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今日の人222.土肥恵里奈さん [2022年08月31日(Wed)]
 今日の人は、未就学児のママを対象とした情報サイトや親子イベント、交流スペースの運営を通して、ママの毎日が楽しくなる環境づくりに取り組んでいるママスキー代表取締役 土肥恵里奈さんです。先日太閤山ランドで開催したイベントではなんと1万人もの人を動員。その活動は富山にとどまらず、全国に広がりを見せています。
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 土肥さんは1984年富山市生まれ。男3人の従兄弟に囲まれて、カエルやセミをとったり秘密基地を作ったりして活発に遊ぶ子でした。保育所でもキョンシーごっこする時に、1人だけキョンシー役になって友達に襲い掛かるような子でした。遊ぶときは周りが男の子ということが多い保育所時代だったのです。エレクトーンを習っていたので、エレクトーン教室の先生になりたいとその頃は思っていました。リリアンブームの時は編み物教室の先生になりたいと思ったり、何かの先生になりたいと思うことが多い幼少期でした。

 小学校は山室小学校へ。近所に住む1つ年上のお姉さんの影響もあって、小学校に入ってからは女の子と遊ぶことが多くなりました。当時流行っていたセーラームーンなども見てはいましたが、いちばん好きなのは昔も今もホラーです。ビデオ屋でレンタルするとしたら専らホラー映画でしたし、今も夜中に1人でアナベルシリーズ等を見ている土肥さんなのでした。怖くないですか?と聞くと、見ている時だけ怖いけど、逆にスッキリすると。でも、事実を描く戦争映画はとても見られないのでした。土肥さんの影響か、娘さんも映画大好きっ子に育ち、プロジェクターで家で映画館ごっこをするのが2人とも大好きです。

 土肥さんが4年生の時に、両親が離婚し、土肥さんはお母さんと弟さんと3人で婦中町に引っ越しました。山室小学校から鵜坂小学校へ転校し、中学校に入るくらいまでは昔の友達と文通をしていました。でも、鵜坂小学校でも仲良しの友達ができて、男女混合の5人組でいつも一緒に遊んでいました。影踏みや鬼ごっこをしたり、誰かのうちに集まっておしゃべりしたりしていたものです。スポーツ少年団でソフトボールを少しだけやりましたが、あまり熱中したことはなく、ボール当たると痛いなぁという感じでした。
 離婚してからお母さんは仕事が忙しく帰るのは夜の7時〜8時ということが多くなったので、5年生くらいからは自分で料理を作るようになっていました。最初はご飯だけ炊いたりお味噌汁だけ作るなどの簡単なことでしたが、それでも忙しい中でお母さんはどれだけ助かったことでしょう。土肥さんが5年生の時に弟さんはまだ保育園の年長だったので、弟さんにとってもとても頼れるお姉ちゃんでした。
 
 速星中学校に入り、最初はバスケ部に入ろうと思っていた土肥さん。スラムダンクが流行っていたこともあったし、好きな子がバスケ部にいたからです。でも、仲良しの友達が吹奏楽部に入りたいからと一緒に仮入部したことが、その後の土肥さんの運命を大きく変えたと言っても過言ではありません。吹奏楽部に仮入部して、部屋の入口でクラリネットの先輩につかまり、結局仮入部期間の1週間、ずっとクラリネットの練習をしていました。その頃の土肥さんは、今と違って言いたいことがあっても言えないそんな子でした。だから、他の楽器の所へ行きたくても、行きたいと言い出せなかったのです。そうこうしているうちに仮入部期間が終わり、本入部することになりました。1週間練習してクラリネットが吹けるようになっていましたし、もうバスケ部ではなく、友達と一緒に吹奏楽部に入ることに決めていた土肥さん。でも、その友達がフルートにすると言っていたので、一度も吹かなかったフルートに手を挙げたのです。しかし、友達がフルートにすると言っていたのは土肥さんの勘違いで、友達はホルンに手を挙げたのでした。こうして、仮入部期間に練習したクラリネットでも、友だちがやるホルンでもなく、フルート部門に入ってしまいました。1ヶ月、全く音も出ないまま時が過ぎました。でも、お母さんが15万円もするフルートを買ってくれたので、絶対にやめるわけにはいきませんでした。フルート部門の3年生の先輩はとても厳しく、同期のフルートの子が上達していくのに、自分はちっとも上手くならなくて、とにかく夢中で練習しました。ようやく音が出るようになった時は、嬉しくてホルンの友達に電話口で聴いてもらったりしていました。その後、どんどんフルートにのめり込んでいった土肥さん。吹奏楽は夏と冬に大きな大会があるのですが、冬のアンサンブルコンサートでは1年の冬に県大会に出場します。その後もどんどんフルートにハマり、夏の大会では北陸大会にも出場しました。速星中学の吹奏楽の先生はとにかく指導が厳しかったのですが、その厳しさよりもフルートの楽しさが勝りました。進路を決める時になって、土肥さんは悩みました。音楽コースのある呉羽高校に行って音楽大学を目指すか、吹奏楽で定評のある富山商業に行って全国大会を目指すか。結局、全国大会へ行きたいという気持ちが勝りました。それに、富商なら、吹奏楽に専念できるという思いもありました。

 富商に入ると、中学の時の怖い先輩もいて、練習もとても大変だったけれど、楽しく充実していました。朝練から始まって、昼の休憩時間、放課後は学校で、夜は芸術創造センターに行って練習、とまさにフルート漬けの毎日でした。富商は毎年オーバードホールで定期演奏会があります。しかも3回公演!1年生の時は、チケットがなかなか売れず協賛企業も集まらなくて、苦労しました。しかし、みんなで売り歩いた甲斐もあって、3回とも満席でした。土肥さんたちが2年生の時は、中部日本の大会で賞を総なめし、3年生の時は、ついに全国大会にも出場しました。2年生の時は、新入部員もたくさん入ってきましたし、3年になると定期演奏の時は定期演奏会のチケットは既に完売状態からのスタートでした。定期演奏会はプログラムのデザイン、演出、会計、全部自分達の手で作り上げていきます。そうやって組み立てていくのがすごく楽しい!と感じていました。そんなふうに部活にのめりこんだ高校時代ではありましたが、ちゃんと恋愛もしていました。高校3年生の時に、急に顧問の先生が恋愛禁止!と言い出したのも今はいい思い出です。
 商業高校なので、当然商業科目もあるのですが、土肥さんは商業科目がとても得意でした。簿記はパズルみたいで楽しかったし、会計も得意でした。商業科目で全国の高校生の9位になったこともあります。

 音楽大学に進学したいという気持ちもありましたが、高3の春に「音大に行ってどうする?」と自分に問い直してみました。お母さんが21歳で自分を産んでくれていることもあって、自分も早く子どもを産みたいという気持ちもあったし、早く自分で働いて稼いで自分のお金でフルートを続けたい、という気持ちも強かったのです。実は高校に入ってから使っているフルートはお母さんが応援してくれて買ってくれた70万円もするフルートでした。お母さんは仕事が忙しい中、送迎もしてくれたし、演奏会の本番は全部見に来てくれていました。全国大会出場が決まった時は抱き合って喜びました。2人は仲良し親子で、とてもいい関係なので、土肥さんはこれ以上は親に負担をかけずに自分の力でフルートを続けようと思ったのでしょう。

 こうして就職する道を選んだのですが、オペレーター職に就き、夜中まで働かされて、とてもフルートの練習ができる環境ではありませんでした。フルートができない状態はとても耐えられなかったので、フルートができる環境の求人誌の会社に転職。富山の先生の所に習いながら名古屋の先生の所にも1年間レッスンに通い続けました。富山の先生からは25歳になる前に、自分でコンサートを開きなさいと言われていました。その言葉通り、24歳の時に北日本新聞社のホールでデュオコンサートを開き、燃え尽きました。

 その頃、3社目の情報誌のファーボに入社していた土肥さん。ファーボではやったらやっただけ評価してもらえたので、仕事がとても楽しく、それまでの最短で売上目標を達成し、USJ旅行をプレゼントしてもらったのでした。
 そこにはもう言いたいことが言えずにもじもじしている土肥さんの姿はありませんでした。富商時代に誰かの顔色を伺うことを徹底的に否定されたからです。緊張すると言ったら、誰も見ていないと思って思い切りやれ、と叩き込まれました。その積み重ねで、フルートのソロパートを吹いても緊張することが全くなくなったのでした。社会人になってからも怒られることは当然ありましたが、中学や高校の部活では罵声を浴びせられることもしょっちゅうだったので、それに比べれば社会人は全然楽でした。部活の友達と会うと、社会人は楽だよね、という会話になります。いろんな考え方はありますが、今時はちょっと叱られてもへこむ若者が多いので、部活で厳しい経験をしておくのは大きな財産になるのは間違いありません。

 ファーボでは、いちばんいいのは挑戦して成功する人、次が挑戦して失敗する人、ダメなのが挑戦しない人でした。土肥さんはどんどん挑戦して、どんどん結果を出していきました。こうして仕事がますます楽しくなり、仕事にのめり込んでいきました。
 土肥さんがファーボに入社したのは2008年。その頃、ご主人に出会っています。つき合って半年でプロポーズされましたが、最初は断りました。それでもご主人はあきらめず、またプロポーズ。そしてOKした土肥さんでしたが、何しろ仕事がとても忙しかったので、1年以上たってからようやく式を挙げました。2010年のことでした。

 実はママスキーの構想は結婚した直後に抱いていました。既婚者でもドキドキワクワクすることを立ち上げたい、そう思っていたのです。結婚後半年で妊娠した土肥さん。妊娠中も子育てが始まったときも、情報があまりにも少ないことに愕然としました。それにそういう悩みを誰に相談したらいいかわからない。子育てでずっと家に閉じこもっていた後輩に久しぶりに会ったとき、とてもかわいかったのに、すっかりおばさんになっていたのを見て、情報発信しなくちゃ、ママを孤立させないようにしなきゃ、と切実に思いました。土肥さんはファーボで働いているので、みんなよりは情報がある。それで、自分が中心になって情報発信をしていけばいいのではないかと思ったのでした。
 まずはフェイスブックでママ向けの情報を発信しはじめ、その後ポータルサイトを作ろうと思いました。会社でママスキーの構想を言い続けましたが、なかなかその思いは会社に伝わらず、最終的に自分でサイトを立ち上げたのです。

 こうして2014年3月にママスキーを開設。10月に初となる自主主催イベント「mamaskyハロウィンパーティ」を富山市婦中ふれあい館で開きました。家族で楽しめるマルシェイベントだったのですが、600人くらいが来てくれました。最初から600人も集めるなんてすごい!2015年5月には屋外で規模を大きくして「mamasky party」を開催。その時はなんと2000人もが集ったのです。

 その頃は平日は会社員をして、週末はママスキーのイベントをこなしていました。ファーボでの仕事も大好きだったからなかなか起業までする気持ちにはなれなかったのです。
 そんなとき別の情報誌で働きながらママスキーのイベントを手伝ってくれていた松本さん(今も土肥さんの右腕の方です)が、「ママスキーだけでやっていきたいから退職届出してきた」と言ってきたのです。ファーボも大好きな会社だから踏ん切りがつかなかったけれど、背中を押される形で土肥さん自身も覚悟を決めました。でも、収支計画もちゃんと作っていない状態からのスタートでしたから、最初は大変でした。給与はちゃんと払わなければいけないので、貯金を切り崩しながらやっていました。それでも、少しずつ軌道に乗っていき採算も採れるようになっていきました。大変だったけど、最初から人を雇って事業を始められたのはとてもよかったと思っています。何より1人で抱え込まずに話し合いながら進めて行けたのはよかった。こうしてママ向けのイベントを年に200回も開くようになり、多くのママからの相談も寄せられるようになりました。特に他に頼ることができない県外出身者のママたちにとってママスキーはなくてはならない場所になっています。そこから、社会の課題もたくさん見えてくると土肥さん。ママたちの声を直接行政に届けて行政を動かす役割も担っています。

 ママスキーについて話してほしいと言われることも増えていきました。そういう時、ママスキーの活動は、少子化対策につながると言いながら、やっていることは広告業とイベント業が中心なので、やっていることと言っていることのちぐはぐさからか、思いがちゃんと伝わらないと感じることもありました。

 コロナ禍でイベントの仕事が一気になくなった時、これまでのママスキーの活動について立ち止まって考える機会になりました。実はコロナ前は少しモヤモヤしていました。創業前にやりたかったことはだいたい達成した、では、これから何をやっていこうか。立ち止まって考えた時に、ママスキーを全国展開しよう、そう思ったのです。県外に行ったママから、ママスキーがなくて寂しいという声も聞かれましたし、何より、ママが幸せになれない国ではこの先の未来がないと思うからです。ママスキーは情報発信が得意だし、集客力も抜群。そして、今は全国にママスキーキャストが80人います。この輪をどんどん広げていって、日本全国のママが子育てって楽しい、自分もハッピーと思える日本になれば、おのずと少子化課題にも対応できると考えています。だから、今ならママスキーは少子化対策につながることをやっていると胸を張って言えます。
自分の中でやりたいこと、みんながやりたいこと、全国のママスキーキャストと話し合う場が楽しくてたまらない土肥さんなのでした。

 もちろん、家族との時間もとても大切にしています。小学5年生になった娘さんは、ママと2人で総曲輪でカフェラテを飲む時間が大好きです。ショッピングセンターでゲームをするより、街中での時間を楽しめるってとっても素敵ですね。パパが休みの日は、車で3人でドライブをしていますし、夜はポップコーンを作ってホームシアターで映画館ごっこを楽しんでいます。去年は自宅でBBQがブームで今年はホームシアターでの映画館ごっこがブーム。さて、来年の土肥家にはどんなブームが来るでしょう。
 こんな風に家での時間を満喫できるのも、仕事ばかりじゃなくて、ワークライフバランスを考えた働き方をしているからです。前は本当に仕事人間だったけれど、今は平日でも7時の晩御飯の時間には帰れるようにしています。もっとも土日は今もイベントでつぶれることが多いのですが、それでも、家族でホッとできる時間を過ごせる今のバランスはとてもいいと感じています。

 あれだけ熱中していたフルートのことも気になりますよね。実は子どもができるまで、社会人の吹奏楽団速星フライデーズにも所属していた土肥さん。今も戻ってきて、と時々連絡が入ります。どこかでまたフルートを再開したいなぁとは思っています。土肥さんがフルートを再開してコンサートを開かれる時は、ぜひ拝聴に行きたいですね。
ちなみにママスキーの社名の由来も、フルートと関係あるのです。土肥さんは高校2年の冬のアンサンブルコンテストでチャイコフスキーの「フィレンツェの思い出」という曲を演奏したのですが、偶然その曲を聞き返していた時に「ママスキー」というネーミングが決まったのです。ママスキーのスキーにはチャイコフスキーTchaikovskyのskyを使ってmamaskyという綴りにしています。もちろん、ママが自分自身を好き&子どもたちがママのことが好き!の意味も込めています。

 富山のママたちの強い味方、もちろんそれはパパたちにとっても強い味方、そんなmamaskyの活動からこれからも目が離せません。

今日の人221.古木康大さん [2022年07月18日(Mon)]
 今日の人は、株式会社理想経営の組織開発コンサルタントで、キャリアカウンセラー/MBTI認定ユーザー、“職業という切り口から多様な観点で世界を知り、自分の働き方について考えを深めるためのポッドキャスト職業ダイアログを発信している古木康大さんです。
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 古木さんは1989年平成元年に富山市で生まれました。小さい時の記憶はあまりないのですが、お父さんがキャンプとアウトドアが好きだったこともあって、夏は海や山、冬はスキーに行くのが家族の恒例行事でした。両親は2人とも小学校の先生でした。両親が帰ってくるまで、友だちの家に遊びに行ってゲームで遊んだり、公園で遊ぶのも好きでした。
 でも、いちばん好きだったのは読書でした。3歳年上の兄の部屋にあった小説を読んだのがきっかけでした。ライトノベルから入って小説を読みふけり、休日は開店時間に本屋に行って、午前中ずっと立ち読みしていたそうです。特にSFやファンタジーなど、非日常なテーマが大好きでした。今でも、映像より小説の方が好きな古木さん。今、好きな作家は恩田陸です。

 小学生の時になりたかった職業は、警察官でした。おじいちゃんとウルトラマンごっこをして遊ぶ過程で、正義のヒーローに憧れていたのかもしれません。今、古木さんの4歳と1歳半の息子さんたちもウルトラマンを見始めて、時代は巡るなぁと感じています。

 古木さんのおじいちゃんも、お父さんもお兄さんも、中学校の頃はみんな柔道部でした。自分もそうだろうと中学校ではあまり疑いもせずに柔道部に入りました。中学校ではお兄さんも古木さんも生徒会長でした。ただ、古木さん自身は、シャツを出して廊下を歩いているような生徒会長でした。周囲の期待に応えたいと思いつつも、どこかはみ出していたかったのかもしれません。自由であることを大事にしていました。友達に「古木って変わってるよね」と言われるのは、まんざらでもありませんでした。
 両親が小学校の先生で、中学校までは兄と同じ進路を辿っていたので、「古木家の次男」と周りから意識されることが多いように感じました。結果、高校は兄とちがう学校にしようと、富山東高校に進学しました。

 高校では、ラグビー部に入部します。同級生である1年生は10人いるが、先輩は2人しかおらず、アットホームで上下関係があまりない部でした。古木さんにとって、思い切り体をぶつけ合うラグビーはとても楽しかった。でも、ラグビー以外では初めて人間関係に悩んだ時期でもありました。小中学校はほぼエスカレート式で知り合いが多かったのに比べて、高校は全然知らない人がほとんどで、最初どうやって友達を作ればいいかわからず悩みました。友達ができてきて居場所ができたと感じてから、その悩みはそのうちなくなりましたが、環境変化した時に友達を作ること、居場所を作ることに対する不安要素は残りました。
 2年生の時には文化祭で劇をやりました。脚本も主役も古木さんでした。ラグビーも、遊びもそれなりに充実していました。進路を決める時には、女子が多いからという理由で文系を選択しました。それだけ自分の進路を選ぶ理由が自分の中に乏しい状態でした。
 高校3年の春にはラグビー部を引退し、その後は大学受験に向けてし勉強し始めました。やるだけ成績が伸びて模試の評価も上がっていき、勉強自体は楽しかったようです。
 こうして、金沢大学の地域創造学類に現役合格しました。金沢大学が学部から学類に変わった最初の年でした。

 大学ではワンダーフォーゲル部に入りました。自然を満喫したいと思ったからです。ここ大学でも最初は人見知りでしたが、2か月経つと自分の居場所もできました。同じうどん屋で4年間ずっとバイトもしました。NHKのADのアルバイトもしました。地域創造学類では文系だけど農業もやるような学際的なところでした。校内に炭焼き小屋を建てたり、珠洲に合宿に行ったりしてとても楽しかった。ゼミに部活にバイトに、とても充実した学生生活を送ったのでした。

 卒業後は、リサイクル業界(産業廃棄物中間処理業)に就職しました。事業として社会に貢献できていると自分が実感できて、未知の領域が見えそうだと思ったからです。ただ、いざ就職すると、入社1週間で悩み始めることになりました。大学生の頃は、働いている人はみんな、誇りを持って働いているのだと思い込んでいました。でも、現実は違いました。現場の工場見学をしていて、現場の社員の方に、「何でここに入ったの?もったいない」と言われました。言った人にとっては気軽な言葉だったと思いますが、古木さんにとってはショックでした。まず、言った人がそもそも仕事を好きではないのだと感じショックを受けましたし、新入社員である自分にそんなことを言ってこの人に何の得があるのだろうと理解に苦しんだからです。また、会社では周囲からの期待がとても大きく感じており、「できる自分」を取り繕わないと、価値が無いと思われる、見捨てられると、いつも焦っていました。できない自分を自分で認められない、そんな気持ちを抱えながら働く中で、自損事故も何度か起こしました。それだけ追い込まれていたのでしょう。「お前、いい大学に行ってたのに、頭がいいのに、全然仕事できないな」そう言われるのが苦痛でした。どんな自分を見せればいいんだ。誰か助けて。
 思えば、小さい時から困難と呼べるほどの困難にぶつかって乗り越えてきたことがなかった挫折の少ない人生でした。ぶつかった大きな壁をどのように乗り越えればよいのかわからず暗中模索の日々でした。

 何かしなければ、そう思って、入社から半年後に月1の異業種交流会をやり始めました。4年間取り組む中で、今、富山で活躍している多くの仲間に出会いました。迷わない自分になるにはどうしたらいいんだろう?出会いをくりかえる中で、「理想経営」の研修に行きつきました。その中で「You are the CEO of your Life」という概念にガツンとやられました。そして、働くことを考えることを仕事にしたい、自分はこの会社で働きたいと熱烈に思いました。こうして、リサイクルの会社を4年で辞め、株式会社理想経営に入社したのです。

 もちろん、今も悩みはあるけれど、悩んでいた時期にあった進む先が全く見えないような絶望は感じていません。自分の働きかけで環境は変えられると知ったからです。理想経営では企業研修や大学のキャリア教育等を行っています。学生たちや受講者の皆さんにどう伝わるか、どのように学んでいただくかを考えながら、講義のパワポを作る時間は脳みそフル回転しています。
 また組織開発コンサルタントとして、1人1人が望ましいキャリア実現し続けることを支援しています。自らが感銘を受けた「You are the CEO of your Life」という考え方はとてもクリエイティブでおもしろい。前職で働くって何だろうと考え続けていたので、考えながらお金をもらえる今の環境は一石二鳥だと感じています。自分の関心事を仕事を通して体現していけて、自分の状況を好転的にとらえることができる、だから今は精神的にとても解放されていると感じています。

 職業という切り口から多様な観点で世界を知り、自分の働き方について考えを深めるためのポッドキャスト職業ダイアログも始めました。
〜世界は人の想いで溢れている〜“職業”とは、“他者に貢献できるプロセスが言語化したもの”だと古木さんは考えています。
「どんな職業があるのだろう。どれだけの貢献のプロセスがあるのだろう。
世界は誰かの仕事でできていて、職業を知ることは、世界を知ることです。
誰かの職業を知ることで、世界の構造を知り、
どんな自分でありたいか、思考を深める機会といたします。」と職業ダイアログのページにあります。この職業ダイアログ、なんと私のこのブログも始めるきっかけの一つになっているのだとか。なんて嬉しいんでしょうか!

