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今日の人84.大太浩次さん パート.2 [2013年01月24日(Thu)]
パート.1から続きます。

 車にはねられて空中を飛びながら「俺は彼女もできずに死んでいくのか~」と考えていた大太さん。もちろん、生きているのですが、ケガをして新人戦を棒に振ってしまい、病院のベッドで一人の時間、「俺は、大学にはいってからずっとアメフトばかりだった。そもそも、俺がアメフトを始めたのは純粋にアメフトが好きだったからではない。このままアメフトを続けていていいのか」と考えていました。

 そして、退院した後、アメフト部をやめ同志社大学でしたが、元々好きだったサッカー同好会に入ったのです。彼女も出来て大学生活がとても楽しい時期でした。スキー場で泊まりこみのバイトもしていました。まだバブルの頃です。大太さんは思いました。
「東京に行きたい。上を目指したい。いい会社に入りたい」
今の学生さんには信じられない話でしょうけど、その頃は会社訪問に行くと、交通費がもらえるのは当たり前、内定日には一流ホテルに拘束されたりしました。
 そして大太さんはその当時の人気企業だった山一證券に内定をもらいました。

 しかし、親にそのことを告げるとこっぴどく怒られました。
「株屋をやらせるために大学にやったんじゃない!」

 予想外の反論に動揺する大太さん。めったに怒らない親が言うのには何か意味があるのだろうと、内定は断りました。そして就職が決まらないまま時間が流れます。

 そんなある日、学校推薦でIBMの就職が内定していた同級生が大学院に行くことを大太さんにだけ相談してきました。当然、その内定枠がポンと空いたので、それをいいことに、そこにそのまま滑り込んだ大太さん。もっとも、同じ学部から入った他の2人は一桁の成績順位で優秀だったので、技術職での採用だったのに対して、大太さんは理系だったのもかかわらず成績が悪かったので、営業職での採用でした。

 しかし、働き始めて思いました。自分には営業が向いている!誰かに会うたびにいろんな発見がある。もちろん、文句を言われることだってあるけれど、それを乗り越えていくことで、損得じゃない所で人間関係ができていく。

 社会人3年目、1993年の年末のことです。
仕事もそこそこ順調に行って大過なく過ごした1年の終わり、大太さんは鳥取の米子に帰省していました。年末年始と言えば、同窓会のシーズンです。大太さんも高校のサッカー部のメンバーと飲みに行きました。

 ひさしぶりのメンバーで、飲み会は大盛り上がり。でも、その後、大太さんの記憶があるのが1月3日。病院のベッドの上でした。
 
 大晦日の夜に妹に「今から友達と帰るから。」と電話した後、大太さんは帰ってきませんでした。大太さんには全く記憶がありませんが、元日の朝、ジョギングしている青年が、電話ボックスの中で倒れている大太さんを発見して、救急車で搬送されたのです!
 足の骨にヒビも入っていたので、事故の可能性もあるのですが、まったく思い出せませんでした。

 でも、雪が降る鳥取であの季節に雪が降らなかったこと、倒れていたのが路上ではなく少しは寒さをしのげる電話ボックスの中だったこと、元旦からジョギングする青年が居て大太さんを発見してくれたこと、いろんな奇跡が重なって大太さんは生かされたのです。死んでいてもおかしくない状況で生かされたことで、ガラッと人生観が変わり、自分が生きている意味を考えるようになりました。こうやって生きていることは決して当たり前のことではない。日々いろんな見えない奇跡が重なって生かされているのだ、と。
 
 ただ、この事件には後日談がひとつあります。この後、体の半分が温度を感じにくくなっていることに気がつき、検査入院した大太さん。二十歳のナースにテイモウされるという初体験をしたのでした。

 営業の仕事の中で、ものすごく厳しいお客さんに出会ったこともありました。最初に怒らせてしまって、その後何度も何度も会いに行っても全く会ってもらえませんでした。それでも、週に2回くらい顔を出しているうちに、次第に話すようになってくれて、一緒に飲みに行ったりするようになりました。そしてわかったのです。そのお客さんは怖い役割を演じているんだなと。

