• もっと見る
«今日の人227.山路健造さん | Main
<< 2025年01月 >>
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31  
プロフィール

宮田妙子さんの画像
カテゴリアーカイブ
リンク集
最新記事
https://blog.canpan.info/diversityt/index1_0.rdf
https://blog.canpan.info/diversityt/index2_0.xml
月別アーカイブ
このブログをSNSで紹介
最新コメント
おかうえ
今日の人152.吉谷奈艶子さん (08/21) りんりん
今日の人114.村木真紀さん (05/19) ゆかり
今日の人114.村木真紀さん (05/09) 宮田妙子
今日の人149.河除静香さん (09/24) 橋本桂
今日の人149.河除静香さん (09/08) 高木敏夫
今日の人123.高橋太郎さん (04/14) 大太
今日の人4+.森本耕司さん (07/17)
最新トラックバック
今日の人228.坂井公淳さん [2025年01月17日(Fri)]
 今日の人は、長野県飯田市にある感環自然村代表理事の坂井公淳(さかいきみあつ)さんです。感環自然村は【五感を使い 人と人 人と自然の環を創る 国籍も言葉も関係ない】そんな場所で、キミさんはそこではみんなから村長と呼ばれています。他にも通訳翻訳家(大リーグでも活躍!)、米国救急救命士・消防士、温浴施設の運営などいろんな顔を持っています。
S__15671298.jpg

 キミさんが生まれ育ったのは新潟市。子どものころは泣き虫だけど負けず嫌い。2歳年上のお兄さんがいじめられていると、お兄さんの代わりにいじめっ子にケンカをふっかけて泣かされて帰ってくる、そんな子どもでした。海が近かったので、海で遊ぶのも好きだったし、小さい頃から動物が大好きで、うちで飼っていた柴犬の朝晩の散歩係はキミさんでした。
 通っていた幼稚園がカトリック系の幼稚園で神父さまもいらして、教会の日曜学校にも通っていました。教会にはボーイスカウトもあって、毎週土曜日に自転車で20分かけて欠かさず通っていました。キミさんは野外活動のプロフェッショナルですが、野外でのスキルは子どものころからずっと行っていたボーイスカウトで磨かれたと言っても過言ではないでしょう。

 キミさんが小学校2年生の時に、お父さんが大事故に遭い、頚椎を痛めて危篤状態に陥りました。幸い命はとりとめましたが、2か月面会謝絶が続き、2か月後にお父さんに会いに病室に入ると、頭をワイヤーで繋がれたお父さんの姿が目に飛び込んできました。病室で2か月ぶりにお父さんと一緒にカレーを食べたことは半世紀近くたった今でも鮮明に覚えています。
 実はお父さんは事故に遭った日の翌日に、キミさんと釣りに行く約束をしていたのですが、事故の時、釣りに行けなくなってごめんと言って気を失ったのだと後から聞きました。そうして、お母さんには事故の相手と子どもたちを会わせないようにしてくれと頼んでいたそうです。子どもたちに憎むという感情を持たせたくないというお父さんの配慮なのでした。
 そういうこともあって、キミさんはお父さんにしごく気を遣って育ちました。それもあってか、どちらかといえばじいちゃんばあちゃんに育てられた感じでした。キミさんはばあちゃんが作ってくれるおにぎりが大好きでした。炊きたてのご飯にお醤油をたらして作る、ごく簡単なおにぎりですが、それが何より美味しかった。そりゃあ、米どころ新潟の美味しいお米でおばあちゃんが愛情込めて作ってくれたおにぎりにかなうものはありませんよね。
 
 キミさんは妙高でのスキー教室にも行っていました。6年生の時、三浦雄一郎さん主宰のアラスカキャンプに行く話がありました。キミさんのお父さんは子どもたちにはお金より経験を残してやりたいと考える方でしたから、快くキミさんをアラスカキャンプに送り出してくれました。日本全国から15人ほどのメンバーが集まり一緒にアラスカへ。氷河を登ったり、鮭を釣って焼いて夕飯を作ったり、広い海岸にテントを張って生活しました。キャンプには現地のイヌイット兄弟2人が毎日遊びに来てくれました。言葉は通じなくても心は通じるんだな!を実感する10日間になりました。今、キミさんがやっている感環自然村はこのアラスカでの経験がとても大きいのです。言葉が通じなくてもいい。どんな子が来ても楽しめる。それはこの時にキミさんが実感したことだからです。