 古木さんのポッドキャスト、皆さんもぜひ訪れてみてくださいね。
職業ダイアログ→https://open.spotify.com/show/4wGfqqmPyxcvo16FT5scIr

 古木さんは思います。可能性を感じる機会があると、ポジティブに生きていける、と。
先日もピンチヒッターで、急遽講座に登壇するという経験をしました。予想外の機会に慌てるのではなく、その機会を自分でポジティブに作れたらとても楽しい。経理のマネジメントは想像がつくけれど、想像がつかないカオスなことを興味の赴くままにやっていけたら、そしてそれが仕事と結びついていたら、こんな楽しいことはありません。
そっか〜、古木さん、なかなかの変態ですね!(もちろんいい意味です)

 そんな古木さんにホッとできる時間を尋ねると、「講師業はみんな常にスキルアップしています。だから、自分はホッとしていいのか?と思ってしまうのです」との答えが返ってきました。パソコンやスマホがあると、仕事やらなきゃ、と思ってしまうところがあるので、何も持たずに山に登ると、何者でもない自分になれます。そういう意味では、誰とも連絡できない時がホッとする時間かな、と笑いました。何でも先読みしちゃうタイプだから、いろいろいつも考えているけれど、でも、悩みに向き合うことも仕事の糧になると思っています。こんな風に仕事にとても真摯な古木さんだからこそ、何も持たずに山に入る時間がとても大切な時間になっているんだろうな、と感じました。

 でも、古木さん、今は4歳と1歳半のお子さんもいるので、子育てにも忙しいのです。奥さんも仕事をしているので、お互いの仕事への気持ちを大事にしながら子育てしていきたいと考えています。

 子育ての現役世代としてもいろんなアイディアが出てきます。今、思っているのは内川でキッザニア。内川は狭い範囲にいろいろ集まっているから、きっと楽しい!そうこの「楽しそうだな」という思いが古木さんのモチベーションになっています。その想いがあれば、きっと人生絶望せずに歩いていける、そう思っています。

 そんな古木さんの好きな食べものは、たこ焼き。子どもたちと一緒に自分で作るのが好きです。お父さんが焼いてくれるたこ焼き、きっと子どもたちにはどんなたこ焼きよりも美味しいことでしょう。いつか、留学生も一緒に、たこ焼きパーティできたら楽しそうですね。
 その時はぜひ私も、ご相伴にあずからせてください。
今日の人220.牧真奈美さん [2022年04月24日(Sun)]
 今日の人は、ケアサポート・まき株式会社クルサー代表取締役の牧真奈美さんです。
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桜の下、着物がとてもお似合いの牧さん

牧さんが生まれたのは実は静岡。でも、すぐに富山に来て、婦中町長沢で3歳まで過ごしました。お父さんは大工で、娘の牧さんにはとても優しかったのですが、お酒を飲むとDVになり、家のお金も全部お酒につぎ込んでしまう人でした。3人兄弟の牧さんには弟と、生まれたばかりの妹がいて、それでもお父さんは一切家にお金を入れなかったので、牧さんたち兄弟はいつもひもじい思いをしていました。ある日のこと、いつもはお腹いっぱい食べるなんてできなかったのに、その日お母さんは好きなだけ食べさせてくれました。その日、お母さんは子どもたちを道連れにガス心中をはかりました。夫からのDV、お金も全くない、でもどこに頼ればいいかわからず、支援のなさの中で途方に暮れたお母さんが無理心中をはかったのです。しかし、お母さんの様子がおかしいと感じた母方の祖父母とおじさんがちょうど様子を見に来て、間一髪 牧さんたちは助かったのです。目が覚めたとき、自分の家ではなく、おじいちゃんちの天井が目に入って不思議でしたが、その間のことは全く覚えていないのでした。

その後は、祖父宅で暮らしていた牧さんたちでしたが、牧さんが小学校に入る前にお母さんはすすめられるままに再婚し、金屋に引っ越すことになりました。まだ小さかった妹は、祖母の知り合いで牧さんは知らない家の養女となり、それっきり会えなくなりました。

お母さんとお義父さんは2周りも年が離れていて、一人っ子だった義父は、お母さんのこともまるでお手伝いさん扱いでした。その家は、まるっきり昔ながらの考え方で、男の子は役に立つけど、女は役に立たないというような価値観の家でした。お母さんと牧さんだけ、台所の土間でひっそりご飯を食べる、そんな毎日でした。家の中なのに雨が降ると傘をさしてトイレに入らなければならず、おまけに床が抜けてしまいそうなあばら家で、小姑の嫁いびりもあり、お母さんは耐えきれない時は子どもたちを連れてよく夜中に家出をしました。金屋から祖父母宅のある速星まで歩き、朝着くと説得されてまた戻される、そんなことを繰り返していました。ある日、お母さんは「どこか遠くに行こうか」と言いました。弟は嫌だと言いましたが、牧さんは「出て行こうよ」と賛成しました。そうして3人でもう戻らないつもりで家出を決行しましたが、結局富山駅で祖父と養父に連れ戻されてしまいました。

この事件の後、もうお母さんは家を出ることもなくなりました。ここで生きていくしかない、と覚悟が決まった出来事になったのでしょう。
あばら家ではあったけれど、当時金屋で一軒だけのよろず屋をやっていて、そのよろず屋をお母さんが引き継ぎました。牧さんが小4の時に、養祖父が亡くなり、それからお母さんはとても強くなりました。当時、お店には借金も相当あったのですが、お母さんが切り盛りして借金を全返済します。それどころか、昭和40年代に月40万円もの利益を出すようなお店に生まれ変わらせたのです。

幼い頃は食うや食わずの極貧の生活を味わった牧さんでしたが、中学校に入る頃には家も建て直して、牧さんは塾にも行けるくらいになりました。
家が裕福になっても、お母さんはひたすら働いていました。よろず屋は1年でたった1日、元日だけ休みなのですが、近所の人に、「砂糖が切れとるんやけど」「醤油ないがいちゃ」と言われたら、厭わずに対応していましたから、実質は365日働き詰めのお母さんだったのです。牧さんが朝起きると、中央市場に仕入れに行っていて、家族でゆっくりご飯を食べることなどほぼありませんでした。

 小学生の頃の牧さんは、とにかく本が大好きで、学校の図書室にある本は制覇するほどたくさんの本を読んでいました。特にSFや推理小説に没頭していました。あまりに本ばかり読んでいたので、とうとう家で本を読むのを禁止されてしまいます。禁止されたので、読むわけにもいかず、音楽を聴きながらボーっと空を眺めていました。雲が流れていくのを見ながら、もし別世界の自分がいたらどうしていただろう、どう生きていただろう、そんなことを薄ぼんやりと考えていました。

 中学校ではテニス部に入りましたが、ほぼ幽霊部員でした。声も大きいので元気印に見られがちでしたが、実際は心を病んでいました。自分という存在は要らないんじゃないか、この世に生まれてくる必要があったんだろうか、いつもそんな考えが頭をよぎるのです。けれども、自分から死にたいとは決して思いませんでした。一度助けられた命だから、無駄にしちゃいけない、そんな気持ちがずっと心にあったのです。中学校の時に「この中で自殺したいと思ったことがある人は手を挙げて」と先生はみんなに目を瞑らせて手を挙げさせたのですが、牧さんは手を挙げる人っているんだろうかと目を瞑りながら思うのでした。一方で自分の存在意義を自問しながら、一方で自ら死ぬことを選ぶなんてありえない、そんな複雑な想いを抱いて過ごしていました。

 薦められるままの高校に入り、赤点にならない程度に適当に過ごしていました。何かに真剣になることはなく、きらきらした高校生活とは縁遠い毎日でした。共通一次は一応受けましたが、富山県外に進学してはダメとお母さんに言われ、やりたいこともなかった牧さんは、また薦められるままに看護学校を受けました。看護学校でもやる気はなく、資格を取ったらやめよう程度の気持ちでいました。3年の時に担当だった三谷順子先生に「私は就職はしません。」と言った時、先生は「1回やってみて、イヤならやめればいい。とにかく一回やってみなさい」と諭してくれました。その場で先生と2人で一緒に泣きました。

 こうして牧さんは、三谷先生に薦められた高志リハビリ病院に就職したのです。これが人生の大きな転機になりました。それまで、何をしても真剣になることがなかった。けれど、看護師の仕事ってこんなにおもしろいんだ、と感じて仕事に打ち込んだのです。リハビリ病院ですから、事故で脳障害になった人のリハビリなどもやる中で、リハビリの大切さをひしひしと感じました。遊ぶより仕事をしていた方が楽しかった牧さんは、ナースコールの対応や掃除なども率先してやっていました。
 ただ、昔から生理がひどく、生理中は血圧が70を切ることもざらでした。それでうずくまってしまうこともありましたが、仕事は休んだことがありませんでした。
 ちょうど世の中はバブルの真っ最中。牧さんはディスコにもよく行きました。音楽のシャワーの中で1人になれる時間が好きだったのです。車でドライブをするのも好きでした。日帰りで名古屋に行ったり、京都へ一人旅をして寺巡りをしたりしました。

 こうして充実した日々を過ごしていたのですが、高志リハビリの仕事は6年で辞めました。もっといろんな世界を見てみたい!と思ったのです。高志の先生で開業する先生がいて手伝ってほしいと言われてまずはそこで1年間働きました。その時に柔道整復師として働いていたのがご主人です。最初は一緒にカラオケに行ったりする仲間でした。

 その後、東京女子医大病院の中途採用試験を受け合格。東京で就職します。勉強できると思って東京へ行った牧さんでしたが、現実は違っていました。大学病院に来たら点滴も満足にできない看護師がいることに愕然としました。今までマルチに仕事をこなしてきた牧さんでしたが、大学病院では分業が徹底されていて、他のことをやると煙たがられる感じでした。それに、自分がここでやっていくにはもっと学歴が必要だと感じました。このまま東京で頑張って上を目指すか、富山に戻って別の道を歩くか、牧さんは悩みました。

 もし今東京に残ったら結婚はしないだろう。でも、子どもは産んでおきたい、そう思った牧さんは富山に戻って結婚する道を選びます。結婚し、子どもを産んで、専業主婦をしていたけれど、なんだかそれだけではもの足りませんでした。やはり、牧さんは働いているのが好きだったのです。上の子が1歳で2人目の子が生まれる時に、ご主人は接骨院を開院されました。1998年のことでした。2002年には3人目の子が生まれましたが、そんな中でも牧さんはケアマネージャーの資格を取りました。2003年には訪問介護の仕事を手伝ってほしいと言われ、夜中に認知症の方の家に出向くこともありました。そんなことがさんざん続いたので、夫に夜中に出ていくのはやめてほしいと言われます。でも、その時に牧さんは在宅のおもしろさを知ったのです。病院から出てきてうちに戻っても、誰もサポートしなければ悪くなるのは当たり前、でも、在宅でリハビリをしてくれる人は本当に少ない、それなら自分でやればいいじゃない、決断したら牧さんの行動は早かった。2004年に(有)ケアサポート・まきを設立し、居宅介護支援事業所を開所しました。

 最初からバリアフリーにして生活できる人なんて一握り。今ある環境の中で、バリアもある中で、どうやって生活するかが大切。そんな牧さんの考えのもと、ケアサポート・まきは事業を拡大させていきました。2006年9月には接骨院の駐車場を潰して機能訓練型デイサービス ケアサポート・まき吉作をオープンします。ちょうど医療保険制度が改正され、リハ難民が世の中に溢れ、牧さんの施設にも多くの利用者が来ました。いちばん大変だったのはスタッフとの関係です。自分たちだけでやっているならいいけれど、人を雇うということは思い通りにならないことの方が多い。何度も泣いて、眠れぬ夜を過ごして、スタッフとの関係を構築していきました。その後、2021年までにケアサポート・まきは5施設を運営するまでになりました。

 目標を達成したら次にできることを探すのが牧さんです。看護師として、ケアマネとして、経営者として、さまざまなことをやってきた中で、女性の生きづらさにも目がいきました。例えば障害の子が生まれるとママばかりにしわ寄せがいく。女性がこんな生きづらい世の中でいいのか。樹木希林さんが出ていた映画「万引き家族」を見た時に、自分の幼少期の思い出がフラッシュバックしたことも新たな仕事を始めるきっかけの一つになりました。負のチェーンが続いてはいけない、どこかで断ち切らないといけないと強く思いました。友人が癌になって、人はいつ死ぬかわからない、それならできることをやろうと思ったことも重なって、株式会社クルサーを立ち上げました。

クルサーとはクメール語で「家族」という意味。きっと明るい未来が「クルサ!」
女性がもっと自分らしく生きていくために。 子どもたちが未来に希望をもって生きていくために。人と人をつなぎ、未来を描く。 支え合い、分かち合う家族のような仲間作り。
「もっと人生を楽しもう!」そんな想いで立ち上げたのがクルサーです。
クルサーでは女性のための勉強会やイベント等を開催しています。女性が働きやすいように学童保育にも取り組んでいます。40代以上の素敵な女性たちの生き方を紹介しているページも作っていらっしゃいます。なんと私も仲間入りさせていただきました。

 周りには面白い人がいっぱいいて、そんな人を繋げたら1mが2mにも3mにもなるんじゃないか、点と点を線に、そして面にしていく、そうやってつなげるのが自分の役割なんじゃないか、そう思っています。

 とにかく伝えることが好き、話すのが好きな熱い牧さん。いつも全力疾走している感じですが、そんな牧さんがホッとできるのは娘さんとパフェを食べにいったりしてたわいもない話をしている時。今日は山がきれいだなぁ、夕日がきれいだなぁ、そんなほんの一瞬に生きている喜びを感じる牧さんです。

 わくわくするのはいろいろな人と会っていろいろな話をする中でいろんなアイディアが生まれ、妄想する時。妄想したらもうそうするしかないですから、ワクワクが止まらなくなるのでした。

 外国に行くのも大好きです。ラオス、カンボジア、台湾、韓国、イスラエル、シンガポール…観光を楽しむより、現地の生活に触れたい。それによって日本の生活を改めて知ることが出来るから。早く前のように自由に外国と行き来できるようになってほしいと思っています。そんな活動的な牧さんですが、スイッチオフになったら、何もしゃべらなくなるそうです。

 苦労人だったお母さんは今は元気に一人暮らしをしていて、梅干しを作ってくれたりしています。牧さんはこれからは高齢者が幸せだと思える介護サービスも充実させたいと思っていて、高齢者が1人になったときにどうやったら幸せに暮らしていけるかを突き詰めていきたいと考えています。

 とにかく、まだまだやりたいことがいっぱいの牧さん。50代後半の今からでも、あと20年あればまだまだできることはある!とにかくせいいっぱいのことをやってこの世に自分の生きた証を残したい、そう思っているのでした。

 もう歳だからこの歳からやれることなんてない、なんて思っている人はぜひ一度牧さんに出会ってみてください。いくつからでもチャレンジできる!そんな元気をもらえる素敵な女性に出会えました。
今日の人219.番留剛裕さん [2022年02月20日(Sun)]
 今日の人は、造園施工・管理・伐採・枝打ちBan Garden代表でGardener & Lumberjack(庭師&木こり)、そして牛岳スキースクール副校長でもある番留剛裕(ばんどめたけひろ)さんです。
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松の木の剪定中の番ちゃん 高い所はへっちゃら

 愛されキャラの番留さんは、皆さんから親しみを込めて番ちゃんと呼ばれているので、こちらでも番ちゃんと書かせていただきます。

 番ちゃんは1973年8月に広島県広島市で生まれました。両親とも出身は福岡県大牟田市なのですが、6歳まで広島で育った番ちゃんは、広島カープが大好きで、しょっちゅう広島球場にも連れていってもらっていました。特に、山本浩二や鉄人衣笠といった広島の一時代の築いた選手の大ファンでした。といっても自身で野球をするのは苦手で、友だちとはサッカーをして遊んでいました。2歳上にお兄さんもいて、お兄さんや近所の友だちと外遊びをするのが日課でした。
 お父さんの転勤に伴って富山にやってきたのは保育園の年長の冬でした。12月に富山に引っ越し、次の年の4月に小学校に入るまでは家で過ごしていました。雪の降らない広島市から雪がどっさり積もる富山市に引っ越してきた番ちゃん。雪の多さに衝撃を受けましたが、それがすごく楽しかった。除雪の手伝いをしていると、いつの間にか雪遊びにかわっていて、たまった雪でカマクラを作ったり、二階から落ちてきた雪で滑り台を作ったり、とにかく雪で遊ぶのが楽しくてたまらなかったのです。

 そうして、4月にピカピカの1年生として富山の街中の西田地方小学校に入学しました。入学式の日、周りの子はみんな君が代を歌っているのに、1人だけ歌えなくてショックでした。実は、みんな保育園や幼稚園の卒園式で君が代を歌っているので歌えるのですが、引っ越してきてから保育園に行っていなかった番ちゃんは君が代が歌えなかったのです。
 最初の頃は、広島弁が抜けないのも苦労しました。どうしても、「〜じゃけえ」等の広島弁が出てしまうのです。私からすると広島弁カッコいいなぁと思うのですが、小学1年生の番ちゃんはみんなとちがう言葉を話すのが嫌で嫌で仕方がなかったのです。 でも、そこは順応が早い小学生ですから、あっという間に富山弁にも慣れ、友だちもできました。習い事はそろばんや習字をしましたが、長続きしませんでした。サッカーや水泳もしましたが、ハマるほどではありませんでした。ただ、冬に連れていってもらうスキーだけはずっと好きでした。最初は兄がスキーを買ってもらったのですが、そのおさがりでもスキーをもらえた時の喜びはとても大きかったのです。
 小学生の時に好きだったアニメはガンダムや銀河鉄道999、漫画はキャプテン翼やキン肉マンを読んでいました。ピンクレディはケイちゃん派でした。

 中学校ではテニス部に入りましたが、すぐに幽霊部員になってしまいました。冬だけスキー部があるのですが、こちらは楽しくて大好きでした。校区には富山の中心商店街の西町があるので、しょっちゅう西町をウロウロしていました。必ず寄るのはゲームセンターとマツヤでした。
 勉強はあまり好きではなかったのですが、唯一好きな教科は美術でした。特に彫刻が好きで、空間で何か作っていくときは時間を忘れて没頭できるのでした。それは庭師になった今も同じで、庭の設計をしている時は食べるのも煩わしいくらい夢中になる番ちゃんなのです。
 中学時代の悩みは背が低いことでした。一生懸命牛乳も飲みましたが効きませんでした。特にやりたいことが見つからず、将来自分は何をしようかと思いましたが、そこまで深刻にはなりませんでした。勉強は全然できなかったけれど、一緒に遊んでいた子が塾に行くと言い出し、遊ぶ相手がいなくなるから自分も行くかなぁというノリで中3から塾に通い始めました。ご両親にはせっかく塾に行くなら進学校を目指しなさいと言われ、富山南高校の普通科に合格しました。

 ところが、高校に行くと、また勉強したくない症候群になって、無気力に毎日を過ごしていました。帰宅部だったので、部活に燃えることもなく、外でフラフラして、女の子に声をかけ、一緒にカラオケに行ったりしていました。ナンパした女の子たちは年上が多かったので、その子に車でドライブに連れて行ってもらったりもしていました。高校の時、唯一得意だったのは書道です。高校では芸術教科は書道、美術、音楽から1教科選択するのですが、番ちゃんは書道を選びました。あれ?美術じゃないの?と思うかもしれませんが、番ちゃんにしたら書道も美術のような感覚でした。字じゃなくて、絵だと思って筆を走らせると、とても素敵な作品になるのです。そういうわけで、高校時代、番ちゃんの書道の成績は常に1番でした。
 そんな感じで毎日を過ごしていた番ちゃんでしたが、高3の時付き合っていた彼女が大学に行くと言い出して、一緒に勉強するようになりました。しかし、それまでほとんど勉強してこなかったので、理系教科はとんとわからず、とにかく暗記教科で受けられるところを目指そうと、入試科目が国語、日本史、生物で受けられる北海道の大学の社会情報学部を受験して見事合格。こうして、札幌に近い江別市で番ちゃんの大学生活は始まりました。
 社会情報学部ということで、当時は今ほどメジャーではなかったコンピューターを勉強しました。レポートは全部フロッピーで出さなければならなかったのですが、これでコンピューターが嫌いになりました。というわけで、今も設計は全部手書きでしている番ちゃんなのでした。

 この頃、世の中はスキーブーム真っ只中でした。小さい時からスキーだけはずっと好きだった番ちゃんですから、迷いなく体育会のスキー部に入りました。基礎スキー部だったのですが、ジャンプやクロスカントリーもやらされました。夏場は陸上トレーニングでとにかく走らされましたが、今回は途中でやめることはしませんでした。とにかく、スキーが好きで、スキーがうまくなりたいという想いが強く、スキー三昧の日々を過ごした4年間でした。
 そんな中、腰痛の後輩が大会に出られなくなり、急遽代理で大会に出場したことがありました。なんと、その代理出場の大会で番ちゃんは優勝し、表彰台に上がってしまったのです。この表彰式の快感が忘れられず、もっともっとスキーがしたい、もっともっと上手になりたいと思うようになりました。

 こうしてスキーへの想いを残したまま就職した番ちゃん、冬が近づくにつれ、スキーがしたいという想いが抑えられなくなってきました。そして、就職1年目の12月に会社を辞めてしまいます。どこかスキー場でインストラクターができないか、そう思って電話したのが牛岳スキースクールでした。別のスキースクールには知り合いもいたのですが、全くしがらみのない所でやってみたい、そう思ったのです。
 スキースクールに来ているインストラクターの中に、植木屋として独立した人がいて、夏場アルバイトに来ないかと誘われたことで、スキーのオフシーズンには植木屋で仕事を始めました。親方が厳しくて、やめようかと思ったこともありましたが、植木屋の仕事自体はとてもおもしろくて肌に合っていました。
 その頃、番ちゃんは選手として大会にも出ていました。上位を目指して頑張っていましたが、ある時、左足首を捻って骨折。このことでスキーの大会が怖くなってしまいます。普段滑っている分にはいいのですが、もう選手としては滑れない、そう思って大会に出るのはやめました。ケガをしたこともあって、植木屋も辞めました。その後は、スキーのオフシーズンは森林組合で木こりとして仕事をすることにしました。

 森林組合で働きながら冬はインストラクターを続けていましたが、選手をあきらめた後は向上心がなくなって惰性で続けているような感じでした。でも、現スキースクール校長の三井智さんに「指導員とってこいよ」と言われ、指導員の資格を取ってから、考えが変わりました。それまではとにかく自分が早く滑るスキーを目指していたけれど、教えた相手が上手に滑ることができるスキー、そして自分自身もきれいに滑ることができるスキー、そういう視点に変わったことで、またスキーが楽しくなってきたのです。指導がうまくいかなかった時は、原因は何かなぁと考える、そして、次に教えた時に、その人が上達したら本当に嬉しい、そう言ってとても優しい笑顔になる番ちゃんなのでした。

 森林組合では普通の植木屋ではできないような仕事を覚えることもできました。こうしてGardener(庭師)としても、Lumberjack(木こり)としても技術を磨いた番ちゃんは、2017年、44歳の時に、Ban Gardenとして独立したのです。

 庭のことを考え始めると止まらなくなる番ちゃん。木の中でいちばん好きな木は松の木です。今は松を切ることの方が多いですが、松を植えて、和風の庭をトータルで作りたい。造園だけでなく、門やフェンス、ウッドデッキ、カーポートなどトータルエクステリアとして庭の演出をしたい、考え出すとワクワクがとまらなくなく番ちゃんです。今、和風の庭は海外でも人気があるので、コロナが明けたら海外で番ちゃんの庭が見られる日が来るかもしれませんね。

 そんな番ちゃんがいちばんホッとできる時間は、家のリビングでビールを飲む時間。外に泊まるのは好きではなく、とにかく家が大好きです。14歳の息子さんもどこに行くより家にいるのが安心するそうです。とてもあったかくて仲良しの番ちゃんファミリーなのです。

 番ちゃんは、自分でデザインするのも好きです。番ガーデンのТシャツ、帽子など、とても評判がよく、売り切れになってしまったので、今新しいデザインを考えているところです。皆さんもBan Gardenのロゴを見かけたら、素敵な造園屋さんを探してみてください。
そして冬は牛岳で番留先生のレッスンを受けてみてくださいね。
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番ガーデンのキャップをかぶって
牛岳温泉スキー場牛岳スキースクールにて
今日の人218.廣田大輔さん [2022年01月18日(Tue)]
 今日の人は医薬品の原薬・中間体の研究および製造委託をされている十全化学株式会社代表取締役社長廣田大輔さんです。富山の新名所、富山県美術館の「オノマトペの屋上」から神通川方向を見ると「JUZEN」と緑字で書かれた建物が目に入りますが、その会社が十全化学です。廣田さんは十全化学に入る前の10年は楽天で働いていらっしゃったのですが、廣田さんが書かれた「楽天で学んだ100%やりきる力」というご著書はやりきるスイッチ満載の本なので、皆さんぜひ読んでくださいね。
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廣田さんは1974年7月に富山市で生まれ育ちました。幼稚園の時は、幼稚園から脱走して近くの呉羽山で遊んだりするなど、なかなかのやんちゃっ子でしたが、幼稚園の先生は廣田さんのことをかってくれていて、天真爛漫な子ども時代を過ごせたのでした。
 富山大学附属小学校の時は友達と外で遊ぶのが大好きでした。今の廣田さんからはとても想像できませんが当時の通知表には落ち着きがないとか集中力がないとよく書いてありました。野球が好きだった大輔少年は、お父さんとキャッチボールをしたり、バッティングセンターに連れていってもらったりしていました。そして家族が巨人ファンだったこともあって、必然的に巨人が好きになりました。特に好きだったのは原辰徳選手(現巨人監督)でした。夏休みはずっと高校野球も見ていて、野球選手になりたいなぁと思っていましたが、スポーツニュースで星野仙一さんがキャスターをしているのを見てからは、スポーツキャスターになりたいと思うようになりました。
 幼稚園の時から水泳も習っていて、冬はよくスキーにも行きました。お母さんが学生の時にスキー部だったので、休みになるとスキーに連れていってくれたのです。
偉人の伝記や少年探偵団などのシリーズ物を読むのも好きでした。

 中学校では野球部に入りました。朝練もあったし、夏休みも毎日練習だったので、部活一色という感じの中学時代でした。ただ、英語の塾だけは行っていました。塾のテストで合格点が取れないと帰してもらえないというスパルタの塾でしたが、おかげで英語の実力はみるみるつきました。中学2年の時はカナダに短期留学をして、海外に対する興味が芽生えました。附属は小学校にしろ、中学校にしろ、自由な校風だったので、それが廣田さんには合っていてとてものびのびとした小学校中学校時代を過ごせたのでした。
 この頃から少しずつ将来は社長になるという想いが芽生えるようになっていました。お父さんは自分が伝えたいことを何度も言う人でした。中でも特に心に残ったのは、社長は従業員とその家族の生活を支えている、従業員の数×4の人たちの生活を支えているんだ、その責を負わなければならないんだ、という言葉でした。そうやって多くの従業員とその家族の生活を支えているお父さんがとても誇らしく思えました。

 高校は富山でトップの進学校、富山中部高校へ。高校時代はハンドボール部に入りました。ハンドボールが特に好きだったわけではないのですが、中学の野球部で一緒だった子に誘われて入ったのでした。毎日中部高校から有沢橋までの往復4qを走ってからの部活で、足腰が鍛えられました。神通川沿いは晴れると立山連峰が見えて、走っていて本当に気持ちのいいところなのです。今でも、走っているととても落ち着く廣田さんなのでした。でも、授業はちっとも楽しいと思えませんでした。次から次への出てくる宿題・課題を消化仕切れず、目的を失うという悪循環に陥ってしまいました。 何のために勉強をしているんだろうと感じて全くやる気が出なかったのです。 そうなると先生にも期待されていないのがわかり、今思うと、自分自身の問題にも関わらず、 当時は、ますますやる気もなくなるのでした。学校には友達に会いに行っている感覚でした。自分に全く自信が持てなかったのがこの頃です。それでも1回も学校は休みませんでした。

 卒業後は東京で一浪しました。予備校の授業はおもしろく、もちろんしっかり勉強もしたので成績もどんどんあがっていきました。いい仲間にも恵まれました。
こうして、次の年に明治大学に入学しましたが、そこではアルバイトに明け暮れていました。フランス料理のレストランで週に5回みっちりバイト。でも、そのレストランに子どもの頃大好きだった巨人の原辰徳監督が偶然来られて、その担当テーブルになったことがあって、これは本当に嬉しい出来事でした。こうしてアルバイトで貯めたお金を使って夏休みや春休みにはバックパックで海外に出かけていました。沢木耕太郎さんの紀行小説「深夜特急」が大好きで、当時流行っていたテレビ番組「電波少年」で猿岩石がユーラシア大陸をヒッチハイクするのを見るのも好きだったので、自分も旅をしたいと思ったのです。一人旅をしていると活字に飢えます。そこで、旅先と出会った人と本を交換してその本を読むことで、たくさんのいろんな本に出会いました。まさに「本が旅をする」です。行きと帰りのチケットだけを買って、あとは何も予定を決めずに旅をしました。だいたいは安いドミトリーに泊まるのですが、未知の体験が多くてワクワクしました。インド、ネパール等の秘境の地も旅しました。このバックパッカーの経験があって、海外で仕事をしたいという気持ちが大きくなりました。

 就職するにあたってお父さんの世話になるという選択肢もありましたが、それはやめました。敷かれたレールにのったまま安穏と社長になる道は選べないと思ったからです。ですからお父さん絡みの会社は全部断りました。自分の足で歩くことにこだわりました。
 最初は商社希望で就職活動をしましたが、当時は就職氷河期でした。1社だけ受けたメーカーが日本精工という精密機械メーカーで、ここの内定をもらって入社しました。実は、この時の同期入社がのちに奥さまになる方でした。ですから、日本精工に入った縁も廣田さんにとってはとても大事なご縁だったといえますね。廣田さんの最初の赴任地は宇都宮で、社内で一番忙しいといわれる部署に配属されました。書類を提出すると、真っ赤になって返ってきました。でもここでビジネス文書の書き方を鍛えられたのは大きな財産になりました。上司に報告をするときも「お客さんがこういう風に言っています」と言うと、「お前の意見はどうなんだ?」と聞かれました。自分の意見をちゃんと言わないと承認をもらえなかった。しかし、それでビジネスの根幹の大事な部分を教えてもらったと言っても過言ではありません。ですから、今も廣田さんは従業員に必ず聞くようにしています。「君はどう思うんだ?」と。もっとも、その上司が、のちに廣田さんと話した時に「俺、そんなこと言ったかな」とおっしゃったというのはここだけの話にしておきますね。

 そうやって忙しく過ごしながらも、その頃経営者の書いた数々の経済本をたくさん読んでいました。その中で次第に自分も経営者になりたいという想いが強くあふれるようになっていきました。しかし、当時の会社で自分が経営者になれるとしたら早くても50代半ば過ぎだろうと思うと、そんなには待っていられないと思いました。富山に戻って仕事をするにしても、今のままでは知識がなさすぎる、と思いました。そして学部時代はほとんど勉強しなかったけれど、経営者に近づくために大学院でしっかり勉強することから始めよう、そう思った廣田さんは会社を辞め、早稲田大学大学院アジア太平洋研究科に入りました。自分自身を短期間で最大限鍛えたいと、大学院では一番厳しいと言われる研究室に入り、毎晩図書館の締まる11時までは図書館にこもってとにかく必死に勉強しました。
 毎回厳しいレポート提出もあって、家でも寝る間も惜しんで勉強しました。しかし、ここでデッドラインの感覚を叩き込まれたことは幸いでしたし、周りも一生懸命勉強する人たちで朝練と称して朝から勉強していました。そしてこの時ゼミで一緒だった相馬さんは今、十全化学で活躍してくれています。

 こうして厳しくも充実した修士課程を終えた廣田さんは自分が勉強したことを試せて、結果を出せばチャンスが掴める会社として楽天に就職したのでした。

 楽天での10年半のさまざまなご経験は、廣田さんのご著書「楽天で学んだ100%やりきる力」に書かれていますので、皆さまぜひ手にとって読んでみてください。社会人はもちろん、今、勉強している学生さんにもヒントが満載のビジネス書です。

ご参考までに目次だけご紹介しておきます。

はじめに 売上高1兆円を可能にした力
序章 楽天で学んだやりきる力
 99点と100点の間にある大きな違い
 全員に出店営業をさせる理由
 “やりきる”ことでわかる仕事のおもしろさ、奥深さ
 人は“やりきる”ことで成長する
 もしも小説を買って最後の1ページがなかったら?

