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今日の人190.池田 誠さん [2019年08月25日(Sun)]
 今日の人は、一般財団法人 北海道国際交流センター(HIF)事務局長 大沼マイルストーン22代表、NICE評議員、ボラナビ倶楽部理事、大沼ラムサール協議会会長と、数多くの顔をお持ちの池田誠さんです。
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ホッとできる場所「Caffee Classic」で

 池田さんは昭和36年北海道知内町湯の里で生まれました。湯の里は青函トンネルの北海道側の出入り口のある場所です。1クラス20人くらいの小さな学校にいた池田さんは、自然の中で走り回ったり、虫捕りをするのが好きなおとなしい子でした。お父さんは小学校の先生で、とても教育熱心でした。毎朝5時に起きて4q走って縄跳びを500回、帰宅後はそろばん、書道というのが日課でした。小学校入学前に九九は覚えていましたし、そろばんは小2の時に1級でした。学校の成績はとても優秀でしたが、あまり積極的な子ではありませんでした。
 小学校の5年生からは函館の大きな学校に引っ越しましたが、田舎が好きだった池田さんはその学校になじめず、学校の先生に反抗していました。家で親に反抗できなかった分、学校の先生に反抗する方にいってしまったのかもしれません。家ではドリフなどの娯楽番組やゲームは禁止でしたし、とにかくお父さんは厳しい人で、そのお父さんに反抗するなど思いもよらないことでした。
 巨人の王選手が好きだった池田さんは、子どものころ野球選手になりたい、と思っていました。中学校では野球部に入り、ショートで3番を打っていました。校内のマラソン大会でも1位で、まさに文武両道だったのです。社会的なことに興味を持ちだしたのもこの頃で、中学3年の時に新聞に投稿していました。
 
 高校は函館中部高校へ。陸上部のキャプテンでしたが、本もたくさん読んでいて、小説の公募にも応募していました。勉強、部活、読書に忙しく、悩みなど特に感じていませんでした。数学が得意なこともあって、理系にいたけれど、文系に進みたい気持ちも強くて、北海道大学の文学部を目指していました。しかし、共通一次で思ったような点数が取れず、さりとて浪人する気もなかったので、二次試験が数学、国語、英語の得意科目で行ける小樽商科大学の商学部へ入ります。
 大学では陸上部と、落研にも入りました。落研に入ったのは合コンがしたかったからです。高校の時は女の子に全く興味がなかった?のに、大学に入ってから急にはじけてしまった池田さん。1年の秋からパブでバイトをし始めたことで、ずいぶん社会勉強にもなりました。仕送りは一切もらっていませんでした。大学の後半には合コンの主催者もよくしていました。

 大学3年の春休みにはアメリカに1ヶ月ホームスティをします。語学講座のコマーシャルで「君もカリフォルニアの風に吹かれてみないか?」と言っているのを聞いて行ってみたい!と思ったのでした。このホームスティの体験は池田さんに大きな影響を与えました。そしてホームスティをたくさんの人に広められる仕事をしたいと旅行会社のJTBに就職しました。働きながら、「北海道国際交流センター(HIF)」が主催する国際交流活動にボランティアとしても関わっていました。
 HIF は1979年、早稲田大学の要請で16人の留学生を七飯町の農家に2週間滞在させ、当時としては非常に珍しい草の根の国際交流を成功させたことで組織化された法人でした。毎年多くの留学生が北海道に来て、芋掘りや牛の餌やり、昆布干しなどを体験するのです。受け入れるホストファミリーは、畑作や酪農、漁業に携わる皆さんでした。そんな皆さんと出会って、池田さんは次第に農業をやりたい!と思うようになっていったのです。幼い頃に、自然の中で走り回って楽しかった池田さんの原風景と農業とが結びついたのかもしれません。

 池田さんは29歳の時に、職場で知り合った女性と結婚しましたが、11年働いたJTBを辞め、子どもが2歳の時に、家族でニュージーランドに渡ったのです。何か当てがあったわけではありません。小樽市役所に電話して、自分はニュージーランドと日本の架橋になりたいと熱く語り、ダニーデンの農家でファームステイをしてもいいという許可をもらったのです。1ヶ月いたその農家はおじいさん一人で牛1万頭、羊5万頭を飼っているところでした。そのおじいさんは池田さんの奥さんの日本食に感激して、日本に帰ってきてから遊びに来てくれたこともあります。その他にもハーブ農園や牧場等20か所近くに住み込んで、グリーンツーリズムや、パーマカルチャー、バイオダイナミックなどを学びました。「I’m farmer」と自負を持って働く農家の人々。Do it yourselfを大切にするニュージーランドの人々は壁が壊れても、井戸が詰まっても、車がオーバーヒートしても何とかしてしまいます。 このニュージーランドでの日々は池田さんのその後の人生を語る上で、なくてはならない1年間になったのでした。

 帰国後は、共働学舎新得農場で心身にハンディキャップのある人たちと、有機農業とナチュラルチーズづくりをしながら自給自足で暮らしました。約60人と共同生活し、皆が支え合って暮らすダイバーシティとの出会いとなったのです。ここで多様性の大切さを実感し、また自然と共に生きることが池田さんのテーマになりました。この共働学舎で作ったチーズは日本で初めてのチーズコンテストで日本一になったそうです。どんな味なのか食べてみたいですね。

 その後、搾乳のアルバイトをしながら新聞の通信員をしたり、コミュニティFMのパーソナリティをしたりしていました。そんな時に、かつてボランティアをしていたHIFの代表理事からうちで仕事をやってみないか、と声をかけられます。こうして、2001年から池田さんはHIFの事務局長として働き始めました。主に留学生の夏のホームスティの受入れをやってきたHIFですが、冬は何をやっているんですかと留学生に聞かれます。
 HIF では、ホームステイ事業以外にも、国際交流に関する様々な事業を展開していきます。一つは、2004年から実施している環境のための「国際ワークキャンプ」の実施。これは、留学生と日本人が、共にボランティアとして地域の植樹や湖の浄化活動などを行うものです。2008年の洞爺湖サミットでは、ヨーロッパやアジア8カ国と日本の若者が一緒に道内で植樹活動をし、さらに地球環境への思いを短冊に書いて、G8に集まった世界の首脳に届けました。また、タイやマレーシア、韓国などでスタディツアーも実施しています。マリンツーリズムを進めるフィリピンへのツアーでは、地元のNGO の協力で現地入りし海洋調査を行いました。2004年には、ボラナビを参考に、道南のボランティア情報誌「ボラット」を創刊。2010年には、若者の厳しい雇用の現状に国際的な視点で臨むために、若者の就労をサポートする「はこだて若者サポートステーション」を始めたり、名古屋で行われた生物多様性条約第10回締約国会議(COP10)に北海道環境省パートナーシップオフィスと連携して出展したりしました。

