今日の人218.廣田大輔さん [2022年01月18日(Tue)]
今日の人は医薬品の原薬・中間体の研究および製造委託をされている十全化学株式会社代表取締役社長廣田大輔さんです。富山の新名所、富山県美術館の「オノマトペの屋上」から神通川方向を見ると「JUZEN」と緑字で書かれた建物が目に入りますが、その会社が十全化学です。廣田さんは十全化学に入る前の10年は楽天で働いていらっしゃったのですが、廣田さんが書かれた「楽天で学んだ100%やりきる力」というご著書はやりきるスイッチ満載の本なので、皆さんぜひ読んでくださいね。
廣田さんは1974年7月に富山市で生まれ育ちました。幼稚園の時は、幼稚園から脱走して近くの呉羽山で遊んだりするなど、なかなかのやんちゃっ子でしたが、幼稚園の先生は廣田さんのことをかってくれていて、天真爛漫な子ども時代を過ごせたのでした。 富山大学附属小学校の時は友達と外で遊ぶのが大好きでした。今の廣田さんからはとても想像できませんが当時の通知表には落ち着きがないとか集中力がないとよく書いてありました。野球が好きだった大輔少年は、お父さんとキャッチボールをしたり、バッティングセンターに連れていってもらったりしていました。そして家族が巨人ファンだったこともあって、必然的に巨人が好きになりました。特に好きだったのは原辰徳選手(現巨人監督)でした。夏休みはずっと高校野球も見ていて、野球選手になりたいなぁと思っていましたが、スポーツニュースで星野仙一さんがキャスターをしているのを見てからは、スポーツキャスターになりたいと思うようになりました。 幼稚園の時から水泳も習っていて、冬はよくスキーにも行きました。お母さんが学生の時にスキー部だったので、休みになるとスキーに連れていってくれたのです。 偉人の伝記や少年探偵団などのシリーズ物を読むのも好きでした。 中学校では野球部に入りました。朝練もあったし、夏休みも毎日練習だったので、部活一色という感じの中学時代でした。ただ、英語の塾だけは行っていました。塾のテストで合格点が取れないと帰してもらえないというスパルタの塾でしたが、おかげで英語の実力はみるみるつきました。中学2年の時はカナダに短期留学をして、海外に対する興味が芽生えました。附属は小学校にしろ、中学校にしろ、自由な校風だったので、それが廣田さんには合っていてとてものびのびとした小学校中学校時代を過ごせたのでした。 この頃から少しずつ将来は社長になるという想いが芽生えるようになっていました。お父さんは自分が伝えたいことを何度も言う人でした。中でも特に心に残ったのは、社長は従業員とその家族の生活を支えている、従業員の数×4の人たちの生活を支えているんだ、その責を負わなければならないんだ、という言葉でした。そうやって多くの従業員とその家族の生活を支えているお父さんがとても誇らしく思えました。 高校は富山でトップの進学校、富山中部高校へ。高校時代はハンドボール部に入りました。ハンドボールが特に好きだったわけではないのですが、中学の野球部で一緒だった子に誘われて入ったのでした。毎日中部高校から有沢橋までの往復4qを走ってからの部活で、足腰が鍛えられました。神通川沿いは晴れると立山連峰が見えて、走っていて本当に気持ちのいいところなのです。今でも、走っているととても落ち着く廣田さんなのでした。でも、授業はちっとも楽しいと思えませんでした。次から次への出てくる宿題・課題を消化仕切れず、目的を失うという悪循環に陥ってしまいました。 何のために勉強をしているんだろうと感じて全くやる気が出なかったのです。 そうなると先生にも期待されていないのがわかり、今思うと、自分自身の問題にも関わらず、 当時は、ますますやる気もなくなるのでした。学校には友達に会いに行っている感覚でした。自分に全く自信が持てなかったのがこの頃です。それでも1回も学校は休みませんでした。 卒業後は東京で一浪しました。予備校の授業はおもしろく、もちろんしっかり勉強もしたので成績もどんどんあがっていきました。いい仲間にも恵まれました。 こうして、次の年に明治大学に入学しましたが、そこではアルバイトに明け暮れていました。フランス料理のレストランで週に5回みっちりバイト。でも、そのレストランに子どもの頃大好きだった巨人の原辰徳監督が偶然来られて、その担当テーブルになったことがあって、これは本当に嬉しい出来事でした。