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今日の人78.大石ゆい子さん [2012年12月01日(Sat)]
 今日の人はドリプラ2012世界大会プレゼンター、福島から夢の国「おひさま村」を創ろうとの思いでドリプラ出場を決意された大石ゆい子さんです。
写真 12-12-01 17 26 50.jpg

 大石さん、生まれて間もないころから幼稚園前までは奥会津の昭和村にいましたが、その後は高校まで相馬市に住んでいます。
ご両親と弟さん、そしておばあちゃまと一緒に暮らしていました。お父さんは無医村のお医者様として、みんなに尊敬されている方でした。
 
 大石さんは手芸が大好きな少女でした。ひとつできると、また作りたくなる。ですから小さい頃の夢は、手芸屋さんか本屋さんでした。本当はお父さんのような医者になった方がいいのかなと思ったこともありましたが父は望みませんでした。医者は不規則だし、往診だってある。女の人にはきつすぎます、というのがお父さんの思いだったのです。大概のことはやらせてくれる父でしたが、これだけはOkが出ませんでした。女性には生理や出産がある。今はお金をとることが自立することのように思っているけれど本当の自立とはそういうことだけではないんだよいつか将来理解してくれる時が来ると思う。それが父の思いでした。
「お父さんはお母さんがいないとやっていけないように」、今は分からないだろうけれど将来きっとわかると思っているよ。お互いに尊敬し合って生きること。それこそがお互いの自立だと僕は思っているよ。」

 そういうお父さんでしたから、勉強しろとは一切言いませんでした。「受験の為に100点取る勉強なら70点でいいからあとの30点分はスポーツをやるとか本を読むとか自分の好きなことをした方がいいと思いますよ。学校に行ってる時はだれでも勉強しますが学校を出てからが大事です。そして“ふつう”に生きてください」そういつも言われていました。
こうして天真爛漫に育った大石さん。中学校の時は放送部や、バスケ部のマネージャー、高校では図書部長として、活躍しました。
 育った環境が環境ですから、競争心というものがちっともなかった大石さん。友だちに「ゆい子が勉強すると俺の点数が下がるからしないで」と言われれば、その通りに勉強しないというなんともおっとりとした性格でした。

 大石さんが高校生の頃、お母さんが陶芸をやり始めます。窯場まで作り、本格的にやり始め、それに大石さんも触発されて陶芸が大好きになります。いつもどちらがご飯の支度をするかでもめるくらい、二人共陶芸に夢中でした。
 陶芸の道に進みたいとも思いましたが、東京家政学院大学に進むことになりました。管理栄養士をとるか、学芸員をとるかになったのですが、大石さんは、学芸員になるほうを選びました。
就職先はもちろん美術館を選びました。今とちがって、当時は自宅通勤じゃないと女の子は採用しないという時代。困り果てた大石さんに救いの手が差し伸べられます。うちから通ってもいいよ、と言ってくださる方が現れたのです。

 こうして、いちばん行きたかった出光美術館で働き始めることになった大石さん。いちばん幸せな時だったわ、と懐かしそうに回顧されました。
 しかし、当時は働き始めて3,4年経ったら、後輩に道を譲るのが一般的でした。大石さんも円満退職をし、その後は大阪で花博のアルゼンチンブースの責任者をしたりしました。

 実は大石さん、日本マテ茶協会の理事もしていて、その関係で花博にアルゼンチンが出店することになり責任者をすることになったのです。マテ茶協会では、関西支部を立ち上げようという動きがあり、大石さんを中心に伊丹に支部を作る予定で準備に取り掛かっていました。たまたま福島に帰っていた大石さん。伊丹に戻る日おばあさんのお墓参りに行った帰り道、突然雪になり、ノーマルタイヤで行ったので飛行機に間に合わず、伊丹に帰るのを翌日に延期したのです。…そして、その翌日、阪神淡路大震災があったのです。伊丹の部屋は、当然のことながらめちゃめちゃになっていました。支部を作るという話も頓挫し、大石さんはそのまま実家に残ることになったのです。

 こうして、福島に帰った大石さんは、以前から言われていた方とお見合いし、結婚。でも、彼の酒乱がひどく、大石さんは友だちに顔つきがすっかり変わったと言われるくらいになってしまったのです。友だちの尽力もあって離婚しましたが、実家に帰ってもしばらくは恐怖で声が出なかったり、身体がずっと震えていたりしました。

 このままじゃ駄目だと思って、少し元気になったときに、ちょっとずつ地域づくりに参加し始めました。
 人間にとって大切な食のことを考えるうちに、無農薬自然農法で育てたものを食べることが何よりの予防医学になると考え、医療、農業、環境が一体になった地域づくりをやっていこう、そう思ってやり始めた矢先でした。
 そう、あの東日本大震災が起きたのです。この世の終わりとでも言うような光景が自分の周りに広がりました。家は大規模半壊し、大石さんがやっていたお店も半分は海水をかぶってしまい全壊しました。

 もう手のうちようがないではないか。あきらめの心境にも何度もなりました。でも、その時に思い出したのです。
 大石さんが勤めていた出光には創業者のことばとして「人間尊重」「互譲互助」や「大家族主義」「和をもって尊しとなす」といった日本人の持つ良さについて深く触れたものがあります。
その時は、深く考えずにそれらの言葉を聴いていた大石さん。しかし、この未曾有の大震災が、その言葉を鮮明に思い出させたのです。

 宮城で開かれたNPOの代表と話し合う会議に出席したとき、私達福島県人はこれから先放射能と付き合っていかなければならないことを思い知りました、大石さんは飯館村に住んでいる友だちが言ったひと言が胸に深く突き刺さりました。
「私たちの人間としての尊厳はどうなるんですか?」
飯館村は戻ろうという人と、戻らない人に二分されている。村から出ろ出ろと言うけど、放射線量の低い所だってある。むろん、危ないかもしれない。でもわかっていても割り切れない部分がある。命にかえてでもそこを守りたい。それは子を思う母の思いと同じなのです。
 私たちは彼女たちが冷静に見られるまでよりそってあげるしかないんだ。まさしく、人間の尊厳にかかわることであり、互譲互助の精神が今こそ大切なのだと思うと、涙があふれてとまりませんでした。

 そしてそこが、大石さんのドリプラへの出発点でもあるのです。
食を通して予防医学をやっていこうと思っていた。でも、この震災でわかった。私が目指すべきは「みんなで分かち合える世の中を作ること」

 今日も福島で頑張っている人々がいる。その人たちと痛みも喜びも分かち合いたい。
そのために大石さんはドリプラで語ります。ゆい子さんの夢、福島の夢、東北の夢。
でも、それはもう、みんなの夢になりました。東北のこと、ゆい子さんのこと、私たち北陸の仲間も、もちろん日本全国の仲間もずっとずっと応援し続けます。

 
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