 このように、池田さんは事務局長として次々に新しいことに取り組んできました。そして、「ボラット」の後継情報誌として「@h」という季刊誌も発行し、子どもの貧困、まちづくり、国際、環境、農業など様々な社会課題について発信しています。知りたい場所に行き、会いたい人に会う、ここではJTBの仕事も生きていると池田さん。そう、今までやってきたことは全部つながっているのです。そして、どこからどこまでが自分にとって仕事かわからないと池田さん。人と会い、人と関わることが好きだから、その時間がとても楽しい。
 実は池田さんにはとても優秀な妹さんがいて、東北大を首席で卒業した秀才なのですが、池田さんは妹さんとずっと比べられるというコンプレックスが強くありました。それもあって普通の生き方ではなく、自分のペースで生きられる方向に進んだということもあります。けれど、社会を変える活動に関わることが出来る今の自分に満足しています。

 そんな池田さんが今ホッとできるのは、お気に入りの「Caffee Classic」で気の合う店主の夫妻と過ごす時間。私も連れていってもらいましたが、ヒュッゲのようなゆったりとした時間が流れていて、なるほどホッとできる場所というのも納得でした。
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どこか懐かしい味わいのプリン、奥の絵本はマスターの近藤伸さん作の絵本Live the Magic
とってもあったかい絵本です。おすすめです!


 何も背負っているものがなかったら、行きたい場所は沖縄と秋田。沖縄は場所がいい、秋田は美人が多いから、だそうです。さすが合コンキングですね。
外国だったらやっぱりニュージーランド!
 そうしていつか、共働学舎のような場所を作りたい、それが池田さんの夢でもあります。
 素敵だな、と思ったことは全部やってきたという池田さん。いつか富山の留学生たちを連れて池田さんの作った共働学舎のような場所にお邪魔することを楽しみにしています。



今日の人114.村木真紀さん [2014年03月19日(Wed)]
 今日の人は、虹色ダイバーシティ代表理事の村木真紀さんです。
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「虹色ダイバーシティ」は、性的マイノリティ(性のあり方が「自分の性別が戸籍上の性別と同じ、男/女のどちらかで、特に違和感がなく」かつ「異性のみが好き」ではない人たちや、性別を越境していきる人たちのことです。同性愛者(レズビアン、ゲイ)、両性愛者(バイセクシュアル)、性別越境者(トランスジェンダー、性同一性障害者)など、多様なあり方があります。レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダーの頭文字をとってLGBTと呼んでいます)がいきいきと働ける職場づくりをめざして、調査・講演活動、コンサルティング事業等を行っているNPO法人です。なぜ虹色かというと、虹色は、性的マイノリティのシンボルだからです。虹の色のような性の多様性を祝福する意味があると言われています。


 村木さんは茨城県のトマト農家で3人姉妹の長女として生まれました。子どもの頃は農家のお手伝いをするのも当たり前。太陽の味のするトマトがおやつ代わりでした。その合間に牛や豚を見に行くのが好きでした。

 幼稚園の頃から手先が器用で、やたらと難しい折り紙に俄然やる気が出る子どもでした。小学生の時はサッカーやバスケをするのが大好きなボーイッシュな子。世界ふしぎ発見のレポーターになりたい、それがその頃の村木さんの夢でした。そしてその頃、千夜一夜物語やギリシャ神話が大好きでした。今思えば、その中にはセクシャルマイノリティが出てくる話がたくさんありました。自分でも無意識のうちにそういうことが気になっていたのかもしれません。

 中学生の時は能の世界にはまります。また剣道や空手もやっていました。道着がかっこよく思えたのです。生徒会の役員選挙ではトップ当選を果たしたけれど、慣例で生徒会長は男子に。素直に副会長をやっていたものの、そうやって慣例に縛られることに居心地の悪さを感じていました。勉強もスポーツもできるし、生徒会の副会長もやっているし、きっと周囲からは羨ましがられる存在だったであろう村木さんでしたが、本人はずっと居心地が悪く、高校は奨学金を出してもらいながら家から2時間かけて通う私学に行きました。今までの環境からどこか離れたい気持ちがあった。

 ある時、高校の担任の先生が「家裁の人」を薦めてくれて、それを読んだことから、判事になりたいと思うようになりました。
 
 京都大学総合人間学部に進んだ村木さん。住まいは女子寮に入ります。2人部屋で、同室は高知の人でした。彼女と一緒に飲みにいった帰り、泣きながら震えながら、自分がレズビアンであることをカミングアウトしました。彼女も一緒に泣いてくれました。こうして大学に行ってから、自分が解放された感覚を味わいました。
 そうして、LGBTの人に会う機会も増えました。美術部やHIVのボランティア団体の中でLGBTを含む多様な人たちに会う中で、いろんな人がいる方がクリエイティブでおもしろい、ということを肌で感じることができました。

 総合人間学部は学際的な学問ができるところだったので、村木さんも法律から生物学まで幅広く学びます。そして、生物学の講義の中で生物多様性の概念を知りました。ちゃんと観察すると、同性同士で子育てをしたり、性転換をする生物もいるのに、それを生物学は例外として重視していないことに気づきます。いろんな種がいることで恒常性が保たれる、それを生物学は教えてくれたのでした。

 HIVのボランティアで出会った人に10歳年上のレズビアンの人がいて、彼女は有名企業の広報担当としてバリバリ働いていました。その働き方がとてもかっこよく見えた村木さん。
 無理してスカートをはいて就活をし、ビール会社の経理部に就職が決まります。担当は支社の経理だったのですが、夜逃げした酒屋さんの債権整理などもしていました。震災の後で、つぶれるお店がとても多かった時代、なかなか希望が持てない状況でした。けれど、経理部同士は仲がよく、よく一緒に飲みに行ったりもしました。仲がいい分、プライベートのことも聞かれるので、だんだん辻褄を合わせるのがつらくなり、ごはんや飲み会に行くのがつらくなっていきました。そして徐々に居づらくなって、仕事を辞めることにします。

