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今日の人228.坂井公淳さん [2025年01月17日(Fri)]
 今日の人は、長野県飯田市にある感環自然村代表理事の坂井公淳(さかいきみあつ)さんです。感環自然村は【五感を使い 人と人 人と自然の環を創る 国籍も言葉も関係ない】そんな場所で、キミさんはそこではみんなから村長と呼ばれています。他にも通訳翻訳家(大リーグでも活躍!)、米国救急救命士・消防士、温浴施設の運営などいろんな顔を持っています。
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 キミさんが生まれ育ったのは新潟市。子どものころは泣き虫だけど負けず嫌い。2歳年上のお兄さんがいじめられていると、お兄さんの代わりにいじめっ子にケンカをふっかけて泣かされて帰ってくる、そんな子どもでした。海が近かったので、海で遊ぶのも好きだったし、小さい頃から動物が大好きで、うちで飼っていた柴犬の朝晩の散歩係はキミさんでした。
 通っていた幼稚園がカトリック系の幼稚園で神父さまもいらして、教会の日曜学校にも通っていました。教会にはボーイスカウトもあって、毎週土曜日に自転車で20分かけて欠かさず通っていました。キミさんは野外活動のプロフェッショナルですが、野外でのスキルは子どものころからずっと行っていたボーイスカウトで磨かれたと言っても過言ではないでしょう。

 キミさんが小学校2年生の時に、お父さんが大事故に遭い、頚椎を痛めて危篤状態に陥りました。幸い命はとりとめましたが、2か月面会謝絶が続き、2か月後にお父さんに会いに病室に入ると、頭をワイヤーで繋がれたお父さんの姿が目に飛び込んできました。病室で2か月ぶりにお父さんと一緒にカレーを食べたことは半世紀近くたった今でも鮮明に覚えています。
 実はお父さんは事故に遭った日の翌日に、キミさんと釣りに行く約束をしていたのですが、事故の時、釣りに行けなくなってごめんと言って気を失ったのだと後から聞きました。そうして、お母さんには事故の相手と子どもたちを会わせないようにしてくれと頼んでいたそうです。子どもたちに憎むという感情を持たせたくないというお父さんの配慮なのでした。
 そういうこともあって、キミさんはお父さんにしごく気を遣って育ちました。それもあってか、どちらかといえばじいちゃんばあちゃんに育てられた感じでした。キミさんはばあちゃんが作ってくれるおにぎりが大好きでした。炊きたてのご飯にお醤油をたらして作る、ごく簡単なおにぎりですが、それが何より美味しかった。そりゃあ、米どころ新潟の美味しいお米でおばあちゃんが愛情込めて作ってくれたおにぎりにかなうものはありませんよね。
 
 キミさんは妙高でのスキー教室にも行っていました。6年生の時、三浦雄一郎さん主宰のアラスカキャンプに行く話がありました。キミさんのお父さんは子どもたちにはお金より経験を残してやりたいと考える方でしたから、快くキミさんをアラスカキャンプに送り出してくれました。日本全国から15人ほどのメンバーが集まり一緒にアラスカへ。氷河を登ったり、鮭を釣って焼いて夕飯を作ったり、広い海岸にテントを張って生活しました。キャンプには現地のイヌイット兄弟2人が毎日遊びに来てくれました。言葉は通じなくても心は通じるんだな!を実感する10日間になりました。今、キミさんがやっている感環自然村はこのアラスカでの経験がとても大きいのです。言葉が通じなくてもいい。どんな子が来ても楽しめる。それはこの時にキミさんが実感したことだからです。

 7年前、キミさんがある本を読んでいて面白い形の焚火の写真を見つけたときに、あれ?と思いました。その写真には作者が子どもたちを連れてキャンプに行ったときのものだと書かれていました。そのピンボケ写真はまさにあの時のアラスカキャンプのものだったのです。アラスカキャンプでキミさんの班の世話をしてくれたスタッフだった方が今やニセコのレジェンドと呼ばれ、シーカヤックガイドや登山家として有名な新谷暁生さんでした。キミさん、いてもたってもいられなくなって、手書きの手紙を新谷さんに出しました。すると、新谷さんから新しい本と一緒にお返事が送られてきたのです。
 キミさんはライフワークの現場でどうしても新谷さんと会いたいと思いました。そこで、新谷さんがガイドをやっている知床半島一周のシーカヤックツアーに申し込みました。知床半島一周のツアーは過酷です。自然が相手なので、1週間その場から動けなくなることもあります。そういう判断を含めツアーガイドの力量がとても問われるのです。判断を誤ると、記憶に新しい知床遊覧船沈没のような悲惨な事故につながりかねないからです。一緒にシーカヤックを漕ぎながら新谷さんのツアー客を絶対に守り抜くというプロ魂と優しさをひしひしと感じるツアーでした。ツアーからの帰りの車の中で、新谷さんは、自分は両手の腱を切ってしまったので手は動くけれど感覚がないのだと教えてくれました。それでもシーカヤックに乗り、バイオリンを弾くのです。人生の師匠というべき尊敬できる人でした。帰り際「また来ます」と言ったら「お前はもう来なくてもいい。」と言われました。「お前はもう大丈夫だから、今の場所で自分のすべきことをしなさい。」そう言ってくれたのです。

 話を小学校時代に戻します。キミさんは小学生の時、足がとても速く運動会はたいていリレーのアンカーで相手のチームの選手を抜かして勝つのが常でした。それは黄色い声援が飛んでいたことが容易に想像できますね。陸上競技会の幅跳びでも新潟の小学生記録を作ったキミさんです。
 動物が大好きだったこともあるのか、6年生では飼育栽培委員長もやっていました。5年生のヤンキー系の子が鶏やチャボの世話をサボったので注意したところ、その子が5年生を全員引き連れて仕返しに来ました。なんとキミさん1人vs 5年生25人!会ったこともない子に石を投げられたりしてショックでしたが、小学校の先生に「あなたは悪くない」と言われたことは救いでした。

 中学校では剣道部に入って部長になりました。剣道マンガがかっこよくて始めたのですが、真夏はあまりに暑くてみんなでボクシングをしたりして、それを先生に見つかって叱られたりしていました。ボーイスカウトの活動はずっと続けていて、教える立場になっていました。小学校2年生から中学2年生までピアノも習っていたので、合唱コンクールで伴奏したりもしていました。ホントに多才なキミさんです。でも、勉強には本当に興味が涌かず、全然勉強しませんでした。活字で好きだったのは冒険物の本くらいでした。

 キミさんと違ってお兄さんは小さい頃から勉強がとてもよくできた優等生でした。そのお兄さんに敬和高校はいいぞ、お前は敬和に行った方がいいぞ、と毎日のように言われたキミさん。敬和高校はミッション系の高校だったので、当時としては珍しく土曜日が隔週休みの学校でした。(当時土曜日は半ドンが一般的)学校のある土曜日はフリーレッスンという先生方が自由に組み立てる授業があって、運動系から文科系までさまざまなフリーレッスンがあるのでした。インターナショナルスクールっぽいところもあって、キミさんはお兄さんに薦められるままに敬和高校に入学しました。当時、受験の英語の点数でクラス分けが行われていたのですが、英語だけは好きだったキミさんは上から2番目のクラスになりました。部活は中学と同じく剣道部に入ったのですが、先輩が犬に石を投げるのを見て、やめました。動物大好きなキミさんにとって、それは許せない行為でした。犬の散歩はどんな時も続けていて、友だちと遊んでいても犬の散歩の時間に間に合うように必ず帰るのでした。
 2年生になる時、担当の先生が辞められ上のクラスに行くか、下のクラスに行くか選択を迫られました。キミさんは上のクラスに行くことを選んだのですが、見事に玉砕してしまいます。好きだった英語ですらさっぱりになり、赤点続きになりました。
 当時仲の良かった友だちがバイクに乗り始めたこともあって、キミさんも中型のバイク免許を取り、休みの日にはバイクで出かけたりもしていました。何か夢中になれるものがあったわけではないけれど、それなりに楽しい高校生活を過ごしていましたが、3年生の2月になった時、校長室に呼ばれます。今のキミさんからは想像できませんが、英語が赤点だらけで、このままじゃ卒業できないからこの後毎日学校で自習して毎日テスト受けなさいと言われたのです。こうして、何とか卒業は出来たのですが、大学受験は見事にダメでした。キミさん、卒業できないくらいだったのに、受験していたのはなんと医学部。大事故で死に瀕したお父さんを助けてくれたドクターがかっこいいと思って、ERのドクターになりたかったのです。でも、勉強していないのに、医学部に受かるはずはありません。かくして、予備校生活に突入したのですが、確固とした覚悟がないままの浪人時代、新潟駅前のファストフードのお店で友だちと時間を潰すなどして勉強に夢中になれることはないままでした。アルバイトをしていたクレープ屋さんでは店長になり、1日に何百枚もクレープを焼き、高校生も店長、店長と慕ってくれて売り上げも順調に伸びていきました。

 でも、キミさんの中では、ボーイスカウトで培ってきた野外教育についてもっとちゃんと勉強したいという思いが大きくなっていました。そんな時、アメリカ南イリノイ大学に森林学部野外教育科があるのを知ります。ここだ!と思いました。でも、アメリカの大学はTOEFLの点数がちゃんと取れないと入学することはできません。そこで、まずは南イリノイ大学附属の英語学校に入りました。日本語学校も日本語で日本語を教える直接法が主流ですが、英語学校もそうでした。キミさんにはこれがピタリとハマりました。英語で英語を習ったら本当にわかりやすくて、キミさんの英語力は飛躍的に伸びました。学期が終わった時に、キミさんは2つ上のクラスにスキップしました。さすがに2つ上のクラスはとても難しかったけれど、TOEFLでもいい点を取り、見事にイリノイ大学森林学部野外教育科に入学します。

 青春時代がいつかと問われると、キミさんにとっては間違いなくアメリカでの大学時代でした。もちろん勉強はものすごくハードで毎週レポートを出さなければなりませんでしたが、平日はとことん勉強して、週末はとことん遊びました。キャンプにもよく行きました。−20℃でもキャンプに行くのです。わずか250円で映画も見られましたから映画にもよく行きましたし、barがたくさんあったので金曜夜はみんなでbarに繰り出していました。
 野外での実習も多く、パークマネージメントやファイヤマネージメントもとても好きな授業でした。パークマネージメントは心理学も入っていてとても興味深い授業でした。例えば自然の木を倒しておくことで、人の動きをマネージメントできます。そうやってトレイルから逸れてしまう人をコントロールすることで、森林に必要以上に人が入り込むことを防ぐことができるのです。ファイヤマネージメントでは、山火事のコントロール法なども学びました。
 
 アメリカにはホットショットと呼ばれる、大規模な山火事が発生した際真っ先に派遣される山岳救防隊がいます。ホットショットになるためには座学ももちろんあるのですが、長距離測定では100sオーバーの教官を抱えて走ったりしなければならず、とにかく体力がないとついていけないのです。キミさんは在学中に半年でこのホットショットの資格を取りました。それだけではなく、救急救命士の資格も取ります。きっとERの医者になりたいというかつての思いも心のどこかにあったからなのでしょう。アメリカの救急救命士は4年に一度更新があります。その4年間の間に新しく出た治療法や薬のことをちゃんと知っておかなければ資格を更新できないのです。レクチャーはERや消防署で受けなければならないのですが、キミさんが資格をとった消防署では毎週木曜日の夜にレクチャーをやっていました。それで、木曜は大学が終わるとすぐに消防署へ行き、そこに置いてあるドーナツや食事をあたりまえのように食べてレクチャーを受けていたのでした。

 レクチャーを受けに行くたびにそろそろ俺を雇う?と聞いていたら、半年くらいしてから署長に面接するかと聞かれました。そしてその面接日、市長や議員が談笑していて、Tシャツとキャップいうラフな格好の市長からコーヒー飲む?と聞かれました。コーヒーを飲みながら30分くらい話をしていたら、市長に「Welcome to the family!」と言われ握手されました。それが合格の合図だったのです。
 消防署の隊員たちは大喜びしてくれて、「Kimi、これから俺たちは正式に兄弟だから、お前が困っていたら俺たちは死ぬ気で助ける」と言ってくれました。その言葉通り、消防署の仲間たちは本当の兄弟のように、何をおいてもお互いを助け合うのでした。

