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今日の人203.渋谷秀樹さん [2020年12月17日(Thu)]
 今日の人は、NPO法人バンブーセーブジアース代表や焚き火フェスin大長谷実行委員長、ヨットチーム竜神のメンバー、そして企業と求職者の未来をつなぐ有限会社hs style代表として多方面でご活躍中の渋谷秀樹さんです。
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幼竹伐採にて

 
 渋谷さんは1970年4月に富山市奥田で生まれました。小さい時はお父さんに連れられて海釣りに行ったり、近所のガキ大将について外で遊びまわる元気な子どもでした。
 おじいちゃんは渋谷鉄工所という鉄工所を営み、お父さんは転職が多かったものの大工をしていたので、祖父や父が高いところでかっこよく働く姿にあこがれて大工になりたいと思っていました。
 
 しかし、小学校4年生の時に、お父さんが事故死してしまいます。大きな大きなショックでした。でも、さらにショックだったのはお母さんが1週間あまりずっと仏壇の前で泣いている姿を見ることでした。でも、その後のお母さんは強かった。渋谷さんと2つ下の妹さんをちゃんと育てていかなければと固く誓われたのでしょう。ノエビア化粧品の販売をがんばってどんどん業績を上げ、ご自分で販売会社まで作られたのでした。
 そういうわけで、小4からはほとんどじいちゃんばあちゃんに育てられたような感じでした。ばあちゃんが作るおかずは茶色いおかずが多く、弁当箱を広げてもちっともおしゃれじゃないので、当時はそれがすごくイヤでした。今となればそんなばあちゃんの料理が何よりのごちそうだと思えるけれど、子ども時代はそうは思えなかったのです。
 普段忙しいお母さんも、運動会の時は弁当を作ってくれました。しかし、なぜかお母さんの作る弁当には必ずと言っていいほど、駄菓子屋で売っているイカフライがドーンと入っているのでした。今でもイカフライを見ると、それを懐かしく思い出します。
 
 渋谷さんはラジオが大好きでした。オールナイトニッポンも小学生の時から聴いていたし、洋楽ベスト20という番組が大好きでいつも洋楽を聴いていました。草むしりやふろそうじのお手伝いをするときも、いつもハードなロックを聴いているのでした。

 中学校は奥田中学に。その頃の奥田中学は荒れてることで有名でしたが、上学年に仲良しの子がいたので、あまりそういうゴタゴタには巻き込まれずに済みました。
 部活はサッカー部に入りました。町内の1つ上のガキ大将がサッカー部に「お前入れ」と言われ、答えは「はい」か「イエス」しかありませんでした。好きで入ったサッカー部でもなかったので、そんなに性根は入りませんでした。ゲーセンにはしょっちゅう行っていました。そして中学生のころもまだ大工になりたいと思っていました。
 中3の時には卒業旅行として自分たちで東京へ行きました。当時通っていた歯医者においてあった週刊誌に黒服日記という連載があって、その中にはこんな芸能人が来たなどの記事があり、そこへ行けば自分も芸能人に会えるような気がして、東京へ旅行したのです。当時流行っていた六本木サーカスというディスコビルへ行ったけれど、まだ誰もいない時間でもちろん芸能人には会えませんでした。友達は先にホテルへ戻ってしまい、六本木をプラプラ散歩して部屋に戻ると友達が寝込んでいて、ホテルの部屋に入れないというおまけつきでした。

 高校に行ってからは富山のディスコにしょっちゅう出入りするようになりました。部活は一応サッカー部に入りましたが、遊ぶのが楽しくて名ばかりサッカー部でした。そしてその頃、バンドに目覚め他校の人と一緒にバンドを組んでコンテストに応募したりライブで歌ったりしていました。そうして友達の家で週末は過ごすという高校時代を送っていました。

 高校を卒業した後は、神戸の大学へ。音楽好きの友達と音楽パブに入り浸っていました。いろんなバイトもしました。海辺のレストランで働いたり、バーテンダー、クラブの黒服、いろいろやりました。黒服をしていたクラブは老舗の品のいいクラブでしたが、ヤクザとマルボウの警察官が同じフロアで飲んでいたり、有名な会社の社長が来ていたりして、すごくいい社会勉強になりました。

 渋谷さんは自分で新しいことを企画したり何か作り出すのが好き(作るのが好きという点では大工との共通点がありますね)だったので、広告会社に就職したいと思うようになっていました。就職活動で富山に帰ってきていたとき、息子に自分の会社を継がせたいお母さんは、ある社員と息子を飲みに行かせました。そこで4軒はしごさせられて、その時に「ノエビアに若い世代が来れば、富山を変えられますよ」と熱く語られ、すっかりその気になった渋谷さんはノエビア本社に入社することに決めたのです。

 こうして社会人1年目。赴任地は名古屋でした。半年の研修では47000円の化粧品のセットを10セット飛び込みで売り切るという課題も課せられました。150人いた同期の中でも、10セット売り切ったのはトップクラスでした。
1〜2年経って慣れたころには仕事帰りに毎日タワーレコードに寄って3時間レコードを聴き、ハッピーアワーのビールを飲んで家に帰るというのが日課でした。
 そんなある日、ダイビングショップにふっと立ち寄った時に、ダイビングの魅力に惹かれ、50万円のダイビングセットを買ってしまいました。そうして、ノエビアの仲間と、伊豆、福井、京都、グアム、いろいろな場所へ潜りに行きました。
 冬はドライスーツを着て冬の海に潜るほどではないなぁと思っていた時に、今度はスノボのショップに顔を出して、20万でスノボのセットを買ってしまいます。
 専門ショップに顔を出すと、年齢、性別、社会的な地位を超えたつながりができる感覚が渋谷さんは好きでした。その感覚が、NPO活動でつながりを作っていくときの原点になっているのかもしれません。

 こうして名古屋で充実した日々を過ごし、27歳の時に富山に戻ってきました。
けれど、ずっと富山にしかいない人の考え方や行動範囲がすごく小さく見えて、埋められない距離感を感じました。一人で金沢チームの人と飲みに行くなどして、自分のスケール感は小さくならないように意識していました。今でもそれは意識していて、自分の経験不足を感じさせてくれる10歳年上の人、新しい感覚を教えてくれる10歳年下の人と意識的に付き合うようにしています。

 その頃は素潜りしてアワビやサザエを獲ったり、何か面白いことをしたいといろんな企画を立てました。市内で自販機を探してシールを貼るチキチキバンバンレース(詳しい内容は渋谷さんに直に聞いてみてくださいw)をしてその後に飲み会をしたり、とにかく何かを企むことが大好きだったのです。
 ある時、飲み会で知り合った女性が「私、あんたのことを知っとるよ」と言いました。なんと、渋谷さんが高校の時に付き合っていた子の友達だったのです。二人は意気投合し、二人とも五福で一人暮らしだったことから、よく会うようになりました。その時32歳。
 するとお母さんから食事会をしよう、向こうのご両親も一緒にと誘われ、食事会の流れになりました。そして、「一日も早く結婚せんとダメやちゃ」と言われ、その後大学時代を過ごした神戸に行ってプロポーズ。こうして33歳で結婚し、35歳と39歳の時には、男の子ができました。

 結婚した翌年、山を持っている奥さんの実家からタケノコ堀りに連れていってやると言われました。その竹林は整備していなかったけれど、タケノコ堀りはとても楽しかった。ネットで調べると、放置された竹林が多くなって問題になっていることを知りました。かつては竹は生活と結びついていたけれど、プラスチックにとって代わられた。でも、竹を使って代替燃料にしたり、繊維にしたりと研究をしているところもあります。そして竹は無尽蔵にあるといっていい。これはビジネスになるのでは、と最初は思いました。竹のボランティアチームを作ろうと思い立ち、とやま森の楽校に所属してボランティアのノウハウを身につけていきました。きんたろうクラブにも入って、NPOについていろいろ勉強しました。
そして属していた商工会議所青年部で、協力してくれそうな仲間に声をかけました。それが、今もバンブーセーブジアースで一緒の活動している酒井隆幸さんや田畑さんでした。
 奥田商店街の一角で火曜に打ち合わせが始まりました。今もバンブーの打ち合わせは火曜日なのですが、この時からずっと火曜の打ち合わせが続いているのですね。

 こうしてバンブーセーブジアースは2007年にスタートしました。
 最初に仕掛けたのは、竹で花器を作って、そこに花を飾って奥田商店街の店先に飾るというものでした。商店街の竹の花器作戦は新聞にでかでかと載って、渋谷さんはアドレナリンが出まくりました。メディアをジャックするのが楽しくなって、ローカルメディアすべてにバンブーの活動が取材されました。新聞に継続的に載っていると、手伝いたいという人が現れ始め、15人超のメンバーになりました。そうしてバンブーセーブジアースをNPO法人化したのです。2010年のことでした。
 イベント関連はどれも大成功でした。しかし一方でこれをビジネスにするのは無理だとわかりました。それからは、週末活動としてのサードプレイスと割り切るようになりました。そうするとNPOの活動ももっと楽しめるようになりました。次はどんな楽しいことをやろうか、どんどん提案してそれを実現させていきました。竹のブランコを作ったり、竹でジャングルジムを作ったり、その中で次第にバンブーの認知度もアップしていきました。NPOが次々になくなっていく中で、バンブーセーブジアースは今も確実に活動を続けている団体だという自負があります。

 仕事の上では48歳の時に大きな転機が訪れます。27歳から21年間、母が代表の会社でずっと働いてきました。しかし、48歳の時に独立し、自分で会社を立ち上げたのです。最初はお母さんを説得するのが大変でした。でも、今ではお母さんも「大きい経費がかからなくなったわ」と冗談交じりに言ってくれるまでになりました。
 仕事が忙しくなり、バンブーの活動は控えざるを得なくなると、代わりに副代表の酒井さんががんばってくれるようになりました。今では、バンブーセーブジアースのほとんどの活動は酒井さんに任せるようになっています。
 バンブーの活動拠点もいくつか変わりましたが、今は八ケ山で落ち着いています。多分、ここがバンブーの終の棲家になるのではないかと思っています。酒井さんたちバンブーのメンバーもここで流しソーメンや地域の縁日を開催するなど、地域の交流の拠点になるようにがんばってくれています。

 大長谷にも2011年くらいから通うようになりました。最初は市の広報にそば畑のオーナー募集という記事を奥さんが見つけて、「あなたこれ好きそうだよね」と言ってくれたのです。もちろん飛びつきました。そうして大長谷のそば祭りや山菜祭りの手伝いをするようになって何度も行き来するうちに、大長谷の人たちとも仲良くなって大長谷そばクラブを結成しました。大長谷で作った小麦粉とそば粉を合わせた二八そばの絶品さと言ったら。(ちなみにその小麦とそばを育てたのは先日ブログにご登場いただいた杉林さんです)
 大長谷の郵便局の跡地を友達3人で買ってダッシュ村にしようという計画も立てました。
でも、大長谷に住む若い人たちは決していい給料とは言えません。何か若い人が収益を上げられることができないか、と考えたときに思いついたのが焚き火フェスでした。焚き火をしながらみんなで飲みながら語らう。今年はコロナのこともあって、あまり大きくはできませんしたが、これからもやりたいことを楽しみながらみんなでやって、大長谷のような、限界集落だけどかけがえのない魅力のある地域の宝物のような場所を大切にしていきたいと思っています。

 ヨットも趣味の一つです。富山で開催されたタモリカップには4回とも出場しています。最初に乗っていたヨットはエンジンが動かなくなって手放したのですが、その後、竜神というヨットのメンバーになりました。船のオーナーはヨットを70歳で始めたのですが、82歳になる今も海竜マリーナからロシア、チンタオへとヨットで回り、世界中の船とレースしている憧れの存在です。年を重ねると、憧れの存在がだんだん少なくなってくるけれど、そんなにすごい人が身近にいて、一緒に活動できることが本当に楽しいのです。仕事をがんばるモチベーションの一つがヨットでもあります。平日の3〜4日、ヨットに乗れるように仕事もがんばろう、そう思うのです。

 渋谷さんのポリシーのひとつに「楽しいからやろう」があります。NPO活動もそう。会社の中だけにいては到底出会うことのない人たちとも出会え、そんないろいろな人たちからたくさんの刺激をもらえるのがNPO活動のいいところ。そこを義務感だけでやっていては長続きしない。やはりやっている人たちが楽しめないとだめだ、そう思っています。

 そんな渋谷さんがご自分の会社を立ち上げたのは2018年の4月でした。その会社ではNPO精神も大いに発揮されています。渋谷さんが代表を務める有限会社hs styleは富山の会社の魅力を伝える動画を作っています。ローカル会社がハローワークに求人を出しても、人が集まりません。それは会社の魅力がちゃんと伝わらないからです。動画なら、その会社の魅力をちゃんと伝えることができる。動画の力を使って、求人の力になりたい!そう思って始めた会社です。ノエビア時代の飛び込み訪問のノウハウも生かして、飛び込みで注文をもらっていきました。富山の家族経営企業には、大手に負けない魅力があるところがたくさんあって技術もたくさん持っているのに、広告を出せないばかりに人が集まらない企業がたくさんあります。そんな企業の動画を作って、その魅力を伝えたい。そんな動画がこちらで見られます。一度ぜひご覧になってください。
https://www.youtube.com/channel/UC97w1Pn5_v9W5XKxtftfv6Q?view_as=subscriber
もちろん、渋谷さん自身の会社もどこよりも魅力のある会社にしたいと思っています。会社の理念は「富山でいちばん家族を入れたい会社づくり」そして、子どもに「俺、親父の会社に入りたい」と言ってもらえる会社にしたいのです。働き方も出社、帰社時間の縛りはなし、そして社員がみんなで顔を合わせるのは金曜の夕方だけ。ワーケーション制度を取り入れていて、沖縄に行きたかったら沖縄で働けばいいし、場所と時間を縛っていないのです。働き方の満足度をうんと高めて、どんどんとんがった人に働きに来てもらいたいと思っています。新卒じゃないと終わりみたいな風潮はもうクソくらえです。失敗した人にこそどんどん来てほしい。面接マニュアルに書いてあるようなきれいな答えは求めていない。自分の足で歩かないと自分の言葉がみつかるわけがない。自分の言葉でどんどん語って、ぶつかって、いい会社にしていきたい。渋谷さんのそんな熱い想いがガツンと伝わってきます。
そうして、これからも自分がNPOで培ってきたことを会社で活かしていきたい、そして今度はバンブーに営利的なものをフィードバックして、バンブーセーブジアースをもっと人が集まる場にしていけたらいいなと思っています。
 マルチステークホルダーの仕組み作りがうまくいけば、きっと企業もNPOもハッピーになりますね。私たちもその一端を担っていけたらいいなと感じた今回のインタビューでした。そしていつか、渋谷さんのヨットに乗せてもらえる日を楽しみにしています。
今日の人202.森 和宏さん [2020年12月10日(Thu)]
 今日の人は、PainAllier パンアリエの店主でパン職人、そして野菜ソムリエでもある森和宏さんです。パンアリエでは国産小麦粉、農家さんから直接仕入れたこだわりの旬野菜を中心としたパンを提供します。店名はフランス語でpain=パン・ allier=結ぶ、調和を意味し、パンを通じて様々な人と物を結んでいきたいという想いがあります。
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 森さんは1982年1月に射水市金山地区で生まれました。金山地区は自然が豊かなところで、森さんも家のすぐ裏にある山が遊び場所でした。子どもたち同士で木の上に秘密基地を作ったり、あたりまえに自然の中で遊んでいました。
 金山地区は保育園から小学校6年生まで全学年1クラスずつの小さな学校です。でも、森さんの学年はスポーツができる次男坊が多く、長男であがりやの森さんは自分はスポーツもできないし、勉強もできない、何の取り柄もない、と劣等感の塊だったのです。
少年野球チームにいてもレギュラーにはなれず、なんでみんなスポーツできるんかなぁ、自分なんかがんばってもなぁという心境でいました。
 でも、細々としたものをつくるのは好きでした。家にあるものをなんでもバラシて、それをまた組み立てるのです。自分では何の取り柄もないと思っていたけれど、本当は手先が器用でものづくりが得意な子だったのです。
他には「こち亀」のマンガが好きで、マンガ本を小学校の頃からコツコツとずうっと集めていました。小学校の時から集めた全200巻は今も大事に持っています。
 でも、将来これをやりたい!というものはなく、親が配管業をしていたので、なんとなくそれを継ぐのかなぁという気持ちで過ごしていました。

 中学校ではサッカー部に入りました。ちょうど小6の時にJリーグがスタートして、世の中サッカーブームだったので、サッカー部に入ったのですが、ここでも全然燃えてはいませんでした。ただ、部活の練習時間はとても長く、家に帰ると疲れて宿題もせずに寝てしまっていたので、家で宿題はしたためしがありません。
 このころからはまりだしたのが、車でした。特にスポーツカーに興味があって、よく車雑誌を買って食い入るように見ていました。そういうわけで、この頃は車関係の仕事ができたらいいなぁと漠然と思うようになりました。
 
 高校を選ぶときに、何科に行くか迷いましたが、車関係のことがしたいと思っていたので、車のエンジンの勉強ができると思って、高岡工芸の機械科へ行きました。しかし、実際はエンジンのことが書いてあるのはテキストの1ページに過ぎなくて、拍子抜けしてしまいます。
 部活は陸上部に入り、種目は棒高跳びでした。けれど、同じクラスに棒高跳びの県チャンピオンがいました。するとまた「俺なんかががんばっても」という気持ちがむくむくと湧いてくるのです。棒高跳びという枠で同じ学校から出られる人数は決まっていました。そんなチャンピオンがいるのに、自分が出られるわけがない、最初からそうあきらめてしまっていたのです。
 
 結局、中学も高校も不完全燃焼のままなんとなく過ぎていきました。そうして、車関係の仕事に就きたいと思っていた気持ちもいつのまにか、整備士になるより普通に会社員として働いて好きな車を買ったほうがいいんじゃないか、と思うようになっていました。
 3交代で働けばいい給料がもらえると聞き、高校卒業後は3交代の工場で4年働きました。ミニバンのカスタムカーを買いましたが、事故って車がぺしゃんこに。新しい車を買うためにまたガムシャラに働きましたが、上司との関係が悪化して仕事を辞めてしまいました。
 
 その頃、実家は配管業だけでなく、代行の仕事もしていました。それで、森さんは、夜に代行の仕事をすることにしたのです。昼はブラブラ、夜は代行という生活が何か月か続いたとき、「台風の被害で瓦が飛んでしまって、今、瓦屋が忙しい」と親に聞き、昼は瓦屋で働き、夜は代行の仕事をするようになりました。

 ある時、友達の紹介で奥さんになる人と出会います。しばらくしてから付き合うようになりました。奥さんの実家はパン屋でした。森さんは婿になってパン屋になってほしいと言われました。家族と仲良く暮らせるなら仕事は何でもいいと考えていたので、婿に入ってパン屋になることに抵抗はありませんでした。25歳の時でした。

 2008年から奥さんの実家のパン屋で働き始めました。最初はパンの製造補助や販売や配達が主な仕事でした。けれどパン屋で仕事をするうちに徐々に、自分自身の手で自分らしいパンを作りたいと思うようになりました。これまでずっと受け身の人生を送ってきた森さんが初めて自分から積極的にやりたいと思うことに出会ったのです。
 そんな時、大阪でおいしい野菜のパンを作っているパン屋が新店舗をオープンするのに人を探していました。「今いくしかない」森さんはそう思いました。
 こうして子ども2人と奥さんを富山に残して、一人単身で大阪へ修行に旅立ったのです。

 大阪で朝早くから夜遅くまでパンと向き合う日々、休みもあまりない中、月1回くらいしか富山には帰れませんでした。もちろんいつかは富山に帰って、自分のパンを焼きたい、そう思っていました。
「大阪の有名なお店で修業を積んだのだから、帰って来るのならすぐにでも自分でお店をやってみたらどう??」そうアドバイスをくれる人がいたのですが、まだ足りないと思っていたので、富山に帰ってきて、他のパン屋さんで働きつつ、奥さんと相談しながら、自身の店の開業をぼんやり考えていました。 野菜のパンがおいしい店で働いていたし、自分も野菜を使ったパンを焼きたい。でも、野菜そのもののことを自分はあまり知らないじゃないか!そう思った森さんは野菜ソムリエの勉強も始め、野菜ソムリエの資格も取ったのです。2017年の春のことでした。

 野菜ソムリエになると、イベントで、農家さん始めいろいろな人とつながりができました。これで、野菜を作った人の名前入りのパンも作ることができる、自分のやりたいことを形にできるパン屋ができる、そう確信した森さんはついにご自身のパン屋PainAllier パンアリエをオープンしたのです。

 PainAllier パンアリエのオープンは2018年3月でした。そうしてオープン以来、野菜や小麦粉にこだわったパンを毎日30〜40種類のパンを作っています。このやり方では、もちろん大量生産はできません。でも、お客さんに少しでも体にいいおいしいパンを食べてもらいたい。森さんは熱い想いで今日もパンを焼きます。小さいころからいろいろなことが不完全燃焼だった少年は今、パンに情熱を注げる職人になりました。もし、奥さんとの出会いがなければ、パンとの出会いもなかったでしょう。そう考えると、人と人の巡りあわせは本当に不思議です。でも、その巡りあわせを生かせるかどうかは、結局その人自身にかかっているのでしょう。

 ただ、やはり一人でやり続けるのは限界があります。今、コロナ禍で感じるのは、店もちゃんと休みを増やさないともたない、そして何も長時間営業しているからいいわけじゃない、長く営業しなくてもできるんだ、ということを実感したことでした。奥さんにもちゃんと休みの時間をあげたい、お互いの負担を減らせるような仕組みを作っていきたい、そう思っています。

 森さんには11歳の女の子を筆頭に、8歳の男の子、4歳の女の子、3人のお子さんがいます。忙しくてなかなか時間も作れないけれど、子どもたちと一緒に遊べる時間はやはり何より楽しい時間です。
「パパのメロンパン、おいしい!」というので、商品化したのがパンアリエのメロンパン。新しいパンを商品化するのは大変ですが、それでも子どもたちの「おいしい」は何よりのエネルギーになります。

 地産地消にもこだわっています。野菜もそうだし、小麦粉も、なるべく県産のものを使いたい。例えばドイツには風土に合ったパンがある。富山でも、富山に合ったパンを作りたい。そしてそれをこの土地に定着させたい!
 ネット販売も始め、インスタグラムで県外からもフォローされるようにもなってきました。パンアリエのインスタ、皆さんもぜひフォローしてください。
https://www.instagram.com/painallier/?igshid=1x1hpv4r4d49a

 とある巡りあわせからパン屋さんになったけれど、今はパン職人という仕事に誇りを持っています。何にも取り柄がないと言っていた消極的な少年は、パン作りを通していろいろな人と出会い、パンで富山を盛り上げていこうという志を持った素敵な大人になりました。これからも、パン職人森和宏さんが作り出す富山のパンに乞うご期待です!
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野菜がたっぷりでとってもきれいな森さんのパン もちろん美味しいです♪
今日の人201.塩井保彦さん [2020年12月01日(Tue)]
 今日の人は、株式会社広貫堂代表取締役で、この4月から富山経済同友会代表幹事にも就任された塩井保彦さんです。
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広貫堂の営むイタリア料理店BERAERバルツェルにて

 1954年に富山市安野屋で生まれた塩井さん。元北海道知事の高橋はるみ(旧姓新田)さんとは同級生で、安野屋小学校の時には塩井さんがチェロ、新田さんがピアノでヘンデルの「王宮と花火の音楽」より平和と歓喜を演奏したのでした。弟の新田八朗さんは盟友で、八朗さんが日本青年会議所会頭になられた時も、そして、今回の富山県知事選挙も、いちばん傍で支え続けたのは塩井さんだったのです。

 塩井さんはスポーツ少年でもありました。小学校の時から野球やスキーが得意で、ご自身が高校生になってからは安野屋1丁目の少年野球チームの監督もしていました。その時に鹿島町の少年野球チームの監督だったのが、若き日の中尾哲雄さんでした。中尾さんは監督としての采配が抜群にうまく、塩井さんの安野屋1丁目は安野屋校区20チームの試合で3年連続鹿島町に決勝戦で敗れます。塩井さんと中尾さんとの出会いは財界人としての出会いではなく、若き日の少年野球チームの監督としての出会いだったのです。

 塩井さんは中央大学に進んだ後も、少年野球チームの監督を務め、中尾さんのチームに3年連続負けた後は、3年連続優勝しました。3年連続勝つと、富山市大会にも出場できて、その時は校区のチームからも選手を補強できるのですが、その時補強のピッチャーとしてチームに加えたのが、芝園町1丁目の小泉稔さんでした。この小泉さんが実は、今回の知事選挙で大きな働きをされたのですが、それはまた後ほど。

 塩井さんは野球の監督だけではなく、八方尾根でスキーのインストラクターもしていました。最初はスキー宿でアルバイトをしていたのですが、その宿の主人が八方尾根のスキースクールの校長もしていました。その頃、スキーツアーのお客さんがどっと来てインストラクターの数が足りなくなっていました。塩井さんのスキーの腕を知っていた主人に見込まれて、宿でのアルバイトに加えてインストラクターもしていたのでした。

大学2年生の時からは、議員秘書のアルバイトもしていました。当時でいうとかなり高額な一日1万円のバイト料だったので、塩井青年は豪快に飲んだり麻雀したりと破天荒な学生生活を過ごしていました。大学4年の頃、巷でブランドが流行り始めました。塩井さんは富山の中央通りにあったお店から買い出しを頼まれ、本場ヨーロッパのブランドショップで「ここのネクタイを端から端まで全部ちょうだい」という爆買いをしたりもしました。なんとも豪快な大学生だったのですね。

大学4年生の12月から2月まではロンドンに滞在し、その後友達2人を呼び寄せてレンタカーを借りて3人で1か月ヨーロッパを廻ります。その時に特に印象的だったのが南フランスの地中海沿岸部コート・ダジュールのエズでした。コート・ダジュールには切り立った岩山や丘の頂に城壁をめぐらして築いた小さな村がいくつも存在し、鷲が卵や雛を守るために他の動物の手の届かない小高い場所に巣を作るので、鷲の巣村と呼ばれています。ニース近郊の鷲の巣村の中で、特に絶景なのが地中海を見下ろす海抜427mの岩山の上にある Èze(エズ)です。ここの景色は本当に素晴らしく、またここのオーベルジュの料理がたまらなく美味しくて、これが塩井さんがグルメに目覚めたきっかけでした。その頃はまだ1ドル360円の時代。そんな時代に、こんな旅をする行動力と実行力がある なんとも豪快な学生だったのです。

 そんな豪快で破天荒な塩井さんが就職先に選んだのは、大塚製薬でした。そこには、塩井さんに負けず劣らずの突き抜けた社員たちがいました。大塚製薬で大いに鍛えられた塩井さんが広貫堂に入るのは30歳のときです。
 
その後、ずっと第一線を走り続けてきた塩井さん。新田八朗さんが日本青年会議所の会頭に立候補したときは、切込み隊長として大活躍されました。
 ご自身も、富山市長選に出るつもりで準備していた矢先の20年前、脳梗塞で倒れます。毎日大量にお酒を飲んでいたけれど、自分の体力を過信していたところもありました。
ある朝、自室でふらつき、会社に行こうかと思ったけれど何かおかしいとホームドクターに相談したところ、すぐに救急車を呼べと言われ、病院に。病院に着いてCTを撮ると、小脳に梗塞があって、血圧は上が200に達していました。20日間入院したあと、高志リハビリ病院に転院。最初はピクリとも動かなかった左手でしたが、リハビリでとにかく動くと念じろとソフトテニスボールを渡されて、握り続けました。すると、3日でピクリと動いたのです!こうして毎日毎日リハビリを続け、3か月の入院を経て、退院します。それまでは何次会にも行って大変な量を飲んでいた酒豪でしたが、退院後、アルコールはポリフェノール豊富な赤ワインに変え1次会で帰ることにしました。リハビリ生活を続けていた時に、リハビリが終わったらどこのレストランへ行って、どこのワインを飲もうかと思っていたのですが、入院中に新田さんが持ってこられた沢木舞さんの著書『ミキータの人々』に「私の好きなワインはアマローネ」と書いてあるのを読み、1年後にイタリアに行ってそのワインを飲む計画を立てました。アマローネというのは、 ヴェネト州のヴェローナ地区で限られた生産者がごく少量生産し、かつては王侯貴族しか口にできなかったと言われるほど贅沢に造られた稀少なワインです。塩井さんはまずフランクフルトへ行き、アルプス越えをしてヴェローナへ。ヴェローナはあのロミオとジュリエットの舞台としても有名です。塩井さんはヴェローナのワイナリーでアマローネを何本も買い、充実の時間を過ごしたのでした。

 そして脳梗塞で倒れてから2年後の2001年6月、広貫堂の社長に就任します。
塩井さんが就任する前、社長室の前はいつも決済のハンコをもらう列がずらっとできていました。それでは考えない社員を作ってしまう。今、イノベーションを起こして変わらないと会社に明日はない。塩井さんは破壊と創造をキーフレーズにどんどん社内改革を進めました。そして社長室もなくしました。社用車や専属の運転手も持ちません。最初は営業のど真ん中に自分の机を置いていました。5〜6年たって机を置くのもやめました。会社に1〜2週間顔を出さないこともあります。社長の顔を知らない人もいるので、パートの人たちからは「どこのおっちゃんが来たんや?」という目で見られることもあるとか。