第1章 やりきる力は「夢をかなえる力」
 100人に1人の人材になる方法
 やりきった経験が一つできれば癖になる
 成功体験はおいしいモノ・コトを運んでくる
 「でも」から始まるサクセスストーリーはない
 やった結果が能力を引き上げていく
 1日0.1%努力する人、しない人
 凡人と超人の差は「最後の0.5%」
 やりきったことを応用して次のステージへ

第2章 誰もが「成長のエンジン」を持っている
 夢をかなえるための原動力「成長のエンジン」
 成長のエンジンに火をつけるきっかけ
 未来を引き寄せるエネルギーは自分が愉しむこと
 仕事はちょっとしたひと手間で愉しくなる
 考えるために行動する
 小さく始めて大きく育てる
 準備ができている人はチャンスを逃さない
 難しいなと考える前に、まずは手を挙げる
 自分の可能性にフタをしない
 やりきることで、気づかなかった才能が開花する
 成長のエンジンは常にアップデートする

第3章 成長のエンジンを回し続ける「やりきるスイッチ」
 やる気のスイッチをやりきるスイッチに変える
 どんなことでも15分余計にやる
 期限を設けてやってみる
 成果が見えるまで3か月試してみる
 逆引きの発想でゴールから考える
 タスクを分解して一つ一つ数字で考える
 KPIを管理して目標に迫っていく
 できる人のモノマネで終わらせない
 「なぜ?」を繰り返し、ボトルネックを見つける
 やりきる儀式としてのルーティンづくり
 やらないことを決め、無駄を切り捨てる
 迷ったときに選ぶ道の基準を決める
 応援してくれる仲間・チームをつくる

第4章 「ドリームキラー」に負けない自分のつくり方
 やりきる人は「できない理由」を考えない
 やりきる力を阻害する外部要因に気をつける
 ドリームキラーにどう立ち向かうか?
 新しい前例が次世代の常識になる
 「頑張り」を評価しすぎてはいけない
 過保護すぎる平等意識に染まらない
 魚を与える上司に注意する
 出る杭を打つ風土にも染まらない
 やりきる人がいない職場から離れる

第5章 世界でも通用する「やりきる力」
 日本人は世界一、成長エンジンを積んでいる
 世界で通用する人材になる6つの視点
 世界的な視点で見たら、日本はガラパゴス
 自分の心の中から国境を消す

おわりに 「成長のエンジン」の使い方が変わった 
 
この目次を読むだけでも相当得られるものがあるでしょう。

廣田さんは楽天の10年で20年分くらい仕事をした実感があります。本当に忙しい日々でしたが、自分が結果を出すとどんどんやってみろと言われ、1人部署も作ってもらえ、海外へも出してもらえる、目の前のことをひとつずつクリアしていくことで、本に書いてあるような100%やりきる力が発揮できるようになった廣田さんなのでした。

 楽天時代の最後の3年はタイの子会社の最高執行責任者として赴任し、将来的に富山に自信を持って戻れると確信しました。

 40歳になった廣田さん、ちょうどお父さんが体調を崩されたこともあって、今までの恩返しも込めて富山に戻ろうと決め、富山に戻ってきました。そうして2018年からは十全化学の代表取締役社長として活躍されています。

 富山に帰ってきて実感していることはワークライフバランスが圧倒的によくなったことです。東京にいるときは片道1時間以上かけて通勤していましたが、今は車で10分くらいで通勤できるので通勤のストレスは皆無と言ってよくなりました。そして、小学校1年生になった娘さんとの時間も大切にできます。先日は娘さんとスキーも楽しんできました。街中から1時間もかからずに気軽にスキー場に行けるのも富山の良さですし、海も山も近く空気も美味しい。そんな風に、地方で働くことの良さをこれからもっともっと広めていきたいと思っています。廣田さんは、十全化学で「Work globally, live locally」という働き方を掲げていらっしゃいますが、これからも地方で豊かに生活しながらグローバルに挑戦しつづけたいと思っています。
 富山では走ることに時間を取ることもできます。富山マラソンも過去に5回出ていて、会社には駅伝部も作りました。そして、富山に戻ってきてから新たに出会った人達とのネットワークも大切にしています。
 来たる2月23日には、そんな新たな出会いから廣田さんの生き方働き方に共感された皆さんの企画による廣田さんの講演会も予定されています。生で廣田さんのお話が聴けるチャンスなので、時間の合う方はぜひ!(もちろん私も行きます)
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 まだ40代の廣田さん、きっとこれからも「やりきる力」を発揮して、富山に新しい風を次々に起こしていってくださるにちがいありません。そんなワクワクした気持ちになった今回のインタビューでした。
今日の人217.浜井竣平さん [2021年12月02日(Thu)]
 今日の人は店舗のない生花店マチノイロセイカテン代表の浜井竣平さんです。花を文化に‐日々の忙しさで忘れてしまいがちな、心のゆとりを大切にして欲しい。植物をより身近に感じていただき、そんな日々だからこそ私たちは「お花を買いに来てもらう」のではなく「お花を届ける」ことで街に色を足す存在でありたいという思いから生まれたのが、マチノイロセイカテンです。
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浜井さんは1993年7月31日に高岡市中田で生まれました。男ばかり三人兄弟の次男の浜井さん。2つ年上のお兄さんは勉強も野球もよく出来たので、比較されるのがつらいなぁと思って過ごした少年時代でした。浜井さん自身も小学生の時から野球少年で、当時の浜井さんにとっては今なにかと注目のビックボスの新庄がスーパースターでした。でも、野球以外はどちらかと言えば一人で遊んでいるのが好きでした。特に好きだったのがレゴブロックでいろいろなものを作ることです。中でもハリーポッターのお城をよく作っていました。将来は野球選手になろうなどとはちっとも思いませんでした。野球は好きだけど、社会人になったら草野球でもできればいいや、と思っていました。当時からご両親は安定している大企業の会社員か公務員になれと口酸っぱく言っていたので、なんとなくそうするものだと思っていたのです。その言葉通り、お兄さんと弟さんは大会社で働いているそうです。

中学校でも野球部に入った浜井さん。その頃流行っていたのがルーキーズです。そして浜井さんはキャッチャーで(とてもスリムなのでキャッチャーには見えませんが)キャプテンに。まじめで誠実な浜井さんを信頼して、監督はキャプテンに抜擢したのでしょう。
中学2年生の時、いろいろな職業の人が講師になって学校に来てくれる特別授業がありました。その時に来られたお一人が高岡で生花店を営むストロベリー・フィールズの川原さんでした。それまで花屋の仕事は女がするものだと思っていた浜井さん。「男でも花屋になれるんだ!そしてなんて楽しそうな仕事なんだ!」その講義は浜井さんの胸に深い印象を残します。ずっと大企業に入る道ばかり示されてきたけれど、いろんな選択肢があるんだなぁと初めて思いました。でも、その気持ちを誰かに言うことはありませんでした。人と変わったことが好きとか興味があるとかは当時は誰にも言えなったのです。

そして、浜井さんは両親に言われるまま高岡工芸高校の機械科に入りました。兄と弟は勉強が出来たので大学まで進学の道を示され、浜井さんは勉強はそんなにできなかったので、就職が安定している機械科に行って大手企業に就職するように言われたのでした。そして、それに対してあまり疑問も感じなかったのです。機械科は男ばかり40人。でも、とても楽しい高校生活でした。高校も野球部でこの時のポジションは外野でした。ストロベリー・フィールズの川原さんの息子さんが1つ上の先輩で、よくお父さんの話を聞いていました。それで頭の中では「いいなぁ、花屋」と思っていたのですが、それを表面には出しませんでした。
 
高校卒業後はご両親の希望通り、大手の会社に就職した浜井さん。機械のメンテナンスの仕事で平日は勤務、土日は社会人野球をしていました。4年経ったころ、会社は不景気になり、給料も安かったことから、給料がたくさんもらえる夜勤のある仕事をしたいと思って、転職します。ここでも機械のメンテナンスの仕事でしたが、3交代の仕事になったこともあり、野球からは離れました。

しかし、仕事をする中で、機械が好きで楽しそうに仕事をしている人を見るにつけ、自分はこのままずっとこの仕事をしていて後悔しないのか?と考えるようになったのです。自分はそこまで機械が好きなわけではない。この仕事をしていても心がときめかない。どうせなら好きなことを仕事にしたい。

そうして、ずっと心に秘めてきた「花屋になりたい」という想いに正直になろうと思ったのです。それまで野の花を見に行くことは好きでしたが、花についてちゃんと勉強したことはなかったので、素人でも働かせてくれる花屋を探しました。そして夜勤もあって給料もよかった機械のメンテナンスの仕事を辞め、その花屋に就職したのです。きっと許してもらえないと思って、ご両親には事後報告にしました。予想通りとても怒られましたが、浜井さんの決意は揺るがず、ストロベリー・フィールズの川原さんのことをご両親にプレゼンして、こんな風にお花屋で輝いている人もいるんだと熱い想いを語ったのでした。その花屋でお花の名前から花束の作り方までお花のイロハを教わり、1年半働いたのち、ブライダル関係の花屋に転職しました。路面店の花屋とちがってブライダルの花屋はきっちり金額通りで仕事を進めます。路面店の花屋、ブライダル専門の花屋、どちらの花屋の良さも体験した浜井さんは、自分独自の花屋を作ろう!と決意。花屋になろうと考えてからわずか2年あまりで独立しました。

20代で独立した花屋ということで、いろいろな所で注目してもらえました。JCや倫理法人会でも多くの先輩経営者から学ぶことがたくさんありました。店舗なしの花屋のいい所はロスフラワーが出ないということです。受注販売なので注文を受けてから市場に行くので鮮度のいいお花をお客様に届けることができます。独立してちょうど2年。今、浜井さんはお花に触れることがとにかく楽しいと考えています。現在のお客様は企業が7割ですが、これから特に力を入れていきたいのが、男性客です。まだまだ日本人の男性にはお花を送ることに壁を感じている人も多い。キザだとかかっこつけてるとか思われてお花を買うことを躊躇してしまう人も多い。外国のようにさりげなくお花を送れる文化を日本にも根付かせたい。男性の花に対する壁をなくしていきたい。コロナでワークショップも中断してしまっているけれど、男性に向けたお花のイベントをどんどんやっていきたいと考えている浜井さんです。もちろん、男性向けだけではなく、子どもたちに向けてのイベントも展開していこうと思っています。小学生の時は将来の夢はお花屋さんと書く子は多いのですが、それが中学校、高校と進むにしたがってどんどん少なくなっていきます。そして大学になると、ほぼゼロになってしまう。それは、花屋に安定性や将来性がないと考えている人が多いからに他なりません。でも、花屋が就職の選択肢から消えてしまうのはもったいない。お花屋さんのよさを伝えてイメージを変えていきたい。そう、浜井さん自身が中学の時にストロベリー・フィールズの川原さんの話を聞いてお花屋さんの概念が変わったように、今度は浜井さんが子どもたちにお花屋さんってかっこいいな、素敵だなと思ってもらいたいのです。

今は、華やかなお花をメインで作っていますが、将来的には自分のブランドを立ち上げて、そこではシンプルな花を前面に出していきたいと思っています。浜井さんが一番好きな花はマトリセリアというマーガレットに似た野の花のようなシンプルなお花です。そういう花が主役になる花束を作っていきたい、そして自分のブランドを立ち上げたい、そう思っています。
今は枯れないお花も流行っていますが、枯れるからこそ花の魅力がある。枯れることも含めてポジティブな思考に変えていきたいのです。

こうして毎日充実した日々を過ごしている浜井さん。基本土日は仕事が入ることが多く定休日も決まっていないので、今は生活の大部分を花が占めているといっても過言ではありません。ひょこんと空いた時間には読書をするのが好きです。お酒も得意ではないので、飲み会があったら1次会で帰るようにしています。本当に真面目で誠実を絵に描いたような素敵な青年です。

今28歳の浜井さん、30代の目標は自分のブランドを立ち上げること。富山は持ち家率が高いので、もっと花や観葉植物を取り込んだ住宅づくりを提案していきたいと思っています。そしてサブスクリプションで常にお花が家にある家庭を増やしたいのです。
40代になったら、異業種の仲間たちといろいろな事業展開をしていきたいと考えています。ちょっとまとまった時間を取って、パリを始めヨーロッパでも花を見てきたいし、オーストラリアや南アフリカのワイルドフラワーも見に行きたい、お花に関してやりたいことだらけな浜井さんは「これからいろんなチャレンジをしていきたいんです!」と真っすぐな瞳で話してくださいました。
今日の人216.黒崎陽子さん [2021年11月20日(Sat)]
 今日の人は、黒崎ファーム代表取締役・黒崎屋取締役・アシュタンガヨガとやま主宰の黒崎陽子さんです。
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陽子さんは1972年5月29日に富山県の入善町で生まれ育ちました。朝日町との境の山あいの地域で育ち、小さい時から野山を駆け回るのが好きで、子どもたちの間ではボス的存在の女の子でした。弟さんも2人いて、弟さんと取っ組み合いのケンカもしていたそうです。小学校は1学年1クラスだけで、陽子さんの学年は22人だけのクラス。それで6年間ずっと一緒なのでした。なんでもそつなくこなすタイプの陽子さんはいつも学級委員に指名されていましたし、勉強も常に学年トップでした。本が大好きで、特に好きだったのは推理小説です。お父さんは本を惜しみなく買い与えてくれました。でも、専業農家だった家はとても忙しく、いつも家のお手伝いをするのは当たり前の生活でした。祖母と両親と兄弟3人の6人家族だったのですが、祖母と両親は農家の仕事で忙しかったので、小学校4年の時から家族の夕食を作るのは陽子さんの仕事でした。新川きゅうりの生産量が富山でいちばん多い農家だったお父さん、毎日出荷の箱を何百箱も組み立てていたので、陽子さんも1分間に何箱作れるか競うように組み立てていて、大人より早く組み立てるので、すっかり頼りにされていたのでした。日曜も仕事なので、どこかに遠くに遊びに連れていってもらった記憶はありません。ただ、山菜採りにだけはよく連れていってもらいました。親に負担をかけてはいけないと思って、習い事をしたいと思っても気を遣って言えませんでした。そういうわけで、習い事をしたことも一度もなかったのです。小さい頃はひたすら「いい子」で育っていました。

 中学校に入ると、クラスは2クラスに増えましたが、それでも30人のクラスが学年に2クラスだけの小さな中学校で、部活はバスケ部と、バレー部と、卓球部しかありませんでした。しかも、そのどれかに強制入部しなければならなかったので、バスケ部に入りました。運動は得意だったし、相変わらず本はたくさん読んでいたので、勉強も得意でした。その当時からスクールカーストはありましたが、陽子さんはどこにも属さずにいました。1人でいるのが全然気にならなかったし、どこか大人びていて、世の中をいつも斜に構えて見ているところがありました。幼馴染に出版社(株)シー・エー・ピーの社長さんがいるのですが、その頃の陽子さんはまるで宇宙人みたいだったと言われるくらい、不思議な雰囲気の中学生だったようです。特になりたいものもなく、仲良しだった先輩に、「桜井高校は楽しいからおいでよ」と言われ、深く考えずに桜井高校に進学します。先生からはどこの高校にでも行けると言われていたのですが、入善の田舎で育った陽子さんは、富山の街中の富山中部高校に行こうなどとはこれっぽっちも考えていなかったのでした。
 桜井高校は1学年9クラスありました。最初は知らない子ばかりでドキドキでした。唯一同じ中学から行った子が一緒にテニス部のマネージャーをしようと言ってきて、1年生の時はテニス部のマネージャーをしていました。食物部にも所属しましたが、こちらは毎週水曜だけの気楽な部で、しかも好きなものを作って食べられるので、陽子さんは部長になって部長特権で好きなメニューを作っていました。

 陽子さんは、途中から高校をしょっちゅうサボるようになりました。国語は授業に出なくてもわかるから行かなくてもいいと思って、出ないことも多くありました。子どもの時からどこか大人びていて神秘めいた雰囲気のあった陽子さんは、男の先生にひいきされることがよくありました。その裏返しでやけに邪見にされることもありました。しかし、そんなことはどこ吹く風の陽子さんは、中退した子や年上の人とつるんで遊ぶのがとても楽しかったのです。どこか刹那的で、金沢に住む3歳年上の彼氏の部屋にしょっちゅう遊びに行って家に帰らなかったりしたので、この子はなにかに取り憑かれたに違いないとお母さんは本気で心配していました。それでも、当の本人は好きな人の所へ行って何が悪いの?と全く意に介しませんでした。思えば、小学生の時からずっと家の手伝いをして「いい子」をしてきたので、その反動が高校時代に来てしまったのかもしれません。将来のことなど、何も考えてはいませんでしたが、とりあえず大学に行くことに。体が弱い子だと思ってくれる先生もいて、高校の単位はちゃんと取れて卒業し、富山大学の人文学部へ入学しました。もちろん、入善の実家からは通えないので、五福での一人暮らしが始まりました。

 大学も何で卒業できたのかとみんなに言われるほど、授業にはほとんど行かず、サークル活動とアルバイトばかりしていました。サークルはテニスやゴルフやコンパが中心のサークルでした。バイトもいくつも掛け持ちしていたので、当時で月収が20万を超えるほどでした。魚屋でのバイト、当時CICの地下にあったレストランのエスコート係。最初は店内で働いていたのですが、容姿のいい陽子さんは表で超ミニスカートをはいてやるエスコート係をやるように言われたのです。桜木町のスナックでもバイトしていましたし、イベントコンパニオンもやりましたし、スポーツクラブの受付でもバイトしていました。スポーツクラブでは、同じ年の子たちが専門学校を卒業してインストラクターとして働いているのを見て、学生気分真っ盛りだった陽子さんは刺激を受け、自分もやってみたいとインストラクターの養成コースを受けました。こうして、エアロビクスのインストラクターの資格を取り、卒業と同時にコースを持たせてもらうようになりました。でも、実はこれは副業で、正式に就職したのは北信産業というタイヤを扱う会社でした。こちらはイベントコンパニオンの会社の社長に紹介してもらって入社した会社でしたが、怖いもの知らずの大酒飲みだった陽子さんのことを当時の社長は大いに気に入ってくれて、どこにでも飲みに連れまわしてくれました。こうして会社員とインストラクターという2足のわらじ生活を3年続け、インストラクターだけでもやっていける自信のついた陽子さんは会社を退社し、フリーのインストラクターになったのです。あちこちのスポーツクラブを移動しながら週に20本ものクラスをこなしながら、筋トレしたりジョギングしたり自分の体づくりにも余念がありませんでした。エアロビクス、アクアビクス、ヒップホップダンスのクラスをこなしていましたが、2000年代初頭になって東京でヨガブームが起きました。富山ではまだヨガは流行っていませんでしたが、東京でヨガのインストラクターの養成講座を受けてヨガも教えられるようになりました。結婚するつもりも特にはありませんでしたが、ヨガなら一生続けられそうだと感じ、当時まだあった急行能登に乗って週に2〜3回東京に通っていたのです。「ヨガで富山のパイオニアになりたい、いちばんになりたい、自分のヨガスタジオを作りたい」そう言うと100年早いとエアロビの先輩には言われました。
でも、ヨガの仕事はどんどん増えて、アルペンスタジアムのスタジオを借りると50〜60人は来て、月に40〜50万は軽く稼げるようになりました。その頃、陽子さんがインストラクターをしているスポーツクラブに通うようになっていたのがご主人です。子犬みたいにかわいくて人懐っこい5歳年下の彼は、1年くらい「付き合ってくれ」とずっと言い続けていました。そうして、付き合い始めると、アパートに毎日来るようになった彼。「子どもは何人くらい欲しい?」と聞かれ、「2人くらい」と答えると、「じゃあ結婚せんなんね」と言われたのです。それまで全然結婚しようと思っていなかった陽子さんでしたが、そう言われてふと考えると、33歳になる歳だし、子どもを産むならそろそろだなぁと妙に腑に落ちたのです。結婚式場を調べると、ちょうど陽子さんの誕生日の5月29日が空いていました。そしてつきあってなんと1週間で電撃入籍することになった陽子さん。こうして2005年5月29日に環水公園で通りがかりの人も誰でも参加できる素敵な結婚式を挙げたのです。

 ご主人の仕事は魚屋で、当時小さなスーパーにテナントとして入っていました。偶然にも陽子さんが大学の時にバイトしていた魚屋と同じ系列のスーパーでした。魚屋でバイトしていたこともあるし、仕事を手伝おうかと言ったのですが、「せっかく手に職を持っているのだから、自分のしたいことをしたらいい」と言われその時は魚屋を手伝うことはしませんでした。
 2006年に長男が生まれた後もすぐにインストラクターに復帰しようと思いましたが、陽子さんには子どもを見てくれる人がいませんでした。それなら託児所付きのヨガスタジオを作ってしまおうと、託児所付きのクラスを開設。産後にヨガに始めたい人が多かったので、大盛況でした。その後、ホットヨガのイントラの養成コースにも通い始めます。こうしてホットヨガのノウハウを取得した陽子さんは北陸初のホットヨガスタジオ・ユニオンを開いたのでした。こちらもあっと言う間に大盛況になります。しかし、その頃、陽子さんは視界がおかしく感じていました。なんでも2つに見える複視の状態になっていたのです。緊急に調べたところ、重症筋無力症であることがわかりました。CTを撮ると腫瘍が見つかりましたが、幸い良性で内視鏡手術で済みました。しかし、その時2人目の授乳中だったので、とにかく痛くて大変でした。手術の前までは、レッスンの半分は陽子さんが担当していましたが、さすがに手術後すぐの復帰は無理でした。陽子さんが担当していたクラスを他のインストラクターに担当してもらったので、人件費が大変なことになりました。なにしろ、ヨガのインストラクターの地位向上のために、陽子さんはインストラクターに支払うペイをうんと上げていたのです。今の状態で自分がたくさんレッスンのを受け持つことはできないと、ヨガスタジオユニオンをセンティアという会社に移譲したのでした。
 でも、大きいものを手放すと他のものがちゃんと入ってくるのです。陽子さんはフリーのヨガインストラクターとして自身をブランド化しました。お産の学校でマタニティヨガの講師としてかかわったり、アシュタンガヨガの講師をしたり、3人目が生まれるまではインスタラクターを続けたのです。

 その頃、ご主人の仕事も大きな転機を迎えていました。スーパーから独立し、黒崎屋をオープンさせました。そして、魚屋単体としてより、同じ方向を向いてくれる人とタッグを組みたいと肉屋としてメッツゲライイケダさんにもお店に入ってもらいました。しかし、同じ方向を向いてくれる八百屋がいませんでした。そこで、陽子さんに白羽の矢が立ったのです。専業農家の娘として生まれたことが、ここでつながった!その人生の巡り合わせがなんだかとても不思議でした。

 黒崎屋は毎日のように富山のトップシェフが集うお店です。時々聞いたことのない野菜を要求されることもあります。しかし、農家さんはリスクのある野菜を作りたがりません。そこで、陽子さん自らが黒崎ファームを立ち上げて、シェフの要望に応えた野菜を率先して作るようになりました。例えばトロトロしたフィレンツェ茄子は料理人の間で取り合いになるほどでした。こうした成功例を見て、今では8軒の農家がその茄子を作るようになりました。リスキーなものは自分で作って、これからも富山で野菜のムーブメントを起こしていきたいと考えています。そして、農家を子どもの憧れる職業にしていきたいのです。幼い時から農家の大変さをつぶさに見てきたからこそ、農家が稼げるような富山にしていきたい。農家の人にベンツを乗り回すようなそんな生活をしてほしい。農家は儲かる、そんなモデルを富山でたくさん作っていきたい、そう陽子さんは考えています。
 アシュタンガヨガのクラスも黒崎屋の2階のスタジオで日曜日に開催中です。黒崎屋の休みは日曜だけですから、陽子さんに休みは全くありません。でも、それが全然苦にならないパワフルさの持ち主です。強い女性だなぁと思って聞いていましたが、最後にマスクをとられた時の笑顔はとびきりチャーミングなのでした。

