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今日の人137.江畑美由紀さん [2015年02月10日(Tue)]
 今日の人は先日キャンナス高岡を立ち上げた江畑美由紀さんです。キャンナスのネーミングは、“デキル(Can)ことをデキル範囲で行うナース(Nurse)”の意味から名づけられました。地域に住んでいる看護師が忙しい家族の代わりに介護のお手伝いをするキャンナス。介護保険制度下では対応しきれない滞在型訪問介護のスタイルを貫いて、地域に根付いたボランティア団体として全国各地で活動しています。
 江畑さんは看護師、臨床美術士、応急手当普及員、介護支援専門員、認知ケア専門士などいろいろな顔もお持ちのスーパーウーマン。いつもパワフルに動きまわっていらっしゃいます。
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 江畑さんは1965年生まれ。お父さんの勤務の都合で、小さい頃は新潟で過ごしました。今はとても明るくてよくおしゃべりする江畑さんですが、子どもの頃はとてもおとなしい子でした。給食を食べるのが遅くていつもみんなが掃除をしている時間まで給食を食べていたので、学校に行って給食を食べなくちゃと思うと、お腹が痛くなるのでした。あまりしゃべらない子でしたが、いじめられたことはありませんでした。

 お父さんは家では寡黙でしたが、人前ではとてもよく話し、場を盛り上げるのも得意。ひとづきあいを大切にする人で、人を楽しませるのが大好きでした。家族の記念日も大切にする人で誕生日や結婚記念日は絶対忘れない、そうして洋食屋さんに行っても緊張しない子になってほしいと家ではナイフとフォークでご飯を食べていました。もっとも、外づきあいを大切にする人なので、家にはあまりお金を入れず家は貧乏でした。けれど、紳士で人当たりのいいお父さんのことが江畑さんは大好きで、とても尊敬していました。対してお母さんはおっちょこちょいでKYでいつも余計なひと言を言うトラブルメーカーでした。子どもにもすぐ叱る人でした。実はこのお母さんも、そしてお父さんも生まれは高岡の人だったので、江畑さんが生まれたのも高岡です。お母さんは、実の母を幼いころに亡くし、母の愛を知らずに育ったので、江畑さんたちの子育てには戸惑うことも多かったのでしょう。江畑さんには弟がいるのですが、弟の親はお母さんだけど、自分の親はお父さんだという感覚でいました。お父さんにほめられると満足、お父さんといると嬉しい。完全にお父さんっ子だったのです。

 江畑さんはひとりで遊ぶのがとても得意でした。絵はどれだけでも描いていられたし、石をめくってそこにいるダンゴムシを全部丸めてまた戻す、なんて遊びもやっていました。葉っぱを葉脈に沿ってちぎったり、一人遊びはいくらでも見つけられました。
 もっともずっと一人あそびをしていたわけではありません。近所の子どもたちともよく遊んでいました。学校ではおとなしくて目立たない子だったけれど、近所では少年探偵団を作っていろんな子を連れて遊んでいました。
 この頃の江畑さんの夢は学校の先生でした。人前で話せなかったから、話せるようになりたかった。リーダーシップが取れる人がうらやましかった。遊びの中ではできるのに、なんでやらせてくれないのかなぁ、やらせてくれればきっとできるはずなのに、そんな風に思ったりもしていました。

 中学校に入ってもおとなしいのは変わりませんでした。でも中2まではバレー部で選手もしていたし、成績も中の上でした。先生にもよくほめられていました。
 ところが、中3で突然転校した時に、先生にできないというレッテルを貼られ、成績もどんどん下がり、最悪な一年を過ごしました。

 娘の落ち込む様子を見てお父さんは、これじゃあ美由紀が可哀想だと言って、自分だけ単身赴任することにして、お母さんと江畑さんと弟さんは富山に住まわせることにしたのです。わざわざ高岡にマンションを買って…。

 江畑さんは富山の県立高校に受かり、富山での生活が始まりました。単身赴任になったお父さんだけ長岡に残して。

 ゴールデンウイークに富山に来たお父さんはなんだかすごく調子が悪そうでした。江畑さんはなんだか妙な胸騒ぎがしました。お父さんが長岡に帰るのを見送る時、ずっと泣いていました。
 
 そうして江畑さんの嫌な予感は当たってしまいます。長岡に帰ったお父さんはしばらくして亡くなってしまったのでした。

 つらかった。本当につらかった。お父さんが亡くなって、学校を1週間休んだ後の最初の授業は体育でした。こんなにも心がつらいのに、みんなと同じように体育館を何周も走っている…。ああ、これが現実なんだな。みんなの時間はいつもとなんら変わらない。