 2年後、その方が退職される際の送別会に大太さんは呼ばれます。その時、忘れられないひと言を言われました。
「君と一緒に仕事ができて幸せだったよ」
涙があふれました。厳しい中だったからこそ生まれた絆は余計に固いのだ、そう感じました。

 大太さんの営業活動の3分の1は病院担当営業でした。病院に営業に行って感じたことは、ドクター、ナースの志の高さです。でも、常に死に接しているドクターならではのどうしようもない悲しみに接する時もしばしばでした。大やけどを負った女の子を必死で治療して命を救ったにもかかわらず、退院になった日に鏡を見てショックを受け、その日のうちにその子が自殺してしまった…そんなやりきれない話を聞くこともありました。それでも、目の前に助けられる命があるから助ける、というドクターやナースたち。命を預かる彼らの仕事ぶりに接し、そんな話を聞く度に、働くって何なんだろうな、と考えました。

 そんな大太さんに働くことの意義を教えてくれたのが、ドリプラだったのかもしれません。
 
 2009年、福島正伸さんをIBMに呼んで企業内ドリプラをやることになりました。その時の福島さんの講演で自立型相互支援に触れたのです。自立型はよくわかる、でも相互支援はわからない、そう思いました。そんな時に受けたメンタリングセッションでのグループワークで大太さんは2009年のドリプラ世界大会プレゼンターの齋藤直人さんの夢を支援することになりました。夢大学への想いを熱く語る齋藤さん。そして、ドリプラの予選会場でほぼ号泣している自分。…カルチャーショックを受けました。こんなに伝わるプレゼンがあったのか…!

 そしてそれ以降、ドリプラに携わるようになっていきました。自立型でないと相互支援は成り立たない、それを実感するようになっていきました。依存型だとそれは相互支援ではなく、支援されるだけ、支援するだけの一方通行になってしまうからです。
 
 そんな大太さんの姿を見ていた会社の社員たちも、自らの夢を語るようになりました。それは何よりも嬉しいことだったし、自分がいいと思ったことをやり続けていくことの意義を感じています。

 そんな大太さんに今年一つの転機が訪れました。それは名古屋への転勤です。
今まで東京で仲間たちと自立型相互支援の会社作りに向けて歩いてきた。それを今度は名古屋でできるチャンスが来た!そう思っています。ドリプラの感覚、自立型相互支援という感覚をたくさんの人に伝えていきたい、

 そして、自立型相互支援の社会を自分の会社の中で作って行きたい、それが大太さんの夢です。
 大太さんは自分の会社が大好きです。会社の仲間、お客さん、そんな大好きな人たちのために自分の身体が動く限り動いていきたい!もちろん、それはドリプラで携わった仲間に対しても…。
 
 大太さんはドリプラ2012世界大会の本選の時もスタッフとして忙しく動いていらっしゃいました。そんな大太さん、プレゼン会場の外で私と会った時にいきなりポロポロと涙を流されるのです。「妙ちゃんのプレゼンを見ると、泣いてボロボロになっちゃうから絶対見ないと思っていたのに、お客さんを会場に案内した時に、ちょうどプレゼンの最中で、そのワンシーンを見たらもうダメだったよ。今、妙ちゃんに会ったらまたそれを思い出して…」そんな風に涙を流してくれる本当にあったかい大太さんの姿に、私まで泣いてしまって、40代の男女が別れ話でもないのに、一緒に泣いているんですから、傍から見ると本当に不思議な光景ですよね。
 でも、そんな場面に一緒にいられたことがとっても幸せでした。本当に感謝です。

 どこまでも相手を信じきる大太さん、茶目っ気たっぷりの少年のようなワクワク感とそして大きな愛で、これからもたくさんの人に自立型相互支援の素晴らしさを伝えていってくださいね。

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ドリプラ2012世界大会の日、早朝4時から東京ドームシティホールに椅子を設営するためにラーメンで栄養補給する大太さん。こうしたスタッフのみなさんの影働きがあるからこそ成り立つ大舞台なのです。
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