 消防士時代のキミさんのパートナーはマイクさんでした。Mike & Kimiはとてもいいコンビでした。マイクは小柄だけど肝がすわっていて、ホースの準備がまだできていなくても斧1本持って人がいるところへ助けに入るそんな勇猛果敢な消防士でした。最近までマイクはずっと署長をしていましたが、つい先日、引退し、今後はキャンピングカーで全米をまわるそうです。来春には日本にも遊びに来てくれるので、キミさんはその日を楽しみにしているのでした。
 キミさんは消防の仕事ももちろん好きでしたが、救命士としての仕事が一等好きでした。救急車で現場に入ってケガをしている人に手当をしたときに、人ってこんなに安心した顔をしてくれるのだと本当にうれしくなるのです。救急車の中の限られた道具でいかにして命を助けるか、そうしてキミさんが今まで出動した現場での救命率はなんと100%なのでした。
 けれどもちろんやれなかったことで後悔したこともたくさんありました。そんな時は署長から「落ち込んでばかりいたら助けられる人も助けられなくなるぞ」と諭されるのでした。そう言ってくれたキミさんにとって2人目の署長のブルースからは本当に学ぶことが多くありました。独立記念日、キミさんたち隊員は紺の制服、署長は真っ白の制服に身を包み町の人たちを迎えいれます。ブルースは「消防署はサービス業だ、地域に人に貢献してなんぼの仕事だ」と言っていました。だから消防車に乗りたいと言われたら乗せてあげたらいい、町の人たちが喜ぶ仕事をしろと。町の人たちが帰った後、ブルースは真っ白な服を着たまま、1人でゴミの片付けをしていました。「誰かがやらなければいけないなら俺がすればいい。」ブルースはそういう人でした。消防隊員としてというよりは、人としてあるべき姿を教えてくれた人でした。キミさんは、その姿に倣って、誰かがやらなければならないなら俺がやればいいじゃんと思うようになり、そうしてそれを実践している義の人なのでした。

 消防署の仲間たちはとにかく体を鍛えあげるのが好きでした。時間さえあれば筋トレで、やらないと、「おいKimi、そんなんで俺たちを助けられるのか?」と言われるので、否応なしに筋トレです。キミさんは今でもたくましい体型ですが、アメリカ時代はさながら北斗の拳のケンシロウのようでした。そうして、やたらとゲイの人にもてました。それは今でも変わっていないようです。

 キミさんは32歳までアメリカで消防士&救急救命士を続けました。けれど、お父さんの体調が悪くなり、日本に戻ってくることを決めました。
 今住んでいる飯田市にはニュージーランド人の通訳の仕事で初めて来ました。ニュージーランドから日本のラフティングガイドに教えに来ていた人の通訳でした。飯田っていい所だなぁとこの時に思ったキミさん。その後、自分自身もラフティングガイドになれば通訳もしやすい、とガイドの資格も取りました。こうして、ニュージーランド人と一緒に暮らしながらガイドをするという飯田での暮らしが始まりました。2人暮らしが3人暮らしになり、いつの間にか7人暮らしになっていました。朝から晩まで川の上で一緒、家でも一緒。でも、ニュージーランドの人は、人がすごくよくて一緒にいて居心地がよかったので、ちっとも苦になりませんでした。もし、日本以外で住みたい国と言われたらニュージーランドと答えるくらい、キミさんはニュージーランドが好きなのでした。

 もちろん、アメリカも好きです。人種のるつぼのアメリカ、人種がごちゃごちゃなので、許容する力も自由度も高いし、キミさんは食べものもちっとも気にならないので、アメリカも暮らしやすい国なのでした。

 ラフティングガイドは冬の時期には仕事がありませんでした。そこで、国際スキー連盟の仕事で9月から3月までワールドカップのモーグルの通訳として海外でも仕事をしていました。ワールドカップの通訳をするということは、一緒にそのコースのてっぺんまで行って、そのコースを下まで滑ってこなければならないということでもあります。つまり、キミさんは世界中のワールドカップのコースを滑っているのです!運営スタッフの人たちと現場の運営もやりましたから、4000m級のコースでもエクジットゴールに行ってスポンサーの名前入りの巨大バルーンを立てるということもやっていました。私の抱いていた通訳のイメージとはちがいすぎるキミさんなのでした。

 ヨーロッパの国はくまなく廻りましたが、印象的だったのはフィンランドとチェコでした。フィンランド人はシャイで日本人に近かったこと、プラハが童話の世界から飛び出したみたいにきれいだったのが強く印象に残りました。

 ラフティングガイドの方は、ニュージーランド人が帰国した後、安全面の配慮がおざなりになり、もうここにはいられないと、キミさんはそこを去りました。そうしてオーストラリアのプロのラフティングの人と3人でラフティングの会社を新たに作りました。

 飯田市からも子ども向けのキャンプを企画する仕事を受けるようになっていました。そんな時に日系ブラジル人の3兄弟がやってきます。彼らは3人とも学校には行けていませんでした。キミさんはアラスカでのキャンプを思い出しました。言葉や国籍は関係ないじゃないか。この子たちが楽しめるキャンプをやろう。そうして作ったのが感環自然村でした。最初感環のキャンプは5回でやめようと思っていました。なぜ5回なのかというと、五感を使う5回。視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚、それぞれのテーマで5回やって、それが終わったら解散しようと思ったのです。しかし、このキャンプが大人気で5回で終了とはならず、毎週プログラムをやるようになりました。そしてこのキャンプに感化された学生がインターンとして感環に来てしまいました。感環が大好きで、保育園でバイトしながら来てくれて、こうなるとやっぱりここを続けなければとなるのでした。

 2004年からはモーグルで知り合った人から繋いでもらって、メジャーリーグでも通訳をするようになりました。日米野球の開幕戦での通訳をずっと続けていたキミさん。イチローの引退試合でも通訳を務めました。

 天皇陛下の即位の礼の時は、外交官と一緒にアゼルバイジャンの大使の通訳も務めました。アゼルバイジャンの担当になるということは、外務省に行くまで分かりませんでした。外務省の会議室の机の下でアゼルバイジャンってどこだ?とググったくらいです。空港までアゼルバイジャン大使を迎えに行き、即位の礼が終わって空港に送り、飛行機が飛び立つのを見送るまでが仕事でした。G7の仕事は通訳するだけではなく、黒塗りの車列をコントロールして手伝う部署でもありました。
 ディスカバリーチャンネルやBBCなど海外メディアの撮影のフィクサーもやりました。空港に迎えに行ってから、フルアテンドが始まります。どこで撮影して、どういう人と会いたいか、撮影が始まるまではいろいろ問題も起きるけど、そのいろいろを整え続ける、Fixするからコーディネーターではなく、フィクサーと呼ぶのでした。

 こうして、いろんな分野で通訳することによって、様々な場面で英語を使う仕事に慣れていきました。キミさんが子どもたちに伝えたいのは、やりたいことを頭の隅に持ち続けること、そして、失敗してもいいやと思える力。いっぱい失敗すればいいのです。そしていっぱい妄想すればいつか辿り着けるから。
 英語が話せることによって、世界中に友達が広がる。だから英語は楽しい、とキミさんは思います。世界に友達ができる道具としての英語を子どもたちにも体感してほしい。そんな思いでキミさんは子どもたちに英語を教えています。

 キミさんは国際スキーパトロール連盟でも通訳をしているのですが、国際スキーパトロール連盟では数年ごとに世界のどこかの国で国際会議をしています。スウェーデンの次は2011年の春に日本で国際会議をやるということが決まっていました。その国際会議に向けて2年をかけて準備をしていた矢先に起きたのが東日本大震災でした。国際会議を開くのは無理という判断がなされ、ぽっかり時間ができます。アメリカの消防士も東日本大震災の現場に入り始めたという話を聞き、キミさんは災害通訳に登録。しかし、災害通訳が機能しておらず、現地に入れませんでした。そこで、知り合いの知り合いという枠でつなプロ(被災者をNPOとつないで支える合同プロジェクト)から1週間東北へ入ります。石巻から気仙沼の大島までの避難所で要配慮者を見つけて専門家につなぐことをやりました。2週間やって、もしよかったらエリアマネージャーをやりませんかと言われ、そのままエリアマネージャーになりました。毎週100名から200名のボランティアが入ってくるのをまとめていました。そして、日本財団の先遣隊として活動し、被災者支援拠点運営人材育成事業をやりました。しんどい時間を共に過ごしたつなプロの仲間たちはいわば戦友でした。得意分野と不得意分野をうまく補い合うことができました。その時の仲間たちがダイバーシティ研究所の田村太郎さんや特定非営利活動法人み・らいずの河内崇典さん、そして今も一緒に輪島でも活動しているCOACTの渡嘉敷唯之さんや鶴巻ファームの鶴巻耕介さんです。やれる時にやれることをやれる場所でやる。これは東日本に留まらず、今回の能登半島地震における活動でも同じことが言えます。そして、キミさんが被災地で活動ができるのも、感環自然村のスタッフがしっかり現場を守っているからに他ならないのでした。
 
 その感環自然村では昨年12月に待望のkankanHouseがオープンしました。

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 子どもたちの第3の居場所として素敵なログハウスが完成したのです。薪ストーブの暖かな温もりに包まれて子どもたちの笑い声が聞こえてくるそんな素敵な居場所です。これは感環自然村としては3棟目の建物になりますが、キミさんはさらにもう1か所子どもたちの居場所を作れたらと思っています。感環自然村の日々の活動については、こちらのブログをご覧ください。→感環自然村の村長便り

 今、キミさんは年を重ねるって楽しいと心底思っています。もちろん、腰が痛くなるとかそういうことはあるけれど、周りには年を重ねることの楽しさを教えてくれる達人がたくさんいて、「この若さになるのに70年もかかった」とおちゃめに言って日々を楽しんでいる人生の師匠って意外と近くにいるものなのです。すごい知識があっても奢ることなく飄々と生きているそんな人生の達人たちを見ていると、自分も誠実に人生を生きていかなきゃいけないなと思わされるのでした。
 自分のやることで、誰か一人でも笑ってくれたり楽になってくれたりしたら嬉しい。困った人がいたら助けられる自分でいたい、そう思うのにはお父さんの影響も大きいとキミさん。

 キミさんはお父さんの口からしんどいとか痛いとかつらいとかいう言葉を聞いたことがありません。いつも誰かのことを気にかけて自分のことは二の次の人でした。お父さんは3年前に亡くなったのですが、存命中に2人で散歩していた時のこと、カイロプラクティックの施術を受けて体の調子がよかったお父さんが言った言葉が忘れられません。お父さんは言いました。「事故以来、初めてこうやって空を見たよ」そう言って空を愛おしそうに眺めていたのです。空を見上げることも自由にできないくらいしんどい日々を送ってきたのに、それを全く口にしなかったお父さん。でも、頼もしい息子と一緒に空を見上げられたからこそ、その空が余計に愛おしく感じられたにちがいありませんね。

 感環自然村には今日もたくさんの子どもたちが集ってきます。これからもキミさんは、その大きな背中で子どもたちにいろいろなことを伝えていくのでしょう。お父さんがキミさんにそうしてきたように。

 長野県飯田市から広がる多文化共生村、日本に行ってみたい場所がまた一つ増えました。
今日の人227.山路健造さん [2024年07月20日(Sat)]
今日の人は一般社団法人多文化人材活躍支援センター通称「たぶさぽ」代表理事で、多文化社会コーディネーターの山路健造さんです。
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輪島のトレーラーハウスにて

山路さんは1984年12月2日に大分で生まれました。幼稚園の時にはまっていたのはウルトラマン!小さい頃は体が弱く、病弱でしたが、入院中にウルトラマン図鑑をずっと読んでいたのを覚えています。特に好きだったのはウルトラマンセブンでした。
山路さんが通っていた幼稚園は英語教育に力を入れていたのですが、山路さん自身英語がとても好きだったこともあって、幼稚園の卒園後も、幼稚園の先生が開く小学生向けの英語教室に通っていました。これが山路さんにとっての多文化共生との出会いの始まりでした。英語の暗唱大会ではジョン万次郎のスピーチをして優勝するなど、英語に触れているのがとても楽しかったのです。
ソフトボールクラブに入ってからは体も強くなり、クラブではキャプテンもしていました。クラスでもいつも学級委員をやらされていました(風邪で休んだ日も、学級委員に推薦されていました)し、いつも何かをやらされるのは今も変わっていないようです。人のいい山路さんは頼まれると断れない性分なのでした。

中学校に入っても英語は常に1番。それくらい英語が好きでした。いや、英語だけではありません。お父さんがインドネシアに赴任していて、現地に遊びに行った時も、山路さんは現地の人の話すインドネシア語をすぐに理解したので、お母さんに「あなたは語学の才能があるね」と言われました。そういうこともあって、将来は英語の先生になろうかなと思っていました。

