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今日の人28.田村太郎さん [2012年01月17日(Tue)]
 今日の人は、ダイバーシティ研究所代表の田村太郎さんです。
田村さんは兵庫県伊丹市生まれ。めっちゃおしゃべりで陽気なおっちゃん(私より年下です。ごめんなさい)です。

 田村さんは人生そのものがダイバーシティ!
ベルリンの壁が崩壊した1989年、田村さんは高校3年生でした。日本の大学入試制度が大学入試センター試験に変わった時でした。でも、田村さんはセンター試験は受けませんでした。親にめちゃめちゃ怒られましたが、今、この時にベルリンに行かなくてどうする!と思ったのです。高校卒業後、田村さんはシベリア鉄道に乗ってヨーロッパに。当時はまだロシアではなくソ連の時代でした!アメリカと接近し、ソ連崩壊が目前に迫ったモスクワの街には、初めてマックができ、2時間待ちの行列ができていました。そしてなんとモスクワのボリショイ劇場ではダイハードを上映!田村さんはボリショイ劇場でダイハードをみたのでした。字幕付きではなく、吹き替えをたった一人の声優がやっているダイハードでした。
その後、田村さんは東西ドイツが統一して初めてのお正月をドイツで迎えることになります。歌い、大騒ぎし、ハグしまくり、声が出なくなってしまった田村さんは1991年のお正月をそうして迎えたのでした。
 ’91年の1月、田村さんはラジオ短波を聞いていました。なぜか妨害電波で聞き取りにくいな、と思っていると湾岸危機だと言っていたはずのラジオが次の日には湾岸戦争に変わっていたのです。しかし、ヨーロッパにいると、湾岸戦争より、ロシアが西欧諸国向けのパイプラインをとめるといっていることの方がよほど大きなニュースとして取り上げられていました。
 その後、フランスのマルセイユから船でアルジェリアに渡ります。マルセイユの船乗り場のお兄さんが「危ないから行くな!」としきりに止めましたが、田村さんは意に介しませんでした。今、行かなくていつ行くんや?と。
 当時のアフリカの人々は、みんな東洋人はカンフーや柔道ができると思い込んでいました。そのおかげか田村さんよりよっぽど大きな欧米人が襲われていても、田村さんは全く襲われることはありませんでした。それどころか、ガタイのいいごっつい兄ちゃんが何人も「柔道を教えてほしい!」と言ってやってきました。一応体育の授業では柔道をやっていましたから受身の基本くらいはできたので、それだけ教えて、「100日練習してからまた出直してこい」と言っていたそうです。アフリカの子ども達はカンフーの真似をしながら田村さんの後をついてきました。今のようにネットもない時代でした。でも、かえってそれがよかった。もし、今の時代だったら、あのような旅は絶対にできなかっただろうから…。
 アルジェリアからはサハラ砂漠を通ってニジェールに渡りました。今は内戦で通れない場所です。田村さんは不思議なくらいの巡り合わせで、国と、地域と、人との出逢いを繰り返してきたのでした。
 ケニアのナイロビではフロリダ2000というディスコにしょっちゅう通っていました。レゲエナイトで踊り明かしていた若き日の田村さん。何人かの女の子とお付き合いもしました。本気で結婚しようと思った女の子もいました。耳の聞こえない女の子でしたが、田村さんは彼女からもらったトレッドヘアのエクステを一本ずっとつけていました。本命の彼氏に一本トレッドのエクステをつけるというのが、アフリカの女の子の愛の表現なのだそうです。ずうっとそれをつけていた田村さん。しかし、その愛は成就しませんでした。
 田村さんは一度日本に戻り、再びナイロビに渡ります。そして次は南アフリカへ。当時の南アフリカはアパルトヘイトの過渡期でした。デクラーク大統領が就任し、アパルトヘイト撤廃へと動いている時代でした。南アフリカは実は非常にヒッチハイクのやりやすい国です。世界でヒッチハイクのやりやすい国は二つある。ひとつは南アフリカ、そしてもうひとつは日本なんだとか。
 田村さんがヒッチハイクをすると、白人のベンツ、黒人のトラック、どちらも止まってくれました。そして、共通して聞かれるのが「どこいくの?急ぐの?今晩泊っていけば?」
白人の家に泊めてもらった時はプール付の豪邸です。そこでその白人は決まって言います。
「アメリカ人は黒人を駆逐してきたが、俺たち南アフリカの白人は黒人と共存してきたんだ。それを日本の人に伝えてほしいんだ。」
黒人の家に泊めてもらった時は、1000人住んでいるところに水道の蛇口が二つしかないような場所です。それでも陽気に泊っていけというのは変わらないのでした。そして、そこでは黒人が決まって言います。
「日本に帰ったら日本の人たちに伝えてほしいことがある。俺たち黒人がいかに差別を受けてきたかということを」
 やがて南アフリカはアパルトヘイトを撤廃し、ネルソン・マンデラが大統領になるわけですが、この歴史的な過渡期に南アフリカにいられたことを田村さんはとても幸運だったと感じています。しかし、何より、南アフリカは大好きな国だったのでした。
 やがて田村さんはケープタウンから船でブラジルへと渡ります。ブラジルに行くと、そこでは白人と黒人が一緒に働いていました。南アフリカでの黒人の鬱屈した思いが晴れるような現場をいきなり目にしたわけです。全くちがった価値観。きっと日本から直接ブラジルに渡っていたら、こんなにも衝撃を受けることはなかったでしょう。南アフリカからブラジルへと渡った。そのことが田村太郎が多文化共生に目覚める一番大きなきっかけになったといってもいいでしょう。
