思っていました。そんな父の思いも汲んで、私は大学で高校と中学の国語の教員免許も取りました。しかし、当時世の中はバブルで、超売り手市場でした。うきうきした世の中の雰囲気に乗っかって、私も大手企業への内定ももらっていました。しかし、私は結局就職はしませんでした。なにか違う、私がやりたいことはこれじゃない、そう思ってしまった私は、大学を卒業した後、上京し、新聞奨学生をしながら日本語教師養成研究所で勉強することにしたのです。その時、私は父に保証人をお願いするために手紙を書いていました。父が亡くなった後、その手紙が父の書棚から出てきました。そして、私が折々に父に送っていた手紙も一緒に出てきたのでした。私からの手紙をずっと大事にとっておいてくれたんだなぁ、お父さん。
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父の書棚から出てきた手紙

 父もとても筆まめな人でした。それで、私が東京にいる間は、しょっちゅう父から手紙やはがきをもらいました。それはまるで父と私の文通のようでした。仕事と勉強で疲れた時に、ポストに父からの手紙が届いていると、なんだかとても元気が出ました。それは父も同じだったようで、妙子からの手紙が来ないかお父さんは毎日ポストを見ているよ、と母が言っていたものでした。
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父から送られてきたハガキ

 父は、私が東京に行った後、家の私の車がずっとそのままなのはよくないと言って、55歳で運転免許を取り、母と車でいろいろ出かけるようにもなりました。両親は本当に仲がよく、父が定年になってからは、しょっちゅう旅行に行っていました。近くの温泉なら車で、それ以外はバスツアーや電車で、北海道から沖縄まで津々浦々でかけていました。おばも一緒に海外へ行くことも多く、ハワイ、オーストラリア、タイ、中国、台湾、グアム…といろいろ出かけていました。
 父は一人旅に出かけることもありました。歴史好きなので、史跡やお寺へ行くのは1人で行くことが多かったですし、富山県内のお祭りにもよく一人で出かけていました。父は民謡が好きだったので、八尾の風の盆は今のように有名になるずっと前から出かけていましたし(私も幼稚園の頃から一緒に連れていってもらっていました)、城端の麦屋、郡上八幡踊り、そういう所に出かけるのも大好きでした。

 息子が生まれてからは、私が仕事の時は母と2人で子守りをしてくれました。長男も次男もじいちゃんのことが大好きで、じいちゃんのうちに行くというと大喜びでした。私や弟が父と遊ぶのが大好きだったように、じいちゃんと遊ぶのは何より楽しかったのです。

 母に癌が見つかってからも、父はそれは献身的に看病していました。3年前の6月に母が亡くなった時、父は気丈に全てのことをやっていましたが、本当に寂しそうでした。母は栄養のバランスを考えていつも父の好物を用意していましたが、その母がいなくなってしまって、食のバランスはうんと悪くなってしまいました。娘の私がもっと父のためにご飯を作りに行ってあげられたらよかったのになぁと今更ながら思います。

 母の四十九日の法要の頃、父は声がかすれるようになっていました。疲れがとれないせいかなぁと最初は思っていましたが、精密検査をすると、それは肺がんのせいで声帯が動いていないからだとわかったのです。そして、今度は父の癌治療が始まりました。それでも、父は私たちに心配かけまいと、私や弟に何の相談もせずに、放射線治療や抗がん剤治療のことを決めてきてしまうのでした。自分のことで大変だったろうに、孫たちのことを心配して、一緒にご飯を食べに連れていってくれたり、帰りにたこ焼きを買ってお土産に持ってきてくれるのでした。それで、私は父は大丈夫だとすっかり甘えた気持ちになって父の癌のことをそこまで深刻に考えていなかったのでした。父と息子たちと4人で温泉に行ったのは2年前の夏でした。去年のお正月にも父とうちの家族と一緒に5人で温泉に行きました。
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父と息子たちと

