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今日の人91.浦山 守さん [2013年05月23日(Thu)]
 今日の人は、かつて大手広告出版社やコンサル会社、上場企業の管理職、一般社団法人RCF復興支援チームで仕事をこなし、今は富山大学医学部の現役医学生という浦山 守さんです。
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 浦山さんは仲間からマックと呼ばれていますので、ここでもマックさんでご紹介したいと思います。

 マックさんが生まれたのは富山市の岩瀬ですが、岩瀬にいたのは3歳までだったのでその頃の記憶はほとんどありません。ただ、お兄さんに連れられて雪遊びに出かけていたことだけ、うっすらと覚えています。
 
3歳からはずっと横浜に住んでいました。子どもの頃から正義感が強く、正しいと言われていることを正しくやりたいと考えていました。責任感が強く、自意識過剰な子どもだったとマックさん。でも、常に学級委員に選ばれていましたし、きっと本当に正義感が強く、クラスの先生からいつも頼りにされる存在だったのでしょう。その頃の憧れは修験者でした。俗世を捨てて己の理想に生きる、そんな生き方に子ども心に憧れていました。
ただ小学校6年生になると夢は国会議員へと変わります。現実的に世の中を変えていくにはやはり政治家になるのがいい、そう考えた正義感に燃える少年なのでした。

中学生になったマックさんはバレーボール部に所属。中1になると夢は哲学者になりました。本を読むのが大好きで思索に耽るのが大好きだった少年にとって哲学者はうってつけのように思えました。しかし、哲学者じゃ食っていけないぞとお兄さんに言われ、中2の時に、読んでみろと渡されたのがアインシュタインの相対性理論。それを読んで感動したマックさんは、物理学者になろうと思い始めます。

こうして桐蔭学園高校に進んだマックさんは、高校では文化祭の実行委員等で活躍し、現役で東京大学の理科二類に合格。ここでマックさんはお兄さんにまた相談します。勉強は自分の中でそれなりにやりきった感がある。なにか他に集中するものはないだろうか?と。お兄さんはそこで言います。「じゃあ、ボート部に入ったら?」

実はお兄さんは一橋大学出身でした。東京大学・一橋大学対校競漕大会は、東京大学では「東商戦」、一橋大学では「商東戦」と呼びならわしていて、今年で65回目の大会を数えたという伝統の競漕大会なのです。ちなみに「商」の文字は、一橋大学の前身である東京商科大学からとっています。

お兄さんの言葉通りにボート部に入部したマックさん。そして大学にはほとんど行かずにボート部の活動に打ち込むようになりました。東大ボート部は戸田オリンピックボートコースに合宿所を持っていて、1年のうち350日はそこで合宿生活でした。365日のうち350日なんて、ほとんど毎日と言っても過言ではないですよね。
当初、理学部物理学科を考えていたマックさんはそこへは進まずに教養学部へ。

当時はボート部の部員の間では大学に行ったら負け、自分で考えろ、考えてボートで実践しろ、というような風潮があり、大学に行くのは履修届を出す時とレポートを提出する時位だったのです。マックさんも忠実に?それを実践。2年生までは選手としても活動していたのですが、3年生以降は主に部の運営の方を担うようになりました。日々の合宿所の管理、3000人入学してくる新入学生からボート部に入る20人をいかにして見出すか、海外遠征に行く際のコーチとの交渉、課題が目の前にたくさんあり、それをクリアしていくことが勉強より楽しくなります。そちらに熱が入りすぎてしまって1年留年してしまったということはありましたが、それらの課題に向かって行く中で確実にマネジメント力をつけていったマックさんなのでした。

そんな中で、自分は対人関係の仕事が向いているようだ、と思うようになります。こうして就職活動はコンサルの仕事が出来るところを考えました。老舗外資系コンサルティング会社に内定しましたが、ボート部の親友に、某広告出版社はおもしろいから受けたら?と言われます。

その広告出版社の面接は常にwhyを尋ねられました。通り一遍の面接ではなく、深いところまでとことん聞かれるのです。マックさんは最終面接までいきましたが、最終面接の時、マックさんの一番触れられたくない部分、小さい頃から正義感を持って行動してきた部分について掘り下げられました。それは偽善者的な行動じゃないの?単に自分をよく見せたいだけじゃないの?そこでカッとなってしまって面接の担当者とケンカになってしまったマックさん。しかし、後になって、なんであんなに怒ったんだろう、彼の言ったことは図星ではないか、そのことを謝りたいと思って連絡を取って会った所、第一声が「ここに来るんだろ?」でした。入社するつもりはなかったのに、思わず「はい」と言ってしまったマックさん。かくしてその広告出版社へ入社することが決まったのでした。

最初の仕事は住宅関係の広告を取る仕事でした。しかし、全く興味がもてなかった。
自分の中には仕事に対する思い込みがありました。何かのために使命をもって働くのが仕事だとそう思っていました。しかし、ある先輩に言われます。「なに甘いこと言ってんだ。自分が飯を食うために働くんだろ」
そうすると『この人は理想のないダメな人だ』と心のなかで軽視する自分がいました。

