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今日の人151.Tamang Abee(タマン アスビル)さん [2015年10月11日(Sun)]
 今日の人はネパール出身のタマン・アスビルさんです。タマンさんは富山ネパール文化交流協会の主要メンバーで、ネパール大地震の復興支援コンサートでもギターと歌で盛り上げるなどして活躍しています。
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コンサートにて 真ん中がタマンさん

 タマンさんは1982年にネパールのカブレという村で6人兄弟の次男として生まれました。子どもの時から音楽が大好きで、いつもラジオで音楽を聴いていたし、竹やぶから竹を切り出して、自分で竹の笛を作って吹いていました。笛とラジオはいつもタマンさんのそばにありました。

 小学校はお兄さんと一緒に入学しました。5歳のタマンさんは同級生の中でいちばん年下でした。日本とちがって入学年齢は割合アバウトでした。給食はなく、お昼ご飯には乾燥トウモロコシを持っていきました。それを炒ってお昼に食べるのです。小学校ではカバティというネパールの鬼ごっこやチェスをして遊びました。でも、もちろん一番好きなのは音楽でした。

 ネパールの子どもたちにとって家のお手伝いをするのは当然でした。家には水牛、牛、ヤギ、鶏がいて、エサをやるのも子どもたちの仕事でした。今となってはとても懐かしい思い出です。しかし、村には小学校しかなかったので、中学校からはお母さんの実家に下宿して町の中学校に通いました。村までは遠かったので1年に1回くらいしか家には帰れなくなりました。お母さんの実家にはお母さんのお兄さん、つまりタマンさんにとってのおじさんが住んでいたのですが、おじさんには子どもがなく、タマンさんをわが子のようにかわいがってくれました。そのおじさんがタマンさんが中学生の時に亡くなります。それが中学校時代に一番心に残ったことでした。

 高校からはカトマンズに出て、1人暮らしを始めました。料理をはじめ家事全般もちろん自分でやりました。友だちからもらったギターに夢中になり、勉強もギターも一生懸命。とても充実した時代でした。

 大学はそのままカトマンズの大学に入り、経営経済の勉強をしました。けれど、オートバイを買って、授業をサボって出かけてばかりいました。その頃、友だちの間ではいろいろな国へ留学するのが流行っていました。中でも一番イメージが良かったのが日本です。タマンさんも留学したいと思っていて、最初はシンガポールに行こうかと思っていたのですが、シンガポールに留学していた先輩の話を聞くとあまりいい印象がありませんでした。それならやはり一番印象がいい日本がいい、小学生の時から憧れていた日本に行ってみたい!そう思いました。日本留学は人気があるだけあっていろいろな手続きは大変でしたが、タマンさんは日本に来るチャンスを手にすることができたのです。

こうして、大学の卒業を待たずに日本に留学したタマンさん。
日本での生活は思ったよりずっと大変でした。ショックだったのは食用油を買いたくてスーパーに行ったのに買えなかったこと。日本で食用油がどんな入れ物に入れられて売られているのかもわからなかったし、「あぶらをください」という日本語さえ言えなかったのです。国で少しは勉強してきたつもりでしたが、全然役に立ちませんでした。こうして、富山の日本語学校に入って日本語を勉強し始めたタマンさん。私はタマンさんが日本語学校2年生の時に担当したのですが、その時はもうかなり日本語は上手になっていて、ギターで日本語の歌を自作して聴かせてくれるくらいでした。日本語学校では花見に行ったり遠足に行ったりするのですが、タマンさんはそんな風に外に出かけて外でご飯を食べる時間が大好きだと言います。それは日本では全く普通にできることだけど、それを普通にできない国もたくさんあるのです。

タマンさんが日本語学校2年生の8月にバイト先で出会ったのが、奥様となった方でした。彼女は日本人。タマンさんが彼女のために曲を作っていたのを私もよく覚えています。そして、タマンさんが日本語学校を卒業した翌月の4月に2人は結婚したのでした。外国の人との結婚に反対がなかったのかと思いましたが、彼女の家は2人が良ければいいよとすんなりと受け入れてくれました。タマンさんのご両親も認めてくれました。
そんなタマンさんは今では小学校1年生と保育園年長の2人の子どものお父さんでもあります。掃除も洗濯も料理もなんでもする、カジダン、イクメンを地で行くタマンさんなのでした。

そして音楽は今もずっとタマンさんのそばにあります。時々ギターを手にLiveやコンサートにも出演しているタマンさん。大地震のあったネパールの復興支援コンサートに出演するために富山のみならず東京でも活動してきました。地震後は早々にネパール入りし、生まれ故郷のカブレに支援物資を運んだりしています。そして11月にも現地入りして活動してくる予定です。

富山に一軒家も構えたタマンさんは、いつかは自分の会社を持ちたいという夢も持っています。この先ネパールから留学する学生はもっと増えるでしょう。そんな留学生が留学後に安心して生活できて、そして日本での就職も紹介できる、そんな場所を提供できる会社を作れたら、そんな風に思っています。
 
 もう一つはギターや歌に関する夢です。これはきっともうすぐタマンさんから発表があるので、その時に情報をシェアしますね。

 最後にタマンさんに日本に実際何年も住んでみて抱いた思いを聞いてみました。
やはり日本は日本語のわからない外国人にとっては住みにくい。英語もなかなか通じない。それにどこか外国人に対する偏見を持っている。表面に出さない人もいるけど、露骨に出してくる人もいる。
 でも、日本ほどどこに行ってもきれいなところはないと思っています。システムも技術もしっかりしているし、なんでも安心できる。まず、日本に上陸してトイレに入った時にその違いを感じるそうです。そのトイレの快適さと同じ快適さがずっと続くのが日本だと。でも、そのすばらしさを実感していない日本人も多い。日本はこんなに素敵な国なんだよ、ということをもっと誇りに感じてほしい、そうタマンさんは言います。

 2人の子どもたちの成長に伴って、タマンさんがPTA活動などに関わっていく中で、またいろいろな新たな体験が生まれていくでしょう。日本人とはちがったタマンさんの視点でのお話をこれからもとっても楽しみにしています。
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