 去年の風の盆の時は、まだ一人で見に行く元気があるくらいでした。しかし、C型肝炎から発症した肝臓がんもだんだん悪くなっていました。去年の10月に父はカテーテルの手術で入院しました。3,4日の入院だったし、それまでの入院と同じように、しばらく経てば元気になると思っていました。しかし、その後、いつもと様子がちがうのです。それまでは、いつ実家に行っても仏壇の扉が閉まっていることはありませんでした。父はいつも新しいお花や仏壇菓子を母に供えていたからです。しかし、その手術の後は、父は臥せっている時間がうんと増えました。いつ行っても仏壇の扉が閉まっています。そして、およそほこりなどたまっていることがなかった実家の廊下にわたぼこりが溜まっていることが増えたのです。それでも父は私が行くと、いつも「大丈夫、来てくれてありがとう」と言うのでした。

 今年のお正月、父は少ないながらもおもちをおいしそうに食べてくれました。昔から、おもちが大好きな父で、昔は年末は家族でおもちを作っていました。母が炊いた小豆を父が丸めて、家族で一緒にあんこのおもちを作って、できたてのおもちを頬張っていました。一緒に摘んできたよもぎで草餅を作ったこともあったっけ。
 
今年、お正月に帰省していた長男が父に会いに行くと嬉しそうにお年玉を渡してくれました。次男も高校の帰りにじいちゃんの所に行くと言って、途中下車して父の顔を見に行ったりしていました。次男が高校に入った三年前の6月に母が亡くなりましたが、次男が高校生の三年間、次男の調子が悪くて不登校気味の時も、父は次男を迎えに行ったり、一緒に過ごしてくれたりいろいろしてくれました。父にしても、孫のために動かねば、という気持ちがあったのだと思います。その次男の大学合格が決まり、孫が2人とも県外に行って、安心した気持ちもあったのかもしれません。その頃から、いろいろな記憶があいまいになっているようで、何度も同じことを言ったりするようにもなりました。

 3月下旬に父は外で転んでしまいます。それからは腰が痛いと言って、歩くのもままならなくなってしまいました。それでも、なんとか家でも伝い歩きをしながら、一人でトイレにも行っていました。我慢強い父なので、すごく痛いのにずっと我慢をしてきたのでしょう。

 4月12日に私と病院に行ったとき、痛いながらも駐車場から病院の入り口までは自分で歩いていました。病院に入ってから父は初めて車椅子に乗りました。私が車椅子を押すのも初めてのことでした。父がいつも行っている腫瘍内科に行くと、看護師さんが「門野さんの娘さんけ?」と聞きました。父が「そう。日本語の先生」と言うと、看護師さんは「何回も聞いとるよ。門野さんの自慢の娘さんやろ。」と言いました。看護師さんによると、父は病院に通っている時に、よく看護師さんに私の話もしていたようなのです。思えば、母の闘病中は父はいつも母に付き添って、そして自分の時は1人でずっとこの腫瘍内科に通っていたのです。

 1週間後に病院に来た時、父は車から降りるのも大変になっていました。そして、もうほとんど歩けませんでした。車椅子に乗っているのもしんどくて、病院ですぐに横になりたがったので、ソファの空いているところで横になっていました。整形外科と腫瘍内科と、二つの診療科を回るのに4時間。こんなにつらいのに、こんなに長い待ち時間…。さりとて、どうすることもできません。父は2か所に圧迫骨折があって、それは転んだせいだけではなく、癌も悪さをしているのだろうとのことでした。
 家に帰っても、父は、私や弟が一緒でないと薬も飲まなくなっていました。ご飯を作ってもほんの少ししか食べられなくなっていました。それでも、日中、私も弟もいない時は、一人でトイレに行っていたのです。

