今日の人47.嶋田和子さん [2012年07月18日(Wed)]
今日の人は、一般社団法人アクラス日本語教育研究所代表理事、社団法人日本語教育学会副会長の嶋田和子さんです。
![]() 嶋田先生は日本語教育に携わっている人間だったら、知らない人はいない位、有名な先生です。でも、そんなことをちっとも感じさせずにとっても気さくにお話くださる温かな先生なのです。 嶋田先生は1946年生まれ、子どもの頃は外遊びが好きで、いつも近所の仲間とわいわい外で遊んでいました。運動も得意で短距離走、長距離走ともに学校代表を務めたりしていました。今よりずっと男性中心社会だった当時としては珍しく、中学時代には女子として初の生徒会長を務めます。そして津田塾大学の英文科で学び、大学ではテニス部で活躍するなど、まさに文武両道を地で行く学生時代だったのでした。 大学を卒業後は、単なる事務職になるのが嫌で、外資系の銀行に就職します。でも、まだまだ親の意向には逆らえない時代。親の薦めでお見合い結婚し、専業主婦に。 長男が生まれ、その翌年には双子の次男三男が生まれ、子育てに忙しい毎日でした。でも、ただ子育てしているわけではありませんでした。子育てしながら、勉強会をいろいろと開催していました。そして、いかに家事を効率的にやるかも研究しました。でもそれは手抜きして効率的に、というやり方ではありません。その時の嶋田先生は、パンも味噌も全て手作り。編み物も全て自分でやるという徹底ぶりでした。 そうして下の子どもたちが小学校を卒業するまで、専業主婦を続けました。そして、彼らが小学校を卒業するとき、家族と話し合いの時間を持ちました。「これからお母さんは働こうと思うの。でもそうなると、あなた達にもお手伝いしてもらわなきゃいけないわ」 母が働きに出るのを子どもたちは反対するかと思いきや、返ってきたのは「やった~!」という反応でした。子どもたちは言いました。 「一度鍵っ子になってみたかったんだよね」 嶋田先生は、カウンセリングにも興味があり、心理研究所でも勉強していました。ある時、英語のカウンセリングを目にする機会があり、言語のちがいでカウンセリングにもこんなにちがいが出るものなのか、と驚きます。それがきっかけで、言語のちがいに興味を持つようになりました。そして、日本語教育に出会ったのです! わずか一ヶ月だけ養成講座に通って、すぐに日本語教師になった嶋田先生。そこからまっしぐらに日本語教育に打ち込んできました。なにしろ、全てが手探りなので、なんでも自分で作り出していくしかありませんでした。そして、嶋田先生の素晴らしいところは、それを自分一人のものにしておかないということでした。自分の作り出したものはすべて惜しみなくシェアしました。嶋田先生がシェアし続けていると、周りの先生方も変わり始めました。みんなそれを倣って、自分の考えたものをシェアするようになっていったのです。こうして、嶋田先生が働いていらしたイーストウエスト日本語学校は、学びの協働体へと変わって行きました。 嶋田先生は1997年にOPIに出会ったのも大きかったとおっしゃいます。OPIというのは外国語学習者の会話のタスク達成能力を、一般的な能力基準を参照しながら対面のインタビュー方式で判定するテストのことです。 OPIに出会い、言語教育観が変わりました。そして、OPIを取り入れていくうちに、イーストウエスト日本語学校のカリキュラムも変わっていきました。 1997年は財団法人日本語教育振興協会主催の日本語教育研究大会で初めて日本語教師による口頭発表会も行われた年でした。現場を多く知る日本語学校の日本語教師が口頭発表の場に出たのです。そして、それを発表したのが嶋田先生でした。先生は「韓国語話者の発音指導について」発表されたのですが、みなさんに好評で、大学の先生方や他の日本語学校の校長などから「大変おもしろかったので、ぜひ講義をしてほしい」と言われました。 それまで、そのような場で発表したことはありませんでした。発表について指導してくれる人もいなかったし、経験もなかった。でも、それまで現場で教えてきた、その実践の積み重ねがありました。その発表を機会にして、次々に発表する機会も増えていきました。 日本語教師の中には、私は発表の仕方なんてわからないから、やったことがないから、と尻込みする人も多いけれど、なんでも捨て身でチャレンジしていくと、必ず次につながっていくものよ、と嶋田先生は力強くおっしゃいます。 そして1999年には日本語教育学会の評議員にも選ばれます。こちらも、それまでは大学の先生ばかりで、日本語学校の日本語教師が選ばれたことはほとんどありませんでした。