今日の人123.高橋太郎さん [2014年07月02日(Wed)]
今日の人は、看護師であり、富山で和漢薬の原料となる植物の栽培を薦めるプロジェクト阿羅漢の仕掛人であり、握力が85sもあって武道家の顔も持つ高橋太郎さんです。
太郎さんは1975年、高岡で生まれました。幼い頃は金沢で育ったのですが、その頃の記憶はあまりありません。小学生になる頃には高岡に戻っていましたが、喘息やアレルギーで身体も弱く、いじめられっ子でした。いじめっ子にやられていたので、いつも服をボロボロにして帰っていました。それで小1の頃から剣道を習い始めます。そしていつの間にか、棒を持ったら絶対に負けない子になっていました。こうなると、もちろんやられっぱなしではありません。おまけにお父さんはケンカに負けて帰ってくると、勝つまで帰ってくるな、という人でしたから、相手をとことんボコボコにしていました。勝ってから家に帰ると、既に菓子折りが用意してあり、父とその菓子折りを持って相手のうちに頭を下げに行ったのも一度や二度ではありませんでした。しかし、ケンカをやめようという気はなく、ずっとやられたらやり返すという姿勢でした。 ただ、自分からは仕掛けませんでした。あくまで仕掛けてこられたら完膚なきまでに叩きのめしていたのです。集団でケンカを仕掛けられることも多く、時には1対10ということも。それでも、学校を休もうと思ったことは一度もなかったと太郎さん。それはお母さんを悲しませてしまうと思ったからです。ですから、お母さんの前ではどんなにつらい時もいつもにこにこしていました。もっとも、ケンカで服をボロボロにしてきたり、血を出して息子が帰ってきた段階で、お母さんには相当心配をかけたとは思いますが… 中学校の時に、岐阜のじいちゃん、ばあちゃんが高岡にやってきていて、しばらく一緒に暮らしていました。実は太郎さんはこのおじいさんから受けた影響がとても大きいのです。おじいさんは何度も戦争に行った人でしたが、戦場で一人も人を殺すことはなかった。その機会は何度もあったけれど、できなかったのです。でも、その度に守られているのではないかと思うくらいに生き延びて、シベリアに抑留された時も、仲間がバタバタと倒れていく中を生き延びた。そしてチベットの僧に治療を受け、その間にその手技を身につけたのです。日本に帰ってからその手技の評判が徐々に広がり、仕事の後などの時間におじいさんは請われるままに手当てしてあげていたのでした。そのおじいさんに手を添えられて、「ほら、太郎ここが悪いのわかるか?」と言われ、太郎さんには確かにそこがわかったのでした。おじいさんはいつも言っていました。「自分のために生きるな、人のために生きなさい。」その言葉が今も太郎さんを支える原動力になっています。 とはいえ、中学時代もヤンチャだった太郎さん。しょっちゅうケンカもしましたし、ものも壊しました。公共物破損でしょっぴかれたことも一度や二度ではありません。ですから、内申書があまりにも悪く、県立は無理だと言われました。そうして私立の高校に通い始めましたが、校門の前で待ち伏せされることもよくありました。ですから高1の頃は相変わらずケンカばかりでした。空手も習って相当にはまっていたので、ますます強くなっていた太郎さん。しかし、この頃読書にも目覚めます。太郎さんが心を開いていた教頭先生から「太郎君、図書室で本読まん?」と誘われ読み始めたのです。その高校は仏教系の高校なので、仏教や哲学の本がたくさんありました。そういうものを片っ端から読んだ太郎さん。授業中も先生方はヤンキーにも納得できるような禅問答をしてきます。ケンカばかりしていた太郎さんでしたが、読書やそういう授業で少しずつですが、尖った角が取れていきました。 就職する時、先生に郵便局や農協があるぞと薦められます。実は先輩方から、消防、警察、自衛隊にも誘われていたのですが、そのどれかを選んでしまうと他の先輩に義理が立たないと思い、先生に薦められた農協を受けることにしました。 面接で何がしたいと聞かれた時に、ずっと「空手」と答えていたので、てっきり落ちたかと思いきや、次の日に内定が出て、あまりにすんなりと就職が決まったのでした。 こうして農協に就職した太郎さん。もともとお年寄りに可愛がられるタイプなのでしょう。農家の人にとっても可愛がられました。仕事と同時に空手もずっとやっていて、道場にはヤクザに絡まれても平気な位に強くてすごい人がいっぱいいました。