 3人の子どものお母さんとして、ヨガのインストラクターとして、黒崎ファームの社長、黒崎屋の取締役として、八面六臂のご活躍ですが、それに飽き足らずきっとこれからもどんどん新しい何かを起こしていかれることを予見させてくれる、そんなエネルギーに満ちた女性でした。
今日の人215.高嶋郁さん [2021年11月07日(Sun)]
 今日の人はライフガード北陸支社長で、富山県防犯スーパーバイザー、そして富山にたった3人しかいない総合防犯設備士でもある高嶋 郁(たかしま かおる)さんです。
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 高嶋さんは1968年2月20日に魚津で生まれました。徳島生まれで大阪に仕事に出てきていたお父さんが、遊びに来ていた宇奈月温泉スキー場でお母さんをナンパして、2人のお付き合いが始まり結婚、そして郁さんが生まれたのでした。
 保育園の年中までは大阪で育った郁さん。2歳年下の弟さんと一緒によく道路で遊んでいたのを覚えています。その後、大阪から魚津に引っ越し。小学校2年生までは魚津にいて、その後、富山の街中の柳町小学校校区に転校しました。転校して言葉の違いでいじめられることもあった郁さん、そういうこともあってか小さい頃はとても人見知りでした。近所の人にあいさつするのが嫌で、遠回りして帰っていたほどです。でも、小学校の3年生で仲良くなった子もいて、その子の影響で当時流行っていた少女漫画雑誌「リボン」を読んだりもしていました。(ちなみに私は小学生の時は「なかよし」中学生からは「花とゆめ」でしたw)郁さんは小さい時からお絵描きが大好きでした。でも、家の中にはほとんどおらず、外で男子と野球をしたり、陣地取りをして遊んでいることが多かったのです。人見知りではあったけれど、慣れると大丈夫でした。でも、女の子同士で盛り上がるというのは性に合わず、男子と外遊びをしている方が楽しく遊ぶことができました。

 建築板金の職人だったお父さんは会合やソフトボールで家にいる時間はあまりありませんでしたが、たまにいるときは一緒にドリフターズを見たりして盛り上がっていました。弟さんが2人いる郁さん、上の弟さんとは歳が近いこともあってよくケンカもしていましたが、弟さんが買っていたジャンプやコロコロコミックなどもよく読んでいました。
 特になりたいものもなかったけれど、小学校の卒業文集にはなんとなく「デパートの店員」と書きました。イラストレーターもいいなぁとふわっとは思っていましたが、描きたい時に描くのが好きなので、強要されて描くのはなんか違うなと思っていました。

 中学校では美術部に所属。クラブでソフトボールもしていましたが、中学校時代はオタク仲間とアニメや不思議系の話をよくしていました。アニメはガンダムや、999、ハーロック、不思議系はムー、郁さんは同年代なので、話がとってもよくわかる私ですw。
 本も好きで図書館には毎週のように通っていました。富山の中心商店街の総曲輪通りや中央通りの本屋にも入り浸っていました。特にノンフィクションが好きで、中でも病気の子が苦難に立ち向かっていくような話が好きでした。その頃出会った「飛鳥へ そしてまだ見ぬ子へ」は人生の中の一冊と言ってもよく今でも大切に手元に置いてある一冊です。

 高校では美術部とイラスト部を掛け持ちしていました。今も郁さんがイラストで使っているどんぐりちゃんはこの頃の落書きから生まれたキャラクターです。洋楽にもはまり、デュラン・デュランやジャパンが大好きでよくフィルムコンサートを見に行っていました。

 高校は女子高だったので、女子ばかりの中、周りがみんな幼く見えて、一人でいる方が楽だなぁと感じていました。1年生の頃は「私なんかいなくてもこの世はまわる」と感じてなんだか人生への失望感が強い頃でした。2年生になって仲のいい友達が出来てからはその失望感は薄れましたが、特に夢はなかったし、人と関わる仕事はしたくないと思っていました。人と関わるのが苦手で、でもニコニコしていて人当たりはよかったので、自分の中で無理をしている部分はかなりありました。

 でも、郁さんは就職組でした。卒業後の就職先を探していた時に長崎屋で募集がありました。人と関わる仕事はしたくなったけれど自分を変えられるかもしれないとの淡い想いもありました。こうして、接客業をすることになった郁さん。期せずして小学校の時に卒業文集に書いた「デパートの店員」になることになったのです。時はバブル。歓迎会は富山駅前のディスコで派手に行われました。この職場で郁さんは人に恵まれました。先輩によく遊びにも連れて行ってもらいました。こうして、徐々に人見知りな部分は消えていきました。思えば、中高生の時は自意識過剰で、常に誰かに見られているような気がしてびくびくしていました。でも、実際は誰も見ていない、気にすることがないんだ、と急に吹っ切れたのですが、それは長崎屋での経験が大きかったのです。

 この当時、ねるとんパーティが流行っていました。衣料品関係の組合の若い人たち向けのキャンプでねるとんが行われた時のこと。当時魚津のサンプラザで働いていた青年がねるとんでいちばん最初に告白する番でした。その人は郁さんの前に来て、「お願いします!」と手を差し出したのです。『いちばん最初に断ったら、場の空気がまずくなって、後の人もみんな断っちゃうかもしれない…』そう思った郁さんは空気を読んで申し出をOKしたのです。実際にデートに行くと、彼はとても優しい人でした。この人ならいいかなと思った郁さんは25歳の時に結婚。生まれて初めて黒部に住むことになりました。婦人会の当番が回ってきた時にJA女性部担当になり、女性議会に出たらと言われ、第5回黒部市女性議会に出ることになりました。これが縁で今も女性議会に関わっています。

 平成6年に息子さん、平成9年には娘さんも生まれ、子育てしながら魚津でパートをしていましたが、大工をしていた弟さんの影響もあり、建設の仕事は楽しそうだなぁと思うようになりました。なにしろ、お父さんも弟さんも職人という職人一家だったので、郁さんの中にも何かを作り出したい気持ちが常にあったのかもしれません。ちょうどその頃、氷見の村江工業さんに手書き風のチラシを書いてあげていたことで繋がりが出来ます。村江工業はライフガードのフィルム事業を広げようとしていました。それで東京からフィルムの先生を呼んで講習会を開いたのです。そこに郁さんは参加したのでした。2004年1月、その頃はまだ建築業界は男の世界でした。「なにしに来たんだ、この女?」という感じであからさまに邪見にする人もかなりいました。しかし、それで逆にやってやろうじゃない!と反骨精神に火がつきました。研修を受けて、しばらくは魚津のパートの仕事と掛け持ちで建築ガラスフィルムの施工技術を磨いていきました。そうして、ライフガード北陸に正式に入社。最初は氷見の仕事が多かったこともあり、黒部からの通勤で富山を横断するような毎日でしたが、子育てとの両立が大変だと思ったことはありません。その頃はじいちゃん、ばあちゃん、おおばあちゃんとも同居していて、保育園には毎朝旦那さんが送っていってくれ、帰りはばあちゃんが迎えに行ってくれていたので、郁さん一人に負担がかかる環境ではなかったのです。3世代で子育てに携われたのは、子どもたちにとってもとても幸せなことだったと思っています。よく同居で大変じゃない?と聞かれることもありますが、郁さんは自分で自分を押さえつけることはやめました。「理由なき固定観念は幸福への追求を妨げている」という言葉が好きで、『嫁だから〜しなければならない』という考えはやめて、自分の中で、なぜ〜してはいけないのか、それは固定観念ではないのか、自分はどうしたら幸せなのか、後悔しないのか、を考えて行動するようにしたのです。ですから、ストレスを貯め込むことはなくなりました。これは自分の中にいろいろ貯め込んでしまう人にはぜひお薦めしたいやり方ですよね。
こうして、仕事でもどんどん成果を上げていった郁さん。同時に富山が防犯意識が低く、鍵をかけない家や企業が多く被害に遭っている現状を知り、防犯フィルムだけでなく防犯についてトータルに提案できるように防犯設備士や防犯スーパーバイザー、総合防犯設備士の資格も取りました。そして、自分の身を自分で守る方法を知っていただきたいという思いで積極的に講演やセミナー、防犯相談などの活動を展開しています。講演研修内容も夏休みを前に家族で考える防犯対策法、泥棒の手口と効果的な対策法、目指せ防犯住宅など多岐に及びますし、企業の勉強会や町内の会合、PTAの研修など、とても柔軟に対応してくれます。富山県に申請すれば、無料で郁さんの防犯講座を開くこともできるので、皆さんぜひ一度問い合わせてみてください。
 
そんな忙しい郁さんにまたひとつの大きな出会いがありました。それは「よさこい」との出会いです。姪っ子が始めたよさこいを見て、まずは娘さんがやりたいと言い始めました。「ママも一緒にしよう!」とチームのメンバーに言われ、当時の黒部のチームの代表が知り合いだったこともあり、よさこいチーム「くろべRey乱舞隊」に入ることにしたのです。こうして2007年の夏から娘さんと一緒によさこいを始めました。基本的には週2回の2時間の練習ですが、大会が近づくと毎日のように練習があります。体を動かしてみんなで一つのものを作り上げていく爽快感に郁さんはハマりました。2代目の代表はカリスマ性があり、ぐいぐい引っ張ってくれる人だったのですが、郁さんたちがチームに入って8年ほどたった時に、その代表がチームを辞めることになりました。その時、郁さんもチームを辞めようかと思ったのですが、このチームがなくなってしまうのはもったいない、と思い悩みます。そうしてメンバーと話し合った結果、2016年から郁さんがチームの代表を務めることになったのです。(この時にチーム名を「Rey華繚乱」に改名)代表を務めて5年、伝える難しさもたくさん味わいました。でも、メンバー一人一人の顔を思い浮かべて一人一人にありがとうを言うようにしました。24、5人だったメンバーは今や40人ほどの大所帯。コロナの前の2016、2017年のシーズンは仕事よりよさこい中心の毎日でした。みんなのいい所を引き出そうと必死でした。話さないと誤解が生まれるし常に姿勢を示さなくてはいけない。曲も自前で用意するので、1年がかりで曲を作って仕上げる。そんなしんどさを娘さんはわかってくれていました。一緒に同じよさこいチームで過ごしていることで、娘さんとの絆はうんと深まりました。コロナ禍でこの2年間はあまり活動できていませんが、またみんなで思い切り踊れる日のために郁さんはがんばっています。

 仕事やよさこいチームでの経験を通じて、郁さんは何でもやればできる!やれないことはない!と超ポジティブになりました。やれるからあたわる。引っ込み思案で人見知りだった少女はいつの間にか積極的に人の中心に立つ存在になったのです。でも、何かを人に頼むことは今も苦手な郁さんです。だから、ついつい自分で何でも抱えこんでしまいがちになるのでした。でも、教える時も心配して何でも教え込んでしまうとその人が自分で考える力を削いでしまいます。失敗させる勇気も必要なんだ、そう思って最近は手取り足取り教えたくなるのをぐっと堪えているのでした。

 そんな忙しい郁さんがホッとできるのは猫とたわむれる時間です。郁さんは家に一匹、事務所にも1匹猫を飼っています。事務所の猫は保護猫です。引かれてぺったんこになったへびを食べようとしていたやせ細った子猫を郁さんが見つけたのでした。このままでは死んでしまう。そう思ってそのネコにエサやりに通い、捕獲機を置くまでに7日、捕獲機を置いてから19日たって、ようやく捕獲機に入ってくれたのでした。その後、動物病院に通い、ちゃんと慣れてくれるまでと思って事務所で飼っていますが、いまだに触らせてくれません。事務所で飼い始めて2か月。あと1か月ほどたったらお家に連れて帰って、2匹一緒に飼いたいなぁと思っていますが、果たしてどうなることやら。そんな郁さんの猫ちゃんとの日々はYouTubeにもアップされていますので、ぜひ、ご覧ください。
猫ねこ親バカ日記https://www.youtube.com/channel/UCVEVrZ-feBF9iMm28l_4pDA
どんぐりちゃんネルhttps://www.youtube.com/channel/UC1lZnTqkSUDs-wzzMHTv3LA
ご覧いただくとお分かりになるように、郁さんは他にも食レポ等もいろいろアップしているので、ぜひ皆さん登録してくださいね。

 温泉やドライブに行くのも大好きです。福井くらいなら近所という感覚。へっちゃらでどこまででも走る郁さん。最近登山も始めました。なんだかハマりそうな予感がしています。

 でも、やっぱりなんといっても現場が好き。現場で仕事をしていると落ち着くという根っからの女職人なのでした。建築の世界では女が見下されていた時代も確かにあったけれど、今は女性の細やかさが逆に武器になると思っています。痒いところに手が届く、そんな職人魂をこれからも発揮していくことでしょう。

 何もしない日に罪悪感を感じようにしたいと郁さん。いつも走り続けているので、たまにはゆっくりのんびりしてください。温泉でのんびりする時はぜひご一緒しましょう。
今日の人214.小路晃さん [2021年10月30日(Sat)]
 今日の人はかつて「ミスターPRIDE」と呼ばれ一世を風靡した総合格闘家で、今は富山でラーメン「とんこつえびすこ」「ガッツリ!えびすこ」を経営する株式会社A-style代表取締役の小路晃さんです。
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小路さんは昭和49年1月31日、魚津で生まれました。
3人兄弟の末っ子だった小路さん、小さい時はウルトラマンや仮面ライダーが好きで、よくウルトラマンごっこをして遊んでいました。末っ子で甘えん坊だった小路さんですが、小学校1年生の時に、テレビのプロレス中継でタイガーマスクを見て、体の中に稲妻のような強烈な電流が走りました。その日から、ウルトラマンごっこはプロレスごっこに変わりました。漁師だったお父さんは家でテレビを観戦する時はもっぱら相撲かプロレスでした。そんなわけで、小路さんもいつもプロレスを見て、そのかっこよさにしびれていました。将来は絶対にプロレスラーになるとその時から決めていたのです。
スポーツ少年団に入って柔道も始めました。プロレスラーになるという確固たる目標があったので、その頃から自主トレーニングもやっていました。プロレス好きだったお父さんと一緒にトレーニングもやりました。でも、もちろんトレーニングだけしていたわけではありません。海が近い魚津ですから、友だちとよく釣りにも行きました。灯台近くでキスやカレイ、ヒラメを釣っていました。朝早く起きてお父さんの船に乗せてもらうこともありました。お父さんは富山を代表するブリやホタルイカ漁をして、漁が終わると朝からでも飲んでいる昔ながらの漁師さんでした。

中学に入ると柔道部に入りました。その頃になると食事にも気を遣うようになって、タンパク質を多く取り、腕立てやスクワットなどのトレーニングも欠かさずやっていました。もちろんプロレスラーになるという夢は変わりませんでした。中学を卒業したらすぐに新日本プロレスの入門テストを受けようと思っていましたが、周囲から高校だけは出ておいた方がいいと強く言われ、中卒でのプロレス界行きはあきらめます。
そうして柔道部でキャプテンも務めていた小路さんはスポーツ推薦で富山第一高校へ。一高の柔道部は強く、県下で1,2を争っていました。その頃はまだまだスパルタ式の部活の時代。365日ほぼ休みなしですし、もちろん部活中に水は飲めません。殴られない日はないくらい厳しい練習でした。そんな厳しい練習をしながらも、プロレスラーになるために家でも2時間くらい自主トレを続けていたのです。柔道一直線ならぬプロレス一直線で、富山にプロレス興行があった時は必ず見に行っていました。大好きだったレスラーは、タイガーマスク、アントニオ猪木、藤波辰爾でした。

高校卒業後にプロレスの道に入ることももちろん考えましたが、スポーツ推薦で中京大学の体育学部へ。体育会の柔道部ですから、練習は厳しかったのですが、アルバイトをしたり、合コンに参加するなど、大学生らしいこともさまざま経験した学生時代でした。全日本学生選手権でも戦績を残し、柔道部を引退したあと、スカウトされて覆面レスラーとしてプロレスのリングに上がっていました。しかし、大学を卒業後に本格的にプロレスの道に進もうと上京しようとした時、両親の猛反対に合います。お父さんから「プロレスを本気でやりたいなら、この家を出ていけ!勘当だ」とまで言われました。それでも、小路さんはこの夢だけはあきらめるわけにはいきませんでした。そうして置き手紙を残して家を出たのです。「人生が2度あるなら、1度はお父さんとお母さんの言う通りにするけれど、人生は1度しかない。だったら、僕の道を歩かせてください」と書いて。

上京後は築地で住み込みのバイトをしながら、トレーニングに明け暮れていました。朝3時から昼までは仕事、その後は練習という生活を続けました。睡眠時間は毎日3〜4時間しかありませんでしたが夢があるのでへっちゃらでした。そして、上京して半年後の10月に格闘技の聖地後楽園ホールのメインイベントでデビュー戦を飾ることになったのです。前座ではなく、いきなりメインイベントで聖地でデビューできるのは稀有なことでした。そういうこともあって、小路さんはシンデレラボーイと呼ばれました。
ちょうどその頃、総合格闘技に人気が出てきていました。プロレスより更に総合格闘技に魅力を感じた小路さんは、プロレスラーから総合格闘家に転向し、翌年総合格闘家として東京ドームでデビュー戦を飾ります。それがPRIDE.1で、PRIDEの記念すべき第一回大会だったのでした。小路さんは最初の大会PRIDE.1と最後の大会PRIDE.34にも出場したこともあって、「ミスターPRIDE」と言われたスター選手でした。時の人、高田信彦と肩を並べて同じリングで戦えるなんて夢のようでしたし、格闘技の情報バラエティにも毎週出ていて、MCの藤原紀香に寝技をかけるシーン等もありました。ウッチャンナンチャンと一緒にチューハイのCMに出たり、奥田英二監督の「少女」という映画では準主役を務めるなど、まさに八面六臂の活躍ぶりでした。選手時代の小路さんのことはたくさん出ているので、ぜひ皆さん、ググってみてください。
小路さんは身長172pで、格闘家の中では小柄です。それが大きな外国人に臆することなく立ち向かっていくので、よく「あんな外国人怖くないの?」と聞かれました。ケガもしょっちゅうでしたが、それでやめようと思ったことはありませんでした。両親の反対を押し切って退路を断って出てきたので、やるしかない、と思っていたのです。多分、両親の反対がなかったら、甘えが出てそこまで自分を追い込むことはできなかったに違いありません。ですから厳しく接してくれた両親には心から感謝しています。

上京して15年、ひたすら走り抜けた選手生活でしたが、前日の疲れを残したままの練習や試合が続くようになりました。そして、自分が万全の戦う準備をして試合できなくなってしまった今、リングに上がるのはお客さんに対して失礼だと思うようになりました。後進に道を譲ろう、そう考えた小路さんは引退を決意。やり切ったから悔いはありませんでした。引退試合をできずに辞めていく選手が多い中、PRIDEの最後の大会PRIDE.34で引退試合をして引退した小路晃は、まさに「ミスターPRIDE」そのものでした。

そうして37歳で故郷富山に戻ってきました。第2の人生に選んだのは、全く畑違いのラーメン屋。なんでラーメンなのかというと、小路さんはとにかくラーメンが大好きだったのです。よく試合後の自分へのご褒美に東池袋のラーメン屋のつけ麺を食べていた小路さん。そんなおいしいつけ麺は当時富山にありませんでした。いつか富山のみんなにとびきりおいしいつけ麺を食べさせたい、おいしいラーメンで故郷のみんなに恩返ししたい、そう思って「つけ麺えびすこ」を開店することにしたのです。飲食の世界は右も左もわからなかったけれど、だからこそ飛び込めたというのはありました。とにかく、やろう!と思うと一直線の漢、それが小路晃なのです。2011年4月に総合格闘家を引退し、東京のラーメン屋で修業を積んだ後、同年10月に南富山で「つけ麺えびすこ」1号店をオープンさせました。
やると決めるととことんやる小路さんは、寝ずにスープを炊いたり、麺を作ったり、とにかくひたすらラーメンに向き合いました。ラーメンで世界を狙うという思いでした。こうして開店2年目には富山ラーメンフェスタで優勝し、東京ラーメンショーにも進出するなど、ロケットスタートを切りました。

 第2の人生のラーメン屋を始めてから今年でちょうど10年。今、つけ麺えびすこ、とんこつえびすこ、ガッツリ!えびすこ、そして県庁内にも新たな店舗をオープンした小路さんですが、もちろんこの10年全てが順調だったわけではありません。特に大変だったのは雇用の難しさです。最初は道場と同じ感覚で、ひたすらスパルタで教え込もうとしていました。スパルタが善だと思っていたのです。でも、そのやり方でやると、人が育ちませんでした。やめていく人が後を絶たず、なぜだろう、小路さんは自問自答します。そして経営や能力開発の勉強会にも積極的に通うようになりました。そこで小路さんは気づくのです。理念もビジョンも何もないまま、とにかく自分の熱い想いだけで突っ走ってきた。でも、それではダメなのだと。
 4年目くらいからスパルタではなく、相手を尊重しながら話を聞く姿勢に変えました。昔の自分だったらすぐにぶっ飛ばしていたであろうことも、じっくり話を聞いて話す姿勢に変えたのです。すると徐々に従業員も定着するようになり、会社の雰囲気も変わってきました。
 今、小路さんの会社株式会社A-STYLEには確固とした理念があります。
「一杯のラーメンを通じてお客様に生きる希望と勇気を提供すること」
「一杯のラーメンを通じて社員の物心両面の幸福を追求すること」
「一杯のラーメンを通じて社会の発展と幸福の実現に寄与すること」
ここに向かって邁進しているので、気持ちがぶれることはうんと少なくなりました。

食を通じて「和を以て貴しとなす」を実現すること、それが小路さんの夢です。ラーメンを通じてみんなを元気にしたい。免疫力を高めてもらいたい。学生にはガッツリお腹いっぱい食べてもらいたい。自分自身も学生時代にライスを腹いっぱい食べさせてもらっていたから、恩送りをしたい、そんな思いでライスは50円で食べ放題にしています。富山大学近くのとんこつえびすこでは、今日もお腹を空かせた大学生がご飯を山盛りにして美味しそうにラーメンを食べています。そんな光景を見るのが小路さんはとても好きです。

 いつもそうやって忙しく過ごしている小路さんが心安らいで楽しめる時間は、小学校3年生の娘さんと一緒に過ごす時間。ゲームをしたり、時には人形ごっこをしたり、リングの上で勇ましく戦っていた小路さんからはとても想像できない姿ですが、娘さんと一緒の時間を過ごすことで新たな活力が湧いてくるのでした。
 ホッとできるのはサウナで汗を流す時。サウナで汗を流し、水風呂に入ると、シャキッとして心身が整えられるのです。

 そして、小路さんには、これからやっていきたいこともあります。それは女子選手を育てて世界チャンピオンにすることです。【本当に生まれ変わりたい!人生かけて挑戦したい!】と思っている人なら経験がなくても構いません。プロレスをやってみたい!世界チャンピオンになりたい!と思っている人は、一度小路さんを訪ねてみてはいかがでしょう。小路さんが0からみっちり育ててくれますよ。迷いがあっても大丈夫。「僕が心に火をつけます!」とスパッと言い切られました。

 スポーツ業界に恩返しをしたい、という思いも強いので、アスリートのセカンドキャリアの応援もしていきたいと思っています。自身も何もわからないまま飲食の世界に飛びこんだので、この10年苦労もとても多かったけれど、自分の経験がきっと後進の役に立つと信じているからです。

 そしてなんと小路さん、近々ユーチューバーとしてもデビュー予定だそうです。どんなYouTubeチャンネルになるのか、楽しみですね。

 総合格闘家、ラーメン屋、人材育成、ユーチューバー…、これから小路さんはどんな顔を見せていってくれるでしょう。これからの小路さんの活躍からも目が離せない、そんなことを強く感じた今回のインタビューでした。
 
今日の人213.布村義成さん [2021年09月14日(Tue)]
 今日の人は、成和造園【 Slow life garden-NARUWA 】 代表、庭猿 【 Garden Monkey 】 初代、TREE MIND 【tree climbing club】 キャプテンの布村義成さんです。海猿ならぬ庭猿としても最近有名で、ツリークライミングや石積でも活躍している今とってもホットな庭師さんなのです。
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 布村さんは昭和54年2月13日、バレンタインデーの1日前に生まれました。
 小さい頃は川でカメをとったり、原っぱで虫を取ったり、秘密基地を作ったり、とにかく外で遊ぶのが大好きでした。勉強は嫌いで宿題もしませんでしたが、運動と美術は小さい時から大好きでした。家は兼業農家だったので、休みの日に農作業の手伝いをさせられるのは当たり前でした。文句を言いながらもちゃんと手伝っていた義成少年です。
 小学生の時はヘリコプターの操縦士に憧れていました。世界を上から見られるのはいいなぁと思っていたからです。今、ツリークライミングで高い木の上から街を一望している布村さんですが、高い所好きはもうこの頃から始まっていたのですね。

 中学生になるとバレー部に入り副キャプテンでした。中高校生の頃はよく家の窓から外に脱出して遊んでいました。トラック野郎がかっこいいなぁと思っていたのもこの頃です。
 高校ではラグビー部に入り、全国大会で花園まで行きました。ポジションは花形のフルバック!(五郎丸と一緒ですね)ただ、足首、鎖骨、肋骨…合わせて10か所以上は骨折して常に満身創痍といった感じでした。部活中にまだ水も飲めない時代で、練習は本当にきつかった。ただ、よかったなと思うのは、栄養はしっかり自然物から摂れと言われ、安易にプロテイン等に頼らなかったことです。そしてラガーマンらしく、この頃からシャツは襟を立てて着るようになった布村さんなのでした。