 4月26日、父と病院に行った時、父は初めて自分の力でトイレが出来なくなりました。トイレに座るのですが、いきめないのです。それで、私は初めて父の下のお世話をしました。お父さんは私にこんなことをしてもらうのはいやかなぁ、とも思いましたが、私はちっともいやではありませんでした。だって、私が赤ちゃんの時から、そして息子たちも赤ちゃんの時から、いったいどれだけ父に世話してもらったことでしょう。

 その日、父は入院になりました。次の日から、世の中は10連休。息子たちも富山に帰省してきました。長男も次男もそれぞれ2回ずつ父の所に連れていきました。息子が病室にいる時、父は心なしかいつもより食べてくれました。それで、息子も「じいちゃん、思ったより食べれとった。よかった。」と言っていました。「じいちゃん、次は夏休みに来るからね、それまでに元気になってね。」「じいちゃん、元気になったら、愛知に遊びに来てね。温泉もあるから一緒に入ろう」それぞれにそう言って、息子たちは帰ってきました。息子が帰る時は、息子たちにありがとう、と言っていた父。

 ドクターは父の状態について、週単位とは言わないけれど、月単位だろうとおっしゃっていました。それで、私もそこまで急だとは思っていませんでした。毎日病室に行って、父にご飯を食べさせてあげたり、髭をそってあげたり、顔を拭いてあげたり、そんな時間を過ごしていました。

 5月10日に、緩和ケア病棟に入る説明を私一人で聞きました。緩和ケア病棟は一般病棟とは全然ちがって、本当にゆったりと落ち着いた雰囲気でした。ベッドのまま散歩できる屋外庭園もあったし、ベッドのままお風呂に入ることもできるということでした。何より、部屋が広くて、家族がゆったり泊まれるスペースもありましたし、ソファもあって、自宅にいるような雰囲気で過ごせるということでした。父は14日の朝に、緩和ケア病棟に移ることになりました。そこに移ったら私も泊まれる時は泊まろう、そう思いました。

 5月12日に病室に行った時、弟と一緒になりました。弟も時間を見つけては父の所に来ていましたし、家ではそれまで不得意だった家事も父に代わっていろいろやっていました。その日、弟は父にプリンを買ってきていて、少しだけ食べてありました。「俺、食べさせてあげるが下手やから」と弟が言いました。私が、「お父さん、プリンまだ食べる?」と聞くと、父はこっくりうなずきました。それで、ベッドを起こして、プリンを口に運ぶと、ひと口ひと口ゆっくりとでしたが、めずらしく1個全部食べてくれました。その日、弟がプリンを買ってきてくれて、本当によかった。それが父と私と弟で過ごした最後の時間になったから…。
弟が帰った後、父は何度かベッドを起こしてくれと言いました。めいっぱい起こしているんですが、まだ起こして、と。立って歩きたかったのかなぁ、お父さん。
その日、父の鼻毛が伸びていたので、「お父さん、鼻毛切るよ〜」と言って、鼻毛を切ると、父はくすぐったい顔をしました。爪も伸びていたので切りました。顔を拭きながら、「お父さん、お風呂に入りたいよね。あさって、緩和ケア病棟に行ったらまた入ろうね」と話しかけていました。時々とても苦しそうな表情を浮かべるので、少しでも気持ちが落ち着けばいいなと思って、父の背中をさすりながら、ずっと手を握っていました。そしてそのまま私もしばらくうとうとしていました。父もうとうとしていましたが、目覚めた時に「妙子、おるがか?」と聞くので、私は「お父さん、おるよ。」と答えました。これが、私と父の最後の会話になってしまうとは、その時は全く思っていませんでした。その日、私は会合があったので、しばらくしてから父に「お父さん、じゃあ、明日また来るね」と言いました。いつもなら、父は手を振ってくれるのですが、その日は、手を振りませんでした。それが引っかかったのですが、私はそのまま病室を出てしまいました。今、思うと、父はその日、もっと私にいてほしかったんじゃないか、だから手を振らなかったんじゃないか、と思うとそれがすごく心残りです。

