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今日の人220.牧真奈美さん [2022年04月24日(Sun)]
 今日の人は、ケアサポート・まき株式会社クルサー代表取締役の牧真奈美さんです。
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桜の下、着物がとてもお似合いの牧さん

牧さんが生まれたのは実は静岡。でも、すぐに富山に来て、婦中町長沢で3歳まで過ごしました。お父さんは大工で、娘の牧さんにはとても優しかったのですが、お酒を飲むとDVになり、家のお金も全部お酒につぎ込んでしまう人でした。3人兄弟の牧さんには弟と、生まれたばかりの妹がいて、それでもお父さんは一切家にお金を入れなかったので、牧さんたち兄弟はいつもひもじい思いをしていました。ある日のこと、いつもはお腹いっぱい食べるなんてできなかったのに、その日お母さんは好きなだけ食べさせてくれました。その日、お母さんは子どもたちを道連れにガス心中をはかりました。夫からのDV、お金も全くない、でもどこに頼ればいいかわからず、支援のなさの中で途方に暮れたお母さんが無理心中をはかったのです。しかし、お母さんの様子がおかしいと感じた母方の祖父母とおじさんがちょうど様子を見に来て、間一髪 牧さんたちは助かったのです。目が覚めたとき、自分の家ではなく、おじいちゃんちの天井が目に入って不思議でしたが、その間のことは全く覚えていないのでした。

その後は、祖父宅で暮らしていた牧さんたちでしたが、牧さんが小学校に入る前にお母さんはすすめられるままに再婚し、金屋に引っ越すことになりました。まだ小さかった妹は、祖母の知り合いで牧さんは知らない家の養女となり、それっきり会えなくなりました。

お母さんとお義父さんは2周りも年が離れていて、一人っ子だった義父は、お母さんのこともまるでお手伝いさん扱いでした。その家は、まるっきり昔ながらの考え方で、男の子は役に立つけど、女は役に立たないというような価値観の家でした。お母さんと牧さんだけ、台所の土間でひっそりご飯を食べる、そんな毎日でした。家の中なのに雨が降ると傘をさしてトイレに入らなければならず、おまけに床が抜けてしまいそうなあばら家で、小姑の嫁いびりもあり、お母さんは耐えきれない時は子どもたちを連れてよく夜中に家出をしました。金屋から祖父母宅のある速星まで歩き、朝着くと説得されてまた戻される、そんなことを繰り返していました。ある日、お母さんは「どこか遠くに行こうか」と言いました。弟は嫌だと言いましたが、牧さんは「出て行こうよ」と賛成しました。そうして3人でもう戻らないつもりで家出を決行しましたが、結局富山駅で祖父と養父に連れ戻されてしまいました。

この事件の後、もうお母さんは家を出ることもなくなりました。ここで生きていくしかない、と覚悟が決まった出来事になったのでしょう。
あばら家ではあったけれど、当時金屋で一軒だけのよろず屋をやっていて、そのよろず屋をお母さんが引き継ぎました。牧さんが小4の時に、養祖父が亡くなり、それからお母さんはとても強くなりました。当時、お店には借金も相当あったのですが、お母さんが切り盛りして借金を全返済します。それどころか、昭和40年代に月40万円もの利益を出すようなお店に生まれ変わらせたのです。

幼い頃は食うや食わずの極貧の生活を味わった牧さんでしたが、中学校に入る頃には家も建て直して、牧さんは塾にも行けるくらいになりました。
家が裕福になっても、お母さんはひたすら働いていました。よろず屋は1年でたった1日、元日だけ休みなのですが、近所の人に、「砂糖が切れとるんやけど」「醤油ないがいちゃ」と言われたら、厭わずに対応していましたから、実質は365日働き詰めのお母さんだったのです。牧さんが朝起きると、中央市場に仕入れに行っていて、家族でゆっくりご飯を食べることなどほぼありませんでした。

 小学生の頃の牧さんは、とにかく本が大好きで、学校の図書室にある本は制覇するほどたくさんの本を読んでいました。特にSFや推理小説に没頭していました。あまりに本ばかり読んでいたので、とうとう家で本を読むのを禁止されてしまいます。禁止されたので、読むわけにもいかず、音楽を聴きながらボーっと空を眺めていました。雲が流れていくのを見ながら、もし別世界の自分がいたらどうしていただろう、どう生きていただろう、そんなことを薄ぼんやりと考えていました。