コロナのずっと昔から、塩井さんにとってテレワークは当たり前になっています。コロナが流行する前には南アフリカに行っていました。タブレットがあれば24時間いつでもどこにいても仕事ができるのです。社員に破壊と創造と言い続けて20年、ようやく社員たちの顔つきが変わってきたと感じています。ですから、この先がとても楽しみなのです。
社員の福利厚生を願って作ったイタリア料理店BARZERバルツェルでインフォーマルミーティングとして無礼講の食事会を開いて社員の話を聞くのも楽しみです。これは、内定者懇談会でもやっています。そしてもちろんバルツェルには、あのアマローネが常においてあるのでした。
広貫堂と言えば、薬膳カフェ癒楽甘 春々堂も人気ですね。

 ここ最近は特に忙しく過ごしていましたが、週に3回のジムとスポーツマッサージはかかしません。脳梗塞になる前は、ゴルフもシングルを目指してハンディ15で回っていましたが、今は歩くことを目的としたゴルフにしています。ですから今は昔より健康と言ってもいいかもしれません。

今回富山県内で大きな渦を巻き起こした富山県知事選挙で、塩井さんは「新田はちろうを囲む会」会長として大変大きな働きをされました。それは新田さんが青年会議所の会頭になられた時の切り込み隊長としての働きさながら、まさに参謀本部長といえるものでした。

新田さんが知事選へ出ると表明された1年前から、ひたすら動き続けていた塩井さん。新田さんの総決起集会ではアメリカの大統領選挙さながらの演出に皆さん度肝を抜かれ、これまでの選挙戦で見たことがないくらいの盛り上がりになったのは記憶に新しいと思いますが、これも実は塩井さんの働きがあってのことでした。
総決起集会をどんな風にやるか考えていた時に、塩井さんが相談したのがイベント企画立案を幅広く手掛けていた小泉稔さんでした。そう、かつて塩井さんが少年野球チームの監督をしていた時のピッチャーです。小泉さんは言いました。「アメリカの大統領選挙は狭い場所でいかにたくさんの人がいるかのように見せて、そして最大限に盛り上げる。それでみんな熱くなる。総合体育館に3000人集められたら最高に盛り上がる決起大会にできる!」
幸い総決起大会の予定日に総合体育館は空いていました。塩井さんはすぐに予約を入れ、総合体育館に3000人集めるべく動き出します。それはなんと総決起大会から10日前のことでした。そして、10日後の総決起大会は、今まで誰も経験したことがないような皆が興奮に包まれたすばらしいものになったのです。そこから一気にボルテージが上がったのは言うまでもありません。かつて少年野球チームの監督だった塩井さんの依頼に全力で応えた小泉さん。いろいろな出会いの1つ1つのピースが組み合わさって、新田さんのワンチームを作り上げていきました。
 そしてもちろん、塩井さんはこれからも盟友として新田さんを支え続けていきます。

 塩井さんがこれからやっていきたいことは、大きく2つあります。
 ひとつはwithコロナ、そしてnextコロナのグローバリゼーションの時代に、いかに広貫堂の製品を海外に事業展開していくかということ。
 もうひとつは未病予防としての製品開発です。未病予防として、一番大切なのは食で免疫力を上げること。農薬や化学肥料をたくさん含んだ野菜を食べてもそれは健康にはつながらない。ミネラル、ビタミン、微量元素がたっぷりの野菜を食べることが免疫力を高め病気にならない体を作ることができる。私たちが今やっている多文化共生畑もまさに同じ考えで、いかに土の微生物の力をとりこんだ野菜を作るか、そのために土作りに徹底的にこだわった畑つくりを農業家の杉林外文さんに指導してもらいながら取り組んでいます。
理想は食で免疫力を上げることですが、そうはできない人もいる。そんな人たちのために、機能性食品や医薬品で免疫力を上げる未病予防になる製品開発を塩井さんはやっていきたいと考えています。
免疫力を上げるとびきりおいしい野菜や未病予防になる広貫堂の製品を富山発で発信していけたら、それは世界に誇れる富山ブランドになるにちがいありません。

 広貫堂の社名には「救療の志を広く貫通する」という意味が込められています。創業以来140年の「救療の志」を世界へ広げるべく、これからも塩井さんは豪快に笑いながら歩み続けられることでしょう。
 経営者として懐が深い人ってこういう方のことを言うんだなぁとつくづく感じた今回のインタビューでした。

今日の人200.杉林外文さん [2020年11月10日(Tue)]
 今日の人は、富山で有機農業といえば知る人ぞ知る農業家の杉林外文さんです。杉林さんの作る野菜は一度食べると忘れられない美味しさで、野菜嫌いな子どもたちが杉林さんの作ったピーマンやナスなら生でパクパク食べて、まだ食べたい!というくらいです。ミニトマトも驚異の糖度18度!もちろん化学肥料や農薬や除草剤は一切使いません。土の微生物の力で栄養たっぷりの本当においしくて強い野菜は虫も食べずとてもきれいな野菜で、有機野菜は虫が食うものという概念も払拭されます。そんな杉林さんの農法を学びたい方は多く、今年は富山で農業を始めた軟式globe ラップ担当パークマンサーさんにも農業指導をしておられます。さぞかし若い時から農業に取り組まれているから、伝説の農業家になられたのかと思うとさにあらず。杉林さんが農業を始められたのは不惑の年、40歳のことでした。
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杉林さんの無臭ニンニク 生のままスライスして食べると最高です♪

 杉林さんは1961年3月24日に婦中町で生まれました。3人兄弟の真ん中だったので、ばあちゃんたちが旅行に行く時はまず連れて行くのは1歳年上の兄、しばらく経つと4歳年下の弟だったので、杉林さんは旅行に連れて行ってもらったことはありません。そして旅行に連れて行ってもらった兄ちゃんや弟は旅先でおもちゃを買ってもらえるけれど、杉林さんは買ってもらったことがなかったので、そのおもちゃで遊んで兄弟喧嘩になって叱られるということがしばしばありました。普通、生と死について考えるというと思春期ですが、杉林さんは小学生の時に死について考えたことがありました。家でも兄や弟の方が可愛がられるし、3月24日生まれの杉林さんは小学校低学年の頃は勉強も運動もできが悪かったのです。自分はいなくてもいいんじゃないか、死んでしまっても誰も悲しまないんじゃないか、そんなふうに感じたこともありました。そんな時にいつでも慰めてくれたのは自然の中でした。山や川が傷ついた少年の心を癒してくれました。山でカブトムシやクワガタをとったり、川で魚を捕まえたりしていると、いつの間にか嫌なことも忘れているのでした。そんな風だったので、性格が屈折しているようなところは一切なく、外で友達と思い切り遊び回るたくましい男の子だったのです。

 小学生の時は野球が好きで、中学に入ったら野球部に入ろうと思っていました。けれど、小学校6年生の雨の日に、近所の友だちと硬球でキャッチボールをしていて肩を壊してしまったのです。それもあって、中学校ではサッカー部に。3月生まれだった少年は小学校低学年の頃は何をやっても同級生から少し遅れてしまうことがあったけれど、小学校高学年になると、体育関係のことは誰にも負けなくなりました。中学校ではますますそれが加速し、サッカーも練習すればするだけどんどん上手くなりました。それが自信になって、ますますサッカーにのめり込んでいったのです。サッカーをしている杉林さんはとにかくカッコ良くて、各学年に杉林さんのファンクラブができたくらいです。そんな杉林さんの姿に憧れて、サッカー部の部員はどんどん増えていきました。そうして杉林さんがキャプテンの時に、速星中学校は初めて県大会に出場します。とにかくサッカー馬鹿というくらいにサッカー漬けの毎日。何かにハマったらひたすら一直線に進んでしまうのでした。サッカーも上手で足も速くて、運動会ではもちろん花形、しかもイケメン。そんなわけで大モテだった杉林さんはバレンタインデーにもらったチョコの数も半端なかったのですが、この頃はチョコレートは好きじゃなかったので、全部お母さんにあげていました。息子が大量のチョコレートをもらってきたら、母親としては嬉しいような心配なような複雑な心境かもしれません。でも、その頃の杉林さんはサッカーにしか目がなかったので、どんなにモテても女の子にうつつを抜かすようなことはなかったのでした。

 高校に入ってもとにかくサッカー漬けの毎日。その頃は本気でプロのサッカー選手になろうと思っていました。プロになるためには体を鍛えなければと、走り込んで100mを11秒フラットで走れるようになっていたし、ベンチプレスで120Kgを持ち上げていました。サッカーの本場のブラジルで修行をするぞ!という意気込みだったのですが、高校2年の進路相談の時に、真面目な顔でブラジルに行くと行ったら、先生は困惑。お父さんにも「何をだらなことを言うとるがや!」と一喝されます。そこでブラジルに行けない、プロの道は自分にはない、と悟った杉林さん。それまでサッカーしかしてこなかった高校2年生は目の前の梯子が突然消えてしまって、何をしていいか全く分からなくなってしまいます。

 そうなると、周りに誘惑はたくさんありました。友だちとバイクで走り回ったり、他校の番長クラスの人と街を闊歩したり、スナックに行ったりしてたくさん遊ぶようになりました。昔は今と違って、高校生が飲みに行ってもそこまでうるさくは言われなかったのです。おまけに杉林さんの家は酒屋さんをしていて、家がお酒を納めているお店も何軒もあったのです。
 しかし、そこは高校生。いくらツッパっていても、スナックで飲んでいる周りの大人から見ると高校生だとわかって「おい、お前高校生だろう」と声をかけられることもありました。それでも、堂々としていたので逆に気に入られてしまいます。それが、ある筋の人だったりしたので、お前これで飲めや、と杉林さんにボトルを入れてくれたりしました。そんなお店が何軒もあって、一度夜の街に出ると朝まで過ごしてそのまま学校に行くと言う破天荒な生活をしていたのです。それでも、学校を休むことはほとんどなかったのですから、逆にすごい!休んだら先生に「お前出席にしてあるんだから、ちゃんと来い」と言われていたそうです。それだけ先生たちに可愛がられていた生徒だったのですね。
 杉林さんはしょっちゅう昼の街にも繰り出していました。友だち10人で長々ランや長ランを着たまま富山一の繁華街の総曲輪通りを端から端まで並んでスキップしていたりもしました。もちろん真ん中は杉林さんです。そんな時、他校の女の子に呼び止められて「サインして♡」と言われる時もありました。サインを500円で買ってくれるならいいよと言ったら、喜んでサインを買ってくれるのです。実は、杉林さん、高校生になっても、他校にもファンクラブがあるくらい相変わらずモテモテだったのです。伝説の農家になるずっと前は伝説の高校生だったんですね。ビーバップハイスクールを地でいく、いえ、それ以上の高校生活を送っていたのでした!

 そこまでモテても、杉林さんが高校生と付き合うことはありませんでした。なぜなら杉林さん、千里浜で出会った9歳年上の女性と付き合っていて、なんと高校2年生でパパになってしまったのです。
 でも、誰かを傷つけたりするようなことは絶対になかったし、義理と人情に厚かったので、友だちも本当にたくさんいて、先生方からも可愛がられていました。

 サッカー部のキャプテンだった杉林さんには条件のいい就職先がたくさんありました。いい条件の会社をいくらでも選べると就職指導の先生に言われました。担任の先生やサッカー部の顧問の先生には、大学に行って、先生になってサッカーの指導者になれと言われました。でも、お父さんは家の酒屋の仕事をしてくれと言いました。なぜなら、お兄さんは酒屋を継がず、おじいさんの開いた酒屋の後継者がいなかったからです。

 そうして杉林さんは条件のいい就職先も、推薦入試の道も全て蹴って、家の酒屋に入りました。そんな風に酒屋に入ったのに、まだお父さんがお元気だったので、あまり真剣に仕事はしませんでした。プラプラしていたら、高校の時にバイトをしていたスーパーの社長に声をかけられます。そして、スーパーに入り、精肉部門を任せられるようになりました。ちなみに昔、富山のスーパーでも牛肉の刺身やタタキを売っていた時代がありましたが、富山であれを広めたのは杉林さんなのです。大阪に肉の研修に行った時に初めて牛刺しを食べてなんて美味しいんだろうと思った杉林さんは、富山でもこれを広めたいと思ったのです。富山はお魚がおいしいので、お正月などの家族親族が集まる時は肉はパタッと売れなくなりました。そこで、杉林さんは牛刺しや牛肉のタタキ、牛肉の昆布締をセットにしてお正月やお盆に売り出したところ、ものすごく売り上げが伸びたのです。

 サッカーの方も、北信越リーグのサッカーチームから声がかかったりしましたが、精肉の仕事は土日忙しくて休めないこともあって、それはできませんでした。でも、婦中町でサッカークラブを作らないか?と声がかかり、子どもたちの育成中心でやるなら、と婦中サッカークラブを作ります。杉林さんは子どもたちと過ごす時間が大好きでした。教える、と言う感覚ではなくて、自分も一緒に楽しみながらやるのです。子どもたちはすぐに杉林さんを慕うようになり、婦中サッカークラブはどんどんメンバーが増えて、今も続いているサッカークラブです。

 しかし、杉林さんが20歳の時に、高2の時に生まれた長女に続いて双子の男の子ができました。精肉の給料だけでは3人の子どもを育てていくのに大変なので、給料のいい仕事に代わりたいと退職を申し出ました。社長は給料をアップするから残ってくれと言いましたが、若い自分が先輩方を差し置いて高い給料をもらうわけにはいかないとその申し出を辞退しました。精肉部門でいろいろなアイディアを出して売り上げを伸ばしてきたのですから、それはもらっても全然おかしくないと思うのですが、そういう部分は昔気質な杉林さんなのでした。

 その頃はビデオテープ全盛の時代で、富山のマクセルの工場で夜勤をするといいお給料がもらえたので、マクセルの工場に入らせてもらいました。ビデオテープをある巻数以上を作るとその後は歩合制でどんどん増えたので、どんどん働きました。そのうちにライン生産だけではなく、メンテナンスもやるようになって、月に40〜50万は稼げるようになっていました。一緒に仕事をやっている人に利賀育ちの山の主もいて、夜中の2時に仕事が終わった後に、「おい山へ行くぞ」と声をかけられるのです。そうして車を走らせて空が白み始めた頃に利賀村について、山菜採りをしたり、イワナを釣ったり、山を精いっぱい楽しんで、また夜勤の仕事に戻るのでした。

 でも、そんな生活は6年くらいでピリオドを打ちます。酒屋の仕事は時々の手伝いくらいしかしていなかった杉林さんでしたが、お父さんが亡くなり、お母さんと弟さんだけでやっていたお店がどうにも回らなくなっていたのです。借金も重み、酒屋を人手に渡すという話も出ましたが、それなら俺が店に入る!と杉林さんは酒屋の仕事に専念することにしたのです。じいちゃんからの店をここで潰すわけにはいかないという生来の負けん気がむくむくと湧き上がってきたのでした。

 最初は得意先を回っても怒られてばかりでした。「お前の店は注文してもなかなか品物を持ってこないし、頼んだら払った後に請求書が何度も来たりして一体どうなってるんだ?」そんなお客さんの声に平身低頭謝っていました。得意先は大きな納屋のある家が多く、空きびんが納屋に積み重なっているのを見て、「よかったら空き瓶を持って行きましょうか?」と最初は空き瓶回収から始めました。そうして、どんな小さな注文にも誠心誠意応えているうちに次第に注文が増えていったのです。杉林さんが入った時は年商200万余りで火の車だったお店でしたが、こうした地道な努力で3〜4年経った頃には年商2000万円くらいになりました。
杉林さんは贈答品につける熨斗(のしも)にもこだわりました。それまでの酒屋は熨斗に無頓着な人も多く、蝶結びの熨斗を何にでも使っているお店もありましたが、蝶結びは簡単に解けて何度も結び直せるので、結婚や快気祝いなどの一度きりの方がいいお祝い事には使いません。一度きりの方がいいお祝い事には結び切りの熨斗を使います。そういうきめ細やかな心遣いを随所にしていきました。

唎酒師の資格も取ってお客さんに合わせたお酒の提案をしました。そして6年目には年商2億円を超え、県下で3本の指に入ると言われるほどの酒屋になったのです。ワインに合うパンを出したくて、手作りのパンもお店で出すようになりました。水や小麦粉にもこだわって作ったので、「あなたのとこのパン食べたらアレルギーの症状出なくなったわ」とパンだけ買いに来てくれるお客さんも増えました。体にいい水を使えば健康になれる、その時に水の大切さを実感したのです。それが農業で水を大切にするところにつながっているのですが、それはまだ先のこと。その時は、ワインの知識ももっと増やそうとソムリエの資格にもチャレンジを始めていました。とにかく、やるととことん突っ走ってしまう杉林さんなのでした。

 パン作りにも使っていたアレルギーや不調の人たちを治した水のことも、もっと知りたくていろいろ勉強しました。水のことを書き出すとそれだけで論文くらいになりそうなので割愛しますが、杉林さんは科学雑誌Natureにも掲載されていて、富山大学鏡森名誉教授が太鼓判を押した電解水を使ってパン作りをしていたのでした。

 そうして知れば知るほど水の大切さを実感します。そんな中、その水を使って有機農法をしている九州の農家さんから北陸でもやってみないかと声がかかり、九州から先生を呼んで10軒くらいの農家さんを集めて講演会を開きました。でも、有機は難しそうだ、と手を挙げる農家さんはいなかったのです。それなら自分でやってみるか、と有機農法でトマトを作り始めた杉林さん。農薬、化学肥料、除草剤などを一切使わず、3年経って糖度15°の本当に甘いトマトができました。そんなわけでトマト作りも面白くなってきたのですが、なにしろ本業の酒屋も忙しかったので、それ以上手を広げることはありませんでした。

 杉林さんは遊びにも全力でした。陸海空の全てを制覇したという感じでした。陸は山遊び、サッカー、スキー、テニス、バイク。海は釣り、素潜り。なんと杉林さん、素潜りで30m潜って、モリで魚を突くことができるのです。まるで未来少年コナンみたいですね。空はパラグライダーにヘリコプター。仕事も全力、遊びも全力、いったいいつ寝ていたんでしょう。

 ソムリエの勉強をしている時に、お酒を飲み過ぎてアルコール性肝炎で入院してしまったこともありました。退院して、友達が快気祝いをしてくれた時に、少しお酒を口にしましたが、美味しく感じなかったこともあって、それ以来パタっとお酒を飲まなくなりました。唎酒師だし、ソムリエの勉強もしていたので、お酒のウンチクは誰より語れるけど、今は全く飲まない杉林さんなのです。

 時代は、小泉政権の規制改革が始まっていました。それまで酒屋でしか買えなかったお酒がディスカウントストアやコンビニで買えるようになり、酒屋が大きな時代の渦に巻き込まれていきました。それでも、杉林さんは必死で頑張っていました。店をコンビニ形態にして、朝の7時から夜の12時まで営業。遅番の日は朝の3時からパンを仕込むので3時間睡眠が普通でした。

 お店を継いで10年目、地元に大型ショッピングモールができました。店の前の道は連日大渋滞が続きます。配達に出ても渋滞に巻き込まれてほとんど得意先を回れない。お客さんもお店に入れない。そんな日が3か月も続きました。小売のお店は日々お金を動かしていくことで商売が成り立っています。月に4、5千万は動かさないといけないのに、3か月も売り上げが止まってしまっては、もうどうしようもできなくなりました。

 杉林さんはそれまで自分が頑張ったらなんとかなる、そう思っていました。そして実際そうなってきました。でも、今回だけはどうしようもなかった。自分の中の糸がぷつんと切れました。奥さんも寝ずに毎日パンを焼いていましたが、何しろ買いに来たいお客さんがお店に入る余地が全くないのです。九州生まれの奥さんはそんな時でも働き続けました。『このまま俺といたら、こいつ死ぬわ』そう思った杉林さんは奥さんに言いました。「お願いだから出ていってくれ」奥さんはなかなか納得してくれませんでしたが、杉林さんは頑として譲りませんでした。奥さんが出ていった時、ああ、これでこいつを巻き込まなくても済む、とホッとしました。その気持ちは奥さんには言いませんでした。言うと絶対に一緒に頑張ると言うと思ったから。嫌いじゃないのに、別れなきゃいけないのは本当に切ないですね。

 ご飯が全く喉を通らず、水だけ飲んで仕事をしていました。でも、じいちゃんの代から続いた酒屋は潰れました。いや、その時、町の旧商店街のお店はほとんど潰れてしまったのです。

 杉林さんは入院しました。胃に十円玉大の穴が8つも開いていました。絶望の淵にあって死ぬことばかり考えていました。退院した後、何度も何度も死のうとしました。でも、いざ死のうとすると、体が動かなくなってしまうのです。死を望んでも死ぬことができない。一体どのくらいそんな時間を過ごしたでしょうか。
死ねないなら生きるしかない。そう思って仕事を探し始めましたが、世はリストラブームでした。40近い杉林さんを雇ってくれる会社はなかなかありませんでした。

 そんな時でした。ふっと ‘農業’という言葉が頭をよぎったのです。40歳。論語でいう不惑の年に杉林さんは農業をやる決意をしたのです。59歳になった今も、揺るぎなく農業家の道を歩いていることを思えば、ある意味「四十惑わず」は当たっていたのかもしれません。

 酒屋をやっている時に有機農法でトマトを育てて有機農法の素晴らしさは実感していたので、有機でやることに何の迷いもありませんでした。場所は大長谷か氷見かで迷ったのですが、森林組合の知人が協力してくれて、大長谷でうちを借りて再出発することになったのです。

 杉林さんは思いました。自分は1回死んだ人間だ。これまで40年、好き勝手やってきた。それなら残りの人生は人にお返ししていく道を行こう。大長谷は岐阜との県境の大変な山奥です。最初は開拓時代のように開墾からのスタートでした。木を切り倒し、木の根を抜き、草を刈り、土を起こしました。しかし、農機具を買うお金はありません。クワとスコップだけで3反の土地を耕しました。そうして街とは閉ざされたその村で、杉林さんは野菜作りに励みました。でも、独学でやっていったので、試行錯誤の連続でした。大長谷は標高が高く、平野で野菜を育てるのとは気候が違い、トマトも3年経ってようやく成功したのでした。じゃがいも、ビーツ、とうもろこし、ニラ、行者ニンニク…いろいろな野菜を育てました。それはある種、修行僧が山で荒業をするような修行に通じているようにも感じます。

 最初は土作りは肥料が大切だと考えていました。でもなかなかうまくいきませんでした。ある年、何度も何度も土を起こした時に、とても綺麗な野菜ができました。ハッとしました。肥料ではなく土着菌が野菜を育てるのだと体で感じたのです。土を作る。土着菌、微生物が豊富にある豊かな土が美味しい野菜を育ててくれるのです。大長谷でひたすら1人で土と対話してきた杉林さんはまるで太陽や土に導かれているように感じました。土は全てを教えてくれる。そうやって、土に対して敏感になっている状態で山に入ると、今度は山がいろいろなことを教えてくれました。山の木々や草花たち、そして山の動物たち。それら全ての息吹が杉林さんの体に入ってくる感覚だったのです。きっとそれはちょっと山に入ったくらいの人には感じられない、研ぎ澄まされた人だけが感じられる感覚に違いありません。

 杉林さんは一年中、八尾の山の中に入っていました。山菜採りやキノコ採りだけではなく、雪の中の熊追いもしていました。それで、八尾の全ての山々はまるで自分の庭のように手に取るようにわかったのです。一日のうちに歩いていくつも山越えするのも当たり前のようにやっていました。ほんの2,3時間山道を歩いただけで膝が笑うような街の人間とはまるで次元のちがう感覚です。そうして山の中を歩くと、土の働きがいかに大事かがわかるのです。毎日修験者のように山を駆け回る中で、土の微生物の働きで命が育まれていることが実感として体に入ってくるのでした。こうして野菜作りは土作りだという杉林農法の骨幹が築かれていったのです。

 大長谷は一般的に言えば過疎化が進んだ限界集落ですが、本当に豊かな所なのです。杉林さんの住んでいた家の周りには夏になると無数の蛍が舞い、冬は降り積もった雪を月明かりが照らし、この世のものとは思えないくらい幻想的で美しいのでした。夜には満点の星空。渡り鳥の季節になるとたくさんの渡り鳥が群れをなしてやってきました。その渡り鳥の群れの描く弧の美しさや、山で鷹が織りなす鷹柱の美麗さ。きっと名立たる観光地でどんなに有名なものを見ても、杉林さんの体験した自然の織りなす美の美しさに叶うものはないのではないでしょう。大長谷で過ごした12年間は杉林さんにとってかけがえのない宝物となったのでした。

 そうして12年間の大長谷の生活の中で確信しました。土着菌や微生物が私たちの体を作ってくれることを。土着菌や微生物を吸い込んだ野菜を食べることで、私たちの体にもそれらが取り込まれ、最高の腸内細菌が作られていくのです。今は水耕栽培の工場から出荷されている野菜も多くあります。でも、それでは土着菌や微生物が体に取り込めないのです。

 命を作る農に大切なのは水と土と空気です。食物連鎖は微生物連鎖でもある。体内の微生物が増えると、腸内フローラや細胞内のミトコンドリアの量が増え、それが病気にならない健康な体を作るのです。ただ綺麗でおいしい野菜だけの野菜ではなく、綺麗で美味しくて心身ともに健康にしてくれる野菜が作れるのです。そこに目を向けた農業の可能性は無限大で、これからの農を背負う若い人たちに、どんどん伝えていきたい、そう杉林さんは思っています。自分が試行錯誤してたくさん失敗しながら体得してきたノウハウを若い人たちに惜しみなく伝えてもったいなくないのかなぁと感じる浅はかな私ですが、杉林さんはそんなことは微塵も感じていません。それは、これからの日本経済は農業が背負っていくと信じているからです。でもそれは経済優先の農業ではありません。命優先の農業です。一度死んだも同じ自分の命を救ってくれたのも農だった。土だった。大長谷の大自然だった。だから、これから農業を始める人にどんどん伝えて、どんどんこの有機農法を広げていきたいと思っています。

 昔の有機農法といえば、糞を巻いたりして作った野菜でした。それに比べると化学肥料で作った今の野菜の栄養価は10分の1だと言われています。でも、杉林農法で作る野菜は、生産型でかつ、栄養価も昔の有機野菜よりも高いのです。また、有機農法の野菜は虫に食われてきれいじゃない、と思っている人も多いかと思いますが、ちゃんとした有機をやると、本当にきれいな野菜ができるのです。

 農業は全ての元です。体と心を作る元のものを作り出しているのは農家です。だから、農業をやる人はプライドを持って欲しいのです。ただ、残念ながら今の日本は化学肥料を使った農業が主流です。化学肥料を使った野菜は硝酸態窒素だらけです。それが腸内に入ると異常発酵してそれが毒になるのです。現代病の多くは腸内環境の乱れから来ているものがとても多いのです。健康にいいと思って食べ続けている野菜で腸内に毒素を溜め込むという本末転倒の現象が起きているのです。そして化学肥料をたくさん撒いた田んぼや畑は土が育っていません。微生物不足の田畑を、土着菌と微生物がたくさんいる土へと生まれ変わらせたい。病気にならない環境を取り戻す農業をしていきたい。そんな農業に変わる時がきっとくる。今、変わらなきゃ、いつ変わるんだ


 こんなに自然が豊かに見える富山も環境が変わってきています。水の国、富山ですが、今、伏流水が減ってきています。それは山の自然環境が杉林(本当の杉林です。杉林さんではありませんw)で崩されているからです。杉の木は下に根を伸ばしません。大雨が降ると、杉がひっくり返って大量の水が山の表面を流れ川が氾濫します。自然林に戻して、根を下に伸ばせば土の中に雨が入っていきます。表面だけを流れて川が氾濫することが少なくなるでしょう。でも、今、山仕事をする人が減って、杉が負の遺産になっているのです。それでも、なかなか日本の行政は動きません。いまだに工業が日本を救うと思っています。そうでしょうか?日本がこれから世界に誇るべきは、世界で屈指のきれいで豊かな水と、そして農業だと杉林さんは考えています。

 体を動かしているのは心です。心が不安定だと体も不安定になります。逆に心がしっかりしていればちょっとやそっとで人は崩れない。その心を作るのも食だと考えています。土着菌や微生物は腸内環境に働きかけます。今、腸が脳の働きに密接に関わっていることがわかってきました。腸を整えることで、体や心の不調が改善されていきます。たくさんの論文も発表されて大いに注目されている分野なのです。
 そして、杉林さんは野菜作りに使う水に徹底的にこだわっています。幼植成長の時は根の伸びを促進する酸性の水を使い、生殖成長の時はアルカリ水を使用して好気性微生物を活発にします。そうやって成長段階に合わせて野菜がいちばん必要な水を与えてやるのです。杉林さんは子育てする時のお母さんのように野菜の気持ちがよくわかるにちがいありません。なぜなら、杉林さんの育てた野菜の味は全然違うのです。本当の野菜ってこんな味だったんだ!ということを実感させてくれます。そしてその野菜の味に慣れてしまうと、化学肥料で育った野菜は体が受け付けなくなってしまうのです。体って実はとても賢いんですね。
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杉林農法について ぜひクリックしてお読みください。

