今日の人120.下村豪徳(かつのり)さん [2014年06月23日(Mon)]
今日の人は株式会社笑農和代表取締役、富山の滑川(なめりかわ)を活性化する目的で作られた滑活交流会の主催者でもある下村豪徳さんです。
下村さんは1977年に立山町で3人の男兄弟の長男として生まれ育ちました。弟は4歳下と10歳下に2人います。小さい頃は、戦隊物のサンバルカンのモノマネをするのが好きでした。友だちと一緒にやるのですが、下村さんは決まって赤、つまり主役の役をやっていました。なので、そのころなりたかったのはやっぱりサンバルカンでした。(私たち世代にしたらゴレンジャーの赤レンジャーと言ったらとってもピンと来るのですが) 下村さんは物心つかないうちに両親が離婚して、母方の祖父母と一緒に暮らしました。お母さんはすぐに再婚したのですが、下村さんは新しいお父さんを本当のお父さんだと思ってずっと育ったそうです。そのお父さんもあまり家に帰ってくる人ではなく、またお母さんも仕事ばかりだったので、下村さんは完全におじいちゃん・おばあちゃんっ子でした。中でもおばあちゃんと過ごす時間がいちばん長かったのです。兼業農家でしたから、下村さんもいつも農作業現場に行って、そこで遊んでいました。小さい頃は絵本が大好きで、おばあちゃんもいつも絵本を読んでくれました。おはあちゃんは計算も教えてくれて、5歳の頃、少しくらいの掛け算ならできました。それで計算も好きになりました。 小学校に入ると、ドラゴンボールの悟空やパーマンのマネをして遊んでいました。宿題はさっさと済ませてしまっていたので、宿題をいやだと思ったことはありません。夏休みの宿題も大体7月のうちに終わらせてしまう方でした。 小学2年からファミコンにハマリます。ゲームをしたさに頻繁に友だちの家で夜遅くまで遊ぶようになったので、みかねてゲーム機を買ってくれました。それからは誕生日プレゼントも決まってゲームのカセットをもらうようになりました。 でも、どんなにゲームに夢中になっても、農作業の手伝いをするのだけは欠かしませんでした。イヤイヤやっていたこともありますが、子ども心にもこれは自分がやらなければいけないことだという気持ちが強くはたらいていたようです。 農作業にたくさんの人出が必要な時、おばあちゃんは親戚に手伝ってもらっていました。おじいちゃんは自分のペースでなんでもやりたがる人だったので、あまり他の人の手が入るのを嫌がりましたが、そこをおばあちゃんはうまく調整して、おじいちゃんの機嫌を損ねないように親戚に手伝ってもらっていました。そしてそういう時は決まって家でばあちゃんが振る舞いをするのでした。下村さんはそんな時間がとっても好きでした。 家は100年位経っている古民家で、おじいちゃんは百姓でも大工仕事でもなんでも器用にする人でした。下村さんが小さい頃は隣の家が牛舎で牛が農作業にも活躍していたのを覚えています。その牛乳があまりに濃くて、逆に牛乳嫌いになってしまった下村さん。特に土曜日のミルク給食(昔、土曜は牛乳だけ出たのです)が大の苦手でした。 小4の時はキャプテン翼のオーバーヘッドシュートにあこがれてスポーツ少年団に入りましたが、ドリブルばかりやらされてちっともオーバーヘッドの練習をさせてもらえず(当たり前と言えば当たり前ですが)サッカーのスポ少は半年でやめました。 小学5年6年の時は卓球クラブで卓球をやっていました。これは続きました。でも、同じ5,6年の頃、一部の友だちからいじめにも遭っていました。みんなにシカトされるとかではないのですが、この経験で遊ぶ友だちを絞るようになったと下村さん。 その頃もゲームが大好きで、自分でキャラをノートに書いてシナリオを作ったりもしていました。それを何冊も作ってつなげたりしていたので、将来はゲームソフトを作りたいなぁと思っていた下村さんです。 中学校では卓球部に入ります。ちょうどとんねるずの卓球対決が流行っていたので、それをマネしたりもしていました。計算好きな幼少期からずっと数字に関することは好きだったので、数学は得意でした。そして相変わらずゲーム少年でした。 中3になるとギターに目覚めます。エレキギターを持った漫画の主人公がとってもかっこよく見えて、「これだ!」と思ったのでした。それで、ギターを買ってもらい、自分で練習して、弾けた気になっていました。しかし、バンドをやろうと思ってメンバーを集めたところ、全然弾けてないよ、と言われてしまってがっかりします。 それで一念発起した下村さんは高校に入ると、ギターを習い始め、ギター三昧の日々を送るようになります。この頃になると、ゲームよりもなによりもとにかくギターでした。バンドもいくつも組みましたし、高2の時は自らイベントを企画したりもしました。高3の時にはなんとティーンズミュージックフェスティバルで優勝し、次の年には全国大会へ出るくらいにギターの腕があがっていました。 バンドを始めてからの下村さんはとにかく積極的になり、生徒会長にも立候補しましたし、応援団にも入りました。高校生ディベート大会の富山県大会で決勝まで進んだこともあります。そして、吹奏楽部の舞台にエレキギターを持って立ったり、学園祭でも大活躍したり、とにかく本当に楽しい高校生活でした。他の学校に彼女がいて、始めて失恋を味わったのも高校時代。失恋したことをばあちゃんに話したのもいい思い出です。 高校卒業後はポリテクカレッジでコンピューターを専攻します。その短大1年の時にティーンズミュージックフェスティバルの全国大会に出場しました。