 高校の土木科を卒業した後は、専門学校で測量について学びました。自分の欲しいものはちゃんと自分で買うのが当たり前と思っていたので、とび職のバイトをしたり、スポーツ用品店や焼き鳥屋、いろいろなアルバイトをしました。そうして稼いだお金は車に使って、夜は車で走るのが日課のようになっていました。カークラブを発足させて数人で走っていたこともあります。何かをするというよりは、皆と集まるのが好きだったのです。
 
 専門学校を卒業後は建設会社に就職し、利賀ダムや飛騨トンネルの施工にも携わりました。そして、20歳の時に結婚。お相手は小学校時代からの同級生でした。

 建設会社の現場で5年くらい働きましたが、会社が傾きつつあったこともあり、友人が経営するスクラップ運送業に転職します。ここで、子どもの時になりたかったトラック野郎も経験しました。大型トラックに乗っていましたが、この仕事は年を取ってからは無理だなぁと感じたのもこの頃です。その頃、祖父の家に庭師が来て庭の手入れをしているのを見て、これなら俺でもできるんじゃないか、そう安易に思った布村さん。なにか手に職をつけたいと考えていたのと相まって、1年足らずで運送業を辞めて、造園屋に弟子入りしたのです。

 布村さんが弟子入りした造園屋は富山県で一番古く、厳しいけれど技術は超一流の親方がいるところでした。最初は昔ながらのトイレ掃除からのスタートで、すぐ音を上げる人も多い中、ラグビー部の理不尽とも思えるきつい練習で鍛えられていた布村さんは不平不満を抱かずひたすらコツコツとやり続けました。1〜2年経って、ようやく少しずつハサミを持たせてもらえるようになり、3年後くらいに木に触らせてもらえるようになりました。豪快な親方で遊ぶときはとことん遊ぶという人だったので、仕事も遊びも全部教えてもらった20代でした。子育てに追われながらそれを支えてくれた奥さまには感謝しかありません。

 修業時代の途中から、個人的に頼まれる仕事も増え、そうなると休みの日が全くなくなっていきました。これはもう独立するしかないなぁと思い始め、ちょうど10年前の2011年に独立しました。周りから反対もされましたが、それを押し切っての独立でした。
 しかし、独立当初は暇でした。造園以外にも軽トラで廃品回収をしたり、他の会社のヘルプをしたり、なんとかしのいで2年くらいを過ごしました。その後口コミで少しずつ評判が広がりお客さんも増えていきました。2年過ぎたくらいから従業員も増やして仕事も増やしていきました。

 同じことだけやっていてはいけない、日本庭園だけやっていてはダメだ。そんな風に思っていた時に出会ったのがツリークライミングです。愛知にあるツリークライミングジャパンに所属した布村さん。ツリークライミングはどんな高い木でもロープ1本で登れる技術です。ですから、お寺や学校など重機が入れない場所の木でも剪定が可能になるのです。まさに「苗木から大木まで」扱える造園屋になり、布村さんが「庭猿」と呼ばれる所以もわかりますね。
 ツリークライミングを通して、全く笑顔のなかった子に笑顔が生まれる瞬間にも何度も出会いました。ですから、布村さんは子どもも大人も巻き込んだツリークライミングイベントをどんどん展開してきました。ツリークライミングクラブを持ち、スタッフ全員がライセンス所有者である造園会社は富山ではただ一つです。もっともっとたくさんの人にツリークライミングの魅力を感じて欲しい。今はコロナ禍でなかなかイベントもできませんが、コロナが終息したら、またどんどんやっていきたいと考えています。ツリークライミングのワークショップの時、布村さんは森の中のミッキーマウス「布ちゃん」になります。はっきり言って着ぐるみよりも恥ずかしいのですが、木と友達になるという大きな目標があるので、そんな小さな恥ずかしさはなんてことないのでした。
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ツリークライミングを楽しむ子どもたち、とっても楽しそう♪

 こうしてツリークライミングをやっていた布村さんには、もう一つ大きな出会いがありました。それが英国の伝統的な石積との出会いです。4000年以上も前に建てられて、なお崩れないストーンヘンジを始め、ヨーロッパには石の文化が根付いています。この石積はセメントや接着剤を一切使わずに石だけで積み上げていきます。使うのはノミとハンマーだけ。自然に対して無害で産業廃棄物も一切出ないこの方法は理にかなっているし、とにかくかっこいいのです!でも、日本で石積みをやれるところがなく、ドライストーンウォーリングアソシエーション日本支部の門を叩いた布村さん。そして石積のドライストーンウォーラーという資格を取るために、本場イギリスに飛びました。そこで世界基準のすごさをまざまざと見せつけられ、がぜんやる気が出ました。ハードルが高ければ高いほどやる気になるのが布村さんなのです。こうしてイギリスでの試験に見事合格し、日本ではまだ数少ないドライストーンウォーラーになったのでした。
 本場イギリスの石じゃないとダメだと言う人もいるけれど、布村さんはそうは思っていません。日本だから日本の石でもやりたい。その地域の自然にその地域の石が合わないわけがないと思うからです。
 ツリークライミングの良さも、石積のストーンワークの良さもこれからもっともっとたくさんの人に広めていきたいと熱く燃えている布村さんなのでした。
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 そうして「庭は使ってこそのもの!ちゃんと活用できる庭を作っていこう!」という「庭活」も進めています。人が集まれる「ファイアガーデン」も目指すところのひとつです。人は火の周りに集うことで素直になれるし、落ち着くこともできる。ファイアガーデンも取り入れた庭づくりもこれからもっと広めていきたいのです。

 庭猿は「にわざる」だけじゃなくて「ていえん」とも呼べる。庭の中にいる猿をちょっとずつアップデートしながら、庭師仲間を増やしていきたい。そして、庭師のかっこよさを追求していきたい。庭師・造園というとかっこいいイメージがまだないかもしれないけれど、子どもたちに「庭師ってかっこいいなぁ」と憧れてもらえる仕事にしていきたいのです。ですからみんなにアイストップされる(目をとめてもらえる)ことも大事にしています。例えば、地下足袋をはいて颯爽と仕事したり、ストーンワークする時はミュージックをかけながらするなどしてアイストップされることを心掛けています。造園屋というよりはガーデナー。もちろん日本庭園もバリバリに造れるガーデナーでありたいと思うのでした。

成和造園は道具も扱っている造園屋さんです。まき割りやのこぎりの実演も出来て買うこともできる。そして、なんと布村さんご自身も造園道具のモデルもしていらっしゃいます。これがまた絵になってとってもかっこいいのです。

 この仕事は正直な仕事だと布村さん。投げた分だけちゃんと自分に還ってくる。そして、暑さ寒さを感じながら生きていける。何より、生き様をみてもらえる。こんなかっこいい仕事、ちょっとないよね、心からそう思っています。そう、布村さんはとにかく仕事が大好きなのでした。

 そんな布村さんがホッとできる時間は何もしないでボケーッとする時間。それこそ、庭で弁当を食べてお茶を飲んで昼寝しているそんなボケーッとできる時間がホッとできる時間です。ボケーッとしながらも実はいろいろ考えていることも多いのですが。布村さんは言います。「思い浮かぶことはできること。頭に思い浮かべることができるなら、それはきっと実現できる。」だから、どんどんチャレンジしていくのです。明日死ぬかもしれない。だから後悔しないように100%仕事して、全力で遊ぶ!ここは修行時代の親方の教えがしっかり身についている布村さんなのでした。

 最近はサップもやり始めた布村さん。キャンプも好きなことの一つです。成和造園では社員研修にもキャンプも取り入れています。キャンプは野性的な感性を磨くのにもってこいだし、キャンプを研修にすることで、新入社員との距離がうんと近くなることを実感しているのでした。
 若い人に言いたいのは、もうとにかくバンバン失敗しろ、失敗したヤツの方がものになる。自分自身がそうであったように。失敗は糧にできる。だから、布村さんはどんな時でも恥ずかしがらずに行動するし何でもどんどん質問します。聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥。講習会があった時などはちょっとした疑問でもどんどん講師に質問するし、逆に自分が講師の時はどんどん聞いてほしいと思っています。実はわかっているようでわかっておらず、でも質問するのは恥ずかしいと思っている人はたくさんいるので、それを聞くことによって場が活性化するという場面に何度も出会っているのでした。子どもの頃は勉強嫌いだったけれど、今は学ぶことに貪欲な布村さんです。学校にこんな先生がいたら、子どもたちも楽しく勉強できるでしょうね。

 ツリークライミングのワークショップもコロナ後はどんどん開催していくつもりです。以前、いじめられっ子といじめっ子が同じグループでワークショップをしたことがありまっした。そのツリークライミングのワークではいじめられっ子がどんどん木に登ってみんなの尊敬を集め、その後、すっかり仲良くなったということもありました。学校の中だけでは作れない関係をツリークライミングや石積みのワークショップでは作ることができる。
早くそんなワークショップが開ける日が来ることを祈ってやみません。

 皆さんもぜひ「庭猿」に注目してみてください。きっとこれから富山で面白いことを仕掛けていくに違いないお一人です。
今日の人212.林広麗さん [2021年08月08日(Sun)]
 今日の人は、株式会社林インターナショナル代表取締役社長で、富山県華僑華人会会長等も務められ、富山で日中友好に長く貢献されている林広麗さんです。
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コロナ禍でマスク不足だった時にマスクを寄贈した林さん

 林さんは1968年11月2日、中国遼寧省瀋陽市で生まれました。両親とも大学教員で宿舎がキャンパス内にあったので、小さい頃は大学の中で育ったようなものでした。活発な子で外で体を動かすのも大好きでした。小学生のころから英語を習い始め、英語が大好きだったので、その頃 将来は外交官になりたいと思っていました。
 電力分野の教授だったお父さんが電力会社に転職したのをきっかけに引っ越しましたが、お父さんが夜間大学で教員もしていたので、一緒に夜間大学にいって、大学生に交じって英語の授業を聴講していました。14歳の時には、大学の英語の統一試験に最年少で合格し、新聞報道され一躍時の人にもなりました。

 中学生の頃は昼は中学校、夜は夜間大学に行って勉強する日々でした。この頃になると、英語だけではなく、哲学、心理学、歴史、宗教等、いろいろな本を読むようになりました。図書館は大好きな場所で、思索に耽るのが好きでした。でも、本ばかり読んでいたわけではなく、スポーツも得意でした。陸上は長距離も短距離も得意でしたし、スケートは試合に出るくらいでした。
 高校に入ると起業していたお父さんの傍でビジネスの世界にも触れました。お父さんは全国から作家を集めて数多くの電力関係の本を出版する敏腕編集長でした。その時、来ていた人民日報の記者から、「これから勉強するならフランス語がいいよ」、と言われ、フランス語とロシア語も勉強し始めた林さん。もちろん英語の勉強も続けていて、TOEFLの試験を受けるために北京に行ったときは、お父さんの友達にあちこち連れていってもらったのもいい思い出です。高校生の頃はローラースケートや卓球もやっていて相変わらずアクティブでした。もちろん図書館通いも続いていて、アメリカに留学したいと、中国東北大学の学生とも交流したりもしていましたが、まだ米国留学するには若すぎるからと留学は断念しました。今の中国なら可能ですが、その当時の中国では高校生のアメリカ留学などまだまだ難しい時代だったのです。

 アメリカ留学を断念した林さんは中国の大学に入りました。大学生の時は、英語の通訳としても活躍しました。広州や北京、いろいろな場所で通訳をしました。お父さんの関係で電力会社で働く道もありましたが、もっと貿易や翻訳の力を身に着けたい、という思いが日増しに強くなりました。その頃、瀋陽から私費留学生としてエリートの子どもたち30名が日本に留学する計画が持ち上がりました。林さんは留学したい気持ちをプレゼンし、ご両親を説得して、派遣メンバーの1人になりました。昔からプレゼン能力が高く、難しい相手であればあるほどやる気が出てくるのでした。1989年出国予定でしたが、天安門事件の影響で手続きが一時的にストップします。その時間も無駄にしないのが林さん。大学の1〜4年生まで全ての日本語の授業を聴講し、語学的センスの良さもあって、みるみる日本語も上達しました。
こうして出国する前の半年だけ日本語を勉強し、1990年11月に来日したのです。東京の日本語学校で10月生のクラスに入りましたが、そのクラスは簡単すぎたので、4月生のクラスに飛び級しました。東京での生活はいろいろ大変でした。バイト先でもトラブルが起きたり、留学生活の厳しさを味わった時期でした。4か月間、東京の日本語学校で勉強した後、林さんは富山大学人文学部の研究生になりました。しかし、言語学科や日本文学の授業は林さんにとってあまり心惹かれるものがなく、聞いていると眠くなってきてしまうのでした。せっかくだから一度しっかり経済を根本から勉強しようと、経済学部の受験を決めます。その頃、留学生の共通試験と言えば私費留学生統一試験でした。林さんは、統一試験の成績が大変よく、東大でも行けると言われましたが、そのまま富山に残りました。一緒に瀋陽から留学した30人のうちの1人が亡くなったこともあって、ストレスの多い東京での生活より、富山で留学生活を送ったほうがいいと感じたのです。その判断は大正解でした。林さんは富山では通訳としても貴重な存在で、学生生活の中で重鎮たちの通訳も数多くこなしました。大学3年の時にはカナダ留学も果たします。高校生の時、アメリカ留学はできなかったけれど、いろいろなことにチャレンジしているとチャンスの神様はやってきてくれて、何よりそれをしっかりキャッチできるのが林さんなのです。

 大学4年の時には、合弁会社設立のサポートもやり、会社に気に入られた林さんは中国にも工場を作るからとその会社に採用されました。そうして大学を卒業してから半年だけ、その会社で働きました。なぜ半年かというと、北京に作る予定だった工場がベトナムに作られることになったからです。

 大学を卒業した年の9月に自分の会社を設立した林さん。それが今の株式会社林インターナショナル。最初は数坪の一軒家での輸入食材や雑貨の販売からのスタートでした。
 しかし、ここで困った問題がありました。最初、会社に採用された時は通訳のビザだった林さんは自分が経営者になったことで投資経営のビザを申請しましたが、却下されてしまいます。この時は3か月の短期滞在ビザしかもらえませんでした。こうして泣く泣く通訳のビザに申請しなおしましたが、再上陸という形になってしまい、大きなショックを受けます。2年後、ようやく投資経営のビザが認められたのですが、申請の際に「なぜ通訳のビザなのですか?」と質問されるなど(入管が最初の申請を認めてくれなかったからなのにその質問はひどい)入管行政の在り方にはいろいろと疑問を持たずにはいられない出来事でした。

 1998年富山大連便初就航の時には、テレビ局の記者さながらにインタビュアーとしても活躍しました。多くの共感者の支援もあって、林さんの会社は急速に成長していき、今では6つの事業部を持つまでになりました。ひとつは、中国直輸入の食品、食材から雑貨までを取り扱う貿易事業部。ひとつは、中国直輸入の石材・墓石、墓地の販売管理までこなす石材事業部。ひとつは、中国自社工場で製造する金型・金属加工・自動機装置事業部。ひとつは、蛍光灯から看板まで幅広く取り扱うLED事業部。ひとつは、優秀な人材の派遣と中国進出起業のサポート人材派遣事業部。そして最後のひとつは留学生・実習生から特定技能のサポート支援、登録支援機関です。まさに八面六臂の活躍ぶりですね。

2006年、設立10周年の時は、当時大人気だった女子十二楽坊のコンサートを開催。2011年、15周年にはジュディオングのコンサート、2016年、20周年には林インターナショナルカップ・富山国際ユースサッカー2016を企画開催し、日中の文化交流やスポーツ交流にも尽力しています。
コロナ禍にあっても、いちはやく医療機関や保育園にマスク支援をするなどしている林さん。そして、今年は設立25周年の節目の年。今、林さんは考えていることがあります。それは外国語学校の開校です。技能実習生で培ったノウハウや、たくさんの企業とのつながりを活かし、留学生が生活やアルバイトで困らないようバックアップしていこうと考えています。林さんが創立の富瀋国際事業協同組合はコロナ禍の中でも600人を超える技能実習生を有し、富山の中小企業活性化の基盤にもなっています。これからの富山にとって優秀な外国人材を確保することは持続可能な地域づくりに必要不可欠なことです。私たちも多文化共生の活動をずっとやってきましたが、林さんの外国語学校が新しい風を吹かせてくださることを期待しています。

 読書好きな林さんですが、最近は特に儒教や道家の本をよく読みます。細かいことに敏感にならずにストレスをためず大きな心でいられると感じています。異国で経営者としてやっていく重圧に耐えられるのはすごいと思うのですが、子どもの頃から読んでいる哲学書や、儒教や道家の教えによって、林さんは心のバランスをうまくとっていらっしゃるんだろうなと感じます。
 そんな林さんの日々の小さな楽しみは美味しいものを食べに行ったり、ジムに行ったり、自転車に乗ったりする時間。今は行けませんが、世界中を旅行するのも大好きです。富山や大連でエステに通ったりする癒しの時間も大切にしています。林さんはいつもとってもかわいいネイルをしていらっしゃるのですが、はやくコロナが終わって大連にもいつでもいけるようになる日が一日もはやく戻るといいですね。

 林さんのまなざしはすでにコロナ収束後に向いています。「経営者は儲けてこそ社会貢献もできる」、とはっきりした口調でおっしゃるのが印象的でした。強い信念と自信が一人の留学生が作った会社をここまで大きく成長させました。そのまなざしの先にはきっと富山と中国を繋ぐ新たな1ページがあるにちがいありません。
今日の人211.森 弘吉さん [2021年08月03日(Tue)]
 今日の人は、「もったいない!」をカタチにする会社株式会社エムダイヤ代表取締役の森 弘吉さんです。
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 エムダイヤは中井貴一さんがナレーターを務める「夢の扉+」でも紹介されたことのある企業で、例えばリサイクルしにくく不法投棄されてしまっていた廃タイヤを、ゴムの部分と金属の部分に一瞬で分けてしまう夢のようなリサイクル機械を作ってしまうなど、数々の国内及び国際特許を持っている会社です。一言では説明しにくいので、以前に地元TV局で紹介された「モノヅクリその先へ」を是非ご覧ください。
https://www.knb.ne.jp/tsukuru-movie/article.html?sid=120

 森さんは1975年11月1日に上市町で生まれました。お姉さんと妹さんに囲まれ、母方のいとこが集まると8人中ただ1人の男の子で遊びに行ってもいつもおままごとに担ぎ出されるのが苦痛でした。でも、そういう環境で育ったので、しゃべることは昔から苦手ではありませんでした。
お父さんは森さんが幼い時に、脱サラして鉄工所を作りました。その時の工場は森さんの家の敷地内にあって、幼い頃の森さんは工場が遊び場所でした。鉄工所だったので、鉄板やいろいろな道具があって、それを見たり触ったりするのがとても好きだったのです。保育所の頃にはもう自分専用の工具箱を持っていて、いろいろなものを分解するのが大好きでした。お父さんも豪快な方で、車を1台廃車にするから、これを好きなようにバラセと言ってくれて、森さんはそれがとても思い出に残っています。その時、ドアの横についているスピーカーが紙製だということを初めて知りました。(私は52年生きてきて森さんに聞いて初めて知りました!)バラシていく中で電球の付き方がわかったり、とにかく自分でいろいろな発見ができました。それが小学校1年生の時でした。
 森さんが小学生の時に、お父さんは富山市内に新たに工場を建てました。小学校時代はファミコンやモデルガンでも遊んでいました。外より中で遊ぶ方が好きでした。柔道と野球をやりましたが、当時マスコットキャラのような顔をしていた森さんは上級生の女子にかわいがられ、それを羨ましく思った上級生の男子にからかわれました。それが嫌で嫌で、お母さんに辞めたいと言って柔道と野球は2年生でやめました。エレクトーンは3年生まで習っていました。4年になると、ブラスバンド部に入ります。最初はアルトホルンでしたが、ここでも自分以外は全員女子!ただ、どうにもその環境の居心地が悪く、5年になってトロンボーンに変更します。こちらはみんな男子で、それからはブラスバンドが楽しくなりました。6年の時には部長も務めました。ただ、ブラスバンドの強豪校だったので、指導も厳しくとても怖いものでした。しかし、そのスパルタの成果もあってか、2つ上の先輩たちは重奏の部で日本一に輝きましたし、森さんたちも県で優勝し、全日本吹奏楽コンクールの北信越大会に出場しました。

 上市中学校に入ると、お父さんに運動部がいいんじゃないかと言われたこともあって、剣道部に入ります。こちらも県下で剣道の強豪校で、スパルタ方式の指導法でした。ゴールデンウイークや夏休み、冬休みは必ず合宿がありましたし、普段も朝7時から朝練があったので、剣道部の生徒はへとへとで授業中はほぼ寝ている感じでした。大会前は五厘刈りにしなくてはいけなかったし、理不尽だと感じることは多々ありました。でも、理不尽なことに耐えなきゃいけないんだとこの頃に思えたのは良かったと思っています。もちろんそんなやり方がいいとは言えませんが、社会に出たら理不尽なことはたくさんあるし、そこでいちいちへこたれていたら社長業なんてとてもやっていられませんから。
 
3年生になって部活を引退し進路を決める時、森さんは富山高専を選択しました。なぜ富山高専だったのかというと、幼いころからお父さんにずっと「あの学校はいい学校だから行ったらいいぞ」と勧められていて、お父さんの戦略にまんまとハマってしまったのです。
結果的に富山高専を選んだのはとてもいい選択でした。富山高専は普通の高校とちがい、入った時から生徒ではなくて学生として扱われるので、とても自由な校風なのです。というわけで、森さんも高専に入ったあとはすぐにバイトも始めました。ガソリンスタンドでバイトしたり、スーパーの肉屋でバイトしたりしました。2年生になると、原付の免許もとって、上市から富山市本郷の高専までスーパー農道を通って原付で通いました。原付バイクであちこちに出かけるのも楽しみのひとつでした。
ただ高専に入ったのがゴールのような気持ちもあってその後全然勉強しなかったので、1年生の夏はたくさん赤点を取ってしまいます。その時の先生がとてもいい方で、このままだと2年生で留年して5年で卒業できないよと、成績の悪かった何人かのために夏合宿をしてくださいました。そのおかげもあってか、毎年何人も留年していく中、森さんは要をしっかり押さえて卒業する時は単位をひとつも落とすことはなかったのです。
高専は5年の本科の後、そのまま就職する道、大学3年生に編入する道、専攻科に進んで学位を取る道もありますが、森さんは専攻科に行くことにしました。しかし、その頃、家業は火の車で授業料が払えず、森さんは1年間休学してお父さんの元でほぼ給料なしで働きました。お父さんは根っからの発明家で自分の好きなことには没頭しますが、工場はいつも余裕の無い状態でした。それを経理担当のお母さんがなんとかがんばってしのいでいたのでした。
1年の休学の後、専攻科で機械電気システム工学科に入った森さん。ただ、研究だけに没頭できるわけではなく、バイトは必須でした。午後6時までは研究室で過ごし、夜7時から12時まではバイトという生活でした。専攻科2年生の最後の卒業論文は、日本機械学会で発表し、「工作機械技術振興賞(奨励賞)」に表彰もされました。学生の時からポテンシャルが高い森さんなのでした。

卒業後は石川の大手の工作機械メーカーへ就職します。将来家業を継ぐものという思いも多少頭にありました。在職中には、電気工事士や電気製図技能士等の様々な資格も取り、ITも勉強し、機械の開発設計にも携わりました。6年半石川県で過ごした森さん。土日には中国残留孤児への日本語ボランティアもされていたというから、日本語教師の私としては嬉しいお話です。そして、石川県にいる間に結婚もされています。お相手は高専時代のバイト仲間の友人でした。
就職して4〜5年経ったとき、なんとか持ちこたえていたお父さんの会社がとうとう立ち行かなくなります。とにかくお父さんは自分の作りたい機械を作ることに重きを置いたので、見積りよりも高い金額でもどんどん作ってしまうのでした。
就職して6年半、森さんは務めていた会社をやめることを決意。その時、奥さんは妊娠していました。そして会社に辞めますと言った日に第一子が誕生。運命に導かれているのかなと感じた出来事の一つです。上場企業で安定した給料をもらっていたのに、脱サラして、しかもお父さんの会社は無くなり、二次創業という形で作った会社に入ることにした森さんに文句ひとつ言わなかった奥さんには本当に感謝しかありません。

しかし、お父さんの会社に入った時、会社はもろに一人親方の世界でした。ルールというものが存在しておらず、今日は3時で上がるか、そんな感じだったのです。これではいけない、森さんは会社をちゃんと整えていくことを一歩ずつ進めていきました。そして3年経って、エムダイヤという社名にし、正式に代表取締役に就任しました。根っからの技術者で発明家だったお父さんの機械は確かに唯一無二で素晴らしいものです。発明家としてのお父さんは文句なく尊敬しています。けれど、やはり経営者としてはそれではいけないと、森さんは経営理念をしっかりと落とし込んでいきました。そして、それに賛同してくれる人を採用することにしました。議論はどんどんしていけばいいけれど、ベースの部分が食い違っていてはお互いにとって不幸だと思うからです。もちろんそれは簡単な道ではありませんでした。父に賛同していた年上の社員達は、次々に去っていきました。
会社は海に近いので、防波堤に寝ころんで海を見ながら一人で考える時間が唯一ホッとできる時間という時もありました。

社長になって15年。ようやく社内もなんでも言い合える明るい雰囲気になり、森さんの思いが浸透してきたと感じています。
エムダイヤ(R)のエムは、マシンMachine=機械、メカニズムMechanism=機構、仕組み、メカニックMechanic=修理工、整備工、メンテナンスMaintenance=補修、整備、森さんのMORI、ダイヤは、 ダイヤモンドのように小さくても「キラリと光る」会社にしたいと願って付けられました。その名の通り、今や日本全国、そして海外にもエムダイヤの製品は納品されて、キラリと光る存在になっています。エムダイヤの躍進は枚挙にいとまがないのですが、こちらの報道履歴でぜひその一端を垣間見てください。
https://www.m-dia.jp/report/