 その後しばらくいた会社で、コンサルタントの人の働きを見て興味を持ち、自分もコンサルタントの仕事をやりたいと思って、外資系のコンサル会社に転職。数ヶ月のプロジェクトで50社、100社の決算をいかにはやくまとめるかという連結決算のコンサルを担当しました。これは実におもしろかった。決算のポイントはすなわち商売のポイントでもあります。この仕事で、この会社のポイントはどこなのかを考えるクセがつきました。

 このころ、両親にもようやくカミングアウトしたのですが、両親の反応は予想外に暖かく、この家族の理解は村木さんの心理面にはとても大きくプラスに働きました。

 新たに働き始めた会社は経理ソフトウェアの会社でした。ここは中途で入ってきた人が多く、お互いプライバシーについて尋ねることもなかったので、居心地のいい働きやすい会社でした。ここの職場では特にカミングアウトもせず、ひたすらまじめに仕事をしていました。

 そんな村木さんに衝撃の出来事が襲います。ゲイの友だちの自死。彼は鬱で生活保護を受け、何度か就職にトライしていたけれど難しかった。そしてとうとう自死を選んだのです。身寄りはお姉さんだけだったのですが、ゲイであることを言っていませんでした。お姉さんが来るまで、ゲイだった証拠を友だちみんなで必死に片付けました。
 次の日、無理して会社に行きましたが、怒りで震えがとまりませんでした。なぜ死んだあとまでゲイであることを隠さなくてはいけなかったのか。LGBTのことをちゃんと認めてくれる働ける場があればこんなことにはならなかったのではないか…。
 村木さんは彼の部屋に入った時の匂いが忘れられません。私だって、いつそうなってもおかしくないのだ…。どうしてLGBTというだけでこんなにも哀しい想いをしなくてはいけないのだろう…
友だちの友だちも自死。立て続けに3人を自死で亡くして、大きな大きなショックを抱えたけれど、それを会社に言えない自分。
 2日間、ヘッドフォンをかけて大音量で音楽を聴きながら仕事をしたけれど、会社で気持ちが保てない自分がいまいた。やがて体調を崩してしまい、夜眠れず、会社でミーティング中にうとうとするような日が続き、休職。
 
 やはりLGBTで鬱で仕事を休んでいる友だちと話していると、仕事に対しても会社に対しても報われないと嘆いていました。その子の会社は人を大事にするというポリシーの会社。そういう会社においてさえ、そうなのだ。LGBTであることの大変さをいつもいつも突きつけられる現実。どうしてこんな世の中なのだろう。環境を恨んではいけないことはわかっていても、あまりにもつらい現実がありました。

 でも、少しずつ世の中の流れが変わります。オバマ大統領がLGBTに積極的であることで、日本もほんとに一歩ずつではあるけれど変わってきました。LGBTのために立ち上がるのは今じゃないのか。嘆くばかりでなくLGBTのために力を尽くしたい、独立したい、その気持ちが膨らんで、ついに村木さんは虹色ダイバーシティを立ちあげたのです。

 村木さんと同じように、時代の風を感じた当事者たちによる活動もどんどん一般の人にも見えるようになってきました。先日は関西でLGBTの成人式も開催されました。200人くらい集まってくれて、元気な顔を見せてくれました。みんないろいろ悩んでいる。でも、こんなに仲間がいる。それは孤独の中で悩んでいたLGBTの若者にとってどんなに希望の光になったことでしょう。彼らのためにも働きやすい職場を作ろう、村木さんはそう思っています。

 そのためにも企業向けのコンサルタントはどんどん進めています。ポイントを外さずに動けば、企業もLGBTのことをわかってくれます。そして、今はLGBTに取り組まないのはリスクであり損なんだと企業に言っています。
 活動拠点の大阪では企業にもだいぶん浸透してきましたが、これを地方にも広げていきたい。住んでいる所にLGBTがいるという安心感。これは思春期に悩む子にとってどれだけ救いになることか。各市町村のレベルでセーフプレイスを作りたい。私はこのままでいいんだ、という安心出来る場所。安全にお互いがつながれる場所。そして、その中で承認の経験を積むことの大切さ、それを伝えたい。

LGBTは実は人口の5%だと言われています。つまり、どこにでもいるのです。それなのに、いないと思ってしまうのは、みんなそうじゃないふりをしているからなのです。まずそれを知ることが大切。全ての人が100%自分の力を発揮できる環境にしたい。自分の中の今までの常識という枠でとらえていると、発想の芽をつぶすことになります。常識とされているものを疑うことで、いろんなものが見えてきます。自然界でも、オスとメスだけではない、いろんないきもの、生き方が見えてくるようになるのです。

 これからは5%の当事者ではなく、当事者の周りの95%の人への働きかけをもっともっとしていきたいと村木さん。大阪の淀川区では村木さんたちの活動もあり、LGBT支援宣言が出されました。全国の自治体が淀川区につづいてほしい。LGBTの友だちが普通にいる、それがあたりまえの日本になる日もそんなに遠くない、私はそう信じています。
 いろんな人がいる方が楽しいにきまっているのです。それをたくさんの人が実感してほしい。もちろん、私たちも一緒に歩いていきます。ちがいに気づき、ちがいを活かし、ちがいが創る、しなやかな地域社会に向けて…
今日の人49.柳澤千恵子さん. [2012年07月27日(Fri)]
 今日の人は、ダイバーシティ研究所研究員の柳澤千恵子さんです。
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 柳澤さんは長野県須坂市生まれ。高校まで、自然豊かな須坂で過ごしました。小さい頃から優等生で、特技は勉強だけだったなぁとおっしゃいます。
中学はバスケ部。あまり気乗りはしなかったのですが、親に運動部の方がいいよと言われ、なんとなくバスケ部にしました。高校では吹奏楽部でバスクラリネットを吹いていました。吹奏楽部は県代表に選ばれ、朝練や夜練が厳しかったですが、音楽は好きだったのでさほど気になりませんでした。
 高校は進学校。先生から国立の大学を薦められましたが、親は、男の子だったら行かせてあげられたんだけど…と、大学には行かせてもらえず、東京の短大に進学します。このことが人生において、大きなコンプレックスになりました。私は勉強しか取り柄がなかったのに、どうして大学進学を許されなかったんだろう…。やりきれなさを感じると同時に、「男の子だったら行かせてあげられた」という言葉に、初めてジェンダーを意識することになりました。
 でも、もし国立大学にそのまま行っていたら、柳澤さんがダイバーシティに関わることもなかったのかもしれないと思うと、運命ってホントに不思議ですね。
 