 7年前、キミさんがある本を読んでいて面白い形の焚火の写真を見つけたときに、あれ?と思いました。その写真には作者が子どもたちを連れてキャンプに行ったときのものだと書かれていました。そのピンボケ写真はまさにあの時のアラスカキャンプのものだったのです。アラスカキャンプでキミさんの班の世話をしてくれたスタッフだった方が今やニセコのレジェンドと呼ばれ、シーカヤックガイドや登山家として有名な新谷暁生さんでした。キミさん、いてもたってもいられなくなって、手書きの手紙を新谷さんに出しました。すると、新谷さんから新しい本と一緒にお返事が送られてきたのです。
 キミさんはライフワークの現場でどうしても新谷さんと会いたいと思いました。そこで、新谷さんがガイドをやっている知床半島一周のシーカヤックツアーに申し込みました。知床半島一周のツアーは過酷です。自然が相手なので、1週間その場から動けなくなることもあります。そういう判断を含めツアーガイドの力量がとても問われるのです。判断を誤ると、記憶に新しい知床遊覧船沈没のような悲惨な事故につながりかねないからです。一緒にシーカヤックを漕ぎながら新谷さんのツアー客を絶対に守り抜くというプロ魂と優しさをひしひしと感じるツアーでした。ツアーからの帰りの車の中で、新谷さんは、自分は両手の腱を切ってしまったので手は動くけれど感覚がないのだと教えてくれました。それでもシーカヤックに乗り、バイオリンを弾くのです。人生の師匠というべき尊敬できる人でした。帰り際「また来ます」と言ったら「お前はもう来なくてもいい。」と言われました。「お前はもう大丈夫だから、今の場所で自分のすべきことをしなさい。」そう言ってくれたのです。

 話を小学校時代に戻します。キミさんは小学生の時、足がとても速く運動会はたいていリレーのアンカーで相手のチームの選手を抜かして勝つのが常でした。それは黄色い声援が飛んでいたことが容易に想像できますね。陸上競技会の幅跳びでも新潟の小学生記録を作ったキミさんです。
 動物が大好きだったこともあるのか、6年生では飼育栽培委員長もやっていました。5年生のヤンキー系の子が鶏やチャボの世話をサボったので注意したところ、その子が5年生を全員引き連れて仕返しに来ました。なんとキミさん1人vs 5年生25人!会ったこともない子に石を投げられたりしてショックでしたが、小学校の先生に「あなたは悪くない」と言われたことは救いでした。

 中学校では剣道部に入って部長になりました。剣道マンガがかっこよくて始めたのですが、真夏はあまりに暑くてみんなでボクシングをしたりして、それを先生に見つかって叱られたりしていました。ボーイスカウトの活動はずっと続けていて、教える立場になっていました。小学校2年生から中学2年生までピアノも習っていたので、合唱コンクールで伴奏したりもしていました。ホントに多才なキミさんです。でも、勉強には本当に興味が涌かず、全然勉強しませんでした。活字で好きだったのは冒険物の本くらいでした。