 お父さんが亡くなってお葬式の時に倒れ込んだお母さんを江畑さんは抱きとめました。江畑さんは思います。「私がこの家でしっかりしなければ!」そう、もう頼りになるお父さんはいないのだから。それでも、やっぱりつらかった。そんな江畑さんたちを見かねて、お母さんの継母の妹さんが一ヶ月江畑さんの家に泊まり込みで来てくれました。実際の血のつながりはないけれど江畑さん家族のことを心配して1ヶ月も泊まり込みで来てくれたおばさん。江畑さんたちをおばさんはいつもお腹を抱えるほど笑わせてくれました。ああ、人ってこんなに辛い時でも笑うことができるんだ。こうしておばさんが江畑さんを立ち直らせてくれたのです。きっとそれがなかったら、家の中はずっと真っ暗だったことでしょう。人の温かさを骨身にしみて感じました。本当にこのおばさんは江畑さんにとっては恩人でした。この時の経験が、きっと困っている人を見捨てておけない今の江畑さんに繋がっているのでしょうね。

 お母さんが仕事を見つけ、働き始めると、江畑さんは家事を一手に引き受けるようになりました。高校から帰り、弟のためにご飯を作り、弟と一緒に過ごす。洗濯も掃除もなんでもやりました。でも、学校は全然休みませんでした。学校の友だちにつらかったことを話すことも江畑さんにとってはとても大事な時間だったにちがいありません。
 学校に行ってもちっとも勉强はせずに、ノートにずっと詩を書いていました。
その頃、富山の国鉄マンだった伊藤敏弘がヒット曲を出して、「伊藤敏弘と行こう、能登の旅」という企画がありました。それに参加した江畑さんは、あれ?私も曲作れるんじゃないかな、と思うようになります。こうして高2の時から自分で作詞作曲をするようになりました。風来坊というデュオを組んで高校生ながらライブハウスで歌っていました。風来坊は富山のあみんと呼ばれ、新聞でも取り上げられるくらいの人気でした。そんなに活躍しているのに、家事もしっかりやり、部活ではギターマンドリンでギターのパートリーダーまでやっていました。

 そんな時、高2の担任から、あんたの行ける学校はないと言われてしまいます。その言葉に奮起して3年からは勉強もやり始めました。私は自分の力で食べていけるようになろう、食べていくためには、どんな仕事?よし、看護師になろう!こうして江畑さんは2年の担任の言葉をはねのけて、見事看護学校に合格。

 看護学校に行っている時にも風来坊の活動は続けていました。県内のアマチュアとしてはとても人気があって、自作のカセットテープも100本を売り切りました。ポプコンの県大会でも入賞し、1年の著作権ももらいましたし、当時高岡駅前にあったショッピングセンターMsの街のサテライトスタジオでラジオのDJもやっていました。そういうわけで、社会人の友だちもたくさん出来て、当時からいろんな人に可愛がられるタイプでした。

 そうして看護師の国家試験にも見事合格し、最初は大きい病院で働きたいと京都の日赤病院で働き始めました。厳しいし忙しいし、最初は1年目でやめようと思っていましたが、だんだん仕事が面白くなってきました。先生方にもとても可愛がってもらい、飲みに連れて行ってもらったり、遊園地に連れて行ってもらったりしました。でも3年で富山に戻るとお母さんに約束していたので、泣く泣くその病院をやめることにしたのですが、各科の先生が送別会を開いてくれるほどでした。

 富山に戻ってからは伏木の社会保険高岡病院で働きました。ここでも上司にとても可愛がられ、各科の先生が江畑さんをなかなか離してくれませんでした。脳外科、外科、整形外科でいろんな命が救われていく場面に出逢いました。もちろん終末期もたくさん経験しました。一晩に救急車が何台も入ってくるそんな病院だったので、本当にたくさんのことを体験しました。常に現場をよくしたいという思いがあって、それをいつも実行していたので、うざがられる面もありましたが、仕事の楽しさはすごくありました。

 時々LIVEでも歌っていて、そんなLIVEを通じて知り合った人と結婚しました。お金も学歴もない人だけど、趣味が一緒だったし、何よりお母さんが早く結婚してほしいとうるさかったのもありました。そして、お父さんみたいに真面目すぎる人より少しくらい不真面目な人の方がいいとその時は思ったのです。