 話しを短大卒業の時に戻します。
 短大を卒業した柳澤さんは、地元の企業に就職しました。
その後リクルート長野支社で営業の仕事を始めます。リクルートはバリバリの体育会のノリの会社でした。始業時間前のアポ取りタイムから始まって、ひたすら営業営業の日々。5年間その仕事をした後に職を退き、派遣で英会話教室で働いたりしました。
 
 その後、結婚を来に再び上京します。そして再びリクルートで働くことに。今度はリクルートスタッフィングで4年間の営業生活でした。その後、NPO法人CARE-WAVEで法人立ち上げに関わり、事務局長を務めるようになりました。CARE-WAVEは、ノンフィクションミュージカル『CARE-WAVE AID』を通じて飢餓・貧困・紛争といった世界の惨状を伝え、ミュージカルの収益金をNPO等の援助団体に寄付することで、ミュージカルの出演者・観客と援助活動をつなぎ、思いやりの心の波を広げる活動をしているNPO法人です。
 
 会社を辞めてNPOの世界に行ったのは、もう売り上げだの利益だのを追求するのは
いいかな、と思ったからです。でも、NPOに行った時に、企業との大きなギャップを感じました。NPOが声高に言っていることを、企業の人間は誰も知らない。このギャップは大きかった。そんな時に、CSRでダイバーシティ研究所とつながったのでした。
 CSRというのは、企業が利益を追求するだけでなく、組織活動が社会へ与える影響に責任をもち、あらゆるステークホルダー(利害関係者:消費者、投資家等、及び社会全体)からの要求に対して適切な意思決定をすることを指します。
 
 柳澤さんの強みは、営利目的の株式会社の立場もわかるし、NPOの立場もわかること。ですから、CSRにはすごく興味がわきました。
 こうして柳澤さんはダイバーシティ研究所の研究員になったのです。
 
 1年目は何もわからずにCSR調査をしていました。2年目は1年目に調査したことはこういうことだったのかと腑に落ちました。そして、5年間調査をやってきて、CSR調査は社会にとってだけでなく、企業にとっても必要不可欠なんだということを知ってもらいたいと思っています。
 
 でも、未だにCSRのことを知っている人は少数派です。立派なCSR室があっても、社内の人に浸透していないことがすごく多い。柳澤さんは、そんな状況を変えたいと思っています。そのためにCSR室と連携して、組織横断的である正しいCSRが末端の社員にまで届くようにしていきたい。CSRは決してCSR室の社員だけで取り組むものではなく、企業全体で取り組むものなんだということをわかってもらいたいと、静かに情熱を燃やしている柳澤さん。
 
 そんな柳澤さんが楽しいことは、舞台を見ること。月に2,3本見ることもあります。レ・ミゼラブルやミス・サイゴンなど、好きな演目は何度も見てしまいます。
 前任のCARE-WAVEで多くの役者と関わったこともあり、役者と一緒に飲むのもとても楽しい時間です。役者と自分たちとでは、全く世界観がちがいます。自分にとっては締め切りはとても大事なもの。でも役者にとって大事なのは、締め切りよりもクオリティ。そういうふうに世界観の全くちがう人と仕事をするのは、大変なことも多々ありましたが、いい経験になりました。
 スポーツ観戦も大好き。サッカーも好きだし、野球も好きです。ずっと巨人ファンだったけど、最近は西武ファンなんだとか。(うちはずっと阪神です)高校野球を見るのも好きだし、ロンドンオリンピックも見たい!となると、今年の夏は睡眠不足は必至ですね。
 
 ボイス・トレーニングにも通っている柳澤さん。今まで出なかった声が出るようになったときの壁を超えた快感がたまらない、とホントにワクワク顔で話されるのでした。
 
  飲みに行きたい時に、一人で行けるお店もちゃんとあります。経営に奮闘しているビルマ(ミャンマー)料理のお店。なんとか盛り立てたいと、柳澤さんが奮闘中。ウェブ対策やちらし作りなどアドバイスしています。ミャンマー人は、迫害された少数民族が多く、難民申請中の人もいっぱいいます。そういうことを知らずに、外国人とひとくくりにしてしまう人が多いのはとても悲しいことですよね。私たちは、そういう人たちの声を伝えていくことも大事な役割なのかもしれません。
 
 もう一つ、応援しているものがあります。それはミンナDEカオウヤのあぶら麩。ミンナDEカオウヤプロジェクトは、ダイバーシティとやまのホームページやfacebookページをご覧のみなさんにはお分かりかと思いますが、被災エリアの授産品を全国・都市部で販売して、被災した障害者福祉施設の経営・障害者の収入を支える「参加型」プロジェクト(=経済活動支援)です。柳澤さんは、みんなにレシピを配ってあぶら麩をバンバン販売しています。  

 余談ながら、ミンナDEカオウヤプロジェクトの商品はダイバーシティとやまも販売しています。次の日曜(7月29日)には東北AID2というイベントで販売しますので、ぜひ買いにいらしてくださいね!

 こんな風に、とっても活動的な柳澤さんですが、引きこもってぼうっとしている時間も好きなんだとか。ご主人が名古屋に単身赴任中なので、週末夫婦を楽しんでいます。

 ダイバーシティにとって大切なのはフラットな意識。常にフラットな目線でいたい、とおっしゃる柳澤さん。
これからも、日本に置いてのCSRの認知度をもっと上げるべく、突き進んでいかれることでしょう。
 ダイバーシティ研究所の女性パワーはホントにすごい!と改めて感じた、今回のインタビューでした。
今日の人42.鈴木暁子さん [2012年06月18日(Mon)]
 今日の人は、ダイバーシティ研究所研究主幹の鈴木暁子さんです。
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鈴木さんは愛知県碧南市生まれ。18歳まで碧南で過ごします。ご両親が共働きだったため、3人姉妹の長女だった鈴木さんは晩御飯の支度をしていた、とってもしっかり者のお姉ちゃんでした。

 お父さんが漫画が好きで、手塚治虫や石ノ森章太郎など、「トキワ荘」の住人の漫画を全巻所有していて、鈴木さんは手塚治虫の漫画を読むのが大好きでした。小学生にはかなり難しいと思われるようなブッダなども大好きだったそうですから、子どもの頃からかなりの思索家だったのでしょうね。
 
 中学では吹奏楽部、高校では弓道部に所属。高校は憧れの電車通学で、ファーストフードのお店自体を目にすることが目新しく、帰りにミスタードーナツで話し込んだりするのが楽しかったそうです。一方で、当時、NHKの「海外ウィークリー」という海外のニューストピックを紹介する番組が好きで、なにかしら、わくわく感を感じて、実際に行ってみたいと思うようになりました。

