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今日の人61.田内孝司さん パート.1 [2012年10月06日(Sat)]
 今日の人は、ドリームプラン・プレゼンテーション2012プレゼンターの田内孝司さんです。
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田内さんは会計事務所の経営支援を通して、顧問先である中小企業経営者のための経営支援コンサルと個人資産家の相続コンサルを行う株式会社エムビーエスを経営していらっしゃいます。

 田内さんが生まれたのは、「自由は土佐の山間より」で有名な高知県。お母さんは代々続いた庄屋の娘さんでした。これが過去7代に渡る女系家族で、なかなか男の子が生まれません。田内さんのお母さんも最初に学校の先生と結婚しますが、女の子しか生まれず、両親に離婚させられ、2人目に結婚した人との間に生まれたのもやはり女の子だったので、またもや離婚させられます。しかし、その直後に、田内さんがお腹にいることがわかったのです。しかも、当の両親は、やりくりがうまくいかなくなり、お母さんたちをそのままにして、引っ越していってしまいました。お母さんは一気に貧乏な暮らしになり、水商売で働き始めます。そして田内さんが4つの時、ある日突然知らないおじさんがやってきて、一緒に暮らし始めました。それがお母さんの3番目の旦那さんでした。そして、やがて妹が、そして弟が生まれます。
 
 田内さんが小学校に入ったころ、目が覚めると両親とも仕事で家にいませんでした。とにかく貧乏だったので、お母さんは水商売以外の仕事もしていました。学校に行って、戻ってくると、まだ両親とも家におらず、妹が泣き叫んでいます。自分が学校に行っている間、ずっと泣き叫んでいたのか…。そう思うと、田内さんは学校に行けなくなりました。学校に行かず、家で妹や弟の面倒を見ていました。こうして小学校1年から5年の間、3分の2は学校に行かなかったのです。友だちもろくにおらず、勉強にもついていけない。当然、ますます学校に行くのが嫌になりました。
 
 状況が変わったのは6年生の時でした。お母さんが水商売をやめ、田内さんが妹や弟の世話をする必要がなくなりました。そして、ひょんなきっかけで少年野球を始めることになりました。実は、野球ではなく、ボーイスカウトに入るつもりで体育館に並んでいたのですが、同じ日に募集していた野球の方になぜか並んでしまっていたのです。こうして、野球を始めたものの、B軍のさらに補欠。試合に出られるわけもなかったのですが、A,B両軍が遠征に行ったときに、たまたま他の選手が全部ケガなどで出られなくなり、田内さんに1番レフトで出場するチャンスが巡ってきたのです。そこでいきなり、生涯の中で一番と思える大飛球を放ち、巨人の星のアームストロング・オズマだと言われました。この時の原体験が、その先40年間も野球を続けるきっかけになったと言ってもいいかもしれません。
 
 こうして野球を通して、友だちも出来た田内さん。何も考えずに、地元の中学校に進学します。しかし、そこはものすごく荒れた中学校で、わざわざ住民票を変えて、別の中学校に行く人が続出するほど不良のたまり場になっていたのです。田内さんのクラスには1年生なのに、番長のような不良がいて、彼と廊下でぶつかった時に、思いっきり殴られました。その少年はどこに言っても暴力事件を起こしていました。ある日のHRで、担任の先生が彼から暴力を受けたことがある者は手を上げろと言われます。クラスには彼の取り巻きが10人くらいいて、怖くて誰も手を上げなかったのですが、田内さんはそれを知らずに手を上げてしまいました。そうこうするうちに、彼は少年院に送致されることになります。すると、中学2,3年生の間で噂が流れるようになりました。「あの不良のAに臆することなく、堂々と手を上げたやつがいるらしい」こうして予期せず注目を集めた田内さんは、生徒会書記の立候補演説を1000人の生徒の前でやり、見事当選。こうして人前で話すのが大好きになります。でも実は、1対1になるのは苦手で、特に女の子とは話せなかったそうです。
 
 進路を考える時、就職するか、寮のある学校にいきたいと思った田内さん。実はその頃、母や義父と折り合いが悪く、なるべくなら家に帰りたくないと思っていたのです。そして、田内さんは周りの誰もが無理だろうと思っていた国立高知工業高等専門学校に補習付きながらも合格!
 高知高専でも当然野球部に入りました。高知高専はとても野球の弱い学校だったのですが、その年に限って強い子ばかり入部しました。ところが、あまりにハードな練習で5月の連休を待たずに、田内さんを除いた1年生の全員が退部してしまったのです。こうして田内さんは、予期せずセカンドをレギュラーでやることになりました。これも予期せず夏の高校野球地方大会ではベスト8に。けれど、3年生がやめると、部員が7人しか残らず、秋の大会には出られなかったのです。しかし、弱小チームだった高専がベスト8に躍進した夏の大会のことが新聞で取り上げられ、次の年にはたくさんの新入部員を迎え入れることができ、その年はなんとベスト4に。そして田内さんが3年のときもベスト8になり、高知高専始まって以来の3年連続ベスト8以内という快挙をもたらしたのでした。
 
 しかし、部活では大活躍していたものの、もともとレベルの合わない学校だったので、勉強では大変苦労し、胃潰瘍や十二指腸潰瘍になったほどでした。それでも、家に帰るのは絶対に嫌だったので寮生活を貫きました。
 5年生の時には、学生会長に選ばれます。でも実は、願ってなったものではありませんでした。「学生会長になって、高知高専で高知よさこい祭りに出るんだ」と言っていた寮の同室の友だちが、交通事故で亡くなってしまい、田内さんは彼の意志を継いだのです。
 こうして、高知よさこい祭りに出場しようとしますが、学校側が許可してくれません。高知高専は16歳から21歳までの年齢層がいる学校。祭りでお酒でも出て、問題になったら学校の責任問題になりかねない。そう言って断固反対されたのでした。しかし、田内さんは全校の3分の2以上の署名を集め、学校側を説得。そして、出場した高知よさこい祭りでは、踊りと踊りの間にゴミ拾いをし、特別賞として「爽やか団体賞」を受賞しました。これで学校は大喜びし、それ以来、高知よさこい祭りへの出場は学校の恒例行事になっているほどです。
 また野球部でも5年の時には監督を務め、こうした活躍に就職活動の時も名指しでオファーが来るほどでした。

 しかし、田内さんの担当教官は、「お前は大企業の歯車になるタイプじゃない」と言って、ある染物会社を薦めてくれました。「ここで、天下を取ってこい!」
その言葉に田内さんは心を奮い立たせ上京したのです。


パート.2に続きます。
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