中学校では野球部、高校で入ったのはなんとフェンシング部です。体験入部して、そのままなんとなく入ってしまったのですが、フェンシングはとても面白かった。でも、それ以上に面白かったのはやはり英語です。外国語を勉強するなら東京外大で勉強したいと思っていた山路さんは、東京外大を受けます。しかし、受けた年のセンター試験で、大得意な英語で失敗してしまいました。でも、やはり外国に多く関係する大学がよかったので、半数が外国人学生のAPU立命館アジア太平洋大学の4期生になりました。
三国志も大好きだったこともあり、第2外国語には中国語を選びます。2年になる年の春休みには1か月間中国の復旦大学に語学研修に行きました。買い物に出かけるだけでも楽しくとても充実していました。ある週末、南京へ遊びに出かけたのですが、行きの電車が大雨で遅れて当日中に帰れなくなりました。泊まることを想定していなかったのでパスポートを持ってきていません。さて困ったどうしようと思いましたが、タクシーの運転手さんと仲良くなり、その運転手さんは方々を訪ね廻ってホテルを見つけてくれたのです。本当にありがたいと思って、お金を渡そうとしたら、お前は友だちだからいいと、受け取ってくれませんでした。南京で日本人と言うだけでもまずいかもしれないのに、ずっと廻ってホテルを探してくれて、ホテル代まで出してくれて、人のあたたかさをひしひしと感じた中国での出来事でした。人をヒトとして好きになれるっていいな。心からそう思った山路さんは大学の友だちと一緒に「こここりあ」というサークルに入りました。サークルでは在日コリアンの人と一緒に東アジアの問題について熱く語り合いました。どこの国の人だっていいじゃん。何人(なにじん)だっていいじゃん。人をヒトをして好きになれる社会を創る。これは山路さんにとっての人生の理念です。そういう体験もあって、3年で単位を取り終えて、4年生の時は留学したかったのですが、長期留学は親が許してくれませんでした。

山路さんは1年生の時にとったメディア論がとても面白くてジャーナリズムにも興味を持っていました。長期留学の道はあきらめましたが、山路さんはジャーナリストになることを目指しました。西日本新聞が開催していたジャーナリスト講座を受け、月に2回、福岡まで通い、午前は記事の書き方、午後は現場の記者の話を聞きました。記者の話がとてもおもしろくて、西日本新聞に入りたいという気持ちが強くなっていきました。大阪の説明会にまで出向いたのですが、人事の担当の人と飲みに行くことになり、「注文の取り方、お皿の置き方がよかった」と宴会部長として(これはもちろん冗談)採用されることになりました。

山路さんが入社したのは、福岡で酒酔い運転のよる痛ましい幼児死亡事故のあった年でした。祭りと言えばお酒がつきものでしたが、博多山笠のなおらい(お酒を飲むこと)をやめます!という記事を書きました。5月の配属時月から7月15日の追い山まで、実際に自分も担ぎ手になって書いたルポはとても評判がよく、山路さんの新人記者としての出だしは上々だったと言えるでしょう。
筑豊の担当だった時は炭鉱町に朝鮮人労働者が働いていた記事を書いたり、トヨタ九州の工場担当になっていた時はリーマンショックの派遣切りを取材したり、さまざまな現場を担当しました。
東日本大震災の直後に佐賀に転勤になった山路さん。これが佐賀との出合いになりました。九州電力の原発再稼働をめぐる問題や諫早湾の干拓事業についての取材などをしていました。
2014年、LCCの春秋航空が佐賀空港と上海を結ぶ便を開設します。なんと佐賀から上海まで片道3000円で行けました。それに関連した様々な国際交流の取り組みを取材し、国際的な円卓会議の取材もしました。この円卓会議の事務局をしていたのが地球市民の会で、山路さんは4回シリーズの円卓会議を全て取材し、毎回飲み会まで参加してすっかり地球市民の会の人たちと仲良くなりました。その後も、地球市民の会の災害支援やミャンマー事業やタイ事業の記事をいろいろ書くうちに、いつの間にか地球市民の会の広報担当のようになっていました。
地球市民の会は 1983 年、九州で最初にできた NGO・NPOで、タイ、ミャンマー、スリランカでの国際協力事業や災害支援事業などを進めていました。「世界中のすべてのものの幸せを自分の幸せと感じられる社会をつくる」という理念にも共感を抱きましたが、何より事務局長の一言がズシリときました。
「伝える側ではなくて、プレーヤーとして関わりたいんじゃないの?」

「君はこっち側の人だよね」と言われた山路さんは新聞社を辞めてプレーヤーとして国際協力に関わりたいと青年海外協力隊に行くことを決意します。地球市民の会がラオス事業を展開しようとしていたこともあって、派遣先の希望をラオス、ネパール、インドネシアの順に書きました。けれど、実際に派遣先に決まったのはフィリピンでした。ルソン島の南にあるビコール地方南カマリネス州ティナンバック町に赴任が決まります。協力隊の2年間は全くちがう言語を勉強したいと思っていた山路さんでしたが、訓練言語は英語でした。けれど、現地についてからはテレビではタガログ語、現地ではビコール語を使っていたので、言葉を覚えるのもなかなか大変でした。それでも、もともと持っていた語学のセンスの良さで、ビコール語も話せるようになった山路さん。輪島の被災地でアセスメント調査に回っている時も、ビコール語を話すフィリピンの人に出会い、ビコール語で話しかけて嬉し泣きされてしまった山路さんなのでした。
現地での職種はコミュニティ開発で、有機農業リーダーを育てるというミッションがありました。北ルソンに木酢液を作る機械を作っているNGOの見学にも行きました。こうして、ゴミになっていたココナッツの殻から木酢液を作るという計画を立てました。
しかし、現地の町長選で町長派と副町長派に分かれて激しい選挙戦が繰り広げられ、町政がすっかり滞ってしまい。木酢液の機械の決裁をする人がいないという事態に。結局、選挙と雨で工事ができず、道半ばで任期が終わって帰ってくることになりました(木酢機械は、山路さんの任期後半年で、同僚が実現してくれました)。

2016年10月に帰国し、その後は地球市民の会に入って、タイ事業を担当することになりました。そんな中で声がかかったのが、佐賀県主催の「タイフェア in SAGA」(2017 年 10 月開催)でした。佐賀県は、タイからの映画やドラマの誘致に力を入れてロケ地となっていたことからタイからの観光客も増加。佐賀県とタイ王国政府芸術局は文化交流に関する覚書を締結していて、タイフェアもタイ文化を佐賀県民に紹介するイベントとして企画されました。 佐賀県に住むタイ人やタイが好きな人で実行委員会をつくり、タイ料理の屋台やタイ文化を紹介するブースを出展。その実行委員会事務局を任されたのが、地球市民の会でタイ事業を担当する山路さんだったのです。
イベントは、1日は台風で中止になったものの、大成功のうちに終わりました。でも、そんな中、気になった光景がありました。タイ人留学生同士でも、大学が違うと交流する場がないこと。県内には佐賀大学、西九州大学、日本語学校・ヒューマンアカデミー佐賀校(当時)にタイ人留学生が在籍していましたが、このイベントで初めて顔を合わせたという話でした。また、会場では、日本人配偶者として暮らすタイ人が「久しぶりにタイ語を話した」と喜び、朝から晩まで会場にいて交流する姿が見られました。
山路さん自身も青年海外協力隊としてフィリピン人に囲まれた生活を送り、たまにマニラ首都圏に上京すると、協力隊のドミトリーで夜遅くまで会話したり、大分県人会、立命館校友会に参加したりしながら、共通のテーマをもとに同胞で交流する場を求めていました。「そういう場が佐賀のタイ人にはないのか。横のつながりをつくってタイ人の孤立を防げないか」そう思って新たに設立したのが、「サワディー佐賀」です。
サワディー佐賀は、タイ映画のロケ地となり、観光客が増えていた祐徳稲荷神社(鹿島市)でのボランティアガイドをしたり、タイ語教室を開催し、タイ語を学びたい人向けに勉強する機会をつくったりしたほか、人気だったのがタイ料理教室。これらの中心を担うのは、日本人ではなくタイ人。ボランティアの交通費やタイ語教室・タイ料理教室の講師には、きちんと謝金を渡します。山路さんの「外国人住民の活躍」というキーワードの第一歩が、サワディー佐賀での活動でした。

一方、それまでの文化的な活動とは違う活動がスタートします。 2019 年 8 月の佐賀豪雨に端を発した、災害時のタイ語発信です。この時は機械翻訳でしかできず、不正確な情報を発信せざるを得なかった山路さんは、サワディー佐賀内に翻訳チームをつくりました。特徴は、タイ人同志で、タイ語のスペルなどをダブルチェックする体制。災害やコロナ情報など、タイ人住民に伝達したい事柄が起きたら、まず山路さんが情報を整理し、やさしい日本語で翻訳チームの LINE グループ(メインのLINEグループとは別に設立)に投稿。すると、日本語が得意なタイ人や、タイ語ができる日本人などが、そのやさしい日本語をタイ語に翻訳する。それをメインの LINE にすぐに投稿するのではなく、どんなに緊急的な情報でも、一度、タイ語ネイティブによるダブルチェックをしたうえで投稿します。万一スペルミスや意味を取り違えると、間違った行動につながってしまうからです。
この体制をつくったことで、 コロナ禍では感染者数や、緊急事態宣言などでもタイ語で情報発信が可能となりました。特別定額給付金の支給や、ワクチン接種情報も、国や県の説明文をタイ語に翻訳しました。佐賀県では 2021年 8月にも豪雨被害がありましたが、県の災害情報会議終了後30分で、ダブルチェックをしたうえで情報発信が可能となるなど、タイ人グループとしてのノウハウを確立することができました。これらの活動が認められ、サワディー佐賀は、2020 年度総務省ふるさとづくり大賞(団体表彰)を受賞したのです。

一方、2020年度からは、タイグループで培った災害情報発信のノウハウ の「横展開」を行いました。ほかの少数派外国人をグループ化し、日本語が堪能なメンバーを中心に翻訳し、内容をダブルチェックしたうえで発信しようという狙いです。この事業により、ミャンマー人とスリランカ人の SNS グループをつくることができました。この佐賀県の少数派外国人支援を続ける中で、気づいたことがありました。ミャンマー政変に伴う相談会には、佐賀県外からのミャンマー人参加者がいました。「緊急時だからこそ、多くの人とつながりたい」との感想が、いつまでも耳に鳴り響いていました。「NPOならば、決して佐賀にこだわらなくてもいいのではないか?」。行政ならば、県は県域、市は市域と行政区分がある。しかし NPOなら定款で対象区域を絞っていない限り、県を越えた活動ができるはず。ミャンマーのみならず、災害にしても、線状降水帯が発生すれば県を越えた被害が発生するし、地震でも同じくだ。そこから構想したのが、「九州外国人支援ネットワーク」です。
なぜ広域の活動を考えたのか。それは、九州という地域が抱える課題があります。九州では、福岡をのぞいて、外国人が集住して暮らす地域が少なく、農村地域などに分かれて暮らす「散在地域」となっています。在留資格も、全国で多い「永住者」ではなく、「技能実習」が多く、また、外国人対応の経験のある士業も少なく、まだまだ首都圏に比べて遅れています。佐賀県は、行政による災害時の多言語情報発信の言語数が多いけれど、県域を越えた発信というのは難しい…。 災害時や日ごろの生活相談などの困りごとを解決するため、 NPO や行政、外国人コミュニティなどがセクターを超えて繋がりあい、それぞれの強みを生かした緩い連携をつくりたい、というのがこのネットワークの狙いです。行政職員は 3年程度で職員異動もあり、人が定着する民間で多文化共生に関するノウハウやネットワークを蓄積させるという意図もありました。
地球市民の会として打ち出したこの構想に関しては、公益財団法人かめのり財団がバックアップ。多文化共生に関する法律のセミナーを開催したり、水害が発生する佐賀県で、災害発生後の行動などをまとめた 多言語ハンドブック(認定 NPO 法人全国災害ボランティア支援団体ネットワーク JVOAD 監修、英語・中国語・タイ語・ミャンマー語・やさしい日本語に翻訳)を作成したり、ワークショップ「外国人のお困りごとをネットワークで解決しよう」を開催したりしました。 また、かめのり財団からの調査委託として、佐賀県内 20 市町や、九州の関係機関や NPO などに調査を実施しました。
そうして「1つの自治体、団体、機関ですべての外国人住民の『お困りごと』に対応するのは、難しくなってきた」という仮説を検証するレポートをまとめました。