 高校時代には両親に頼みこみ、成人式の着物と引き換えに、1ヶ月ほどアメリカサンディエゴへホームスティに行きました。ホストファミリーの父親が海兵隊に属しており、戦争に出かける様子などを見て、頭で理解していた世界情勢を肌で実感することができたそうです。
 
 大学は、なんとなく「国際」にかかわる勉強したかったので、その分野を深く学べる静岡県立大学の国際関係学部へ入学。そこは一学年で200人という、とてもアットホームな大学でした。フランスの哲学者サルトル、メルロ・ポンティ、「宋家三姉妹」など中国現代史の登場人物と親交を持つそんな先生方の講義は秀逸でした。鈴木さんはここで、本だけでは学ぶことのできない生の学問を学ぶ楽しさを実感します。

 在学中の長期休暇にはバックパッカーで東南アジアを歩きました。ある時は一人で、ある時は友達と、またある時は妹と…。友人に、タイ北部のチェンマイにあるNGOを紹介してもらって、少数民族の女性の就労支援や農業支援をしている現場にいったりもしました。手に職をつけるためにミシンの使い方を教えたり、タイ語の教室を開いたり、焼畑農業のきつい傾斜の畑に登ったり。何もできない自分の無力さを痛感しましたが、一方でそれぞれの文化の豊かさや生き抜くエネルギーに圧倒されました。

 そして、「足で歩いて、自分の目や五感で感じ、現地から学び、行動する」ことに魅力を感じ、「フィールドワーク」を基本とする文化人類学を専攻することになります。

 国内でもアジアの女性を守るNGO活動に取り組みます。大学には、「活動する研究者」が多かったので、先生たちや先輩と一緒に、学園祭で焼きバナナを販売して、その収益をフィリピンやタイから来ている女性が通う教会に寄付したり、その頃から行動力は抜群だったのですね。

 でも、それだけではなく、ことばを通じた表現活動に魅力を感じ、演劇サークルの立ち上げにも、参加しました。野田秀樹や鴻上尚史など小劇場の演劇の世界観に「はまり」、議論をしていたのを覚えています。その時のメンバーとは、今でも仕事で繋がっています。

 そして大学院では憧れの京都で学ぶことに。更に深く国際的な事柄について関わっていくことになりました。

 大学院を出た後は、京都市国際交流協会で働きはじめます。そこでニュースレターの作成に携わっていたのですが、その時の取材で多文化共生センター田村太郎さんに出会います。そして、田村さんから「多文化共生センターきょうと」の立ち上げに加わらないかと誘われ、交流協会の仕事を続けながらも、参加することにしました。やがて本格的に多文化共生センターきょうとの方に足場を移し、事務局長として、大活躍するようになります。

 その後、結婚、出産で、しばらくは子育ての方に重きをおいていましたが、再び何かをしたいとうずうずしていたときに、田村さんから誘われ、2007年にダイバーシティ研究所の立ち上げに参加し、その後は調査研究事業に関わります。
 
 そのひとつがCSR(企業の社会的責任)について調査するCSR調査です。
CSRとは「責任ある行動がビジネスの持続的な成功をもたらすとの観点から、企業が事業活動やステークホルダーとの交流の中に、自主的に社会や環境への配慮を組み込むこと」(欧州委員会)
 
 多文化共生センターきょうとで医療通訳のシステムづくりの立ち上げにかかわった時に、これからの社会課題の解決には企業の力も不可欠だと感じていたこともあって、企業活動の環境や社会への影響をデータで可視化するCSR調査はやりがいがありました。

 実際、CSRの調査に関わってみて、自身が「井の中の蛙」であったといいます。NPOの事務局長として一人前になったつもりでいたけれど、企業や財団など、今までとは違う相手と、仕事を作るプロセスを共にして、成果を出すことの厳しさを知り、とんでもなかった!と思い知りました。企業は動き出したら早い。スピード感ややり抜く覚悟にはっとさせられたのでした。
 
 さらに、鈴木さんは2008年から、笹川平和財団「人口変動の新潮流への対処」事業でも、3年に渡り、多文化共生の地域モデルづくりにチャレンジしました。この調査チーム「なんとなくこれは必要なんじゃないか」という現場感覚の裏付けを論理的に積み上げていく作業であり、同年代の研究者との闊達な議論は刺激的でした。 また、アジアの国々の研究者やキーパーソンとの交流もあり、特にアジアの女性研究者の方々の、男性と対等に渡り合う「強さ」や「アグレッシブな生き方」には、勇気をもらいました。「慎み」とか「遠慮」などという「日本的美徳」とは対極の姿に、これぐらいパワフルじゃなくちゃねー、割り切らなくちゃねー、と、肩の力が抜けました。緊張感があり充実感のある仕事でした、と鈴木さん。

 調査のような職人系の仕事も得意で、フィールドワークも得意、そして全体像を俯瞰することも忘れない。きっと田村さんも、鈴木さんだからこそ安心して仕事が任せられるのだろうな、というのがとてもよくわかる、まさにデキル女性なのでした。

 そんな鈴木さん、今いちばんホッとできる時間は息子さんと過ごす時間。野球少年の小学校3年生の息子さんの試合を見に行くのも楽しい時間です。
 映画を見るのも好きです。ちょっと時間ができると、一人で見に行ってしまうんだとか。そして、何かに没頭しなれけばならない時は、美味しいものを食べに行って気分転換をはかっています。
 
 最後に聞きました。鈴木さんにとってダイバーシティとは…?
ダイバーシティとは、わかりあうプロセス。そして、終わりのない旅。
その旅を楽しんでいるかどうかが自分の健康のバロメーターだと、優しい笑顔を見せてくださいました。
 
 年を取ったら、京都とタイと静岡で1年の3分の1ずつを過ごしたいと思っている鈴木さん、きっと終わりのない旅は続くと思いますが、とかく長女は人に甘えるのが苦手です。たまには、鎧を外して、らく〜な時間も過ごして、日本のダイバーシティのために、これからも末永くご活躍くださいね。そして、ぜひ富山にも美味しいものを食べに来てください。ダイバーシティとやまのみんなでお待ちしております!
 