 中学校ではテニス部に入りましたが、ほぼ幽霊部員でした。声も大きいので元気印に見られがちでしたが、実際は心を病んでいました。自分という存在は要らないんじゃないか、この世に生まれてくる必要があったんだろうか、いつもそんな考えが頭をよぎるのです。けれども、自分から死にたいとは決して思いませんでした。一度助けられた命だから、無駄にしちゃいけない、そんな気持ちがずっと心にあったのです。中学校の時に「この中で自殺したいと思ったことがある人は手を挙げて」と先生はみんなに目を瞑らせて手を挙げさせたのですが、牧さんは手を挙げる人っているんだろうかと目を瞑りながら思うのでした。一方で自分の存在意義を自問しながら、一方で自ら死ぬことを選ぶなんてありえない、そんな複雑な想いを抱いて過ごしていました。

 薦められるままの高校に入り、赤点にならない程度に適当に過ごしていました。何かに真剣になることはなく、きらきらした高校生活とは縁遠い毎日でした。共通一次は一応受けましたが、富山県外に進学してはダメとお母さんに言われ、やりたいこともなかった牧さんは、また薦められるままに看護学校を受けました。看護学校でもやる気はなく、資格を取ったらやめよう程度の気持ちでいました。3年の時に担当だった三谷順子先生に「私は就職はしません。」と言った時、先生は「1回やってみて、イヤならやめればいい。とにかく一回やってみなさい」と諭してくれました。その場で先生と2人で一緒に泣きました。

 こうして牧さんは、三谷先生に薦められた高志リハビリ病院に就職したのです。これが人生の大きな転機になりました。それまで、何をしても真剣になることがなかった。けれど、看護師の仕事ってこんなにおもしろいんだ、と感じて仕事に打ち込んだのです。リハビリ病院ですから、事故で脳障害になった人のリハビリなどもやる中で、リハビリの大切さをひしひしと感じました。遊ぶより仕事をしていた方が楽しかった牧さんは、ナースコールの対応や掃除なども率先してやっていました。
 ただ、昔から生理がひどく、生理中は血圧が70を切ることもざらでした。それでうずくまってしまうこともありましたが、仕事は休んだことがありませんでした。
 ちょうど世の中はバブルの真っ最中。牧さんはディスコにもよく行きました。音楽のシャワーの中で1人になれる時間が好きだったのです。車でドライブをするのも好きでした。日帰りで名古屋に行ったり、京都へ一人旅をして寺巡りをしたりしました。

 こうして充実した日々を過ごしていたのですが、高志リハビリの仕事は6年で辞めました。もっといろんな世界を見てみたい!と思ったのです。高志の先生で開業する先生がいて手伝ってほしいと言われてまずはそこで1年間働きました。その時に柔道整復師として働いていたのがご主人です。最初は一緒にカラオケに行ったりする仲間でした。

 その後、東京女子医大病院の中途採用試験を受け合格。東京で就職します。勉強できると思って東京へ行った牧さんでしたが、現実は違っていました。大学病院に来たら点滴も満足にできない看護師がいることに愕然としました。今までマルチに仕事をこなしてきた牧さんでしたが、大学病院では分業が徹底されていて、他のことをやると煙たがられる感じでした。それに、自分がここでやっていくにはもっと学歴が必要だと感じました。このまま東京で頑張って上を目指すか、富山に戻って別の道を歩くか、牧さんは悩みました。

 もし今東京に残ったら結婚はしないだろう。でも、子どもは産んでおきたい、そう思った牧さんは富山に戻って結婚する道を選びます。結婚し、子どもを産んで、専業主婦をしていたけれど、なんだかそれだけではもの足りませんでした。やはり、牧さんは働いているのが好きだったのです。上の子が1歳で2人目の子が生まれる時に、ご主人は接骨院を開院されました。1998年のことでした。2002年には3人目の子が生まれましたが、そんな中でも牧さんはケアマネージャーの資格を取りました。2003年には訪問介護の仕事を手伝ってほしいと言われ、夜中に認知症の方の家に出向くこともありました。そんなことがさんざん続いたので、夫に夜中に出ていくのはやめてほしいと言われます。でも、その時に牧さんは在宅のおもしろさを知ったのです。病院から出てきてうちに戻っても、誰もサポートしなければ悪くなるのは当たり前、でも、在宅でリハビリをしてくれる人は本当に少ない、それなら自分でやればいいじゃない、決断したら牧さんの行動は早かった。2004年に(有)ケアサポート・まきを設立し、居宅介護支援事業所を開所しました。

