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今日の人4+.森本耕司さん [2014年07月17日(Thu)]
 今日の人は、実は2回目の登場になる有限会社森本自動車代表取締役の森本耕司さんです。1回目のインタビューはこちら⇒https://blog.canpan.info/diversityt/archive/5
IMG_2595.JPG


 森本さんは1967年滑川で生まれました。1歳になる前から3歳までを東京で過ごします。
お父さんは雇われエンジニアをしていましたが、森本さんが3歳になった時に一念発起し滑川に自動車整備の工場を建てました。建てたと言っても廃材で建てた工場。その当時はまだ周辺は砂利道でした。お母さんはその当時としては大変珍しいピアノにバレエを習って育ったお嬢様でしたが、車の整備をしにきたお父さんを好きになり、二人は結ばれたのでした。そしてお父さんが工場を建ててからというもの、そのお嬢様のお母さんが耕司さんをおんぶしてお父さんと2人3脚で汗水たらして働き始めだしたのです。森本さんは小さい頃、いつも工場で両親につきまとっていた記憶があります。そして、その頃の車の排気ガスのニオイが好きでした。今と匂いがちがってとてもいいニオイだったそうです。
 お父さんはとにかく職人気質の人で、仕事は本当に丁寧でした。それで、少しずつお客さんが増えていきました。でも、お金儲けには向かない人でした。借金することも嫌いで、借金したことは生涯一度もなかったそうです。
 
 森本さんは小さい頃は泣き虫で、保育園に行くのが嫌で近くの神社の境内に隠れていたりしました。それでも見つけられて連れていかれたのでした。両親とも仕事が忙しく、迎えに来るのはいつも最後。お迎えはまだかな、まだかなといつもずっと待っていました。
 その頃なりたかったのは仮面ライダーです。遊びと言えば仮面ライダーごっこで、いつも桜の木から飛び降りたりしていました。

 かしこまった場所がとても苦手で、卒園式の時もじっとしておられず、お母さんに抱っこされてどこかに連れていかれたのを覚えています。それは小学校に入っても変わらず、じっと座っているのがとても苦痛でした。整列する時に異様に緊張していました。
教室でじっとしているのは苦手でしたが、昆虫はいくらでも飽きずに眺めていられました。石をひっくり返して出てきた虫をずっと見ているのです。昆虫図鑑も大好きでした。

 森本さんが学校生活がどうにも苦痛になったのは3年生の時です。3年の途中から突然担任の先生に怒られ始めました。なんで怒られているのかわからない。でも先生は森本さんだけを執拗に怒ったり無視したり、本読みを当てるときに森本さんだけ飛ばされたり、とにかく徹底的に先生によるイジメの対象にされたのです。先生がイジメの対象にするのですから、子どもたちもそういう雰囲気になるのにさほど時間はかかりませんでした。
 森本さんは学校に行きたくなくて、押入れに隠れたりしましたが、それを許してくれるお父さんではありませんでした。何があっても学校には絶対に行かされたのです。森本さんは3人兄弟の長男でしたので、特に厳しく育てられたのでした。
 しかし、学校が終わったら学校の友だちと野球をしたりもしていました。学校ではあいつに構ったらダメだという雰囲気で一人で孤立していた感じでしたが、放課後はそうではなかったのです。学校は地獄、放課後は天国でした。
また、いとこが別の校区にいて、そこに行って卓球をしたりボードゲームを作って遊んでいたりもしました。

 お父さんの工場はマツダの代理店だったこともあって、森本さんはカープファンでした。いつも駅前の水銀灯のある通りで野球をしていました。今では駅前の道路で野球をするなんて考えられませんが、その当時はまだそこまで交通量が多くなく、車が来たら野球を中断して車が通ったらまた再開ということができたのです。その水銀灯にはノコギリクワガタやカブトムシが飛んできてそれを捕まえたりもしていました。カナブンもたくさん飛んできましたが、森本さんの中ではカナブンやトンボは格下の虫で、カナブンにキンカンを注射したり、輪ゴムを飛ばしてトンボのクビをはねたりもしていました。

