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今日の人215.高嶋郁さん [2021年11月07日(Sun)]
 今日の人はライフガード北陸支社長で、富山県防犯スーパーバイザー、そして富山にたった3人しかいない総合防犯設備士でもある高嶋 郁(たかしま かおる)さんです。
IMG_4739.JPG

 高嶋さんは1968年2月20日に魚津で生まれました。徳島生まれで大阪に仕事に出てきていたお父さんが、遊びに来ていた宇奈月温泉スキー場でお母さんをナンパして、2人のお付き合いが始まり結婚、そして郁さんが生まれたのでした。
 保育園の年中までは大阪で育った郁さん。2歳年下の弟さんと一緒によく道路で遊んでいたのを覚えています。その後、大阪から魚津に引っ越し。小学校2年生までは魚津にいて、その後、富山の街中の柳町小学校校区に転校しました。転校して言葉の違いでいじめられることもあった郁さん、そういうこともあってか小さい頃はとても人見知りでした。近所の人にあいさつするのが嫌で、遠回りして帰っていたほどです。でも、小学校の3年生で仲良くなった子もいて、その子の影響で当時流行っていた少女漫画雑誌「リボン」を読んだりもしていました。(ちなみに私は小学生の時は「なかよし」中学生からは「花とゆめ」でしたw)郁さんは小さい時からお絵描きが大好きでした。でも、家の中にはほとんどおらず、外で男子と野球をしたり、陣地取りをして遊んでいることが多かったのです。人見知りではあったけれど、慣れると大丈夫でした。でも、女の子同士で盛り上がるというのは性に合わず、男子と外遊びをしている方が楽しく遊ぶことができました。

 建築板金の職人だったお父さんは会合やソフトボールで家にいる時間はあまりありませんでしたが、たまにいるときは一緒にドリフターズを見たりして盛り上がっていました。弟さんが2人いる郁さん、上の弟さんとは歳が近いこともあってよくケンカもしていましたが、弟さんが買っていたジャンプやコロコロコミックなどもよく読んでいました。
 特になりたいものもなかったけれど、小学校の卒業文集にはなんとなく「デパートの店員」と書きました。イラストレーターもいいなぁとふわっとは思っていましたが、描きたい時に描くのが好きなので、強要されて描くのはなんか違うなと思っていました。

 中学校では美術部に所属。クラブでソフトボールもしていましたが、中学校時代はオタク仲間とアニメや不思議系の話をよくしていました。アニメはガンダムや、999、ハーロック、不思議系はムー、郁さんは同年代なので、話がとってもよくわかる私ですw。
 本も好きで図書館には毎週のように通っていました。富山の中心商店街の総曲輪通りや中央通りの本屋にも入り浸っていました。特にノンフィクションが好きで、中でも病気の子が苦難に立ち向かっていくような話が好きでした。その頃出会った「飛鳥へ そしてまだ見ぬ子へ」は人生の中の一冊と言ってもよく今でも大切に手元に置いてある一冊です。

 高校では美術部とイラスト部を掛け持ちしていました。今も郁さんがイラストで使っているどんぐりちゃんはこの頃の落書きから生まれたキャラクターです。洋楽にもはまり、デュラン・デュランやジャパンが大好きでよくフィルムコンサートを見に行っていました。

 高校は女子高だったので、女子ばかりの中、周りがみんな幼く見えて、一人でいる方が楽だなぁと感じていました。1年生の頃は「私なんかいなくてもこの世はまわる」と感じてなんだか人生への失望感が強い頃でした。2年生になって仲のいい友達が出来てからはその失望感は薄れましたが、特に夢はなかったし、人と関わる仕事はしたくないと思っていました。人と関わるのが苦手で、でもニコニコしていて人当たりはよかったので、自分の中で無理をしている部分はかなりありました。

 でも、郁さんは就職組でした。卒業後の就職先を探していた時に長崎屋で募集がありました。人と関わる仕事はしたくなったけれど自分を変えられるかもしれないとの淡い想いもありました。こうして、接客業をすることになった郁さん。期せずして小学校の時に卒業文集に書いた「デパートの店員」になることになったのです。時はバブル。歓迎会は富山駅前のディスコで派手に行われました。この職場で郁さんは人に恵まれました。先輩によく遊びにも連れて行ってもらいました。こうして、徐々に人見知りな部分は消えていきました。思えば、中高生の時は自意識過剰で、常に誰かに見られているような気がしてびくびくしていました。でも、実際は誰も見ていない、気にすることがないんだ、と急に吹っ切れたのですが、それは長崎屋での経験が大きかったのです。