山路さんの動きはとまりません。2022年2月に侵攻が始まって発生したウクライナ避難民の受入れにもいち早く動きました。
佐賀 NGO ネットワーク事務局を務める地球市民の会から市と県に対し、「それぞれで支援するのではなく、せっかくならば協働しませんか?」と申し入れ、全国で初めての官民連携によるウクライナ避難民支援が始まったのでした。佐賀の多文化共生を進めるチャンスにもなる」との思いで始めた避難民受け入れ事業でしたが、結果的に、様々なコミュニケーションツールの整備が進みました。まずは、ウクライナ語の会話帳。これは、簡単な挨拶や会話、ウクライナをサポートする言葉をまとめたもので、三つ折りの名刺サイズで印刷し、日本人に配布することで、財布などに入れて、ウクライナ人に話しかけてもらうことを目的に製作しました。そのほか、地球市民の会の日本財団助成金により、佐賀県国際交流協会の生活ガイドのウクライナ語版を作製したほか、水害ハンドブックについて、日本ウクライナ友好協会が「ウクライナ語版もつくりたい」と申し出があり、同協会の予算で製作するなど、避難民、在日ウクライナ人と対話をしながら、コミュニケーションツールを作製していきました。

こうしたさまざまな実践の中で山路さんが強く感じているのは「外国人住民を包摂するためのインフラが整えられていない」という課題です。実はこの課題について山路さんが身を持って感じた大きな出来事がありました。それはタイ人女性との国際結婚の失敗です。
山路さんはサワディー佐賀の活動の中で、 メンバーのタイ人から、タイ現地に暮らす妹さんを紹介されました。彼女がお姉さんに会いに佐賀に来た時に初めて出会い意気投合。ほどなく交際がスタートしました。そしてタイまで会いに行って婚約し、2018年11月に入籍し、日本での暮らしが始まりました。
彼女は、タイでは銀行に勤め、経営学修士(MBA)を取得したほどのエリート。でも、その職を辞し、日本での暮らしを選んだのです。日本語が堪能で、サワディー佐賀の活動を楽しむ姉の姿へのあこがれもあったのでしょう。彼女は日本語ゼロ初級で来日したため、「まずは日本語を」と、日本語学校へ入学。しかし、学費が高く、 通ったのは 3 か月のみで、 基礎まで身に付けてもらって、その後は山路さんの知り合いの日本語教室で学んでもらう予定にしていました。勉強熱心な彼女は完全なゼロ初級にもかかわらず、母国でN5 を取ってから入学したネパール人の同級生たちよりも成績が良かったのです。帰ってからも何度も漢字を書いては覚え、山路さんも会話練習の相手をしました。 こうしてクラストップの成績で 3 か月の授業を終えました。これからは日本語教室と独学で学びながらアルバイトも。そんなことを考えていましたが、日本語学校に通わなくなってから、だんだんと家に引きこもるようになりました。スーパーの店員さんの何気ない会話も聞き取れない。冷凍食品の作り方のレシピさえ読めない…。人見知りの性格も相まって、 タイ人とさえ会いたがらなくなってしまいました。一日家に引きこもり、タイの YouTube を見続ける日々。「私は、ここ(日本)では子どもになってしまったみたい」と漏らした言葉が山路さんの頭を離れません。タイ人の孤立を防ぐためにサワディー佐賀を作ったのに、自分の大切な人がタイ人メンバーと会うことさえ嫌がるようになってしまったことにとてもショックを覚えた山路さん。
そうして彼女は「少しタイに帰りたい」とコロナ禍前に一時帰国して、そのまま二度と日本に戻ってくることはありませんでした。
「たられば」を言えばきりがありませんが、外国人住民に対するインフラの未整備を思い知らされた、苦い経験でした。

しかし、同じようなケースは、ウクライナ避難民でも見られました。ウクライナ避難民の中には「よりウクライナから離れた場所へ避難したい」と様々なプログラムを探し、 SAGA Ukeire Network(佐賀県、佐賀市、CSOによる官民連携のネットワークで、それぞれの 機関・組織の強みを生かした「ワンストップでの受け入れ」を実践)に応募してくれた方がたくさんいました。その多くが日本への避難は想定していなかった人たちです。もちろん、日本語の学習は未経験。ひらがな、カタカナさえ分からない避難民がほとんどで、 母国で日本語の基礎を勉強したうえで来日したネパール人がひらがな、カタカナを書き、簡単な日常会話ができる中、まったく日本語学校の授業についていけずに、通うのをやめてしまったウクライナ避難民もいます。日本語で日本語を教える直接法が主流の日本語学校において、ゼロ初級の避難民が日本語を学ぶことは難しい。ホテルなどで勤務した経験もあり、流ちょうな英語を話す人でも、佐賀において就労には結び付いていません。
農業県である佐賀県では、 選果場やノリ養殖などの単純作業もある。ただ、ウクライナは大学進学率が高く、世界銀行のデータによると、高等教育機関への就学率は、ウクライナは2019 年で 84%。同年の日本の 62%より、 20 ポイント以上高いのです。「避難民だからどんな仕事もいとわず働く」のではない教育文化的背景も、日本社会は理解する必要があります。

このように、多文化共生の実践として、タイ人グループの設立からさらなる少数派外国人への横展開、九州外国人支援ネットワーク構想、そしてウクライナ避難民支援と続けてきた中で「社会的インフラの整備の重要性」という課題が山路さんの目の前に立ちふさがりました。これを解消・緩和すべく、地球市民の会でウクライナ避難民当事者インターンによる事業を進めようとしていました。また、タイからの外国人材受け入れ事業を進める予定でしたが、避難民の家族に対する支援の公平性とインターン雇用で意見の相違が発生しました。それで山路さんは地球市民の会を退職し、自ら一般社団法人多文化人材活躍支援センターを設立したのです。

一般社団法人多文化人材活躍支援センター通称「たぶさぽ」の一番の特徴は、ウクライナ避難民として佐賀で受け入れたポジダイェヴァ・アンナさんが理事として参画してくれたことです。 2022 年 2 月のウクライナ侵攻開始後に日本へ避難したウクライナ人当事者が設立した団体は初めてのケースとみられます。
彼女は、夫と娘 2 人と共に、SAGA Ukeire Networkの事業で佐賀県へ来ました。そして、地球市民の会でもインターンをしてくれた 1 人でした。 アンナさんは、 2000年代に福岡の美容学校で学んでいた経験もあり、日本語が堪能で、帰国後、首都キーウで美容サロンを営んでいましたが、侵攻開始直後に、サロンが入居するビルにミサイルが直撃し、国外への避難を考えました。ゆかりのある日本での受け入れプログラムを探す中で、かつて暮らした福岡の隣の佐賀県のプログラムを見つけて応募。 2022 年 11 月にまずは娘 2 人と 3 人で避難し、 2023 年 4 月には目に障害を持つ夫も 、徴兵免除となって出国が可能となり、 佐賀へ避難できました。地球市民の会インターンでは、それまでの日本人インターンの後任を公募したところ、「私たちでもサポート側でできることはありますか?」と応募してくれました。 祭りなどでの寄付募集の企画を中心で考えてくれたり、高齢者大学で講演をしてくれたりなどして活躍し、その後、山路さんが福岡県久留米市で 2023 年 8 月に発生した豪雨被害の被災者支援をしていることを知り、「日本人のおかげで私たち家族は避難できた。その恩返しをしたい。 何かできることはありますか?」と申し出てくれて、被災した子どもたち向けのウクライナ料理の炊き出しも実施しました。これは「ウクライナ避難民が豪雨被災地支援」ということで、 7 つのメディアに取り上げられるなど、注目を集めました。
その後、アンナさん一家は、2人の娘さんの教育機会を求めて東京へ転居。転居後も山路さんとはビザの身元保証人という関係もあり、連絡を続けていました。 その中で、アンナさん自身の体験やほかの避難民の経験から、やはり「避難民が日本で生きていくための日本語教育や就労には壁がある」との意見で一致。「同じく日本に長く暮らしたいと希望するウクライナ人と一緒に暮らしやすい社会をつくりたい」というアンナさんの思いを受け、法人化を決めたのです。
アンナさんと課題と話しているのは主に4 点。@永住を希望する避難民の自立(日本語、就労)が進んでいないA戦争の長期化、核リスクによる、さらなる避難希望者の増加が予想されるBウクライナという国へのマイナスイメージがついているC復興に向けたファンドレイジングの必要性と反比例し、戦争の長期化により寄付が減少しているという点です。
これにより「避難民支援事業」として実施したいと考えているのは、 大きく分けて 2 つ。
1つは、ウクライナ避難民の自立に向けた「能力強化」です。今後、戦争の長期化により、
メンタルヘルスの不調や、男性(18〜60 歳)が出国できないことによる離婚の増加などが
考えられます。医師や弁護士などの資格を持つ避難民に相談できる体制を整えたいと話しています。また、日本語のできる避難民が通訳・翻訳として活躍できるように、コミュニティ通訳の研修会も実施したいと考えています。そのほか、直説法では習得が難しいウクライナ避難民向けに、ウクライナ語やロシア語で日本語を教える体制づくりも検討しています。 実は、たぶさぽの理事の一人は、ロシアで日本語教師の経験を持つ、佐賀女子短期大学グローバル教育センター副センター長の金武雅美さんです。 APU で留学生向けにも長く日本語を教えた経験もあり、今後、 避難民向けにロシア語などを使ったサバイバル日本語の講座を検討しています。
2つ目は、ウクライナのポジティブなイメージの発信です。「戦争」というイメージが
ついたウクライナについて、ポジティブなイメージを持ってもらいたい、とのアンナさんや
他の避難民の思いを受けた企画です。具体的には、アンナさんが全国を巡りながら、得意
の料理の腕を生かした料理教室と体験談を聞くセミナーをセットにした「全国キャラバン」
や、高校での出前講座を企画しています。 そのほか、 YouTubeを使って動画配信も実施し、ウクライナ料理や観光地、日本での生活など、ポジティブなイメージを発信していきたいと考えています。現在考えている事業はすべて、アンナさんが発案した企画。避難民という「ゲスト」として入国したアンナさんだからこそ、避難民たちの ニーズをとらえた支援側=ホストとして活躍できると考えています。そうして山路さんは今後、カフェやウクライナからの輸入、スタディツアーなど、ウクライナと日本を繋ぐソーシャルビジネスを生み、ウクライナ人の雇用をつくりたいと考えています。

実は2024年8月10日から3日間、被災地輪島でウクライナ料理の炊き出しをすることも決まっています。なぜ、輪島かというと、山路さんは能登半島地震の発災後、5か月にわたって輪島にいたのです。ダイバーシティ研究所の田村太郎さんから、金沢に一週間行ってくれと言われ、気づいたら輪島に5か月。石川県がJVOAD(認定NPO法人 全国災害ボランティア支援団体ネットワーク)へ委託して実施した奥能登5市町を対象地域とする「被災高齢者等把握事業」の再委託先がダイバーシティ研究所で、被災した方々の生活実態や避難の状況、今後の再建の見通しを尋ねる事業に取り組んできたのですが、2月から現地にずっと常駐することになったのが山路さんだったのです。
地震後に認知症や障がいの度合いが進んだり、在宅まで支援が届いていなかったり…。そんなケースを1件でも見つけ、行政や福祉サービスの支援につなげるためにも、すべての家庭を訪問する活動を実施しました。山路さんはロジ担当のリーダー、そしてコーディネーターを支え、1300人を超えるスタッフを受け入れるために大きな役割を果たしたのです。   
4月以降は輪島市からの依頼に基づいて、市内の全て世帯を訪問。6月末までに空き家や倒壊家屋も含め市内の全世帯の訪問を終えました。
2月からずっとトレーラーハウスで暮らしてきた山路さん、いつの間にかトレーラーハウスのベッドがいちばん寝やすくなったのでした。たくさんのケアマネさんや相談支援員さん、全国から来る訪問スタッフ、輪島での出会いは、山路さんにとってかけがえのないものになりました。

そうして山路さんは大きな決断をします。ウクライナ避難民の事業をやりつつ、これからは輪島に拠を構え、輪島で活動していきたい、そうして仕組み作りをやっていきたい!そう決めたのです。
今は輪島での5か月を振り返りつつ、次のステップへの準備をしています。

お酒とキャンプが大好きな山路さん。もうちょっと落ち着いたら、輪島でソロキャンプができるかな。でも、くれぐれも飲みすぎには注意ですよ。
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大好きになった輪島の夕景
今日の人190.池田 誠さん [2019年08月25日(Sun)]
 今日の人は、一般財団法人 北海道国際交流センター(HIF)事務局長 大沼マイルストーン22代表、NICE評議員、ボラナビ倶楽部理事、大沼ラムサール協議会会長と、数多くの顔をお持ちの池田誠さんです。
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ホッとできる場所「Caffee Classic」で