 一人遊びも好きで、小川で木の棒を投げてそれを追いかけたりしていました。その時もちゃんと自分でルールを決めて、ここまで何にも引っかからずに流れたらOKとか、引っかかったらダメとか決めてそれを達成するまではずーっとやっていました。電信柱のここからここまでは息を止めてというのもやりました。その当時の子どもって、みんなそれぞれに自分のルールを作ってそういうことをやっていたような気がします。果たして、ゲーム世代の今の子どもたちはどうなのか気になるところですが。

 しかし、相変わらず先生によるイジメは続きました。4年になっても5年になってもそして6年になってもずっと森本さんはその陰血な先生が担任だったのです。学年が変わる時、今年こそは先生が変わってほしいと願い続けた森本さんの願いは結局小学校を卒業するまで叶えられなかったのでした。それでも学校を休むことはありませんでした。

 小さい頃は図鑑を見る以外は全く読書しなかった森本さんでしたが、小6のクリスマスプレゼントに「フランダースの犬」の本をプレゼントされます。最初はなんでおもちゃじゃないんだ!とすねていましたが、読み始めると涙が出て仕方がなかった。それからは少しずつ読書する楽しさを覚えていきました。

 普段は休みなく働いていた両親でしたが、お盆やゴールデンウィークだけは家族で旅行に行きました。お父さんはいつも皮の手袋をはめて運転していてその姿がとてもかっこよかった。

つらかった小学校時代が終わり、中学校に入った森本さん。最初は小学校の流れでまたイヤな思いをしたらどうしようと思っていましたが、それは杞憂に終わります。テニス部にも入り、新たな友だちもできました。超不良の友だちもいて、その子と一緒に悪いこともしていたので、校長室に呼び出しをくらったことが何回かあります。でも、中学に入ったとたん、お父さんは一切怒らなくなりました。もう自分でものの良し悪しを判断しなさいというお父さんからのメッセージだったのでしょうか。

 ちょうどインベーダーゲームが出始めた頃で、森本さんもご多分に漏れずすっかりハマってしまい、時間があればインベーダーゲームばかりしていました。その頃は今とちがって、家にゲーム機があるわけではありませんから、ゲームセンターや、お好み焼き屋さんでずっとゲームしていたのでした。

 勉強はしたことがないと言ってもいいくらいでしたが、中3になった時に、このままじゃあダメだ、ちゃんと高校に行こうと思って勉強をやり始めます。するとみるみる成績が伸び始めて、学年で中くらいだった成績が一桁になりました。しかし、提出物を出したことが一回もなかった森本さんは内申書が悪く、高校は富山第一高校の特進コースに進みました。

 ブラックジャックが好きだったこともあって、医学部に進みたいと最初のうちはがんばっていました。しかし、朝が弱い森本さん。どうしても電車の時間に間に合わないのです。都会の人にはわからない感覚ですが、富山は一本電車を逃すと30分は待たなければなりません。そうすると完全に遅刻なので、電車を待たずに自転車で学校まで行くことが多くなりました。それにしたって間に合わず、森本さんは遅刻の常習犯に。
 もらった定期代はすぐに遊びに使ってしまったので、結局自転車で通わざるを得ず、そのうちそれが面倒になって、富山市の友だちの家に毎日のように泊まるようになっていきました。友だちの家で麻雀ばっかりやって、タバコを吸ってブラブラして補導されたりもしました。そうなると学校謹慎ということで、学校で写経されられました。丸坊主にもさせられました。

 高3になった時に、やっぱりこのままじゃいけないと思い立ちます。それで、夏休みに東京の駿台予備校の夏期講習へ。最初は意気込んでいましたが、それもあまり長続きはせず、飲んで昼間も寝ていたり、東大のベンチに寝転がって、ウォークマンを聴きながら身体を焼いたりしていました。学食の食事も美味しくて、やっぱり東大はいいなぁと思いました。それでちゃんと勉強していい大学に入ろう、そう思ったのです。