今日の人28.田村太郎さん [2012年01月17日(Tue)]
 今日の人は、ダイバーシティ研究所代表の田村太郎さんです。
田村さんは兵庫県伊丹市生まれ。めっちゃおしゃべりで陽気なおっちゃん(私より年下です。ごめんなさい)です。

 田村さんは人生そのものがダイバーシティ!
ベルリンの壁が崩壊した1989年、田村さんは高校3年生でした。日本の大学入試制度が大学入試センター試験に変わった時でした。でも、田村さんはセンター試験は受けませんでした。親にめちゃめちゃ怒られましたが、今、この時にベルリンに行かなくてどうする!と思ったのです。高校卒業後、田村さんはシベリア鉄道に乗ってヨーロッパに。当時はまだロシアではなくソ連の時代でした!アメリカと接近し、ソ連崩壊が目前に迫ったモスクワの街には、初めてマックができ、2時間待ちの行列ができていました。そしてなんとモスクワのボリショイ劇場ではダイハードを上映!田村さんはボリショイ劇場でダイハードをみたのでした。字幕付きではなく、吹き替えをたった一人の声優がやっているダイハードでした。
その後、田村さんは東西ドイツが統一して初めてのお正月をドイツで迎えることになります。歌い、大騒ぎし、ハグしまくり、声が出なくなってしまった田村さんは1991年のお正月をそうして迎えたのでした。
 ’91年の1月、田村さんはラジオ短波を聞いていました。なぜか妨害電波で聞き取りにくいな、と思っていると湾岸危機だと言っていたはずのラジオが次の日には湾岸戦争に変わっていたのです。しかし、ヨーロッパにいると、湾岸戦争より、ロシアが西欧諸国向けのパイプラインをとめるといっていることの方がよほど大きなニュースとして取り上げられていました。
 その後、フランスのマルセイユから船でアルジェリアに渡ります。マルセイユの船乗り場のお兄さんが「危ないから行くな!」としきりに止めましたが、田村さんは意に介しませんでした。今、行かなくていつ行くんや?と。
 当時のアフリカの人々は、みんな東洋人はカンフーや柔道ができると思い込んでいました。そのおかげか田村さんよりよっぽど大きな欧米人が襲われていても、田村さんは全く襲われることはありませんでした。それどころか、ガタイのいいごっつい兄ちゃんが何人も「柔道を教えてほしい!」と言ってやってきました。一応体育の授業では柔道をやっていましたから受身の基本くらいはできたので、それだけ教えて、「100日練習してからまた出直してこい」と言っていたそうです。アフリカの子ども達はカンフーの真似をしながら田村さんの後をついてきました。今のようにネットもない時代でした。でも、かえってそれがよかった。もし、今の時代だったら、あのような旅は絶対にできなかっただろうから…。
 アルジェリアからはサハラ砂漠を通ってニジェールに渡りました。今は内戦で通れない場所です。田村さんは不思議なくらいの巡り合わせで、国と、地域と、人との出逢いを繰り返してきたのでした。
 ケニアのナイロビではフロリダ2000というディスコにしょっちゅう通っていました。レゲエナイトで踊り明かしていた若き日の田村さん。何人かの女の子とお付き合いもしました。本気で結婚しようと思った女の子もいました。耳の聞こえない女の子でしたが、田村さんは彼女からもらったトレッドヘアのエクステを一本ずっとつけていました。本命の彼氏に一本トレッドのエクステをつけるというのが、アフリカの女の子の愛の表現なのだそうです。ずうっとそれをつけていた田村さん。しかし、その愛は成就しませんでした。
 田村さんは一度日本に戻り、再びナイロビに渡ります。そして次は南アフリカへ。当時の南アフリカはアパルトヘイトの過渡期でした。デクラーク大統領が就任し、アパルトヘイト撤廃へと動いている時代でした。南アフリカは実は非常にヒッチハイクのやりやすい国です。世界でヒッチハイクのやりやすい国は二つある。ひとつは南アフリカ、そしてもうひとつは日本なんだとか。
 田村さんがヒッチハイクをすると、白人のベンツ、黒人のトラック、どちらも止まってくれました。そして、共通して聞かれるのが「どこいくの?急ぐの?今晩泊っていけば?」
白人の家に泊めてもらった時はプール付の豪邸です。そこでその白人は決まって言います。
「アメリカ人は黒人を駆逐してきたが、俺たち南アフリカの白人は黒人と共存してきたんだ。それを日本の人に伝えてほしいんだ。」
黒人の家に泊めてもらった時は、1000人住んでいるところに水道の蛇口が二つしかないような場所です。それでも陽気に泊っていけというのは変わらないのでした。そして、そこでは黒人が決まって言います。
「日本に帰ったら日本の人たちに伝えてほしいことがある。俺たち黒人がいかに差別を受けてきたかということを」
 やがて南アフリカはアパルトヘイトを撤廃し、ネルソン・マンデラが大統領になるわけですが、この歴史的な過渡期に南アフリカにいられたことを田村さんはとても幸運だったと感じています。しかし、何より、南アフリカは大好きな国だったのでした。
 やがて田村さんはケープタウンから船でブラジルへと渡ります。ブラジルに行くと、そこでは白人と黒人が一緒に働いていました。南アフリカでの黒人の鬱屈した思いが晴れるような現場をいきなり目にしたわけです。全くちがった価値観。きっと日本から直接ブラジルに渡っていたら、こんなにも衝撃を受けることはなかったでしょう。南アフリカからブラジルへと渡った。そのことが田村太郎が多文化共生に目覚める一番大きなきっかけになったといってもいいでしょう。
 日本に帰ってからは、在日フィリピン人向けレンタルビデオ店で勤務します。その中で、日本で暮らす外国人の抱えている課題の多さに気付きます。そして1995年1月17日、あの阪神・淡路大震災に被災。その直後から外国人被災者へ情報を提供する「外国人地震情報センター」の設立に参加します。
 1997年から多文化共生センター代表として多文化共生の考えを全国に広めていきました。2004年からはIIHOE[人と組織と地球のための国際研究所]研究主幹として、NPOのマネジメントサポートや自治体との協働にテーマを移し、非営利民間の立場から地域社会を変革するしくみづくりに取り組みました。また、2007年1月からダイバーシティ研究所代表として、CSRにおけるダイバーシティ戦略に携わっています。
そして、2011年3月東日本大震災を受けて、「被災者をNPOとつないで支える合同プロジェクト(つなプロ)」、スペシャルサポートネット関西 の発足に関わり、それぞれ代表幹事、世話人を務め、また内閣官房企画官に就任し、被災地のニーズ把握や震災ボランティア促進のための施策立案にも携わるなど、まさに寸暇を惜しまず飛び回っています。
 阪神・淡路大震災を経験し、その後の中越沖地震等でも、走り回ってきた田村さんだからこそ、東日本大震災復興対策本部ボランティア班企画官(現在は復興庁上席調査官)として大きな力を発揮していらっしゃるのでしょう。でも、田村さんは自分が表に出ていくことは決してしません。裏で支えることに徹しています。支援者が主役になっては絶対にダメだと思っているからです。あくまで、支援される人が主役、ボランティアはわき役、政府はまた更にわき役で支えなければならないと考えています。調子のいいことを言う人はたくさんいるけれど時間が経つほどに本当に信用できる人はだれか、それを被災した人たちはおのずとわかってきます。地元の人たちが自分たちで立ち上がるのを手助けする、そんな支援をずっとしていきたい。
もちろん、田村さんは実行の人ですから、すでに起ち上げているプロジェクトもいろいろあります。講師として教えている甲南女子大の学生達と一緒に釜石の商店街に仮設商店街もオープンさせました。商店街を応援する女子大プロジェクトとしてチアリーディング部がチアリーディングをしたり、とまさに釜石版女子大生AKB48?
今、仮設住宅で孤独死していくのは、ほとんどが男の人だそうです。女の人はあまり亡くならない。なぜか?おばちゃんたちは茶話会などに出てきて、おしゃべりでストレスを発散している。でもおっちゃんたちは茶話会には出てこない。仕事はない。ストレスのはけ口がない。おっちゃんたちの愚痴を聞く飲み会を企画すれば、孤独死するおっちゃんは減るでしょう。でも、行政はそんな時間外のことなんてできません、という。そういう考え方自体、変えないといけない。仕事の在り方も、非正規雇用はダメだ、なんて言ってる場合じゃない。週に2,3日、1日3〜5時間の仕事だっていい。そうやって雇用を増やせば、自殺防止にもなるのだ、と熱く語る田村さん。都市型のワークライフバランスを地方に当てはめるのは無理があるのに、霞が関が出してくるのはフルタイムでしっかり働くことを前提にしたワークライフバランス。そういう頭の固さをなんとかしないといけない。
 でも、それは我々だって同じこと。仕事がないとボヤくだけではなく、仕事を自ら見出していかなければ…。ガレキを撤去するだけでなく、撤去したガレキを活用することを考えてもっと仕事を増やしていかないとだめなのです。例えば、津波をかぶった缶詰を安く売り出しているけど、逆にプラスチックケースにいれて高く売り出せばいい。付加価値をいかにつけるか、付加価値をあみ出していくのがビジネスなのだ。そしてそれが出口を見つけることにつながるのです。
 ボランティアであれ、なんであれ、出口デザインをしっかり描くことが大事なのに、それができていないところが多すぎる!と田村さん。結局、現場が好きな人はケースワークばかりやっていて、フレームワークをやらない。フレームワークをやらないと、やはり出口デザインは描きにくい。でも、逆にお役人のようにフレームワークばかりやっていて、ケースワークをやらないのもダメなのです。大事なのは、ケースワーク発のフレームワーク。田村さんはそれができる、そして出口デザインを鮮やかに描ける、本当に貴重な人なのです。
 田村さんのお話を聞いていると、本当に根性据えてやらんといけないなと熱い気持ちになってきます。こんなにたくさんの仕事をやっているにも関わらず、1年200本もの講演をこなす田村太郎さん。もし、今休みが取れたら何をしたいですか、というちょっと酷な質問を最後に投げかけてみました。
 休みが取れたら行きたい場所はキリマンジャロの麓にあるタンザニアのモシという町。自分の前世はマサイかキリンだったのではないかと思うほど、全身が解放される場所だそうです。モシで全身解放されてキリマンジャロコーヒーを飲む。そんな日が早く来るといいですね。いや、きっと当分は無理なのでしょうけど…。いつかそんな日がきたら、ぜひお供したいものです。
今日の人10.須磨珠樹さん [2011年11月24日(Thu)]
 今日の人はダイバーシティ研究所東京事務所研究員の須磨珠樹さんです。