 日本に帰ってからは、在日フィリピン人向けレンタルビデオ店で勤務します。その中で、日本で暮らす外国人の抱えている課題の多さに気付きます。そして1995年1月17日、あの阪神・淡路大震災に被災。その直後から外国人被災者へ情報を提供する「外国人地震情報センター」の設立に参加します。
 1997年から多文化共生センター代表として多文化共生の考えを全国に広めていきました。2004年からはIIHOE[人と組織と地球のための国際研究所]研究主幹として、NPOのマネジメントサポートや自治体との協働にテーマを移し、非営利民間の立場から地域社会を変革するしくみづくりに取り組みました。また、2007年1月からダイバーシティ研究所代表として、CSRにおけるダイバーシティ戦略に携わっています。
そして、2011年3月東日本大震災を受けて、「被災者をNPOとつないで支える合同プロジェクト(つなプロ)」、スペシャルサポートネット関西 の発足に関わり、それぞれ代表幹事、世話人を務め、また内閣官房企画官に就任し、被災地のニーズ把握や震災ボランティア促進のための施策立案にも携わるなど、まさに寸暇を惜しまず飛び回っています。
 阪神・淡路大震災を経験し、その後の中越沖地震等でも、走り回ってきた田村さんだからこそ、東日本大震災復興対策本部ボランティア班企画官(現在は復興庁上席調査官)として大きな力を発揮していらっしゃるのでしょう。でも、田村さんは自分が表に出ていくことは決してしません。裏で支えることに徹しています。支援者が主役になっては絶対にダメだと思っているからです。あくまで、支援される人が主役、ボランティアはわき役、政府はまた更にわき役で支えなければならないと考えています。調子のいいことを言う人はたくさんいるけれど時間が経つほどに本当に信用できる人はだれか、それを被災した人たちはおのずとわかってきます。地元の人たちが自分たちで立ち上がるのを手助けする、そんな支援をずっとしていきたい。
もちろん、田村さんは実行の人ですから、すでに起ち上げているプロジェクトもいろいろあります。講師として教えている甲南女子大の学生達と一緒に釜石の商店街に仮設商店街もオープンさせました。商店街を応援する女子大プロジェクトとしてチアリーディング部がチアリーディングをしたり、とまさに釜石版女子大生AKB48?
今、仮設住宅で孤独死していくのは、ほとんどが男の人だそうです。女の人はあまり亡くならない。なぜか?おばちゃんたちは茶話会などに出てきて、おしゃべりでストレスを発散している。でもおっちゃんたちは茶話会には出てこない。仕事はない。ストレスのはけ口がない。おっちゃんたちの愚痴を聞く飲み会を企画すれば、孤独死するおっちゃんは減るでしょう。でも、行政はそんな時間外のことなんてできません、という。そういう考え方自体、変えないといけない。仕事の在り方も、非正規雇用はダメだ、なんて言ってる場合じゃない。週に2,3日、1日3〜5時間の仕事だっていい。そうやって雇用を増やせば、自殺防止にもなるのだ、と熱く語る田村さん。都市型のワークライフバランスを地方に当てはめるのは無理があるのに、霞が関が出してくるのはフルタイムでしっかり働くことを前提にしたワークライフバランス。そういう頭の固さをなんとかしないといけない。
 でも、それは我々だって同じこと。仕事がないとボヤくだけではなく、仕事を自ら見出していかなければ…。ガレキを撤去するだけでなく、撤去したガレキを活用することを考えてもっと仕事を増やしていかないとだめなのです。例えば、津波をかぶった缶詰を安く売り出しているけど、逆にプラスチックケースにいれて高く売り出せばいい。付加価値をいかにつけるか、付加価値をあみ出していくのがビジネスなのだ。そしてそれが出口を見つけることにつながるのです。
 ボランティアであれ、なんであれ、出口デザインをしっかり描くことが大事なのに、それができていないところが多すぎる!と田村さん。結局、現場が好きな人はケースワークばかりやっていて、フレームワークをやらない。フレームワークをやらないと、やはり出口デザインは描きにくい。でも、逆にお役人のようにフレームワークばかりやっていて、ケースワークをやらないのもダメなのです。大事なのは、ケースワーク発のフレームワーク。田村さんはそれができる、そして出口デザインを鮮やかに描ける、本当に貴重な人なのです。
 田村さんのお話を聞いていると、本当に根性据えてやらんといけないなと熱い気持ちになってきます。こんなにたくさんの仕事をやっているにも関わらず、1年200本もの講演をこなす田村太郎さん。もし、今休みが取れたら何をしたいですか、というちょっと酷な質問を最後に投げかけてみました。
 休みが取れたら行きたい場所はキリマンジャロの麓にあるタンザニアのモシという町。自分の前世はマサイかキリンだったのではないかと思うほど、全身が解放される場所だそうです。モシで全身解放されてキリマンジャロコーヒーを飲む。そんな日が早く来るといいですね。いや、きっと当分は無理なのでしょうけど…。いつかそんな日がきたら、ぜひお供したいものです。
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