 12年の大長谷生活を経て、杉林さんは八尾に移り住みました。それは自分が山で体得した農法を若い人たちに伝えていきたいという思いが強かったからです。杉林さんは不登校の子どもたちとも一緒に畑を作っています。野菜嫌いで全く野菜を食べなかった子どもたちが杉林さんの作ったピーマンを生でボリボリ食べるようになります。それはその場の雰囲気で食べられるようになったのではなく、理に叶ったわけがあるのです。それまで野菜を食べられなかった子は、化学肥料で育てられた野菜に含まれる硝酸態窒素に体が拒否反応を起こして、食べられなかったのです。でも、杉林さんの野菜には硝酸態窒素はなく、体が喜ぶ微生物がたっぷり含まれています。言葉で説明しなくても、体はそれを知っている。だから子どもたちは杉林さんの野菜だったらかぶりついて食べるのです。

 子どもたちと一緒に過ごす時間は本当に楽しい時間です。サッカーのコーチやスキーのインストラクターをしている時もそうですが、杉林さんには教えてあげているという感覚はありません。子どもたちと同じ目線で遊んでいる感じなのです。すると、子どもたちもすぐに心を開いてなんでも話すようになってくれます。でも、故意にそうしているのではなくて、自然にそうなっているのでした。子どもたちに対しても、野菜たちに対してもいつも愛情たっぷりなんですね。

 杉林さんは思うのです。今、ならなくてもいい病気になっている子どもたちがたくさんいる。でも、土着菌や微生物をたっぷり含んだ野菜を食べて腸内を整えれば、自然に治っていく病気がほとんどなのです。杉林農法で育てた野菜でそんな子どもたちを一人でも減らしたい。そして、子どもたちが笑顔になれる時間を増やしていきたいのです。そんな杉林さんは実はもう3人のお孫さんがいるおじいちゃんでもあります。杉林さんご自身は今59歳ですが、双子の息子さんたちは38歳で、3人一緒に写った写真は年の離れた兄弟のように見えるので、若いおじいちゃんですね。
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双子の息子さんたちと一緒に

 そんな杉林さんは、「この野菜食べて感動した!」と言ってもらえるのが最高に嬉しいとおっしゃいます。野菜を食べて美味しいっていう感想ではなく、感動した!と言われるのです。でも、実際に杉林さんの野菜を食べると感動します!皆さんもぜひ、杉林さんの野菜を食べてみてください。
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 今コロナ禍にあって、これまでの生き方を見つめ直している人は多いと思います。都会に憧れて都会のいい大学やいい会社に入ることがいい人生だと思っていた人も多いでしょう。でも、マスクをつけて通勤電車に長い時間揺られてヒートアイランド現象で熱を持った街にある会社に通うのが、果たして人として幸せなのか?
 自分が心豊かに過ごせる場所はどこなのか、立ち止まって考えるいい時なのかもしれません。
そしてもし、富山で農業をやりたくなったら、ぜひ杉林さんを訪ねてみてください。きっと少年のような純粋なキラキラした瞳で、農業のことを、土づくりのことを、熱く語ってくれます。
今日の人199.星井 光さん [2020年10月15日(Thu)]
 今日の人は、NPO法人PCTOOL理事、NPO法人市民活動サポートセンターとやま理事の星井 光さんです。
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光さんの自宅の仕事部屋&ルームシアター 
超大型テレビで映画鑑賞するのが最近の楽しみのひとつです。

 光さんは1962年12月に富山市で生まれました。お父さんは北朝鮮出身の人でしたが、韓国に亡命してその後日本に渡ってこられたそうです。どうやって韓国に亡命したのか、そしてどうやって来日して名前を手に入れたのか、詳しいことは光さんも知りません。なぜなら、別にご家庭がある中、お母さんと知り合って光さんと妹さんが生まれたので、光さんの戸籍には父親の欄に何も書かれていなかったのです。
 お父さんは岩瀬で焼肉屋をしていた後、石坂で養豚場を始めました。また、共同経営でパチンコ屋も始め金融業も営んでいて当時はとても羽振りがよかったのです。けれど、とても気性の激しい人で、飲んではケンカをして、家へ帰ってからまた外へケンカをしに行くといった風でした。幼い光さんも、もぐさで灸させられたり、病気の豚小屋に入れられたり、お父さんも怖かったのですが光さんも相当きかんかったらしいです。
 そんな風な毎日だったので、光さんが小学校へ上がる前にお母さんは光さんと妹さんを連れて家を出ました。そこからは3人でのアパート暮らしが始まったのです。お母さんは、昼夜働き、夜は西町で自分のスナックを経営していました。とても気さくな人で、お客さんもたくさんつき、また隠し事もしない人だったので、アパートに彼氏を連れてくることもありました。それが嫌だったこともありましたが、逆に隠し事を一切しないことで、母への絶対的な信頼感がありました。
1ヶ月に1回はお父さんとも会っていました。その時はお父さんも優しくて、光さんと妹さんに、何でも好きなものを買ってくれました。そういうわけで光さんたちは当時の女の子が欲しがっていたおもちゃは一通り持っていたと言っても過言ではありません。

 今はとても明るくて、誰とでも気さくに話す光さんですが、小さい頃は人見知りでおとなしい性格でした。人と話さず、編み物が好きな小学生でしたが、小さい時から、なぜか機械が好きで、ビデオデッキなども自分で設定していたものです。
 そんな機械好きが高じてか、入った高校は富山工業高校の設計計測科でした。中学校では部活も入らなかった光さんでしたが、高校では部活に入ろうと思って、最初はテニス部に。しかし、女子が自分だけだったという事もあり生徒会誌を作る、会誌部に入部したのです。そこがすごく楽しかった。夏、バンガローで合宿をするというのに、ワンピースにサンダル姿で行って周囲を驚かせたりもしました。でもみんなとても仲良くしてくれて、光さんのおしゃべりで明るい性格はそこで開花したと言ってもいいでしょう。
 だんだん行動的にもなっていきました。大好きだったロッド・スチュワートのコンサートに東京の武道館に一人で行ったりもするようになっていました。もっとも、東京駅にはすでに上京していた部活の先輩が迎えに来てくれていたのですが。

 けれど、高校生活でも理不尽な思いをしたこともありました。就職先を選ぶ時、第一志望の会社は母子家庭の子はダメだと言われました。なぜ本人の実力ではなくて、そんなことで差別されなくてはいけないのか、すごく悔しかった。でも、光さんは第一志望の会社に行かなくてよかったのです。なぜなら、光さんは最初の就職先で最愛のご主人に出会うことになったのですから。

 光さんは高校を出て就職し、ご主人は大学を出て就職して同期になったのでした。会社は荏原の駅から歩いて20分の所にあり、光さんもご主人も駅から歩いて通勤していました。会社でテニス合宿があって、光さんはご主人のことをいい人だな♡と意識し始めるようになりました。それで、仕事の帰りにご主人が出てくるのを待ち伏せして、一緒に帰ったりしていたのです。人見知りだった少女がうそのように、とっても積極的になっていたのです。
 やがて二人はつき合うようになり、結婚の話も出てきました。しかし、ご主人は田舎の長男です。お義父さんは興信所を使って光さんの身元を調べ、光さんの出自で結婚に反対しました。しかし、お義母さんが「息子が選んで連れてきた子なんだから、もらおう」と言ってくれたのです。
 そして光さんは21歳の時に結婚しました。結婚式にはお父さんも来てくれて、嫁入り道具も一式揃えてくれました。
 でも、市役所に婚姻届を出す時に、つらい思いもしました。窓口の人が「なぜ父親の名前がないのか?」としつこく聞いてきたのです。その対応に光さんは泣いてしまいました。その時、ご主人が毅然とした態度で光さんを守ってくれたのです。そのことを子どもたちに話すと、「お父さん、かっこいい所あるんだね」と言ってくれるのがまた嬉しい光さんなのでした。

 息子の連れてきた人だから、お嫁にもらおうと言ってくれたお義母さんでしたが、実際はとても厳しい人でした。同居だったので、つらい思いをすることもたくさんありました。
 でも、自分を振り返った時に、分岐点に出てくるのはいつもお義母さんだったのです。光さんにはお子さんが2人いるのですが、下の子が4歳くらいの時に、お義母さんが大病をして半年入院しました。最初の1週間、朝の6時から夕方6時まで毎日病院に詰めていました。きらいなお義母さんと日がな一日一緒にいなければならないので、3日くらいで気が変になりそうでした。でも、その時、ふっと「ああもう、どうなってもいい」と自分の心を解放しようと思ったのです。限界まで来たときに、もうなんでもいいや、なるようにしかならない、と心を解放したら、すごく楽になりました。それからは光さん自身の行動が変わり、お義母さんと普通に接することができるようになって、仲良くなれたのです。
 お義母さんは2年前の3月に亡くなられました。ちょうど、その頃は光さんが自分の心を見つめ直していた時で、お義母さんは自分の道先案内人だったんだと気付けたのでした。
 もちろん実家のお母さんのことも大好きでした。隠し事をしないさっぱりとした母の態度は光さん自身の子どもたちへの接し方の道標でもありました。お母さんは光さんが30歳の時、そしてお母さん自身が54歳の時にステージ3の癌を発症し、56歳で亡くなったのでした。

 光さん自身がお子さんを生んだのは24歳と28歳になる歳でした。どちらも夏生まれにしたくて、実際に上の息子さんは7月30日生まれ、下の息子さんは8月1日生まれなのです。その間も仕事はやり続けました。船舶の図面の設計をしたり、サッシ周りの図面の設計をしたり、そのうち3番目の会社にヘッドハンティングされたり、そして、設計とはおよそ畑ちがいの化粧品販売の代理店をしたりと外で積極的に活躍する光さんの力が発揮され始めていたのです。

 子どもたちが小学校から高校までの間はずっとPTAの役員もしていました。ある時、同じ役員をしていた人に、情報工房でインストラクター養成講座っていうのがあるから受けてみない?と薦められました。なんでも新しいこと好きの光さん、もちろん受けました。
 講座を受けていた小杉の4人で話が盛り上がって、小杉でIT講座を始めようよ!という話になりました。その中の一人が毎日役場へ通って、役場の講座を1コマだけゲットしてきました。こうして、2001年に小杉電脳塾を立ち上げ、IT講座を始めたのです。
 でも、実は、その時は光さん自身もパソコンの使い方をまだよく知らなかったのです。学びながら教えていく、そんな感じのスタートでした。でももともと機械をいじるのが大好きだった光さんはあっという間に技術を身につけていったのです。小杉電脳塾は大好評でどんどん広がっていきました。最初は1コマだけだった講座がどんどん増えて、月7〜8講座を担当するようになりました。企業の社内パソコン教室のアシスタントも担当するようになりました。そのメイン講師の一人がPCTOOLを立ち上げた能登さんでした。能登さんにメイン講師としてやってみないか?と言われ、一緒にいろいろ仕事をするようになっていきました。大山町では老人福祉施設で高齢者パソコン教室の講師をしました。最初は技術があまりなかったのが逆によかった。それは生徒の皆さんと一緒の気持ちで成長していけたことです。うまくなっていく喜びが共有できてそれが続けていくモチベーションにもなったのです。
 光さんの教え方は大変評判がよく、公民館での講座もどんどん増えていきました。南太閤山公民館から始まって、いろいろな所で10クラス立ち上げました。そんなクラスがもう十数年続いています。Word、Excel、ブログ、SNS、いろいろな講座をその時々に応じて開設しています。受講生の皆さんとも一回きりのつきあいではなく、ずっと長いつきあいが続いていて、そんな中から食事会を企画したり、デジカメ撮影会を企画したり、とにかく光さんは何かを企画して皆さんを楽しませることが大好きなのです。

 そんな企画は、コンサートの主催にも及びました。初めてコンサートを主催したのは2001年。6月城端中学校であった新垣勉さんのコンサートに誘われたのがきっかけでした。
 新垣勉さんは沖縄で在日米軍人だったメキシコ系アメリカ人の父と日本人の母の間に生まれ、生まれてすぐに間違って劇薬を点眼されて盲目になってしまったテノール歌手です。両親は1歳の時に離婚し、父はアメリカに帰国。育ててくれた祖母も他界し、自分の境遇に絶望して自暴自棄な中、教会に通うようになり、歌の道を志すようになります。ずっと父親を恨んでいましたが、歌の勉強をしている中で、「君の声は日本人離れしたラテン的な響きがある。神様からのプレゼント。お父さんに感謝だね」と言われ、ずっと憎んでいた父親の血が、自分を歌手として立たせてくれる大きなプレゼントになったのだ、父を許す気持ちになったのでした。光さんも負けず嫌いな性格はどう考えてもお父さん譲り。ともに外国人を父に持つ身として共感せずにはおれなかったのです。それよりなにより、新垣さんの歌声は本当に心の奥底に響いて、「私も新垣さんのコンサートを主催したい!」とコンサートなど企画したこともなかった素人が、800人入るラポールのひびきホールに9月に予約を入れてしまったのでした。いったい何人来てくれるのかもわからないコンサートの3日前、新垣さんのコンサート開催の記事が、地元紙のコラムに載りました。そこからは問い合わせの電話がひっきりなしにあり、なんと当日、ホールがいっぱいのお客さんで埋まったのです。そこからずっと、光さんはコンサートの主催をやり続けているのでした。
 
 2008年には盲目のバイオリニスト穴澤雄介さんに出会います。最初はやはりコンサートを聞きにいったのがきっかけでした。穴澤さんの曲の中に、「あの木によりかかって」というお父さんのことを想って書かれた曲がありました。G線上のアリアと同じように、G線だけを使って書かれたその曲を聴いた時、光さんは涙があふれて止まらなくなりました。ちょうどその前年にお父さんを亡くしていた光さんは、その曲を聴いてお父さんへの想いが溢れ出したのです。泣いて泣いて泣き尽くして、なんだか浄化された気分になりました。
 そこから、穴澤さんのおっかけを始めて、なんとファンクラブの会長になってしまったのです。また、当時、穴澤さんはホームページを持っていませんでした。もうこれはパソコンに強い光さんの出番です。ホームページを作りましょうか、と提案し、富山のファンの集いの時にホームページのお披露目をしたのです。そうして2008年から12年間ずっと、穴澤雄介さんのホームページ作りに携わり続けているのでした。

 2012年にはマラソンにも挑戦を始めました。42.195qを2qずつタスキをつないでいく「いっちゃんリレーマラソン」に出場したのです。全く走ったことなどなかったのですが、「出る?」と言われたら、「いいよ」と答えてしまうのが光さん。こうして18人の仲間を集め、PCTOOLのTシャツも手作りして臨んだマラソン当日。リレーゾーンからはだんだん人が消えていき、PCTOOLチームはとうとう最後に残った1チームになってしまいました。でも、最後のランナーを迎えてみんなで抱き合って泣いている様子がテレビにも大写しになり、とても思い出深いリレーマラソンになったのです。
 その後もマラソンの挑戦は続きます。仲間の松岡さんという60歳の方が射水海王丸マラソンの10qコースに出る!と言われ、じゃあ、私も出来るはず、と10qに挑戦。すると、なんと松岡さん、富山マラソンにも出る、と言い出した。そして、そこはやっぱり負けず嫌いの光さん。2013年には10q、2014年にはハーフマラソン、そして2015年にはとうとうフルマラソンに挑戦したのです。フルマラソンを走った年は、なんと5月にひどい捻挫もしました。講座もスカイプで開講しているくらいでした。でも、2ヶ月半走るのを我慢して、11月1日の本番までにハーフマラソンを、そして当日、なんとフルマラソンを完走したのです。ゴールする時に泣いちゃうかなと思っていましたが、いろいろなことを思い出して1q前にポロポロ泣いたので、ゴールする時は思ったよりすっきりした顔でゴールできたのでした。次の日は歩けないかなぁと思ったけれど、ちゃんと歩けたので、おお私まだまだやれるじゃん、と思ってしまった光さん。というわけで、今も走り続けています。

 仕事でもよく使うデジカメの写真をきれいに撮りたいと思っていた時には、滝をスローシャッターできれいに撮ることにはまり、そこから滝にはまり、滝の近くのおいしいお店を見つけて、滝を見て写真を撮っておいしいものを食べて帰るという滝ツアーも月1で開催していました。

 そんな光さんのチャレンジは進行形で続いています。出町小学校の校長先生から光さんがファンクラブ会長を務める盲目のバイオリニスト穴澤雄介さんをコンサートに呼びたいとおっしゃった時、ちょうど散居村マラソンが開催されることを知った光さん。穴澤さんにマラソンに挑戦してもらいたい、穴澤さんはきっとやるにちがいない、そう思って、マラソンの伴走を申し出たのです。そうして穴澤さんは散居村マラソンの10qマラソンを走ることを決め、光さんたちは4人体制で伴走することに。東京へ行ったときに、伴走の練習をし、その時にストッキングでしばったら一番しっくりくることを感じたり、まさに手探りでの伴走マラソンでした。そうして穴澤さんは伴走者と共に見事10q完走!穴澤さんの走りたい意欲はヒートアップして、次は20qのハーフマラソン、次の年はフルマラソンを6時間で完走されたのです!自分だけじゃなくて、周囲の人のモチベーションもアップさせるのがお得意なのです。

 光さんは断食道場にも参加したり、皇居の勤労奉仕にも参加しています。皇居の勤労奉仕では団長になって、天皇陛下から直々にお言葉を賜りました。ありがたいことに、皇后陛下からもお言葉を賜ったそうです。そして万歳三唱の発声をしたのも光さん。そうやって、得難い体験を次から次へと成していくのでした。
 
楽しくなければ、PCTOOLじゃない!それが光さんのモットーにもなっています。外から見ている景色と中に入って見える景色はちがう。だから行きつくところまでいきたい。そうするといろんな気づきが生まれます。やったことがないことをやりたい、そしてみんなと楽しくやりたい、だから光さんはいつもキラキラしています。

 これからは独自の活動にも力を入れていきたいと考えています。若い人が一歩を踏み出したい時に、背中をポンと押してあげたい。リアルでもオンラインでもノウハウはあるので、そんなサポートをしていけたらなと思っています。

 もちろん社会貢献活動もずっとしていきたい。今まで自分がやりたいことにいろいろな人を巻き込んでやってきたから、これからは、誰かのきっかけを作るサポートに力を入れていきたいのです。

 きっとこれからも、多方面でいろんな仕掛けをしていくにちがいない光さん。興味がある人は、ぜひ一度光さんの講座の門を叩いてみてください。とても楽しい世界がそこには広がっています。
今日の人198.柳原 修さん [2020年09月19日(Sat)]
 今日の人は、人と未来をつなぐ仕事のプロモーター、傳楽denraku代表の柳原修さんです。
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 柳原さんは1957年1月1日に富山市丸の内で生まれました。お父さんは丸の内で建具屋を営み、お母さんは高岡伏木で美容院を営んでいました。それで、幼い頃はお母さんと一緒に伏木の六渡寺に住んでいたのです。当時、その地域は大気汚染がひどく、柳原さんも喘息になってしまいます。お母さんは息子の体を慮って六渡寺の美容院を引き払い、丸の内で美容院を開店させました。やがて喘息も治り、お父さんの建具屋もお母さんも美容院も繁盛していたので、何ひとつ不自由のない少年時代を過ごしました。
 小学校は今はなき総曲輪小学校へ。街の子なので、商店街も庭のようなものでした。街中や学校のグラウンドを走り回っていました。小さい頃からリーダーシップがあって、自然にガキ大将になっていました。というよりガキ大将の集まりのような学年で、どの子も元気で活発でした。今でも同窓会を開くとみんなが集まって賑やかなのですが、60歳の記念同窓会の時に開けたタイムカプセルから昔の文集が出てきました。そこには「ぼくは自動車レーサーになりたい、すばらしい生活をしたい」と書いてありました。子どもの頃からとにかく車が大好きで、本屋に行くと手に取るのは車の本ばかりでした。文集の結びの文は「絶対できるとぼくは自分自身を信じたいと思います」でした。そして実際にそれを実現させた柳原さんなのです。
芝園中学校では陸上部とバトミントン部₊補欠選手に入りました。部活は一生懸命やっていたわけではないのですが、バトミントン部の推薦で不二越工業高校へ進学しました。
 しかし15歳のときに、お母さんが他界。いろいろな物事を斜めに見るようになり、グレ始めました。それでなくても当時の不二越工業高校は男子校でツワモノ揃い。そして特に柳原さんの学年は元気な人が多く、上級生と戦っても1年生が勝つということが続きました。他校と格闘してももちろん柳原さんたちが勝ちました。そして暴力事件沙汰で新聞報道されてしまい、その年はありとあらゆる学校行事が中止になってしまいました。でも、学校行事はなくとも、退屈とは無縁の高校生活でした。お母さんの代わりにいろいろ世話を焼いてくれたのは叔母さんでしたが、叔母さんにしろお父さんにしろ、ケンカ沙汰で怒るようなことはありませんでした。男はケンカの一つや二つ当たり前だろうという肝の太い考え方だったのです。それにしてもケンカはしょっちゅうだったし、走り屋のリーダーをしたりもしていたので、警察には完全に目をつけられていました。取調室のお世話になったことも何回もあります。少年院送りの一歩手前だったと言っても過言ではありません。でも、窃盗の類は決してやりませんでした。バイクの免許代やガソリン代、自分の遊ぶお金を稼ぐのに、早朝から豆腐屋でアルバイトをしてお父さんの建具屋でもバイトをしていました。学校は寝に行くところでした。そんな柳原さんですが、生徒会の副会長に推されてなりました。けれど、やはり相変わらずケンカで直ぐに退任の道に。
人を殴ったら自分の拳も痛い、体の痛みは感じていましたが、高校生の頃は心の痛みは感じませんでした。その時はグレーゾーンにいたかった。その中でもトップになりたかった。ただ、そのグレーゾーンも何十人、何百人も集まると、リーダーがいないとまとまらない。そうとは意識しないままにリーダー術を身につけていった柳原さんなのです。そして、グレーゾーンの高校生はかろうじてブラックにならずに高校を卒業しました。
 高校卒業後、知り合いの自動車工場に就職します。何しろ車が大好きな柳原さん。車をいじるために自動車工場に入ったようなものでした。独学で学んでいたので、エンジンをばらした時にボルトが一つ余ったりすることもありましたが、それでも徐々に技術を身につけていきました。さぁ、そうなると走り屋の血がうずきだします。富山城前から流葉スキー場までどのくらいで行けるかを計るのにぶっ飛ばしたりもしました。パトカーに追いかけられても逃げられるようにナンバー灯を消すスイッチを自作したりもしました。そうは言っても、何度も捕まって罰金を取られるのでそんなことで罰金を払うのがもったいなくなってきました。そんな時に、ヤンキーのたむろになっていた喫茶店に来ていたレーサーになった先輩がいて、「お前そんなに走るのが好きならサーキットに連れて行ってやっちゃ」と鈴鹿サーキットに連れて行ってくれたのです。鈴鹿サーキットを見た途端、体に電気が走りました。「これだ!」と思いました。そしてレースカーを作るためにメカニックの腕も磨いて、ドライバー兼メカニックとして、鈴鹿サーキットや新潟の日本海間瀬サーキットに参加するようになりました。ある時、サーキットに友達が女性を連れてきました。彼女は無造作においてあった柳原さんの服をハンガーにかけて吊るしていました。サーキットが終わってレーシングスーツを脱いでおいておくと、今度はそのレーシングスーツがハンガーにかけてあるのです。そんな気遣いのできる女性は初めてでした。そして上着の襟が立っているのを直してくれた時に思ったのです。「結婚するならこいつだ!」と。そして、その彼女と24歳の時に結婚しました。しかしスポンサーもいない中でサーキットにしょっちゅう出ていては、とてもお金が続きません。もっとお金を貯めようと考え、ダートトライアルのドライバーを始めました。柳原さんはこのダートトライアルの成績がとてもよかった!タイヤメーカーもスポンサーにつき、全日本にまで進みました。どうやったら車が早く走れるかの構造もわかっているので全日本の仲間の車を富山の町工場で作ってあげたりもしました。25歳と29歳のときには女の子も生まれました。子どもが生まれてもラリーはずっと続けていました。そんな31歳のとき、ある競技会で走っていて20〜30mダイブしてしまったことがありました。そこまで飛んでしまったので柳原さんは鞭打ちで入院してしまいます。その時、奥さんや娘さんたちに言われました。「パパ、お願いだからもう現役をやめて」
この家族の言葉は無視できませんでした。そして、走る側から主催者側に、モータースポーツをオーガナイズする側に転身して、レーサーを育てる方に回ったのです。

 そんな頃、ブリヂストン富山販売(当時は北信産業)の社長だった稲田一朗さんから口説き落とされ、入社を決断。この稲田さんとの出会いが柳原さんの人生にとって本当に大きな出会いとなりました。稲田さんはとにかくなんでも自由にやらせてくれました。「やってみればいいじゃん。失敗したらやめればいいでしょ」と言ってくれたおかげで、柳原さんの行動力や企画力は輪をかけてグングン磨かれて行ったのです。日本人のメカニックが少なくなって来た時期で、フィリピンからメカニックを連れてくるのに、何度もフィリピンにも行きました。部品もろくに揃っていない中で作業をしているフィリピンのメカニックの器用さにびっくりした柳原さん。世界はやはり実際にこの目で見てみるものだ、と実感します。世はちょうどバブルの頃でF1も大変人気がありました。そこで、1991年から93年にかけてテクノホールで北陸版オートサロンの企画運営をし、中嶋悟をゲストに呼んでサロンショーを開くなど、大いに盛り上がるイベントを仕掛けたのです。
 新しい仕掛けはどんどん生まれます。F1にベネトンが参入したことで、ベネトンフォーミュラ1のアパレルをやろう、と、なんとアパレル業界にも進出。ベネトン本社にも行って打ち合わせをし、服屋さんにまでなってしまった柳原さんなのでした。しかし、幼い頃からお母さんや叔母さんたちが美容院をし、街中で育った柳原さんにはお洒落のセンスも備わっていました。人生の全ては何かにつながっているけれど、その縁をちゃんと生かせるかどうかは、その人次第なのかもしれません。柳原さんはその一つ一つの縁を大事にしてきた人なのです。
 稲田さんはラジャスタンというカレー屋も経営していました。今でこそ本場のカレー屋はあちこちにありますが、当時はインド人やスリランカ人が働いているお店は少なかったのです。ここで多くの外国の人と日本人の違いを感じました。多様な価値観があっていいと実感したのです。

 
 月刊タウン情報とやまに新車の試乗コラムを書いてくれと言われ、10年間連載しました。試乗した車の数は154台に上ります。パリダカールラリーにも参加する予定にしていましたが、テロが活発になって中止になって断念せざるを得ない憂き目にもあったりしましたが、とにかくなんにでも挑戦。Try&Error で失敗したりできなかったりしたことをくよくよしたりすることはしませんでした。むしろError は次につなげる大きなステップでしかないのです。

 小売のタイヤ販売もやってほしいと言われタイヤ館も作ります。インテックと協力してシステム作りから全てやりました。卸しでタイヤを売っている時と違い、小売になるとお客さんはその店で買うか買わないか、店に入った数秒が勝負になります。その数秒の間にお客さんの心をキャッチするにはどうしたらいいのか、いろいろな「どうしたら?」を真剣に考える時間はものすごく楽しかった。経営の勉強もとことんしましたし、人の使い方、経理の大切さ、そういうものを深く学べたのはこの小売の経験が教えてくれたと言っても過言ではありません。
 どうやったら人は動いてくれるのか、毎朝毎夕気づきがありました。課題を一つ一つ潰していくと、選んでもらえる会社、選んでもらえる売り子になれるのです。従業員たちには言っていました。「独立したかったらしてもいい、でもうまくいかなかったら戻ってきてもいい。お前の場所は残しておくから」そんな風に上司に言われたら、この人には絶対についていこう、と思っちゃいますよね。
 ただ、仕事が楽しすぎて休みなんてなくてもいいと思っていた柳原さんは部下にも同じことを求めて、それで離れてしまったり嘘をつかれたりしたこともありました。なんで嘘をつくんだと、その時は部下を責めましたが、自分が部下を追い込んでいたんだとハッとしたのです。この小売の経験が柳原さんに更なる人脈、人望をもたらしてくれました。
柳原さんはとにかく富山県中の面白い人、素敵な人とつながっています。そんな人たちにいつも言います。「俺の面倒を見たら面白いよ。面倒みない?」そうして意気投合して飲みに行ったりすることもしょっちゅう。もっとも、柳原さん自身はあまりお酒は強くはありません。でも、それが逆に良かったのかもしれませんね。お酒に強かったらきっと話し込んで朝まで飲んじゃうタイプだと思うので。
 こうして2005年にはブリヂストンタイヤ富山販売の取締役 販売本部長に、2009年には代表取締役専務に、そして翌2010年には代表取締役社長に就任しました。
 富山をもっともっと元気にしていこうと2013年には「アザーッス」という異業種交流会も発足させました。たくさんの会員が集まり出会いが出会いを呼び、素晴らしいキャッチボールが生まれ始めました。会員数はいっときは200人を超えるくらいになりましたが、今は130人くらいで落ち着いています。いつまでも柳原さんが引っ張っていくべきじゃないと考え、マンネリも打破したかったので、今は若い子に任せて、相談役に徹している柳原さんなのでした。