 池田さんは昭和36年北海道知内町湯の里で生まれました。湯の里は青函トンネルの北海道側の出入り口のある場所です。1クラス20人くらいの小さな学校にいた池田さんは、自然の中で走り回ったり、虫捕りをするのが好きなおとなしい子でした。お父さんは小学校の先生で、とても教育熱心でした。毎朝5時に起きて4q走って縄跳びを500回、帰宅後はそろばん、書道というのが日課でした。小学校入学前に九九は覚えていましたし、そろばんは小2の時に1級でした。学校の成績はとても優秀でしたが、あまり積極的な子ではありませんでした。
 小学校の5年生からは函館の大きな学校に引っ越しましたが、田舎が好きだった池田さんはその学校になじめず、学校の先生に反抗していました。家で親に反抗できなかった分、学校の先生に反抗する方にいってしまったのかもしれません。家ではドリフなどの娯楽番組やゲームは禁止でしたし、とにかくお父さんは厳しい人で、そのお父さんに反抗するなど思いもよらないことでした。
 巨人の王選手が好きだった池田さんは、子どものころ野球選手になりたい、と思っていました。中学校では野球部に入り、ショートで3番を打っていました。校内のマラソン大会でも1位で、まさに文武両道だったのです。社会的なことに興味を持ちだしたのもこの頃で、中学3年の時に新聞に投稿していました。
 
 高校は函館中部高校へ。陸上部のキャプテンでしたが、本もたくさん読んでいて、小説の公募にも応募していました。勉強、部活、読書に忙しく、悩みなど特に感じていませんでした。数学が得意なこともあって、理系にいたけれど、文系に進みたい気持ちも強くて、北海道大学の文学部を目指していました。しかし、共通一次で思ったような点数が取れず、さりとて浪人する気もなかったので、二次試験が数学、国語、英語の得意科目で行ける小樽商科大学の商学部へ入ります。
 大学では陸上部と、落研にも入りました。落研に入ったのは合コンがしたかったからです。高校の時は女の子に全く興味がなかった?のに、大学に入ってから急にはじけてしまった池田さん。1年の秋からパブでバイトをし始めたことで、ずいぶん社会勉強にもなりました。仕送りは一切もらっていませんでした。大学の後半には合コンの主催者もよくしていました。

 大学3年の春休みにはアメリカに1ヶ月ホームスティをします。語学講座のコマーシャルで「君もカリフォルニアの風に吹かれてみないか?」と言っているのを聞いて行ってみたい!と思ったのでした。このホームスティの体験は池田さんに大きな影響を与えました。そしてホームスティをたくさんの人に広められる仕事をしたいと旅行会社のJTBに就職しました。働きながら、「北海道国際交流センター(HIF)」が主催する国際交流活動にボランティアとしても関わっていました。
 HIF は1979年、早稲田大学の要請で16人の留学生を七飯町の農家に2週間滞在させ、当時としては非常に珍しい草の根の国際交流を成功させたことで組織化された法人でした。毎年多くの留学生が北海道に来て、芋掘りや牛の餌やり、昆布干しなどを体験するのです。受け入れるホストファミリーは、畑作や酪農、漁業に携わる皆さんでした。そんな皆さんと出会って、池田さんは次第に農業をやりたい!と思うようになっていったのです。幼い頃に、自然の中で走り回って楽しかった池田さんの原風景と農業とが結びついたのかもしれません。

 池田さんは29歳の時に、職場で知り合った女性と結婚しましたが、11年働いたJTBを辞め、子どもが2歳の時に、家族でニュージーランドに渡ったのです。何か当てがあったわけではありません。小樽市役所に電話して、自分はニュージーランドと日本の架橋になりたいと熱く語り、ダニーデンの農家でファームステイをしてもいいという許可をもらったのです。1ヶ月いたその農家はおじいさん一人で牛1万頭、羊5万頭を飼っているところでした。そのおじいさんは池田さんの奥さんの日本食に感激して、日本に帰ってきてから遊びに来てくれたこともあります。その他にもハーブ農園や牧場等20か所近くに住み込んで、グリーンツーリズムや、パーマカルチャー、バイオダイナミックなどを学びました。「I’m farmer」と自負を持って働く農家の人々。Do it yourselfを大切にするニュージーランドの人々は壁が壊れても、井戸が詰まっても、車がオーバーヒートしても何とかしてしまいます。 このニュージーランドでの日々は池田さんのその後の人生を語る上で、なくてはならない1年間になったのでした。

 帰国後は、共働学舎新得農場で心身にハンディキャップのある人たちと、有機農業とナチュラルチーズづくりをしながら自給自足で暮らしました。約60人と共同生活し、皆が支え合って暮らすダイバーシティとの出会いとなったのです。ここで多様性の大切さを実感し、また自然と共に生きることが池田さんのテーマになりました。この共働学舎で作ったチーズは日本で初めてのチーズコンテストで日本一になったそうです。どんな味なのか食べてみたいですね。

 その後、搾乳のアルバイトをしながら新聞の通信員をしたり、コミュニティFMのパーソナリティをしたりしていました。そんな時に、かつてボランティアをしていたHIFの代表理事からうちで仕事をやってみないか、と声をかけられます。こうして、2001年から池田さんはHIFの事務局長として働き始めました。主に留学生の夏のホームスティの受入れをやってきたHIFですが、冬は何をやっているんですかと留学生に聞かれます。
 HIF では、ホームステイ事業以外にも、国際交流に関する様々な事業を展開していきます。一つは、2004年から実施している環境のための「国際ワークキャンプ」の実施。これは、留学生と日本人が、共にボランティアとして地域の植樹や湖の浄化活動などを行うものです。2008年の洞爺湖サミットでは、ヨーロッパやアジア8カ国と日本の若者が一緒に道内で植樹活動をし、さらに地球環境への思いを短冊に書いて、G8に集まった世界の首脳に届けました。また、タイやマレーシア、韓国などでスタディツアーも実施しています。マリンツーリズムを進めるフィリピンへのツアーでは、地元のNGO の協力で現地入りし海洋調査を行いました。2004年には、ボラナビを参考に、道南のボランティア情報誌「ボラット」を創刊。2010年には、若者の厳しい雇用の現状に国際的な視点で臨むために、若者の就労をサポートする「はこだて若者サポートステーション」を始めたり、名古屋で行われた生物多様性条約第10回締約国会議(COP10)に北海道環境省パートナーシップオフィスと連携して出展したりしました。

 このように、池田さんは事務局長として次々に新しいことに取り組んできました。そして、「ボラット」の後継情報誌として「@h」という季刊誌も発行し、子どもの貧困、まちづくり、国際、環境、農業など様々な社会課題について発信しています。知りたい場所に行き、会いたい人に会う、ここではJTBの仕事も生きていると池田さん。そう、今までやってきたことは全部つながっているのです。そして、どこからどこまでが自分にとって仕事かわからないと池田さん。人と会い、人と関わることが好きだから、その時間がとても楽しい。
 実は池田さんにはとても優秀な妹さんがいて、東北大を首席で卒業した秀才なのですが、池田さんは妹さんとずっと比べられるというコンプレックスが強くありました。それもあって普通の生き方ではなく、自分のペースで生きられる方向に進んだということもあります。けれど、社会を変える活動に関わることが出来る今の自分に満足しています。

 そんな池田さんが今ホッとできるのは、お気に入りの「Caffee Classic」で気の合う店主の夫妻と過ごす時間。私も連れていってもらいましたが、ヒュッゲのようなゆったりとした時間が流れていて、なるほどホッとできる場所というのも納得でした。
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どこか懐かしい味わいのプリン、奥の絵本はマスターの近藤伸さん作の絵本Live the Magic
とってもあったかい絵本です。おすすめです!


 何も背負っているものがなかったら、行きたい場所は沖縄と秋田。沖縄は場所がいい、秋田は美人が多いから、だそうです。さすが合コンキングですね。
外国だったらやっぱりニュージーランド!
 そうしていつか、共働学舎のような場所を作りたい、それが池田さんの夢でもあります。
 素敵だな、と思ったことは全部やってきたという池田さん。いつか富山の留学生たちを連れて池田さんの作った共働学舎のような場所にお邪魔することを楽しみにしています。



今日の人114.村木真紀さん [2014年03月19日(Wed)]
 今日の人は、虹色ダイバーシティ代表理事の村木真紀さんです。
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「虹色ダイバーシティ」は、性的マイノリティ(性のあり方が「自分の性別が戸籍上の性別と同じ、男/女のどちらかで、特に違和感がなく」かつ「異性のみが好き」ではない人たちや、性別を越境していきる人たちのことです。同性愛者(レズビアン、ゲイ)、両性愛者(バイセクシュアル)、性別越境者(トランスジェンダー、性同一性障害者)など、多様なあり方があります。レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダーの頭文字をとってLGBTと呼んでいます)がいきいきと働ける職場づくりをめざして、調査・講演活動、コンサルティング事業等を行っているNPO法人です。なぜ虹色かというと、虹色は、性的マイノリティのシンボルだからです。虹の色のような性の多様性を祝福する意味があると言われています。


 村木さんは茨城県のトマト農家で3人姉妹の長女として生まれました。子どもの頃は農家のお手伝いをするのも当たり前。太陽の味のするトマトがおやつ代わりでした。その合間に牛や豚を見に行くのが好きでした。

 幼稚園の頃から手先が器用で、やたらと難しい折り紙に俄然やる気が出る子どもでした。小学生の時はサッカーやバスケをするのが大好きなボーイッシュな子。世界ふしぎ発見のレポーターになりたい、それがその頃の村木さんの夢でした。そしてその頃、千夜一夜物語やギリシャ神話が大好きでした。今思えば、その中にはセクシャルマイノリティが出てくる話がたくさんありました。自分でも無意識のうちにそういうことが気になっていたのかもしれません。

 中学生の時は能の世界にはまります。また剣道や空手もやっていました。道着がかっこよく思えたのです。生徒会の役員選挙ではトップ当選を果たしたけれど、慣例で生徒会長は男子に。素直に副会長をやっていたものの、そうやって慣例に縛られることに居心地の悪さを感じていました。勉強もスポーツもできるし、生徒会の副会長もやっているし、きっと周囲からは羨ましがられる存在だったであろう村木さんでしたが、本人はずっと居心地が悪く、高校は奨学金を出してもらいながら家から2時間かけて通う私学に行きました。今までの環境からどこか離れたい気持ちがあった。

 ある時、高校の担任の先生が「家裁の人」を薦めてくれて、それを読んだことから、判事になりたいと思うようになりました。
 
 京都大学総合人間学部に進んだ村木さん。住まいは女子寮に入ります。2人部屋で、同室は高知の人でした。彼女と一緒に飲みにいった帰り、泣きながら震えながら、自分がレズビアンであることをカミングアウトしました。彼女も一緒に泣いてくれました。こうして大学に行ってから、自分が解放された感覚を味わいました。
 そうして、LGBTの人に会う機会も増えました。美術部やHIVのボランティア団体の中でLGBTを含む多様な人たちに会う中で、いろんな人がいる方がクリエイティブでおもしろい、ということを肌で感じることができました。

 総合人間学部は学際的な学問ができるところだったので、村木さんも法律から生物学まで幅広く学びます。そして、生物学の講義の中で生物多様性の概念を知りました。ちゃんと観察すると、同性同士で子育てをしたり、性転換をする生物もいるのに、それを生物学は例外として重視していないことに気づきます。いろんな種がいることで恒常性が保たれる、それを生物学は教えてくれたのでした。

 HIVのボランティアで出会った人に10歳年上のレズビアンの人がいて、彼女は有名企業の広報担当としてバリバリ働いていました。その働き方がとてもかっこよく見えた村木さん。
 無理してスカートをはいて就活をし、ビール会社の経理部に就職が決まります。担当は支社の経理だったのですが、夜逃げした酒屋さんの債権整理などもしていました。震災の後で、つぶれるお店がとても多かった時代、なかなか希望が持てない状況でした。けれど、経理部同士は仲がよく、よく一緒に飲みに行ったりもしました。仲がいい分、プライベートのことも聞かれるので、だんだん辻褄を合わせるのがつらくなり、ごはんや飲み会に行くのがつらくなっていきました。そして徐々に居づらくなって、仕事を辞めることにします。

 その後しばらくいた会社で、コンサルタントの人の働きを見て興味を持ち、自分もコンサルタントの仕事をやりたいと思って、外資系のコンサル会社に転職。数ヶ月のプロジェクトで50社、100社の決算をいかにはやくまとめるかという連結決算のコンサルを担当しました。これは実におもしろかった。決算のポイントはすなわち商売のポイントでもあります。この仕事で、この会社のポイントはどこなのかを考えるクセがつきました。