須磨さんは大学生のとき、農学部でタイの有機農業について研究されていました。そして大学在学中に夜間中学の存在を知り、そこで外国人の置かれた現状を初めて知りました。ご自身も多文化共生に携わっていきたいと考えた須磨さんは(財)かながわ国際交流財団に入り、2003年4月〜2011年6月まで経営管理課、国際協力課、多文化共生課を経験されました。(2008年4月〜2010年3月までは(財)自治体国際化協会 多文化共生課へ研修派遣されています)。そして、2011年7月よりダイバーシティ研究所へ移られました。多文化共生に取り組んでいたときに壁に感じていた問題が、ダイバーシティという多角的な見方を通すことで、ストンと胸に落ちたとおっしゃる須磨さん。現在は東日本大震災復興支援をご担当。支援される人の多様性に配慮して、企業や市民を被災地へとつなげる社会資源マッチング支援に従事されています。たとえば今取り組んでいらっしゃるのが「縁台つくろう!」という企画です。孤立しがちな被災者をコミュニティへといざなう縁台作り。それでも、なかなか出てこようとしない人々にどう対処していくかが課題です。
 そんな須磨さんがいつも心に刻んでいる詩があります。谷川俊太郎の「みみをすます」です。自分たちはいったい誰の声を聴いているのか、いろんな人の声を耳を澄まして聴くことの大切さを再確認させてくれるからです。
 須磨さんの夢は廃校を使ってカフェを作ること!どんな人でもいつでも気軽に立ち寄れるカフェです。そして、そこで障がい者や外国人の雇用も生み出して、いろんな情報の発信基地にもなる、そんなカフェ。まさにダイバーシティなカフェですね!そのカフェで楽しくおしゃべりできる日がくるを楽しみにしています。
今日の人9.清水圭子さん [2011年11月22日(Tue)]
今日の人はダイバーシティ研究所東京事務所研究員の清水圭子さんです。清水さんは東京生まれ東京育ちの江戸っ子です顔1(うれしいカオ)

清水さんは大学では教育社会学を専攻。
求人広告会社にて営業をしている時に、障がい者の雇用を取り上げる週間があり、そこで企業の担当者から「障がい者雇用の重要性はわかっているけど・・・」と雇用に消極的な声を数多く聞き、求人だけ増やしても入社後の働きやすい環境がないと雇用は広まらないという思いを持ちました。その後障がい者支援のNPOに携わっているときに、今度はCSRの一環としての企業からの支援がとても多いことに驚き、CSR(企業の社会的責任)って何だろう?との思いを強く持つようになりました。
2010年2月、ダイバーシティ研究所に入職。主にCSRに関する調査研究を担当なさっています。