 次の日の朝、弟から電話がありました。「お父さん、危ないからすぐに来て」
病室に着くと、父はもう苦しそうな顔をしていませんでした。父の手を握ると、まだあたたかかった。でも、わかりました。ああ、お父さん、お母さんのところに行ったんだなぁ。
そうして、その後、ドクターが言いました。「ご臨終です」

令和元年5月13日午前7時。父は83歳の生涯を閉じました。母が亡くなってから2年10か月後のことでした。

 野心とか名声とか、そういうものとは無縁の父の人生でした。でも、私にとっては本当に素晴らしい父でした。謙虚で、いつも家族のために尽くしてくれました。お父さん、今まで本当にありがとうございました。そして、お疲れ様でした。お母さんやお兄ちゃんと一緒にそちらで笑って過ごしてね。私が泣いていたらきっとお父さんは悲しむから、笑って、私なりにせいいっぱい生きていきます。
今日の人160.門野静江さん [2016年08月14日(Sun)]
門野静江さんは1938年(昭和13年)4月18日に、富山市神通町で生まれました。5人兄弟の末っ子で、お兄さんやお姉さんとは、うんと年が離れていたので、家族みんなから大変可愛がられて育ちました。
 小さい頃はお手玉やなわとび、ボール遊びなどをして遊んでいました。周り中子どもだらけだったので、遊ぶには事欠きませんでした。
 
 当時お父さんはトラック運送業をやっていて、人を5〜6人雇うなどして、とても羽振りがよかったのです。お姉さん用にたくさんの着物をあつらえましたし、植木もたくさんありました。お兄さんに赤紙が来て、出征していく時は、それはそれはたくさんの見送りの人が来て、万歳万歳と叫んでいました。お母さんがお兄さんの無事を祈ってお百度参りをしている時に、ついて歩いていたのも覚えています。

 しかし、やがてお父さんはトラックも従業員も軍に取られてしまいます。昭和20年の7月の終わり、いよいよ富山にも空襲があるとのうわさを聞いたお父さんは、呉羽山のふもとにある金屋町に疎開することに決めました。8月1日、残った家財道具を馬車に積んで、神通町から金屋町へと向かっていました。その馬車の荷台には静江さんも乗っていました。神通町から金屋町へと向かう道中には富山歩兵連隊の兵舎(現在の富山大学五福キャンパス)がありました。そこを通った時、たくさんの兵隊が慌ただしく動き回っていました。金屋町近くまで来た時に、空襲警報が鳴り始め、途中で焼夷弾も落ちてきました。大きな爆音が響きました。
「みんな山へ逃げろ!」お母さんにしがみついて必死で山へと登りました。山の上から見た光景は70年以上たっても鮮明に思い出しました。富山の街が真っ赤に染まって真夜中なのに昼のようでした。ガタガタガタガタ震えが止まりませんでした。1945年8月1日深夜に起きた富山大空襲で、神通町の家は焼け、友だちや知り合いのおじさん、おばさん、たくさんの人が亡くなったのです。その日、神通町から金屋町へと逃れていたことで、静江さんの家族は九死に一生を得たのでした。

それから2週間後の8月15日、終戦。それからしばらくは、食べることに必死でした。畑を借りて野菜や芋を育てました。それでも、まだ子どもだった静江さんは、そこまで苦しい思いをした記憶がありません。3年程たって、ようやく白いご飯も食べられるようになると、お母さんが「B29も飛んでこんし、白いご飯も食べれるし、ありがたいしゃわ(世の中)になった」といつも言っていました。