 森さんは、地域の活動にも積極的に取り組んでいらっしゃいます。児童数が、1000人を超える地元小学校のPTA会長だったときは、執行部会で森さん以外全員女性!(どうも女性に囲まれる星の下に生まれていらっしゃるようです)おやじの会のお父さんたちは会長が言ったことはとりあえずやってくれるのですが、執行部会のお母さんたちは、いくら会長が言っても、自分がやろうと思わないと動いてくれませんでした。そこで、どうしたら女性に気持ちよく動いてもらえるかを考え行動するようにしました。一人ひとりの悩みを聞き逃さず、素早く対応すること、小さな困りごとをひとつひとつ解決していくと信頼されることがわかりました。スイーツなどを配ることも忘れません。この時の経験は会社でも大いに役立っています。
 大学の附属中学校でもPTA会長を務め、経済同友会では教育問題委員会に所属。その中で経営と教育は似ていると実感することが多々あります。人に伝えるのが好きな森さんは、依頼があればいろいろな場所で講演活動も行っています。皆さんも機会があればぜひ森さんの生のお話に触れてみてください。

 楽しいのは仕事を通じた「気づきや学び」、と言い切る森さん。異質なものに触れるのが好きで、コロナ以前は全国を回り、2か月に1度は仕事で海外に行っていました。異質なものに触れないと自分の成長が止まるような気がするのです。2人の息子さんともそれぞれ一緒に外国への2人旅もしましたし、息子さんには旅も積極的にさせています。
 森さんは想定外なことに出会うことはとても大事だと考えています。いつも想定内の中にいると、成長もない。だからどんどん外国にも出かけていきます。森さんの会社が次々と新しい機械を生み出せるのも、想定外を大事にする視点を常に持たれているからなのでしょう。

 この先エムダイヤはもっともっと輝いていく会社になっていくにちがいありません。学生の皆さん、エムダイヤ、注目度大ですよ。
https://start-line-toyama.jp/company/emdia/
https://www.m-dia.jp/recruit-new/

 
今日の人210.井上純子さん [2021年06月26日(Sat)]
 今日の人は富山留学アカデミー代表で、青年海外協力隊OB会会長をこの6月まで務められた井上純子さんです。
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 純子さんは1971年11月7日、射水市放生津で生まれました。
 小さい時から歌ったり踊ったりするのが大好きで、花に向かって歌っていたりしたので、よく変な子だねぇと言われていました。ピアノも大好きでしたが、家にはピアノがなかったので、友だちの家に行ってはピアノを弾きまくっていた純子さん。そんなにピアノが好きなら…というわけでピアノを習わせてもらえるようになると、ますますピアノが好きになって、小学生の時になりたかったのはピアニストでした。でも、ピアノばかり弾いていたのかというと、そうではありません。外遊びも大好きで、野原を駆け回ったり、バケツいっぱいのオタマジャクシをとって、それが全滅して大泣きしたり、昆虫も大好きな活発な子だったのです。また、純子さんは小さい時からお母さんに「自分の意見を持ちなさい、はっきりYes,Noを言いなさい」と言われて育ったので、しっかり自分の意見を言える子になりました。日本人はそれが苦手な人が多いけれど、お母さまの教育、素晴らしいですね。
 
 純子さんは音楽の道に進もうと呉羽高校の音楽コースに進みましたが、15歳の時に自分にそこまでの可能性がないなぁと音楽の道に進むのはあきらめました。東京の専門学校に進学して児童教育を専攻していた純子さんは、東京の養護施設で職員をしていました。しかし、お母さんが倒れたと聞いて富山に戻ってきます。お母さんは大丈夫だったのですが、東京には戻らず、富山で働くことにしました。富山では保育士としてではなく、新聞社で働き始めました。その時に日本語の持つ面白さに気づきます。その後、その新聞社の記者と結婚し、彼の転勤に伴って旭川に行った純子さんでしたが、知り合いもなく夫も激務でほぼ家にいなかったのと、価値観の違いもあり離婚。自立しなくてはいけなくなった純子さんは、自身が新聞社で働いていた時に興味が出てきた日本語についてもっと勉強しようと札幌の日本語教師養成学校へ行って日本語教師の資格を取得しました。そして、日本語教師としてJICAの日系社会青年海外協力隊になります。高い志を持って青年海外協力隊に入ったのかと言うとさにあらず。実は純子さん、言語学の本場アメリカの大学に留学したかったのですが元手がなく、青年海外協力隊に行けば任期明けにまとまったお金ができるという動機で協力隊員になったのでした。

こうして31歳でパラグアイに日本語教師として派遣されます。南米と聞くと、危ないイメージなので大丈夫なのか?とよく心配されましたが、パラグアイは日系人が多いのでとても親日的で、日本人とわかるとどこに行っても歓待されて、どこに行っても優しくされました。一人で歩くのは危ないと常に守ってくれて、勤務先の学校のPTA会長さんがいつもアパート前まで送ってくれました。アパート前には3mの塀があって、その塀の鍵を開けて、その後、アパートの入り口の鍵を開けて、さらに部屋の鍵を開けて部屋に入るのですが、PTA会長さんは純子さんが部屋の窓を開けて手を振るのを見届けてから帰っていかれるのです。そんな風にいつも誰かに守られていたパラグアイでの生活でした。でも、ハプニングもつきもので、タランチュラがスニーカーからでてきたこともありましたし、窓を開けて仕事をしていると、そこが蜂の通り道になっていて、気が付いたらびっしり蜂がいて、キャミソール姿だった純子さんはなんと蜂に35か所も刺されたこともあったのです!想像するだに恐ろしいですね。
 パラグアイに行って、本当に良かったと思うのは、あたりまえのことがあたりまえじゃない、ということを身を持って知れたことでした。5歳の子が1歳の子をおんぶしながら物乞いをしている姿が普通にあったり、電気もしょっちゅう止まります。ワールドカップで3位になった時は街中が大騒ぎになって、大勢の人が空に向かって銃を撃って、銃声が鳴り響くのです。空に向かって銃を撃つなんて、日本ではバカボンの保安官くらいしか思い浮かびませんが、そういう経験を直にしたので、日本にずっといたら気づけないことが山ほどありました。大変だったんじゃない?と聞かれることもありますが、パラグアイでの時間は本当に楽しい時間でした。青年海外協力隊の時間がとても有意義だったので、シニア海外協力隊にも必ず行こうと思っている純子さんです。

 日本に帰ってきた後、アメリカに留学するのにもっと資金が必要だったので富山県市長会で契約社員として働きました。残って正社員にならんけ?と言われましたが留学する意思が固かったのでそれは固辞しました。こうして前富山市長の森さんに送別会をしてもらって送り出された純子さんは渡米し、コミュニティカレッジで2年、ユニバーシティで1.5年勉強し、アメリカで専攻が社会科学(特にcultural diversity、性差別、年齢差別、人種差別、宗教差別等を勉強する専攻でした)副専攻が言語学の学士を取得したのでした。
 実は渡米してすぐに出会ったのが今のパートナーでした。その時34歳だった純子さん、週末に出かけたパーティで出会ったのが19歳の彼だったのです。彼は同じ大学の学生でした。その後彼はUCLAに純子さんはUCIに行くのですが、UCLAと言えば世界のトップ15の大学です。年の差はありましたが、彼といると不思議と気持ちがリラックスできました。それは彼にしても同じでした。
 コミュニティカレッジに行っている間はまだ週末にパーティに行くくらいの余裕はあったのですが、編入したユニバーシティに行くと、勉強漬けの毎日でした。通学時間とトイレに行っている時間以外は勉強という毎日だったのです。純子さんは成績にC(70%以上)が付くのは許せませんでした。ですからCがついたときは、オフィスアワーにその教授のところに行って、なぜCなんだと大泣きして抗議しました。講義で教授が言っていたことをそのまま答案に書いたのに間違っていたからです。せっかく留学しても自分の意見をちゃんと言えない日本人は本当に多いのですが、純子さんは子どもの頃から自分の意見をはっきり言う習慣がついていました。これは留学生活では本当に大切なことでした。こうして純子さんは優秀な成績で大学を卒業できたのです。
 
 帰国後、純子さんは4年半子どもたちに英語を教えていました。150人の生徒がいましたが、話せる英語ということを考えると限界があるなぁと感じていました。親御さんから留学について相談されることも増えました。留学したい人はたくさんいるけれど、やり方を知らずに、ブローカーに高い手数料を払って留学してアフターケアもしてもらえず泣き寝入りしている人がたくさんいることに憤りを覚えていた純子さんは、富山の人にはそんなことをさせたくない、と強く思いました。でも、アフターケアもしっかりしているいい留学仲介業者が見当たりませんでした。ないなら、自分でやればいいんじゃないか?そう思って富山留学アカデミーを設立したのです。日本は例えば就職活動ひとつとっても全員が同じようなリクルートスーツに身を包み、何か月も就職活動をしてそれだけで疲弊してしまう学生もとても多い。(コロナで就職活動の在り方も変わりましたが)でも、例えばアメリカのジョブフェアは3日間で世界中の名だたる会社が集まって、学生たちもみんなフランクに質問をしてうるさいくらいの盛り上がり。そうして、その3日間だけで何社もの世界の超有名企業から内定をもらっちゃう日本人学生もたくさんいます。そういう可能性があることを知らない日本の学生たちに伝えたい。そんなに就職活動で疲弊しなくてもいいんだよ、世界にはもっとチャンスがあるんだよ、知っていて選ばないならいいけれど、知らずにいるのは本当にもったいない。いい高校に行っていい大学に行っていい会社に入る、そんな一辺倒の生き方で本当に楽しい?世界に行くとみんな一緒っていうのは逆に重宝されないんだよ、あなたらしさ、あなたの原石をもっと磨こうよ、人生にはたくさんチャンスがある。それを富山の子に伝えたい、みんなに世界でチャンスを作りたい!それが純子さんの思いです。
 大手の留学仲介業には、出発する日さえわからないところがあります。留学先で困ったときに相談したくても出来ず途方にくれてしまうこともあります。純子さんは、留学した後の学生たちも細かくケアしています。例えばアパートも日本と海外では全然ちがうこともあるので、留学した学生たちからヘルプの連絡が入ることがあります。留学先のアパートの様子を動画で映してもらいながら、それはこうしたらいいよ〜とアドバイスしている純子さん。だから学生たちも安心して留学することが出来るのです。本当に姉御肌という言葉がぴったりなので、年下だけど、「お姉さま」と頼りたくなる雰囲気の純子さんなのでした。

 純子さんは青年海外協力隊OB会の会長も3年間務めました。この3年間で若い協力隊OBもいろいろ自主的にやってくれるようになりました。若い人を育てるのが得意な純子さんなのです。
 様々な場所や機会に素晴らしい経営仲間や様々な方々ににもたくさん出会えてその方たちと切磋琢磨できるのもとても刺激になっています。
 仕事が楽しい!と言い切る純子さんですが、癒しの時間は美味しいものを食べに行ったり、温泉に入ってゆったりする時間。いつか温泉にご一緒しようとお約束して、今回のインタビューを終えました。
 留学を考えている学生さんや、お子さんの留学を考えていらっしゃる親御さんがいたら、ぜひ一度富山留学アカデミーに問い合わせてみてください。きっと、そこから新しい世界が広がります。
今日の人209.村尾英彦さん [2021年06月19日(Sat)]
 今日の人は地質調査・防災工事・測量設計を通して国土開発事業やインフラ整備事業等に携わり、土木・建設・防災・環境の分野で、社会の発展に貢献している村尾地研代表取締役社長 村尾英彦さんです。
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お茶目な村尾さん

 村尾さんは1970年12月8日、富山市旅篭町で生まれました。12月8日はジョンレノンの命日だったりパールハーバーの日だったりなので、なんでこんな日が誕生日なんだと思ったこともありました。でも、考えようによってはすぐに覚えてもらえるいいお誕生日ですよね。
一人っ子だった村尾さんにはひとつちがいのいとこがいて、そのいとこといつも祖父の家に遊びに行っていました。夏休みはずっと祖父の家で一緒に寝泊まりしていたものです。おじいさんは村尾地研の創業者でもあり、村尾さんにいろいろ影響を与えた方でした。おじいさんに連れられていとこと一緒にブルースリーの映画に行って、その後ずっと真似をしていたのもいい思い出です。そんな風に馬の合ったいとこでしたが、彼はインドア派だったのに対して、村尾さんは根っからのアウトドア派でした。自然の中で遊ぶのが大好きだったのです。
 小学3年生からは同級生に誘われてサッカーチームにも入りました。みんなと一緒にやるのが楽しくて、練習も苦になりませんでした。サッカーばかりしていましたが、村尾さんにしたら遊びの一種という感覚でとても楽しかったのです。
 その頃、これになりたい!と強く思ったものはなかったのですが、宇宙飛行士がかっこいい!と憧れたときはありました。でも、その時々でこれがいいなと思ってはそれが何かも忘れるくらい流されやすかったなぁと振り返って思います。サッカーもそうですが、何か始めるときは、自分からやりたいというよりは誰かに誘われてはじめる方が圧倒的に多かったのです。

 中学校は南部中学へ。その時の南中はサッカー部にうまい人が集結していて、ドリームチームと呼ばれていました。でも、1,2年の時は、先輩からしごきがあって、今から思うといじめに近いような練習もさせられていました。下級生をキャディに見立てて、先輩がサッカーゴルフと称してボールをわざと川に落としたりするのです。下級生はそれを川に入って取りに行かなければならないのでした。そういうのがいくつも重なると、みんな先輩が嫌いになっていくのですが、不思議と村尾さんは嫌いにはなれませんでした。そんな時でも、友達と楽しく過ごせればそれでいいや、というような感覚が村尾さんにはあって、その時その時が楽しければ、過去のイヤなことはどうでもいいと思うのでした。中学生からそれができるなんて、すごいなぁと感心します。でも、当の本人は全くそんなことは思わずに飄々としていたのでした。サッカーのために越境入学してきた友達が、先輩のやり方に悔し涙を流しているのを見て、ああ、こいつは真剣なんだ、と妙に感心しつつ、でも自分はどこかそれを離れたところから見ている感じでした。その頃の南中はとても荒れていた時代で、校舎の窓ガラスが全部割れているのも日常の光景で、連帯責任で丸坊主にさせられたこともありましたが、それすらも楽しんでいました。何かみんなでガヤガヤとやっているのがとにかく楽しかった。みんながつらいことも楽しいと感じる変わりものでした。学校のすぐそばに裁判所があって、校舎から裁判所が見えるのですが、裁判所から出てきた友達に校舎から手を振って、先生に後ろから叩かれたこともありました。「今日から俺は」のワンシーンがたくさん出てくるような中学校生活だったのですね。
 村尾さんが3年生の時に、サッカー部は全国大会に出場します。南中が全国大会にいったのは初めてのことでした。村尾さんは背番号9だったのですが、相手チームから「あいつは9番なのに影が薄い。きっと秘密兵器にちがいない。」と噂されていたそうです。村尾さん自身は、うまいやつはみんな10番台の背番号を欲しがって、9が空いていただけなんですよ、と笑われました。
 部活を引退した後は、本ばかり読んでいました。好きな勉強はするけれど、テスト勉強や受験勉強と名がつくと途端にしたくなくなります。ですから、テスト期間はひたすら本を読む期間でした。
 でも、成績は良かったし、志望校の模試判定もA判定。落ちるはずはないと思っていました。ただ、受験の時に先生から内申点のことをすごく言われたのが引っ掛かっていました。上記のように荒れていた中学校です。全国大会に行ったサッカー部だったとはいえ、そのサッカー部には問題を起こした生徒が相当数いて、連帯責任を取らされたこともありました。富山県の県立高校は内申点をかなり重視します。それを知らなかった村尾さん。合格発表を見に行って愕然としました。自分の番号がない!

 釈然としない思いもありつつ、私立の富山第一高校特別進学コースに入った村尾さん。サッカー部に入ろうかとも思いましたが、富一は当時からサッカー部には強い選手が集まってきていたので、そんな中にいてもなぁという思いもありました。そんな時、教室にラグビー部の顧問の先生が来て、「俺と一緒にラグビーをしよう!俺とだったらお前は輝ける!」というのです。まるでスクールウォーズを地で行くような先生に圧倒されて、ラグビー部に入りました。サッカーを始めたときもそうでしたが、自分でどうしたいというよりはいつの間にかそこにいる、そんな感じで始まったラグビーでしたが、みるみるうちにラグビーの魅力に取りつかれ、その後はラグビー一色の高校生活になりました。体格もよく足も速かった村尾さんのポジションはインサイドセンター。試合中スタンドオフに近い位置でプレーするインサイドセンターは、第2の司令塔としてゲームをコントロールし、パスや突破、キックで攻撃を組み立てることが求められます。花園には行けなかったけれど、菅平に合宿に行ったときは強豪校の関東学院大の学生と試合をして、痛かったけどとても楽しかった。ラグビー界は平尾、松尾、そして村尾とよく冗談も言っていました。

 相変わらずテスト勉強は嫌いでしたが、数学、物理は好きでした。将来の進路を考える時に、航空宇宙学科がかっこいいなぁという思いがありました。ロケットのエンジンの力を計測したり、ジェットエンジンのどこがいちばん威力があるのか等そういうことを研究したいと思ったのです。ただ、村尾さんが行きたかった大学の航空宇宙学科のレベルは相当高く、これは受かりそうにないなと悩んでいました。そんな時、じいちゃんが「行けるんだったら行けばいいけど、行けないんなら土木に進んだらどうだ?」とアドバイスしてくれたのです。それまで跡を継ぐことは考えなかったけれど、そうか、土木も力学の世界だから、宇宙の流体力学ではなくて土木の固体力学をやるのもいいかもしれない、そう思った村尾さんは名古屋大学に入って土木工学の道へと進んだのです。サッカーの時は友達に誘われて、ラグビーは先生に誘われて、土木工学はおじいさんの言葉がきっかけで、いずれも誰かにいざなわれてその道に入ってきたので、自分で何も決めてきていないんですよ、とおっしゃる村尾さん。でも、きっかけがそうだったとしても、その後はしっかりその道を進んで行く力があるのが村尾さんなのです。大学でも仲の良かった友達に土の研究室に行こうと誘われて、これでいいかとその研究室に入りましたが、土の力学的な解析がすごく面白くて、のめりこんでいきました。昔の読書然り、好きなことにはとことんハマる性格だったので、研究室にずっといる、そんな学生生活でした。そしてこの研究をもっと続けたいと大学院へ。マスターだけではなく、ドクターにも来いと教授が言ってくれて、そのままドクターへと進みました。そうしてPh.D工学博士を取得したのでした。まだまだやりたい研究もたくさんありましたが、大学の中で一生生きていこうとも思わなかった村尾さんは、この時初めて自分の実家の仕事をどうしようかと真剣に考えました。思い返せば、おじいさんとお父さんが苦労している姿をずっと見てきました。会社がとても苦しい時期もあり、家で満足に食べられない時期もありました。それでも、祖父や父が守って作り上げてきた会社でした。おじいさんが入院していた時に見舞いに行った村尾さんが「大学で測量をしたよ」と告げると、おじいさんは嬉しそうに村尾さんの話を聞いていました。そんな姿も思い出して、村尾さんは会社を継ごうと決意したのでした。

 富山に帰ってきて、会社の仕事に慣れてきたころに入ったのが富山青年会議所です。ここでの多くの先輩経営者とのつながりは、村尾さんにとってなくてはならないものとなりました。JCの先輩に経営のことが全然わかっていないと言われて盛和塾にも入りました。盛和塾では真剣にやらなければだめだということを叩き込まれ、初めて本気で真剣にやることを自覚できました。ここで教わったことが社長としての今の自分の土台になっていると実感しています。今、社長になってから6年経ちましたが、社長を継いでからの4〜5年は本当に大変でした。でも、どんなに大変なことがあっても、大丈夫だと言ってくれる人が周りにいて、助けられてきました。実際JCの先輩たちは自身が事業の失敗をしている時でも、つらさを見せずに世話を焼いてくれるのです。そんな姿を見せられると、自分もやはりそうでありたいと覚悟が決まってくるのでした。

 そして今、村尾さんは富山で外国人材のネットワークを立ち上げようと東奔西走していらっしゃいます。企業だけではなく、行政や大学やNPOも入ったマルチステークホルダーの新しい外国人材をめぐるネットワークを作りたい。何かを決める時にいつも受け身で決めてきた少年はいつの間にか、自ら先頭を切って社会課題に切り込んでいく切り込み隊長になりました。立ち上げたネットワークもいずれは若い世代がドライブしていってほしい、そう思っています。
 そんな思いになったのは、未来の子どもたちのためにも未来ある富山を残していきたいと思うようになったからです。
 富山は災害が少ない県だと言う人も多いですが、今たまたま大きな災害が起きていないだけで、富山県の歴史はずっと災害とともにあったのです。1858年4月9日、マグニチュード7と推定される飛越地震が立山連峰を襲いました。この地震により立山カルデラ内の斜面が大崩壊を起こし、崩れた土砂が常願寺川をせき止めました。川をせき止めた土砂が決壊し土石流が発生、富山平野には氾濫した土石流が押し寄せ、死者140名、負傷者8,945名の未曾有の被害をもたらしました。そして2億㎥の崩壊土砂が今もカルデラ内に残っているのです。この土砂量は、富山平野一帯を約2mの厚さで覆うほどの量なのです!のちに「日本砂防の父」と呼ばれる赤木正雄先生は大正14(1925)年7月、その現状を見て、何としても直轄工事にしなければこの地の人々を守れないと思い、国にその必要性を報告します。しかし、砂防工事実現には多額の予算が必要でした。難色を示す声に囲まれるなか、「日本における治水の根本は砂防にある」と砂防の重要性を説き、着工承認を得たのです。こうしてその後ずっと、そして今も、砂防工事は続いているのです。立山砂防工事が行われていなければ、富山は災害がない県だなどととても悠長には言っていられなかったことでしょう。赤木先生によって培われた砂防技術は、荒廃山地、急流河川を数多く有する日本で大きく発展、その技術は世界に広まり、今日では「SABO」は世界共通の言葉となっています。
  
 富山の未来のためにずっとやり続けてくれた先人がいたから、今の自分がある。だから、自分も未来の子どもたちのために少しでもよくなることをやっていかなければ!村尾さんは表面は静かで穏やかな方ですが、とても熱い想いをお持ちなのです。
 でも、不思議と肩に力の入っていないのが村尾さん。仮に大変なことがあったとしても、その状況を楽しむことができる力は昔からある特技の一つと言えるかもしれません。そんな村尾さんのホッとできる時間はプールで泳ぐ時間です。親しい人たちと飲みに行く時間も好きなのですが、これはコロナ後の楽しみです。
 これからも自分のやれるところをコツコツやっていきたい。キラキラしていない地味なところにある大切さを忘れずにいたい。何かをずっとやり続けられる力は何よりの強さです。そして村尾さんは、そんな強さを持っているのでした。
 私も富山外国人材ネットワークの始動、楽しみにしています。未来の富山の、日本の、そして世界の子どもたちのために。

今日の人208.塩谷洋平さん [2021年05月17日(Mon)]
 今日の人は、建設業を通じて社会問題の解決を目指し、新たな課題にチャレンジし続けている塩谷建設代表取締役社長 塩谷洋平さんです。
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 塩谷さんは1979年、高岡の伏木で生まれ育ちました。ガキ大将というわけではなかったけれど、おとなしくはなかったので、幼稚園の年中の時は、自分を泣かせた年長の子たちを呼びだして、ジャングルジムのてっぺんからその子たちに向かっておしっこをかけて全員泣かせたという逸話も。年上だろうが、そんな調子だったので、小学生になってお母さんが保護者会に行ったとき、この子は柱に縛り付けておきなさい、と言われたそうです。もっとも、塩谷家は壁式コンクリート造で柱がなかったので、縛り付けられることはありませんでした。その代わりと言ってはなんですが、塩谷家の伝統でもある柔道を習わされたのです。柔道に限らず、水泳や習字など週の大半は習い事をしていました。それでも、友達と遊んだり、海に釣りには行っていて、落ちている釣り糸を結んで、たばこのフィルターをくっつけてルアー替わりにしてサヨリを釣ったり、カニを獲ったりしていました。将来なりたいものは特になかったのですが、何もないと書くわけにもいかないので、くるしまぎれにおまわりさんと書いていました。
 小学6年生の時に、隣の小学校とケンカすることがあって、その小学校に乗り込んだ時に止めに入ったおばさんが実は進学予定の中学校の生徒指導の先生だったので、中学校に進学するとずっとその先生に目をつけられることになってしまいました。

 中学校は柔道部へ入りましたが、その頃はリーダーシップを発揮するタイプではなく、ちょうど反抗期だったことも相まって、敷かれたレールの上は絶対に歩きたくないと思っていました。塩谷建設はおじいさんが作り、お父さんが跡を継いだ会社でしたが、自分は家を継ぎたくない、自分は自分の人生を歩きたい、そう思っていました。いろいろなことを人のせい、親のせい、学校のせいにして、よく親に怒られていたのもこの頃です。自分でもわかっているけど、反抗してしまう、そんな時に3歳年上の先輩が横浜にある桐蔭学園高等学校に進学します。医者になろうか、柔道を続けようか迷って桐蔭に進学した先輩を見て、自分もそこに進学しようと思うようになりました。今の環境から抜け出たかったという思いも強かったのです。

 こうして高校から横浜の桐蔭学園に進学しました。当然入った柔道部でしたが、当時、神奈川県では井上康生さんのいた東海大相模が絶対的王者でした。桐蔭はいつも決勝で東海大相模に負けていました。塩谷さんが1年の時、3年の先輩がすごく強くて、もしかしたら東海大相模に勝てるんじゃないかと思ったのですが、桐蔭は優勝できませんでした。塩谷さんはその桐蔭の中でも決して強い方ではありませんでしたが、絶対に神奈川県チャンピオンになると決めて猛特訓を始めます。
 神奈川県は富山とちがい出場校も多く、いかに強豪校でも一校につき一階級に2人までしかエントリーできませんでした。塩谷さんが2年生の時、60kg級で塩谷さんはエントリーしてもらえませんでした。塩谷さんは先生に訴えます。エントリー選手が校内予選なしで選ばれるのは不公平だ。せめて校内予選をしてほしい。その願いはかなえられ、塩谷さんは見事校内予選を突破し、エントリー選手に選ばれたのです。
 試合当日、途中から先生がセコンドについてくれて、当初名簿に名前もなかった塩谷さんが、なんと強豪ひしめく神奈川県大会の60kg級で優勝したのです。それだけではなく、その年桐蔭は5階級中4階級を制覇し、団体戦でも優勝したのでした。東海大相模の3年生にあの井上康生さんがいた中で、桐蔭が初優勝を果たしたのです。柔道界の流れが変わった瞬間でした。
優勝したことで、塩谷さんは先生にも格段にかわいがってもらえるようになりました。多分この時の柔道部員の中でいちばん伸びた選手でした。この経験は今も生きていて、塩谷さんは社員に対してチャンスは平等に与えること、結果ではちゃんと差をつけることを徹底しています。(結果を出した人と出さない人を同じに扱うと結果を出した人のやる気が失せてしまうので)