 ちがいを活かす社会にするために、これからもCSR,SRで、企業、地方自治体、NPO・NGO、教育機関といった異なる組織をつなぎ、対話を促すためのコミュニケーションのしくみを創出していきたいと思っておられる清水さん。
 「でも、私の仕事は調査が多くて、全体的なものを見ていることが多いので、地に足がついた活動をしていきたい」といいます。
 こんな風にとっても真摯に仕事に取り組む清水さんを癒してくれるのはハーブやアロマ四つ葉
彼女はハーバルセラピストの資格もお持ちです。
 でも、日本にハーブを安い値段で輸出するために海外の農業従事者はどういう環境で働いているのだろう?と疑問を持ち、ハーブやアロマを扱うときもCSR/SRの視点を持っていたいとおっしゃる清水さん。
 これからも強い信念でお仕事もプライベートも充実した毎日を送ってくださいねほえー
今日の人2.内生蔵秀樹さん [2011年11月12日(Sat)]
 
今日の人、お二人目はNGOダイバーシティとやま理事の内生蔵(うちうぞう)秀樹さんです。
内生蔵さんはニックネームがハワード。お仕事でアメリカに駐在されていた時にアメリカ人の同僚からハワードと呼ばれていたとか。でも、どうしてハワード?興味のある方はぜひご本人に聞いてみてくださいウインク
 さて、そんな内生蔵さん、実は一級建築士よりも難易度が高いとされる技術士という国家資格をお持ちの理系のエキスパートでいらっしゃいます。思いっきり文系人間の私は、理系というだけで尊敬してしまいますが、とっても人間力のあるステキな方ですメロディ
 私が内生蔵さんに出会ったのは今年の1月。とやま国際理解教育研究会主催の「ワールドカフェ」でお会いして意気投合!(ワールド・カフェとは、「知識や知恵は、機能的な会議室の中で生まれるのではなく、人々がオープンに会話を行い、自由にネットワークを築くことのできる『カフェ』のような空間でこそ創発される」という考え方に基づいた話し合いの手法です。)
 
 内生蔵さんが、ちがいを意識したのは、むしろアメリカから日本に帰国した後だったそうです。日本に帰ってきて、あまりにみんなが一緒すぎて居心地の悪さを感じた。そう、アメリカでは人と一緒じゃないのが当たり前、人目を気にしなくてもいい、そんな居心地のよさに慣れてしまううちに、逆にそれまで感じなかった日本の閉鎖性を感じるようになったそうです。
 しかし、アメリカ社会に潜む問題にもやはり直面してきました。DVや幼児虐待の問題、銃を所持しないと身の危険を感じてしまう社会…でも、力ではなく、対話で物事を解決していきたい!そう強く感じたハワードさんは、アメリカ駐在中にダイアローグ(対話)を広げようという活動に参加。あの、9.11の時も何ら臆することなく、イスラム系の人々と対話されていました。穏やかで柔和な表情のなかに強い情熱を秘めた内生蔵さんなのでした。
 そんな内生蔵さん、日本に帰国してずっと仕事に没頭する日々が続いていましたが、去年のお正月に「ザ・ファシリテーター」という本に出会い、アメリカでダイアローグを広げる活動をしていた時に出会っていたファシリテーションというものがご自分の心の中で、種から芽を出した、そんな感覚になりました。
ファシリテーションワールドカフェ、コーチングといった手法でまずはご自分の会社をみんながワクワクしながら行ける場所にしたい!人育てが何より大事!と少年のようにキラキラした目でお話になる内生蔵さん。こんな素敵な上司がいたら、きっと会社にいくのも楽しくなりますね顔1(うれしいカオ)
 いずれダイバーシティとやまのワークショップでも内生蔵さんのファシリテーターぶりを発揮してもらいたいと思っています。その日を乞う!ご期待ぴかぴか(新しい)
今日の人1.柴垣 禎さん [2011年11月10日(Thu)]
 栄えある一人目の今日の人は、ダイバーシティとやま副代表であり
ダイバーシティ研究所客員研究員、多文化共生マネージャー全国協議会理事、メンタルヘルスの分野でも講演多数と幅広くご活躍の柴垣 禎さんです。
 柴垣さんとは私が多文化共生サポーター養成講座を受けたときに出会ったときからのお付き合いなのでかれこれ3年になるでしょうか。いつもクールで冷静沈着、でも秘めた情熱は誰よりも熱い、とっても子煩悩なお父さんです。多方面でご活躍ですが、いつも自分は縁の下の力持ち的なポジションで人をサポートする能力にホントに長けていらっしゃいます。

 柴垣さんは行政マンですが、国際課にいらっしゃる時に多文化共生マネージャー養成講座を受け、ダイバーシティ研究所の田村太郎さんのお話を聞いたことがマイノリティを認識したきっかけになったそうです。
 その一か月後に新潟県中越沖地震が起き、非常時においていかに外国人が大変な立場にあるかを目の当たりにしたことで、なんとかせにゃならん、との想いをより強く持たれました。その時に柏崎災害多言語支援センターの活動に従事した経験からCLAIRの「災害多言語支援センター設置運営マニュアル」等の作成等に携わり、09年からNPO法人多文化共生マネージャー全国協議会理事として、全国各地での災害時の外国人支援の人材育成に努めました。
 その後、行政の仕事で障がい福祉分野を担当、外国人も障がい者もマイノリティの置かれている立場は全く一緒ではないかとの想いを強く持ち、自殺者や精神障がい者の現場を何度も目の当たりにしてより深刻さを感じるようになりました。10年からは自殺対策やメンタルヘルスの課題に取り組み、自殺対策ゲートキーパーの育成やNPO団体等と連携し、日本ピア・カウンセラー協会の設立等を支援。11年6月よりダイバーシティ研究所の客員研究員としても活動されています。
 そんな柴垣さんが私がドリームプランプレゼンテーション富山で「ダイバーシティ富山」という夢を語ったことに共感してくれて、ダイバーシティとやま設立へと一気に加速したのでした。
 柴垣さんは言います。「マジョリティのものさしに合わないというだけで、利益を得られないマイノリティの人がいるのはおかしい。世の中のものさしを変えないといけない」と。
 クールに、でも熱く語る柴垣さん。私にとってはなくてはならないとっても頼もしい仲間です。そんな柴垣さん、実は今日11月10日がお誕生日ですぴかぴか(新しい)お誕生日おめでとうございます!そしてこれからも一緒にダイバーシティを広めていくためにがんばりましょうほえー