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今日の人130.坪田佳奈さん [2014年09月29日(Mon)]
 今日の人は、脳性まひ・身体障がいの当事者やご家族同士の交流の会、歩む会の代表・坪田佳奈さんです。
IMG_6716.JPG

 佳奈さんは1991年の3月に高岡で生まれました。予定日より3ヶ月も早く生まれ、生まれた時の体重は675gしかありませんでした。まだ肺が出来上がっていない時に生まれ、保育器の中でたくさんの管に繋がれた状態。NICUで半年を過ごしたのでした。

 その頃のことはご両親も触れたがらないので、20歳になるまではそんな話をするのはタブーでした。今もあまりその話はしませんし、その頃の写真も残っていません。
 でもその時に担当してくれた先生は、間違いなく佳奈さんにとって命の恩人だったし、今もその先生とはつながりがあります。
 
 退院はしたものの、初めて歩いたのは2歳5ヶ月の時でした。高志リハビリセンターに一度両親が連れて行ったのですが、程度は軽いし、家でリハビリをすればいい、みんなと同じ育て方をすればいい、と言われ、それきり行きませんでした。が、これはつい最近わかったことなのですが、その時のカルテには次の診察の予約が記されていたのです。今となれば、真相はわからないままですが、その時リハビリに通い続けていれば、今ごろどうなっていたかな、という思いがないわけでもありません。

 こうして、佳奈さんは他の子と同じように、という両親の教育方針の元、ピアノ、くもん、水泳、いろんなことに挑戦しました。左半身は小さい時から都合が悪かったけれど、両親には大きくなったら治ると言われ、それを信じていました。そうして、ハードルや平均台などできないことはあるものの、なんでも「できなかったらやればいいんだ」と思って、なんでも人一倍練習を重ねました。なわとびができないのがイヤで何度も何度も練習して、前跳びが跳べるようになりました。
 ただ、食が細く、給食を食べるのにはとても苦労しました。今とちがって昔の先生はちゃんと完食するまで食べさせようとしたので、毎日のようにお昼休みの時間がなくなってしまいました。

 平均台ができない時はお父さんが家に平均台を作ってくれたりしました。親からは、いろいろできないのは小さく生まれたからで、時が解決してくれると聞いていたので、それを信じてひたすら練習しました。今、自分が生きているのはすごいことなんだ、それは漠然とわかっていました。わかっていただけに、生きられなかった子どもたちの分までちゃんと生きなきゃ、そういう気持ちがいつの間にか重荷にもなっていました。

中学に入ると、やっぱり私はみんなとちがうという思いがだんだん大きくなっていきました。自分でちゃんと靴下が履けないし、名札もつけられない。足が突っ張って階段を上がれないので、学校に掛け合ってなんとか手すりをつけてもらいました。

 自分の症状に納得のいかない佳奈さんは、ある日病院の先生に聞きました。
「先生、私、何の病気け?」
病院の先生は「脳性まひ」と告げました。
「脳性まひ?それは治るの?」
「今の医学では治らない」と聞かされ、佳奈さんは衝撃を受けました。
「え?親には大きくなったら治るって聞いてきたよ。なんで治らないの?先生、治してよ!治らないなら、なんで私のこと助けたの!!」
つらい気持ちを病院の先生にぶつけるしかありませんでした。

 学校でもつらいことがたくさんありました。保健体育の授業の時、先生は母子手帳を持って来なさいと言いました。そこに記してある何ヶ月で何ができるという項目を見て、佳奈さんはとてもショックでした。全てにおいてみんなとずれている…。保健体育の先生には、自分が小さく生まれたことを言って、そういうことを言わないで欲しいと話しておいたのに、先生は授業中にみんなに何gで生まれたかを聞いたのです。
3000g以下で生まれた人?などと聞いていき、「1000g以下の人は、まさかおらんよねぇ。」と言った先生。なんで???佳奈さんの心は悲しみで溢れました。先生にちゃんと言っておいたのに、どうしてこんなことになるの?あまりに悲しかった佳奈さんは親にその事を言いました。そんな事を言ったのは初めてだったのですが、それを聞いて号泣した親を見て、ああ、もうこの話は絶対にしてはいけない。そう子ども心に思ったのです。中学生にしてその思いを全て一人で抱えることに決めた佳奈さんなのでした。

 部活は最初卓球部だったのですが、先輩や同級生に「なんで腹筋ができないの?」と叱られ、シカトされるなどのいじめも受けていました。後に腹筋出来ない理由は、脳性まひの筋緊張によるものだとわかります。佳奈さんは合唱部に転部しました。けれど、思うようにならないことがだんだん増えていき、学校には行っていたけれど精神的につらい毎日でした。いつも死にたい死にたいと思っていました。でもがんばった。いつも無理をして、いつも頑張りすぎてしまう、そんな佳奈さんでした。

 高校は自由な雰囲気の所に行きたいと思い、小杉高校へ。でも入学式で担任にいきなり言いました。「私は教師が嫌いです。」
そんな佳奈さんにその先生は「俺が3年間かけて信じさせてやる」と言いました。最初は信じなかった。でも、その先生は本当にいい先生でした。今まで先生なんて大っ嫌いだったけれど、その先生のことは大好きになりました。そして、先生は3年間ずっと佳奈さんを受け持ってくれました。その先生の影響で、教師になりたい、そんな思いまで芽生えたのです。

