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今日の人211.森 弘吉さん [2021年08月03日(Tue)]
 今日の人は、「もったいない!」をカタチにする会社株式会社エムダイヤ代表取締役の森 弘吉さんです。
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 エムダイヤは中井貴一さんがナレーターを務める「夢の扉+」でも紹介されたことのある企業で、例えばリサイクルしにくく不法投棄されてしまっていた廃タイヤを、ゴムの部分と金属の部分に一瞬で分けてしまう夢のようなリサイクル機械を作ってしまうなど、数々の国内及び国際特許を持っている会社です。一言では説明しにくいので、以前に地元TV局で紹介された「モノヅクリその先へ」を是非ご覧ください。
https://www.knb.ne.jp/tsukuru-movie/article.html?sid=120

 森さんは1975年11月1日に上市町で生まれました。お姉さんと妹さんに囲まれ、母方のいとこが集まると8人中ただ1人の男の子で遊びに行ってもいつもおままごとに担ぎ出されるのが苦痛でした。でも、そういう環境で育ったので、しゃべることは昔から苦手ではありませんでした。
お父さんは森さんが幼い時に、脱サラして鉄工所を作りました。その時の工場は森さんの家の敷地内にあって、幼い頃の森さんは工場が遊び場所でした。鉄工所だったので、鉄板やいろいろな道具があって、それを見たり触ったりするのがとても好きだったのです。保育所の頃にはもう自分専用の工具箱を持っていて、いろいろなものを分解するのが大好きでした。お父さんも豪快な方で、車を1台廃車にするから、これを好きなようにバラセと言ってくれて、森さんはそれがとても思い出に残っています。その時、ドアの横についているスピーカーが紙製だということを初めて知りました。(私は52年生きてきて森さんに聞いて初めて知りました!)バラシていく中で電球の付き方がわかったり、とにかく自分でいろいろな発見ができました。それが小学校1年生の時でした。
 森さんが小学生の時に、お父さんは富山市内に新たに工場を建てました。小学校時代はファミコンやモデルガンでも遊んでいました。外より中で遊ぶ方が好きでした。柔道と野球をやりましたが、当時マスコットキャラのような顔をしていた森さんは上級生の女子にかわいがられ、それを羨ましく思った上級生の男子にからかわれました。それが嫌で嫌で、お母さんに辞めたいと言って柔道と野球は2年生でやめました。エレクトーンは3年生まで習っていました。4年になると、ブラスバンド部に入ります。最初はアルトホルンでしたが、ここでも自分以外は全員女子!ただ、どうにもその環境の居心地が悪く、5年になってトロンボーンに変更します。こちらはみんな男子で、それからはブラスバンドが楽しくなりました。6年の時には部長も務めました。ただ、ブラスバンドの強豪校だったので、指導も厳しくとても怖いものでした。しかし、そのスパルタの成果もあってか、2つ上の先輩たちは重奏の部で日本一に輝きましたし、森さんたちも県で優勝し、全日本吹奏楽コンクールの北信越大会に出場しました。

 上市中学校に入ると、お父さんに運動部がいいんじゃないかと言われたこともあって、剣道部に入ります。こちらも県下で剣道の強豪校で、スパルタ方式の指導法でした。ゴールデンウイークや夏休み、冬休みは必ず合宿がありましたし、普段も朝7時から朝練があったので、剣道部の生徒はへとへとで授業中はほぼ寝ている感じでした。大会前は五厘刈りにしなくてはいけなかったし、理不尽だと感じることは多々ありました。でも、理不尽なことに耐えなきゃいけないんだとこの頃に思えたのは良かったと思っています。もちろんそんなやり方がいいとは言えませんが、社会に出たら理不尽なことはたくさんあるし、そこでいちいちへこたれていたら社長業なんてとてもやっていられませんから。
 
3年生になって部活を引退し進路を決める時、森さんは富山高専を選択しました。なぜ富山高専だったのかというと、幼いころからお父さんにずっと「あの学校はいい学校だから行ったらいいぞ」と勧められていて、お父さんの戦略にまんまとハマってしまったのです。
結果的に富山高専を選んだのはとてもいい選択でした。富山高専は普通の高校とちがい、入った時から生徒ではなくて学生として扱われるので、とても自由な校風なのです。というわけで、森さんも高専に入ったあとはすぐにバイトも始めました。ガソリンスタンドでバイトしたり、スーパーの肉屋でバイトしたりしました。2年生になると、原付の免許もとって、上市から富山市本郷の高専までスーパー農道を通って原付で通いました。原付バイクであちこちに出かけるのも楽しみのひとつでした。
ただ高専に入ったのがゴールのような気持ちもあってその後全然勉強しなかったので、1年生の夏はたくさん赤点を取ってしまいます。その時の先生がとてもいい方で、このままだと2年生で留年して5年で卒業できないよと、成績の悪かった何人かのために夏合宿をしてくださいました。そのおかげもあってか、毎年何人も留年していく中、森さんは要をしっかり押さえて卒業する時は単位をひとつも落とすことはなかったのです。
高専は5年の本科の後、そのまま就職する道、大学3年生に編入する道、専攻科に進んで学位を取る道もありますが、森さんは専攻科に行くことにしました。しかし、その頃、家業は火の車で授業料が払えず、森さんは1年間休学してお父さんの元でほぼ給料なしで働きました。お父さんは根っからの発明家で自分の好きなことには没頭しますが、工場はいつも余裕の無い状態でした。それを経理担当のお母さんがなんとかがんばってしのいでいたのでした。
1年の休学の後、専攻科で機械電気システム工学科に入った森さん。ただ、研究だけに没頭できるわけではなく、バイトは必須でした。午後6時までは研究室で過ごし、夜7時から12時まではバイトという生活でした。専攻科2年生の最後の卒業論文は、日本機械学会で発表し、「工作機械技術振興賞(奨励賞)」に表彰もされました。学生の時からポテンシャルが高い森さんなのでした。