 しばらくは学校も本当に寺子屋のような感じでした。寺町のどこかの会社の寮のような場所が学校代わりでした。
 初めての遠足は小学校3年生の時。お母さんが朝早く起きてヨモギを摘んで、静江さんのために草団子を作ってくれました。でも、静江さんはその時、「こんなもん要らん」と言って、その草団子を放りました。「もったいないことする」と寂しそうに言っていたお母さんの後ろ姿が忘れられません。なんでそんなことをしてしまったかと胸がチクチクしました。歳を重ねるほどに、その後ろ姿をよく思い出しました。

 お母さんは畑で作った野菜をリヤカーに積んで売りに行っていました。「何も買ってやれん」と言って、コツコツ貯めたお金で、静江さんにスカートを買ってくれました。末っ子の静江さんは、ことさらにかわいかったのでしょう。

 中学校は富山西部中に。静江さんの時代は、急速に高校に行く子が増え始めていました。しかし、お兄さんが幼い子どもを3人残して早逝してしまったため、お父さんとお母さんは親代わりに孫も育てなければならず、静江さんを高校に行かせる余裕がありませんでした。「お前を高校にやられん。かわいや、かわいや(かわいそうに)」とお母さんが申し訳なさそうに言っていました。しかし、まだまだ中卒の子は多かったので、静江さんは特段気にすることもありませんでした。
 こうして中学を卒業後、親戚の夫婦の家で間借りして、神岡の神岡鉱山の売店で働き始めました。3年程働いた後、家へ戻って和裁学校へと通い始めました。この頃はまだ花嫁修業として、和裁や洋裁をやるのが、一般的だったのです。
 19歳のお正月、お父さんがトイレで突然倒れてそのまま帰らぬ人になりました。おもちが大好きで、いつもお正月のおもちをいくつも食べるのに、その年はなぜかひとつしか食べなかったのです。おかしいねぇと言っていた矢先の出来事でした。

 その後、23歳でお見合い。新湊の堀岡から干物を売りに来るおばあさんがいて、その方が紹介してくれたのが、門野久雄さんでした。筆まめな久雄さんは、よく手紙をくれました。筆まめでない静江さんは、あまり返事を出しませんでした。
24歳の時に結婚。新湊の魚屋の2階に間借りした小さな部屋からのスタートでした。その後、高岡のアパートに引っ越し。アパートと言っても、当時は台所も共同でした。それでも、夫婦仲が良ければ、貧乏は苦にならないものでした。娯楽もまだ少ない時代です。よく、自転車に2人乗りして、映画を見に行っていました。3本立ての映画も当時よくありました。

 昭和41年、待望の男の子を出産。本当に愛らしい子でした。しかし、わずか3か月で天へ召されてしまいます。3か月で止まった育児記録…。その悲しみは計り知れません。その前に死産でも子どもを失っていたので、2度も逆縁にあったのです。人生においてこれほど残酷なことがあるでしょうか。

 深い悲しみを背負っていた2人がまた子どもを授かったのは昭和43年。今度は女の子でした。この子は健康優良児的にすくすくと育ちました。46年には男の子にも恵まれました。
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 男の子みたいなこの子が長女の妙子です。

 内職をしながら子育てする毎日。米島の社宅にいた時は、橋の向こうにあるお風呂まで歩いて通いました。銭湯に行くときに、あかすりが一つしかなかったので、女湯から男湯に、「お父さ〜ん、あかすり投げるよ〜」とあかすりを投げて渡していました。昭和40年代の銭湯は、そういう作りだったし、まだおおらかな時代だったのです。

 その後、木津に引っ越し。仕事も内職から、パートへと。パート先でもパートリーダーを任されるなど、仕事への姿勢はいつも前向きでした。ちょっとした工夫で売り上げを伸ばすのが得意でした。
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 職場の仲間たちと
 