 この当時、ねるとんパーティが流行っていました。衣料品関係の組合の若い人たち向けのキャンプでねるとんが行われた時のこと。当時魚津のサンプラザで働いていた青年がねるとんでいちばん最初に告白する番でした。その人は郁さんの前に来て、「お願いします!」と手を差し出したのです。『いちばん最初に断ったら、場の空気がまずくなって、後の人もみんな断っちゃうかもしれない…』そう思った郁さんは空気を読んで申し出をOKしたのです。実際にデートに行くと、彼はとても優しい人でした。この人ならいいかなと思った郁さんは25歳の時に結婚。生まれて初めて黒部に住むことになりました。婦人会の当番が回ってきた時にJA女性部担当になり、女性議会に出たらと言われ、第5回黒部市女性議会に出ることになりました。これが縁で今も女性議会に関わっています。

 平成6年に息子さん、平成9年には娘さんも生まれ、子育てしながら魚津でパートをしていましたが、大工をしていた弟さんの影響もあり、建設の仕事は楽しそうだなぁと思うようになりました。なにしろ、お父さんも弟さんも職人という職人一家だったので、郁さんの中にも何かを作り出したい気持ちが常にあったのかもしれません。ちょうどその頃、氷見の村江工業さんに手書き風のチラシを書いてあげていたことで繋がりが出来ます。村江工業はライフガードのフィルム事業を広げようとしていました。それで東京からフィルムの先生を呼んで講習会を開いたのです。そこに郁さんは参加したのでした。2004年1月、その頃はまだ建築業界は男の世界でした。「なにしに来たんだ、この女?」という感じであからさまに邪見にする人もかなりいました。しかし、それで逆にやってやろうじゃない!と反骨精神に火がつきました。研修を受けて、しばらくは魚津のパートの仕事と掛け持ちで建築ガラスフィルムの施工技術を磨いていきました。そうして、ライフガード北陸に正式に入社。最初は氷見の仕事が多かったこともあり、黒部からの通勤で富山を横断するような毎日でしたが、子育てとの両立が大変だと思ったことはありません。その頃はじいちゃん、ばあちゃん、おおばあちゃんとも同居していて、保育園には毎朝旦那さんが送っていってくれ、帰りはばあちゃんが迎えに行ってくれていたので、郁さん一人に負担がかかる環境ではなかったのです。3世代で子育てに携われたのは、子どもたちにとってもとても幸せなことだったと思っています。よく同居で大変じゃない?と聞かれることもありますが、郁さんは自分で自分を押さえつけることはやめました。「理由なき固定観念は幸福への追求を妨げている」という言葉が好きで、『嫁だから〜しなければならない』という考えはやめて、自分の中で、なぜ〜してはいけないのか、それは固定観念ではないのか、自分はどうしたら幸せなのか、後悔しないのか、を考えて行動するようにしたのです。ですから、ストレスを貯め込むことはなくなりました。これは自分の中にいろいろ貯め込んでしまう人にはぜひお薦めしたいやり方ですよね。
こうして、仕事でもどんどん成果を上げていった郁さん。同時に富山が防犯意識が低く、鍵をかけない家や企業が多く被害に遭っている現状を知り、防犯フィルムだけでなく防犯についてトータルに提案できるように防犯設備士や防犯スーパーバイザー、総合防犯設備士の資格も取りました。そして、自分の身を自分で守る方法を知っていただきたいという思いで積極的に講演やセミナー、防犯相談などの活動を展開しています。講演研修内容も夏休みを前に家族で考える防犯対策法、泥棒の手口と効果的な対策法、目指せ防犯住宅など多岐に及びますし、企業の勉強会や町内の会合、PTAの研修など、とても柔軟に対応してくれます。富山県に申請すれば、無料で郁さんの防犯講座を開くこともできるので、皆さんぜひ一度問い合わせてみてください。
 