卒業後は石川の大手の工作機械メーカーへ就職します。将来家業を継ぐものという思いも多少頭にありました。在職中には、電気工事士や電気製図技能士等の様々な資格も取り、ITも勉強し、機械の開発設計にも携わりました。6年半石川県で過ごした森さん。土日には中国残留孤児への日本語ボランティアもされていたというから、日本語教師の私としては嬉しいお話です。そして、石川県にいる間に結婚もされています。お相手は高専時代のバイト仲間の友人でした。
就職して4〜5年経ったとき、なんとか持ちこたえていたお父さんの会社がとうとう立ち行かなくなります。とにかくお父さんは自分の作りたい機械を作ることに重きを置いたので、見積りよりも高い金額でもどんどん作ってしまうのでした。
就職して6年半、森さんは務めていた会社をやめることを決意。その時、奥さんは妊娠していました。そして会社に辞めますと言った日に第一子が誕生。運命に導かれているのかなと感じた出来事の一つです。上場企業で安定した給料をもらっていたのに、脱サラして、しかもお父さんの会社は無くなり、二次創業という形で作った会社に入ることにした森さんに文句ひとつ言わなかった奥さんには本当に感謝しかありません。

しかし、お父さんの会社に入った時、会社はもろに一人親方の世界でした。ルールというものが存在しておらず、今日は3時で上がるか、そんな感じだったのです。これではいけない、森さんは会社をちゃんと整えていくことを一歩ずつ進めていきました。そして3年経って、エムダイヤという社名にし、正式に代表取締役に就任しました。根っからの技術者で発明家だったお父さんの機械は確かに唯一無二で素晴らしいものです。発明家としてのお父さんは文句なく尊敬しています。けれど、やはり経営者としてはそれではいけないと、森さんは経営理念をしっかりと落とし込んでいきました。そして、それに賛同してくれる人を採用することにしました。議論はどんどんしていけばいいけれど、ベースの部分が食い違っていてはお互いにとって不幸だと思うからです。もちろんそれは簡単な道ではありませんでした。父に賛同していた年上の社員達は、次々に去っていきました。
会社は海に近いので、防波堤に寝ころんで海を見ながら一人で考える時間が唯一ホッとできる時間という時もありました。

社長になって15年。ようやく社内もなんでも言い合える明るい雰囲気になり、森さんの思いが浸透してきたと感じています。
エムダイヤ(R)のエムは、マシンMachine=機械、メカニズムMechanism=機構、仕組み、メカニックMechanic=修理工、整備工、メンテナンスMaintenance=補修、整備、森さんのMORI、ダイヤは、 ダイヤモンドのように小さくても「キラリと光る」会社にしたいと願って付けられました。その名の通り、今や日本全国、そして海外にもエムダイヤの製品は納品されて、キラリと光る存在になっています。エムダイヤの躍進は枚挙にいとまがないのですが、こちらの報道履歴でぜひその一端を垣間見てください。
https://www.m-dia.jp/report/

 森さんは、地域の活動にも積極的に取り組んでいらっしゃいます。児童数が、1000人を超える地元小学校のPTA会長だったときは、執行部会で森さん以外全員女性!(どうも女性に囲まれる星の下に生まれていらっしゃるようです)おやじの会のお父さんたちは会長が言ったことはとりあえずやってくれるのですが、執行部会のお母さんたちは、いくら会長が言っても、自分がやろうと思わないと動いてくれませんでした。そこで、どうしたら女性に気持ちよく動いてもらえるかを考え行動するようにしました。一人ひとりの悩みを聞き逃さず、素早く対応すること、小さな困りごとをひとつひとつ解決していくと信頼されることがわかりました。スイーツなどを配ることも忘れません。この時の経験は会社でも大いに役立っています。
 大学の附属中学校でもPTA会長を務め、経済同友会では教育問題委員会に所属。その中で経営と教育は似ていると実感することが多々あります。人に伝えるのが好きな森さんは、依頼があればいろいろな場所で講演活動も行っています。皆さんも機会があればぜひ森さんの生のお話に触れてみてください。

 楽しいのは仕事を通じた「気づきや学び」、と言い切る森さん。異質なものに触れるのが好きで、コロナ以前は全国を回り、2か月に1度は仕事で海外に行っていました。異質なものに触れないと自分の成長が止まるような気がするのです。2人の息子さんともそれぞれ一緒に外国への2人旅もしましたし、息子さんには旅も積極的にさせています。
 森さんは想定外なことに出会うことはとても大事だと考えています。いつも想定内の中にいると、成長もない。だからどんどん外国にも出かけていきます。森さんの会社が次々と新しい機械を生み出せるのも、想定外を大事にする視点を常に持たれているからなのでしょう。

 この先エムダイヤはもっともっと輝いていく会社になっていくにちがいありません。学生の皆さん、エムダイヤ、注目度大ですよ。
https://start-line-toyama.jp/company/emdia/
https://www.m-dia.jp/recruit-new/

 
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