 高校では吹奏楽部に入り、トランペットを吹きました。トランペットは左手を動かさなくてもよかった。だからトランペットを選んだのです。でも、そのころから体が痛むなどの異変が頻繁に出てくるようになりました。手にも負担がかかって腱鞘炎を繰り返してしまい、佳奈さんは吹奏楽部を辞めました。みんなにちゃんと事情を説明せずに、やめてしまったので、それは今も心残りです。でも、だんだんいうことをきかなくなってくる身体に向き合わなければならなかった高校生の佳奈さんには、それがせいいっぱいだったにちがいありません。

 高校の終わり頃に身体に更なる異変を感じました。骨が痛い。そして足が常に浮いている感じがしたのです。見かねて先生が、リハビリのある病院を探してきてくれました。その頃、関節が固まってきていました。脳性まひの二次障害で確実に進行すると言われ頭が真っ白になりました。そんなのひと言も聞いてないよ。ずっと治る治ると思ってやってきたのに、治るどころか症状が悪化する?何よそれ。どこにぶつければいいのかわからない怒りがふつふつと湧いてきました。リハビリの理学療法士につっかかっていました。私は手帳なんて取らない。装具なんてつけない。
 そうして、病院の先生に訴えました。「私、リハビリしてたら自分のことがわかってつらいんです」
 先生は改めてはっきり言いました。「君はそんなにたいしたことはないと思っているかもしれないが、すごくひどいんだ」

 私はどうしたらいいかなぁ。佳奈さんは悩みます。障害者手帳のことだって、誰にも言われたことがなかった。もっと情報があれば、私は二次障害でこんなに苦しまずに済んだかもしれない。この苦しさは本人じゃないとわからない。やっぱり当事者の会がないとダメだ。

 こうしていろいろ悩みながら時を過ごし、2011年12月に高岡のひとのまで当事者の会「歩む会〜Andante〜」を立ち上げました。新聞記者に脳性まひって脳が麻痺しているの?と聞かれ、『新聞記者でさえこんな認識なんだ。何年たっても変わらない状況がある。余計に誰かがしゃべらなきゃ。普段から交流できる場を作らなきゃ!』そう決意を新たにしたのです。
 ひとのまの元島くんにも手伝ってもらって、障害者手帳も取得しました。しかし、制度と現実のずれを感じることも多々あります。

 当事者会でいろいろなことを話している時に、「佳奈ちゃんがこんなに小さく生まれて頑張ってこれたのは奇跡なんだよ。それだけでもホントにすごいんだ。負担に思わなくてもいいんだよ。」そんな風に言われ、とても気持ちが楽になったことがあります。
障害の重い子も普通に見られるそんな社会にしたい!そう願ってもちっとも情報が入ってこないし、役所に相談してもあまり頼りにならない。自分自身が知識をつけてやれることをやろう。福祉の勉強をしよう!

 そう思って佳奈さんは今、福祉の勉強を一生懸命にやっています。将来は社会福祉士になって、自分と同じような立場の人の救いになりたい。それを歩む会でも語っていきたい。今は無理をしないで生きるという選択肢を選べないけれど、障害があろうがなかろうが無理をせずに自然体で生きていける社会を作りたいと願う佳奈さんなのでした。

 足の突っ張りが激しくなってきた佳奈さんは、先生に「君はどういう人生を歩みたいの?できることを伸ばしていくの?寝たきりになるの?」と問われて、とうとう手術を決意します。
 手術は怖かったし、手術した後になかなか歩けないのもとてもつらい。けれど、自分で選んだことです。まだまだ自分には乗り越えていかねばならない壁がたくさんあるけれど、自分らしく生きていこう!そう心に誓う佳奈さんなのでした。
 もちろん不安で怖くて仕方がない時もまだまだあります。そんな時にいちばん力になってくれるのは担当医の先生です。辛い時、悔しいとき、現状と向き合っていく中でそういった気持ちをありのまま受け止めてくれ佳奈さんの話を聴いてくれる先生。
出来なくなったことも増えて、今後を考ると不安だったり、現状に辛くなることもあるけれど、1人じゃない。と思えます。ありのままの自分を唯一話せる先生であり、本当に感謝しているのです。

だから佳奈さんは思います。私も先生のような人でありたい。歩む会でみんなの話を聴くことで、私のように悩み苦しんでいる当事者が少しでも笑顔になってくれれば…と。
「ダイバーシティーの原点は、自分をありのまま話せることなのかもしれませんね」と佳奈さん。
本当に苦しんできた彼女だけど、その笑顔は誰よりもキラキラと輝いていました。

みなさんもぜひ脳性まひ当事者の会「歩む会」のホームページをご覧になってください。そして、歩む会の活動にも一緒に参加してみてください。障がいがあってもなくても、いろんな人がごちゃまぜで暮らしやすい社会はまさにダイバーシティ。佳奈さんをずっと応援しています。

歩む会⇒http://ayumu-kai.jimdo.com/
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