そんな忙しい郁さんにまたひとつの大きな出会いがありました。それは「よさこい」との出会いです。姪っ子が始めたよさこいを見て、まずは娘さんがやりたいと言い始めました。「ママも一緒にしよう!」とチームのメンバーに言われ、当時の黒部のチームの代表が知り合いだったこともあり、よさこいチーム「くろべRey乱舞隊」に入ることにしたのです。こうして2007年の夏から娘さんと一緒によさこいを始めました。基本的には週2回の2時間の練習ですが、大会が近づくと毎日のように練習があります。体を動かしてみんなで一つのものを作り上げていく爽快感に郁さんはハマりました。2代目の代表はカリスマ性があり、ぐいぐい引っ張ってくれる人だったのですが、郁さんたちがチームに入って8年ほどたった時に、その代表がチームを辞めることになりました。その時、郁さんもチームを辞めようかと思ったのですが、このチームがなくなってしまうのはもったいない、と思い悩みます。そうしてメンバーと話し合った結果、2016年から郁さんがチームの代表を務めることになったのです。(この時にチーム名を「Rey華繚乱」に改名)代表を務めて5年、伝える難しさもたくさん味わいました。でも、メンバー一人一人の顔を思い浮かべて一人一人にありがとうを言うようにしました。24、5人だったメンバーは今や40人ほどの大所帯。コロナの前の2016、2017年のシーズンは仕事よりよさこい中心の毎日でした。みんなのいい所を引き出そうと必死でした。話さないと誤解が生まれるし常に姿勢を示さなくてはいけない。曲も自前で用意するので、1年がかりで曲を作って仕上げる。そんなしんどさを娘さんはわかってくれていました。一緒に同じよさこいチームで過ごしていることで、娘さんとの絆はうんと深まりました。コロナ禍でこの2年間はあまり活動できていませんが、またみんなで思い切り踊れる日のために郁さんはがんばっています。

 仕事やよさこいチームでの経験を通じて、郁さんは何でもやればできる!やれないことはない!と超ポジティブになりました。やれるからあたわる。引っ込み思案で人見知りだった少女はいつの間にか積極的に人の中心に立つ存在になったのです。でも、何かを人に頼むことは今も苦手な郁さんです。だから、ついつい自分で何でも抱えこんでしまいがちになるのでした。でも、教える時も心配して何でも教え込んでしまうとその人が自分で考える力を削いでしまいます。失敗させる勇気も必要なんだ、そう思って最近は手取り足取り教えたくなるのをぐっと堪えているのでした。

 そんな忙しい郁さんがホッとできるのは猫とたわむれる時間です。郁さんは家に一匹、事務所にも1匹猫を飼っています。事務所の猫は保護猫です。引かれてぺったんこになったへびを食べようとしていたやせ細った子猫を郁さんが見つけたのでした。このままでは死んでしまう。そう思ってそのネコにエサやりに通い、捕獲機を置くまでに7日、捕獲機を置いてから19日たって、ようやく捕獲機に入ってくれたのでした。その後、動物病院に通い、ちゃんと慣れてくれるまでと思って事務所で飼っていますが、いまだに触らせてくれません。事務所で飼い始めて2か月。あと1か月ほどたったらお家に連れて帰って、2匹一緒に飼いたいなぁと思っていますが、果たしてどうなることやら。そんな郁さんの猫ちゃんとの日々はYouTubeにもアップされていますので、ぜひ、ご覧ください。
猫ねこ親バカ日記https://www.youtube.com/channel/UCVEVrZ-feBF9iMm28l_4pDA
どんぐりちゃんネルhttps://www.youtube.com/channel/UC1lZnTqkSUDs-wzzMHTv3LA
ご覧いただくとお分かりになるように、郁さんは他にも食レポ等もいろいろアップしているので、ぜひ皆さん登録してくださいね。

 温泉やドライブに行くのも大好きです。福井くらいなら近所という感覚。へっちゃらでどこまででも走る郁さん。最近登山も始めました。なんだかハマりそうな予感がしています。

 でも、やっぱりなんといっても現場が好き。現場で仕事をしていると落ち着くという根っからの女職人なのでした。建築の世界では女が見下されていた時代も確かにあったけれど、今は女性の細やかさが逆に武器になると思っています。痒いところに手が届く、そんな職人魂をこれからも発揮していくことでしょう。

 何もしない日に罪悪感を感じようにしたいと郁さん。いつも走り続けているので、たまにはゆっくりのんびりしてください。温泉でのんびりする時はぜひご一緒しましょう。
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