こうしてアルバイトで貯めたお金を使って夏休みや春休みにはバックパックで海外に出かけていました。沢木耕太郎さんの紀行小説「深夜特急」が大好きで、当時流行っていたテレビ番組「電波少年」で猿岩石がユーラシア大陸をヒッチハイクするのを見るのも好きだったので、自分も旅をしたいと思ったのです。一人旅をしていると活字に飢えます。そこで、旅先と出会った人と本を交換してその本を読むことで、たくさんのいろんな本に出会いました。まさに「本が旅をする」です。行きと帰りのチケットだけを買って、あとは何も予定を決めずに旅をしました。だいたいは安いドミトリーに泊まるのですが、未知の体験が多くてワクワクしました。インド、ネパール等の秘境の地も旅しました。このバックパッカーの経験があって、海外で仕事をしたいという気持ちが大きくなりました。 就職するにあたってお父さんの世話になるという選択肢もありましたが、それはやめました。敷かれたレールにのったまま安穏と社長になる道は選べないと思ったからです。ですからお父さん絡みの会社は全部断りました。自分の足で歩くことにこだわりました。 最初は商社希望で就職活動をしましたが、当時は就職氷河期でした。1社だけ受けたメーカーが日本精工という精密機械メーカーで、ここの内定をもらって入社しました。実は、この時の同期入社がのちに奥さまになる方でした。ですから、日本精工に入った縁も廣田さんにとってはとても大事なご縁だったといえますね。廣田さんの最初の赴任地は宇都宮で、社内で一番忙しいといわれる部署に配属されました。書類を提出すると、真っ赤になって返ってきました。でもここでビジネス文書の書き方を鍛えられたのは大きな財産になりました。上司に報告をするときも「お客さんがこういう風に言っています」と言うと、「お前の意見はどうなんだ?」と聞かれました。自分の意見をちゃんと言わないと承認をもらえなかった。しかし、それでビジネスの根幹の大事な部分を教えてもらったと言っても過言ではありません。ですから、今も廣田さんは従業員に必ず聞くようにしています。「君はどう思うんだ?」と。もっとも、その上司が、のちに廣田さんと話した時に「俺、そんなこと言ったかな」とおっしゃったというのはここだけの話にしておきますね。 そうやって忙しく過ごしながらも、その頃経営者の書いた数々の経済本をたくさん読んでいました。その中で次第に自分も経営者になりたいという想いが強くあふれるようになっていきました。しかし、当時の会社で自分が経営者になれるとしたら早くても50代半ば過ぎだろうと思うと、そんなには待っていられないと思いました。富山に戻って仕事をするにしても、今のままでは知識がなさすぎる、と思いました。そして学部時代はほとんど勉強しなかったけれど、経営者に近づくために大学院でしっかり勉強することから始めよう、そう思った廣田さんは会社を辞め、早稲田大学大学院アジア太平洋研究科に入りました。自分自身を短期間で最大限鍛えたいと、大学院では一番厳しいと言われる研究室に入り、毎晩図書館の締まる11時までは図書館にこもってとにかく必死に勉強しました。 毎回厳しいレポート提出もあって、家でも寝る間も惜しんで勉強しました。しかし、ここでデッドラインの感覚を叩き込まれたことは幸いでしたし、周りも一生懸命勉強する人たちで朝練と称して朝から勉強していました。そしてこの時ゼミで一緒だった相馬さんは今、十全化学で活躍してくれています。 こうして厳しくも充実した修士課程を終えた廣田さんは自分が勉強したことを試せて、結果を出せばチャンスが掴める会社として楽天に就職したのでした。 楽天での10年半のさまざまなご経験は、廣田さんのご著書「楽天で学んだ100%やりきる力」に書かれていますので、皆さまぜひ手にとって読んでみてください。社会人はもちろん、今、勉強している学生さんにもヒントが満載のビジネス書です。 ご参考までに目次だけご紹介しておきます。 はじめに 売上高1兆円を可能にした力 序章 楽天で学んだやりきる力 99点と100点の間にある大きな違い 全員に出店営業をさせる理由 “やりきる”ことでわかる仕事のおもしろさ、奥深さ 人は“やりきる”ことで成長する もしも小説を買って最後の1ページがなかったら? 