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今日の人80.三田村美恵さん [2012年12月04日(Tue)]
 今日の人はドリプラ2012世界大会プレゼンターで福井で、有機農業・自然農法の農業を営む美の里ファーム代表、三田村美恵さんです。
gatya2.jpg
 
 美恵さんが生まれたのは福井県越前町。とにかく水と自然に恵まれたところです。沢ガニを捕ったり、山を飛び回ったり、弟が二人いるのですが、とにかく姉御肌でした。
 
 農業をやっている父方のおじいちゃん、居酒屋を営んでいる母方のおばあちゃん、とにかくこの二人が大好きでした。おじいちゃんの田んぼの手伝いやおばあちゃんのお店の手伝いを小さい時からやっていました。ホントに可愛いチーママでした。
 
 そんな二人が亡くなると、心にぽっかり空いた穴を埋めるように、スポーツ一色になります。美恵さんの住んでいる町はグランドホッケーが盛んな町です。次第にホッケーにのめり込んでいった美恵さん。将来は絶対にホッケーで日本代表になる!そう心に決めていました。もう一つ、空手も大好きでした。ホッケーの練習、そして空手で道場通い。それが毎日の日課でした。
 
 ですから、中学校ではもちろんホッケー部、高校もスポーツ推薦でホッケー部のある高校へ。しかし、担当の先生がとても苦手なタイプで裏切られてしまったと感じたこと、先輩たちからかわいがり、いわゆるいじめを受けたこと、そういうことが重なって2年生の冬休み頃からうつ病になってしまいます。「美恵ちゃん、いったいどうしたの?」と人から指摘されるくらい人相が変わり果てていました。それに加えて、アキレス腱を痛めてしまったこともあって、美恵さんはホッケー部を退部。美術部に転部して、3年生の時は美術部部長を勤めていました。
 
 その頃お母さんから紹介されたのが、運命の出会いとなる壽畑(すばた)さんでした。壽畑さんは不良の子の更生カウンセラーもしている人で、とても懐の深い人でした。お母さんは悩む美恵さんを立ち直らせようと考え、壽畑さんを紹介してくれたのでした。
 
 その出会いによって、少しずつ心を回復させていった美恵さん。
 ホッケーの日本代表になるという夢は潰えました。では何をしたいかと考えた時に浮かんだのは看護師でした。大好きだったおじいちゃんは美恵さんと一緒に寝ている時に、心臓発作でなくなりました。もしあの時、心臓マッサージの方法を知っていたら、おじいちゃんは死なずにすんだかもしれない…。おばあちゃんも働き者すぎて、癌を発見するのが手遅れになって死んでいきました。最後の様子を見ていた美恵さん。その2人の死が忘れられなくて、私に何か出来たなら…という思いと“女性としての自立”から、私看護士になろう!そう思ったのです。
 こうして看護学校の学生になった美恵さん。1年の時は、がんばって勉強していました。

 でも、2年になった頃から、家の中であらゆる問題が噴出してきたのです。父はもともと家のことに無頓着な人で、パチンコ依存症でした。家に全くお金を入れず、保険を解約してそのお金までパチンコにつぎ込む有り様。でも何も言わない母。
 
 美恵さんは看護学校の学費も全部自分でやりくりしていました。なんでうちのお父さんはこんなに不甲斐無いんだ!無性に腹が立って「父親ならしゃきっとしてよ!」と言うと逆切れされて娘に暴力です。
 父だけではありません。2つ違いの上の弟が美人局で捕まり、少年院に送られたのです。それでも父は全く会いに行こうともしません。少年院に面会に行ったのも美恵さんでした。
 父に何か言うとその度に暴力です。でも、その頃はまだ家庭内のことに警察は不介入ということが多かったので、警察に言っても喧嘩両成敗と言われるだけでした。
 