 最終的に第一志望に選んだのは北海道大学でした。医学部はさすがに難しいので、理学部でバイオテクノロジーを勉強しようと思ったのです。模試の結果からいっても受かると思っていたのですが、なんと受験の日に遅刻してしまった森本さん。下見をしていなかったので、北大のキャンパスがとっても広いことを把握していなかったのです。この時、試験に遅刻せず北大に行っていたら、また全然ちがう人生になっていたのかもしれませんね。

 こうして、浪人することになり、東京の駿台予備校に通うことになりました。しかし、予備校生になると、大学は楽をしたいと思ってしまい、理系から文系に志望を変えました。そして、卒論がないという理由で、志望学部は法学部に。

 どうも学校に入ると遊んでしまう森本さん。予備校もやがて全然行かなくなり、模試だけ受けに行っている感じでした。しかし、予備校時代には素敵な出会いもいっぱいありました。駿台予備校は大学に入るより難しいくらいなので、当然優秀な人がいっぱい集まっています。同じ寮には哲学書ばっかり読んでる人、ギターばっかり触っている人、フランス語ばっかり勉強している人、いろんな人がいて、哲学談義をしたり、いろんな話で夜通し語り合うことが多かったのです。もちろん酒を飲みながら…。
この時からタバコなしでは生きていけなくなった森本さん。漫画「独身アパートどくだみ荘」そのものの時代でした。
 しかし、あまり勉強はしなかったので、共通一次の点数は現役の時より100点落ちました。そして、東京はあまり水が合わないと思ったので、大阪市立大学の法学部に入ったのです。

 大阪に行って一ヶ月くらいは全然友だちができませんでした。あまりに変な奴ばかりでしたから。でも、慣れてくるとみんな格好つけないところが心地よく、自分も格好つけなくていいんだと思うと、ずいぶん気持ちがラクになりました。こうして大阪がだんだん大好きになっていったのです。

 大学1年の後期くらいからは麻雀荘に通い始めた森本さん。自由と言われると自分を律することができない性分でした。いつも自分を追い込まないと力を発揮できないのです。ですから、自由がたっぷりの大学時代は、当然遊ぶ方に重点が置かれました。ドイツ語の先生に「あなただけは通しません」と言われ、留年確定。(語学は必修なので専門課程に上がる時までに単位を取らないと留年になってしまうのです)まさかの体育の単位も落とします。要するにそれはほとんど大学に行かなかったということに他なりません。「内面がしっかりしていないと外面を着飾ろうとする」というのは森本さんの弁ですが、大学時代にはDCブランドで身を固め、なんとソバージュヘアをしていたというのですから、その時のお写真をぜひ見たいものです。

 ある時期、知り合いが立て続けに亡くなります。麻雀荘が火事になってとっても仲良しだった友だちが死に、同じクラスだった子も首を吊って亡くなります。京都大学に行っている友だちも自殺。自分も小学生の時にとてもつらくて死を考えたことがあったけれど、みんな今なぜ死ななければならないのか。死というものを見つめるようになった時でした。とはいえ、生活は変わらず、相変わらず酔っ払って、また必修の単位をひとつ落として留年。つき合っていた子が先に就職して社会人になり、これじゃあいかんな、と思うようになります。同じように留年している友だちもいましたが、彼は弁護士になるという確固とした理由があってのこと。自分はいつもちゃらんぽらんじゃないか、こんなんじゃあかん。

 そしてちゃんと就職活動もはじめました。一番行きたかった政府系の銀行でのトップ面接の時に、「どんな会社でも2年あれば潰れる。いくら政府系のところでも下手な経営をしていれば2年あれば潰れるからね」と言われ、続けて「君はうちの会社に来ないほうがいい」と言われます。次の面接日も決まっていたのですが、自ら行かない方を選びました。
 実は競馬も大好きだったので、中央競馬会にも就職したくてここも面接まで行ったのですが、面接でいろいろ話している時に、ダブっているのは浪人含めて2年までしかダメだということがわかります。つまり、1浪2留の森本さんは受験資格がなかったのです。
 とはいえ、世はまだバブルが終わってはいなかったので、就職するのにさほど苦労はありませんでした。そのまま大阪で就職し、充実した毎日を送っていました。この時は富山に帰ろうなんて全然思っていませんでした。
 