 キミさんと違ってお兄さんは小さい頃から勉強がとてもよくできた優等生でした。そのお兄さんに敬和高校はいいぞ、お前は敬和に行った方がいいぞ、と毎日のように言われたキミさん。敬和高校はミッション系の高校だったので、当時としては珍しく土曜日が隔週休みの学校でした。(当時土曜日は半ドンが一般的)学校のある土曜日はフリーレッスンという先生方が自由に組み立てる授業があって、運動系から文科系までさまざまなフリーレッスンがあるのでした。インターナショナルスクールっぽいところもあって、キミさんはお兄さんに薦められるままに敬和高校に入学しました。当時、受験の英語の点数でクラス分けが行われていたのですが、英語だけは好きだったキミさんは上から2番目のクラスになりました。部活は中学と同じく剣道部に入ったのですが、先輩が犬に石を投げるのを見て、やめました。動物大好きなキミさんにとって、それは許せない行為でした。犬の散歩はどんな時も続けていて、友だちと遊んでいても犬の散歩の時間に間に合うように必ず帰るのでした。
 2年生になる時、担当の先生が辞められ上のクラスに行くか、下のクラスに行くか選択を迫られました。キミさんは上のクラスに行くことを選んだのですが、見事に玉砕してしまいます。好きだった英語ですらさっぱりになり、赤点続きになりました。
 当時仲の良かった友だちがバイクに乗り始めたこともあって、キミさんも中型のバイク免許を取り、休みの日にはバイクで出かけたりもしていました。何か夢中になれるものがあったわけではないけれど、それなりに楽しい高校生活を過ごしていましたが、3年生の2月になった時、校長室に呼ばれます。今のキミさんからは想像できませんが、英語が赤点だらけで、このままじゃ卒業できないからこの後毎日学校で自習して毎日テスト受けなさいと言われたのです。こうして、何とか卒業は出来たのですが、大学受験は見事にダメでした。キミさん、卒業できないくらいだったのに、受験していたのはなんと医学部。大事故で死に瀕したお父さんを助けてくれたドクターがかっこいいと思って、ERのドクターになりたかったのです。でも、勉強していないのに、医学部に受かるはずはありません。かくして、予備校生活に突入したのですが、確固とした覚悟がないままの浪人時代、新潟駅前のファストフードのお店で友だちと時間を潰すなどして勉強に夢中になれることはないままでした。アルバイトをしていたクレープ屋さんでは店長になり、1日に何百枚もクレープを焼き、高校生も店長、店長と慕ってくれて売り上げも順調に伸びていきました。

 でも、キミさんの中では、ボーイスカウトで培ってきた野外教育についてもっとちゃんと勉強したいという思いが大きくなっていました。そんな時、アメリカ南イリノイ大学に森林学部野外教育科があるのを知ります。ここだ!と思いました。でも、アメリカの大学はTOEFLの点数がちゃんと取れないと入学することはできません。そこで、まずは南イリノイ大学附属の英語学校に入りました。日本語学校も日本語で日本語を教える直接法が主流ですが、英語学校もそうでした。キミさんにはこれがピタリとハマりました。英語で英語を習ったら本当にわかりやすくて、キミさんの英語力は飛躍的に伸びました。学期が終わった時に、キミさんは2つ上のクラスにスキップしました。さすがに2つ上のクラスはとても難しかったけれど、TOEFLでもいい点を取り、見事にイリノイ大学森林学部野外教育科に入学します。

 青春時代がいつかと問われると、キミさんにとっては間違いなくアメリカでの大学時代でした。もちろん勉強はものすごくハードで毎週レポートを出さなければなりませんでしたが、平日はとことん勉強して、週末はとことん遊びました。キャンプにもよく行きました。−20℃でもキャンプに行くのです。わずか250円で映画も見られましたから映画にもよく行きましたし、barがたくさんあったので金曜夜はみんなでbarに繰り出していました。
 野外での実習も多く、パークマネージメントやファイヤマネージメントもとても好きな授業でした。パークマネージメントは心理学も入っていてとても興味深い授業でした。例えば自然の木を倒しておくことで、人の動きをマネージメントできます。そうやってトレイルから逸れてしまう人をコントロールすることで、森林に必要以上に人が入り込むことを防ぐことができるのです。ファイヤマネージメントでは、山火事のコントロール法なども学びました。
 
 アメリカにはホットショットと呼ばれる、大規模な山火事が発生した際真っ先に派遣される山岳救防隊がいます。ホットショットになるためには座学ももちろんあるのですが、長距離測定では100sオーバーの教官を抱えて走ったりしなければならず、とにかく体力がないとついていけないのです。キミさんは在学中に半年でこのホットショットの資格を取りました。それだけではなく、救急救命士の資格も取ります。きっとERの医者になりたいというかつての思いも心のどこかにあったからなのでしょう。アメリカの救急救命士は4年に一度更新があります。その4年間の間に新しく出た治療法や薬のことをちゃんと知っておかなければ資格を更新できないのです。レクチャーはERや消防署で受けなければならないのですが、キミさんが資格をとった消防署では毎週木曜日の夜にレクチャーをやっていました。それで、木曜は大学が終わるとすぐに消防署へ行き、そこに置いてあるドーナツや食事をあたりまえのように食べてレクチャーを受けていたのでした。