 会社の方も自分が60歳、会社創立70周年の時に会社から身を引こうと考えていました。社長に就任してからの8年間は後進を育てることに力を尽くし、会社創立70周年の2018年に実際にスパッと退任しました。残ると口を出してしまうから、と一切の手を引いたのです。男は引き際をカッコよく、それが柳原さんの男の美学です。
 社長を退任してすぐに数社からオファーがありました。その中で特に強く来てくださいと何度も懇願された小川博司さんの株式会社オリバーに取締役で入るつもりでいました。しかし、そんな時に、株式会社ガネーシャの本田大輝さんから、「一緒に楽しい事をやりませんか」と口説かれ、柳原さんはガネーシャで顧問をすることを引き受けたのです。今、オリバーでも顧問をしていて、両社ともぐんぐん業績を伸ばしています。
 傳楽という人と未来をつなぐ仕事のプロモーターもスタートさせています。人との縁を大事にしてきた柳原さんの周りにはとにかく熱くて素敵で変で面白い人たちがたくさん。そんな人たちをマッチングさせて富山にどんどん元気に楽しくいきたいと、考えています。口説き文句の一つは「俺にお前の力を貸してくれ」柳原さんにそう言われたらきっと誰だって何かしたいって思っちゃいますね。
 
 柳原さんは本を読んで、会いたいと思った著者にはどんどん連絡して実際に会ってナンパしてきます。知り合いに「新幹線の移動の時間だけ話をする時間をください」と頼んでどんどん会いたい人に会って人脈を広げている人がいますが、柳原さんの行動力を見るにつけ、やはりちゃんと自分から動く、そして動くだけじゃなくて、その後をどうするかが大切だと思わずにはいられないのでした。
 
 こんな風にたくさんの人に出会い続けている柳原さんですが、特に大きな出会いと感じているのは4人の方との出会いです。お一人はもちろん、ブリヂストン富山販売で様々な挑戦をさせてくれた稲田一朗さん。そして、宇宙人みたいにぶっ飛んだ太閤産業の八木さん、同じく宇宙人みたいな翔建工業の笹島さん、もうお一人はアルカスコーポレーションの岩崎弥一さん。岩崎さんとは57歳の時に出会いましたが、それからはすっかり意気投合し、お互いに読んだ本を紹介し合うなど常にやり取りしています。岩崎さんは私もお世話になっているのでなんだか嬉しい繋がりです。岩崎さんのインタビュー記事はこちら
https://blog.canpan.info/diversityt/archive/169

 仕事を辞めた後は、もっと元気が出てきて、どんどんいいアイディアが出てくると柳原さん。できる力を持っているのにできない人の背中を押して羽ばたかせてあげたいといつも動き続けています。男塾という若手男性経営者のための塾も始めました。あるセミナーで講話した時に、個人的に会ってくださいという若手経営者が数名いて、それならばと男塾を始めたのです。みんなが問題と思っていることは問題じゃない、それは課題なんだ。課題を一つ一つクリアしていくと、みんなあっという間に伸びていきます。ちゃんとやれるんだから待つな、自分から進んで前に出ろ、柳原さんの一押しで伸びていく若手経営者はこれからもっともっと増えていくでしょう。

 柳原さんは63歳とは思えないくらい、身体作りもしっかりされています。ゴルフのやり過ぎで半月板を取った後はスポーツサイクリングもやり始めました。すると自転車の楽しさに目覚め、自転車での街おこし企画を上市町で仕掛けました。競輪選手との自転車イベントも始め、富山競輪にくる選手たちとはみんな仲良しです。半月板を取るという一見マイナスに思えることもプラスにしかしない。後ろ向きになるな、常に元気で笑顔でいた方が楽しいよね、問題って言ったらダメだよ、問題って言ったら重くなる、問題じゃなくて課題なんだよ。柳原さんと話していると、私もいろいろできそうな気がしてくるから不思議です。いや、決して不思議ではないんでしょうね。実際にそうやって背中を押されて前に進んでいる人たちは本当にたくさんいるのです。
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颯爽と

 今、顧問をしているオリバーさんやガネーシャさん社員さん達ともディスカッションしている柳原さん。社員さん達の話には決して拒否をせずにちゃんと聞き、でも、こういう考えもあるよね、とちょっとヒントを出してあげる。とにかく気遣いの人なのです。だから社員はみんな笑顔になって頑張れるのでしょう。
 男塾の塾生たちにも無償で様々にアドバイスをしている柳原さん。塾生たちにはこう言っています。
「お前ら香典が少なかったら化けて出てやるw」 まだまだずっと先の話でしょうけど、なんだかとんでもない額の香典が集まるお葬式になりそうですね。

 柳原さんは言います。「本当のリーダーとは人の上に立つ勝者ではなく人の役に立つ勇者である」それはまさしくご自身が実践されてきた道に他なりません。
 これからの経営者の皆さんに特に言いたいのは、「定年を迎えてから、その人が一線で働いていた時の人脈・人望が浮かび上がってくる。今からでも遅くないので、一日でも早く『与えられる人』から『与える人』になって、その人達を引き上げステージに上がってもらい、羽ばたいてもらえるように導く。」ということです。そして「所詮、1人では何もできないのだから素直に助けてと言える人に」それが柳原さんからのエールです。

「俺、失敗しないから」と日焼けした顔でニッコリ笑う顔は人生を楽しむ達人の顔。人生を楽しむ達人、そして仕掛けの達人の柳原さんがこれから富山でどんな仕掛けをして、どんなイノベーションが生まれてくるのか、ますます楽しみになってきた今回のインタビューでした。



今日の人197.中川博司さん [2020年09月10日(Thu)]
 今日の人は児童発達支援・放課後等デイサービス「ミックスベリー」管理者の中川博司さんです。
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ミックスベリーは富山市平岡に昨年10月に開所した障害がある子ども向けの放課後等デイサービスです。4500uの広い敷地には築150年の古民家「いいとも広場」や広い畑もあり、利用者だけでなく、地域の人たちとも交流できる場になっています。
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いいとも広場
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いいとも畑

 中川さんは昭和46年3月に福岡町で生まれました。家の周りは田んぼだらけだったので、小川で魚をとったり野良猫を追いかけたり仮面ライダーごっこをしたり、とにかく外遊びばかりしていました。中川さんが子どもの頃はまだゲームと言えばウオッチマンくらいだったのです。家族はみんなヤクルトファンで、中川さんも杉浦亨選手の大ファンでした。ヤクルトが優勝した時は家族でヤクルトで乾杯したものです。
その頃、笑っていいともや俺たちひょうきん族などフジテレビの番組がテレビ界を席捲していました。テレビからスタッフの人たちの笑い声が聞こえてきて、とても新鮮な感じがしました。「楽しくなければテレビじゃない」というキャッチフレーズも心に響いて、中川さんは大人になったらフジテレビのカメラマンになりたいという夢を持ちました。

 中学校ではブラスバンド部に入ります。最初はサッカー部に仮入部したのですが、中学入学当時は142cmだった中川さんはサッカー部で3年過ごしても活躍できる余地は少ないなと感じたのでした。小学生の時から縦笛が得意で音楽の先生にも一目置かれていたので、ブラスバンド部の方が自分を生かせると感じたのですね。選んだ楽器はユーフォニアムでした。ユーフォニアムはいろいろなメロディが吹けてソロ部分もあってとてもやりがいのある楽器だったのです。
中学校で身長が30pも背が伸びた中川さんは女の子にも結構人気があったようです。部活の仲間や学級委員の仲間と一緒に誕生日パーティをしたり、川遊びをしたり、とても楽しい中学生時代を過ごしました。

 高校は地元の福岡高校へ。開校間もない入学当時は吹奏楽部がなかったので部活には入らず、勉強中心の生活になりました。理系だった中川さんが好きだった教科は数学と物理です。といっても、ずっと勉強ばかりしていたわけではありません。友達と高岡に出て遊んだり、青春18きっぷを使って京都に遊びに行ったりもしていました。

 そして富山大学工学部電子情報工学科へ入学。大学では1年生の時から車に乗り、オーケストラ部に入ってクラリネットにものめり込みました。大学時代はとにかくクラリネットと車とそしてバイトに明け暮れていました。バイトはいろいろやりました。レストランや居酒屋、結婚式場、イベント会場等、中でもいちばん長かったのはテレビ局のアルバイトです。記者とカメラマンの補助をしていたのですが、普段入れないところにも入れて、とても刺激的でした。でも、同時に思いました。やはりテレビ局のカメラマンというのは難しい仕事で、おいそれと目指せるものではないと。

 大学の4年間はとても楽しく、クラリネットに没頭したことで一つのことを極める楽しさも知りました。当時工学部の学生には一人当たりに20社ほどの求人がありましたが、中川さんはどんな生き方をしていくべきか悩んでいました。テレビ局のカメラマンはあきらめていましたが、このまま企業に就職するのはどうなんだろう、もっと自分の視野を広められることはないか、そう思っていた時に見つけたのが青年海外協力隊員だったのです。これだ!と思った中川さんは青年海外協力隊に応募し見事に合格。こうして研修期間を経て、青年海外協力隊員としてインドネシアに派遣されることになったのです。インドネシアでの派遣先は肢体不自由者リハビリセンターでした。ここで初めて福祉の世界と出会った中川さん。インドネシアで出会った障害を持った貧しい生徒たちの笑顔と元気さが中川さんが福祉に携わる原風景です。

 インドネシアに行く前はインドネシアに行ったら精神疾患になる人が多いから気をつけてと言われたけれど、中川さんはとても充実した2年間を過ごすことが出来ました。協力隊に行く前に言われたのは、理想を高く持ち過ぎていくとしんどくなるから、自分のできることをやるというスタンスで行けということでした。実際、大学を出たばかりの中川さんは現地で教えることより教えられることの方が多いと感じた2年間でした。

 こうして協力隊を終えて帰ってきた中川さんはこの先も福祉の世界で生きていこうと心を決めていました。
そして就職先に選んだのは、立ち上がって2年目の障害者支援施設いみず苑でした。それまでの障害者支援施設はコロニー型で人里離れたところにあることが多かったのですが、いみず苑は県内で初めて平野部にできた障害者支援施設だったのです。若い職員がとても多くてみんなが施設をよくしようと意気込んでいました。その時掲げられていたのは「ノーロックで利用者主体」というとてもわかりやすいスタンスでした。そこに向かってみんなが一つになれたのです。やがて、さまざまな仕事を任されていく中で、地域支援も担当します。地域生活体験ホームも作りましたが、施設自体が壁になって、その壁を乗り越えるのが大変だと痛感しました。施設からではなく、地域から変えていかないといけない、その時そう痛感したのです。そんな時に出会ったのが惣万佳代子さんが創設された富山型デイサービスの「このゆびとーまれ」でした。
「お年寄りはお年寄りの施設」「障がい者は障がい者の施設」と仕切りを作るのではなく、おじいちゃんも、
おばあちゃんも、こどもたちも、赤ちゃんも、障がいがあってもなくても、いろんな人たちが一緒に楽しく過ごす・・・そんな福祉サービスが「富山型デイサービス」です。(このゆびとーまれのホームページより)
 地域を知ろうと地元の特養ホームで1年働いたあと、このゆびとーまれで13年半働いた中川さん。
できることもできないこともあっていい、お互いがお互いを補って現場を作り上げる心地よさが共生型福祉にはありました。一方で高齢者福祉の現場では、例えば転倒のリスクを減らすために、床に一滴の水も落とすな等、専門性を突き詰めることもあり、職員の心理的負担は多い。それは取りも直さず利用者のストレスにも直結するのです。障害福祉の現場にも同様の話は意外と多い。じゃあ、福祉って何だろう?中川さんは考えました。例えば、よそ見をして食事が進まない子に、職員が自立を促す声掛けをする。そんな姿をよそに、一緒に生活しているおじいちゃん、おばあちゃんは、優しい声をかけて食べさせてくれたりする。いろんな愛情を受けることで人の生活は豊かになる。それは床に水一滴すら落とすな、という現場では体感できない感覚です。利用者だけでなく、福祉に携わる人が福祉って楽しいという心の余裕がないところでどうやっていい福祉ができるのでしょう。強みも弱みもお互いに補える環境でチャレンジしていきたい、そしていつまでも惣万さんたち富山型の先駆者に頼っているのではなく、自分たちでチャレンジしていきたい、それが惣万さんたちに対しての恩返しにもなる。そんな中川さんの熱い思いが素敵な場所と素敵な人との出会いを引き寄せ、今の場所で放課後等デイサービスミックスベリーを開所する運びになったのです。

 昨年の10月に開所して来月で1年を迎えるミックスベリー。スタッフと忌憚なく話し合える関係もとても心地よく、みんなそれぞれ好きなことをやれていると感じています。今まで好きな生き方をしてきたから、自分の子どもたちを含めて次世代のために何かしていきたい。惣万さんたち大先輩が築いてきた大事な共生型福祉を次世代へちゃんとバトンをつないでいけるように。自分に与えられた使命のようなものがあって、残りの人生でやらなくてはいけないと思っています。でも、それは肩に力を入れてやるのではなく、自分もスタッフもそして利用者もみんなのQOLを大切にしながらやっていきたいと思っています。

 そんな中川さんが今、楽しいことは1400坪ある敷地の中にみんなが遊べる空間を作ったり、DIYでいろいろなものを手作りしたりすること。ワクワクな空間がどんどん増えています。
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中川さん手作りのバスケットゴールやBBQ台が置かれています

 いつか時間ができたら、かつて青年海外協力隊で2年を過ごしたインドネシアにいって、のんびりしてみたい。奥さまと一緒に家でビールを飲みながら、ゆっくりそんな話をする時間も大切にしています。

中川さんたちの活躍で、富山の共生型福祉はこれからもっともっとワクワクする場になっていくことを予感させる、そんなインタビューでした。
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明るくて開放的な雰囲気のミックスベリー
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今日の人196.米山勝規さん [2020年08月24日(Mon)]
 今日の人は人と住まいを結ぶ不動産屋株式会社リボン代表取締役の米山勝規さんです。
リボンの名前には御縁結びのribbonと生まれ変わりのrebornの意味が込められています。
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会社の前で

 米山さんは1984年7月1日に砺波市で生まれました。3人兄弟の末っ子で、家は4世代同居の大家族だったので、みんなから大事にされて育ちました。小さい時はおとなしくて甘えん坊で、ドラクエやファイナルファンタジー等のゲームをするのが大好きな子でした。ドラクエの中のキャラクターに影響されてか、おばあちゃんに将来の夢を聞かれた時は「遊び人」と答えていたものです。
 小学校5年生の時に、スノボに出会いめちゃめちゃハマりました。お年玉がなくなるまでひたすらスキー場に滑りに行っていました。もっとも、今から考えると文句も言わずに南砺市のたいらスキー場まで送迎してくれていたお母さんには本当に感謝です。
 中学ではソフトテニス部へ入ります。相変わらずゲームも好きで、部活とゲームで日々が過ぎていく感じでした。中2の時に、ロサンゼルスで2週間ホームステイをしたのですが、あまり感情を表に出すタイプではなかったので、「思っていることをちゃんと言葉にしないと伝わらないよ」と言われとてもショックでした。でも、そうやって文化の違いを肌で感じられたのは得難い体験でした。
お母さんの勧めで小説も読み始めました。課題図書じゃないものを読むのはそれが始めてでした。それからホラー系の小説を読むのが好きになりました。
 高校は地元の進学校砺波高校でやはりソフトテニス部でした。多感な時代、女の子にちょっと変わった振られ方をして、そこから女性恐怖症になってしまいます。純粋な高校1年生はその後、グレてうっかり勉強に打ち込んでしまい、現役で早稲田の理工学部に合格しました。

 大学では硬式テニスサークルに入りました。夏はテニス、冬はスノボとまるで絵に描いたような大学生活を送っていたのです。女性恐怖症を克服しようとしていましたが、その頃はすごくやきもち焼きだったので、まだそれを払拭できていなかったようでした。
電気系の学科だったので、地元の電力会社に就職したいと思いましたが、就職が決まらなかったので、大学院へと進学します。都庁へ勤めた先輩の話を聞いて、それまで考えたこともなかったけれど、公務員の道もいいなぁと考え始めました。電力会社に就職したいと思ったのもコンセントに電気が常に来ている状況ってめちゃめちゃすごいことで、そんな公共性のある仕事に関わりたいと思っていたからです。その意味でいうと公務員は公共性のある仕事No.1なので公務員もいいなと思ったのでした。そこで、マスター1年の時に、国家公務員の試験を受け、厚労省に採用が決まりました。1年目はあまり上司に恵まれなかったのですが、2年目は仕事の基本をきっちり教えてくれる上司に出会いました。この時に、怒ると叱るの違いを感じて、自分は決して怒る上司にはなるまいと決めました。
ただ、公務員の世界はやはり縦割りがひどく、なかなか他部署の人の話を聞く機会がありませんでした。バーで知り合った人と飲んでいて世界が広がるのを感じた米山さんは、中央省庁横断飲み会を企画します。2〜3ヶ月に1回開催し、1年半で11省庁70人にまで参加者が増えました。そう、米山さんは自分も飲み会が大好きなので、飲み会を企画するのがすごく得意なのです。この頃は、女性恐怖症も克服されて、極端なやきもち焼きも治っていました。厚労省の中では若手飲み会に誘われ、そこで出会ったのが1歳年下の奥さまになる人でした。東京で出会った彼女はなんと富山市出身の人でした。
3年目の異動ではまたそりの合わない上司になりました。でも、自己啓発の勉強会で出会った人に自分がご機嫌でいると上司との関係も良くなる。相手じゃなくて全ては自分と言われ、それを実践すると確かに上司との関係は良くなりました。ただ、公務員の仕事自体には興味が持てなくなっていました。その思いに拍車をかけたのは2011年3月11日に起きた東日本大震災でした。実はその翌日の3月12日から米山さんは奥さんと一緒に住むつもりにしていました。その前日に襲った地震。幸い住んでいるところはそこまで大きな被害はありませんでしたが、米山さんは思います。ずっとここで仕事をしていたらきっと後悔する。

 そして様々なことにチャレンジをしはじめ、経営者になるためにいろいろ試行錯誤してきました。けれど、いろいろなことが全然うまくいかず、体に無理がたたったのか金属アレルギーなって左半身全体に蕁麻疹が広がりました。経営者のお父さんからは毎月50万円しっかり稼げるのなら続けたらいい。でも、それさえ稼げないようならやめておけ、と言われました。しかしその頃の米山さんは遅くやってきた反抗期の絶頂期でなかなかお父さんの言うことを素直に聞けませんでした。無理に無理を重ねて体も心もボロボロでした。でも、お母さんからの「富山へ帰ってきてください」との手紙で心が溶けました。ああ、富山へ帰ってやり直そう。

 こうして富山に戻った米山さんは2014年の7月にエコフィールへ入社。それは人生の師匠であるお父さんが紹介してくれた不動産会社でした。そしてエコフィールの社長は今も仕事の師匠と言える人です。その社長についていきながら体で仕事を覚えていきました。

 社長のもとで修行を重ね、2016年12月に独立。不動産会社リボンを立ち上げました。今、事務所がある場所は、奇しくもお父さんの会社ワイケイホームが始まった場所なのです。そんな場所で自分も仕事を始めることができたのはとてもラッキーなことでした。
 お父さんのアドバイスもあって売り上げの目処が立たない状況からパート社員を入れていました。自分の給料はゼロの状態が続き、コンビニに入って就職情報誌でバイトの欄を見たりしていましたが、寝る時間を削ってバイトしたりしたら仕事のクオリティが絶対に下がってしまう。そんなことをしては絶対にダメだ、と自分に喝を入れました。
売り上げのない時に「チラシを出したらどうだ」と言われ、出費が痛いのも事実でしたが、チラシを出していたらそのうち売り上げがついてきました。
 また、倫理法人会で経営者の倫理に出会ったのがとても大きな出来事でした。一流の経営者仲間が多くできたのも大きいし、モーニングセミナーはダイレクトに人生に影響を与えてくれていると感じています。苦難福門であったり、子は親の鏡であったり、得るは捨つるにありであったり、学びのひとつひとつがとても響いてくるのです。
 そしてそれらを実践していくことで、次第にリボンの経営も安定してきました。今年は初めてのアパート経営にも取り組んでいます。何と畑付きのアパートです。
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完成間近の米山さん経営の畑つきメゾネットタイプのアパート

他にも空き家管理もとても重要な仕事です。今、空き家はどこでも問題になっていますが、使えるものはちゃんと使い、本当にボロボロな家だけ解体して土地を利用する。そんな風に土地も家も人も適材適所で生かしていきたい、そう思っています。今、コロナでますます田舎で住むことの大切さが言われていますが、都会からの移住も促進していきたいし、移住してきた人が働けるように雇用もサポートしていきたい。そんな風に夢はどんどん広がっています。

 公務員時代からずっと米山さんを支えてくれた奥さまとの間には今、4歳と1歳の可愛い娘さんがいます。その子たちと遊ぶ時間が何よりリラックスできる時間です。そして、米山さんには夫婦円満の秘訣があります。それは奥さまを褒め続けること♪米山さんのSNSを見るといつだって、奥さまに最高の褒め言葉を贈っていらっしゃいます。私たち世代の平均的日本人男子は、奥さんのことはまぁ褒めない!(うちの旦那を筆頭にw)ので、隔世の感があるのでした。
 
 テニスもまた再開しました。米山さんは常に新しいことにチャレンジするのが好きなので、今両利きを目指してトレーニングしています。富山マラソンでフルマラソンを走ったり、司法書士試験を受けたり、アパート経営を始めたり、何かしら毎年新しいことにチャレンジしています。
そして、経営者仲間と家族ぐるみでバーベキューをしたり、飲み会をしたり、やはりいろいろ企画するのが大好きな米山さんなのでした。
 まだ36歳になったばかりの若手経営者はこれからどんなことに挑んでいくのでしょう。きっとこれからの富山をもっともっとワクワクする場所にしていってくれるに違いありません。
今日の人195.池田 薫さん [2020年08月11日(Tue)]
今日の人は養蜂家であり、はちみつやhttps://hachimituya.jp/の池田薫さんです。
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 薫さんは1964年、東京オリンピックの年に大沢野町で生まれました。大沢野は自然に囲まれたところです。小さい頃は友だちと秘密基地を作るなどしてよく外で遊んでいました。けれど、活発というよりはおとなしい子でした。家は祖父母もいる7人家族で、テレビのチャンネルの主導権はおじいちゃんが握っていましたから、芸能界の話題には全くついていけませんでした。
 小学校高学年の時は、お琴やお茶も習っていました。何か伝統的なものに心惹かれる少女だったのです。お茶は最近また習い始め、当時はわからなかった所作の意味が腑に落ちるようになって、茶道の奥深さを感じています。

 中学校では剣道部に所属。この頃は友だちとお菓子作りをするのもハマっていました。よくケーキやクッキーを作って、学校で友だちと分けていました。「詩とメルヘン」というポエム雑誌も好きで、よく自分で詩を書いていました。それをどこかに投稿するということはなかったのですが、文章を書くのが好きだったのです。
 
 高校は家から遠いところに行きたくて、富山北部高校へ。大沢野町は富山市の南にあるので、一番南から一番北まで通っていたわけです。富山駅で乗り換えなければならないのですが、それは億劫なことではなくてむしろ好きでした。まだ駅前周辺は雑然としていた時で、駅周辺にはバラックのようなお店も残っていました。入ってはいけない場所という雰囲気だったのですが、なんとなくワクワクしたものです。家はお小遣い制ではなかったので、まとまったお小遣いはもらえませんでした。友だちとカフェに入ることなんて滅多になく、たまにハンバーグを買うのが楽しみでした。

 ある時、立山町の粟巣野にあるKAKI家具工房に友だちと遊びに行って、そこで染色家の方とたまたま出会いました。その方に京都に染色の学校があると聞き、とても心惹かれた池田さん。そうして、高校卒業後に京都にある川島テキスタイルスクールに入り、2年間染色の勉強をしたのです。古都京都で開催される蚤の市もとても素敵で、よく足を運んでいました。
 
 卒業後は富山に戻っていたのですが、アフリカを旅した友だちの話に刺激を受け、自分もアフリカに行ってみたい!と思うようになります。アフリカに行くための資金を貯めるために、大和のモロゾフでバイトを始めました。この時、包装の仕事が結構多かったのですが、その時身につけた包装の技術が、今の仕事にも生かされているので、人間万事塞翁が馬ということを感じる薫さんなのでした。そして、友だちを誘って3ヶ月間アフリカ大陸を旅しました。女友達との二人旅でしたが、トラブルに巻き込まれることなく、楽しいアフリカ旅行になりました。ただ、とても残念なのは、その時一緒に旅した友だちがずいぶん早くに逝ってしまったことです。今もいろいろな仲間のいる薫さんですが、アフリカ旅行に3ヶ月も一緒に行ってくれた友だちの存在はとても大きかったのです。
 
 日本に戻ってからは、モロゾフでバイトを再開。そうしているうちに、自然に結婚という流れになったのです。そして今はちみつやの店舗も構える、富山市茶屋町に嫁いで来た薫さんなのでした。
 結婚後は3人のお子さんの子育てに追われる日々でしたが、一番下のお子さんが幼稚園の時に、ヤクルトやんない?と誘われてヤクルトレディを1年くらい経験しました。その後、近所の大学内での事務の仕事に誘われて11年間勤めました。

 そんな薫さんに転機が訪れたのは2010年のことです。家に配られて来たフリーペーパーに立山町の養蜂家佐伯元さんのことが載っていました。何か心がワクワクして、佐伯さんに一度見学に行かせて欲しいと頼むと「6月9日に来て」と言われました。きっと見学希望者が何人もいて、まとめての見学になるんだろうなと思って行くと、見学者は薫さん一人だけ。佐伯さんは6月9日のロックの日にはちみつを採りたかったらしく、その写真を撮ってくれる人がいなかったので、それを薫さんに頼みたくて6月9日を指定して来られたのでした。
見学をした薫さんの指に、佐伯さんは雄蜂を一匹のせてくれました。それを見て、可愛いなと思った薫さん。佐伯さんは「養蜂をやりたかったら、やってみたらいいよ」と言ってくれました。佐伯さんのやっているみつばちに優しい養蜂がとても気に入った薫さんはその年から本格的に養蜂の勉強を始めたのです。
翌年の2011年に東日本大震災が起きて、お金をもらうことに価値観を置くのは違うという思いが決定的になりました。生産性のあるものを持っていたい、そういう生き方をしたい、それは自分にとってみつばちだ、そう思いました。
そうして、家の庭でみつばちを一群飼い始めました。最初は可愛いから飼ってる、はちみつが採れなくてもいいやと思っていましたが、案外たくさん採れました。そして道具代くらいは儲けようと思ってはちみつを売ったら売れたのです。薫さん自身知らなかったのですが、呉羽でみつばちを育てる養蜂家はかつては何人もいらしたのです。でも、それを受け継ぐ人がいなかった。薫さんはますます、この地で養蜂することの意義を感じるようになりました。そしてみつばちの巣箱を増やし、庭ではなくて、呉羽丘陵の畑の中で養蜂を続けています。
アカシア、ハゼノキ、カラスザンショウ、ウラミズザクラ、クズ、そして他にも多くの花々。みつばちはせっせとその花蜜と花粉を巣箱に持って来てくれます。そんな薫さんのはちみつは何も加えず、熱もかけない本物のはちみつです。ですから、その時々で味が違い、その時集めた花の香りがするはちみつです。みつばちの命はたった3ヶ月。その短い命を、楽しそうに、そして精一杯生きているみつばちが愛おしくてたまらない薫さんなのでした。
 3年前、自宅を改装して「はちみつや」をオープン。珪藻土の壁は自分で塗りました。庭にはたくさんの花々も咲いています。庭にある花々で花束を作ったり、ミツロウキャンドルやミツロウラップを作るワークショップも開催しています。
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たくさんの植物が迎えてくれる「はちみつや」さんの入り口
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季節季節の花の香りのする生はちみつが並びます。
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ミツロウラップやミツロウキャンドル
ワークショップで作ることもできます♪

薫さんは生活の場の中で仕事をするのがいいと考えています。仕事の場と生活の場が離れているのは、不自然だと思うのです。ですから、家の近くの呉羽丘陵にみつばちの巣箱を置き、自宅の敷地内にあるはちみつやではちみつを売ったり、ワークショップをしたり、花を育てたりできる今の暮らしは、本当に肩の凝らない、自然体で暮らせる暮らし方なのです。
みつばちの世話もみつばちが増えるのを見ることも、庭づくりも、友だちがはちみつを買いに来てくれる時間も、愛犬と過ごす時間も、全部が楽しい時間です。
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落ち着くお部屋