第1章 やりきる力は「夢をかなえる力」 100人に1人の人材になる方法 やりきった経験が一つできれば癖になる 成功体験はおいしいモノ・コトを運んでくる 「でも」から始まるサクセスストーリーはない やった結果が能力を引き上げていく 1日0.1%努力する人、しない人 凡人と超人の差は「最後の0.5%」 やりきったことを応用して次のステージへ 第2章 誰もが「成長のエンジン」を持っている 夢をかなえるための原動力「成長のエンジン」 成長のエンジンに火をつけるきっかけ 未来を引き寄せるエネルギーは自分が愉しむこと 仕事はちょっとしたひと手間で愉しくなる 考えるために行動する 小さく始めて大きく育てる 準備ができている人はチャンスを逃さない 難しいなと考える前に、まずは手を挙げる 自分の可能性にフタをしない やりきることで、気づかなかった才能が開花する 成長のエンジンは常にアップデートする 第3章 成長のエンジンを回し続ける「やりきるスイッチ」 やる気のスイッチをやりきるスイッチに変える どんなことでも15分余計にやる 期限を設けてやってみる 成果が見えるまで3か月試してみる 逆引きの発想でゴールから考える タスクを分解して一つ一つ数字で考える KPIを管理して目標に迫っていく できる人のモノマネで終わらせない 「なぜ?」を繰り返し、ボトルネックを見つける やりきる儀式としてのルーティンづくり やらないことを決め、無駄を切り捨てる 迷ったときに選ぶ道の基準を決める 応援してくれる仲間・チームをつくる 第4章 「ドリームキラー」に負けない自分のつくり方 やりきる人は「できない理由」を考えない やりきる力を阻害する外部要因に気をつける ドリームキラーにどう立ち向かうか? 新しい前例が次世代の常識になる 「頑張り」を評価しすぎてはいけない 過保護すぎる平等意識に染まらない 魚を与える上司に注意する 出る杭を打つ風土にも染まらない やりきる人がいない職場から離れる 第5章 世界でも通用する「やりきる力」 日本人は世界一、成長エンジンを積んでいる 世界で通用する人材になる6つの視点 世界的な視点で見たら、日本はガラパゴス 自分の心の中から国境を消す おわりに 「成長のエンジン」の使い方が変わった この目次を読むだけでも相当得られるものがあるでしょう。 廣田さんは楽天の10年で20年分くらい仕事をした実感があります。本当に忙しい日々でしたが、自分が結果を出すとどんどんやってみろと言われ、1人部署も作ってもらえ、海外へも出してもらえる、目の前のことをひとつずつクリアしていくことで、本に書いてあるような100%やりきる力が発揮できるようになった廣田さんなのでした。 楽天時代の最後の3年はタイの子会社の最高執行責任者として赴任し、将来的に富山に自信を持って戻れると確信しました。 40歳になった廣田さん、ちょうどお父さんが体調を崩されたこともあって、今までの恩返しも込めて富山に戻ろうと決め、富山に戻ってきました。そうして2018年からは十全化学の代表取締役社長として活躍されています。 富山に帰ってきて実感していることはワークライフバランスが圧倒的によくなったことです。東京にいるときは片道1時間以上かけて通勤していましたが、今は車で10分くらいで通勤できるので通勤のストレスは皆無と言ってよくなりました。そして、小学校1年生になった娘さんとの時間も大切にできます。先日は娘さんとスキーも楽しんできました。街中から1時間もかからずに気軽にスキー場に行けるのも富山の良さですし、海も山も近く空気も美味しい。そんな風に、地方で働くことの良さをこれからもっともっと広めていきたいと思っています。廣田さんは、十全化学で「Work globally, live locally」という働き方を掲げていらっしゃいますが、これからも地方で豊かに生活しながらグローバルに挑戦しつづけたいと思っています。 富山では走ることに時間を取ることもできます。富山マラソンも過去に5回出ていて、会社には駅伝部も作りました。そして、富山に戻ってきてから新たに出会った人達とのネットワークも大切にしています。 来たる2月23日には、そんな新たな出会いから廣田さんの生き方働き方に共感された皆さんの企画による廣田さんの講演会も予定されています。生で廣田さんのお話が聴けるチャンスなので、時間の合う方はぜひ!(もちろん私も行きます) まだ40代の廣田さん、きっとこれからも「やりきる力」を発揮して、富山に新しい風を次々に起こしていってくださるにちがいありません。そんなワクワクした気持ちになった今回のインタビューでした。 |