ですから、そういう強い人達の中にいると、弱い人達相手にケンカする気も起きなくなっていて、いつの間にかケンカはしなくなっていました。ただ当時の若者らしく、車で二上万葉ラインを爆走したりはしていました。 そうして26歳まで勤めたのですが、保険業務をしなければならなくなって農家の人に売りつける感じがとてもイヤだったのと、ちょうど空手の先輩にS警備会社に入るか、デンマークの空手支部に行くかどちらか選んでほしいと有無をいわさぬ選択を迫られていたこともあり、S警備会社に転職することにした太郎さん。その頃ちょうど結婚したこともあって、太郎さんは強靭な肉体を活かして、危険な現場をかいくぐる仕事でどんどん出世していきました。映画「バックドラフト」そのものの火災現場で、動くはずのないものを動かす火事場のクソ力で扉をこじ開けて、消防車や救急車を通したり、後輩を救ったり、発砲現場に行ったりと、ずっとアドレナリンが出まくっているような状態が続きました。そんな太郎さんのあまりに過酷な環境に、奥さんからは「いつもいつも危ない目に遭っているから、いいかげんに辞めてほしい」とも言われていました。 一方で警備の仕事ですから、昼間独居老人に呼び出されて会いに行くこともよくありました。おじいさん、おばあさんたちは太郎さんが来るのを待ちわびていてくれて、そうやっておじいさんおばあさんと話すのはとても嬉しかったのです。しかし、緊急時に呼び出しボタンで助けを求められても、医療的な資格が何もないので何もできない、それがとてももどかしかったのです。その話をケアマネージャーの方にしていた時に、「救急車の後ろに乗る看護師さんはどう?合っていると思うよ」と言われたのです。看護師をしていた奥さんもそれを支持してくれました。 確かにこんなに心身をすり減らす仕事を年を取ってもずっと続けられるわけもないし、なにより妻を心配させてしまう。そう思った太郎さんは1年かけて警備員の仕事を辞め、看護師になるべく、看護学校に通い始めました。 しかし、太郎さんと奥さんを引き離す予期せぬ出来事が起こり、二人はお互いに好きなままに離婚することになってしまったのです。これが太郎さんにはあまりにもショックが大きかった。眠れない、食べられない、何も考えられない。やがて太郎さんは重度のうつに陥ってしまったのでした。 看護師として働き始める時に、太郎さんはなるべく人と会わないで済む病院に行きたいと思いました。引きこもりたいという想いがとても強かったのです。それで選んだのが富山大学附属病院でした。県内で唯一の大学病院ですし、どう考えても大勢の患者さんに会う病院なのですが、心身ともに病んだ状態の太郎さんには山の中にある病院=引きこもれるという図式しかなかったのでした。 何もかも忘れたかった太郎さんは、何も考えなくてもいいように「一番過酷な現場」を希望します。こうして心臓外科の看護師になります。仕事でクタクタになって帰ってくるのに、一睡もできない…。ひどい時は2週間ずっと眠れないという状態でした。こうなると、もうまともに何かを考えられる状態ではありません。ある夜勤の日、患者さんに点滴が刺せないという事態が起こります。見かねた副師長さんが、「今日はもう帰りなさい」と言ってくれ、その日たまたま当直だった和漢薬診療科の先生が明日和漢薬診療科を受診しなさいと薦めてくれました。富山大学には国立大学で唯一、和漢医薬学総合研究所があって、附属病院に和漢診療科があるのです。 しかし、その時の太郎さんは受診手続きもちゃんとできないほどになっていました。次の日、受診手続きの仕方がわからずにボーっと突っ立っていると、「病院の看護師がそこでなに突っ立ってるの。とっとと帰りなさい」と先輩看護師に叱られます。その時、太郎さんを助けてくれたのが他でもない、病院の患者さんでした。太郎さんのために受診手続きをしてくれて、県外から来ているのに、診察が終わるまでずっと待っていてくれて、診察後は病院内の喫茶店で太郎さんの話をずっと聴いてくれたのです。太郎さんはその間中、ずっと泣きっぱなしでした。辛くて辛くて何度も自殺未遂を繰り返していた太郎さんでしたが、この時、自分の中で何かが変わったのです。 次の週、その患者さんは入院されて、太郎さんの受け持ち患者になりました。太郎さんは思います。「俺はこの人達のために本気になろう。この人達に恩返しをしてから死のう。」 こうして、それまで全く無関心だった和漢の本を読みあさりました。知れば知るほど和漢の世界は奥深く、太郎さんは和漢診療科の看護師になります。そして、そこで何度も奇跡を目撃してきました。