そして今、息子さんも養蜂家になって、一緒にみつばちを育てています。受け継ぐ人のいなかった呉羽の養蜂を薫さんが受け継ぎ、そのバトンを息子さんが繋いでくれた。なんて素敵なリレーでしょう。
薫さんの名刺には表面に「いえがあり かぞくがいて 庭がある」と書かれています。そして裏面はLand of milk and honeyという聖書の言葉から始まります。直訳するとミルクとはちみつの土地になりますが、豊かな大地という意味があります。
「大切な人と、作りだす喜びを分かち合う 生活の場を持つこと。そんな豊かさの中で、ミツバチと共にある暮らしを。
何も足さない 加熱もしない 粗しぼりそのままの 生はちみつの生産・販売」それが薫さんの名刺の裏面の言葉です。
これからも生活の場の中で仕事をして、いろいろな人と作りだす喜びを分かち合っていきたい。そしてずっとみつばちと仕事をしていきたい。薫さんはそう思っています。
皆さんも一度、はちみつやさんに足を運んでみてください。そして花の香りいっぱいの生はちみつの美味しさを味わってみてください。そして薫さんの話を聞いてみてください。
きっとはちみつの価値観、変わります。
今日の人194.古川陽一さん [2020年08月02日(Sun)]
今日の人は、Webサイト・システム開発を手掛けるマルチメディア工房陽https://creators-navi.jp/archives/1711代表の古川陽一さんです。
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 古川さんは1962年、魚津市で生まれ育ちました。小さい頃は恥ずかしがり屋で保育園で劇をする時も、やりたい役になかなか手が挙げられず、最後に残ったアヒルの役を女の子に混じってやっていた思い出があります。
 ご両親とも音楽の先生で仕事が忙しかったこともあり、小学校4年生までは知り合いのお宅に預けられていました。そこのおばさんがとても優しい人で、古川さんはその近所の女の子と一緒に遊んでいました。おままごともやらされていたそうです。
 高学年になってからは缶蹴りや野球など、積極的に外遊びもするようになりました。その頃はやっていたケーキ屋ケンちゃんの影響もあって、将来はケーキ屋さんになりたいと考えていた古川さん。家にお菓子作りのレシピ本もあって、レシピ本を見ながらよくケーキを作っていました。ある時、プリンを作って蒸した時に、冷ますのが待てなくて、外の雪の上に置いておいたら、野良犬に食べられてしまったことがありました。せっかく美味しそうなプリンだったのにショックでした。そういう記憶ってずっと残るものですよね。

 中学校では、軟式テニス部に入りました。自分ではおとなしい性格が変わったとは思っていなかったのですが、勉強も得意で文武両道だったからか、キャプテンをやらされました。文化委員会の委員長もやっていました。部活も学校も忙しかったのですが、海釣りに一人で行く時もありました。さほど釣れた訳ではありませんが、一人で釣り糸を垂らしている時間はなにかホッとできる時間でした。

 高校は地元の進学校、魚津高校へ。高校2年生の時、他校からお父さんが赴任してきました。古川さんの芸術の選択科目は音楽だったので、2年間、お父さんから音楽を習うことになってしまいます。頑張っても普通点しかつけられなかったので、なんだか腑に落ちなかったのですが、今となってはいい思い出です。高校でも軟式テニス部のキャプテンだった古川さん。部活と勉強で忙しく遊びに行った記憶はほとんどない高校時代でした。
 
 そうして金沢大学工学部電気工学科入学します。大学でも体育会の軟式テニス部に入ったのですが、体育会なだけあって上下関係も練習も大変厳しかったのです。そして、先輩に教えられた麻雀やパチンコにもハマってしまい、わずかな単位が取れずに2年生の途中で留年が決まってしまいました。そこで、古川さんは軟式テニス部を辞めました。留年と言っても取れていない単位はわずかだったので、その1年間はバイトに精を出しました。縄文式土器を発掘したり復元したりするバイトです。貯めたバイト代で自転車で四国一周もしました。金沢から名古屋へ出て、そこから大阪、そして神戸からフェリーで四国へ。23日間の旅の間、ほとんどはユースホステルに泊まりましたが、野宿をした日もありました。旅の中では思い出に残る出来事もいくつかありました。四日市では膝が痛くなってしまい、コンビニで休んでいると、女性に「膝が痛そうですね」と声をかけられ、手を当てられました。すると、本当に痛みが引いたのでとても不思議に思いました。愛媛の食堂では帰り際に食堂の女将さんに「お金はいらないから」と言われ、常連さんらしきお客さんに冷やかされたりしました。
愛媛県の一番西の佐田岬半島の突端まで行った時は雨も降っていたのですが、着いた時にさーっと晴れ間が出て、海を挟んだ大分県の佐賀関半島も見えてとても感動したのを覚えています。

 専門課程に入ってからは、勉強に専念します。自分が長男だということも考え、富山に戻って就職することにした古川さん。県内の大手企業から複数内定をもらいましたが、その中から就職先に選んだのはYKKでした。新入社員だけで100人以上もいた時代です。そして、職場の隣にいたのが奥様でした。就職して2年目に初めて話した二人。最初はグループ交際をしていましたが、やがて付き合うようになり、古川さんが26歳の時に結婚しました。

 この頃、古川さんはコンピューターの設計部門にいて、工場で使う制御パソコンを作っていました。とにかく厳しい部署で、朝の8時半から夜の7時半まで集中して仕事をして毎日ヘトヘトになるという生活が続いていました。
 古川さんは走るのが好きで、駅伝に出たり、ハーフマラソンに出たりもしていたのですが、練習が終わって何か膝が痛いと感じるようになったのは30歳を過ぎた頃でした。湿布をしても痛い日が続き、そのうち足首まで痛くなってきました。医者をいくつか転々としましたが、原因がわかりませんでした。関節リウマチに近い症状だけれど、リウマチ因子は見つからず、それでもどんどん腫れてきて歩くのも大変になってきました。

 そうして34歳の時に、1年仕事を休んで治療に専念することにしたのです。金沢の病院にも通いました。それでも症状は一向に改善せず、これ以上会社で仕事を続けるのは無理だと判断した1年後、会社を辞めたのです。

 この時には古川さんには二人のお子さんがいました。二人のためにも仕事はやらなければなりません。しかし1998年、36歳の年、腰まで痛くなってきて、とうとう寝たきりの状態になりました。ちょうどその頃、インターネットが世の中に普及し始めていました。富山県でもホームページを作りませんか、という仕事があって応募します。県の仕事を請け負っていたのがCAPで、CAPから仕事が来るようになりました。某ホームページの動画編集の仕事の依頼もあり、毎日2〜3時間、動画編集をするようになりました。全く仕事がない中での仕事は本当にありがたかった。それからは徐々にホームページ制作の依頼が来始め、仕事が広がっていきました。

 2002年日本と韓国が舞台のW杯が開催されます。その時、中田英寿の姿から勇気をもらった古川さん。自分もずっと寝たきりじゃダメだ!と強く思いました。そして看護師の友人に相談し、手術をする決意をします。それは腰と膝に人工関節を入れるというものでした。こうして2002年の夏に腰、冬に膝に人工関節を入れる手術をし、見事成功。運転までできるようになったのです。
それまで寝たきりだったことを思うと、何をしても楽しい、第2の人生が始まったと思えるのでした。徐々に仕事も増えていきました。

 次の転機になったのは、8年前にWordBench Toyamaの勉強会のコミュニティに参加したことです。最初は高岡の伏木で開催していましたが、その後富山でやるようになり、富山開催から古川さんが代表をすることになりました。Toyama WordPress Meetup https://www.meetup.com/ja-JP/Toyama-WordPress-Meetup/という名前に変わりましたが、活動は今も続けています。そしてこの中で人脈がとても広がり、それが仕事にもつながっています。
SOHOの集まりも富山で立ち上げていて、その時は会員が100人くらいいました。そこで知り合ったのが以前このブログでもご紹介した齋藤秀峰さんです。齋藤さんに誘われて2012年の富山ドリプラの支援会でプレゼンターの動画作りを手伝った古川さん。それがご縁で私もお会いすることになりました。
  
 古川さんは、50代後半になって、自分の知識をもっと後進に伝えていきたいと思うようになりました。自分のように体の都合が悪い人がよりしっかり仕事できるように伝えたいとも思っています。古川さんの仕事は言ってみればずっと前からリモートワークでした。それが今急速に広がって、古川さんたちスペシャリストの知識を必要としている人はたくさんいます。だからこそ、人と人をつなげる仕事も自分の役割だと思っているし、そうやって社会貢献できることがとても楽しいのです。いろんな人に助けてもらって今の自分があるから、これからはお返ししていく時だと思っています。寝たきりになっていた4年間も心のどこかではなんとかなるだろうと思っていて、実際にその時に回ってきた仕事もあった。それは古川さんが腐らずに、できることに最善を尽くしてきたからに違いありません。

 そんな古川さんは好きなこともたくさんあります。カメラもライフワークの一つで14、5年前に一眼レフに出会ってからはいろいろなメーカーを使い、今はキャノンのカメラを愛用しています。その腕は古川さんの作るホームページにも生かされています。こちらは3年前に撮った蜃気楼の写真。なんとこの写真、フジテレビのあまたつのお天気コーナーに使わせて欲しいと連絡があったのだとか!
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映画やテレビドラマを見るのも好きです。以前は週1で映画館に行っていたくらいでした。そしてもちろんスポーツ観戦も大好きです。野球、サッカー、バレーボール観戦はテレビだけでなく、スタジアムに足を運ぶことも多かったのです。今年はコロナで小休止ですが、また生で観戦できる日を楽しみにしている古川さんなのでした。そしてご自身で体を動かされることも好きです。25mプールで息継ぎせずに泳げるので、パラリンピックに出られるかなと思ったのですが、調べてみたら、パラリンピックに出る基準タイムには遠く及びませんでした。そんなわけでオリパラは応援することに専念しようと思っています。
 
 スポーツマンで健康でマラソンまで走っていた方が、全然歩けなくなって寝たきりにまでなったら、人生を絶望して悩んでどん底にまでいってしまいそうですが、古川さんはそうならなかった。いつもケセラセラ、なるようになると人生を歩んできました。そこに古川さんの強さを見た気がした今回のインタビューでした。
今日の人193.岡村祥子さん [2020年07月26日(Sun)]
今日の人は、姿勢と歩き方crescendo、NPO法人元気やネット代表の岡村祥子さんです。岡村さんは姿勢と歩き方のスペシャリストとして、ミスユニバース富山大会の講師をされたり、更年期に悩む女性のレッスンをされたり、オンライン講座でも教えられたりと幅広くご活躍です。
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 岡村さん、通称さっちさんは1956年、青森県弘前市で生まれました。おうちは桜で有名な弘前城のすぐそばで、桜並木の下をくぐって学校に通っていたものです。
 カトリック系の幼稚園に行っていましたが、その頃は病弱で月の半分以上は登園できずに休んでいました。今、月に60本ものレッスンをこなす姿からはとても想像できませんね。その時、さっちさんの家はお手伝いさんもいて、幼稚園には外車で送り迎えという花輪くんちのようなおうちだったようです。親に遊んでもらった記憶はほとんどなく、遊び相手はもっぱらお手伝いの姉やさんでした。親からは暗くて笑わない子だと言われていました。事実、小学校の低学年くらいまでは友達と遊ばず、一人遊びが多かったのです。ピアノは小さい頃から習っていて、家に置いてある少年少女名作全集を読むのも好きでした。
 外で友達と遊ぶようになったのは小学校4年生くらいからです。遠くのプールまで友達と泳ぎに行くようになり、その頃から風邪を引く回数もめっきり減りました。

 中学校ではバレー部に入ります。身長も高かったさっちさん。でも、小さい時に外で遊んでいなかったので、体の使い方が身についておらず、自分の体をうまく使えないことに劣等感を感じていました。中学生なのに、腰や肩も痛かった。でもこの「体をうまく使えない」という劣等感が今の仕事につながっているのです。
動物が大好きで、将来は獣医さんになりたいと思っていたのはこの頃です。

 高校に入ってもやはりバレー部で活躍しました。さっちさんは学年に1クラスしかない理数科だったので、3年間ずっと同じクラスでした。クラスの仲間たちと、クラス新聞を作ったり、運動会や文化祭で既存のルールに囚われない独自のプログラムをやったり、その中心にいたのはいつもさっちさんでした。何かやってやろうという反骨精神はこの頃から養われていったようです。今は颯爽としたショートヘアがお似合いですが、この頃はサラサラロングヘアでした。しかも、その当時流行っていた「愛と誠」のような姫カットで、実はその時さっちさんに憧れていた男子生徒はたくさんいたのです。でも、さっちさんが好きなリーダータイプの男子には「お前、男だったらよかったのにな」と言われていたそうです。

 進学先を決めるにあたって、獣医学部も調べていたのですが、その頃、さっちさんの家の商売は破綻してしまい、住む家も失ってしまいます。さっちさんは進学するとしたら、お金のかからない地元の国立大学しか残されておらず、弘前大学教育学部に進学しました。学費も生活費も全て奨学金とアルバイトでまかないました。昔はお手伝いさんのいる家のお嬢様だったけれど、逆境にも負けない強さがさっちさんにはありました。肉はいちばん安いマトンや鯨の肉を買い、お風呂も銭湯、という学生時代でしたが、それでも、辛いとか惨めだと思ったことはなく、一人暮らしになった気楽さもあって、学生生活を謳歌していたのです。

 さっちさんは教育学部の体育専攻だったので、遠泳やスキー実習の特別授業もありました。それがとても楽しかった。スキーは−八甲田山をクロスカントリーで歩いたりもしましたが、そのあと、みんなで温泉に入ったらそれが混浴で、湯煙の中で同級生の男子に鉢合わせというパプニングもあったりしました。そして大学時代ももちろんバレー部だったのでした。

 さっちさんが大学生の時、ちょうど青森国体があって、体育教員が増員されていました。増員後だったので、青森で教員試験を受けても体育教師になれる見込みは少なく、さっちさんは北海道で体育教師として働き始めました。
 赴任先は函館の聾学校でした。そこで体育と音楽を担当しました。函館はとても綺麗な街でした。音楽を聴くのも好きだったさっちさんは、よくジャズ喫茶へ行っていました。そこで知り合ったのがご主人です。ご主人もジャズが好きでよく通っていたのでした。そこで意気投合した二人は付き合い始めます。ご主人はその時、富山での就職が決まっていました。青森で生まれ、北海道で仕事をしていたさっちさんはもちろん富山に来たことはありませんでした。ご主人に金沢の近くの街で買い物もしょっちゅう金沢に行けると聞かされて富山に来たさっちさん。でも、実際は金沢まで出て買い物するなんてそうそうできなかったのです。

 その後、さっちさんは5人のお子さんに恵まれます。上は女の子が3人、下は男の子が2人。しかもおじいちゃんおばあちゃんに面倒を見てもらえるわけではなかったので、子育ての負担はずっしりさっちさんにのしかかりました。それが大変だと感じる余裕もなく、時間は過ぎていきました。
 次女が1歳の時から、さっちさんはエアロビの教室をやり始めました。自分の子どものこともあって、託児つきで始めたのです。今から32年前のことでした。当時は今と違って託児付きの教室は皆無に等しい状況でしたので、体を動かしたいお母さんたちには願ったり叶ったりの教室でした。こうして、徐々にレッスン数は増えていき内容もエアロビ、気功、ピラティス、歩き方、体幹トレーニングと徐々にメニューも増えていきました。今は一人ひとりに合わせてレッスンを組み立てるパーソナルトレーニングに力を入れています。

 もちろん、ずっと順風満帆だったわけではありません。5人の子育て中、悩んで落ち込んだことは数知れずありました。だからこそ、悩んでいる人に寄り添えるそんな教室にしたい、体を整えることで心も整っていくことを体験的に知っているさっちさんだからこそできるそんなレッスンをしていきたい。介護で疲れている人や介護を受けている人にも体と心を元気にしてほしい。そんな思いもあって、平成16年にNPO法人元気やネットを立ち上げます。

 さっちさんが手掛けていることはたくさんありますが、やっていることは一つ。「体の軸を整えていくと、心にも軸ができていく」いろいろ形を変えながら体と心の軸づくりをしているのです。そしてそのキャッチフレーズは「カッコよく歩いてカッコよく生きよう」
さっちさんご自身のカッコよさがよく現れているフレーズです。実際、さっちさんは私より一回り年上にはどうしたって見えません。64歳であんなにカッコよくいられるなら、年を重ねるのも素敵だなと素直に思えます。
 
 でも、そのバイタリティはどこから来るのでしょう。実はさっちさん、ずっと自己肯定感が低い子でした。中・高・大とずっとバレー部だったけど、下手だという思いからはついに離れられなかったし、人に甘えられず頼れず、私なんかダメだ!という思いがついつい出てきていました。それが変わってきたのは、つい最近なのです。心の面で大きかったのは、2年前に神田昌典さんの実践会に入ったこと。経営コンサルタントや作家として著名な神田昌典さんですが、さっちさんにも気さくに声をかけてくれ、毎週月曜日のオンライン朝活でいつも大きな気づきをもらっています。この出会いで、心のブレがうんと少なくなったのです。
そして、体の面から目から鱗の考え方を教えてくれたのは石井完厚さんでした。石井完厚さんは骨格にアプローチして、骨格が変わると体のラインがびっくりするほど変わるということを伝えてくださっているのですが、これがすごい。ずっと体を意識してきたさっちさんですが、このやり方には本当にやられました。そして実際に骨格にアプローチする方法で、さっちさんのレッスンでもみるみる体が変わって行く生徒さんが増えているのです。
ですから、今楽しいことは大好きな先生方からインプットしたことを大好きな生徒さんたちにアウトプットできること。それが楽しくてたまりません。また、伝えたいことを文章にするのも好きです。いちばん苦手なのはお金の計算。経営者としてそれが苦手なのはよくないんでしょうけど、私もそれがいちばん苦手なので、その気持ち、よくわかりますw

 プライベートで楽しいことは演劇鑑賞や音楽鑑賞、そして5人のお子さんや3人のお孫さんたちに会うこと。地元に残っているのは次男さんだけで、小学校の時からの「大工さんになりたい」という夢を地元の建築会社で実らせ、高校の同級生だった奥様と一歳になるお嬢さんとでよく遊びに来てくれます。長女さんは東京でバックなどのデザイナーを経て上司と結婚され二児のママとなり、逗子のご自宅でウェブデザイナーとして再出発されています。次女さんは劇団四季の舞台で主役も務めるミュージカル女優さん。私も次女さんが主役の「夢から醒めた夢」をオーバードホールで拝見したことがありますが、伸びやかな歌声と確かな演技力に大感動で涙が止まりませんでした。三女さんは富山で幼稚園教諭をされていたのですが、心機一転!東京で営業の仕事にとびこみ、同じく上司と結婚され、都心でがんばっています。そして、長男さんは陸上自衛隊の看護合同実習でひとめぼれされ栄養士さんと結婚(ホントに絵に描いたような美男美女のカップルです♡)水陸機動団で活躍されていて、レンジャー訓練終了後、息子さんがチヌークという大型ヘリで佐世保基地に帰還した時は大感動だったそうです。そうして、さっちさんはその58人乗りの大型ヘリが好きで、58に夢を重ね58人の10倍、いえ100倍の仲間を集めることを夢に掲げています。その仲間たちと一緒に、軸のある体を作り、いろいろな情報に惑わされない心を作り、国を愛し、なんでも話し合えるコミュニティを作っていきたい、そう思っています。きっとそれはそう遠くない未来に実現することでしょう。

そんなさっちさんの熱い想いを心と体で感じられるイベントが8月22日に開催されます。
その名もZenWalk×歩き禅@最勝寺 

詳細
先々の不安や心のザワザワ、様々な変化を受け入れていくために
「歩き」を通して心静かに自分自身と向き合ってみませんか?

猫背やゆるみなど、身体のバランスを整える「ZenWalk」は、
最勝寺さんの歩き禅にヒントを得て生まれたエクササイズです。

その歩きのエクササイズと伝統的な歩き禅の両方を体験できる催し

歩きの理論と実技、歩き禅や坐禅など動と静を体感しながら 心身のケアをするひと時です。

【ZenWalk×歩き禅】

8月22日(土)
13:30  開 場
14:00 ZenWalk 岡村 祥子
「身体が楽になる、呼吸と軸、歩きのエクササイズ」

15:00 禅 谷内 良徹 
「歩き禅・坐禅(イス可)・禅トーク」

16:00 トークセッション
質疑応答

17:00前 終了

会 場 最勝寺 www.saishozen.com
   富山市蜷川377
   駐車場は寺の裏手にございます

会 費 2000円(当日支払い*要予約)

さっちさんのZenWalkと曹洞宗最勝寺の禅僧 谷内良徹さんの歩き禅で体と心の軸をすっきりと整える最高の時間になること間違いなしです。
詳しくはこちら
https://www.facebook.com/events/972042683233386/

他にもさっちさんのパーソナルレッスンやクラスレッスンを受けてみたい、何歳からでも美ボディを目指したい、そして体もそして心も元気でいたい!そう思っている方は、ぜひこちらのホームページを訪ねてみてくださいね。
https://crescendo6.com/

人はいくつになっても夢を持てる、そしていくつになっても輝き続けることができる、それを目の前で見せてくれる素敵な人生の先輩、岡村祥子さんでした。




今日の人192.笹川征一さん [2020年02月02日(Sun)]
 今日の人は、笹川建築、笹川建築設計事務所、オーダー家具sasagaku、空き家アドバイザー、古民家再生等、住みやすい住環境のためにさまざまな取り組んでいらっしゃるsasakawa family代表取締役の笹川征一さんです。笹川さんは他にも一般社団法人富山県中央古民家再生協会代表理事、一般社団法人住教育推進機構 富山県支部長、富山県新民家推進協会 会長、富山県木の住まい支援協会 会長とさまざまにご活躍です。
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 笹川さんは昭和47年に3人兄弟の長男として射水市大江で生まれ育ちました。小さい頃から何か作るのが大好きで、家から材木を取ってきて(お父さんも大工さんでした)、木の上に家を作って遊んだりしていました。小学校高学年になる頃には、自転車を改造して、ハーレーダビッドソンに見せかけた自転車を作ったりもしました。グリップをつけてエンジン音もなるようにするなかなか凝ったものでした。モトクロスも好きで、自分でジャンプ台を作ったり、プラモデルを作って、それに爆竹を入れて壊して、どこが壊れたのか調べるなんてこともやっていました。とにかくそういう研究や発明は大好きでした。
 ところが、机の上の勉強は大嫌い。読書はおろか漫画もほぼ読みませんでした。
体を動かすのは大好きだったので、少年相撲やサッカーでも活躍しました。サッカーは小6の時に全国大会に行ったくらいです。そんな笹川さん、小5の時から彼女がいました。もっとも、手紙を交換するくらいだったので、それを彼女と言っていいのかどうかはなんとも言えないのですが、その手紙の交換は中学校まで続いたのでした。

 小杉中学校に入った笹川さんは柔道部に入ります。小杉中学の柔道部と言えば、強豪で全国でも有名です。なぜ、わざわざそんなきつい部に入ったかというと、最初卓球部に仮入部した時に、ひたすら走らされるのがイヤで、なんとなく柔道部に行ったら、入部届に名前を書かされてしまったからでした。柔道部の練習はとにかくスパルタで、とても人間と思われていないような厳しさでした。でも、その後の大工の厳しい修行時代を乗り越えられたのは、この3年間で、忍耐と根性を叩きこまれたからだと思っています。
 そんな柔道部で3年間を過ごしたのだから、きっと推薦で高校に、と思うとさにあらず。三者面談の時に、先生から「この子に県立を受けさせたら他の子に迷惑がかかる」と言われ、私立高校だけ受けることになりました。

 高校では、リーゼントをして、赤いカーディガンに白い靴が定番の格好、相当なやんちゃぶりだったようです。この頃、親にはホントに迷惑かけたなぁと感じます。体育指導部に呼び出されたことも数知れずでしたが、なんとか退学にならずには済みました。やんちゃの数々をしていた笹川さんでしたが、夏休みにはお父さんに現場に連れていかれて、大工の仕事の手伝いはちゃんとやっていたのでした。
 
 進路を決める時になり、先生に俺でも入れるところはないかと聞いて、北陸工業専門学校に入って建築を学びました。学んだというのは語弊があるかもしれません。学校に行って、名前だけ書いて、後はパチンコ屋に行くような毎日でした。車を改造してぺしゃんこにして、2年間遊びまくりました。ナンパの成功率もとっても高かったそうです(笑)
その頃の友だちとは今もいい仲間です。

 ただ、専門学校卒業後の修業先はお父さんにもう決められていました。お父さんの跡を継いで大工になるという気持ちは決まっていましたから、そこはすんなりと受け入れました。
修業先の親方は昔気質の無口な人で、仕事は見て覚えろというタイプでした。だから具体的なことは何も教えてくれませんでしたが、笹川さんは目で見て体で覚えていきました。

 ある時、お客さんにほめられたことで、大工っていい仕事だなと心から感じ、大工の道に入っていく覚悟が出来ました。刃物を研ぐにしても、ただ研ぐんじゃなくて、気持ちで研ぐ。
真冬も真水でしか研ぐことはできないので、だんだん手の感覚がなくなってきます。でも、柔道部の時に雪のグラウンドを裸足で走った根性も役に立ちました。そうやって鑿と向き合っていると、ある時、ふっと鑿と一体化できる時が来るのです。その感覚をつかめた修行時代でした。

 こうして5年2ヶ月を親方の元で過ごし、その後は、お父さんの元で大工を始めました。
1999年には結婚、3人の子宝にも恵まれました。小さい頃からの発明好きも功を奏して、大工道具の特許もいくつか取得し、大工が天職だと感じる笹川さんなのでした。
 
 でも、大工は大手の工務店の下請けになると、お客さんと直接対話することは少なくなってしまいます。自分から動かないと9割以上は工務店の下請けになってしまう。下請けはダメだ、元請けでしっかりお客さんと話さなきゃだめだ。そうしないと、昔からある古民家や伝統工法がどんどん消えていってしまう。大工としての誇りを守っていかなくてはいけない。職人としての道を作ってあげる誰かがいなければならない。その誰かに自分がなろう。そう思った笹川さんは、8年前に笹川建築を株式会社にしました。そのことにお父さんは何も言わずに自由にさせてくれました。

 大工さんになりたいという子はたくさんいるけれど、実際に大工になる子はとても少ない。それは、大工になる道が少ないから。だったら、ちゃんとその道を作ってあげないと、笹川さんにはそんな熱い想いがあります。今は何でもチャンレンジすることがとても楽しい、と笹川さん。
笹川建築だけがよければいいんじゃなくて、日本全体の建築業界がよくないとこの業界は生き残っていけない。そんな風に大きな視点で建築業界のことを考えている笹川さんなのでした。
かつてのやんちゃ坊主はすっかりステキな社長さんになって、今日も若い社員たちと熱く語り合っています。これから、笹川さんとその仲間たちが、建築業界に起こしていくであろうイノベーションを楽しみにしています。
今日の人191.伊藤大樹さん [2020年01月22日(Wed)]
 今日の人は、認定NPO法人3keys Mex(ミークスは、家族や友達・からだ・勉強など人には言えない「困ったかも」を手助けする10代のためのWebサイト)担当の伊藤大樹さんです。伊藤さんは現役の大学生でもあります。
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 伊藤さんは1997年福井県敦賀市で生まれました。幼い頃に石川に引っ越し、6歳で愛知に。低学年の時は授業中に歩き回っているタイプでした。3〜4年になると、落ち着きましたが、体を動かすのは大好きで、休み時間になると友だちとドッジボールをしたり、グラウンドを走り回ったりしていました。放課後は缶蹴りをしたり、ボールを壁に当てて遊んだり、駄菓子のキャベツ太郎が好きで、自転車で遠くの駄菓子屋まで買いに行っていたものでした。
 4年生の秋に再び石川に引っ越します。偶然2〜3歳の頃の保育園の友だちと一緒になり、引っ越し後もすぐに打ち解けることが出来たのでした。この頃、少年野球チームにも入り、野球も大好きでした。
そして自身が4年生の時の卒業生を送る会で自分で卒業生に送るムービーを作ったことがきっかけで、コンピューターって楽しい!と思うようになりました。お母さんからも「大樹はITの社長になれるわ!」とほめられ、自分でもITの会社を立ち上げたいとその気になりました。
 中学生の時、塾の友だちとカラオケ行ったりコンビニでずっと立ち話をして遅くなると、付き合う友だちのことで注意されたりするようになりました。友だちのことでとやかく言われたくなかったのと、はやく自立して一人暮らしをしたいという思いとで、高校選びは寮のある所を優先に考えました。そこで目をつけたのが富山高専の国際ビジネスコースでした。わざわざ石川から富山高専に行く生徒はいなかったので、周囲もびっくりしていましたが、決めたら頑固なのが伊藤さん。ただ学校説明会に行ったら来ていたのがほぼ女子でびっくりしました。そして実際に入学した時も40人中男子は5人しかいなかったのです。しばらくは学校でおとなしくしていたのですが、先生にビジネスコンテストに出てみないかと言われたのがきっかけで、ビジネスコンテストに応募したところ、なんと最優秀賞を受賞します。一度学外に出ると、学校の中だけにいるのがつまらなくなり、どんどん外で活動するようになりました。いろいろなイベントでボランティアスタッフとして参加するうちに、富山県内各地につながりが生まれました。射水市では竹炭パウダーの入ったピザ作りをしたり、氷見のTEDxに関わったり、中央通りの牛島屋の着付け室に寝泊まりさせてもらいながら富山高専の学生主体のセレクトショップを開いたりもしました。
 いろいろやっているうちに、県外から来た人に地元感を感じてもらって、一緒に食卓を囲める場所を作りたい、商店街にゲストハウスを作りたい、と思いました。思い立ったら実行せずにはおれないのが伊藤さん。こうして富山市内の桃井町にまちなかハウス「マチトボクラ」を作ったのです。富山高専を卒業前の19歳の時のことでした。この頃シアトルにある米国NPO法人iLEAP(アイリープ)とマイクロソフト社による、社会企業家に興味を持つ学生や社会人を対象とした短期留学プログラムをシアトルのマイクロソフト本社で受講して、ソーシャルイノベーションのなんたるかを学びました。
 民泊をやっていると、ゲストは地元の人と話したいといい、日本人の学生はここに住みたいと言い出しました。そうしてマチトボクラはゲストハウスであると同時に学生向けのシェアハウスになりました。伊藤さんは合同会社を設立し、会社経営にも乗り出します。
 高専卒業後は中央大学経済学部経済学科の3年生に編入。月曜から木曜までは東京で授業を受け、木曜の夜に夜行バスで富山に来て、日曜の夜にまた東京へ戻るという生活を1年続けて、1年間で必要な単位を取ってしまいました。今、大学4年生ではありますが、単位は全部取ってしまったので、大学には行かずに学外で動いている毎日です。それなら、東京ではなくて富山で中心に動いているのかといえばさにあらず。最初にご紹介したように、伊藤さんは今、子どもの支援をしている3keysのスタッフでもあるので、拠点の半分は東京なのです。認定NPO法人3keysは、生まれ育った環境によって子どもの権利が保障されない子どもたちをゼロにするという理念で活動しています。事業には学習支援事業、子どもの権利保障推進事業、啓発活動事業の3本の柱があって、伊藤さんが担当しているMexは子どもの権利保障推進事業を担っています。詳しくはこちら⇒https://3keys.jp/service/mex/
伊藤さんが3keysで活動したいと思ったのは、これまで高専の学生や大学生と活動してきて、その年代だともう人として形成されてきているので、もっと大人になる課程の子どもたちから関わってみたいと思ったからです。そういうわけで昨年の4月にマチトボクラの運営は後輩に譲り、今は3keysにフルタイムで関わり、富山には時々帰ってきて、合同会社での仕事に関わるというペースで仕事をやっています。
 伊藤さんは子どもの頃、泡を吹いて倒れたことが何度もありました。早く死んでしまうかもしれない、それなら早めに何かをしたいという思いが常にありました。家族は仲良しではあったけれど、転勤族で家族しかコミュニティがないと、親とケンカしてしまうと自分の居場所がなくなってしまいます。家の近くで近所の人と話ができないというのはなんとも寂しいものです。
高専で活動を始めた時は、新しいことは外にある、と思って動き始めました。人のために何かしたい、という強い思いがありました。商店街の人とつながった時は、家族以外の人と繋がれる幸せを感じ、この幸せを大学生で富山に来た人に体験してほしい、何か仕組みとして残せないかなぁとマチトボクラを作りました。その輪は少しずつ広がっていると自負しています。
でも今、小さい子どもでSOSを出したいけれど、それを自覚していない子どもたちのために動きたいという気持ちがとても強くあります。行政側からではなく、街から子どもへの支援ができたら。商店街の人とのつながりの心地よさを自分が感じたように、子ども達にも家族以外の人とのつながりで幸せを感じてもらいたい。学童よりもしばりのない居場所を作りたい。伊藤さんは今、子ども達のおかれている状況を調べながら、どうやったら自分がワクワクして取り組んでいけるか、を考えています。
現役大学生にして既にいろいろなことを手掛けてきた伊藤さん。この先この22歳の青年が富山で東京で、どんな人とどんな取り組みをしていくのか、私も楽しみにしています。