そして同じく短大1年の時に、奥さまと出会ったのでした。 そしてコンピュータの勉強も下村さんにはとても合いました。勉強も恋愛も音楽も、とても充実した2年間でした。 その頃、地元の楽器店のギター教室で講師で入ることもありましたから、そこに就職しようと思って面接試験を受けましたが、面接のめの字も練習をせずに受けて、トンチンカンな受け答えをしていたので、当然受かりませんでした。 そしてどこかまだ受けられるところはないかと先生に聞いて受けたコンピュータの会社にすんなり受かります。 半年みっちり研修を受け、その後プログラマーとしてとても充実した仕事をやらせてもらいました。一方音楽の方でもインディーズバンドとしてCDを出し、全国を回るなど大活躍でした。 しかし就職して1,2年経った頃、大好きなおばあちゃんが亡くなり、大きなショックを受けました。やがてバンドのメンバー間で方向性の違いを感じ、バンド活動を辞め次の年に結婚。滑川に住み始めたのです。 ちょうど結婚した頃、下村さんは営業へと転向させられました。部長は「営業は飲むもんだ!」という人でしたから、毎日のように夜中に帰ってきたので、さすがに奥さんはカンカン。家をしめだされたりしたこともありました。 しかし営業2年目になると、次第に自分で時間をコントロールできるようになり、奥さんも理解を示してくれるようになりました。ただ、今度は出張が増え、3週間ずっと出張で土日だけ家に帰るというような時も多くありました。 4~5年、そういう生活が続いたのですが、県外に数多く行ったこともあり、県外目線で富山を見ることもできるようになりました。 そんな時です。リーマンショックが起きたのは。会社は営業部門は閉鎖すると言い、営業職はクビか他の部門へ移るという選択を迫られました。しかし、お客さんごと切るという会社の方針が納得できなかった営業部門と開発部門がそっくり会社を出て、新しい会社で再出発したのです。下村さんは役員ではありませんでしたが、リーマンショック後の会社経営は厳しく、その会社は3年で潰れてしまったのでした。 それで下村さんは踏ん切りがつき、独立して会社を立ち上げる心が決まったのです。 小さい時からずっと手伝ってきた農業。そして、仕事で携わってきたIT。これらをつなげて仕事をしよう、そう思いました。それまで農業と言えば、アナログの世界でした。全国的にはITを使った農業の事例も出来てき始めてはいましたが、富山ではまだまだ。こうして「農業を通じて笑顔の人の和を創り社会貢献する」をミッションに掲げ株式会社笑農和を設立したのです。 下村さんの会社が手がけているのは以下のことです。 1、 農業に関するコンサルティング業務 2、商品企画・マーケティングに関するコンサルティングサービス 3、米、玄米の販売およびインターネット販売並びに輸出入 4、米、玄米の加工品の販売及びインターネット販売並びに輸出入 5、農業生産管理システムの開発・販売 6、農産物流通システムの開発・販売 7、農家向けパソコン相談 下村さんのネット販売を通じて、今まで全然知らなかったお客さんと農家をつなぐ、そしてその人たちが農家のファンになって、さらに和が広がる。下村さんは自分の「つなぐ」役割をひしひしと感じているのです。 これから先、ITを活用する農業はますます当たり前になります。コンピュータの形も変わっていくでしょう。だとすると、つなぐ役割はもっと重要になってきます。下村さんは農作物を作る人、買う人、料理する人、食べる人、それぞれの想いをきちんとつなげて、富山の農業を世界中とつなげるのが夢です。 そして、ITだけでなく、直に農業に触れる田植え体験、稲刈り体験。袋詰体験。いろいろな体験メニューもこれから増やしていく予定です。 今、農業の世界も伝統がだんだん失われてきています。本当に伝えなければならないことを次の世代につないでいきたい、そこにも強い想いがあります。その一つが収穫の喜びを表す祭りの復活。弥生時代の収穫の喜びを純粋に表す祭りを再現できたら…。昨年は神主さんを呼んで収穫感謝祭を開催しましたが、これをもっともっと発展させて広げていきたい。世界とつないで、世界中で収穫祭をやれたら素敵だという想いもあります。やりたいことを考えるとワクワクが止まらなくなる下村さんなのでした。 そして、今は2歳と3ヶ月の2人のお嬢さんの育児にお忙しい奥さんですが、いつか夫婦二人三脚で一緒に会社をやっていけたらというふうに思っています。そう、じいちゃんとばあちゃんがいつも一緒に農作業をしていたように。 音楽に関しても、世界各地のメンバーと一緒に海外のライブハウスで演奏するのが夢です。そして、世界中の農場もまわってみたい。そこからまた、新たなつながりもたくさん生まれてきそうですね。 いつも外を歩きまわっているのにとても白い下村さん。実は尋常性白斑という難病も持っています。マイケル・ジャクソンもこの病気でしたが、どんどん白くなっていく病気です。本当は太陽にあまり当たらない方がいいらしいのですが、下村さんは今日も農家さんの所を飛び回っています。そしていろんな人をつないで笑顔を生み出しています。 そんな下村さんが、7月27日に開催されるドリームプレゼンテーション富山2014でプレゼンターとして登壇されます。下村さんの夢のプレゼンを、ぜひ聴きに来てください。特に農業にITを取り入れたいと思っている農家さんは必聴ですよ〜!富山国際会議場で13時スタートです。 詳しくはこちらまで http://drepla-toyama.com/ |