 レクチャーを受けに行くたびにそろそろ俺を雇う?と聞いていたら、半年くらいしてから署長に面接するかと聞かれました。そしてその面接日、市長や議員が談笑していて、Tシャツとキャップいうラフな格好の市長からコーヒー飲む?と聞かれました。コーヒーを飲みながら30分くらい話をしていたら、市長に「Welcome to the family!」と言われ握手されました。それが合格の合図だったのです。
 消防署の隊員たちは大喜びしてくれて、「Kimi、これから俺たちは正式に兄弟だから、お前が困っていたら俺たちは死ぬ気で助ける」と言ってくれました。その言葉通り、消防署の仲間たちは本当の兄弟のように、何をおいてもお互いを助け合うのでした。

 消防士時代のキミさんのパートナーはマイクさんでした。Mike & Kimiはとてもいいコンビでした。マイクは小柄だけど肝がすわっていて、ホースの準備がまだできていなくても斧1本持って人がいるところへ助けに入るそんな勇猛果敢な消防士でした。最近までマイクはずっと署長をしていましたが、つい先日、引退し、今後はキャンピングカーで全米をまわるそうです。来春には日本にも遊びに来てくれるので、キミさんはその日を楽しみにしているのでした。
 キミさんは消防の仕事ももちろん好きでしたが、救命士としての仕事が一等好きでした。救急車で現場に入ってケガをしている人に手当をしたときに、人ってこんなに安心した顔をしてくれるのだと本当にうれしくなるのです。救急車の中の限られた道具でいかにして命を助けるか、そうしてキミさんが今まで出動した現場での救命率はなんと100%なのでした。
 けれどもちろんやれなかったことで後悔したこともたくさんありました。そんな時は署長から「落ち込んでばかりいたら助けられる人も助けられなくなるぞ」と諭されるのでした。そう言ってくれたキミさんにとって2人目の署長のブルースからは本当に学ぶことが多くありました。独立記念日、キミさんたち隊員は紺の制服、署長は真っ白の制服に身を包み町の人たちを迎えいれます。ブルースは「消防署はサービス業だ、地域に人に貢献してなんぼの仕事だ」と言っていました。だから消防車に乗りたいと言われたら乗せてあげたらいい、町の人たちが喜ぶ仕事をしろと。町の人たちが帰った後、ブルースは真っ白な服を着たまま、1人でゴミの片付けをしていました。「誰かがやらなければいけないなら俺がすればいい。」ブルースはそういう人でした。消防隊員としてというよりは、人としてあるべき姿を教えてくれた人でした。キミさんは、その姿に倣って、誰かがやらなければならないなら俺がやればいいじゃんと思うようになり、そうしてそれを実践している義の人なのでした。

 消防署の仲間たちはとにかく体を鍛えあげるのが好きでした。時間さえあれば筋トレで、やらないと、「おいKimi、そんなんで俺たちを助けられるのか?」と言われるので、否応なしに筋トレです。キミさんは今でもたくましい体型ですが、アメリカ時代はさながら北斗の拳のケンシロウのようでした。そうして、やたらとゲイの人にもてました。それは今でも変わっていないようです。

 キミさんは32歳までアメリカで消防士&救急救命士を続けました。けれど、お父さんの体調が悪くなり、日本に戻ってくることを決めました。
 今住んでいる飯田市にはニュージーランド人の通訳の仕事で初めて来ました。ニュージーランドから日本のラフティングガイドに教えに来ていた人の通訳でした。飯田っていい所だなぁとこの時に思ったキミさん。その後、自分自身もラフティングガイドになれば通訳もしやすい、とガイドの資格も取りました。こうして、ニュージーランド人と一緒に暮らしながらガイドをするという飯田での暮らしが始まりました。2人暮らしが3人暮らしになり、いつの間にか7人暮らしになっていました。朝から晩まで川の上で一緒、家でも一緒。でも、ニュージーランドの人は、人がすごくよくて一緒にいて居心地がよかったので、ちっとも苦になりませんでした。もし、日本以外で住みたい国と言われたらニュージーランドと答えるくらい、キミさんはニュージーランドが好きなのでした。