 このころ、両親にもようやくカミングアウトしたのですが、両親の反応は予想外に暖かく、この家族の理解は村木さんの心理面にはとても大きくプラスに働きました。

 新たに働き始めた会社は経理ソフトウェアの会社でした。ここは中途で入ってきた人が多く、お互いプライバシーについて尋ねることもなかったので、居心地のいい働きやすい会社でした。ここの職場では特にカミングアウトもせず、ひたすらまじめに仕事をしていました。

 そんな村木さんに衝撃の出来事が襲います。ゲイの友だちの自死。彼は鬱で生活保護を受け、何度か就職にトライしていたけれど難しかった。そしてとうとう自死を選んだのです。身寄りはお姉さんだけだったのですが、ゲイであることを言っていませんでした。お姉さんが来るまで、ゲイだった証拠を友だちみんなで必死に片付けました。
 次の日、無理して会社に行きましたが、怒りで震えがとまりませんでした。なぜ死んだあとまでゲイであることを隠さなくてはいけなかったのか。LGBTのことをちゃんと認めてくれる働ける場があればこんなことにはならなかったのではないか…。
 村木さんは彼の部屋に入った時の匂いが忘れられません。私だって、いつそうなってもおかしくないのだ…。どうしてLGBTというだけでこんなにも哀しい想いをしなくてはいけないのだろう…
友だちの友だちも自死。立て続けに3人を自死で亡くして、大きな大きなショックを抱えたけれど、それを会社に言えない自分。
 2日間、ヘッドフォンをかけて大音量で音楽を聴きながら仕事をしたけれど、会社で気持ちが保てない自分がいまいた。やがて体調を崩してしまい、夜眠れず、会社でミーティング中にうとうとするような日が続き、休職。
 
 やはりLGBTで鬱で仕事を休んでいる友だちと話していると、仕事に対しても会社に対しても報われないと嘆いていました。その子の会社は人を大事にするというポリシーの会社。そういう会社においてさえ、そうなのだ。LGBTであることの大変さをいつもいつも突きつけられる現実。どうしてこんな世の中なのだろう。環境を恨んではいけないことはわかっていても、あまりにもつらい現実がありました。

 でも、少しずつ世の中の流れが変わります。オバマ大統領がLGBTに積極的であることで、日本もほんとに一歩ずつではあるけれど変わってきました。LGBTのために立ち上がるのは今じゃないのか。嘆くばかりでなくLGBTのために力を尽くしたい、独立したい、その気持ちが膨らんで、ついに村木さんは虹色ダイバーシティを立ちあげたのです。

 村木さんと同じように、時代の風を感じた当事者たちによる活動もどんどん一般の人にも見えるようになってきました。先日は関西でLGBTの成人式も開催されました。200人くらい集まってくれて、元気な顔を見せてくれました。みんないろいろ悩んでいる。でも、こんなに仲間がいる。それは孤独の中で悩んでいたLGBTの若者にとってどんなに希望の光になったことでしょう。彼らのためにも働きやすい職場を作ろう、村木さんはそう思っています。

 そのためにも企業向けのコンサルタントはどんどん進めています。ポイントを外さずに動けば、企業もLGBTのことをわかってくれます。そして、今はLGBTに取り組まないのはリスクであり損なんだと企業に言っています。
 活動拠点の大阪では企業にもだいぶん浸透してきましたが、これを地方にも広げていきたい。住んでいる所にLGBTがいるという安心感。これは思春期に悩む子にとってどれだけ救いになることか。各市町村のレベルでセーフプレイスを作りたい。私はこのままでいいんだ、という安心出来る場所。安全にお互いがつながれる場所。そして、その中で承認の経験を積むことの大切さ、それを伝えたい。

LGBTは実は人口の5%だと言われています。つまり、どこにでもいるのです。それなのに、いないと思ってしまうのは、みんなそうじゃないふりをしているからなのです。まずそれを知ることが大切。全ての人が100%自分の力を発揮できる環境にしたい。自分の中の今までの常識という枠でとらえていると、発想の芽をつぶすことになります。常識とされているものを疑うことで、いろんなものが見えてきます。自然界でも、オスとメスだけではない、いろんないきもの、生き方が見えてくるようになるのです。

 これからは5%の当事者ではなく、当事者の周りの95%の人への働きかけをもっともっとしていきたいと村木さん。大阪の淀川区では村木さんたちの活動もあり、LGBT支援宣言が出されました。全国の自治体が淀川区につづいてほしい。LGBTの友だちが普通にいる、それがあたりまえの日本になる日もそんなに遠くない、私はそう信じています。
 いろんな人がいる方が楽しいにきまっているのです。それをたくさんの人が実感してほしい。もちろん、私たちも一緒に歩いていきます。ちがいに気づき、ちがいを活かし、ちがいが創る、しなやかな地域社会に向けて…
今日の人49.柳澤千恵子さん. [2012年07月27日(Fri)]
 今日の人は、ダイバーシティ研究所研究員の柳澤千恵子さんです。
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 柳澤さんは長野県須坂市生まれ。高校まで、自然豊かな須坂で過ごしました。小さい頃から優等生で、特技は勉強だけだったなぁとおっしゃいます。
中学はバスケ部。あまり気乗りはしなかったのですが、親に運動部の方がいいよと言われ、なんとなくバスケ部にしました。高校では吹奏楽部でバスクラリネットを吹いていました。吹奏楽部は県代表に選ばれ、朝練や夜練が厳しかったですが、音楽は好きだったのでさほど気になりませんでした。
 高校は進学校。先生から国立の大学を薦められましたが、親は、男の子だったら行かせてあげられたんだけど…と、大学には行かせてもらえず、東京の短大に進学します。このことが人生において、大きなコンプレックスになりました。私は勉強しか取り柄がなかったのに、どうして大学進学を許されなかったんだろう…。やりきれなさを感じると同時に、「男の子だったら行かせてあげられた」という言葉に、初めてジェンダーを意識することになりました。
 でも、もし国立大学にそのまま行っていたら、柳澤さんがダイバーシティに関わることもなかったのかもしれないと思うと、運命ってホントに不思議ですね。
 
 話しを短大卒業の時に戻します。
 短大を卒業した柳澤さんは、地元の企業に就職しました。
その後リクルート長野支社で営業の仕事を始めます。リクルートはバリバリの体育会のノリの会社でした。始業時間前のアポ取りタイムから始まって、ひたすら営業営業の日々。5年間その仕事をした後に職を退き、派遣で英会話教室で働いたりしました。
 
 その後、結婚を来に再び上京します。そして再びリクルートで働くことに。今度はリクルートスタッフィングで4年間の営業生活でした。その後、NPO法人CARE-WAVEで法人立ち上げに関わり、事務局長を務めるようになりました。CARE-WAVEは、ノンフィクションミュージカル『CARE-WAVE AID』を通じて飢餓・貧困・紛争といった世界の惨状を伝え、ミュージカルの収益金をNPO等の援助団体に寄付することで、ミュージカルの出演者・観客と援助活動をつなぎ、思いやりの心の波を広げる活動をしているNPO法人です。
 
 会社を辞めてNPOの世界に行ったのは、もう売り上げだの利益だのを追求するのは
いいかな、と思ったからです。でも、NPOに行った時に、企業との大きなギャップを感じました。NPOが声高に言っていることを、企業の人間は誰も知らない。このギャップは大きかった。そんな時に、CSRでダイバーシティ研究所とつながったのでした。
 CSRというのは、企業が利益を追求するだけでなく、組織活動が社会へ与える影響に責任をもち、あらゆるステークホルダー(利害関係者:消費者、投資家等、及び社会全体)からの要求に対して適切な意思決定をすることを指します。
 
 柳澤さんの強みは、営利目的の株式会社の立場もわかるし、NPOの立場もわかること。ですから、CSRにはすごく興味がわきました。
 こうして柳澤さんはダイバーシティ研究所の研究員になったのです。
 
 1年目は何もわからずにCSR調査をしていました。2年目は1年目に調査したことはこういうことだったのかと腑に落ちました。そして、5年間調査をやってきて、CSR調査は社会にとってだけでなく、企業にとっても必要不可欠なんだということを知ってもらいたいと思っています。
 
 でも、未だにCSRのことを知っている人は少数派です。立派なCSR室があっても、社内の人に浸透していないことがすごく多い。柳澤さんは、そんな状況を変えたいと思っています。そのためにCSR室と連携して、組織横断的である正しいCSRが末端の社員にまで届くようにしていきたい。CSRは決してCSR室の社員だけで取り組むものではなく、企業全体で取り組むものなんだということをわかってもらいたいと、静かに情熱を燃やしている柳澤さん。
 
 そんな柳澤さんが楽しいことは、舞台を見ること。月に2,3本見ることもあります。レ・ミゼラブルやミス・サイゴンなど、好きな演目は何度も見てしまいます。
 前任のCARE-WAVEで多くの役者と関わったこともあり、役者と一緒に飲むのもとても楽しい時間です。役者と自分たちとでは、全く世界観がちがいます。自分にとっては締め切りはとても大事なもの。でも役者にとって大事なのは、締め切りよりもクオリティ。そういうふうに世界観の全くちがう人と仕事をするのは、大変なことも多々ありましたが、いい経験になりました。
 スポーツ観戦も大好き。サッカーも好きだし、野球も好きです。ずっと巨人ファンだったけど、最近は西武ファンなんだとか。(うちはずっと阪神です)高校野球を見るのも好きだし、ロンドンオリンピックも見たい!となると、今年の夏は睡眠不足は必至ですね。
 
 ボイス・トレーニングにも通っている柳澤さん。今まで出なかった声が出るようになったときの壁を超えた快感がたまらない、とホントにワクワク顔で話されるのでした。
 
  飲みに行きたい時に、一人で行けるお店もちゃんとあります。経営に奮闘しているビルマ(ミャンマー)料理のお店。なんとか盛り立てたいと、柳澤さんが奮闘中。ウェブ対策やちらし作りなどアドバイスしています。ミャンマー人は、迫害された少数民族が多く、難民申請中の人もいっぱいいます。そういうことを知らずに、外国人とひとくくりにしてしまう人が多いのはとても悲しいことですよね。私たちは、そういう人たちの声を伝えていくことも大事な役割なのかもしれません。
 
 もう一つ、応援しているものがあります。それはミンナDEカオウヤのあぶら麩。ミンナDEカオウヤプロジェクトは、ダイバーシティとやまのホームページやfacebookページをご覧のみなさんにはお分かりかと思いますが、被災エリアの授産品を全国・都市部で販売して、被災した障害者福祉施設の経営・障害者の収入を支える「参加型」プロジェクト(=経済活動支援)です。柳澤さんは、みんなにレシピを配ってあぶら麩をバンバン販売しています。  

 余談ながら、ミンナDEカオウヤプロジェクトの商品はダイバーシティとやまも販売しています。次の日曜(7月29日)には東北AID2というイベントで販売しますので、ぜひ買いにいらしてくださいね!

 こんな風に、とっても活動的な柳澤さんですが、引きこもってぼうっとしている時間も好きなんだとか。ご主人が名古屋に単身赴任中なので、週末夫婦を楽しんでいます。

 ダイバーシティにとって大切なのはフラットな意識。常にフラットな目線でいたい、とおっしゃる柳澤さん。
これからも、日本に置いてのCSRの認知度をもっと上げるべく、突き進んでいかれることでしょう。
 ダイバーシティ研究所の女性パワーはホントにすごい!と改めて感じた、今回のインタビューでした。
今日の人42.鈴木暁子さん [2012年06月18日(Mon)]
 今日の人は、ダイバーシティ研究所研究主幹の鈴木暁子さんです。
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鈴木さんは愛知県碧南市生まれ。18歳まで碧南で過ごします。ご両親が共働きだったため、3人姉妹の長女だった鈴木さんは晩御飯の支度をしていた、とってもしっかり者のお姉ちゃんでした。

 お父さんが漫画が好きで、手塚治虫や石ノ森章太郎など、「トキワ荘」の住人の漫画を全巻所有していて、鈴木さんは手塚治虫の漫画を読むのが大好きでした。小学生にはかなり難しいと思われるようなブッダなども大好きだったそうですから、子どもの頃からかなりの思索家だったのでしょうね。
 
 中学では吹奏楽部、高校では弓道部に所属。高校は憧れの電車通学で、ファーストフードのお店自体を目にすることが目新しく、帰りにミスタードーナツで話し込んだりするのが楽しかったそうです。一方で、当時、NHKの「海外ウィークリー」という海外のニューストピックを紹介する番組が好きで、なにかしら、わくわく感を感じて、実際に行ってみたいと思うようになりました。

 高校時代には両親に頼みこみ、成人式の着物と引き換えに、1ヶ月ほどアメリカサンディエゴへホームスティに行きました。ホストファミリーの父親が海兵隊に属しており、戦争に出かける様子などを見て、頭で理解していた世界情勢を肌で実感することができたそうです。
 