しかし、選ばれたからには、と嶋田先生は一度も評議会を休まず、日本語学校を代表する気持ちでずっと意見を言い続けました。すると、日本語教育学会も変わっていったのです。 今や嶋田先生は日本語教育学会の副会長にまでなられました。 こうして、日本語教育界で日本語学校の日本語教師の地位をぐっと押し上げてくださったのが嶋田和子先生その人なのでした。 何かあったらとにかく動く、そして個人の学びを組織の知見にしていくことで、その組織は活性化する。そういう作業をコツコツと積み重ねてこられた嶋田先生。その大きな成果のひとつが、「できる日本語」という日本語の教科書です。 「できる日本語」はこれまでとはまったくコンセプトのちがう新しい教科書。文法積み上げ式ではなく、日本語によるコミュニケーションができることを目指し、「自分のこと/自分の考えを伝える力」「伝え合う・語り合う日本語力」を身に付けることを目的にした教科書です。コミュニケーションで重要なのは、言語知識そのものでなく、自分の持つ言語知識を使って何ができるか、ということです。この考え方を重視し開発されたのが、「できる日本語」です。そして、この教科書の開発に携わったのは18人の教師、そして出版社も日本語の大手の出版社2社が協働でできた教科書。それこそ、個人の学びを組織の知見に、そしてみんながつながってものを作り上げていく、という嶋田先生の想いがぎゅっと込められた教科書が出来上がったのでした。それを如実に物語っているのが、教科書の最後のページです。教科書作成に携わった教師、編集者、出版社、そのページには、たくさんの人のつながりの輪が表されているのです。 ![]() 今、嶋田先生は、「できる日本語」のコンセプトをもっともっと広めていきたいと思っています。そのために勉強会に呼ばれれば、全国各地に出かけています。 そして、日本の教育を日本語教育で変えることが、嶋田先生の夢です。制度をきちんと整え、日本語教育で教育界全体を活性化していきたい。それが夢物語だとは思っていません。そんな嶋田先生たちの想いが描かれた本があります。 「日本語教育でつくる社会 私たちの見取り図 著者:日本語教育政策マスタープラン研究会」 この本の中で、嶋田先生は、「地域力を育む日本語学校」として日本語教育の生きた現場としての日本語学校が、外国人に日本語を教えるだけでなく、地域を元気にする力を持っていることを示し、その力をフルに引き出すために体制整備が重要であると強調されています。 そして、日本語教師が社会でもっと活躍できるように、もっと認知されるようにしていきたい、日本語教師といろいろな人々をつないでいきたい!そういう想いで、今年の3月末に「アクラス日本語教育研究所」を設立されたのです。アクラスというのは、「明日に向かって」という意味があるそうです。利益をうまなくてもいいから、みんなが集える場を作りたかった。学会でもなく、日本語学校でもなく、大学でもなく、誰でも気軽に集えて、そして学べて、つながっていける場、それがアクラスなのです。 「人生何が起きるかわからないものよ、私は何かが起こった時に、即決断するようにしているの。」と嶋田先生。 長年勤めてきたイーストウエストをお辞めになることになるとき、「私がしたいのは人つなぎ!」と他からのお誘いは断り、颯爽とアクラス日本語教育研究所を立ち上げられたのです。 そして今、嶋田先生はご自身でホームヘルパー2級の実習にも通っておられます。それは、定住外国人の社会参加や自己実現の一つの方法として、介護の道があると考えたからなのです。そのためには、まずは介護の現場を知りたいと考え、講座に通い始めました。 介護の日本語教育によって、定住外国人は「ホームヘルパー→介護士→ケアマネージャー」といったキャリアデザインが考えられます。また、日本語教師の雇用創出にも繋がりますし、さらには地域社会の活性化にもつながります。そんな思いで、今、ホームヘルパー2級の実習に通っているのだそうです。 今まで接したことのない人たちの中に行くと、全てが新鮮です。そして新たな学びを得ることが非常に多い。それが全て日本語教育にもフィードバックされてくるのが楽しくてたまらない、と嶋田先生。 日本語学校、日本語教師、地域の人たち、全てをつないでいきたい そうアクラス、明日に向かって… 嶋田先生の情熱を、私たちも少しでも見習って、地域を元気にしていくためにがんばっていきたいとの想いを強くした、今回のインタビューでした。 ![]() 日本語教育〈みんなの広場〉 http://nihongohiroba.com/ アクラス日本語教育研究所 http://www.acras.jp/ |