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今日の人74.佐藤陽子さん パート.1 [2012年11月20日(Tue)]
 今日の人はドリプラ2012世界大会プレゼンターの佐藤陽子さんです。佐藤さんは証券会社から総務省に出向中、海外経験も豊富なバリバリのキャリアウーマンです。
写真 12-11-20 12 27 12.jpg

 陽子さんはお父さんの仕事の関係で3歳半までギリシャで、その後2年間はロンドンで暮らしました。そのため、帰ってきて日本の小学校に入った時、最初はとても自己主張が強かったのです。海外では「I can do it.」が当たり前。そんな中で育ってきていきなり「おとなしくしろ」と言われてもそれは無理というもの。教室で遊んでいた時、先生に「そんなに遊びたいなら外に出なさい」と言われたのを真に受けて、本当に校庭に出ちゃったら、なんとそこには2歳年上のお兄さんもいた!ということもありました。
 
 しかし、帰国子女にありがちなイジメを受けるということはなかった陽子さん。
ロンドンで始めたクラッシックバレエを日本に帰ってからもずっと続けていました。やがてバレエにハマり込んでいきました。中学生の時はそれまで週に2回だったレッスンを4回に増やしました。2回は地元のバレエ教室に通い、あとの2回はプロのバレエ団の下にあるバレエ学校に通うという本格的なものでした。しかも、中学生ながら自分でバレエ学校を調べてアポを取り、そしてバレエ学校に入ったというのですから、子どもの頃からかなりの行動派!
 
 中学、高校と女子校で過ごし、バレエも98%は女子の世界でしたから、周りは女の子というのが当たり前の感覚でした。共学に憧れる…というのは全然なかったそうです。
 
 陽子さんが大学の進路を選ぶ時に大きなきっかけとなった出来事がありました。
 あれはお父さんがタイに単身赴任をしていて家族でタイに遊びに行った時。リゾート地パタヤに向かう途中に渋滞でひっかかった時のことです。ちょうど自分と同じ年頃の女の子が、花を売りにきました。ガラス1枚隔てて、車の中に何不自由なく座ってリゾート地に行こうとしている自分と、今日のパンにも困って花を売っている少女。なぜこんなにもちがう人生なのか?あまりにショックでその日は寝られませんでした。
 
 高校生になってもバレエは続けていましたが、自分はバレエの道で食べていくことはないな、と思い始めました。そんな時、お母さんが世の中にはこんな風に人の役に立つ仕事があるのよ、と国連職員の仕事を紹介してくれました。タイのあの子のことが不意に頭をよぎりました。思い立ったら行動せずにはいられないのが佐藤陽子!偶然新聞で見つけた国境なき医師団の事務局に電話して「私は高校生ですが、何かボランティアできることはありませんか?」と尋ねます。そして高校の時から国境なき医師団でボランティアを始めた陽子さん。大学生になったら私は途上国に行くんだ!そう心に決めていました。そして大学では国際関係学科へと進み、「国境なき医師団」の下部組織である「国境なき学生」に入り浸っていました。そうしてアジアのストリート・チルドレンを救いたいとカンボジア・ベトナム・フィリピンで1ヶ月ずつボランティアをしました。
 
 陽子さんは、アジアでボランティアはどういうものかがわかったから、今度は他のところへも行きたい、そして成果を上げたい、と大学を1年休学して、13ヶ月のプログラムに参加します。それはノルウェーで研修を受けたあとにアフリカに行ってインターンをするというプログラムでした。
 アフリカを選んだのは、AIDSや難民問題で成果を上げたいと思ったからです。まずノルウェーで4ヶ月研修。その後ジンバブエに行く予定がビザがなかなか降りず、南アフリカで2ヶ月足止めされます。南アフリカはレイプ率が高く、いつも緊張の中で過ごしました。家の前で人が撃たれたこともあります。2ヶ月後にようやくビザが降りてジンバブエへ。
 
 ジンバブエでの陽子ちゃんのミッションはAIDS問題で成果を上げること。50人の現地の人を雇って、その人がそれぞれ2000人ずつの人にAIDSの知識を伝える、つまり10万人にAIDSの知識を普及するのですが、陽子ちゃんはその50人のリーダーをまとめるのが仕事でした。
 ジンバブエは南アフリカとちがってピリピリとした緊張感はありませんでしたが、概念のちがいにびっくりすることも度々でした。普通は牛9頭で結婚できるけど、陽子だったら牛12頭をやる、と言われてびっくり。日本は結婚するのに牛はいらないのよ、というと、じゃあただで結婚できるのか?と。お互いの合意でするのよ、と言うと不思議な顔をされました。
 ジンバブエはスーパーインフレがちょうど始まったころでした。買い物に行くのに、リュックに紙幣をいっぱい詰めていく日々。しかし、ジンバブエ人がカード決済している姿もよく見かけたそうです。日本での報道と現地の実情はずいぶんちがっているのだなぁとこういう話を聞くと改めて感じます。
 
 実はその頃の陽子さんは、女性を雇うことに積極的ではありませんでした。パフォーマンスが低い女性たちの穴を埋めなれければならず、採用担当の時はなるべく女性を雇いたくないと思っていました。でも、ある特定の女性グループはものすごいパフォーマンスを見せていました。そのグループはシングルマザーのグループでした。
 
 でも、パフォーマンスの低い人にしても50人の雇用した人たちは、プロジェクトの期間でずいぶん変わっていきました。この50人は最貧層の人たちでした。その人たちにセルフリライアンスのチャンスを与えたことが、このプロジェクトで一番意義があったことだと感じました。しかし、そうはいっても援助の手がある限り、なかなか現地の人の意識は変わっていかない。そういうことを感じて、なにかちがう、キャリアとして国際協力の世界は関わり方を考えなきゃいけないなと思うようになりました。
 
 じゃあ、自分は何をすればいいんだろう、援助ではなく、対等のビジネスパートナーとして活動したい、そう思ったとき、社会起業家になろうと思いました。人を雇用して人にチャンスを与えられる経営者になりたい。じゃあ、経営者になるためにはどうしたらいいんだろう…


パート.2に続きます。
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