 大学は、なんとなく「国際」にかかわる勉強したかったので、その分野を深く学べる静岡県立大学の国際関係学部へ入学。そこは一学年で200人という、とてもアットホームな大学でした。フランスの哲学者サルトル、メルロ・ポンティ、「宋家三姉妹」など中国現代史の登場人物と親交を持つそんな先生方の講義は秀逸でした。鈴木さんはここで、本だけでは学ぶことのできない生の学問を学ぶ楽しさを実感します。

 在学中の長期休暇にはバックパッカーで東南アジアを歩きました。ある時は一人で、ある時は友達と、またある時は妹と…。友人に、タイ北部のチェンマイにあるNGOを紹介してもらって、少数民族の女性の就労支援や農業支援をしている現場にいったりもしました。手に職をつけるためにミシンの使い方を教えたり、タイ語の教室を開いたり、焼畑農業のきつい傾斜の畑に登ったり。何もできない自分の無力さを痛感しましたが、一方でそれぞれの文化の豊かさや生き抜くエネルギーに圧倒されました。

 そして、「足で歩いて、自分の目や五感で感じ、現地から学び、行動する」ことに魅力を感じ、「フィールドワーク」を基本とする文化人類学を専攻することになります。

 国内でもアジアの女性を守るNGO活動に取り組みます。大学には、「活動する研究者」が多かったので、先生たちや先輩と一緒に、学園祭で焼きバナナを販売して、その収益をフィリピンやタイから来ている女性が通う教会に寄付したり、その頃から行動力は抜群だったのですね。

 でも、それだけではなく、ことばを通じた表現活動に魅力を感じ、演劇サークルの立ち上げにも、参加しました。野田秀樹や鴻上尚史など小劇場の演劇の世界観に「はまり」、議論をしていたのを覚えています。その時のメンバーとは、今でも仕事で繋がっています。

 そして大学院では憧れの京都で学ぶことに。更に深く国際的な事柄について関わっていくことになりました。

 大学院を出た後は、京都市国際交流協会で働きはじめます。そこでニュースレターの作成に携わっていたのですが、その時の取材で多文化共生センター田村太郎さんに出会います。そして、田村さんから「多文化共生センターきょうと」の立ち上げに加わらないかと誘われ、交流協会の仕事を続けながらも、参加することにしました。やがて本格的に多文化共生センターきょうとの方に足場を移し、事務局長として、大活躍するようになります。

 その後、結婚、出産で、しばらくは子育ての方に重きをおいていましたが、再び何かをしたいとうずうずしていたときに、田村さんから誘われ、2007年にダイバーシティ研究所の立ち上げに参加し、その後は調査研究事業に関わります。
 
 そのひとつがCSR(企業の社会的責任)について調査するCSR調査です。
CSRとは「責任ある行動がビジネスの持続的な成功をもたらすとの観点から、企業が事業活動やステークホルダーとの交流の中に、自主的に社会や環境への配慮を組み込むこと」(欧州委員会)
 
 多文化共生センターきょうとで医療通訳のシステムづくりの立ち上げにかかわった時に、これからの社会課題の解決には企業の力も不可欠だと感じていたこともあって、企業活動の環境や社会への影響をデータで可視化するCSR調査はやりがいがありました。

 実際、CSRの調査に関わってみて、自身が「井の中の蛙」であったといいます。NPOの事務局長として一人前になったつもりでいたけれど、企業や財団など、今までとは違う相手と、仕事を作るプロセスを共にして、成果を出すことの厳しさを知り、とんでもなかった!と思い知りました。企業は動き出したら早い。スピード感ややり抜く覚悟にはっとさせられたのでした。
 
 さらに、鈴木さんは2008年から、笹川平和財団「人口変動の新潮流への対処」事業でも、3年に渡り、多文化共生の地域モデルづくりにチャレンジしました。この調査チーム「なんとなくこれは必要なんじゃないか」という現場感覚の裏付けを論理的に積み上げていく作業であり、同年代の研究者との闊達な議論は刺激的でした。 また、アジアの国々の研究者やキーパーソンとの交流もあり、特にアジアの女性研究者の方々の、男性と対等に渡り合う「強さ」や「アグレッシブな生き方」には、勇気をもらいました。「慎み」とか「遠慮」などという「日本的美徳」とは対極の姿に、これぐらいパワフルじゃなくちゃねー、割り切らなくちゃねー、と、肩の力が抜けました。緊張感があり充実感のある仕事でした、と鈴木さん。

 調査のような職人系の仕事も得意で、フィールドワークも得意、そして全体像を俯瞰することも忘れない。きっと田村さんも、鈴木さんだからこそ安心して仕事が任せられるのだろうな、というのがとてもよくわかる、まさにデキル女性なのでした。

 そんな鈴木さん、今いちばんホッとできる時間は息子さんと過ごす時間。野球少年の小学校3年生の息子さんの試合を見に行くのも楽しい時間です。
 映画を見るのも好きです。ちょっと時間ができると、一人で見に行ってしまうんだとか。そして、何かに没頭しなれけばならない時は、美味しいものを食べに行って気分転換をはかっています。
 
 最後に聞きました。鈴木さんにとってダイバーシティとは…?
ダイバーシティとは、わかりあうプロセス。そして、終わりのない旅。
その旅を楽しんでいるかどうかが自分の健康のバロメーターだと、優しい笑顔を見せてくださいました。
 
 年を取ったら、京都とタイと静岡で1年の3分の1ずつを過ごしたいと思っている鈴木さん、きっと終わりのない旅は続くと思いますが、とかく長女は人に甘えるのが苦手です。たまには、鎧を外して、らく〜な時間も過ごして、日本のダイバーシティのために、これからも末永くご活躍くださいね。そして、ぜひ富山にも美味しいものを食べに来てください。ダイバーシティとやまのみんなでお待ちしております!
 
今日の人28.田村太郎さん [2012年01月17日(Tue)]
 今日の人は、ダイバーシティ研究所代表の田村太郎さんです。
田村さんは兵庫県伊丹市生まれ。めっちゃおしゃべりで陽気なおっちゃん(私より年下です。ごめんなさい)です。

 田村さんは人生そのものがダイバーシティ!
ベルリンの壁が崩壊した1989年、田村さんは高校3年生でした。日本の大学入試制度が大学入試センター試験に変わった時でした。でも、田村さんはセンター試験は受けませんでした。親にめちゃめちゃ怒られましたが、今、この時にベルリンに行かなくてどうする!と思ったのです。高校卒業後、田村さんはシベリア鉄道に乗ってヨーロッパに。当時はまだロシアではなくソ連の時代でした!アメリカと接近し、ソ連崩壊が目前に迫ったモスクワの街には、初めてマックができ、2時間待ちの行列ができていました。そしてなんとモスクワのボリショイ劇場ではダイハードを上映!田村さんはボリショイ劇場でダイハードをみたのでした。字幕付きではなく、吹き替えをたった一人の声優がやっているダイハードでした。
その後、田村さんは東西ドイツが統一して初めてのお正月をドイツで迎えることになります。歌い、大騒ぎし、ハグしまくり、声が出なくなってしまった田村さんは1991年のお正月をそうして迎えたのでした。
 ’91年の1月、田村さんはラジオ短波を聞いていました。なぜか妨害電波で聞き取りにくいな、と思っていると湾岸危機だと言っていたはずのラジオが次の日には湾岸戦争に変わっていたのです。しかし、ヨーロッパにいると、湾岸戦争より、ロシアが西欧諸国向けのパイプラインをとめるといっていることの方がよほど大きなニュースとして取り上げられていました。
 その後、フランスのマルセイユから船でアルジェリアに渡ります。マルセイユの船乗り場のお兄さんが「危ないから行くな!」としきりに止めましたが、田村さんは意に介しませんでした。今、行かなくていつ行くんや?と。
 当時のアフリカの人々は、みんな東洋人はカンフーや柔道ができると思い込んでいました。そのおかげか田村さんよりよっぽど大きな欧米人が襲われていても、田村さんは全く襲われることはありませんでした。それどころか、ガタイのいいごっつい兄ちゃんが何人も「柔道を教えてほしい!」と言ってやってきました。一応体育の授業では柔道をやっていましたから受身の基本くらいはできたので、それだけ教えて、「100日練習してからまた出直してこい」と言っていたそうです。アフリカの子ども達はカンフーの真似をしながら田村さんの後をついてきました。今のようにネットもない時代でした。でも、かえってそれがよかった。もし、今の時代だったら、あのような旅は絶対にできなかっただろうから…。
 アルジェリアからはサハラ砂漠を通ってニジェールに渡りました。今は内戦で通れない場所です。田村さんは不思議なくらいの巡り合わせで、国と、地域と、人との出逢いを繰り返してきたのでした。
 ケニアのナイロビではフロリダ2000というディスコにしょっちゅう通っていました。レゲエナイトで踊り明かしていた若き日の田村さん。何人かの女の子とお付き合いもしました。本気で結婚しようと思った女の子もいました。耳の聞こえない女の子でしたが、田村さんは彼女からもらったトレッドヘアのエクステを一本ずっとつけていました。本命の彼氏に一本トレッドのエクステをつけるというのが、アフリカの女の子の愛の表現なのだそうです。ずうっとそれをつけていた田村さん。しかし、その愛は成就しませんでした。
 田村さんは一度日本に戻り、再びナイロビに渡ります。そして次は南アフリカへ。当時の南アフリカはアパルトヘイトの過渡期でした。デクラーク大統領が就任し、アパルトヘイト撤廃へと動いている時代でした。南アフリカは実は非常にヒッチハイクのやりやすい国です。世界でヒッチハイクのやりやすい国は二つある。ひとつは南アフリカ、そしてもうひとつは日本なんだとか。
 田村さんがヒッチハイクをすると、白人のベンツ、黒人のトラック、どちらも止まってくれました。そして、共通して聞かれるのが「どこいくの?急ぐの?今晩泊っていけば?」
白人の家に泊めてもらった時はプール付の豪邸です。そこでその白人は決まって言います。
「アメリカ人は黒人を駆逐してきたが、俺たち南アフリカの白人は黒人と共存してきたんだ。それを日本の人に伝えてほしいんだ。」
黒人の家に泊めてもらった時は、1000人住んでいるところに水道の蛇口が二つしかないような場所です。それでも陽気に泊っていけというのは変わらないのでした。そして、そこでは黒人が決まって言います。
「日本に帰ったら日本の人たちに伝えてほしいことがある。俺たち黒人がいかに差別を受けてきたかということを」
 やがて南アフリカはアパルトヘイトを撤廃し、ネルソン・マンデラが大統領になるわけですが、この歴史的な過渡期に南アフリカにいられたことを田村さんはとても幸運だったと感じています。しかし、何より、南アフリカは大好きな国だったのでした。
 やがて田村さんはケープタウンから船でブラジルへと渡ります。ブラジルに行くと、そこでは白人と黒人が一緒に働いていました。南アフリカでの黒人の鬱屈した思いが晴れるような現場をいきなり目にしたわけです。全くちがった価値観。きっと日本から直接ブラジルに渡っていたら、こんなにも衝撃を受けることはなかったでしょう。南アフリカからブラジルへと渡った。そのことが田村太郎が多文化共生に目覚める一番大きなきっかけになったといってもいいでしょう。
 日本に帰ってからは、在日フィリピン人向けレンタルビデオ店で勤務します。その中で、日本で暮らす外国人の抱えている課題の多さに気付きます。そして1995年1月17日、あの阪神・淡路大震災に被災。その直後から外国人被災者へ情報を提供する「外国人地震情報センター」の設立に参加します。
 1997年から多文化共生センター代表として多文化共生の考えを全国に広めていきました。2004年からはIIHOE[人と組織と地球のための国際研究所]研究主幹として、NPOのマネジメントサポートや自治体との協働にテーマを移し、非営利民間の立場から地域社会を変革するしくみづくりに取り組みました。また、2007年1月からダイバーシティ研究所代表として、CSRにおけるダイバーシティ戦略に携わっています。
そして、2011年3月東日本大震災を受けて、「被災者をNPOとつないで支える合同プロジェクト(つなプロ)」、スペシャルサポートネット関西 の発足に関わり、それぞれ代表幹事、世話人を務め、また内閣官房企画官に就任し、被災地のニーズ把握や震災ボランティア促進のための施策立案にも携わるなど、まさに寸暇を惜しまず飛び回っています。
 阪神・淡路大震災を経験し、その後の中越沖地震等でも、走り回ってきた田村さんだからこそ、東日本大震災復興対策本部ボランティア班企画官(現在は復興庁上席調査官)として大きな力を発揮していらっしゃるのでしょう。でも、田村さんは自分が表に出ていくことは決してしません。裏で支えることに徹しています。支援者が主役になっては絶対にダメだと思っているからです。あくまで、支援される人が主役、ボランティアはわき役、政府はまた更にわき役で支えなければならないと考えています。調子のいいことを言う人はたくさんいるけれど時間が経つほどに本当に信用できる人はだれか、それを被災した人たちはおのずとわかってきます。地元の人たちが自分たちで立ち上がるのを手助けする、そんな支援をずっとしていきたい。
もちろん、田村さんは実行の人ですから、すでに起ち上げているプロジェクトもいろいろあります。講師として教えている甲南女子大の学生達と一緒に釜石の商店街に仮設商店街もオープンさせました。商店街を応援する女子大プロジェクトとしてチアリーディング部がチアリーディングをしたり、とまさに釜石版女子大生AKB48?
今、仮設住宅で孤独死していくのは、ほとんどが男の人だそうです。女の人はあまり亡くならない。なぜか?おばちゃんたちは茶話会などに出てきて、おしゃべりでストレスを発散している。でもおっちゃんたちは茶話会には出てこない。仕事はない。ストレスのはけ口がない。おっちゃんたちの愚痴を聞く飲み会を企画すれば、孤独死するおっちゃんは減るでしょう。でも、行政はそんな時間外のことなんてできません、という。そういう考え方自体、変えないといけない。仕事の在り方も、非正規雇用はダメだ、なんて言ってる場合じゃない。週に2,3日、1日3〜5時間の仕事だっていい。そうやって雇用を増やせば、自殺防止にもなるのだ、と熱く語る田村さん。都市型のワークライフバランスを地方に当てはめるのは無理があるのに、霞が関が出してくるのはフルタイムでしっかり働くことを前提にしたワークライフバランス。そういう頭の固さをなんとかしないといけない。
 でも、それは我々だって同じこと。仕事がないとボヤくだけではなく、仕事を自ら見出していかなければ…。ガレキを撤去するだけでなく、撤去したガレキを活用することを考えてもっと仕事を増やしていかないとだめなのです。例えば、津波をかぶった缶詰を安く売り出しているけど、逆にプラスチックケースにいれて高く売り出せばいい。付加価値をいかにつけるか、付加価値をあみ出していくのがビジネスなのだ。そしてそれが出口を見つけることにつながるのです。
 ボランティアであれ、なんであれ、出口デザインをしっかり描くことが大事なのに、それができていないところが多すぎる!と田村さん。結局、現場が好きな人はケースワークばかりやっていて、フレームワークをやらない。フレームワークをやらないと、やはり出口デザインは描きにくい。でも、逆にお役人のようにフレームワークばかりやっていて、ケースワークをやらないのもダメなのです。大事なのは、ケースワーク発のフレームワーク。田村さんはそれができる、そして出口デザインを鮮やかに描ける、本当に貴重な人なのです。
 田村さんのお話を聞いていると、本当に根性据えてやらんといけないなと熱い気持ちになってきます。こんなにたくさんの仕事をやっているにも関わらず、1年200本もの講演をこなす田村太郎さん。もし、今休みが取れたら何をしたいですか、というちょっと酷な質問を最後に投げかけてみました。
 休みが取れたら行きたい場所はキリマンジャロの麓にあるタンザニアのモシという町。自分の前世はマサイかキリンだったのではないかと思うほど、全身が解放される場所だそうです。モシで全身解放されてキリマンジャロコーヒーを飲む。そんな日が早く来るといいですね。いや、きっと当分は無理なのでしょうけど…。いつかそんな日がきたら、ぜひお供したいものです。
今日の人10.須磨珠樹さん [2011年11月24日(Thu)]
 今日の人はダイバーシティ研究所東京事務所研究員の須磨珠樹さんです。

