今日の人203.渋谷秀樹さん [2020年12月17日(Thu)]
今日の人は、NPO法人バンブーセーブジアース代表や焚き火フェスin大長谷実行委員長、ヨットチーム竜神のメンバー、そして企業と求職者の未来をつなぐ有限会社hs style代表として多方面でご活躍中の渋谷秀樹さんです。
幼竹伐採にて 渋谷さんは1970年4月に富山市奥田で生まれました。小さい時はお父さんに連れられて海釣りに行ったり、近所のガキ大将について外で遊びまわる元気な子どもでした。 おじいちゃんは渋谷鉄工所という鉄工所を営み、お父さんは転職が多かったものの大工をしていたので、祖父や父が高いところでかっこよく働く姿にあこがれて大工になりたいと思っていました。 しかし、小学校4年生の時に、お父さんが事故死してしまいます。大きな大きなショックでした。でも、さらにショックだったのはお母さんが1週間あまりずっと仏壇の前で泣いている姿を見ることでした。でも、その後のお母さんは強かった。渋谷さんと2つ下の妹さんをちゃんと育てていかなければと固く誓われたのでしょう。ノエビア化粧品の販売をがんばってどんどん業績を上げ、ご自分で販売会社まで作られたのでした。 そういうわけで、小4からはほとんどじいちゃんばあちゃんに育てられたような感じでした。ばあちゃんが作るおかずは茶色いおかずが多く、弁当箱を広げてもちっともおしゃれじゃないので、当時はそれがすごくイヤでした。今となればそんなばあちゃんの料理が何よりのごちそうだと思えるけれど、子ども時代はそうは思えなかったのです。 普段忙しいお母さんも、運動会の時は弁当を作ってくれました。しかし、なぜかお母さんの作る弁当には必ずと言っていいほど、駄菓子屋で売っているイカフライがドーンと入っているのでした。今でもイカフライを見ると、それを懐かしく思い出します。 渋谷さんはラジオが大好きでした。オールナイトニッポンも小学生の時から聴いていたし、洋楽ベスト20という番組が大好きでいつも洋楽を聴いていました。草むしりやふろそうじのお手伝いをするときも、いつもハードなロックを聴いているのでした。 中学校は奥田中学に。その頃の奥田中学は荒れてることで有名でしたが、上学年に仲良しの子がいたので、あまりそういうゴタゴタには巻き込まれずに済みました。 部活はサッカー部に入りました。町内の1つ上のガキ大将がサッカー部に「お前入れ」と言われ、答えは「はい」か「イエス」しかありませんでした。好きで入ったサッカー部でもなかったので、そんなに性根は入りませんでした。ゲーセンにはしょっちゅう行っていました。そして中学生のころもまだ大工になりたいと思っていました。 中3の時には卒業旅行として自分たちで東京へ行きました。当時通っていた歯医者においてあった週刊誌に黒服日記という連載があって、その中にはこんな芸能人が来たなどの記事があり、そこへ行けば自分も芸能人に会えるような気がして、東京へ旅行したのです。当時流行っていた六本木サーカスというディスコビルへ行ったけれど、まだ誰もいない時間でもちろん芸能人には会えませんでした。友達は先にホテルへ戻ってしまい、六本木をプラプラ散歩して部屋に戻ると友達が寝込んでいて、ホテルの部屋に入れないというおまけつきでした。 高校に行ってからは富山のディスコにしょっちゅう出入りするようになりました。部活は一応サッカー部に入りましたが、遊ぶのが楽しくて名ばかりサッカー部でした。そしてその頃、バンドに目覚め他校の人と一緒にバンドを組んでコンテストに応募したりライブで歌ったりしていました。そうして友達の家で週末は過ごすという高校時代を送っていました。 高校を卒業した後は、神戸の大学へ。音楽好きの友達と音楽パブに入り浸っていました。いろんなバイトもしました。海辺のレストランで働いたり、バーテンダー、クラブの黒服、いろいろやりました。黒服をしていたクラブは老舗の品のいいクラブでしたが、ヤクザとマルボウの警察官が同じフロアで飲んでいたり、有名な会社の社長が来ていたりして、すごくいい社会勉強になりました。 渋谷さんは自分で新しいことを企画したり何か作り出すのが好き(作るのが好きという点では大工との共通点がありますね)だったので、広告会社に就職したいと思うようになっていました。就職活動で富山に帰ってきていたとき、息子に自分の会社を継がせたいお母さんは、ある社員と息子を飲みに行かせました。そこで4軒はしごさせられて、その時に「ノエビアに若い世代が来れば、富山を変えられますよ」と熱く語られ、すっかりその気になった渋谷さんはノエビア本社に入社することに決めたのです。 こうして社会人1年目。赴任地は名古屋でした。半年の研修では47000円の化粧品のセットを10セット飛び込みで売り切るという課題も課せられました。150人いた同期の中でも、10セット売り切ったのはトップクラスでした。 1〜2年経って慣れたころには仕事帰りに毎日タワーレコードに寄って3時間レコードを聴き、ハッピーアワーのビールを飲んで家に帰るというのが日課でした。 