 でも、子どもを産んだ後に二人の関係は急激に悪くなりました。子育ては一切手伝ってくれなかったこともあって、江畑さんは軽いうつになりました。実家に戻るとお母さんと旦那さんが大げんかです。結局子どもが1歳を迎える前に離婚しました。江畑さんは高校生の時から自立したいという思いがあって貯金魔でした。結婚資金も自分で全部用意したし、離婚しても困らない貯金もありました。だから離婚にも踏み切れたのでしょう。
 けれど、離婚してまた看護師として病院に働き始めた頃から、うつが一気にひどくなりました。子どもを保育園に送り迎えすることさえしんどかった。仕事もやめざるを得ませんでした。家では倒れこむようにいつも布団に入る日々。そんな江畑さんを気遣って、幼い息子さんは枕元にそっとお菓子を置いていってくれるのです。この子がいなかったら生きていられなかったかもしれません。
 それでも生きているのが苦しかった。このまま目が覚めなければいいのに…そんな風に思う毎日でした。でもやっぱり、悔しかった。私はあんなにいきいき働いてきたのに、このまま死にたくないと思いました。その悔しさが江畑さんのバネになりました。治りたいと本人が強く願うこと、そうしないとうつは治らない、そう江畑さんは思っています。

 そしていろいろなパートをしながら徐々に社会復帰をしていきました。保育園でも働いたし、寝たきりの方の病棟での仕事や救護の仕事、いろいろやりました。そんな中、一生やれる仕事に落ち着きたいと訪問看護の仕事を始めました。すごく楽しかった。一人の患者さんやご家族とこんなにゆっくり向き合える。これは病院勤務の時には考えられないことでした。これを一生の仕事にしよう、そう思って訪問看護に取り組んでいた3年目、訪問先に向かう江畑さんの車は青信号で直進していました。そこに信号無視の車が突っ込んできたのです。江畑さんの車は回転し、首が振り回されました。肋骨が折れ、一ヶ月後に仕事に復帰しましたが、右手に力が入らないのです。これでは患者さんを支えられない!愕然としました。外傷性胸郭出口症候群による神経障害と診断されました。普段はなんともなくても、重たいものを持つと麻痺が出てくるのです。
 このままでは仕事を続けられない…江畑さんは仕事をやめました。絶望的な気持ちになりました。看護師の資格さえあれば何とかなると思っていた。でも、この右手が動かない…。私はどうしたらいいんだろう。けれど不思議とうつにはなりませんでした。

 働けない間に何かしよう、そう思ってハローワークに行き、医療事務の学校に通うことにしました。3日後に学校が始まるという時に、江畑さんはもう一度ハローワークに行きます。そこで地域包括支援センターで相談業の看護師を募集しているのを見つけたのです。問い合わせをすると、ぜひ見に来てくださいとのこと。行ってみると「江畑さんのような人を待っていた!」と言われました。ここなら私の経験を活かして働ける!そう思った江畑さんは医療事務の学校に行くのをやめ、地域包括支援センターで働くことにしたのです。

 介護予防教室で寸劇をやったり、苦手な相談を受けたり、最初は戸惑うこともたくさんありました。看護師は人の相談事には首を突っ込まないけれど、この包括の仕事は突っ込まざるをえない。でも、さじ加減を楽しめるようになった自分がいました。どんな仕事でも楽しんでやろう。人っていくつになっても変われるんだ!

 cocoloのサポーター養成講座の第一期生としても学び、素敵な方ともたくさん出会えました。その中の一人がとやまcocolo会の副代表でダイバーシティとやま副代表でもある柴垣さん。彼にはいつも背中を押してもらっています。そして自ら立ち上げたのが「うつnet高岡」でした。高岡のひとのまで月に1回カウンセリングを受けたり勉強会を開催したりしていました。臨床美術士でもある江畑さんは月に一回の勉強会で臨床美術を取り上げた所、ものすごく人気がでました。でもお金を取らずにやっていると赤字になるので、参加費を徴収するようになると参加者が減り、その頃ちょうど息子さんも調子を崩したこともあって、一時中断しました。

 その間、福祉や介護保険のこともたくさん勉強しました。病院や訪問看護の世界では知り得なかったこともたくさんありました。でも、制度の縛りでできないこともたくさんあって悔しい思いもしました。
 なんでできないんだろう、悔しい、そうfacebookでつぶやいていると、キャンナスがあるよと教えてくれた人がいました。キャンナスでは制度でできないことができる。うつの人だけに限定しなくてもいい。訪問看護で出来ないこともできる。ああ、私はこれをやろう!制度の中で出来ないことをやっていこう。資格がありながら働けずにいる看護師さんにも出てきてもらおう。

 江畑さんは包括の中で出来ないと言っていることが自分の中のストレスになっていました。なんでも疑問になりました。世の中から出来なくてごめんね、ということをなくしたい。困っている人がいたらできないって諦めないでできるようにしたい。末期の人と一緒に最後の旅行に行ったり、一緒に大好きなものを食べたり、疲れ果てた配偶者の代わりにお世話をしてあげたり…キャンナスだったらできることは無限にある。そう熱く語る江畑さんは本当に楽しそうです。専門職でありながら、看護師の組織から離れて柔軟な仕組みを作っていくことができる。そして、その仕組みを作って行く時に、これまでの江畑さんのネットワークが活きてきます。