須磨さんは大学生のとき、農学部でタイの有機農業について研究されていました。そして大学在学中に夜間中学の存在を知り、そこで外国人の置かれた現状を初めて知りました。ご自身も多文化共生に携わっていきたいと考えた須磨さんは(財)かながわ国際交流財団に入り、2003年4月〜2011年6月まで経営管理課、国際協力課、多文化共生課を経験されました。(2008年4月〜2010年3月までは(財)自治体国際化協会 多文化共生課へ研修派遣されています)。そして、2011年7月よりダイバーシティ研究所へ移られました。多文化共生に取り組んでいたときに壁に感じていた問題が、ダイバーシティという多角的な見方を通すことで、ストンと胸に落ちたとおっしゃる須磨さん。現在は東日本大震災復興支援をご担当。支援される人の多様性に配慮して、企業や市民を被災地へとつなげる社会資源マッチング支援に従事されています。たとえば今取り組んでいらっしゃるのが「縁台つくろう!」という企画です。孤立しがちな被災者をコミュニティへといざなう縁台作り。それでも、なかなか出てこようとしない人々にどう対処していくかが課題です。
 そんな須磨さんがいつも心に刻んでいる詩があります。谷川俊太郎の「みみをすます」です。自分たちはいったい誰の声を聴いているのか、いろんな人の声を耳を澄まして聴くことの大切さを再確認させてくれるからです。
 須磨さんの夢は廃校を使ってカフェを作ること!どんな人でもいつでも気軽に立ち寄れるカフェです。そして、そこで障がい者や外国人の雇用も生み出して、いろんな情報の発信基地にもなる、そんなカフェ。まさにダイバーシティなカフェですね!そのカフェで楽しくおしゃべりできる日がくるを楽しみにしています。
今日の人9.清水圭子さん [2011年11月22日(Tue)]
今日の人はダイバーシティ研究所東京事務所研究員の清水圭子さんです。清水さんは東京生まれ東京育ちの江戸っ子です顔1(うれしいカオ)

清水さんは大学では教育社会学を専攻。
求人広告会社にて営業をしている時に、障がい者の雇用を取り上げる週間があり、そこで企業の担当者から「障がい者雇用の重要性はわかっているけど・・・」と雇用に消極的な声を数多く聞き、求人だけ増やしても入社後の働きやすい環境がないと雇用は広まらないという思いを持ちました。その後障がい者支援のNPOに携わっているときに、今度はCSRの一環としての企業からの支援がとても多いことに驚き、CSR(企業の社会的責任)って何だろう?との思いを強く持つようになりました。
2010年2月、ダイバーシティ研究所に入職。主にCSRに関する調査研究を担当なさっています。

 ちがいを活かす社会にするために、これからもCSR,SRで、企業、地方自治体、NPO・NGO、教育機関といった異なる組織をつなぎ、対話を促すためのコミュニケーションのしくみを創出していきたいと思っておられる清水さん。
 「でも、私の仕事は調査が多くて、全体的なものを見ていることが多いので、地に足がついた活動をしていきたい」といいます。
 こんな風にとっても真摯に仕事に取り組む清水さんを癒してくれるのはハーブやアロマ四つ葉
彼女はハーバルセラピストの資格もお持ちです。
 でも、日本にハーブを安い値段で輸出するために海外の農業従事者はどういう環境で働いているのだろう?と疑問を持ち、ハーブやアロマを扱うときもCSR/SRの視点を持っていたいとおっしゃる清水さん。
 これからも強い信念でお仕事もプライベートも充実した毎日を送ってくださいねほえー
今日の人2.内生蔵秀樹さん [2011年11月12日(Sat)]
 
今日の人、お二人目はNGOダイバーシティとやま理事の内生蔵(うちうぞう)秀樹さんです。
内生蔵さんはニックネームがハワード。お仕事でアメリカに駐在されていた時にアメリカ人の同僚からハワードと呼ばれていたとか。でも、どうしてハワード?興味のある方はぜひご本人に聞いてみてくださいウインク
 さて、そんな内生蔵さん、実は一級建築士よりも難易度が高いとされる技術士という国家資格をお持ちの理系のエキスパートでいらっしゃいます。思いっきり文系人間の私は、理系というだけで尊敬してしまいますが、とっても人間力のあるステキな方ですメロディ
 私が内生蔵さんに出会ったのは今年の1月。とやま国際理解教育研究会主催の「ワールドカフェ」でお会いして意気投合!(ワールド・カフェとは、「知識や知恵は、機能的な会議室の中で生まれるのではなく、人々がオープンに会話を行い、自由にネットワークを築くことのできる『カフェ』のような空間でこそ創発される」という考え方に基づいた話し合いの手法です。)
 
 内生蔵さんが、ちがいを意識したのは、むしろアメリカから日本に帰国した後だったそうです。日本に帰ってきて、あまりにみんなが一緒すぎて居心地の悪さを感じた。そう、アメリカでは人と一緒じゃないのが当たり前、人目を気にしなくてもいい、そんな居心地のよさに慣れてしまううちに、逆にそれまで感じなかった日本の閉鎖性を感じるようになったそうです。
 しかし、アメリカ社会に潜む問題にもやはり直面してきました。DVや幼児虐待の問題、銃を所持しないと身の危険を感じてしまう社会…でも、力ではなく、対話で物事を解決していきたい!そう強く感じたハワードさんは、アメリカ駐在中にダイアローグ(対話)を広げようという活動に参加。あの、9.11の時も何ら臆することなく、イスラム系の人々と対話されていました。穏やかで柔和な表情のなかに強い情熱を秘めた内生蔵さんなのでした。
 そんな内生蔵さん、日本に帰国してずっと仕事に没頭する日々が続いていましたが、去年のお正月に「ザ・ファシリテーター」という本に出会い、アメリカでダイアローグを広げる活動をしていた時に出会っていたファシリテーションというものがご自分の心の中で、種から芽を出した、そんな感覚になりました。
ファシリテーションワールドカフェ、コーチングといった手法でまずはご自分の会社をみんながワクワクしながら行ける場所にしたい!人育てが何より大事!と少年のようにキラキラした目でお話になる内生蔵さん。こんな素敵な上司がいたら、きっと会社にいくのも楽しくなりますね顔1(うれしいカオ)
 いずれダイバーシティとやまのワークショップでも内生蔵さんのファシリテーターぶりを発揮してもらいたいと思っています。その日を乞う!ご期待ぴかぴか(新しい)
今日の人1.柴垣 禎さん [2011年11月10日(Thu)]
 栄えある一人目の今日の人は、ダイバーシティとやま副代表であり
ダイバーシティ研究所客員研究員、多文化共生マネージャー全国協議会理事、メンタルヘルスの分野でも講演多数と幅広くご活躍の柴垣 禎さんです。
 柴垣さんとは私が多文化共生サポーター養成講座を受けたときに出会ったときからのお付き合いなのでかれこれ3年になるでしょうか。いつもクールで冷静沈着、でも秘めた情熱は誰よりも熱い、とっても子煩悩なお父さんです。多方面でご活躍ですが、いつも自分は縁の下の力持ち的なポジションで人をサポートする能力にホントに長けていらっしゃいます。

 柴垣さんは行政マンですが、国際課にいらっしゃる時に多文化共生マネージャー養成講座を受け、ダイバーシティ研究所の田村太郎さんのお話を聞いたことがマイノリティを認識したきっかけになったそうです。
 その一か月後に新潟県中越沖地震が起き、非常時においていかに外国人が大変な立場にあるかを目の当たりにしたことで、なんとかせにゃならん、との想いをより強く持たれました。その時に柏崎災害多言語支援センターの活動に従事した経験からCLAIRの「災害多言語支援センター設置運営マニュアル」等の作成等に携わり、09年からNPO法人多文化共生マネージャー全国協議会理事として、全国各地での災害時の外国人支援の人材育成に努めました。
 その後、行政の仕事で障がい福祉分野を担当、外国人も障がい者もマイノリティの置かれている立場は全く一緒ではないかとの想いを強く持ち、自殺者や精神障がい者の現場を何度も目の当たりにしてより深刻さを感じるようになりました。10年からは自殺対策やメンタルヘルスの課題に取り組み、自殺対策ゲートキーパーの育成やNPO団体等と連携し、日本ピア・カウンセラー協会の設立等を支援。11年6月よりダイバーシティ研究所の客員研究員としても活動されています。
 そんな柴垣さんが私がドリームプランプレゼンテーション富山で「ダイバーシティ富山」という夢を語ったことに共感してくれて、ダイバーシティとやま設立へと一気に加速したのでした。
 柴垣さんは言います。「マジョリティのものさしに合わないというだけで、利益を得られないマイノリティの人がいるのはおかしい。世の中のものさしを変えないといけない」と。
 クールに、でも熱く語る柴垣さん。私にとってはなくてはならないとっても頼もしい仲間です。そんな柴垣さん、実は今日11月10日がお誕生日ですぴかぴか(新しい)お誕生日おめでとうございます!そしてこれからも一緒にダイバーシティを広めていくためにがんばりましょうほえー