 学費を稼ぐのに夜のバイトも始めました。学費だけではありません。家計の負担は全て美恵さんにのしかかってきたのです。アルバイトを5つ掛け持ちして家には寝に帰るだけ。
 最初はなんとか学校にも行っていましたが、続くはずはありませんでした。そしてとうとう看護学校を中退してしまったのです。
 
 やがて、少年院に行っていた上の弟が帰ってきました。「長男やし、しっかりしれま!」と言うと、彼もまたやり場のない怒りを全て美恵さんにぶつけました。「みんなお姉ちゃんが悪いんだ!」そう言ってコンクリートの土間で馬乗りになって殴られ、脳震盪を起こして、救急車で運ばれたこともありました。
 もうどうしようもない。とうとう美恵さんは第三者に入ってもらって、父に対して被害届を出しました。裁判所で「もう一緒に暮さん方がいい。バラバラに暮らせ」と言われたことでなんとか示談になり、父は家を出て行きました。
 
 そんな中でも、下の弟が自動車整備士の学校に通いたいと言ったとき、お姉ちゃんがなんとかしてやる、と言って学費と生活費の一切の面倒を見た美恵さん。
19歳~23歳までの本当に過酷な毎日でした。それでも貯金を600万貯めた美恵さん。
 下の弟の就職も決まったので、じいちゃんが残した田畑で農業に専念することを決意しました。600万は車とトラクターを買うとあっという間になくなりましたが…

 23歳、慣行栽培を始めましたが、うまくいきません。そこで24歳からは有機栽培に切り替えました。高校の時に立ち直らせてくれた壽畑さんが自然栽培をやられていて、彼に全面的にお世話になったのです。壽畑さんは今、美恵さんにとっては頼れるお父さん。何でも相談できるなくてはならない人です。

 そして、自然栽培に切り替えると、農薬等の費用もかからなくなり、大幅な農業経営の改善になりました。いろいろ勉強するうちに、断固有機栽培、自然栽培しかない、そう思うようになりました。
 2年間、ほとんど良い米はできなかったけれど、それ以外やらない、と決意していたのでぶれませんでした。

 美恵さんがそう決意したのには理由があります。
飼っていた犬が、散布された除草剤で中毒になり、1週間血ヘドと血便が止まらなかったことから、除草剤の恐ろしさが身に沁みてわかったのです。
散布した人のうちに美恵さんは乗り込んでいきました。

 もう一つ大きかったのは、散布された場所が学校の側だったことです。もともと子どもが大好きな美恵さん。看護師を目指していた時も小児科か産婦人科に行きたいと思っていました。でも、家庭が荒れて、美恵さんが全ての家計をまかなうために必死でバイトをしていた時に、中絶してしまったことがありました。子どもが好きなのに、中絶してしまったという心の葛藤。ですから、よその子でも子どもがなにかで傷つくようなことは絶対に嫌なのです。散布された草を手で触って、その手を口に入れたりしたらどうなるの?

 こうして、美恵さんの訴えもあり、その時の周辺地域の環境農業への動きの後押しもあり、除草剤使用への意識が変わってきました。そして徐々に環境型農業が広がりはじめました。少しずつ少しずつ、変わってきている、そう感じています。

 そんな美恵さん、ドリプラでは農武士プロジェクトの夢をプレゼン。全国の農業に生きる者達が結束して農武士となり、日本の農業を変えていく、大きなプロジェクトです。
 耕作放棄地だった場所に、たくさんの人が集って、みんなが楽しそうにしているところを想像すると、本当にワクワクします。

 今、日本の農業は大きな危機に直面しています。農業従事者の高齢化、決定的な後継者不足、このままでは国の根幹が危うい。今こそ、若い担い手が立ち上がるべきです。そして、美恵さんたち農武士がその役割を担ってくれると期待しています。

 美恵さんはドリプラのみんなからはガチャピンと呼ばれています。
ガチャピンだったらシンガリ(後駆)になってでも、きっとこの夢を追いかけ続けるでしょう。熱い百姓が集まればきっとできる!私もそう信じています。
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