そんなある日、ダイビングショップにふっと立ち寄った時に、ダイビングの魅力に惹かれ、50万円のダイビングセットを買ってしまいました。そうして、ノエビアの仲間と、伊豆、福井、京都、グアム、いろいろな場所へ潜りに行きました。 冬はドライスーツを着て冬の海に潜るほどではないなぁと思っていた時に、今度はスノボのショップに顔を出して、20万でスノボのセットを買ってしまいます。 専門ショップに顔を出すと、年齢、性別、社会的な地位を超えたつながりができる感覚が渋谷さんは好きでした。その感覚が、NPO活動でつながりを作っていくときの原点になっているのかもしれません。 こうして名古屋で充実した日々を過ごし、27歳の時に富山に戻ってきました。 けれど、ずっと富山にしかいない人の考え方や行動範囲がすごく小さく見えて、埋められない距離感を感じました。一人で金沢チームの人と飲みに行くなどして、自分のスケール感は小さくならないように意識していました。今でもそれは意識していて、自分の経験不足を感じさせてくれる10歳年上の人、新しい感覚を教えてくれる10歳年下の人と意識的に付き合うようにしています。 その頃は素潜りしてアワビやサザエを獲ったり、何か面白いことをしたいといろんな企画を立てました。市内で自販機を探してシールを貼るチキチキバンバンレース(詳しい内容は渋谷さんに直に聞いてみてくださいw)をしてその後に飲み会をしたり、とにかく何かを企むことが大好きだったのです。 ある時、飲み会で知り合った女性が「私、あんたのことを知っとるよ」と言いました。なんと、渋谷さんが高校の時に付き合っていた子の友達だったのです。二人は意気投合し、二人とも五福で一人暮らしだったことから、よく会うようになりました。その時32歳。 するとお母さんから食事会をしよう、向こうのご両親も一緒にと誘われ、食事会の流れになりました。そして、「一日も早く結婚せんとダメやちゃ」と言われ、その後大学時代を過ごした神戸に行ってプロポーズ。こうして33歳で結婚し、35歳と39歳の時には、男の子ができました。 結婚した翌年、山を持っている奥さんの実家からタケノコ堀りに連れていってやると言われました。その竹林は整備していなかったけれど、タケノコ堀りはとても楽しかった。ネットで調べると、放置された竹林が多くなって問題になっていることを知りました。かつては竹は生活と結びついていたけれど、プラスチックにとって代わられた。でも、竹を使って代替燃料にしたり、繊維にしたりと研究をしているところもあります。そして竹は無尽蔵にあるといっていい。これはビジネスになるのでは、と最初は思いました。竹のボランティアチームを作ろうと思い立ち、とやま森の楽校に所属してボランティアのノウハウを身につけていきました。きんたろうクラブにも入って、NPOについていろいろ勉強しました。 そして属していた商工会議所青年部で、協力してくれそうな仲間に声をかけました。それが、今もバンブーセーブジアースで一緒の活動している酒井隆幸さんや田畑さんでした。 奥田商店街の一角で火曜に打ち合わせが始まりました。今もバンブーの打ち合わせは火曜日なのですが、この時からずっと火曜の打ち合わせが続いているのですね。 こうしてバンブーセーブジアースは2007年にスタートしました。 最初に仕掛けたのは、竹で花器を作って、そこに花を飾って奥田商店街の店先に飾るというものでした。商店街の竹の花器作戦は新聞にでかでかと載って、渋谷さんはアドレナリンが出まくりました。メディアをジャックするのが楽しくなって、ローカルメディアすべてにバンブーの活動が取材されました。新聞に継続的に載っていると、手伝いたいという人が現れ始め、15人超のメンバーになりました。そうしてバンブーセーブジアースをNPO法人化したのです。2010年のことでした。 イベント関連はどれも大成功でした。しかし一方でこれをビジネスにするのは無理だとわかりました。それからは、週末活動としてのサードプレイスと割り切るようになりました。そうするとNPOの活動ももっと楽しめるようになりました。次はどんな楽しいことをやろうか、どんどん提案してそれを実現させていきました。竹のブランコを作ったり、竹でジャングルジムを作ったり、その中で次第にバンブーの認知度もアップしていきました。NPOが次々になくなっていく中で、バンブーセーブジアースは今も確実に活動を続けている団体だという自負があります。 仕事の上では48歳の時に大きな転機が訪れます。27歳から21年間、母が代表の会社でずっと働いてきました。しかし、48歳の時に独立し、自分で会社を立ち上げたのです。最初はお母さんを説得するのが大変でした。でも、今ではお母さんも「大きい経費がかからなくなったわ」と冗談交じりに言ってくれるまでになりました。 仕事が忙しくなり、バンブーの活動は控えざるを得なくなると、代わりに副代表の酒井さんががんばってくれるようになりました。今では、バンブーセーブジアースのほとんどの活動は酒井さんに任せるようになっています。 バンブーの活動拠点もいくつか変わりましたが、今は八ケ山で落ち着いています。