西洋医学で医者から見放された人が和漢の力で回復していく場面を幾度となく見たのです。全国から富山に患者さんがやってきました。 しかし一方で、和漢薬の厳しい現実を痛感します。和漢の先生が苦しい胸のうちを話してくれました。「今、和漢の生薬はほとんどが中国頼み。しかももう原料が確保できるとは言いがたい状況だ。このまま和漢にいても先が見えている。」他の看護師からは和漢で甘えるな、もっと大事な部署があるでしょう!そんなことも言われました。自分は一看護師に過ぎないけれど、和漢が衰退していくのをこのまま黙って見ているわけにはいかない。そう思った太郎さんは決心します。「自分は和漢で生きていきたいからこそここを辞めます!」 漢方薬を中国頼みにしなくて済むよう、日本で漢方薬を作ろう!富山で作ろう!…でもどうやって? 何もわからずに大学病院を飛び出し、和漢薬を扱っている病院に移った太郎さん。それからはつながりを模索して、様々な場所に顔を出すようになりました。そんな中で多くの仲間に出会うことになったのです。どんなことにも思い切り前向きな仲間たちを見て、自分は何を臆していたんだろうと思いました。できない理由じゃなくて、できる理由を探せばいいじゃないか。 そうして上市にある県の富山県薬用植物指導センターを訪ねます。 「富山で漢方薬を作りたいと思っています!」 最初は『こいつ何言ってるの?』という対応をされました。でも、何度も何度も通ううちに、あ、こいつはホントに変なヤツで本気で考えているんだな、わかってもらえたのです。それからはいろいろ話し合う仲間になりました そして、自民党の政策コンテストでもプレゼンする機会を得て、『薬都とやま』への想いを訴えました。こうして太郎さんの「患者さんへ富山県産の漢方薬を届けたい」という想いは県に届いたのです! ここからは急展開で話が進み、県自らがどんどんセミナーを開催し、漢方薬を扱う製薬会社を招いて話し合いをする場を設けてくれるまでになりました 。 そのうちに国も動き出しました。農林水産省、厚生労働省が同席し、漢方薬栽培について、どんどん話を進めていきました。 そしてとうとう、県知事まで動いたのです。!県内に漢方生薬栽培研究会が設けられ、県内に生薬を生産している農家を集め、生薬生産組合が設立されたのです。 ただひたすら患者さんを守りたい、助けたい、そんな想いで動き続けたことが、こんなにも早く大きな結果を生み出したでした。 こうして漢方薬の原料を作るのに農家さんが動ける環境は作った。今まで必死でずっとボランティアでやってきたけれど、これからもちゃんと活動を続けていくために、自分自身がロマンとソロバンを両立させる取り組みを始めていこうと今、思っています。 そのための取り組みも実はもう始まっているのですが、それは太郎さんからの発表を楽しみに待つことにしましょう。 太郎さんのこの取り組みの全体のプロジェクト名はProject阿羅漢といいます。漢方薬を途絶えさせないために、富山が和漢薬で盛り上がるように、そして何より患者さんのために。 自分は自殺を何回しても生かされた。それはじいちゃんから続く使命だったのではないかと思うのです。使命だから、命をかけてやる。 実は、この取り組みを始めた時もまだ太郎さんは自分の声に悩まされていました。何かしている時はいいのですが、一人になると「お前なんか死んでしまえ」という声が聞こえてくるのです。それで眠れずにまた仕事に行くという日々が続いてしまうのです。 それが聞こえなくなったのはつい2ヶ月ほど前のことです。 「死なないで。私のために生きて」そう言ってくれる人が現れて、それで「ああ、俺、生きていいんだ」と心から思えたのです。 だから、今、太郎さんは使命感に燃えています。その名の通りの薬都とやまにするために。 そして、その使命を果たしたらやりたいことがあります。 それは自分の空手教室を開くこと。子どもたち相手に空手教室を開いて教えたい。 きっと、太郎さんのことだから、熱い指導で子どもたちに接することでしょう。 生薬の元になる芍薬の花が咲き誇る薬都とやま。薬膳もすっかり有名になって、日本国内のみならず、海外からも富山の和漢薬を求めにたくさんの人がやってきます。 そして太郎さんの空手教室には、今日も子どもたちの笑顔が溢れています。 そんな日はきっと訪れることでしょう。 そんな太郎さんがプレゼンターとして登場するドリプラ富山2014は7月27日に富山国際会議場にて開催されます。 チケット好評発売中! |