 就職して2年経った時、お母さんから電話が入ります。お父さんがあと5年の命だと言われたと。そこから3日間の記憶が欠落している森本さん。気がつくと辞表を提出していました。

 お父さんはあとを継がなくていいと言っていたけれど、息子が帰ってきてとても喜んでいたと後でお母さんから聞かされました。
 しかし、それまで車に関して全く興味がなかった森本さん、3~4年は仕事が苦痛で仕方がありませんでした。毎日ツナギを着て、油まみれになりながらの仕事。ディーラーで直せない故障も直してしまうお父さんと違い、自分の中で修理が体系化できませんでした。
でも、ある時、電話で話している時に、突然頭の中でバラバラだったものがバチッとつながった瞬間がありました。それからは自分の中で体系化できるようになり、お客さんとの会話も楽しくなっていきました。最初は2代目のやり方に文句を言っていたお客さんからほめられるようになり大変うれしかった。
 でも、集客のことではお父さんと意見が対立しました。お客さんはお父さんが少しずつ大切に作ってきたお客さんばかり。しかもそのお父さんは入退院を繰り返しています。集客のためにチラシを打ちたかったけれど、その当時業界でチラシを打つことはタブー視されていました。

 29歳の時、森本さんは結婚してすぐに子どもが出来ました。生まれた時、めちゃめちゃ男前な男の子で本当に嬉しかった。でも、翌日奥さんから泣きながら電話がかかってきました。チアノーゼが出て調べたところ、心臓の左心室が未形成だということがわかったのです。もし手術をするとしたら毎年大掛かりな手術が必要になる。そしてその成功確率は10%。手術をし続けて最高に長く生きられたケースは6歳。手術をするか否か、森本さんにはどうしても決められませんでした。それで奥さんに言います。「お前の判断に任せる」結局奥さんも幼い心臓に危険を冒してメスを入れる決断など下すことはできませんでした。
小さな赤ちゃんはずっと保育器に入って、でも一生懸命手足を動かし、いろんな表情をしてくれます。搾乳器で絞った母乳を看護師さんに渡しながら、ひょっとして、この子は大丈夫じゃないか、ずっと生きてくれるんじゃないか、そんな想いが溢れました。出生届には「凱斗」という名前を出しました。一生懸命画数も考えてつけた名前でした。
そうして生後44日、凱斗くんは天に召されていきました。わが子の死亡届を出す気持ちはいったいいかばかりでしょうか。ずっと泣いて泣いて…。その当時は元気な子どもたちの姿をまともに見られませんでした。なぜうちばかりこんなことに…。すぐに涙が溢れてきてしまうのです。
 
 それからしばらくは子どもができませんでした。でも、森本さんが32歳の時に、元気な女の子が生まれました。とにかく可愛くて仕方がなかった。壁に落書きをした時にそれが嬉しく、壁中落書きだらけになった時もあります。
 
 お父さんは元気なお孫さんの顔を見届けて、それから凱斗くんのところへ旅立っていきました。お父さんが亡くなって、森本さんは仕事への危機感を覚えました。お父さんは腕でお客さんを満足させていた。お客さんは父に関係のある人ばかり。その父が亡くなった。このままではいけない。

 それからです。森本さんがたくさんの本を読み、いろいろなセミナーに行き始めたのは。
 そんな時に東京でたまたま有限会社香取感動マネジメントの香取貴信さんの講演会を聴く機会がありました。それまでいかにして社員が自分の思ったように働いてくれるかしか考えていなかったけれど、社員の人間性を育むという考え方に衝撃的を受けた森本さん。それまでセミナーを受けても懇親会に出たことなどありませんでしたが、その時初めて懇親会にも参加します。そこで聞いたのが「一週間後にドリプラというイベントがあるよ」という話でした。「大人の夢を聴いて、それを聴いてる人が感動の涙をながす。」そんな全然知らない人の夢を聴いて泣くなんてことがあるものか、そう思いましたが、強く薦められたこともあって、行くことにしました。そうすると1人目のプレゼンから号泣している自分がいたのです。こんなにも人を応援したくなるものなのか。強く感じた森本さんは、ドリプラを主催している福島正伸さんのセミナーに出ることにしました。そこで初めて気がついたのです。社員たちはなんで俺のいうことをわかってくれないのかと思っていたけれど、全部俺のやっていることが出ていただけなのだ、と。それまでは性悪説で人を見ていたけれど、経営スタイルを社員を信じる方へ変えていったのです。