 もちろん、アメリカも好きです。人種のるつぼのアメリカ、人種がごちゃごちゃなので、許容する力も自由度も高いし、キミさんは食べものもちっとも気にならないので、アメリカも暮らしやすい国なのでした。

 ラフティングガイドは冬の時期には仕事がありませんでした。そこで、国際スキー連盟の仕事で9月から3月までワールドカップのモーグルの通訳として海外でも仕事をしていました。ワールドカップの通訳をするということは、一緒にそのコースのてっぺんまで行って、そのコースを下まで滑ってこなければならないということでもあります。つまり、キミさんは世界中のワールドカップのコースを滑っているのです!運営スタッフの人たちと現場の運営もやりましたから、4000m級のコースでもエクジットゴールに行ってスポンサーの名前入りの巨大バルーンを立てるということもやっていました。私の抱いていた通訳のイメージとはちがいすぎるキミさんなのでした。

 ヨーロッパの国はくまなく廻りましたが、印象的だったのはフィンランドとチェコでした。フィンランド人はシャイで日本人に近かったこと、プラハが童話の世界から飛び出したみたいにきれいだったのが強く印象に残りました。

 ラフティングガイドの方は、ニュージーランド人が帰国した後、安全面の配慮がおざなりになり、もうここにはいられないと、キミさんはそこを去りました。そうしてオーストラリアのプロのラフティングの人と3人でラフティングの会社を新たに作りました。

 飯田市からも子ども向けのキャンプを企画する仕事を受けるようになっていました。そんな時に日系ブラジル人の3兄弟がやってきます。彼らは3人とも学校には行けていませんでした。キミさんはアラスカでのキャンプを思い出しました。言葉や国籍は関係ないじゃないか。この子たちが楽しめるキャンプをやろう。そうして作ったのが感環自然村でした。最初感環のキャンプは5回でやめようと思っていました。なぜ5回なのかというと、五感を使う5回。視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚、それぞれのテーマで5回やって、それが終わったら解散しようと思ったのです。しかし、このキャンプが大人気で5回で終了とはならず、毎週プログラムをやるようになりました。そしてこのキャンプに感化された学生がインターンとして感環に来てしまいました。感環が大好きで、保育園でバイトしながら来てくれて、こうなるとやっぱりここを続けなければとなるのでした。

 2004年からはモーグルで知り合った人から繋いでもらって、メジャーリーグでも通訳をするようになりました。日米野球の開幕戦での通訳をずっと続けていたキミさん。イチローの引退試合でも通訳を務めました。

 天皇陛下の即位の礼の時は、外交官と一緒にアゼルバイジャンの大使の通訳も務めました。アゼルバイジャンの担当になるということは、外務省に行くまで分かりませんでした。外務省の会議室の机の下でアゼルバイジャンってどこだ?とググったくらいです。空港までアゼルバイジャン大使を迎えに行き、即位の礼が終わって空港に送り、飛行機が飛び立つのを見送るまでが仕事でした。G7の仕事は通訳するだけではなく、黒塗りの車列をコントロールして手伝う部署でもありました。
 ディスカバリーチャンネルやBBCなど海外メディアの撮影のフィクサーもやりました。空港に迎えに行ってから、フルアテンドが始まります。どこで撮影して、どういう人と会いたいか、撮影が始まるまではいろいろ問題も起きるけど、そのいろいろを整え続ける、Fixするからコーディネーターではなく、フィクサーと呼ぶのでした。

 こうして、いろんな分野で通訳することによって、様々な場面で英語を使う仕事に慣れていきました。キミさんが子どもたちに伝えたいのは、やりたいことを頭の隅に持ち続けること、そして、失敗してもいいやと思える力。いっぱい失敗すればいいのです。そしていっぱい妄想すればいつか辿り着けるから。
 英語が話せることによって、世界中に友達が広がる。だから英語は楽しい、とキミさんは思います。世界に友達ができる道具としての英語を子どもたちにも体感してほしい。そんな思いでキミさんは子どもたちに英語を教えています。