…ちなみに
富山ではじめるSDGs Book、ダイバーシティとやまとマチトボクラが並んでいるのに、ようやく気づいた私ですw
興味ある人、こちらも手にしてみてくださいねウインク
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今日の人186.米田昌功さん [2019年06月11日(Tue)]
 今日の人はご自身が画家でもあり、「アートNPO障害者アート支援工房ココペリ(COCOPELLI)」代表の米田昌功さんです。NPOの委託事業として富山障害者芸術活動普及支援センターばーと◎とやまBe=ART◎Toyamaとしての活動もされていて、障害のあるなしに関係なく、誰もが芸術文化、表現活動に自然に取り組むことができる環境作りを目指していらっしゃいます。
アートNPO障害者アート支援工房「ココペリ(COCOPELLI)」
https://npococopelli.jimdo.com/
富山障害者芸術活動普及支援センターばーと◎とやまBe=ART◎Toyama
https://bearttoyam.jimdofree.com/
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 米田さんは1965年富山市稲荷元町で生まれました。家は自動車修理工場で、工場には小さい子がワクワクする消防車やパトカーなども修理に入っていました。そんな工場が子どもの頃の米田さんの遊び場でした。米田さんは子どもの頃から絵を描いたりものを作ったりするのが大好きでした。工場には廃品や針金など、素材がいっぱい転がっていて、それらを組み合わせていつも何か作っていました。
 そしていつも絵を描いていたので、そんなに好きなら習わせたらいいんじゃないかと近所の絵画教室に絵を習いに行くようになりました。けれど、米田さんは何か言われて自分の絵を直すのがすごくイヤでした。そうして、定期展覧会に絵を出しなさいと言われた時にどうしても絵を飾る気になれず出品を拒みました。自宅で描いたり作ったりしている方が集中できたし、気まずさも手伝って、すぐに足が向かなくなりました。でもやっぱり絵を描くのは大好きで、自分で好きなように描いていたのでした。

 当時の自動車修理工場は、廃車になった車を置いておく場所が必要で、そこは米田さんにとって絶好の秘密基地の場所になりました。当時の子どもたちは秘密基地を作って遊ぶのが大好きで、米田さんもいろいろな所に秘密基地を作っていました。廃屋だと思って、友だちと一緒に一日かけてレイアウトしていたら、実は廃屋ではなくて、こっぴどく叱られたこともあります。

 小学校に卓球クラブが出来て、通ったこともありましたが、落ち着きがなくて他の子どもの練習の邪魔になると言われやめさせられてしまいます。自分の都合にしろそうじゃないにしろ、習い事は続かなかった子ども時代でした。
でも、絵を描くことは絶対に辞めなかった米田さん。その頃からずっと大人になっても絵に関わっていたいという気持ちがありました。自分の作った作品にはとても愛着があったので、もし、その作品が誰かに壊されたりしようものならさあ大変。相手が不良だろうとなんだろうと臆せずかかっていきました。当時米田さんが通っていた中学校は窓ガラスがいつも割られているような学校で不良から呼び出されたことも何度もありましたが、不思議と殴られたことはありませんでした。米田さん自身も不良だからといった理由で人を遠ざけることはありませんでした。当時から人をものさしのようなものではかることが嫌いだったのです。そのせいか、米田さんの周りには優等生から不良までいろいろな人がいたのでした。

 神話や伝説も好きで、小学校の図書室では、ギリシャ神話や古事記をいつも胸を躍らせながら読んでいました。 また、家の近くに大映の大看板があって、新しい映画が始まるたびに書き換えられるのです。線路の向こうにその怪獣映画の大看板があって、それを見たいがために線路をわたって電車をとめてしまったこともありました。そのためか、小学生高学年の時は友だちと映画ばかり見ていて、朝から晩まで映画館にいました。当時は入れ替え制ではなかったので、一度映画館に入るとずっといられたのです。ちょうどスピルバーグやルーカスの映画も出だしたころで、映画の作り方にもすごく興味がありました。お小遣いは全部映画に使っていたので、親に「そんなに映画ばかり見ているならもうお小遣いをやらん」と言われたくらいです。映画の看板を見るのも大好きでした。
劇場と言われる映画館がなくなるのに伴って、映画の大看板もなくなってしまいましたが、米田さんは今も映画は大好きです。家に映画のDVDも何百本も持っているのでした。
 
 中学校の担任の先生は不良にも一目置かれている先生で担当教科は美術でした。その先生に出会えたことも米田さんには大きかった。その先生は米田さんの才能を見出して「米田は美大に行けばいい」と言ってくれていました。もっとも、美大に行けばいい、のあとには「美大に行けば、毎日ただで女の裸が見られるぞ」というセリフも続いたのですが。

 中学生になり、やはり米田さんは家で絵を描いたり工作をしたりしていましたが、部活動はテニス部でした。テニスが得意だったお兄さんの影響もありました。高校でもそのままテニス部に入りましたが、バンドも組んでライブハウスを借りてコンサートもやっていました。米田さんたちのバンドはイーグルスやビリージョエル、サザンの曲をコピーすることが多かったそうです。米田さんはボーカル担当で、コンサートの時は企画もやり、ポスターも描いたりしました。そういう裏方的な作業も好きだったのです。漠然と美大に行って将来は美術の仕事をしたいと思っていたこともあり、美術教師の助言で2年の途中から美術部に入部しましたが、テニス部もバンドも忙しかったし、県外の画塾にも通い始めたので、籍だけ置いて、家で絵を描き展覧会に出品していました。米田さんはその頃から絵は一人で描くものと言う強い気持ちがあり、自由に描くのにわざわざ決められた場所に集まって作品を作るということに当時は必然性を感じなかったのです。なので、平日はテニス部、技術力アップの画塾は土日を使って取り組んでいました。高校の卒業式に美術部の後輩から「はじめまして、米田先輩」と花束をもらったエピソードが象徴的です。
実は、高校の後輩にあの日本が誇る映画監督の細田守さんがいました。細田さんは当時から高校生らしからぬすごい絵を描いていたそうです。

 

 金沢美大の日本画専攻に進んだ米田さんでしたが、卒業後の作家としての生き方を意識した時に様々な葛藤が生じ、卒業間近には下宿で描くことも多かったそうです。それは美大の現実、アートの可能性と限界、表現者が抱く希望と呪いによる仕方のない選択でした。決して決められた場所で製作するのが嫌だったわけではなかったのですが、アートに関しては正直でありたいと思ってしまった以上息苦しく感じる場所では描けなかったのです。

 子どもの頃から神話好きだったこともあって、大学時代も今も、美術館だけでなく神社やお寺巡りをよくしています。当時はアルバイトでお金を貯めては東京で展覧会を見たり、九州へ原始時代や古墳時代の壁画を見に行ったり、北海道にアイヌ文化を調べに行ったりしていました。小さい神社から大きな神社までとにかく訪れた地域の神社はほぼ見て歩いていました。米田さんの日本の神話や神社に関する知識はとても深くて、まるで文化人類学者のように話題が溢れてくるのです。ほんとびっくりぽんです。
 大学時代は葛藤もありましたが、現在に至る要因となる出来事がいくつかありました。
 ある時、肢体不自由の奥さんと視覚障害のご主人のご夫妻から知り合いのために日本画で絵を描いてほしいと頼まれたのです。それは金沢に住んでいた病院の先生の実家を描いてほしいというものでした。その先生はある事情があって、金沢を出なくてはいけなくなった先生で、浅野川沿いのその家は昭和30年の板で囲ったぼろぼろの家でした。壊される前にお世話になった先生のご自宅の絵をぜひ描いてほしいと美大生の米田さんは頼まれたのです。絵が完成してそれを渡した時、そのお医者さんの姪御さんが「ああ、住んでいた頃のにおいがする」とおっしゃったそうです。そのひと言がすごく嬉しくて、その人の人生の転機に、その人の人生のその後を支える絵が描けることが大きな喜びだと実感したのです。そうして、ずっと美術にかかわることをしていこうと米田さんは心に決めたのでした。

 大学3年生の時には、食品会社から生命に関わる絵を描いてほしいと依頼が来ました。米田さんはケルト神話の世界樹をヒントに木〜宇宙〜光をテーマにして作品を完成させました。締め切りを過ぎてからその作品を持って行ったのですが、社長は大層気に入ってくれて、今もその作品はその会社に飾ってあります。その時の社長は、今、知的障害の人を雇ってそば屋を営んでいるとのことで、そういう意味でもご縁があるなぁと感じるのでした。

 また、東京での画廊巡りの途中で不思議な出会いをした名古屋の日本画家さんは身体に生まれながらの障害をもちながらもプロとして活躍をしてきた人でした。麻痺を麻痺ともせず独特の表現をされる方で、その方との出会いも転機になりました。美術はテクニックや知識だけじゃないということを、その方を通じて強烈に感じたのです。その先生宅で行われる講演会などのお手伝いなども行うようになる中で、本人と友人の作家、画廊など、様々な人の生き方に触れ、作家として生きることの意味や難しさなどを教えてもらったそうです。
そんなふうに米田さんが転機に出会う人は、一般的に言う五体満足じゃない人が多いのでした。

 大学を卒業したら、名古屋か東京に行って、先生について絵を描くべきという思いをもっていたので、就職はせずアルバイトや美大の非常勤助手の仕事などで生活をして制作に打ち込んでいました。知り合いになった美術関係者に身の振り方を相談すると、ある人には「実家に戻って、父母が生活のために働く姿を見ながら絵を描くことができるか?絵を描いて生きることを、あなた自身はどう捉えているのか?父母の隣で描いてこそ本物でしょ?」と問われ、ある人には「米田くんの作品は上を目指すものではなく、自分のルーツにつながるものを掘り下げてこそ価値のある物になる絵だと思う。地元の歴史や伝説などを肌で学ぶ場所にいるべき。絵を描くために中央に行くことに大きな意味はない。と言われました。しかし地方で無所属の日本画家が活動するなどあまり例のない時代でした。
 そんな時に、当時は全く考えてなかった教員の仕事につながる出来事がありました。金沢に住んでいた米田さんに富山県教育委員会から、講師をしないかという話が来ます。病気の先生の代わりに10月から12月の3か月だけ、非常勤講師として高校で働きました。しかし、美術部の子たちに、「私たちの中・高で学んできた美術の概念を壊されました。どうしたらいいんですか?」と言われて、やっぱり自分は教員には向いていない、と思いましたが、次に働き始めた養護学校で、生徒の個性的な表現や教師の独創性が試される美術指導のあり方を経験し、 この仕事なら自分の美術活動を続けることと矛盾しないと感じたのです。こうして、教員試験を受け養護学校、後には特別支援学校の教員をしながら、自身の制作活動をやっていくという意識にシフトしたのでした。
 
 支援学校では一人一人の特性に合わせて教材を作っていました。米田さんは25年間、教員生活を送りましたが、最初の11年は肢体不自由の人たちの美術に関わりました。彼らの作品は米田さんの感覚を解きほぐしていってくれました。
次の14年は美術的に独創性の高い世界をもつ知的障害、自閉症の方の美術に関わりました。
ここでは県内の支援学校で初めて美術部を作り、あえて校外でグループ展を開き、出品対象が障害者ではない公募展に意識して応募すると言った活動を始めました。
 その間、自分の作品も作り続けていました。といってもなかなかハードな毎日ではありました。公募展での大賞受賞やより多くの出会いにより、学生時代に影響を受けた美術集団のグループ展に毎年出品するようになりました。個展なども県内外で活発に行う中、美術館での企画展にも呼ばれるようになりました。毎日夜10時、11時までは教員としての持ち帰りの仕事をやり、就寝した後、1時とか3時とかに起きて、朝の5時までは自分の作品制作の時間でした。朝の5時から少し寝て、また朝から教員の仕事に出かける、そんな生活をずっと続けました。身体のメンテナンスは寝ること、時間がもったいなくて、シャワーだけで過ごさなければならない時期もありました。
 その一方で、立山曼荼羅の研究もやっていました。前述のように文化人類学者と言ってもいいほど博学な米田さんは、立山信仰に関しては、「立山縁起絵巻」も出版されているほどです。没頭すると、とことん突き詰めていくタイプなのです。そういうこともあって、在外研修制度を利用して、ネパールに1年間留学して曼荼羅・伝統美術を学びに行ったこともあります。ネパールのパタンという仏教徒が多く住む古都で、一番古い歴史をもつネワール民族の先生から学びました。通訳に入ってくれる人を探すのも大変で、異文化の中で暮らす苦労をたくさん味わった1年間でした。そんな中ネパールでアートによるNGO活動を通して心を豊かにするという活動をしている日本人に出会います。外国でアート支援をやっている人がいる、環境が整った日本でできないはずがない、そう思った米田さんは帰国後、特別支援学校の卒業生のための絵画グループを作ったのです。2006年のことでした。集まった彼らの作品は完全に福祉の枠など超えている。自称作家と言っている人たちの作品より、よほど素晴らしい。こんな世界があることをもっと多くの人に知ってもらわなければ。いいものを描いている人が、まっとうな評価をされるようにならなければならない、とあらためて思ったのです。それは地域文化のバロメーターでもあるのです。富山を文化という尺度で見たときに、障害を持った人を外した尺度であったとしたら、それは本当の豊かさではない。多様性、豊かさが如実に現れるのが文化の世界に他ならないのです。

 でも、そうやって展覧会などの活動を展開していくと予想以上に日本のあちこちにそんなグループがたくさんあることがわかってました。そんな中でも滋賀県の取り組みは特にすごかった。当時の滋賀県の福祉関係者との付き合いも始まり、アール・ブリュットに関する会議への出席や、フォーラムでの登壇、作品調査委員などを担当することになり、年に何度かは滋賀県に行き本場の空気に触れながら、障害者の創作活動支援について学んでいきました。偶然ですが、米田さんが所属する美術集団の創設メンバーの中に滋賀でのアート支援に大きく関わり福祉の世界を変えてきた人がいたのにも縁を感じたのです。様々な支援の現場に触れる中で、障害者施設「やまなみ工房」は今までの障害者施設の常識を覆す取り組みをしていて、米田さんは大きな刺激を受けました。やまなみ工房についてはこちら⇒http://a-yamanami.jp/
 

 米田さんはネパールで大変有名な占い師に、あなたは47歳で劇的に人生が変わると言われたそうですが、美術を中心とした生活に移行することは、その何年も前から考えていたことでした。様々な条件や環境が眼に見える形で整い始めたことで決断。50歳の時に教員を辞めて、障害者芸術活動支援センターの設立準備と、従来のアートNPO運営、作家活動に集中していくことにしました。2017年のことです。
 既に障害者アートの支援活動は10年を超え、アールブリュットに関する県外からの依頼も増え、連携することも多くなっていました。

平成30年夏には国と県の支援によって富山県障害者芸術活動支援センターばーと◎とやまが設立しました。「ばーと」はBe=ARTです。Beは存在や生。ARTは表現。存在や生そのものがアートであり、障害のあるなしに関わらず誰もがアートにかかわる、そんな思いが込められています。
アールブリュットというのは、フランス語のART BRUTから来ています。
BRUTというのはワインの樽の栓を抜いて一滴目。つまり生まれたままの飾りがない状態を言います。自分の心の声に従った飾りのない作品がアールブリュット。技術や知識を意識せずに、ありのままに勝手に手が動くといった感じで描かれる作品は今までの美術史の体系に入っていません。今までのアートの領域にはないそんな作品の数々が、アートが本来もっている表現の多様性や人間の可能性を再認識させてくれると、今、大注目を集めているのです。
障害者の方々が、見られること飾られることを意識せずに、ただ無心に作っているものが、視点を変えることで強烈なアートになります。例えば、床に落ちている髪の毛を拾い集めて、それを星座の形にしている人がいます。私たちの持つ概念をぶっ壊して新しいものが生み出されている、今、障害者アートはアート改革の中心にあると言ってもいいのでしょう。
そしてその新たな発見を生み出すアートは、コミュニティ全体の価値観を変化させる力を持っています。まさに福祉の現場がドラスチックに動いている、そんな時代にあるのです。

 米田さんご自身が作家として描きたいものは、その時その時に目の前に現れたものであり、この世界の在り様を記憶にとどめたいと思っているのです。そのテーマには、やはりご自身がずっと取り組んでいる、神話や、立山曼荼羅が多く出てきます。
 立山曼荼羅の世界は、実はダイバーシティそのものなのだと米田さんが教えてくださいました。立山曼荼羅は地獄も極楽も、過去、未来、現実、架空の世界、それら全てが同じステージで描かれており、多層的で境界の見えない世界感をもっているのだと。どこを切り取ってもそこだけで作品になってしなうほど画面の中に濃厚な情報が入っていて、鬼や建物は、別の世界や情報をのぞき込む窓のような役割をもっているのです。言ってみれば、曼荼羅全体がウィンドウで、描かれた事物はアイコン。パソコン画面のような構造です。この考え方はネパールの曼荼羅とは全く違うのです。日本人の多様性が立山曼荼羅には入っているのです。どこが上か下かではない。地獄と極楽が同じ場所にあっても違和感を感じない、多様な世界を重層的に感得することができる、それが日本の多様性のすばらしさなのではないかと米田さんは思ったいます。そして、立山の奥深い文化は縄文までさかのぼることができるそうです。なんだかとてもワクワクするお話ですよね。

 米田さんご自身の個展も折々に開催されているそうですし、今年は富山県水墨画美術館20周年の展覧会にも米田さんの作品が並びます。またアートNPO工房ココペリでは6月15日から7月2日まで、射水市大島絵本館において、射水市在住のアール・ブリュット作家 末永征士さんの個展を開催します。
 皆さん、米田さんご自身の、また数々のアール・ブリュットアート作家のアートの世界にぜひ触れてみてください。私も楽しみにしています。
今日の人184.与島秀則さん [2019年01月27日(Sun)]
 今日の人は、富山市に3箇所、高岡市2箇所、射水市1箇所、滑川市1箇所の合計7箇所で障害者(児)のデイサービスを行っている「つくしグループ」を率いる株式会社つくし工房代表取締役与島秀則さんです。
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デンマークにて

 与島さんは1956年10月に奄美大島で生まれました。小さい時はとてもシャイな子でした。お父さんはアル中気味で、酔った時はお母さんに暴力を振るうようなこともあったので、お母さんはお兄さんだけ連れて逃げたりもしていました。なぜお兄さんだけなのかというと、お兄さんは前の旦那さんとの間に生まれた子だったので、残しておくのが不安だったのでしょう。与島さんはお父さんの実子だったので、お母さんは残しても問題ないとの判断だったと思うのですが、それが子ども心に傷をつけることにもなったのでした。

 お父さんはお菓子職人で、お母さんは食堂を経営していました。奄美大島は沖縄より一足早く本土復帰していましたが、それはつまり沖縄に行くにはいちいちパスポートが必要になるということでもありました。お父さんは沖縄から小麦粉を仕入れていましたが、通常のルートで手に入れるのは厳しく、闇のものを仕入れていましたが、それが見つかって追徴課税されてしまい、破産してしまいます。お母さんの食堂も差し押さえられました。

 その後、お父さんは学校給食のパンを焼く仕事に就いたり、精肉店で働いたりしていました。しかし、戦時中にかかったマラリアがぶり返すなどし、あまり働けないことも多かったのです。

 実は与島さんが4歳の時に、弟さんが生まれているのですが、その子は障害を持って生まれてきて、しゃべることも遊ぶことも出来ず、3歳になる前に亡くなりました。この弟さんの存在が、後に与島さんを福祉の世界に入らせるきっかけになりました。

 与島さんは小さい時から、物作りがとても好きでした。竹藪がたくさんありましたから、竹を取ってきて、肥後守というナイフでいろいろなおもちゃを自分で作っていました。お父さんもお菓子職人の時に、落雁の木型を自分で作っていた方でした。そんな手先の器用さはお父さんに似たのかもしれませんね。絵を描くのも好きで、よく乗り物の絵を描いていました。もっとも、奄美大島には電車がないので、自動車か船の絵でした。船長さんの姿がとてもかっこよく見えて将来は船乗りになりたいなぁと漠然と思っていました。でも、お母さんが占い師から息子さんには水難の相と女難の相が出ていると言われて、水辺には近づかないように言われていたのでした。

 奄美大島では、おやつはサトウキビ、スモモ、バンジロウというトロピカルフルーツ。富山に住んでいると、なんて羨ましいと感じるおやつですね。

島では、男の人の仕事が少なく、さとうきび畑で働けない冬場になると、特にそうなります。それは与島さんのお父さんも例外ではありませんでした。その頃、大阪万博開催に向けて大阪に出稼ぎに行く人が多くいました。お父さんも大阪に働きに出ることにし、一家で大阪へ行くことになりました。しかし、その時、お兄さんは鹿児島国体の水泳の強化選手に選ばれていました。それを与島さんが説得する形で一家で大阪へ引っ越したのです。ところが、引っ越し先の中学には、水泳部がなく、お兄さんの水泳の道はそこで潰えることになってしまいます。とても申し訳ないことをしたとずっとその時のことが引っかかっていた与島さんでしたが、後にお兄さんは、気にしていないよと言ってくれて、胸のつかえが取れたのでした。

与島さんは大阪の中学校で柔道部に入り、そこでキャプテンも務めます。優勝も飾り活躍しました。新聞配達のバイトもしていました。お兄さんはお父さんへの反発もあって、中学卒業後に東京に出ます。東宝ニューフェースに受かって俳優を目指しましたが、しばらくして定時制の高校に入学しました。そこで熱血のすばらしい先生に出会ってから、しっかり勉強し、卒業してからは杉並区役所で公務員になり、今は区のオリンピック委員の常務をされているのでした。子どもの頃はケンカもよくしましたが、今は本当に仲良しです。

 公立工業高校の機械工学科に進んだ与島さん。でも、金属でモノを作るより、木でものを作るのがずっと好きでした。高校でも柔道部でしたが、優勝には届かず、いつも3位でした。それでも大阪150校の中での3位だなんて大したものです。ちなみにあの野茂英雄は高校の後輩なのですが、与島さんの柔道部の熱血先生が後に野球部の顧問になり、野茂を指導されて野茂は高校の時にノーヒットノーランを達成しているそうです。

 ちなみに与島さんはその先生に「ボクサーにでもなるんじゃないか」と言われましたが、お母さんに「ボクサーと相撲取りにだけはならないで」と言われていたので、そちらに進むことはありませんでした。

 高校卒業後に進んだのは海上自衛隊でした。船乗りになりたいという小さい頃の思いが心にずっとあったのかもしれません。舞鶴の教育隊に4か月半いて、8月に呉に配属になりました。先輩に誘われて自転車で走ることも始めました。当時で7万もした自転車を大枚をはたいて買い、週末になると先輩と2人で自転車であちこちの島めぐりをしました。
 そんな時に、広島の原爆ドームと原爆資料館に行って大きな衝撃を受けた与島さん。自分はこのままではいけない、そう思って1年で海上自衛隊を辞めます。けれど、明確に何かしようと決めていたわけではありませんでした。
 自衛隊を辞めた与島さんが、荷物だけ大阪の実家に送り、身一つで自転車旅行に出かけました。そんな時に岡山で備前焼に出会い、ものづくりが好きだった子どもの頃の思いがむくむくとよみがえってきました。自分は伝統産業をまなびたい、そんな思いで大阪の実家に戻ってからは奈良や京都に彫刻を見に行き、彫刻教室にも通いましたが、何か物足りません。奈良の一刀彫の所に弟子入り出来ないかと尋ねましたが、一子相伝で教えられないと言われました。でも、そこで、富山の井波では彫刻で弟子を取っているから行ってみたらどうか、と薦められます。井波は欄間などの井波彫刻で全国的に有名な場所です。そうして、与島さんは、自転車で一路富山に来ました。大阪から自転車で来たのに、なぜか富山市まで行ってしまった与島さん。そこからまた更に自転車を走らせて井波に着いた時は、もうすっかり日が暮れていました。駅前の電話ボックスで電話をかけると、石岡旅館という旅館が一軒だけ泊まれるということでした。遅い時間だから素泊まりしか無理だと言われましたが、行くとおにぎりを作ってくれていて、とってもあったかい気持ちになったのを覚えています。
 事情を話すと、明日瑞泉寺(北陸最大の大伽藍で随所の見事な彫刻が施されている寺院。井波彫刻が発展した中心の寺でもあります)までの道中を上がっていって、その間にどこも見つからなかったら、紹介するからまたこっちに来て、と言われました。

 次の日、瑞泉寺への街道を歩くとすぐにある工房で足が止まりました。そこに飾られていた宮崎辰児さんの彫刻がとてもよかったのです。工房を見学させてもらって、表に戻ると、「彫刻生募集」と貼ってありました。それで、「弟子入りさせてもらえませんか?」とお願いすると、突然笑いだされました。なんと、その日だけで3人も弟子入り希望がいて、与島さんはその3人目だったのです。宮崎さんの所には既に4人のお弟子さんがおられました。宮崎さんはいいと言われたのですが、奥さんに7人もどうやってまかないできるの?と怒られていたそうです。その時、与島さんはまだ19歳だったので、親に確認を取りたいと言われ、それで2日後にお父さんに来てもらったのでした。親方からOKをもらい、晴れて弟子入りすることになりました。年季は5年。井波には職業訓練学校もあって、週に1,2回はそちらにも行きました。そこは3年で卒業になり、その後の2年は修士課程のような感じでたまに学校に行くという感じでした。同級生は20人いましたが、いろいろな年代の人がいて、とても楽しかったのです。お給料は鑿代に消えましたが、職人の世界は道具・弁当・ケガは自分持ちなのでした。お金はあまりありませんでしたが、みんなで一升瓶を囲んでワイワイガヤガヤと芸術論を戦わせる時間がとても好きでした。こうして年季の5年が明けて、与島さんは福光の家具工房で働くようになりました。