 そしてNO.1理論の西田文郎さんのセミナーで自分の頭の中のことが現実になっているだけだということを学び、ついてるワクワク脳にすることの大切さを実感します。

 森本さんはついに、当時業界ではタブーだった価格を明瞭にした森本車検のチラシを打ちました。最初は組合の人から総スカンでしたが、価格を明瞭にすることの大切さを丁寧に話して理解を得て、そのうち車屋さんの知り合いも増えていきました。コバックにも加盟しました。そうして森本車検に来るお客さんがうなぎのぼりに増えていったのです。

 森本さんは人と人をつなげていくのがとても得意です。そしてそれがとても楽しいとおっしゃいます。人脈はその人の器を作っていくのだと。
 そして、いろいろな所にたくさんの寄付をしています。最初は儲けたらもっと寄付しようと思っていました。けれど、ある人に言われます。「出すから入ってくるんだ」と。
その言葉を聞いてからは、森本さんはどんどん出すようになりました。最初しんどいこともあったけれど、しんどい時こそ出そう、そう決意して。そして、決意して動けば大抵のことはうまくいくものです。うまくいかないのは覚悟が足りない時、そう感じます。

 何か大きな決断をするときは、今もお母さんがやりなさいと後押ししてくれます。亡くなったお父さん、そして今も元気なお母さんに守られて今ここにいる自分なのです。

 今は、社員に対して目先のことでは腹が立たなくなりました。お客さんに向き合う時の感度、人としてどうあるか、「ありがとう」が言えるか、同じ感覚で感じてくれる社員が増えてくれたらこんなに嬉しいことはありません。でも、裏でこそこそ悪口を言い合うくらいなら、胸ぐらをつかみ合ってでも堂々とやりあって欲しい。ずるいことが大嫌いな森本さんなのです。
 そして、上司になる社員は、上司になったからと言って人間的に上下をつけるようでは絶対にうまくいかないと思っています。人間的にはあくまでもフラット。ちゃんと部下にありがとうを言える上司であってほしい。もちろん、自分自身もそうです。

 森本さんは今後、お店の数を増やしていきます。上の役割を持った人間をたくさん作っていきたい。舞台を増やすことで人は成長できます。お店を増やすことが目的ではなく、森本さんが目指すのは人作りなのです。人としての在り方、生きる強さを持った人作りをしたい。以前インタビューした時に、教師をやってみたいとおっしゃっていました。つまりどちらも人を育てていくという点で一致していますよね。

 そんな森本さん、楽しいこととしんどいことは並んでいるんだとおっしゃいます。ワクワクと危機感がどっちかだけになるのはよくないと。

 森本さんは老若男女問わず好かれますが、それはご自身の根本に大きな人間愛が溢れているからだと思います。昔は完全に自分は性悪説だったとおっしゃいますが、森本さんはどう見たって相手を信じきっています。自分に甘いとおっしゃいますが、その人間臭さが余計にみんなに親近感を持たせるのかもしれません。

 そんな森本さんが7月27日に富山国際会議場で行われるドリプラ富山2014にプレゼンターとして登壇されます。森本さんは第1回のドリプラ富山2011の実行委員長。私はその時プレゼンターでした。果たして森本さんはどんな夢を語ってくれるのでしょう。とっても楽しみです。


喫茶店2011年ドリプラ富山実行委員長だった森本さんの元で私がプレゼンターをして、2012年の世界大会に至るまでの道のりはこちら
ドリプラマガジン プレゼンターメッセージ宮田妙子

 
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コメント
森本さん、最幸!
Posted by: 大太  at 2014年07月17日(Thu) 23:17