 最初からバリアフリーにして生活できる人なんて一握り。今ある環境の中で、バリアもある中で、どうやって生活するかが大切。そんな牧さんの考えのもと、ケアサポート・まきは事業を拡大させていきました。2006年9月には接骨院の駐車場を潰して機能訓練型デイサービス ケアサポート・まき吉作をオープンします。ちょうど医療保険制度が改正され、リハ難民が世の中に溢れ、牧さんの施設にも多くの利用者が来ました。いちばん大変だったのはスタッフとの関係です。自分たちだけでやっているならいいけれど、人を雇うということは思い通りにならないことの方が多い。何度も泣いて、眠れぬ夜を過ごして、スタッフとの関係を構築していきました。その後、2021年までにケアサポート・まきは5施設を運営するまでになりました。

 目標を達成したら次にできることを探すのが牧さんです。看護師として、ケアマネとして、経営者として、さまざまなことをやってきた中で、女性の生きづらさにも目がいきました。例えば障害の子が生まれるとママばかりにしわ寄せがいく。女性がこんな生きづらい世の中でいいのか。樹木希林さんが出ていた映画「万引き家族」を見た時に、自分の幼少期の思い出がフラッシュバックしたことも新たな仕事を始めるきっかけの一つになりました。負のチェーンが続いてはいけない、どこかで断ち切らないといけないと強く思いました。友人が癌になって、人はいつ死ぬかわからない、それならできることをやろうと思ったことも重なって、株式会社クルサーを立ち上げました。

クルサーとはクメール語で「家族」という意味。きっと明るい未来が「クルサ!」
女性がもっと自分らしく生きていくために。 子どもたちが未来に希望をもって生きていくために。人と人をつなぎ、未来を描く。 支え合い、分かち合う家族のような仲間作り。
「もっと人生を楽しもう!」そんな想いで立ち上げたのがクルサーです。
クルサーでは女性のための勉強会やイベント等を開催しています。女性が働きやすいように学童保育にも取り組んでいます。40代以上の素敵な女性たちの生き方を紹介しているページも作っていらっしゃいます。なんと私も仲間入りさせていただきました。

 周りには面白い人がいっぱいいて、そんな人を繋げたら1mが2mにも3mにもなるんじゃないか、点と点を線に、そして面にしていく、そうやってつなげるのが自分の役割なんじゃないか、そう思っています。

 とにかく伝えることが好き、話すのが好きな熱い牧さん。いつも全力疾走している感じですが、そんな牧さんがホッとできるのは娘さんとパフェを食べにいったりしてたわいもない話をしている時。今日は山がきれいだなぁ、夕日がきれいだなぁ、そんなほんの一瞬に生きている喜びを感じる牧さんです。

 わくわくするのはいろいろな人と会っていろいろな話をする中でいろんなアイディアが生まれ、妄想する時。妄想したらもうそうするしかないですから、ワクワクが止まらなくなるのでした。

 外国に行くのも大好きです。ラオス、カンボジア、台湾、韓国、イスラエル、シンガポール…観光を楽しむより、現地の生活に触れたい。それによって日本の生活を改めて知ることが出来るから。早く前のように自由に外国と行き来できるようになってほしいと思っています。そんな活動的な牧さんですが、スイッチオフになったら、何もしゃべらなくなるそうです。

 苦労人だったお母さんは今は元気に一人暮らしをしていて、梅干しを作ってくれたりしています。牧さんはこれからは高齢者が幸せだと思える介護サービスも充実させたいと思っていて、高齢者が1人になったときにどうやったら幸せに暮らしていけるかを突き詰めていきたいと考えています。

 とにかく、まだまだやりたいことがいっぱいの牧さん。50代後半の今からでも、あと20年あればまだまだできることはある!とにかくせいいっぱいのことをやってこの世に自分の生きた証を残したい、そう思っているのでした。

 もう歳だからこの歳からやれることなんてない、なんて思っている人はぜひ一度牧さんに出会ってみてください。いくつからでもチャレンジできる!そんな元気をもらえる素敵な女性に出会えました。
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