 家具工房でしばらく働いた後は、福野の酪農家で働きながら、彫刻に打ち込んでいました。朝4時〜8時までと夕方4時から7時までは搾乳をして、それ以外の時間に彫刻に打ち込んでいたのです。
 そんな時、高岡で銅器のデザインをしている友だちから障害者の椅子作りを薦められました。「デザインの現場」という雑誌に、東京の「でく工房」の障害者の椅子づくりの特集記事があり、「これ、与島くん、いいんじゃない?」と薦められたのです。そこには「いすに座れない子のいすを作る」と書かれていました。障害を持って生まれ、椅子に座ることなく亡くなった弟の姿が浮かびました。吸い寄せられるように、東京のでく工房まで行き、木工でこんな風に作れるのか、と目からウロコの気分になりました。ちょうど、でく工房の荒井さんが金沢美大の先生になっていて、教えにきてくれると言ってくれ、与島さんは、「よし自分で障害者の座れる椅子を作る工房を立ち上げよう!」と決意したのです。そして、高岡でつくし工房を立ち上げました。27歳の時でした。最初は欄間も作りながら福祉用具の椅子を作っていました。障害の子を持つ親とも知り合い、こまどり学園や高志学園などの施設も回ると、一人一人に合ったオーダーメードの椅子の需要が高いことがわかりました。けれど、障害者手帳の枠で木の椅子を作ることに、高岡市の職員はけんもほろろな対応でした。木で作った椅子を車椅子と同じような扱いにはできないというのです。しかし、県職員の高倉さんという方が一緒に真剣に考えてくれて、高岡市にも掛け合ってくれました。車椅子が金属とは限らない。木でもいいと県から言ってもらったことで、市もようやくOKを出してくれたのです。この後、椅子だけではなく、食堂のテーブルとイスをセットで使いやすいものを作ってくれと注文が入りました。テレビ局からも取材が入り、全国放送のズームイン朝でも取り上げられました。こうして少しずつ、木製の福祉用具が広がっていきました。

 実はこの頃つくし工房に、富山医科薬科大学を卒業してすぐの若い女医さんが訪ねてこられたのですが、これが運命の出会いになりました。しばらくしてからおつき合いが始まり、与島さんが28歳の終わりに、二人は結婚。奥様が富山市の協立病院に勤められたこともあって、30歳の時に、つくし工房を富山市に移し、生産を本格化しました。

 18年前には介護保険制度が始まり、福祉用具をレンタルしたりすることも始めましたが、それは高齢者向けになってしまうので、何か後ろめたい気持ちがありました。そんな時に、福祉生協の立ち上げに参加。県内で最初の障害者のデイサービスで責任者になるなどしました。

 50歳になった時、障害児用のデイサービスとしてウエルカムハウスつくしを立ち上げました。重度障害の子を中心に考えていたのですが、富大附属やしらとりの子ですぐに埋まってしまい、そこは知的障害や自閉症の子が中心になりました。そこで、身体的に重度の子のデイサービスとしてつくしの家を立ち上げます。2つにチャンネルを分けて取り組み、今は与島さんのつくしの家グループは県内7か所にまで増えました。
50歳で立ち上げたときに、最低10年はがんばろうとどっぷりハマって突っ走ってきたのです。

 しかし、60歳を過ぎた頃に帯状疱疹になり、なんだか燃え尽き症候群のような症状も出始めました。そろそろリタイヤかなと思っていた時に出会ったのがデンマークのスタディツアーでした。実は私が与島さんと出会ったのもそのスタディツアーがきっかけです。
 デンマークで実際にスヌーズレンハウスを見学し、与島さんは、富山にもスヌーズレンハウスを作ろうと思っていらっしゃいます。スヌーズレンハウスというのは、心も体も解放できる場所で、スヌーズレン(Snoezelen)とは,オランダ語で「鼻でクンクンにおいをかぐ」という意味のスヌッフレン(Snuffelen)と「ウトウト居眠りをする」という 意味のドースレン(Doezelen)からなる二つの単語 から構成される造語に由来しています。障害のある人にとってのスヌーズレンについては,視覚,聴覚, 触覚,嗅覚等の感覚を活用し,心地よい環境の中で 自由に探索活動を行える環境作りを進めることが基本的な理念です。
 そこでは、疲れた親御さんたちもゆっくり休んでほしい、それが与島さんの思いです。
スヌーズレンハウスができたら、私も癒されに通っちゃうかもしれません。
 
 与島さんは、建築関係や病院関係の仲間と一緒に「障壁を考える会」を作って、そのメンバーと月に1回集まって、福祉用具のことをいろいろ話しています。最初は40代だったメンバーが60代、70代になり、ずっと一緒にいろいろな研究をしているので、もう会わないとなんだかその月は落ち着かないそんな感じになっています。コミュニケーションを取るために障壁をどうやって取り除くのか、それぞれの得意を持ち寄って仲間と議論を繰り広げる時間はなくてはならない時間です。与島さんは、常に勉強していたいと思っていて、社会人になってから大学生にもなり、福祉系のさまざまな資格も取りました。年を重ねているからといって、知った顔をするのはおかしいし、若い人から学ぶことはとても大事だと思っています。その謙虚に学ばれる姿勢は本当に素晴らしいですね。

 楽しい時間は本を読んだり、最近始めたギターの練習をする時間です。社長室にもギターが置いてありました。家で晩酌するのもホッとできる時間です。与島さんにはお嬢様がいらっしゃるのですが、娘さんは与島さんのDNAが強いのか、二科展の彫刻で特選を取るなど、彫刻家としてすばらしい実績を上げています。今は一緒に暮らしていますが、この春親元を離れてしまうので、ちょっと寂しげなお父様の顔を見せられました。

 福祉の世界は、善意だけでは続かない、と与島さん。福祉業界に勤める人は優しい人が多い。でも、その人たちの善意に頼っていてはいけない。経営者として、ちゃんと働く人の収入や地位を安定させること、与島さんはそれをとても大切にしています。だから、つくしの家グループでは日曜日は必ず休みにしています。

 今までは、いろいろな人に助けられて歩いてきた。だからこれからは、自分がサポートする側になって若い人たちを支えていきたい、そう笑顔でおっしゃいました。富山の福祉の現場は富山型デイのパワフルで素敵な女性陣で注目されることが多いのですが、こんなにも愛がいっぱい溢れるオヤジギャグのお好きなおじさまもいらっしゃるのです。与島さんは、ギターで涙そうそうを弾かれるそうなので、私の三線とセッションしていただける日を楽しみにしています。

 
今日の人183.八木信一さん [2019年01月08日(Tue)]
 今日の人は、地域総合小児科認定医、日本小児救急医学会SIメンバー等、多方面でご活躍の医師、八木信一さんです。八木先生は富山県自閉症協会の会長でもいらっしゃるので、世界自閉症啓発デーライトイットアップブルー五箇山菅沼でお世話になっています。
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 八木先生は1958年4月1日に金沢で生まれました。おじいさまもお父様もたくさんのご親戚もお医者様というお医者様一家の長男です。お父様はあの「坂の上の雲」でも有名な秋山真之や広瀬武夫ら当時の超エリートが学んだ海軍兵学校に最後に入学した学年の方なのでした。そのお父様は今も矍鑠とした現役のお医者さまとしてご活躍中です。
 
 八木先生、金沢にいたのは数か月だけで、その後お父様が能登の皆月という無医村に派遣されたのに伴い、そちらに引っ越します。当時は移動手段もなく、ご両親はまだ赤子だった先生を一昼夜おんぶして歩いてようやく皆月に着いたのでした。しかし、そんな皆月にいる時に重症の消化不良になって、一ヶ月近くも意識が戻らず、大変危険な状態になってしまったのです。きっともう助からないだろうと、小さな棺桶まで用意されました。しかし、よほど生命力の強い子だったのでしょう。一ヶ月経った頃に目を開けたのです!こうして死の淵から生還し、その後はこの子は本当に運のある子だと言われて育ったのでした。

 次の年にお父様は今度は札幌の自衛隊病院に。そこにいたのは1年くらいでしたが、八木先生にはその頃の記憶が残っています。当時、よくセスナ機が空からビラを撒いていたのですが、幼い八木先生は病院の屋上でそのビラを拾うのが好きでした。空から紙が降ってきて、それが楽しくてたまらなかったんですね。
その後、お母様が出産でご実家のある東京に。そこに八木先生も一緒についていったのですが、その時乗ったセスナ機が乱高下して大変怖い思いをします。よほど怖い思いをしたせいか今でも八木先生は飛行機が苦手で、移動はもっぱら新幹線なのでした。

そうして3歳違いの妹が生まれた後、八木先生のご一家はおじいさまが産婦人科をしていらっしゃる高岡へ。おじいさまの家の離れで暮らし、八木先生は高岡のカトリック幼稚園に通いました。この頃の八木先生はとにかくじっとしていられない子どもでした。富山弁でいう「しょわしない」子だったのです。古城公園のお堀の白鳥に石を投げては怒られ、家の前に飛び出してミゼット(三輪自動車)にはねられ、幼稚園ではお祈りのミサの時に鼻クソをほじっていてシスターに怒られ、おじいさまの病院の診察室を覗いて看護婦さんのスカートめくりをしておじいさまにお目玉をくらい、それでも凝りもせずに動き回っている、そんな子でした。途中、東京の幼稚園にも数か月通っていたのですが、最初は富山弁を馬鹿にされるのがイヤであまり話せませんでした。けれど、海の絵を描くお絵かきの時間に、東京の子たちはうまく海を描けなかったのですが、高岡の海をよく見ていた八木先生は海と船を見事に描きました。それでみんなにほめられてすっかり東京の友だちとも仲良くなり、小学校に入ってからも東京に行った時には一緒に遊んでいました。八木先生は今も全国にたくさんのお友達がいらっしゃるんですが、誰とでもすぐに友だちになれる特技はその頃から変わっていらっしゃらないんですね。

高岡の小学校に入る予定だったのですが、富山へ引っ越すことになり、八木先生は星井町小学校に入学します。2年生の2学期からは愛宕小学校に転校しました。その頃お父様はたびたび入院されることがあり、入院しながらも日赤病院で働いていらっしゃいました。そんな時は八木先生はこれまたお医者さまの親戚のおじさんの家に預けられました。この家のいとこも大変優秀で、その家のおばさんが大変な教育ママだったのでテストは100点じゃないと怒られるのです。その頃の八木先生はあまり勉強が得意ではなかったので、100点はたまにしか取れません。それで100点の時だけテストをおばさんに渡し、それ以外のテストはドブに捨てていました。しかし、ドブに捨ててあったテストをご丁寧に拾って届けてくれた友だちがいたからさあ大変。当然のごとく、おばさんから大目玉をくらうことになるのでした。けれど、お母さんから勉強のことで怒られることはあまりありませんでした。情操教育にと絵やピアノも習わされましたが、どれも長続きしませんでした。そんな時、君は声がいいからと合唱団を薦められて入団テストを受け合格しましたが、勉強もせずに合唱もないもんだとお父さんに反対されてあえなく退団。
八木家では子どもの通知表をおじいさんに見せるのが年中行事のようになっていましたが、いとこ達がことごとくオール5なのに対して、八木先生はオール3でした。でもおじいさんは「お前はえらい、オール5よりオール3を取る方が難しい」と言って褒めてくれるのでした。いとこ達も「信ちゃんすごいね」と言ってくれて、それで八木先生は腐ることなくのびのびと子ども時代を過ごせたのかもしれません。八木先生はこのおじいさんのことが大好きでした。

子どもの頃から運動は大好きでした。体育の跳び箱、お昼休みや休み時間はポートボールやゴム飛び、運動会でもいつもアンカーでした。鼓笛隊にも選ばれて学校代表でチンドンコンクールに出たりもしていました。そんな八木先生の小学校時代の夢は宇宙飛行士でした。ちょうど6年生の時にアポロが初めて月面に着陸したのです。それで、卒業式の呼びかけで八木先生は「宇宙飛行士になりたい」と言うことになったのですが、これを先生に何度も何度も練習させられました。あまりに練習したので、その夢は卒業式の呼びかけをもってあきらめました。

八木先生が中学に入学したのは1970年でした。ちょうど大阪万博が開催された年です。
入った部活は柔道部。もっとも、ちゃんとした練習はあまりせず、その頃流行っていた「柔道一直線」の技を真似するなどしていました。そこで空手に興味を持ち始めるようにもなりました。
その頃はあさま山荘事件が起こるなど学生運動真っ最中の、激動の時代でした。でも、実は大学紛争が間接的に八木先生に影響を与えることになったのです。今の若い人は学生運動といっても全くピンとこないと思いますが、過去を振り返る映像で東大の安田講堂に放水されている場面は見たことがあるかもしれません。そんな東大紛争の期間、大学では講義が行われていませんでした。八木先生には東大理Vに行っている従兄がいたのですが、彼はどうせ講義がないしとヨーロッパをバックパッカーで旅していました。しかし、その時ドイツで大事故に遭い、奇跡的に命はとりとめたものの、療養を与儀なくされます。富山で療養していたのですが、どうせベッドの上で動けないから、リハビリがてら信一の勉強を見てやるよと八木先生の家庭教師を買って出てくれたのです。その頃、八木先生は中学2年生でしたが、成績は学年の中の下といった感じでした。しかし、従兄に教えてもらってからはあれよあれよという間に成績があがり、あっという間にトップクラスに躍り出ます。県立高校は行けるところがないかもとまで言われていたのが、富山中部(富山で最難関の進学校)でもどこでも大丈夫です、と言われるまでになったのです。

しかし、八木先生、単なる優等生ではありませんでした、中3の時にこっそりと夜に家を抜け出し(1階から出るとばれるので、2階の窓から飛び降りていました)、友だちと一緒にカミナリ族を見に行こうと夜遊びを始めました。カミナリ族というのは暴走族のことで、実は暴走族の発祥の地は富山なのです。暴走族に入ったわけではありませんが、自転車で友だちと夜中に遊んでいました。それで成績も落ちなかったのだから、大したものです。しかし、これにはさすがにお父さんも怒り、坊主にして来いと言われました。しかし八木先生、その時流行っていた高倉健みたいな髪型にしてきたものだから、さらに怒られ、とうとう丸坊主にさせられてしまったのでした。
そんな感じだったので、おじいさんからの「信一は親元においておかない方がいい」との助言もあり、県外の高校に行くことになったのです。富山でも屈指の進学校富山高校にも合格していましたが辞退することにしました。その時、富山高校にトップクラスで合格していたので、高校から「ぜひうちに入ってほしい」と慰留に来られたほどでした。しかし、八木先生は岡山県倉敷市の川崎医科大学付属高等学校に進学します。この頃には自分は将来医者になろうとの思いを強くしていました。

この高校は全寮制の高校で、入った生徒はほぼ全員医学部を目指します。平日は外出は出来ず、7時の起床後は毎朝寮毎に朝礼もあり、そこで点呼されるのでした。1年生の時はサッカー部に入っていましたが2年生からは中学の時からやっていた空手部に。もっとも、高校には空手部はなかったので、川崎医科大学の空手部に入ってそこで練習していました。また週に一回あったクラブは軽音楽クラブに入って、バンドを組んでいました。キャロルのコピーをして、ボーカルとサイドギターを担当。あちこちで演奏する機会もあり、八木先生はいろいろな所でとってもモテました。けれど、その頃特定の女の子と付き合うことはしませんでした。お父さんから「(何をしてもいいけど)女の子を泣かせるようなことだけはするな」と言われていたのです。
八木先生、けっこうヤンチャでタバコを吸ったりお酒を飲んだりして謹慎処分になったこともありました。そんな時は親が呼び出されるのですが、お父様は「俺たちの旧制中学の時はよかったんだけどな」と言って、決して息子を責めるようなことは言いませんでした。「学校では吸うなよ」とだけ言って、長期休暇で家に帰ると、部屋に灰皿が用意されているような、そんなお家でした。それは麻雀で謹慎になった時も同じでした。お父様は怒るどころか「なんで麻雀がダメなんだ?」とおっしゃったのです。お父様にもきつく叱られていたらきっと反発したくもなったでしょう。しかし、そういうお父様でしたから逆に救われていました。だからこそ「女の子を泣かせるようなことだけはするな」の言葉をしっかり守っていたのだと思います。
その後もバンド活動をしたり、先輩に借りたバイクで走ったり、サッカーの試合をしたり、体育館でひたすら体作りをしたりと充実した高校生活を送りました。寮は縦割りの5人部屋だったのですが、寮の中でも八木先生は年齢を問わずたくさんの仲間ができ、今も仲良く付き合っています。

そして川崎医科大学にストレートに進学した八木先生は、バンド活動も続けていましたし、空手ももちろんやっていました。しかし、2年生になった時、お酒の飲みすぎで膵臓を壊し、夏休みの間、富山で入院します。これがきっかけでお酒を飲まなくなった八木先生はウインドサーフィンに熱中するようになりました。「Hi Wind」というサーフィンの雑誌の創刊号に写真が載ったくらいです。
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八木先生のサーフィン姿

大学3年生の時にはスピード違反でまたまた謹慎処分になった八木先生。この時は夏休みが没収になって、夏休みの2か月間、毎日教授の所に通って英訳をさせられました。そうして毎日教授の前で発表させられたのでした。それまで医学用語の英語に関しては問題なかったのですが、このおかげで、話す方も問題なくなります。もっとも、ずっと自分で全部英訳していたわけではなく、宿題になった分は八木先生のことが好きだった後輩に手伝ってもらったりもしていました。特定の彼女は作らなかった八木先生ですが、女友達は本当にたくさんいて、八木先生のことが好きな子もたくさんいたのです。その子たちをうまく使うのはお得意だったようです。今もダンディな八木先生ですが、その当時のお写真を見ると、絶対モテますよね!って感じです。

川崎医科大学は高校大学を通して、かなりの率で留年する学生がいました。9年間ストレートで卒業していくのは5割くらいでした。これだけ遊んでいて、謹慎もくらった八木先生でしたが、留年はせずストレートで卒業したのです。3年生までは成績もギリギリで留年を免れていたのですが、4年生になった年に妹さんが大学に入学してきます。超優秀で学費免除で入学してきた妹さん。大学の先生たちは「あの子はお前の妹か」ではなく、「お前があの子の兄か?」という言い方をしました。さらには「妹さんは優秀だなぁ」と。
それが癪に触り、そこからはちゃんと勉強し始めた八木先生。勉強したら成績が伸びるのは昔も同じで、4,5,6年の時はトップクラスでした。
 渡辺淳一の作品や白い巨塔が好きだったこともあって、第一志望は外科でした。しかし、小児科の教授の所へも挨拶に行ったときに、教授が「君の妹さんは小児科医になるかね?」と妹のことを聞いてきたのです。その言葉に「僕が小児科医になります」と言ってしまった八木先生。しかし、外科系も1年くらいまわりました。その後、3か所くらいに派遣されて、派遣されるたびにたくさんの女性を泣かせてきた八木先生。ご自身は硬派だとおっしゃいますが、そんなにたくさん女性を泣かせてきたとなると、硬派なのかプレイボーイなのかわかりませんね。(あれあれ、お父様に女の子は泣かせるなって言われていたのに、と言うと、自分が泣かせたわけじゃなくて、向こうが勝手に熱をあげちゃうんだ、とのことでした!)そんな時に、教授から、君はちょっと外の空気を吸ってきなさいと、愛媛県の今治市の病院に派遣されることになります。しかし、行く先々でそんな風にたくさんの女性が泣くことになるので、君は身を固めてから行きなさいということになりました。その頃、八木先生がバイトに行っていた施設に養護学校がありました。その養護学校の校長先生は大学の理事長の知人でもありました。八木先生は大学の理事長にも可愛がられていたのですが、その校長先生の姪御さんがいい子だからと言って紹介されたのが、奥様です。12月に会って、次の3月30日が結婚式に決まりました。そして4月から今治に赴任です。八木先生のお誕生日は4月1日なのですが、29歳の1年間が四国の今治での新婚生活を送りながらの赴任期間になりました。その後、岡山大学の研究施設で脳代謝の研究を1年。母校の教授に大学院に入れと言われ、英語、ドイツ語、一般教養の大学院入試をちゃんとパスして大学院に入ります。4年間、大学院で研究生活を送ったわけですが、その間に長女と次女も生まれました。世の中はちょうどバブルの真っ只中。八木先生も後輩たちと一緒に岡山のディスコに繰り出しては踊っていました。その時、奥様は乳飲み子を抱えていらしたのに、ご主人が夜な夜な踊りに行っていても何も言われなかったなんて、なんて心が広いんでしょう。この頃、夜中の1時くらいに帰っては、長女を起こして長女ともダンスをしていたという八木先生。実はその娘さん、今はお医者様をやりながらベリーダンサーもされているそうです。きっと、その時のダンスの楽しい記憶があってベリーダンスも始められたのではないかとのことでしたが、寝かしつけた子どもを真夜中に起こされる奥様はたまったものじゃなかったんじゃないかなぁと思ってしまうのでした。

 しかし、もちろん遊んでばかりいたわけではありません。博士論文では、ミルクをいかに母乳に近付けるかという研究をしていました。実際に初乳から順を追って母乳の成分を分析していくのです。実は某有名メーカーの粉ミルクはこの時のデータが基になった成分で作られています。私はほぼ母乳で粉ミルクは使いませんでしたが、八木先生が携わられたって知っていたら粉ミルクも、もっと安心して使えていたかもしれませんね。
ただ、博士論文の提出期限の1か月前にぎっくり腰になって動けなくなってしまった八木先生。しかし、この時も仲良くしていた後輩が毎日自宅と研究室を往復して、八木先生のフロッピーディスクを届けてくれたおかげで、ちゃんと論文を出すことができたのでした。いつでも人に恵まれているのは取りも直さず、先生が人を大切にしているからにちがいないのでした。

 お父様が大病をなさっていたこともあって、大学院で一区切りついたら富山に戻る決意をしていた八木先生は平成5年に富山に戻ります。最初は富山大学に籍を置きながら済生会高岡病院に勤めました。半年くらいのつもりで行ったのですが、先生が済生会に行ってからどんどん患者が増えて、結局1年半済生会にいました。その後、大学に戻りましたが、大学でも大変忙しくなり、働きづめに働いていました。昼夜なくそして休日なく働きすぎたせいでしょうか、42歳の厄年の時に、突然何をするのもイヤになって無気力になり、夜は寝られなくなりました。そして、車の事故を起こしてしまいます。このままだとダメだ、そう思った八木先生は、大学病院を辞めて、実家のクリニックで働くことに決めました。平成15年のことでした。

 しかし八木先生が実家の病院に入る頃から、お父様は体力を回復され、そのまま院長はお父様がおやりになって、八木先生は副院長に。それで家の病院でも働きながら、大学病院の勤務医も続けられていて、それは今もずっと変わりません。それ以外にも医師会の理事や他の役職も数えきれず、救急の当直もしょっちゅう引き受けられ、週末ごとに出張で全国を飛び回っていらっしゃいます。そんな風に片時もじっとしているのが苦手な八木先生なのでした。
 そして還暦を迎えた今も、銀座や六本木で遊ぶのも好きですし、隙間時間にスキー場へ行って一滑りしてこられる等、とにかくパワフルです。

 そんな先生とダイバーシティとやま、いったいどこで接点が…?という疑問もごもっとも。実はとても大事なことをまだ書いていません。
 八木先生のご長男は自閉症で生まれ、今はめひの野園のグループホームに入所されています。先生は富山県自閉症協会の会長もされていて、ダイバーシティとやまで毎年開催している4月2日の世界自閉症啓発デーライトイットアップブルーでご縁があったのです。八木先生はちょうどめひの野園に自立支援センターありそが出来た時に東真盛さんと知り合い、自閉症協会の活動にも関わるようになられたのでした。医者としての目線だけでなく、親の目線で共感してもらえるのは、自閉症の子を持つ親御さんにとって、どれほど心強いことでしょう。
 
 本当に数多くの仕事をこなしている八木先生が、もっとも力を注いでいらっしゃるのは障害児医療と子どもの救急です。お忙しい合間を縫って、重い障害を抱えた子の家に往診にもいらしてます。お得意のスキーではスペシャルオリンピックスで障害者スキーのコーチもされているので、趣味と実益を兼ねられてとても楽しいのだと。

 30年来の付き合いのある患者さんもいらして、今も先生先生と慕ってくれるのも嬉しいし、生まれた時から診ている子がいろいろな成長を見せてくれるのも何より嬉しいことです。

 今は人と人をつなぐことが多くなったけれど、それは今までつないでもらったお返しもしたいからです。1人で1000のことは出来ないけれど、100人育てて1人ずつが10のことをすれば、1000になる。そんな風に人を育てていきたい。そうしていつか、聴診器を持ったまま事切れることができたら、それは医者として本望だとおっしゃいました。
その時は、娘さん(娘さんもお2人ともお医者さま)に臨終を伝えてもらって、孫に看取られたい。子どもや孫に自分の志を継いでもらえたらこんなに嬉しいことはない。そして、その志は背中で伝えていきたい。そう八木先生は思っています。

 スキーにサーフィンに空手にロックンロール、そして白衣と聴診器、誰にも負けない障害児医療への情熱、還暦過ぎてもまるで漫画の主人公みたいにスピード感あふれる八木先生。これからも、その誰からも愛されるキャラで、たくさんの悩める親子の道標になってくださいね。
 

 
 


今日の人182.前田大介さん [2018年12月30日(Sun)]
今日の人は、前田薬品工業株式会社代表取締役社長の前田大介さんです。前田薬品工業は創立以降50年、ジェネリック医薬品及びOTC医薬品の研究開発、製造を手掛けてきた会社で、軟膏剤、クリーム剤、ゲル剤、ローション剤、液剤、そして、テープ剤、外用剤における様々な “モノづくり”を得意としています。女性も働きやすい会社で女性管理職の割合が25%、そして外国人の採用にも積極的なダイバーシティ度のとても高い会社です。また前田薬品工業は“第二創業”とも言える数々のチャレンジの種を撒いていて、その一つとして富山県立山町で建設中の美容と健康をテーマにしたリゾート施設「Healthian―wood(ヘルジアン・ウッド)」を2019年5月に開業します。約4万平方メートルの敷地にラベンダーや日本古来の和ハーブなどの日本最大級のハーブ園を整備し、建物の設計は新国立競技場などを手がけた建築家の隈研吾氏が担当。オープンが本当に楽しみです。
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とってもお洒落な社長室で

 前田さんは昭和54年に上市町で生まれました。両親は2人とも塾の先生で塾を経営していました。じいちゃんは富山地方鉄道の運転士で、両親が塾の仕事で忙しかったこともあって、よくじいちゃんばあちゃんと遊んでいました。

 でも、前田さんが幼稚園の頃に、上市から浜黒崎に引っ越し。その頃住んでいたのは、なんと前田薬品の倉庫だったそうです。前田薬品工業の創業者、前田實氏は、前田さんのお母さん側のおばあちゃんのお兄さんにあたる方でした。前田さんは田んぼでサッカーや野球をしたり、雪合戦をしたりと外でのびのび遊ぶ幼少期を過ごしました。

 しかし、そこは塾を経営しているご両親のことです。前田さんはお母さんの経営する英数塾にも通い、小学生の時から新聞のコラムを読まされ、基礎英語も毎日聞かされました。成績は常にトップで、小6の時は児童会長も務めます。当時から世話好きで仕切るのが得意でした。運動も好きで、小1から小4までは水泳教室に通い、サッカーもやっていました。5年生でバスケに出会うと、バスケにのめり込み、本気になりました。スラムダンクは今も愛読書です。小学校は海のすぐ近くにありました。蜃気楼が出たらみんなでベランダに出て見ていられるような、そんなのんびりした学校が前田さんは大好きでした。

 前田さんが10歳の時に、お父さんが前田薬品工業に入社されています。前田薬品工業の経理担当者が退職し、お父さんの几帳面な性格が見込まれて創業者の實氏に経理担当として入社を請われたのでした。

 前田さんは小6の秋に、「附属を受けるから一緒に受けない?」と親友に誘われます。それまでそんなことは考えたこともなかったのですが、親友も受けるからやってみようかと、秋から勉強を始め、見事合格。けれど、その友だちはなんと不合格でした。前田さんが入った年から富山大学付属中学のバスケ部はとても強くなり、前田さんはバスケのために学校に通っていたと言ってもいいほどでした。バスケ部では副キャプテンを務め、点取り屋のシューティングガードでした。試合は全試合ビデオに撮ってもらってそれを分析。バスケ部顧問の社会科の先生が担任でもあり、その先生が大好きだった前田さんは、自分も将来社会の先生になろう!と思っていました。ちなみに歴史上でいちばん好きな人物は黒田官兵衛、そして一番好きな政治家は小泉進次郎さんだそうです。

 3年の6月の引退試合が終わってからも10月まで毎日部活に行くほどで、この時の友だちは今も財産です。運動会や球技大会でも大会委員長として活躍した前田さんは、とってもモテて、卒業式はボタンは全てなくなりました。
 受験勉強は10月にようやく始めましたが、そこからぐんぐん成績が伸びてトップ10に入り、先生からは理数科に行けと言われます。そこで、バスケの強い富山高校を進学先に選びました。

 高校でもバスケ一色でキャプテン。この時の富山高校は本当に強くて、2年連続で北信越に出場します。部員も55人いて、前田さんは選手兼監督のような立場で皆を引っ張っていました。しかし、成績はいつも赤点で、学校の先生からは怒られ、その点では やさぐれていました。3年の時は、下級生にとても優秀な選手が入ってきて、前田さんはキャプテンながらフルで出場せずにベンチをあたためることが増えました。高校の時は6月の引退試合の後は部活をスパッとやめて、現役も通える予備校に通い始めます。そこで、浪人生の彼女と出会い一目ぼれ。2人はつき合うことになり、マックで一緒に勉強したりしていました。

 実は高校3年生の4月、新学期を迎える直前に、前田さんにとって、いや、前田さんの家族にとって大きな出来事がありました。前田さんの家族はそれまで実は前田姓ではなくて、鈴木姓でした。しかし、前田薬品工業創業者の前田實氏に肺がんが見つかります。實氏には子供がおらず、それでお父さんと寛氏が話し合って、一家ごと前田家の養子に入る決断をされたのでした。そうして一家は前田姓に変わったのです。