贅沢はしませんでしたが、子どもたちには栄養のあるものを食べさせようといつも料理は工夫をしていました。未熟児で生まれた息子は186cmまで背が伸びたほどです。夫婦とも車を持っていなかったので、出かける時はいつも家族で自転車でした。子どもたちが小学生の頃は毎年夏休みに家族旅行に行くことにしていました。普段はつましく暮らしていましたが、旅行の時は特急や新幹線、そして飛行機で遠出しましたので、子どもたちは夏休みの旅行を楽しみにしていました。45歳の時に、久雄さんが会社で大やけどを負い長期入院。自転車で病院と家とパート先を行ったり来たりする毎日でした。病院は家から自転車で片道30分かかりましたが、2往復する日もありました。

静江さんは家族のためにほとんどの時間を使う昔ながらのお母さんでした。子どもたちにとっては、時々のお小言が煩わしいときもありましたが、いつも朗らかに笑うかわいい人でした。年の離れた末っ子だったからでしょうか、甘えるのもとても上手でした。「ホントに上手に人を使うのぉ」と久雄さんに感心されていたそうです。
庭いじりをするのが好きで、小さい庭ですが、季節ごとに咲く花をいろいろ植えました。大輪の花よりも、小ぶりなかわいい花が好きでした。日々、丁寧な暮らしをして過ごしました。そうして、2人の子どもたちはそれぞれ国立大学を卒業し、娘を無事に嫁に出しました。
 
 平成10年、12年には孫も生まれます。2人とも男の子で、2人が小さい頃はよく久雄さんと2人で孫守りをしていました。また、孫と温泉に行ったりするのも楽しみでした。2人の孫も、じいちゃんとばあちゃんが大好きでした。
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 家の前でシャボン玉
 

久雄さんのお姉さんは、よく弟夫婦を旅行に連れて行ってくれました。オーストラリア、タイ、中国などにも行きましたが、静江さんがいちばん印象に残ったのはハワイでした。きれいな海の色が心に残りました。日本国内は北海道から九州沖縄まで、夫婦であこち出かけました。
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ハワイにて夫婦で


ずっと穏やかに暮らしてきましたが、左耳の下に小さなおできのようなものが出来て、それがだんだん膨らんできました。おそらく良性のものでしょう、と言われましたが、平成26年7月に手術すると悪性の腫瘍でした。その時は無事に腫瘍が取れ転移も認められないと言われました。が、その後、肺や肝臓にも転移が見つかり、放射線、抗がん剤などいろいろ試みました。抗がん剤治療は自宅からの通院で行いました。しんどい中でも毎日家事もこなしていました。その頃の楽しみは、娘が小学生の時に書いていた何冊もの日記帳や作文を読むことでした。それらを読むと昔のことが鮮やかに思い出されるのでした。娘が来ると、昔話をよくしていました。

28年の春には孫の高校合格祝いも兼ねて孫たちと宇奈月温泉へ行きました。その後はいつも仲良くしている親戚と一緒に山代温泉にも行きましたが、これが最後の旅行になりました。

食べ物を受け付けなくなり、平成28年5月30日に再入院。お医者様の話では、腫瘍で肝臓がパンパンに膨れて、それが胃を圧迫していて何も食べたくない状態なのだとおっしゃいました。けれども、その時はまだ緩和ケアチームを組んで自宅で過ごし、8月に厚生連に緩和ケア病棟が出来たらそこに入りましょうというお話で、家でも点滴ができるように胸にポートを埋め込む手術をしたのも亡くなるわずか2週間ほど前の話です。