 神奈川県大会で優勝した塩谷さんには大学の推薦もたくさん来ました。ただ父の行っていた中央大学には行きたくないと思っていて、同志社大学に進もうかと思っていました。しかし、同志社は1人しか推薦の枠がなく、塩谷さんが譲ればキャプテンが同志社に進むことができました。父と同じ大学に行くことに少し抵抗はありましたが、指定校推薦の枠外でも中大に進むことができた塩谷さんは同志社の推薦をキャプテンに譲って、中央大学に進学したのです。

 結果的には中央大学に行ってとても充実した学生生活を送ることができました。けれど、大学1年で柔道だけを追求することはやめました。オリンピックで優勝することを目標にしている人を目の当たりにして、その彼と、神奈川県チャンピオンを目標にしてそこで優勝して満足している自分とではあきらかにちがうと思ったからです。親への反抗もあって、高校で家を飛び出したけれど、やはり心の中で親に恥をかかせたくないという思いもあってそれまでがんばってきた部分もありました。けれど、オリンピックで金メダルという目標までは自分は描けないと思った時に、柔道一本道を歩くのはやめたのです。

 柔道一色でなくなった塩谷さんは大学生活の中でたくさんの経験をし、たくさんの人に会い、大学の寮ではいろいろな部活の人と仲良くなりました。その一人に、元関脇豪風の押尾川親方がいます。押尾川親方は来春独立されるのですが、その新たな部屋の設計・施工を塩谷建設が請け負いました。塩谷さんは、親方が入門した頃から「部屋をつくる時はよろしく」と頼まれていて、約20年越しで“約束”を果たすことになったのです。こんな縁が生まれたのも、大学時代からのつながりを大事にしていたからに他なりませんね。大学時代からの大切なつながりといえば、忘れてならないのが奥さまとの出会い。スポーツ選手に多いなぁと思うのですが、塩谷さんの家も実は姉さん女房です。

 こうして充実した大学生活を送った後に、塩谷さんは大手ゼネコンの大成建設に入社。営業職に就きました。3年目には法人営業でトップの成績を収めたのですが、自分はサラリーマンには向いていないと感じていました。そして、26歳の時に富山に戻って塩谷建設に入ったのです。しかし、入社当初はいったい自分は何をすべきなのかわからず、悶々としながら時間を過ごしていました。それが変わったのはリーマンショックの時です。会社の売り上げが95億円から55億円へと一気に減り、そこで塩谷さんの負けん気根性に火が付きました。マンションのディベロッパーが倒産し、連鎖倒産の危機もありましたが、建てたマンションだけは残っています。このマンションを売れるのはこの会社できっと僕だけだ!大成建設での営業の経験がこの時役に立ちました。こうしてマンションを売り、連鎖倒産の危機も脱出。この経験を生かして、今は自分たちでディベロッパーになってマンションを建てています。
 目標は常に過去を超えること。建設業の定義を変えるために、らしくないことをやって歴史を変えたい。その結果、今は塩谷建設は再生可能エネルギーや苔を使った屋上緑化など新たな分野にどんどん取り組んでいます。また、敷地内には学童保育や、先日ブログで紹介した難病や精神疾患にも対応した特に小児の専門性が高い訪問看護ステーションわか木と、重症心身障害と認定されているお子さんを対象とした多機能型重症児デイサービスおはなもあります。こうやって従来の建設業の枠にとらわれることなく、会社の事業形態を少しずつ増やしてきました。ORではなくANDな会社、それが塩谷建設なのです。

 塩谷さんは言います。社会の少子高齢化は進んでいくけれど、企業の少子化は止められる。そのために社員の採用には泥臭く力を入れています。即戦力にするのに、経験のある中途採用者を増やすという考えもあるでしょう。でも、塩谷さんはたとえ初期費用がかかっても、若い子を育てた方が何倍もいいと考えています。できれば世界中からおもしろい子を採用したい。そのために素敵な社員寮も作りました。なんと社員寮は月12000円で住むことができ、外国人社員も一緒に住んでいて、国際色豊かな場所になっています。今はコロナ禍でなかなか外国人社員の採用が進みませんが、将来的には同じフロアで5か国の人が一緒に仕事をしている、そんな職場を目指しています。

 若い子が入ってきたので、いさぎよく身をひけるよと言ってやめていかれた社員の方もいました。こうして塩谷建設は平均年齢がうんと若い勢いのある会社になりました。ですから、これからまちがいなく伸びる!そう確信しています。42歳の塩谷さんは、50歳で社長を交代しようと思っています。そのためにリーダーになる子を育てていきたい。リーダーを担える人が育ったら、塩谷という名前のついた人が社長をする必要はないと思っています。でも、自分の息子にどこの会社よりも塩谷建設がいちばんおもしろい会社だと思ってもらえる会社にしよう!その想いは心に強くあります。

 そうやってリーダーになる社員を育てるために、社員教育への投資は惜しみません。今は、コロナで富山を離れての研修はなかなか難しいものがありますが、社員が気軽に勉強できる場を作ろうと塩谷アカデミーも創設しました。アカデミー内ではE−ラーニングを導入し、スマホやタブレッドでいつでも学習できるようになっています。まさに企業は人なり、を実践されているのです。

 やるかやらないかは常に紙一重の判断の積み重ね。塩谷さんは常に自身も勉強し、その判断力を磨いてきました。だから、おっしゃいます。今は仕事をしている時がいちばん楽しい、と。よく趣味は何かと聞かれるけれど、柔道は趣味ではないし、趣味といえるのは釣りくらいかもしれません。そうしてひとたび釣りに出ると釣果は上々なのでした。
 でも、夢を熱く語り合うことは大好きです。昔からあまのじゃくなところがあったので、やれないと言われると余計にわくわくするのです。そういう所もイノベーターと言われる所以なのでしょう。

 社長を交代するとおっしゃっている50歳まであと8年。この8年間で塩谷社長はどんな一本を見せてくださるのでしょうか。社是の「誠意と創意」、経営理念の「未来の元気を創造する」の言葉通り、きっとわが故郷の高岡が元気になる街づくりの一端を担ってくださるにちがいないと確信した今回のインタビューでした。

今日の人207.澤田典久さん [2021年04月09日(Fri)]
今日の人は、氷見の暮らしを体験できるゲストハウスBed&Kitchen SORAIRO 〜ソライロ〜 オーナーの澤田典久さんです。
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澤田さんは昭和40年9月25日、菊人形で有名な福井県武生で生まれ育ちました。
小さい頃は体が大きく、健康優良児として市で表彰されるほどでした。しかし、体の大きさには似合わず、とても人見知りで幼稚園でもいじめっ子たちに泣かされてばかりいました。幼稚園の教室には入らず、軒下に隠れてよく泣いていたものです。

 だから、遊びに行くときはいつも一人で近所の川でザリガニや魚を獲ったりしていました。小学校3年生まではずっとそれを引きずっていたのですが、小学校4年生からスポーツ少年団で柔道をやり始めたことが、澤田さんに大きな転機をもたらします。小学校5年生の終わりに、澤田さんをいじめた子と取っ組み合いのケンカになったことがありました。その時、澤田さんはその子をボコボコにして大勝します。その時から、みんなが澤田さんを見る目はガラッと変わり、いじめられることは皆無になりました。

 釣りは相変わらず好きで、夏休みは短パンで川に入りながら釣りをしていました。一度ナマズに竿を折られて、絶対にリベンジしようと思ったのですが、もう一回釣ることができなかったことはとても心残りなのでした。

 その頃はコックになりたいと考えていて、小学生男子にしては珍しく、NHKの料理番組を見るのが好きでした。料理っておもしろいなぁといつも思っていたのです。今、その時の料理好きが生かされる仕事についていることも運命なのかもしれませんね。

 小学校6年生の時は、柔道に加えて水泳を習わされました。太りすぎていたので、親が心配したのです。しかし、中学校に入ると、背も伸びて、体重も自然に落ちてきました。中学校でも柔道部に入ったかと思うと、さにあらず。入ったのはバレーボール部でした。その頃澤田さんは学年で2番目に背が高く、何かチーム競技をしたいなぁと思った時に、小さいボールは嫌いだったので、バレーボール部を選んだのです。部活はハードでしたが、澤田さんはエースアタッカーとなり、2年の後半から3年にかけてはキャプテンも務めました。部活は遅くまでやっていたのでへとへとでしたが、キャプテンとしての責任感もあり、部活漬けの毎日は充実していました。でも、部活だけやっていたわけではありません。この頃、音楽にも目覚め、最後の学園祭ではステージに立って歌も歌いました。ちなみに歌ったのは、長渕剛の順子でした。

 高校は進学校の県立武生高校に。ここでもバレー部に入りましたが、なんとこの時、澤田さん始め3つの中学校のキャプテン経験者が集まるというバレー部史上最強チームが結成されたのです。ただ、音楽にもますます興味が出てきたので、入学祝に買ってもらったステレオコンポでいろいろな音楽を聴きました。浜田省吾、佐野元春、ツイストChar…私たち世代には懐かしい名前が並びます。Bed&Kitchen SORAIRO 〜ソライロ〜に行くと、当時のLPが並んでいるので、ファンにはたまらない感じです。今度お店に行かれたら、ぜひチェックしてみてくださいね。

 高校3年生になった時、澤田さんは膝を悪くして、バレーをリタイヤしました。しかし、音楽熱はますます上がり、学祭ではバンドを組んで、ギターとベースを担当していました。ちなみに、その時使っていたベースもソライロに置いてあります。
 その頃は、コックさんではなく、学校の先生になろうかなぁと漠然と思っていて、地元の国立大学に入ろうかと思っていましたが、共通一次でコケてしまいます。しかし、浪人になる気はなかったので、京都産業大学の経済学部へ進学しました。

 大学では2年で単位をほとんど取って、社会の教員免許も取得しました。サークルは音楽サークルに入り、ベースを専門にやってライブハウスでも演奏していました。
バイトもいろいろやりました。1回生の時は東山のホテルで配膳の補助をやり、2回生になると、ホテルの最上階の厨房で皿洗いと調理補助をやりました。3回生と4回生の2年間はラウンジでバーテンのアルバイトをしました。これにどっぷりはまり、カクテルもさまざま作れるようになりましたし、お酒の知識も格段に増えました。

 世の中は俗にいうバブルで超売り手市場だった時代。証券会社や銀行など名だたる企業から内定をもらいましたが、澤田さんが選んだのは、地元の某地方銀行でした。大阪採用になった澤田さんは昭和63年の4月から大阪平野支店で3年半を過ごしました。東住吉の社員寮から平野支店まで毎日自転車通勤をしていました。バンド仲間とはたまに会う程度でほとんど音楽をする時間はありませんでした。ストレス解消法は毎日居酒屋で飲むことでした。そんな澤田さん、仕事を始めて2年半で結婚します。お相手は大学2年の時に合コンで知り合った方です。出会ったときに自分のバンドのライブのチケットを渡すと、ライブに来てくれて、それから5年お付き合いして結婚したのです。

 銀行員時代は転勤また転勤の連続でした。大阪から福井へ、そして高岡、また福井、富山、輪島、富山と銀行員として激務の毎日を過ごしていました。でも、体を壊してもう限界だと思いました。それがちょうど男の42の厄年の頃でした。

 心身を回復させて、高校の臨時教師をやろうと思っていましたが、ちがう会社から声がかかりました。企業立地マッチング促進事業で物件情報のマッチングサイトの立ち上げや物件の調査をする仕事をやってほしいと言われたのです。それは富山市からの委託事業で3年間やりました。動かない物件を動かすことが地域の活性化につながることを実感した澤田さんは、これがきっかけでまちづくりに関わっていくようになりました。そして、とやま起業未来塾の7期生となり、多様な人とのつながりが出来ました。私もいつも活動しているフードバンクとやまの川口代表もその時の同期です。未来塾の先生の紹介で、ホテルの支配人を3年間やり、宿泊業のノウハウもその時得ることもできました。

 その後、氷見地域おこし協力隊になります。銀行員時代、輪島に単身赴任をしていた時に、氷見はよく通っていた場所でした。氷見は山も海も近くて本当にいいところなのに、過疎化が進んで限界集落ばかりになっています。この地をなんとかしたい。そんな気持ちもあって、氷見地域おこし協力隊員になったのです。特に氷見市速川地区の人たちや地区のために盛り上げたいという気持ちが強く、この地区の農産物を加工して6次産業化して売り出すことにしました。速川地区の特産になる干し芋を作り、酒販売の免許申請とNPOの申請をして芋焼酎を作り、県内5番目の移住定住のモデル地域になって国の事業補助を受けて、Bed&Kitchen SORAIRO 〜ソライロ〜を建てたのです。ソライロは澤田さんが協力隊の任期が終わる2月に建ちました。銀行員時代の財務や税務の知識、バイトしていた時の料理やお酒の知識、ホテルの支配人をしていた時の宿泊業の知識、全てを活かせる場所が出来上がったのです。
Bed&Kitchen SORAIRO 〜ソライロ〜はレストラン、ゲストハウス、干し芋の加工場、お菓子の加工場、いろいろな機能がありますが、移住者と地元の人とのつなぎ役をしていきたいという想いが強くあります。まず、このゲストハウスに泊まってもらって、ここで地域の人と交流してもらい、地域のしきたりを知ってもらってから移住してもらいたい。何も知らずに、ただ田舎暮らしにあこがれて移住してきてしまうと、「え、万雑(マンゾウ)って何?聞いてないし」ということになりかねないからです。(ちなみに万雑とは、聞きなれない言葉ですが、田舎の町内会費みたいなものだそうです。)
そうして、澤田さんの思いの通りに、今ソライロは地域の人の笑い声が響く場所になっています。
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ソライロの店内
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素敵なものが並ぶソライロ。みなさんもいろいろ探してみてください。
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速川地区

そんな澤田さんがこれからやっていきたいことは、物件ではなく人バージョンの地域プロジェクトマネージャーの会社を立ち上げることです。氷見地域おこし協力隊の起業支援や精神的援助などの後方支援、学生のおためし協力隊やおためし移住の促進、氷見でまだ地域づくり協議会のできていない場所の協議会設立の支援、やりたいことはたくさんあります。
また、ソライロのすぐ近くにある廃校の小学校を活用したい思いもあります。そこは独居老人と若い人が一緒に住める場所にしたいと思っています。他にもやりたいことはたくさんあって、氷見には今、湾岸サイクリングはあるのですが、実は氷見は山にも魅力がたくさんあるので、山のサイクリングコースを作りたいし、自分が大好きだった音楽で氷見を盛り上げる構想など、想いは次々に湧き上がってきます。そして、想いだけに終わらずに実行に移すのが澤田さんのすごいところ!
澤田さんは思います。今までは長い地ならしの期間でした。これまで蒔いた種はきっとこれから芽を出すにちがいない。芽が出るのをワクワクして待ちながら、次の種の準備を始めている澤田さんなのでした。
これから澤田さんが氷見でどんな花を咲かせてくださるのか、目が離せませんね。
今日の人206.舘谷美里さん [2021年02月27日(Sat)]
今日の人は、しゃみせん楽家店長の舘谷美里さんです。
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美里さんは1990年3月25日に八尾町下新町で生まれ育ちました。
8歳年上のお姉さんがいる美里さん、小さい頃は天真爛漫で、外遊びが大好きな子でした。人形遊びなどの女の子らしい遊びはせず、外で鬼ごっこや砂遊びや花いちもんめをして遊んでいました。越中おわらの八尾町らしく、よちよち歩けるようになると、もうおわら踊りについて踊っていました。DNAに刷り込まれているかのように、おわら踊りは美里さんの体の一部になっていったのでした。
 小学生になっても相変わらず外で遊ぶのが好きでした。一輪車や竹馬をしたり、男子と一緒に野球をしていました。とにかくじっとしているのが嫌いだったのです。バトミントンクラブに入ってバトミントンでも汗を流していました。
ものづくりも好きで、漫画を書いたりするのも好きでした。ただ、自分から何かを取り組むのはいいのですが、なにか課題を与えられてそれをやるのは苦痛でした。興味のあることはとことんやるけど、興味のないことには見向きもしない。それは今もあまり変わらないかもしれません。
中学生になると部活はバスケ部に入りました。週1回あったクラブ活動の時間は英語やお茶などある中、三味線を選びました。おわらでお父さんがずっと地方(じかた)で三味線をしていた影響もあったのかもしれません。三味線クラブには地域の人が教えに来てくれてとても楽しかったのです。

高校は地元の八尾高校へ。そこで美里さんは郷土芸能部に入りました。その頃、八尾高校郷土芸能部はほとんど帰宅部と化していてほぼ活動していませんでした。中学の3年間三味線をやっていて、一緒に三味線をやっていた仲良しの友達も郷土芸能部に入りました。入った1年生は3人。美里さんは郷土芸能部で毎日練習を始めました。すぐには無理でも目標は高等学校文化祭に出場することでした。美里さんの働きかけで地元の地方(じかた)の方やお父さん、そして音楽の声楽の先生にも交渉して、いろんな方の協力で練習を続けました。ただ三味線、胡弓、歌、太鼓、囃子を部員だけで全部そろえなければなりません。人が足りませんでした。美里さんが2年で部長になったとき、1年生が4人入ってくれました。そこで、茶道部に入っている友達に兼部をしてもらって、2人の助っ人に入ってもらい、9人で高校文化祭に出ることが出来たのです。帰宅部だった郷土芸能部が高文祭に出られたのはそれだけで快挙でした。ただ、控室では平高校の郷土芸能部と一緒になりました。そこで実力の差を実感します。その時、平高校で尺八を吹いていたのが、今シンガーとして活躍しているCHIKOさんです。
時を経た今、八尾高校の郷土芸能部は全国大会にも出場するほどの実力校になりました。いろいろな舞台への出演もひっぱりだこです。その礎を築いたのは、間違いなく美里さんだったのです。

こうして部活に明け暮れる高校生活を送り、美里さんは推薦で富山大学経済学部に入学しました。バイトもいろいろやりましたし、サークルは軽音楽部に入ってベースを弾いていました。
美里さんは夜間部だったので、卒論のいらない夜ゼミでよかったのですが、卒論のいる昼ゼミに入って卒論も書きました。昼の授業も取って3年の始めには卒論以外の全ての単位をとり終わっていました。それだけ頑張れたのは、将来公務員になって八尾に貢献したい、地元をもっと元気にしたい、そんな思いがあったからです。
しかし、公務員試験に落ちてしまい、2度目のチャレンジをしようとは思いませんでした。リーマンショックの次の年で、公務員志望者がいつもよりうんと多い年でした。
 
卒業ギリギリに内定をもらって、倉庫業の会社に就職しました。最初は梱包や発送の仕事で人間関係もうまくいっていました。しかし、車椅子や介護用ベッドのレンタル等福祉分野の営業やメンテナンスに配属先が変わって、そこで大きな挫折を味わいました。自分の仕事のできなさ加減におちこみ、人間関係もうまくいきませんでした。会社に行く前、朝ごはんを食べると吐き気が襲ってきました。仕事に行きたくなくて、怒られるのが怖くて、何をするにもびくびくするようになっていました。3年間は我慢しようと思いましたが、体がいうことを聴かなくなりました。こうして、美里さんは会社を辞めました。

美里さんは、2013年、23歳の時からしゃみせん楽家で津軽三味線を習い始めていました。ずっとおわらの三味線をやっていたけど、一度津軽三味線をやってみたいと思っていた時に情報誌で津軽三味線の教室を見つけたのです。それがしゃみせん楽家との出会いでした。仕事を辞めた後のレッスンの時に、先生の濱谷拓也さんに「私仕事辞めたんですよ」と言いました。その時、濱谷さんが「じゃあ、うちでバイトする?」と言いました。こうして、美里さんはしゃみせん楽家でバイトを始めたのです。バイトをしながら、職業専門校でパソコンのデザインの勉強も始めました。濱谷さんは三味線への夢を熱く語っていました。その想いに触れ、大好きな三味線を通して、やりたかった地元への貢献もできるかもしれないと思うようになっていきました。
こうして、「一緒に夢を実現しよう!」との濱谷さんの熱い想いに共感し、2015年の春から、しゃみせん楽家の正社員になりました。

今、美里さんは楽家でレッスンもしますし、三味線の教則本もたくさん作っています。今までの教則本とはちがい、イラストがたくさんあって、とてもわかりやすくなっています。そのイラストには、昔漫画を描いていた時の腕が活かされています。
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三味線が好きだから、好きな三味線に携われるのが嬉しい。そして、演奏して喜んでもらえるのも嬉しい。知り合いも増え、新しい世界にもたくさん出会えました。
一方、お客さん商売なので、怒られることももちろんあります。できないことに落ち込んでしまう癖はまだ直っていません。でも、少しずつ考え方を変えてこられたかなとも思っています。
こうして6年間、楽家で仕事をしてきた美里さん。Web担当としてしゃみせんBOXが初めて売れた時の喜びはいつまでも忘れられません。Webの月商が着実に伸びていっているのもシャミリー(三味線family)が増えているのを実感できてとても嬉しいことです。

そんな美里さんがこれからやっていきたいことは、胡弓をもっと普及させていくことです。高校の郷土芸能部の時、胡弓には触らなかった美里さん。こんな難しい楽器無理、と思っていました。けれど、2年前から胡弓もやり始め、いろいろな演奏の機会でも胡弓を取り入れていく中で、胡弓の存在を知らない人が多いことに愕然とします。中国の二胡と同じ楽器だと思っている人も多い。八尾のおわらには胡弓はなくてはならない楽器だけど、胡弓を使っている民謡は全国的にはとても少ないのです。胡弓の魅力をもっともっとたくさんの人に知ってもらいたい。そのために今、シャボの胡弓版も作成中です。これが完成すると、胡弓は格段に手に取りやすくなります。そして、胡弓のYouTubeチャンネルも配信しようと思っています。楽家のYouTubeのラインナップを超かんたん三味線、シャボチャンネル、そして胡弓チャンネルの3本柱でやっていきたい、美里さんの想いはどんどん膨らんでいます。

美里さんの故郷八尾町はおわら風の盆でとても有名になりました。でも、いつの間にかこんなことをしちゃいけない、あんなことはしちゃいけない、そんな枠にとらわれすぎて小さくまとまってしまっている感は否めません。もともと、おわらは芸者遊びから始まりました。もっと自由闊達におわらを楽しむ雰囲気を作っていきたい、そのためには八尾町の中からだけではなく、外からの力が必要だと思っています。町の外にもおわらが好きな人たちもとても多いから、そんな人と八尾町をつなぐ役割も美里さんは担っていきたいと考えています。そして、魅力がある人、人の集まる町にしなくちゃ、そう思っています。
美里さんはおわらの踊りの名手でもあります。昭和初期のおわらを踊れるのは今たった二人しかいません。美里さんはその貴重な一人なのです。パンフレットにも美里さんの美しい踊り姿が載っています。
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美里さんが中学生の時、お父さんに県外に連れて行ってもらって踊ったことが何回かあります。その時、美里さんの踊り姿を見て泣いて喜んでくださる人がいて、美里さんは八尾がもっと好きになりました。だから、公務員になって八尾町を盛り上げたいと思ったのかもしれません。でも、今はしゃみせん楽家の舘田美里として、八尾町をもっともっと盛り上げていきたい、大好きな八尾を元気にしたい、そう思っています。
そうして、三味線や胡弓をもっと身近な楽器にしたい、そのために自分がやれることはどんどんやっていく決意です。
あなたも、一度、三味線や胡弓の音色に触れてみてください。そして自分の手でつま弾いてみてください。心の奥底でなにかくすぐったい感じがしたら、あなたも今日からシャミリーの一員です。

今日の人205.サリム・マゼンMazen Slmさん [2021年02月15日(Mon)]
 今日の人は、TMC富山ムスリム協会代表のサリム・マゼンさんです。
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 マゼンさんは1974年にシリアのダマスカスで生まれました。小さい頃からエンジンが好きだったマゼンさんは、おもちゃもエンジンがないものは興味が持てませんでした。それで、ラジカセを分解してモーターを取り出し、レゴで作った車にエンジンをつけて走らせたりしていました。
 水泳も得意で、ダマスカスで水泳のチャンピオンになったこともあります。お母さんは厳格な人で、子どもの頃はとても厳しく育てられました。マゼンさんは5人兄弟の長男で、みんなのお手本でもあったので、特に厳しく育てられたのでした。外遊びもさせてもらえませんでしたが、マゼンさんは勉強もとても得意だったのです。厳しく育てられたことに対して感謝こそすれ、反発を覚えるようなことはなかったそうです。日本だったら、思春期に反抗してしまいそうですが、イスラムの教えを厳しく守っているマゼンさんは親に反抗するなんて思いもよらないことでした。
 語学も好きで、アラビア語、英語、ロシア語が堪能です。
 ロシアに留学したマゼンさんはモスクワ大学に入りました。その後ロシアで7年過ごしました。イスラム教徒として、いろいろリミットのある生活をしていたマゼンさんは、ロシアにいるときに、一度リミットなしの生活をしてみました。リミットがないはずなのに、逆に自分は一人になってしまった、という孤独感が襲ってきたのです。それは、イスラムのリミットのある生活をしている時には感じたことのない感覚でした。マゼンさんはそこで思います。やはり神はいる。そしてそれはイスラムのリミットのある生活の中でこそ感じられるものだと。