そんな思いで仕事をしているので、仕事は失敗続きでした。ひとつひとつに代償があるくらい大きな失敗をして学んできました。
フロアに2時間正座させられて怒られたこともありました。「やめちまえ、お前なんかどこに行っても使い物にならん」そう怒鳴られたこともありました。

でも、そんな中、マックさんの直属の上司だけは決してあきらめずにいてくれました。時には今では信じがたいような厳しい指導もありましたが、何があっても自分を信頼してくれました。
振り返れば、自分は子どもの頃から勉強という軸で生きてきた。東大は知的におもしろいし、部活は僕らだけが楽しめる面白さに満ちていた。しかし、社会人になって初めていろんな人に出会った。自分の知らなかった世界をたくさん知った。その多様な価値観の中で、ようやく仕事の面白さを感じられるようになっていきました。

そんなある時、クライアント企業の方が仕事の出来栄えを大変喜んでくれて、マックさんを会社の忘年会に呼んでくれました。いちばん喜んでくれたのはずっと信頼してくれていた先輩上司でした。「お前、良かったなぁ」と言って、先輩に抱きつかれたのを今でも鮮明に覚えています。“信じたものをずっと信じる”貫き通す姿勢を先輩が見せてくれました。

その後、マックさんは研修のパッケージを売る分野に移りましたが、その仕事をやっていく間にパッケージでは対応できないラインにぶつかるようになりました。そして、どんなに対応を変えても結局社長が変わらないと何も変わらないとの思いに到達します。

経営者を変えないとダメだ!そう思ったマックさんは、コンサル会社に転職します。
コンサルとファンド、多角的な視点で次々に業績も上げていったマックさん。
企業への長期支援、経営人材派遣、イシューの特定、マネージメントシステムの構築。
仕事はどれもとてもおもしろいものでした。マックさんは問題があると嬉しくなるタイプです。難しい課題があると、なんとかそれをクリアしようと、とてもハッピーになるんだとか。

 しかし、どんなに綿密に組み立てて仕事をしても、結局は経営者の思いつきや欲で全てが判断されることも多々あるのです。決して理知的には判断していない場面に多く遭遇して、これを変えるには自分が経営者になるしかないのでは…と感じるようになってきました。でも、小さい時からマックさんの行動基準は正義感でした。
 
自分には経営者としての欲がない、人から求められたことは完璧に近くやるけれど、僕が心からこんな経営をしたいと考えたことがない。
 …自分は社長になるというのはちがうな。
 
 今の仕事が楽しくないわけじゃない。やりがいももちろんある。でも、このままいくと幸せかもしれないけれど、それは心からの幸せなんだろうか?
僕が本当にやりたいことはなんだろう?

小さい頃からの正義感は借り物であったとしても、でも自分の中では本物なのだ。
善行をしたい、人の役に立ちたい、このずっと抱いてきた想いを満たす仕事はなんだろう。

マックさんは再びお兄さんに相談します。マックさんは人生の節目の時はいつもお兄さんに相談しているのです。

マックさんのお兄さんはお医者様になっておられました。そうして、人と接するのが好き、子どもが好きな自分は小児科の医師になろうと決意します。決意した所で30歳を超えていてまた勉強をやり直すというのは並大抵のことではありませんが、そこは東大に現役合格したマックさんのことですから、仕事をしながらきっちり受験勉強をし、見事富山大学医学部に合格したのでした。しかもマックさんがすごいのは、その受験勉強と一緒にしていた仕事というのがそれまでしていたコンサルの仕事だけではなかったということです。受験勉強をしながら上場企業で管理職もしましたし、RCF復興支援チームで復興支援事業を通してNPOや一般社団法人という団体と初めて接しました。でも、そういう経験ができたことにとても感謝しています。なぜなら、そういう人々と接したことで地域社会がそのまま元気に「ある」ということはどういうことなのか、という問題を始めて考えるきっかけを貰ったからです。

かくして医学生になったマックさん。
これからは医療の経営の質も当然問われる時代。そこで自分のコンサルの能力も役に立つにちがいない。

自身の生き方のスタンスは医者でいい。でも、治った後にどうかかわっていくか、そのスタンスは問題解決屋であり、コンサルタントでありたい。その結果、僕はどうなっていくのか?何者かになるのか?何者にもならないのか?
金持ちとか有名人とかではないけれど、何者かになりたい、今はそう思っています。
人にまじわる仕事がしたい。問題解決できる仕事がしたい。それが出来る医者になりたいという正義感あふれるステキな方なのです。

今、マックさんは大学の山岳部で山登りをすることもとても楽しい時間です。東大時代に夢中になったボートが今は山になりましたが、ワクワク感は変わらずに持っています。
そして、医学部の勉強も今はとても楽しい。専門性のある勉強は、確かに大変だけどやりがいは深い。

こんな風にたくさんのワクワクを持ちながら、富山での生活を送っているマックさん、
その明晰な頭脳と熱いハートで、きっとステキなお医者様が誕生することは間違いなさそうです。コンサルの目を持ち、まちづくりのことまで相談できるステキなお医者様に会えるのもそう遠くはないことでしょう。その日を楽しみにしています。

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RCF復興支援チームで活躍していた時のマックさん
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