 キミさんは国際スキーパトロール連盟でも通訳をしているのですが、国際スキーパトロール連盟では数年ごとに世界のどこかの国で国際会議をしています。スウェーデンの次は2011年の春に日本で国際会議をやるということが決まっていました。その国際会議に向けて2年をかけて準備をしていた矢先に起きたのが東日本大震災でした。国際会議を開くのは無理という判断がなされ、ぽっかり時間ができます。アメリカの消防士も東日本大震災の現場に入り始めたという話を聞き、キミさんは災害通訳に登録。しかし、災害通訳が機能しておらず、現地に入れませんでした。そこで、知り合いの知り合いという枠でつなプロ(被災者をNPOとつないで支える合同プロジェクト)から1週間東北へ入ります。石巻から気仙沼の大島までの避難所で要配慮者を見つけて専門家につなぐことをやりました。2週間やって、もしよかったらエリアマネージャーをやりませんかと言われ、そのままエリアマネージャーになりました。毎週100名から200名のボランティアが入ってくるのをまとめていました。そして、日本財団の先遣隊として活動し、被災者支援拠点運営人材育成事業をやりました。しんどい時間を共に過ごしたつなプロの仲間たちはいわば戦友でした。得意分野と不得意分野をうまく補い合うことができました。その時の仲間たちがダイバーシティ研究所の田村太郎さんや特定非営利活動法人み・らいずの河内崇典さん、そして今も一緒に輪島でも活動しているCOACTの渡嘉敷唯之さんや鶴巻ファームの鶴巻耕介さんです。やれる時にやれることをやれる場所でやる。これは東日本に留まらず、今回の能登半島地震における活動でも同じことが言えます。そして、キミさんが被災地で活動ができるのも、感環自然村のスタッフがしっかり現場を守っているからに他ならないのでした。
 
 その感環自然村では昨年12月に待望のkankanHouseがオープンしました。

S__15671300.jpg

 子どもたちの第3の居場所として素敵なログハウスが完成したのです。薪ストーブの暖かな温もりに包まれて子どもたちの笑い声が聞こえてくるそんな素敵な居場所です。これは感環自然村としては3棟目の建物になりますが、キミさんはさらにもう1か所子どもたちの居場所を作れたらと思っています。感環自然村の日々の活動については、こちらのブログをご覧ください。→感環自然村の村長便り

 今、キミさんは年を重ねるって楽しいと心底思っています。もちろん、腰が痛くなるとかそういうことはあるけれど、周りには年を重ねることの楽しさを教えてくれる達人がたくさんいて、「この若さになるのに70年もかかった」とおちゃめに言って日々を楽しんでいる人生の師匠って意外と近くにいるものなのです。すごい知識があっても奢ることなく飄々と生きているそんな人生の達人たちを見ていると、自分も誠実に人生を生きていかなきゃいけないなと思わされるのでした。
 自分のやることで、誰か一人でも笑ってくれたり楽になってくれたりしたら嬉しい。困った人がいたら助けられる自分でいたい、そう思うのにはお父さんの影響も大きいとキミさん。

 キミさんはお父さんの口からしんどいとか痛いとかつらいとかいう言葉を聞いたことがありません。いつも誰かのことを気にかけて自分のことは二の次の人でした。お父さんは3年前に亡くなったのですが、存命中に2人で散歩していた時のこと、カイロプラクティックの施術を受けて体の調子がよかったお父さんが言った言葉が忘れられません。お父さんは言いました。「事故以来、初めてこうやって空を見たよ」そう言って空を愛おしそうに眺めていたのです。空を見上げることも自由にできないくらいしんどい日々を送ってきたのに、それを全く口にしなかったお父さん。でも、頼もしい息子と一緒に空を見上げられたからこそ、その空が余計に愛おしく感じられたにちがいありませんね。

 感環自然村には今日もたくさんの子どもたちが集ってきます。これからもキミさんは、その大きな背中で子どもたちにいろいろなことを伝えていくのでしょう。お父さんがキミさんにそうしてきたように。

 長野県飯田市から広がる多文化共生村、日本に行ってみたい場所がまた一つ増えました。
コメントする
コメント