今日の人90.猪瀬祥希さん パート.1 [2013年05月13日(Mon)]
今日の人は、30年勤務されたゲーム会社を退職されて「パーソナルハピネス株式会社」という会社を立ち上げられたばかりの猪瀬祥希さんです。猪瀬さんはドリプラ2012世界大会ではカメラマンとしても大活躍!サプライズ好きな猪瀬さんは、私たちプレゼンターのために写真集を作って、2012年のクリスマスに届けてくださいました。そういう心憎い演出が得意なとっても素適な方なのです。
![]() 猪瀬さん、通称いのっちさんは昭和41年に東京墨田区で生まれました。小さい頃は病弱ですぐに熱を出していました。幼稚園の時は男の子と遊ぶより、女の子と遊ぶことの方が多かったそうです。 お父さんは7人兄弟の長男で、祖父母と父の兄弟も一緒に狭い平屋で10人で暮らしていました。そのお父さんはすぐに手が出る人で、幼い頃いのっちさんは事あるごとに殴られていました。周りに大人がいっぱいいるのに、みんなお父さんが怖くて誰も助けてくれない。お母さんは家事全般を任されて10人家族のまかない状態でかまってくれない。その日いかに殴られないようにするか、そのことばかりを考えていました。 「ぼくはなんで生まれてきたんだろう」 まだ少年のいのっちさんがそう思わずにはいられないほど、暴力は身も心も蝕んだのです。 いのっちさんは小学校5年生までプールに入れないくらい病弱だったのですが、野球好きだったお父さんに半ば強制的に野球をやらされていました。 いのっちさんが心ときめいたのは、そんな野球ではなく、ものを作ることでした。小さい時からプラモデル作りが大好きで、小4でハンダゴテに出会ってからは、家中の家電製品を分解し始めました。これはどういう構造になっているんだろう。そうやってモノの構造を調べることが面白くて仕方ありませんでした。テレビって何で映るの?テレビを分解して感電したこともあります。 こうして部品を組み合わせれば何か作れることを体得していった少年は自転車で30分かけて、秋葉原に電気部品を買いに通うようになりました。 ある日、そのお店に「マイコン」なるものが置いてありました。 「これは何?」と問う小学校5年生のいのっちさん。 「ゲームが作れるんだよ」とお店の人に言われた時、ドキドキしました。ゲームが作れる? まだまだマイコンを触れる人などいない時代です。お店の人はいのっちさんに展示品を触らせてくれました。こうして、お店に通って日曜毎にゲームソフト作りをするようになります。 いのっちさんは小6の時には、お店で大人相手にプログラム講座を開くまでになっていました。わからないことは徹底的に調べて自分で答えを見つける。そうやって仕組みを知るのがたまらなく好きでした。 中学生になると体もずいぶん強くなってきました。 中1の時は、卓球部に入り、中2では美術部、3年はサッカー部と学年ごとに部活が変わりましたが、なんでものめり込む性格のいのっちさんは、始めたことは、とことんやってしまうのでサッカー部では部長として活躍するまでになりました。その頃ちょうど流行っていたのが3年B組金八先生。いのっちさんもその時代の影響を受け、ちょっぴりヤンキーっぽかったようです。 実は中学校に入ってから、コンピューターのプログラミングには興味をなくしていたのですが、中3の時、大松くんという普段は全くしゃべらない人が声をかけてきました。 大松くんは「パソコン」と一言だけ発しました。そうして、大松くんの家に行ってみたところ、なんと大松くんの家には当時大変珍しかったパソコンがありました。 学校では話さないけれど、自分の家ではよく話す大松くん。 いのっちさんはこうして大松くんの家でパソコンに触れる中で、ゲーム作りを思い出しました。 高校はサッカーの推薦で進学しました。(1年しかサッカーをやっていないのに、そのサッカー推薦で高校に行っちゃうなんて、すご過ぎます!) しかし、当時の体育系の高校は、体罰が当たり前の時代でした。いのっちさんにとって、体罰は父親を連想させるものでした。学校でも体罰、家でも体罰。もう、限界はとっくに超えていました。家にも学校にも居場所がありませんでした。 そうして、高校を半年で中退し、家も飛び出してひとり暮らしを始めました。もちろん親の援助を受けているはずもなく、なんとかして働かないと食べていけません。 ゲームが好きだったので、「ゲームセンターの店員になろう!」…そう考えて、ゲーセンのバイトの面接に行きました。それでも、高校中退のいのっちさんを雇ってくれるところはなかなかなく、4件目くらいにようやく採用してくれるところが見つかったのです。 そしてここで採用になったことが、いのっちさんの人生を大きく変えることになったのです。 採用になった後、いのっちさんがゲームを作れることを知った店長が、一度社長に会ってくれと言います。その頃はまだまだゲーム開発者が珍しかった時代です。社長に会ったいのっちさんは、その才能を高く見込まれて開発部に抜擢されました。そして次々に新しゲームを開発して会社の売上をどんどん伸ばしていったのです。 やがて現場のトップになったいのっちさん。ある日社長に言われます。「今からうちの会社は一部上場する。一部上場企業になれば、大卒の新卒を採用するようになる。今からでも遅くない。大学へ行け。」 こうして、仕事をしながら通信制の高校で学び、大学にも進学したのでした。 いのっちさんはその後もどんどん新しいゲームを開発して、大きな結果を出し続けました。「会社の中で自分よりできる人間はいない!」そう思っていました。完璧に指示命令型の人間だった、といのっちさん。誰もいのっちさんに文句は言えませんでした。 「なんで出来ないんだ!」そうやって部下を追い込み、会社を去ってしまう部下は、一人や二人ではありませんでした。 ある日、社長から呼ばれます。 「猪瀬とは仕事をしたくないとみんな言ってるぞ」 こうして、ゲーム開発部門から外されてしまったのです。 でも、ゲーム開発部門から外されるというのは、いのっちさんにとっては自分を否定されたと同じ事でした。 『こんなに会社に尽くしてきたのになぜ…』 やりきれない思いでした。でも、自分が悪いとは思わなかった、いえ思いたくなかったのです。 パート.2に続きます。 |
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