 気がつくと、江畑さんの周りには助けてくれる仲間がたくさんできていました。自分は本当に人に恵まれているとつくづく思います。
 交通事故にあってツイッターで愚痴っていたらつながったのが、北澤晃さん。北澤さんは富山福祉短期大学の学長で、いろいろな活動をやっていらっしゃるのですが、その中のひとつが臨床美術です。北澤先生に出会わなければ、江畑さんが臨床美術士になることもありませんでした。ツイッターで出会った時は、亡くなったお父さんに出会えたかと思いました。こんな優しい人がいるのか!江畑さんが再就職するまでずっと応援してくれた北澤さん。お父さんと呼べる人がいないと言ったら、お父さんと呼んでいいよ、と言ってくれました。なんとツイッターのやりとりだけで心がつながってしまったのです。そうして本当に出会った時に今の江畑さんのメンタルを支えていると言っていい臨床美術と出会ったのでした。臨床美術はうつの人とすごく相性がいい。いずれ、キャンナスの中にうつネット高岡も組み込みたいと思っている江畑さんなのです。

 先に書いた柴垣さんも江畑さんの背中を大きく押してくれた人でした。
「病気を経験した人も社会の財産なんだ」柴垣さんの言葉が大きな勇気をくれました。だから今も柴垣さんはずっと年下のアニキです。
 コミュニティハウスひとのまの宮田隼くんと元島生くんは親友だと思っています。他にもたくさんの人が応援してくれる。

 そしていつもいちばん自分のことを理解してくれるのは息子さんでした。子どもが成長していくことで江畑さん自身が救われたことが何度もありました。今は離れて暮らして建築の勉強をしているけれど、将来はお母さんの家を建てたいと言ってくれている本当に優しい息子さんなのです。

 亡くなったお父さんと北澤先生と息子さんは江畑さんと感受性が同じだと感じます。どんなにぶつかっても素の自分でいられる、どんなことがあっても許してくれる安心感があります。江畑さんはレ・ミゼラブルの、ジャン・バルジャンがコゼットを迎えに来たシーンを見た時に先生と重なって号泣しました。ずっとお父さんが亡くなったことにコンプレックスを抱いていて自分に自信が持てませんでした。お父さんが亡くなったことを誰にも話さずに生きてきてすごくすごく苦しかった。そんな江畑さんに「自信を持って堂々と生きたらいい」と言ってくれたのも北澤先生でした。

 今はもう胸を張って生きていけると江畑さんは思っています。どんなつらいことも乗り越えてこそ意味がある。だから私は負けない。私が時代を変えていくんだ!
 いろいろやっていると批判をしてくる人ももちろん出てきます。でも、自分の信念を貫けば応援する人が必ず残ってくれる。だから私はくじけず、えらそうにならずに、足元を見ながら一歩一歩 歩いていこう、そう思っている江畑さんなのでした。

 キャンナスをやっている全国の仲間はみんな変わっています。熱くて、みんなホントにナイチンゲールのよう。このあとどんなことがあっても支えあっていける仲間たちです。誹謗中傷どんとこい!江畑美由紀はこれからもガハハと笑って乗り越えていきます。
 そうです。人生楽しまないとだめ。楽しくなかったら軌道修正です。そうして死ぬまでやるのがキャンナス。死ぬまでやれることが見つかった自分はなんて幸せなんだろうと思っています。

 看護師、応急手当普及員、介護支援専門員、認知ケア専門士、いっぱい資格も持っている江畑さんだけど、最後は資格ではなくて人。
そこにいるだけで安心。あなたがいるだけで安心。そんなおばちゃんの感覚を持った専門職でいたい。常に反省するけど、引きずらない。そして常に学ぶ姿勢を忘れずにいたい。
 常に根っこにあるのは、最愛のお父さんと十分なお別れができなかったという後悔。だから、終末期の患者さんや家族を応援したいと思うのは後悔がないように最期まで生き抜いてほしいという願いがあるのです。

 老後の夢はキャンナスで一生現役ナース。そして一生、臨床美術の伝道師。ずっと人の心をつなぐ架け橋でいたい、そう熱く語ってくれた江畑さんでした。
 いっぱい泣いていっぱい笑って、これからも太陽のような江畑さんの周りにはたくさんの笑顔があふれていることでしょう。
 ダイバーシティとやまもこれからもずっとキャンナス高岡を応援します!
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