(ここから娘の目線で書きます)
6月18日の土曜に母から「キュウリの漬物が食べたくなったから持ってきてくれんけ」と電話がありました。急いで浅漬けを作り、お昼に病室に持っていきました。夕方、電話があり、「キュウリの漬物おいしかった。久しぶりにちゃんとものを食べた気がしたわ」と言っていたので、とても嬉しく感じていました。20日の月曜に病室に行ったときは、まだ自分で歩いてトイレにも行けていました。私は看護婦さんから呼び止められて、「お母さんが家に帰った時、お父さん、点滴とか変えるが大丈夫かね」と聞かれたりしていたので、まさかその数日後に危ない状態になるとは思っていませんでした。
 父から、「お母さんが大変危険な状態だと先生から言われた」と電話があったのは24日金曜日の朝のことでした。急いで病院へ行くと、母は「お母さん、起き上がるがも出来んようになったがいぜ」と言っていました。それでも、はっきり話は出来て、私がノートパソコンに入れていた孫たちの小さい頃のビデオの様子を見て、嬉しそうに笑っていました。25日土曜日も話は出来ました。26日には2人の孫に「ありがとう、ありがとう」と言って何度も手を握っていました。昼過ぎくらいからは意識がはっきりしない時間が増えましたが、父が病室からいなくなると、「お父さん、どこにいったが?」と言っていました。その時になるともう目もはっきり見えなくなっているようでしたが、父がいなくなると気配ですぐにわかるようでした。「24-○○○8(自宅の電話番号)に電話かけて」とも何度も言っていました。「ちゃんとかけたよ。心配せんでいいちゃ」と言うとまた眠りにつきました。でも、痛がって、ずっと辛そうにしていました。私は息子が一緒にいたので、いったん息子を連れて家に戻りました。お昼から、お世話になったおばちゃん(よく旅行に連れて行ってくれた父の姉)が来た時は、母は「ありがとう」と何度も手を合わせていたそうです。まだいろいろ話せた数日前に、「お義姉さんにいっつもいろんな所に連れていってもらって、本当に感謝しとるがいぜ」と言っていたので、最後に感謝の気持ちを伝えたかったのでしょう。

夕方病室へ行くと、母は更に苦しそうにしていました。看護婦さんに痛み止めを入れてもらう回数が増えました。夜9時くらいでしょうか。ふっと目を覚まして、「妙子、まだおったがけ。あんた忙しいがいから、もう帰られ。ありがとう」と言いました。これが、母の私への最後の言葉になりました。父は何日もほとんど寝ないで、母の側についていました。私が、家に帰って、いろいろ家のことを済ませたのが午前1時過ぎ。うとうとしていた午前2時10分頃、父から電話がありました。
「お母さん、もう危ないからすぐに来て」
慌てて、車を走らせましたが、こんな時ってホントに遅く感じます。
2時35分過ぎに病室に着きました。
「間に合ってよかった」と父と看護婦さん。
「妙子も来たよ」と父が言うと、母の目が開きました。父も私も弟もいて安心したのか、その後、目を閉じました。看護婦さんに、酸素マスクを取ってもらいました。苦しいのに、よくがんばったね。向こうで、お兄ちゃんたち(幼くして亡くなった私の兄)に会えるね。
父と私と弟と3人でかわるがわる脱脂綿に含ませた水で口を湿らせてあげました。
そうして、母の呼吸がだんだんと弱くなりました。午前2時57分、息を引き取りました。享年78歳。

生前、母は父と二つの約束をしていたそうです。一つは延命治療をしないこと。もう一つは葬儀を家族葬にしてほしいということ。
その言葉通りに延命治療はせず、母は皆にありがとうと言ったあとに旅立っていきました。そして葬儀は家族葬で、家族や親族、そして母が好きだったたくさんのお花に囲まれて、たくさんの思い出を語りながら、送りました。

葬儀の前に母の棺に入れるものを探していると、私が母に送ったたくさんの手紙の束が出てきました。ずっと大事にしまっていたのですね。その中には小学生の時の母の日にあげた手紙とお手伝い券まで入っていました。お手伝い券、使ってくれたらよかったのになぁ、お母さん。
その手紙とお手伝い券、孫たちが書いた手紙も棺の中に入れました。私がそっちに行ったら、今度はちゃんとお手伝い券使ってね。
今頃そっちで、ばあちゃんが作ってくれた草団子をお兄ちゃんたちと一緒に食べているかもしれないね。
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小学生の時の母の日にあげたお手伝い券と手紙