今日の人73.中澤清一さん パート.1 [2012年11月13日(Tue)]
今日の人はドリプラ2012世界大会プレゼンターで、四国管財株式会社お客様係&代表取締役社長の中澤清一さんです。
四国管財株式会社は「21世紀をつくる人を幸せにする会社」(法政大学大学院坂本光司教授著 ディスカバー出版)にも紹介されていますし、2012年10月15日号の日経ビジネスの「奇跡を起こす凄い組織100」に選出されるなど、高知で奇跡を次々に起こしている素晴らしい会社です。 中澤さんは昭和37年に高知県高知市で生まれました。小さい時からマイペースで、好きな遊びは飛行機会社ごっこやタクシー会社ごっこ。飛行機のおもちゃやミニカーを動かして遊ぶ遊びではありません。例えばタクシー会社ごっこだったら、この車は何時からここ、この車はここ、というように配車を考えて車を動かすというごっこ遊び。どうやら小さい時から経営者の素質充分だったようです。 小学校2年生までは総理大臣が夢でしたが、3年生からは一貫して社長になるのが夢でした。それはずっと父の背中を見て、その姿に憧れていたからです。 中澤さんのお父さまは最初バキュームカーの会社を経営されていたのですが、バキュームの仕事では子どもたちがいじめられるかもしれない、とお掃除会社を作られた方です。 いつもお客さんにペコペコ頭を下げている父。でも、中澤さんはそんな姿をとてもカッコイイと感じました。家ではとても怖い父でしたが、とても尊敬していました。そして、俺もいつか親父のような社長になるんだ、そう心に決めていました。 小学校の時は、とにかく野球漬けの毎日。6年生の時にはマルチプレーヤーかつ3年生チームの監督もやっていました。ノックは自由自在に打てるすごい腕。そんな中澤さんが好きだったのは長嶋選手。どんな時もプレーに一生懸命な姿、それが大好きでした。 中学2年の時に、尊敬していた父が亡くなります。その年から、今まで送られてきていたお中元やお歳暮がピタっと来なくなったのを見て、世の中とはこういうものなのか、と実感します。父の会社は、母が名前だけの社長になって、他の方が経営をしてくれていました。 中澤さんは、小学校の時からニュース番組を見るのが好きでした。政治経済の勉強も好きで、その知識量は先生も及ばないほどでしたが、興味のない科目はからきし勉強しませんでした。そして、国立中学から当時はあまり進学しない高知中央高等学校に進学します。(高知中央高等学校は、現在は非常に特色のある私立高校として広く人気を集めています) 高校時代は1年の時はバレー部、2年はバトミントン部、3年はソフトボール部に所属。他他にもまんが研究会を立上げたり、スクールウォーズの影響でラクビー同好会を創ったりとなんとも活動の幅が広い中澤さん。それにも飽きたらず学校外で少林寺拳法までやっていたくらいです。中澤さんはマジメな子から不良まで幅広く付き合っていました。ケンカには負けたことがありません。だって一度もケンカをしたことがないのですから。 大阪の大学へ進み、寮で一生の親友となる友にも出会いました。でも、高校生活と逆で、サークル活動は一切しませんでした。休みという休みは全て高知に帰って、母が名前だけの社長になっている会社でアルバイトをしていました。とにかく一刻も早くこの会社でちゃんと働きたい!そう思っていたからです。 そして卒業後は高知に戻り、そのお掃除会社に就職。やりたくてやりたくて仕方のなかった仕事でしたから、どんなに汚い所の掃除も苦になりませんでした。 けれど、周りはちがっていました。この会社に来たくて来ている人は一人もいない。みんな仕方なく来ていて、できれば別の会社に変わりたいと思っている。そして、会社の名前を出すのは恥ずかしいとさえ思っている。 …この現状を変えたい!この会社をみんなが夢を語れる会社にしよう! 26年前、中澤さんはそう心の中で決めたのです。 最初は“干されて”いた中澤さん。上司からは徹底的にやりにくい所の掃除をやらされます。12月は休みが一日もなく、除夜の鐘が鳴ってもまだ仕事をしていましたが、残業代は全くつかず、手取りは11万円。それでも、「この仕事が好きだったから」ととびっきりの笑顔で話してくださいました。 ちょうどその頃、結婚もしましたが、休みが全く取れない状況だったので、新婚旅行も行かずじまいでした。しかし、新婚旅行先に考えていたのは、なんと青森の恐山。中澤さんはイタコを通してお父様と奥様を会わせたいと思ったそうなのですが、新婚旅行に恐山とはそれこそ恐れ入ります。 「でも、大学を出てすぐってずいぶん早い結婚だったんですね。」と聞くと、「胃袋を落とされたんですよ」とニコッ。奥様、かなりお料理上手な方のようです。 さて、中澤さんはこんな風に誰もやりたがらない仕事、やりにくい所や汚い所のお掃除をやっていく中で、たくさんの課題を見つけていくことが出来ました。そして、夜は一番遅くまで残り、朝は一番早く来て、しかもイキイキと仕事をしているその姿勢に、次第に会社の難しい仕事を任されるようになっていきます。 掃除の技術を極めたい、と日本中の同業者にも会いに行きました。 こうして次々に実績を上げていった中澤さん。小学校の頃からの夢だった社長に就任したのは1997年のことでした。 そして、社長に就任後はヤル気満々で社内に成果主義を取り入れます。人事評価制度も取り入れましたが、レベルが低い人事評価制度は点取りゲームになってしまい、世渡りばかりがうまい人が100点を取ったりして、社内に不協和音がただよいました。 そんな時に出会ったのが福島正伸さんでした。14年前のことです。「夢しか実現しない」その言葉に強く突き動かされた中澤さん。人生が変わったと思えるような衝撃を受けました。 それまでは「プライベートは楽しいけれど、仕事は苦しくても仕方がないんだ。歯を食いしばってやるしかないんだ」という先入観がありました。でも、福島先生から「仕事上においても夢を全面的に出していいんだ、仕事は苦しいものじゃなくて楽しいものなんだ!」というとても大きな気づきをもらったのです。 |
【今日の人 ドリプラ編の最新記事】
|