多分、ここがバンブーの終の棲家になるのではないかと思っています。酒井さんたちバンブーのメンバーもここで流しソーメンや地域の縁日を開催するなど、地域の交流の拠点になるようにがんばってくれています。 大長谷にも2011年くらいから通うようになりました。最初は市の広報にそば畑のオーナー募集という記事を奥さんが見つけて、「あなたこれ好きそうだよね」と言ってくれたのです。もちろん飛びつきました。そうして大長谷のそば祭りや山菜祭りの手伝いをするようになって何度も行き来するうちに、大長谷の人たちとも仲良くなって大長谷そばクラブを結成しました。大長谷で作った小麦粉とそば粉を合わせた二八そばの絶品さと言ったら。(ちなみにその小麦とそばを育てたのは先日ブログにご登場いただいた杉林さんです) 大長谷の郵便局の跡地を友達3人で買ってダッシュ村にしようという計画も立てました。 でも、大長谷に住む若い人たちは決していい給料とは言えません。何か若い人が収益を上げられることができないか、と考えたときに思いついたのが焚き火フェスでした。焚き火をしながらみんなで飲みながら語らう。今年はコロナのこともあって、あまり大きくはできませんしたが、これからもやりたいことを楽しみながらみんなでやって、大長谷のような、限界集落だけどかけがえのない魅力のある地域の宝物のような場所を大切にしていきたいと思っています。 ヨットも趣味の一つです。富山で開催されたタモリカップには4回とも出場しています。最初に乗っていたヨットはエンジンが動かなくなって手放したのですが、その後、竜神というヨットのメンバーになりました。船のオーナーはヨットを70歳で始めたのですが、82歳になる今も海竜マリーナからロシア、チンタオへとヨットで回り、世界中の船とレースしている憧れの存在です。年を重ねると、憧れの存在がだんだん少なくなってくるけれど、そんなにすごい人が身近にいて、一緒に活動できることが本当に楽しいのです。仕事をがんばるモチベーションの一つがヨットでもあります。平日の3〜4日、ヨットに乗れるように仕事もがんばろう、そう思うのです。 渋谷さんのポリシーのひとつに「楽しいからやろう」があります。NPO活動もそう。会社の中だけにいては到底出会うことのない人たちとも出会え、そんないろいろな人たちからたくさんの刺激をもらえるのがNPO活動のいいところ。そこを義務感だけでやっていては長続きしない。やはりやっている人たちが楽しめないとだめだ、そう思っています。 そんな渋谷さんがご自分の会社を立ち上げたのは2018年の4月でした。その会社ではNPO精神も大いに発揮されています。渋谷さんが代表を務める有限会社hs styleは富山の会社の魅力を伝える動画を作っています。ローカル会社がハローワークに求人を出しても、人が集まりません。それは会社の魅力がちゃんと伝わらないからです。動画なら、その会社の魅力をちゃんと伝えることができる。動画の力を使って、求人の力になりたい!そう思って始めた会社です。ノエビア時代の飛び込み訪問のノウハウも生かして、飛び込みで注文をもらっていきました。富山の家族経営企業には、大手に負けない魅力があるところがたくさんあって技術もたくさん持っているのに、広告を出せないばかりに人が集まらない企業がたくさんあります。そんな企業の動画を作って、その魅力を伝えたい。そんな動画がこちらで見られます。一度ぜひご覧になってください。 https://www.youtube.com/channel/UC97w1Pn5_v9W5XKxtftfv6Q?view_as=subscriber もちろん、渋谷さん自身の会社もどこよりも魅力のある会社にしたいと思っています。会社の理念は「富山でいちばん家族を入れたい会社づくり」そして、子どもに「俺、親父の会社に入りたい」と言ってもらえる会社にしたいのです。働き方も出社、帰社時間の縛りはなし、そして社員がみんなで顔を合わせるのは金曜の夕方だけ。ワーケーション制度を取り入れていて、沖縄に行きたかったら沖縄で働けばいいし、場所と時間を縛っていないのです。働き方の満足度をうんと高めて、どんどんとんがった人に働きに来てもらいたいと思っています。新卒じゃないと終わりみたいな風潮はもうクソくらえです。失敗した人にこそどんどん来てほしい。面接マニュアルに書いてあるようなきれいな答えは求めていない。自分の足で歩かないと自分の言葉がみつかるわけがない。自分の言葉でどんどん語って、ぶつかって、いい会社にしていきたい。渋谷さんのそんな熱い想いがガツンと伝わってきます。 そうして、これからも自分がNPOで培ってきたことを会社で活かしていきたい、そして今度はバンブーに営利的なものをフィードバックして、バンブーセーブジアースをもっと人が集まる場にしていけたらいいなと思っています。 マルチステークホルダーの仕組み作りがうまくいけば、きっと企業もNPOもハッピーになりますね。私たちもその一端を担っていけたらいいなと感じた今回のインタビューでした。そしていつか、渋谷さんのヨットに乗せてもらえる日を楽しみにしています。 |