 勉強モードに切り替わった前田さんは、同志社大学商学部に現役で合格。歴史が好きで、大都市の人混みが苦手だった前田さんにとって京都はいちばん行きかった場所でした。彼女も京都に進学したので、二人で神社仏閣巡りによく出かけていました。しかし、バスケ好きの前田さんの血が騒ぎだし、またバスケにのめり込むようになった頃に2人の関係はフェードアウト。前田さんはバスケサークルのキャプテンとして部員60名を引っ張りました。そして、関西全域の約70チームの中で9連覇を成し遂げたのです。
 就職活動はせずに、WスクールでTACにも通い、税理士の資格を取るための勉強も始めました。
 
 卒業して富山に帰ってからも、さらに税理士試験の勉強を続け、また新たにバスケサークルも作りました。そのバスケサークルで出会ったのが、奥様です。
 勉強しながら、新庄中学校で不登校の子をサポートすることもやりました。その後、税理士試験の一部を取って会計事務所トマック・ジェイタックスで働き始めます。将来、前田薬品の社長になることはわかっていたので、会計事務所で働いた7年間は毎日中小企業の社長や独立開業のドクターに会い、本当にいろいろ勉強させてもらいました。そしてこの7年で圧倒的に数字に強くなり、数字を通してトップと話せるようになりました。これは本当に大きな財産になりました。
 会計事務所にいる間は、仕事の後は毎日バスケかジムに行っていました。そして前田さんんが創設したバスケサークルは4部から2部まで上がりました。

 29歳で結婚。そして前田薬品工業に入社。その時からバスケはピタッと辞めました。会社に入ってまずは現場からスタートしました。現場は思った以上に肉体労働で、1か月で5s痩せました。そこで2年、そしてその後は生産管理の部署を作って2年。その間、30歳で長女が生まれ、33歳で次女が生まれました。
そうして5年目の34歳の時に執行役員になります。
前田さんは会社に入る時にお父さんと約束していました。「自分以降、家族を社長にするのはなしにする、自分の後は能力のある社員を社長に。そうでないと自分は跡は継がない」それをお父さんと約束して会社に入ったのです。

 前田さんが執行役員になってから、前田薬品は日本で一番大きな塗り薬企業との提携に動いていました。立山町に40〜50億円の新工場を作る準備も進めていて、100%の連結子会社にする、2013年の10月1日にM&Aが成立するはずでした。
しかし、その前日の夜7時半にまさしく青天霹靂の大事件が起こります。
5年持つはずの薬、その薬が3年目に既に基準値を下回っていたのです。これは、製薬会社としてあってはならないことでした。2012年の試験で、出荷後のせき止め薬と製造途中の胃腸薬の2品目について、有効成分含有量が規格を下回っていたにもかかわらず、品質担当者が試験結果を書き換えていたのです。それは社長以下ほとんどの役員は全く知りませんでした。品質管理の担当者が納期を優先して独断でやってしまったのです。

 この事件でお父さんは社長を引責辞任し、会社が一番危機的な状況の中で、前田さんは跡を継いだのです。2014年4月1日のことでした。
前田さんは工場と販売部門の品質保証部を統括する信頼性保証本部を新たに設置する等の組織改革に着手します。社員のリストラはしませんでした。
全ての行政処分が出て5月。過去最悪の赤字を抱え、明日はどうなるか本当にわからない状況でした。「会社がつぶれたらその日から地獄が始まるから偽装離婚した方がいい」とまで言われました。あまりの重圧に13sもやせました。辞めていく社員も大勢いました。

しかし、前田さんは屈しませんでした。改革アクションを起こし、毎晩12時1時まで仕事仕事の連続でしたが、残ってくれた社員と家族が支えでした。社長を辞めたお父さんも財務で残ってくれたのもとても大きな支えになりました。

 この頃、あまりに疲れがたまってぶっ倒れた時がありました。げっそり痩せて頭痛もひどく全然眠れなかった時にアロマに出会います。ラベンダーのアロマオイルでアロマテラピーの施術を受けた時に体がとても楽になって久しぶりにゆっくり眠れたのです。この時のアロマとの出会いが、今前田さんが作っているアロマオイルTaromaの出発点になりました。Taromaには前田さんのこだわりがたくさん詰まっています。どれも立山町産のラベンダー、ゆず、ヒノキから抽出した3種類のアロマオイルです。立山町で育ったものを作り、抽出も製造も全て立山町で行っています。私もラベンダー、ゆず、ヒノキの3本セットを買ってみましたが、本当に肌なじみがよく、なんといっても香りがすばらしい!香りは脳にダイレクトに伝わるからこそ、成分は本当に大事だと思うのですが、Taromaなら間違いないと断言できます。そして、今やフランスにもこのアロマオイルを輸出されています。http://www.maeda-ph.co.jp/information/18

 前田さんと社員たちの改革アクションで、赤字だった会社は次年度には黒字になり、今もどんどん業績を伸ばしています。50期(2016年)の売上高が24億を数えて以降、毎年増収を続け、51期は27億、52期は29億を記録。53期は30億円を突破します。そして前田さんは30ものちがうプロジェクトに取り組んでいて、大変やりがいのある忙しい日々を送っています。

 そんな中、来年の5月に開業するのが美容と健康をテーマにしたリゾート施設「Healthian―wood(ヘルジアン・ウッド)」です。富山湾を一望できる田んぼに囲まれたロケーションを選んだのは、都会や海外から来る人に富山の自然や豊かさを感じてもらうため。和ハーブを育て、レストランでは育てたハーブ、そして半径40q圏内で育った地の食材を使った料理を提供しよう、富山が気に入ってくれた人が住めるエリアも作りたい、どんどん住んでもらって限界集落になっていたところを復活させよう。和ハーブのジンの蒸留所も作ろう。そんな風に前田さんの夢はどんどん広がっています。
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 かつてのバスケット少年は今、50年後の富山を見据えて大きな夢を描いています。「妄想したら、もうそうするしかない!」という言葉はまさに前田さんにぴったり!どこまでも、さわやかな笑顔で突っ走っていかれることでしょう。富山にこんな素敵なダイバーシティ企業があることが、とても嬉しくなりました。
今日の人181.品川祐一郎さん [2018年12月20日(Thu)]
 今日の人は、株式会社品川グループ本社代表取締役社長品川祐一郎さんです。品川グループは、富山トヨタ自動車株式会社、富山ダイハツ販売株式会社、ネッツトヨタノヴェルとやま株式会社、株式会社トヨタレンタリース富山、トヨタL&F富山株式会社、品川商事カンパニー、山室重機株式会社を抱える県内自動車関連事業のリーディングカンパニーです。
品川グループのホームページはこちら⇒https://www.shinagawa-group.co.jp/
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 品川さんは1970年8月28日に生まれました。小さい頃は体が弱く、とても引っ込み思案でした。幼稚園の時には中耳炎や肺炎になっていつも休んでいました。特に、遠足や家族旅行などの楽しい行事の時には決まって熱を出してしまうのです。今のほぼ休みなく働く品川さんからはとても想像できない、虚弱体質の幼年期だったのでした。
そういうわけで小学校に入ってからも、なかなか自転車に乗れなかったり、逆上がりが出来なかったりと、運動に関しては自信が持てずにいました。

 そんな少年が小学校中学年の時にバスケットボールに出会い。スポーツの魅力に目覚めます。勉強はずっと得意だった品川さんですが、バスケットボールも得意になったことで、引っ込み思案も影を潜めるようになりました。

 品川さんは物心ついた時からずっと、富山トヨタを継ぐんだ!と心に決めていました。今は盤石に思える富山トヨタですが、品川さんが生まれるしばらく前につぶれかけたこともあったそうです。祖父や父が我が身を顧みずに必死で会社のために奔走する姿を見て、少年は尊敬の念を抱きました。そして、きっと自分もこの会社を継いで、この会社のためにがんばるのだ!少年の心にそんな灯がともったのでした。それが自分の天命だと思ってから、品川さんは積極的な少年に変わったのです。
 
 「トップに立つ!」常にそんな思いでいましたから、富山大学附属中学に入ってからは生徒会長にも立候補し、会長になりました。富山中部高校に入ってからも生徒会長、そしてコーラス部の指揮者でした。中学高校を通して悩みといえば、人間関係のことでした。正論でど真ん中を行ってしまう品川さんは思いや信念が強すぎて頑固なところがありました。運動会も文化祭も根をつめて夜中までとことん話し合いました。それで、うまくいかないと何故協力してくれないのだろうと思ってしまうのでした。自分目線でなかなか相手目線になれなかった。「実は最近までそうだったんです」と穏やかな口調でおっしゃいます。最近ようやく「あなた目線」で考えられるようになったと品川さん。

 大学は東京大学経済学部へ。生徒会や部活がどんなに忙しくても、「富山トヨタを継ぐ」という強い信念が勉学も疎かにはさせなかったのでしょう。でも、もちろん大学の時も部活に打ち込みます。選んだのは弓道部。部員を100人抱える部活でしたが、3,4年の時はレギュラーも勝ち取りました。実は、成人式も寒稽古と重なって帰ってきていません。
また富山トヨタの御曹司だから、さぞかし裕福な学生生活を送っていたのかと思えばさにあらず。お風呂もトイレも共同という学生寮で、4年間を過ごしたのです。でも、学生寮でも部活でも友と語り合い、とても充実した学生生活でした。

 大学卒業後はまず銀行に就職します。かつて会社が資金繰りに苦しんだので同じ過ちを二度と繰り返さないためにというのも頭にありました。外国為替やシステム開発に携わり、成果がなかなか出ずに苦しかったこともあります。でも、苦しいのは楽しいと品川さん。そう言い切れるのが、品川さんの強さなのでしょう。
実は、この銀行時代に出会ったのが奥様です。奥様も総合職で入ってこられたキャリアウーマンでした。
こうして、品川さんは27歳の時に結婚。そして29歳の時、銀行を辞め、富山に帰ったのです。

 富山に帰って、最初は富山トヨタ営業本部からのスタートでした。常に仕事のことばかり考えていました。それは昔も今もずっとそうです。自ら「仕事大好き人間」とおっしゃる品川さん。とことんやってみて、やってみたからこそ気付くことがある。そうしてビジネスを通じて社会に貢献し、それが自己の器を広げてくれるのだ、と。

 社員900人を束ねる社長になった今も、もっともっと自分自身成長していきたいと思っています。これから先、もっといろんなことができるはずだし、たくさんの人を巻き込むこともできる。その人たちは、立場に集まるんじゃなくて、生き方、在り方、考え方に集まるんだという思いがあります。かつては自分を曲げたくなくて人とぶつかる時もあった。しかし、そんな自分自身も含めて受け入れられるようになると心がラクになりました。ちがいはちがいで間違いではない、そう思えるようになりました。

 そんな品川さんがいちばんホッとできるのは、リビングのソファで家族と一緒にいる時間です。選択理論を学んでからは、家族と一切ケンカをしなくなりました。息子さんたちにも伝えるべきことは伝えるけれど、マインドは本人が気づくもの。決して強制はしません。現在高3と小6の2人の息子さんがいて、W受験を控えているのですが、受験が終わったら、海外に家族旅行出来ればいいなと思っています。高3の長男が大学進学で家を出るであろうから、家族で出かけておきたいというのがとてもお忙しい品川さんがいまいちばん叶えたいことです。

 社内では今、人事制度改革に着手していて、来年から始動の予定です。若い社員でも大きな仕事ができるようにしていきたい。多様な働き方を選べるようにして、たくさんの社員の夢を実現させたい。そして、夢だけではなく、志も実現できる会社にしたいのです。仕事を通じて社会の役に立つ、自分自身も富山トヨタグループも、それは常に品川さんの頭の中にあります。
品川グループは創業した1917年から今までずっと、富山にクルマの歴史を築いてきました。そしてこれからも、モビリティサービスを通じてすべての人々の幸せと発展に寄与していきます。詳しくはリニューアルされたばかりのホームぺージをぜひご覧ください。
https://www.shinagawa-group.co.jp/

 品川さんはご自身ももちろんクルマが大好きです。愛車は6速マニュアルの86。誰かが運転するクルマに乗るのは好きではなく、自分でハンドルを握るのがいちばん好きです。そして、いろんなアイディアが浮かんでくるのは、そんな愛車86でドライブをしている時。他にも、寝ている時、トイレにいる時、そんな時に仕事のアイディアがどんどん湧いてくるのです。

 100年前は馬車から自動車へとシフトした大変革の時代でした。そしてそこから100年経った今も、車の大変革期を迎えています。「CASE=ケース」が自動車業界を一変させると言われているのです。CASEとは4つのキーワードの頭文字を取ったもので、コネクティビティ(接続性)の「C」、オートノマス(自動運転)の「A」、シェアード(共有)の「S」、そしてエレクトリック(電動化)の「E」です。5年も経つときっと当たり前のように自動運転の車が走るようになり、10年経つと自動車の世界は一変しているかもしれません。いや、きっとそうなるでしょう。変わっていくもの、変えてはいけないもの、品川さんは今、そんな未来を見据えています。

 1917年の創業の社是「われわれは和をもって、誠実なサービスで信用を築き、愛社精神に徹しよう」の言葉を胸に抱いて、今日も品川さんは愛車86を走らせています。少年の時のように希望にあふれた瞳で。
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今日の人180.ミラー香保里さん [2018年11月10日(Sat)]
 今日の人はHumming bird ワインインポーターのミラー香保里さんです。
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香保里さんは、富山の由緒ある呉服店牛島屋の家に生まれ、お兄さん3人に囲まれて育ちました。兄3人のせいか、女の子らしいことはあまり好きではなく、お兄さんの友だちとのサッカー遊びに混じっていたりもしました。ただ小さい頃からお茶、お花、日本舞踊にピアノ、プール、習字と習い事はルーティンになっていて学校帰りはいつも忙しかったのです。
 おままごとのような遊びには全く興味はなかったのですが、裁縫やお料理は小さい時から好きでした。ご両親が仕事でお忙しかったので、家にはお手伝いさんがいたのですが、そのお手伝いさんと一緒にクッキーを焼いたりする時間がとても好きでした。お兄ちゃんが学校から帰って来て何か作ってくれと言われると、ちゃちゃっと作ってしまう、そんな小学生だったのです。
 テレビ番組で好きだったのは、兼高かおる世界の旅でした。当時からいろいろな国に興味がありました。本を読むのも好きで、将来は本屋さんになりたいと思ったりもしていました。

 富山大学附属小学校から附属中学に進み、中学校ではバトミントン部とバスケ部に入ります。自転車通学で、友だちと放課後におしゃべりするのも楽しい時間でした。国語や歴史、そして英語が特に好きでした。そんな中学の時、黒田康子さんに英語を習ったことが香保里さんのターニングポイントになります。黒田さんは40代になってから英語を本格的に勉強し、大学留学をされて、その後大活躍された方なのですが、その黒田さんの生き方にとても刺激を受け、メンターと呼ぶべき人になりました。この出会いがあり、英語をもっと勉強したいという気持ちが強くなりました。そんな時にお母さんから、北海道の札幌聖心女子学院への進学を薦められます。最初はさほど乗り気でもなかったのですが、オープンスクールでとてもいい印象を受け、1人で北海道に行くのも冒険出来ていいなという思いで受験し、見事合格。こうして、高校からは札幌聖心女子学院の寮で暮らすことになりました。
 道産子はみんなとてもあたたかく、のびのびとした高校時代を過ごします。バスケ部に入り、木曜日曜はミサがあって、ポケベルも持ってはいけないという感じで、とってもマジメな高校生活でした。

 大学は東京の広尾にある聖心女子大学へ。もちろん選んだのは英文科でした。おばあさまの代から聖心という子も多くいましたが、インターナショナルスクール出身の子も多く、香保里さんにとって居心地のいい大学でした。合コンのお誘いもしょっちゅうでしたが、そういうことにはとんと興味が湧かない香保里さんなのでした。
 世の中はスーパーモデルブーム、香保里さんはファッションの分野にとても興味がありました。英語を糧に海外に行ってファッション雑誌を作りたい、そんな思いがどんどん膨らんでいきました。ニューヨーク、パリ、ロンドン、ミラノといったファッションの最先端の街にはどこも興味がありましたが、夏に欧州に一ヶ月行ったことでヨーロッパ、特にイギリスに行こうという気持ちが強くなりました。

 こうして大学卒業と同時にロンドンに渡りLondon College of Fashionでファッションプロモーションを専門に学びました。イギリスのPR会社のインターン、スタイリストのアシスタントをやり、語学の壁を感じながらも、それを乗り越えるためにひたすら努力しました。
香保里さんが心がけていたのは、なるべく日本人の中に入らないように、とにかくイギリス人の中にどんどん入っていくということでした。そして英語とファッションプロモーションの腕をどんどん上げていきました。そんなイギリスにいる間に、伴侶となるショーンさんに出会った香保里さん。コーヒー店でアルバイトもしていた香保里さんですが、その時に出会ったのが南アフリカ人のショーンさんでした。いろいろ話すうちに意気投合。しかし、2年間のワーホリでロンドンに来ていたショーンさんの滞在期限は1年を切っていました。母国に戻り大学で勉強することが決まり、その後、4年間の遠距離恋愛が続きました。

 イギリスに渡って3年半。大学の卒業式に出席するため、日本のご両親が香保里さんのもとにやってきます。このままずっとイギリスにいるなら勘当する。もし、どうしても残りたいなら全て自分の力でやりなさい。そう言われました。悩みもしましたが、日本に帰ることを選びます。  
香保里さんは広尾にあるPRコンサルタント会社WAGに入ります。社長の伊藤美恵さんはとても小柄な女性でしたが、日本のファッションシーンを牽引する、実にダイナミックな人でした。真夜中に帰宅する忙しい日々でしたが、いろんなことを叩きこまれ、とても学びの多い2年半でした。伊藤先生の「PRをやっているなら焦りは禁物、どんなハプニングも『ポーカーフェイス』で乗り切りなさい」との教えは今も大切にしています。
 ちょうど情報がSNSへと移っていく過渡期で、広告業界は規模が小さくなってきていました。伊藤先生に雑誌の編集者になりたいと相談すると、力をつけて私のお墨付きを与えたらどこでも紹介すると言われました。
 やがて、香保里さんはアメリカのファッション雑誌『Harper’s BAZAAR』の編集者として働くことになります。広報と編集の両方の気持ちがわかるのが香保里さんの強みでした。ここでの仕事ももちろん忙しかったのですが、ファッションの最前線を目の当たりにし、アーティストやデザイナーのインタビューなど、とてもやりがいのある仕事でした。雑誌の編集者に転職し半年が過ぎた頃、ショーンさんも大学を卒業し、日本に来て英語の教師になりました。2人はその後長女を授かり、結婚しました。
5年間ファッション雑誌の編集者として働きましたが、雑誌が休刊になったこと、そして二人目を妊娠したこともあり、富山に帰ることを決めます。先輩からの自分のタイミングで自分の時間を大切にしなさい、との言葉も背中を押してくれました。富山に行くことには田舎が好きなショーンさんも大賛成でした。
 
こうして息子さんの生まれる年に富山に戻ります。それは東日本大震災の少し前のことでした。子育てしながら主婦として過ごす1年くらいを過ごし、このままでいいのかなと落ち込んだりもしました。高校の時から富山にいなかったので、友だち作りも一からのスタートでした。東京の仕事や翻訳の仕事もポツポツとはありましたが、自分で何かしたいという思いが湧き上がってきました。ちょうどそんな時にご主人のショーンさんのいとこが結婚した人が、ワインの醸造家だったのです。南アフリカで飲んだそのワインは本当に美味しかった!なんて美味しいワインなの!香保里さんは思いました。でも、南アフリカのワインは日本ではそれほどたくさん流通していませんでした。このワインを日本に広めたい。香保里さんの中にそんな思いが膨らみました。人気クリエイターとワイナリーがコラボして誕生した素敵なワインに心が躍り、ポテンシャルの高さを感じました。そして、編集者時代にお世話になった方の力添えで、有名百貨店の社長にプレゼンする機会を得ました。その百貨店での取り扱いを機に、香保里さん夫婦は酒販免許を取り、南アフリカワインの輸入販売の仕事をスタートさせます。もちろんそれは平坦な道のりではありませんでした。今から5年前のことでした。
 昔気質の酒屋さんとの付き合いも香保里さん夫婦には初めてのことばかりでした。でも持ち前のバイタリティで乗り越えてきました。何より、今まで踏み入れたことのない分野の仕事にワクワクしました。ずっとファッションの世界で生きてきたけれど、ファッションとワインもアートでつながる。そこに大きな可能性を感じています。
 そして南アフリカワインを飲むことで、南アフリカに興味を持つ日本人が増えてくれたら嬉しいという気持ちも強く持っています。ワインを通した南アフリカツアーを企画したり、逆に富山を紹介したり…そんな夢がどんどん膨らみます。

 海外に出たことで、逆に富山の魅力も感じることができるようになりました。そして富山には才能豊かな人財もとても多いのだということにも気づいたと香保里さん。

 そんな忙しい日々の中の楽しみは小4と小2のお子さんたちと話すこと。そして、夢は南アフリカと日本をもっと近い関係にすること。両国はお互いのよさをもっと取り入れることができる。そして両国の良さを知っている香保里さんとショーンさんだからこそできることがたくさんあるにちがいありません。富山のおかきを南アフリカで売り出したいとにっこり笑う香保里さん。私としては、南アフリカの人にもぜひ日本語を勉強しに来てほしいなと思うのでした。

 まだ南アフリカワインを飲んだことのない方は、ぜひ一度お飲みになってみてください。ボトルもおしゃれだし、なんといっても美味しい。今年もクリスマスの一本は、決まりですねウインク
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今日の人179.大橋聡司さん [2018年09月09日(Sun)]
 今日の人は、大高建設株式会社代表取締役社長、宇奈月ビール株式会社代表取締役社長、株式会社リレーションズ代表取締役社長、一般社団でんき宇奈月代表理事等多方面でご活躍の大橋聡司さんです。
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 大橋さんは宇奈月生まれの宇奈月育ち。小さい時は友だちと野山を駆け回るのが大好きな活発な少年でした。黒部川で泳いで、ヤリで突いてとった鮎をたき火で焼いて食べたり、高い場所から飛び込んだり、いつも外で遊びまわっていました。小学生の時はスキーや野球、中学生の時はバスケ、高校生の時はラグビー、大学生の時はスキーと、スポーツは大好きでした。
 将来に関しては、子どもの頃から家業の大高建設を継ぐものだと思っていたし、それに疑問を持つこともしませんでした。

 中学2年の担任の先生は初任で初めて受けもったのが大橋さんたちのクラスでした。大橋さんは器用でなんでもできるタイプでしたが、目立ちたがり屋でふざけたりすることもあったので、先生は大橋さんにはことさら厳しくあたりました。家業を継ぐこともわかっていましたし、バスケ部の顧問でもあったので、この子は厳しく育てなければ、と思っていらっしゃったのでした。卒業して十数年たった同窓会でお二人は再会します。当時厳しく当たったことを、さぞ恨んでいるだろうとずっと思っていらして謝罪の言葉を述べられた先生でしたが、当の本人はそんなことは全く覚えておらず、先生にしたら拍子抜けだったそうです。
 大橋さんは息子さんが高校生の時に県の高校のPTA連合の会長をされていて、富山経済同友会の教育問題委員会の委員長でもありました。そんな時にちょうどその恩師が小学校校長会の会長をされていて、そんな縁が重なり、それ以来、お二人は教育関係で前向きなつながりでいらっしゃいます。先生に教育の分野でもがんばってほしいと頼まれ、大橋さんが小・中・高校に出向いて出前授業をすることもあります。恩師から「大橋先生」と呼ばれると、身の引き締まる思いがして一層がんばろうと思うのでした。

 野山を駆け回る小中学校時代を過ごした大橋さんは、魚津高校へと進み、ラグビー部に所属して部活動に明け暮れ、多くの仲間と一緒に青春を謳歌しました。実は、大橋さんの奥さまはこの高校時代の同級生なのですが、お2人がつき合い始めるのはちょっぴり後で、お2人とも上京されてからのことでした。

 魚津高校は国立大学を目指す生徒も多いのですが、大橋さんの家は親戚も含めて東京の私大に行くというのが定着していました。大橋さんは明治大学法学部に進み、明治三大酒飲みサークルの一つと言われるスキーサークルで部長も務めました。オフシーズンも六大学野球やラグビーの応援等で、なにかにつけては飲み会。そして、スキーシーズンになると苗場プリンスホテルでバイトしながら、スキー三昧の日々を送るのでした。世はバブル真っ盛り、そしてちょうど映画「私をスキーに連れてって」で空前のスキーブームの頃でもありました。

 しかし、大橋さんは進路に関して迷うことはありませんでした。いかに世の中がバブルで超売り手市場であろうと、「富山に戻って家業を継ぐ!」という思いは子どもの頃から何ら変わっていなかったからです。

 こうして、富山に戻ってお父さんが社長を務める「大高建設」に入社。幹部社員の高齢化が進み、若い人が入っても育てる術がないといった状況でした。まずは経理畑から始めた大橋さん。時代はちょうど手書きからワープロへとシフトし始めた時でした。その頃、大高建設の経理事務は手書きだったのですが、大橋さんはそれをワープロで打ち直すという単純な作業業務を与えられました。そのままやっても楽しくないので、与えられたものの中で自分なりの工夫をして業務の改善を進めました。またそれまでまともなリクルート活動もしてこなかった会社でしたが、大学の就職課にアプローチするなどちゃんとリクルート活動をして大卒も採用できるようになりました。大橋さんは文系で技術者ではなかったのですが、土木施工管理・建築施工管理の国家資格を取るなど自ら範を示し、若い社員とコミュニケーションを取りながら新たな社風を作ろうとしました。一方で、昔ながらのやり方で自分が会社を支えてきたという自負がある人は、これまでのやり方を変えることに反発しました。そんな人たちと衝突をしながらも、互いに会社を思う気持ちでやっていることには変わりはないのだと、少しずつ少しずつ理解をしてもらいながら会社を改革していきました。

 そして2000年、37歳になった年に3代目の社長に就任しました。同年、青年会議所では富山県のブロック会長も務めました。ただでさえ県会長は、たくさんの公職も付随し、とても多忙で責任の重い役職です。社長業務をこなしながらのJCの県会長というのはとても大変でありましたが、この経験は自身の成長に大いに役立ちましたし、またその時にできた人と人とのネットワークが今も生きています。そして、JC時代にまちづくりに関わったことが今の社会的な活動に繋がっていると思っています。

 社長業もただ会社を現状維持するだけでは将来が危ういと考えた大橋さん、ちょうど世の中に公共事業不要論が渦巻いていた時で、建設以外の事業にチャレンジする必要があると考え、飲食レストラン業にも進出します。外食産業は人財産業だと考えている大橋さん。それはつまり人づくりでもあります。教育に力を入れたい大橋さんが人づくりの分野に進出するのは、自然な流れだったのかもしれません。しゃぶしゃぶ温野菜の北陸甲信越地区のエリア本部として、1店舗1社員で、アルバイト学生を教育するというやり方を展開しました。この教育方法で鍛えられたアルバイト学生は、自身が就職した時にこの経験が大変役に立ちます。人材育成に力を入れているという自負が浮き沈みの多い外食産業にあってゆるぎない経営を続けていられるのです。そしてお客さんのためにいかに美味しいもの、幸せな時間を提供するかという強い思いが、株式会社リレーションズや宇奈月ビールの経営につながっています。
 株式会社リレーションズ⇒http://www.relations-inc.com/
 宇奈月ビール⇒https://www.unazuki-beer.jp/

 また大元の建設業の方も、後継者がいない会社をグループ化してシナジー効果を上げています。海外事業も展開しており、ミャンマーでは現地法人を立ち上げました。大手ゼネコンの土木本部長をやっていた方が海外事業部の部長として手腕を発揮していて、その下で働いているネパール人が、実は私の教え子です。こんなつながりがどんどん生まれているのがとても素敵な大高建設です。
大高建設のさまざまな取り組みについては、ぜひこちらのホームページをご覧ください。
http://o-taka.co.jp/

 大橋さんが今楽しいことは、ずばり「まちづくり」に関わること。一般社団法人でんき宇奈月の代表理事でもいらっしゃる大橋さん。でんき宇奈月は宇奈月温泉において、小水力発電をはじめとした再生可能エネルギーとEVバスによる公共交通事業を導入し、電源開発で発展してきた宇奈月温泉を、先進的なエコ温泉リゾートして観光客誘致を促進するとともに、エネルギーの地産地消を切り口に自立した地域づくりを推進しています。富山国際大学の上坂先生https://blog.canpan.info/diversityt/archive/138はじめ、仲間と一緒にまちづくりに取り組んでいくそのプロセスが本当に楽しいのでした。

 そして、かかわっている地域や人が幸せになってほしい、その一助になれればいい、大橋さんはそう思っています。

 2018年7月から、公益財団法人黒部市国際文化センター理事長に就任されました。代々、黒部市長が務めてきたポストで民間人が就任するのは初めて。企業経営者の手腕を買われての就任だったそうです。黒部市国際文化センター「コラーレ」宇奈月国際会館「セレネ」、黒部市美術館の運営を担う組織のトップとして、ますます多忙になりそうです。

安くておいしいワインを探すのがささやかな趣味と話される大橋さん。まちづくりの仲間たちと話しながら一緒にグラスを傾ける時間が最高の時間かもしれませんね。