 ロシアで車のトランスポートの仕事などに携わった後、日本に来たマゼンさん。日本でも車のトランスポートの仕事をしています。そうして、1年に2回シリアに帰り、帰った時は1か月シリアで過ごすという生活をしていました。帰国している時に、出会ったのが奥様です。マゼンさんは奥様にひとめぼれします。奥様は当時まだ大学院生だったのですが、マゼンさんと日本に行くことを選びました。それで、ダマスカスでひらがなとカナカナを勉強して、マゼンさんと一緒に日本に来たのです。その後、シリアの内戦が激しくなり、今は両親も日本に呼び寄せて一緒に暮らしています。今、小学校5年生と3年生の子どももいます。外国につながる子どもたちは勉強の面でサポートが必要になる子も多いのですが、マゼンさんの子どもたちは全くそんな心配はなく、逆に日本の小学校でクラスリーダーとして活躍しています。
 そうして自らの仕事の傍ら、2013年には仲間と一緒に富山ムスリムセンター(TMC)の組合を作り、2014年には富山市五福にTMCの建物をオープンさせました。マゼンさんはTMCの代表を務めています。そして、マゼンさんはTMCの活動は全てボランティアでやっています。活動の原点は、人としての義務を守らなければならないという想いです。マゼンさんのいう人としての義務とは、困っている人がいたら助けなければならない、ということです。そしてムスリムとして宗教を守ること。これらの活動をやっていかなくてはならない。それが自分の使命だと思っています。
 マゼンさんは自分が死ぬまで、一人でもたくさんの人を助けたい、そして平和へ到達する道をほんの少しでも短くしたいと思っています。そして、その想いを子どもたちが継いでいってくれることが夢です。
 自分がボランティアをしたことによって、困っていた人たちが心からの「ありがとう」を言ってくれた時、どんなに疲れていてもその疲れは吹っ飛ぶと言います。マゼンさんは内戦の続くシリアの難民キャンプに富山学校を設立し、現地の子どもたちが教育を受けられるようにせいいっぱい支援しています。今、シリアの別の場所でも富山学校を建てる予定でいます。また現地に車椅子を送るなどの活動も続けています。シリアにとどまらず、バングラデシュに避難したミャンマーの少数派イスラム教徒ロヒンギャの難民キャンプに寺子屋式の学校も開校しました。
 ボランティア活動は日本国内でも同様に行っており、日本各地の災害の時には、支援物資を積んですぐに駆け付け、現地でハラールに対応したカレーを作ってふるまいます。熊本でも、広島でも、岐阜でも、TMCができた2013年以降に起きた全国の災害はひとつの漏れもなく駆けつけています。そんな時に、皆さんからの「ありがとう」を聞くと、またやりたいという気持ちがむくむくと湧きあがってくるのです。それが自分の魂のリフレッシュになり、魂のビタミンになります。ですから、TMCとしてのボランティア活動は、自分が病気になって動けなくなるまではずっと続けていきたいと考えています。
 本当にエネルギッシュなマゼンさんですが、そんな風に駆け回っているマゼンさんがホッとできる時間は、やはり子どもたちと遊ぶ時間です。

 マゼンさんの住んでいる高岡市牧野地区は、富山県内でいちばん外国人住民比率が高い地区です。そこでマゼンさんたちが中心になって、多文化共生の地域づくりを実践しています。地域に住む外国人と日本人が一緒に牧野校下多文化共生協議会も発足させ、さまざまな活動に取り組んでいます。マゼンさんの大きな願いは世界平和を作るということですが、まずその第一歩は自分たちの暮らす場所を平和にしていくということです。その一歩一歩のステップを大切にしていきたい、そう思っています。

 このコロナは、もちろん社会的に大きなマイナスをもたらしましたが、いいこともありました。まず、戦争が止まったこと。そして、人々は、人間の力のリミットを否応なく自覚できた。世界でみんなちがっても、みんな人間だということを意識させてくれた。そして、なかなか人に会えないことで、逆にコミュニケーションの大切さを、より深く感じさせてくれた。マゼンさんはそう思っています。

 マゼンさんは、外国につながる子どもたちの居場所作りにも今後取り組んでいきたいと考えています。できることなら、インターナショナルスクールを作りたい。日本はとてもすばらしい国だけど、日本の人々はもう少し、インターナショナルな考え方になってほしいと思っています。外国の考え方をもっと理解できれば、コミュニケーションはより取りやすくなります。マゼンさんの作るインターナショナルスクールで、外国につながる子どもたちも、日本の子どもたちも一緒に学べるようになれば、富山の多文化共生はさらに進むことでしょう。
 マゼンさんは自然の中で遊ぶのが大好きです。だから自然に囲まれた富山が大好きです。
これからも富山で一緒に多文化共生に取り組んでいける心強い仲間がいることがとても心強く感じたインタビューでした。
 
今日の人204.長尾実香さん [2021年01月01日(Fri)]
 今日の人は、株式会社ラ・ファミーユ代表取締役の長尾実香さんです。ラ・ファミーユは、在宅医療を必要とする小児から高齢者まで全ての方を対象に、難病や精神疾患にも対応した特に小児の専門性が高い訪問看護ステーションわか木と、重症心身障害と認定されているお子さんを対象とした多機能型重症児デイサービスおはなを運営しています。La・Famille(ラ・ファミーユ)という社名には1つの家族という思いが込められています。家族の一員のように、ケアを必要とする方々の日々の暮らしを支え、笑顔を支え、その人たちが地域の中で輝き続けられるように…そんな実香さんの想いが込められているのです。
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 実香さんは昭和51年に大門町で生まれました。子どもの時は、出血すると止まらなくなる血液の難病で、特によく鼻血を出すことがよくあり、また天然パーマで髪の毛がクルンとしていたのもあっていじめの対象になることがしばしばありました。そういうこともあってとても引っ込み思案な女の子でした。泣いて家に帰ってくると、おばあちゃんが話を聴いてなぐさめてくれました。お父さんは自営で、お母さんは仕事で忙しかったので、実香さんにとって、話を聴いて認めてくれるおばあちゃんはとても大切な存在だったのです。
 それでも小学4年生くらいになると、だんだん体力がついてきて、水泳や卓球の選手に選ばれるようになってきました。
 そんな実香さんがなりたかった職業は小さい時から看護師でした。というのも実香さんは4歳の時に入院したことがあって、その時の看護師さんとの出会いが忘れられなかったからです。4歳になると、もうお母さんが病院の付き添いをしてはいけなかったので、夜中に起きるとお母さんがおらず、実香さんは大泣きしていました。そんな時、その看護師さんは実香さんをずっとおんぶして歩いてくれたのです。看護師さんはおんぶしながら、保育器に入っている赤ちゃんにミルクをあげていました。看護師さんの背中で見たその光景が実香さんの頭の中にはずうっとあったのです。そういうわけで、看護師、特に小児科の看護師になりたいと思っていたのでした。ただ、絵を描くのが大好きで、実香さんが描いた作品はしょっちゅう入選していたので、一時デザイナーになりたいなと思ったこともありました。
 
 大門中学校に入ると体操部に入りました。ひとつ先輩の林原りかさんが体操部でバク転をしているのを見て、かっこいいなぁと思ったのです。そして、がんばって林原りかさんの次の代のキャプテンになりました。部活は楽しかったけど、苦行でもありました。それでもずっと部活のことばかりを考えていた中学時代でした。
 中学生になっても、なりたい職業は看護師だったので、最速で看護師になるために衛生看護科のある高校に入ろうと思いました。お母さんもおばあさんも「あんたは体が弱かったから看護師みたいな激務は務まらんちゃ」「やめとかれ」と言いましたが、実香さんの意思が固いのがわかってからは「どうせ看護師になるなら、上に立てる看護師になりなさい。そのためにまずは普通科に行った方がいい」とアドバイスをくれ、実香さんは大門高校の普通科に入りました。

 高校に入ると、志貴野中学の体操部のキャプテン、小杉高校の体操部のキャプテンもそろっていました。その時、大門高校には男子体操部しかなかったのですが、中学の女子体操部のキャプテンが3人も揃ったので、これはもう女子体操部を作るしかないでしょ、と女子体操部を作りました。ただ、実香さんは部活もしましたが、勉強をよりがんばる方にシフトしていました。高校時代の3年間ほど勉強をがんばった期間はないと言ってもいいくらい必死で勉強しました。そんな実香さんを見て、高校1年の時の先生がすごく応援してくれました。わざわざみんなを集めて視聴覚室で医療系のドキュメンタリーを見せてくれたりしたのです。
 本当は推薦で行きたかった大学もありましたが、大門高校は当時まだ新しい学校で、推薦で行くのがなかなか難しく、進学したのは金沢大学医療技術短期大学の看護学科でした。結果的にこの短大に進学したのは大正解でした。なぜなら、同級生も先生方もみんなとても熱心で、人生観が変わるくらいの影響を受けたからです。実習の時には、レポートを夜中の2時3時まで書いていることもありましたが、そんな遅い時間でも先生も残って指導してくださるくらいの熱血ぶりでした。
 実香さんは特に小児の実習への思いは強く、自分と同じ難病の子の受け持ちになると、3歳の子でも病気が理解できるようにと絵本を描いてプレゼントしました。
 そんな風にとても充実した時間を過ごし、金沢大学附属病院の内定ももらったのですが小児科で働けるという確証はありませんでした。でも、どうしても小児科で働きたいという思いの強かった実香さんは、その内定を蹴って東京にある国立小児病院へ就職しました。
小児病院で4年、国立成育医療研究センターで5年、ひたすら小児医療の現場に身を置き続け、新生児期から成人期を迎えるまでの患者さんを一通り担当しました。特に成育医療研究センターに移ったあとは、大変なことがたくさんありました。成育に入院している子たちの中には、生まれてから一度も退院した事がなく、ずっと何年も入院している子がいて、家に帰る場所を確保しておかないと、親御さんが面会に来なくなることもありました。2歳のTくんという子は実香さんに懐いて、実香さんを母親のように思っていました。そのTくんが亡くなってしまった時のショックは今も心から離れません。
だんだん進行していく神経の病気を抱えたお子さんのいる親御さんのレスパイトをどのように受け入れていくべきなのか、病院ではなく、家にいてサポートしてあげるべきではないか、そういうことをよく考えていました。
 その頃、移植の子を送り出す場面もありました。その時は、自分がもし親の立場だったらつらいだろうなと思っていましたが、まさかそれが自分に課されるとはその時は夢にも思いませんでした。

 東京で9年を過ごした後、実香さんは広島の呉へ行きました。お医者さまをしているご主人と知り合い、その実家のある呉へと行ったのです。長女も生まれ、その長女の通う幼稚園のママ友とは仲良くしていたのですが、夫の実家にはどうしてもなじめませんでした。そこで、病院の院長をしていた義父に頼んで、病院で働くことにしました。お義父さんはとてもいい人で、病院の裏方の仕事についていろいろ教えてくれました。この時の経験は今も役に立っていると感じています。
 長女を生んだ後、3年後に長男がその3年後に次女が生まれました。子ども2人の時も育児は完全に実香さんのワンオペ状態でした。3人になって、ワンオペはとても無理だ、そう感じた実香さんは、次女が生まれる前に富山に戻って子育てをする準備を始めていました。ワンオペがきつかった以上に、広島では自分の子育てはおろか、存在意義さえ全否定される日々が続きました。もうこれ以上は耐えられない。限界が来ていた実香さんは、長女を富山の小学校に、長男を富山の幼稚園に入れる準備をしていたのです。

 そうして富山の病院で次女の澄花ちゃんを産んだ時、実香さんは孤独でどん底の気分でした。それに追い打ちをかけるように、出産13日後、澄花ちゃんは重症の心不全に陥ってしまったのです。すぐに富山大学附属病院のNICUへ入りました。澄花ちゃんは心不全の2回目の重症化の時に心臓が動かなくなりましたが、1週間後に動き始めました。しばらく薬でコントロールしていましたが、子どもの補助人工心臓の治験が日本で3台だけ行われて、その3台目を澄花ちゃんに、という話が持ち上がりました。
 4か月富山大学附属病院の小児病棟で過ごした後、大阪大学医学部附属病院に救急車で転院しました。しかし、状態が悪くなり、ICUに入ります。血圧が40にまで下がり、心不全で高熱を出したまま澄花ちゃんはオペ室へ。そしてすぐに補助人工心臓の手術が行われたのです。幸い術後の経過は順調でした。安静度も制限がなくなりました。それまで飲むものも制限されていましたが、飲みたいものを好きなだけ飲めるのは本当にありがたいことでした。
 病棟で7か月を過ごし、一緒に入院していた子の親御さんとは連帯感が生まれました。
もちろんそれで終わりではありません。治験が終わったらいよいよ渡航移植に向けての準備が始まりました。ご存じのように渡航しての心臓移植には莫大な費用がかかります。ですから、募金でその費用を集めるしかありません。
大阪大学の先生がいろいろ打診してくれた中で、アメリカのピッツバーグ小児病院で受け入れてくれるという返事がきました。ピッツバーグ小児病院で日本人を受け入れてくれるのは澄花ちゃんが初めてでした。
 しかし、澄花ちゃんは脳梗塞を起こしてしまいます。そうなると、募金活動もあきらめなければならないかと思われましたが、そんな時いつも澄花ちゃんは持ち直してくれるのでした。
こうして「澄花ちゃんを守る会」が結成され、2014年3月から募金活動が開始されました。富山でも有志が募金を続け、広島ではママ友が頑張ってくれました。そしてわずか3週間で目標額を達成することができたのです。
 澄花ちゃんの心臓移植の渡航準備は整いました。その時、ピッツバーグから移植チームがくまのぬいぐるみを持って日本に澄花ちゃんを迎えに来てくれたのです!その中には日本人の医師もいました。
 こうして澄花ちゃんは補助人工心臓2台を積んだチャーター機でアメリカピッツバーグへと旅立ちました。
 ピッツバーグに渡ってから、待期期間が2か月ありました。でも、アメリカは待期期間もただ待っているだけではなく、いろいろなイベントがありました。そうして、プロムパーティで澄花ちゃんが猫のフェイスペイントをした翌日に、ドナーが見つかったのです。
 手術は無事に終わりました。けれど、心臓がうまく動いてくれず、もう一度胸を開いてエクモを取り付け、血漿を交換しました。もし72時間を超えても動かなかったらあきらめなければなりませんでした。でも、澄花ちゃんはがんばりました。心臓は動き始め、エクモを離脱することができたのです。
 つらいことがある時は、阪大の心臓外科の先生にメールしたり、富山の友人で今も同僚の中谷さんに電話したりしていました。ピッツバーグの日本人コミュニティにも助けられました。そうして術後1か月経って、退院できたのです。

 もちろん退院したからと言って、すぐに日本に帰れるわけではありませんでした。実香さんは澄花ちゃんと一緒にマクドナルドハウスに滞在し、2か月目に上のお子さん2人と妹さんもピッツバーグに呼んだのです。ずっとお母さんと離れ離れの生活に、上の子たちのストレスが極限に来ていたので、呼び寄せてアメリカで学校に通わせることにしたのでした。兄弟の真ん中の3歳の長男は日本では幼稚園に通えない状態でしたが、実香さんのそばで元気を取り戻し、アメリカの幼稚園に通うようになれたのです。長女はアメリカで小学校に通いました。

 こうして1年アメリカで滞在した後、実香さんと3人の子どもたちは日本へ戻ってきました。帰国後は阪大病院で2〜3週間入院し、その後、富山に帰ってきたのです。
 その2か月後、実香さんを大事にしてくれた義父が亡くなりました。そうして、もう広島へ足が向くことはありませんでした。
 澄花ちゃんは、感染症で下痢をずっとしていた時もありましたが、入院をきっかけに復活し、その後は検査入院以外はしていません。
 就園に関しても就学に関しても、苦労らしい苦労はありませんでした。
保育園も小学校も、澄花ちゃんに寄り添った就園就学支援をしてくれて、澄花ちゃんはすんなり学校生活に入っていけたのでした。そんな澄花ちゃんも、今年小学校2年生になりました。
 
 澄花ちゃんが元気になって、実香さんは中谷さんが立ち上げた訪問看護の仕事を週に2〜3回入るようになっていましたが、もっともっと仕事がしたい、小児の訪問看護をしたいと思うようになりました。そして、澄花ちゃんのような子を預けられる場所も作りたい、そう思いました。
こうして作ったのが、訪問看護ステーションわか木と多機能型重症児デイサービスおはなを運営する株式会社ラ・ファミーユでした。
 今、ラ・ファミーユには富大病院で澄花ちゃんの担当だった看護師さんもスタッフとして加わってくれています。嘱託医は、当時澄花ちゃんの心不全を見つけ、緊急搬送に付き添って下さった先生がなってくれました。志の高いスタッフに囲まれて、実香さんの思いもどんどん高まっています。
 ラ・ファミーユを18歳を過ぎた介護が必要な子も預けられる場所にしたい、訪問看護で関わる高齢の方々の介護や穏やかな最期を過ごせる場所にしたいと、看護小規模多機能の設立も目指しています。ここにくれば子どもたちもそして親もホッとできる、一時期だけではなくてずっとそうなる場所にしたい、いやそんな場所にしていこう、そう決意しています。
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壁の絵もとってもかわいくて本当に居心地がいい場所です♪

 そして今、実香さんの活躍の場所は富山にとどまりません。ひょんなことからネパールとインドの心臓専門のこども病院のお世話をしている人と知り合いになり、日本で暮らす海外の子どもたちやお母さんの医療サポートをして欲しいと頼まれ、Sri Sathya SaiSanjeevani Hospitals trust Japan の理事になりました。そしてまた今度は、子どもたちの医療移送を担い、海外の子供達も安心して在宅医療を受けられるようにと小児専門の訪問看護ステーションを立ち上げて欲しいと頼まれ、一般社団法人『Ohana International』を設立する事になり、そこの代表理事に就任する予定になっています。
ですから、この後、実香さんはますますワールドワイドに羽ばたいていかれることでしょう。

 毎日仕事に追われている実香さんはなかなか時間も作れませんが、土日は子供たちと一緒に過ごす時間を大切にしています。平日は実香さんのご両親に子どもたちの食事も任せているのですが、土日は実香さんが作り、「ママのご飯を食べられるのが嬉しい」と子どもたちが言ってくれるのが嬉しいとお母さんの顔を見せる実香さんなのでした。

ラ・ファミーユのリーフレットには英語でこう書かれています。
Who is a precious one for you?
Who is the light of your life?
大切な人を守り、その人もそしてその人を支える家族も輝き続けられるように、実香さんたちは今日も家族の一員としてとびっきりの笑顔で全力でサポートしていかれるのでしょう。


今日の人203.渋谷秀樹さん [2020年12月17日(Thu)]
 今日の人は、NPO法人バンブーセーブジアース代表や焚き火フェスin大長谷実行委員長、ヨットチーム竜神のメンバー、そして企業と求職者の未来をつなぐ有限会社hs style代表として多方面でご活躍中の渋谷秀樹さんです。
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幼竹伐採にて

 
 渋谷さんは1970年4月に富山市奥田で生まれました。小さい時はお父さんに連れられて海釣りに行ったり、近所のガキ大将について外で遊びまわる元気な子どもでした。
 おじいちゃんは渋谷鉄工所という鉄工所を営み、お父さんは転職が多かったものの大工をしていたので、祖父や父が高いところでかっこよく働く姿にあこがれて大工になりたいと思っていました。
 
 しかし、小学校4年生の時に、お父さんが事故死してしまいます。大きな大きなショックでした。でも、さらにショックだったのはお母さんが1週間あまりずっと仏壇の前で泣いている姿を見ることでした。でも、その後のお母さんは強かった。渋谷さんと2つ下の妹さんをちゃんと育てていかなければと固く誓われたのでしょう。ノエビア化粧品の販売をがんばってどんどん業績を上げ、ご自分で販売会社まで作られたのでした。
 そういうわけで、小4からはほとんどじいちゃんばあちゃんに育てられたような感じでした。ばあちゃんが作るおかずは茶色いおかずが多く、弁当箱を広げてもちっともおしゃれじゃないので、当時はそれがすごくイヤでした。今となればそんなばあちゃんの料理が何よりのごちそうだと思えるけれど、子ども時代はそうは思えなかったのです。
 普段忙しいお母さんも、運動会の時は弁当を作ってくれました。しかし、なぜかお母さんの作る弁当には必ずと言っていいほど、駄菓子屋で売っているイカフライがドーンと入っているのでした。今でもイカフライを見ると、それを懐かしく思い出します。
 
 渋谷さんはラジオが大好きでした。オールナイトニッポンも小学生の時から聴いていたし、洋楽ベスト20という番組が大好きでいつも洋楽を聴いていました。草むしりやふろそうじのお手伝いをするときも、いつもハードなロックを聴いているのでした。

 中学校は奥田中学に。その頃の奥田中学は荒れてることで有名でしたが、上学年に仲良しの子がいたので、あまりそういうゴタゴタには巻き込まれずに済みました。
 部活はサッカー部に入りました。町内の1つ上のガキ大将がサッカー部に「お前入れ」と言われ、答えは「はい」か「イエス」しかありませんでした。好きで入ったサッカー部でもなかったので、そんなに性根は入りませんでした。ゲーセンにはしょっちゅう行っていました。そして中学生のころもまだ大工になりたいと思っていました。
 中3の時には卒業旅行として自分たちで東京へ行きました。当時通っていた歯医者においてあった週刊誌に黒服日記という連載があって、その中にはこんな芸能人が来たなどの記事があり、そこへ行けば自分も芸能人に会えるような気がして、東京へ旅行したのです。当時流行っていた六本木サーカスというディスコビルへ行ったけれど、まだ誰もいない時間でもちろん芸能人には会えませんでした。友達は先にホテルへ戻ってしまい、六本木をプラプラ散歩して部屋に戻ると友達が寝込んでいて、ホテルの部屋に入れないというおまけつきでした。

 高校に行ってからは富山のディスコにしょっちゅう出入りするようになりました。部活は一応サッカー部に入りましたが、遊ぶのが楽しくて名ばかりサッカー部でした。そしてその頃、バンドに目覚め他校の人と一緒にバンドを組んでコンテストに応募したりライブで歌ったりしていました。そうして友達の家で週末は過ごすという高校時代を送っていました。

 高校を卒業した後は、神戸の大学へ。音楽好きの友達と音楽パブに入り浸っていました。いろんなバイトもしました。海辺のレストランで働いたり、バーテンダー、クラブの黒服、いろいろやりました。黒服をしていたクラブは老舗の品のいいクラブでしたが、ヤクザとマルボウの警察官が同じフロアで飲んでいたり、有名な会社の社長が来ていたりして、すごくいい社会勉強になりました。

 渋谷さんは自分で新しいことを企画したり何か作り出すのが好き(作るのが好きという点では大工との共通点がありますね)だったので、広告会社に就職したいと思うようになっていました。就職活動で富山に帰ってきていたとき、息子に自分の会社を継がせたいお母さんは、ある社員と息子を飲みに行かせました。そこで4軒はしごさせられて、その時に「ノエビアに若い世代が来れば、富山を変えられますよ」と熱く語られ、すっかりその気になった渋谷さんはノエビア本社に入社することに決めたのです。

 こうして社会人1年目。赴任地は名古屋でした。半年の研修では47000円の化粧品のセットを10セット飛び込みで売り切るという課題も課せられました。150人いた同期の中でも、10セット売り切ったのはトップクラスでした。
1〜2年経って慣れたころには仕事帰りに毎日タワーレコードに寄って3時間レコードを聴き、ハッピーアワーのビールを飲んで家に帰るというのが日課でした。
 そんなある日、ダイビングショップにふっと立ち寄った時に、ダイビングの魅力に惹かれ、50万円のダイビングセットを買ってしまいました。そうして、ノエビアの仲間と、伊豆、福井、京都、グアム、いろいろな場所へ潜りに行きました。
 冬はドライスーツを着て冬の海に潜るほどではないなぁと思っていた時に、今度はスノボのショップに顔を出して、20万でスノボのセットを買ってしまいます。
 専門ショップに顔を出すと、年齢、性別、社会的な地位を超えたつながりができる感覚が渋谷さんは好きでした。その感覚が、NPO活動でつながりを作っていくときの原点になっているのかもしれません。

 こうして名古屋で充実した日々を過ごし、27歳の時に富山に戻ってきました。
けれど、ずっと富山にしかいない人の考え方や行動範囲がすごく小さく見えて、埋められない距離感を感じました。一人で金沢チームの人と飲みに行くなどして、自分のスケール感は小さくならないように意識していました。今でもそれは意識していて、自分の経験不足を感じさせてくれる10歳年上の人、新しい感覚を教えてくれる10歳年下の人と意識的に付き合うようにしています。

 その頃は素潜りしてアワビやサザエを獲ったり、何か面白いことをしたいといろんな企画を立てました。市内で自販機を探してシールを貼るチキチキバンバンレース(詳しい内容は渋谷さんに直に聞いてみてくださいw)をしてその後に飲み会をしたり、とにかく何かを企むことが大好きだったのです。
 ある時、飲み会で知り合った女性が「私、あんたのことを知っとるよ」と言いました。なんと、渋谷さんが高校の時に付き合っていた子の友達だったのです。二人は意気投合し、二人とも五福で一人暮らしだったことから、よく会うようになりました。その時32歳。
 するとお母さんから食事会をしよう、向こうのご両親も一緒にと誘われ、食事会の流れになりました。そして、「一日も早く結婚せんとダメやちゃ」と言われ、その後大学時代を過ごした神戸に行ってプロポーズ。こうして33歳で結婚し、35歳と39歳の時には、男の子ができました。

 結婚した翌年、山を持っている奥さんの実家からタケノコ堀りに連れていってやると言われました。その竹林は整備していなかったけれど、タケノコ堀りはとても楽しかった。ネットで調べると、放置された竹林が多くなって問題になっていることを知りました。かつては竹は生活と結びついていたけれど、プラスチックにとって代わられた。でも、竹を使って代替燃料にしたり、繊維にしたりと研究をしているところもあります。そして竹は無尽蔵にあるといっていい。これはビジネスになるのでは、と最初は思いました。竹のボランティアチームを作ろうと思い立ち、とやま森の楽校に所属してボランティアのノウハウを身につけていきました。きんたろうクラブにも入って、NPOについていろいろ勉強しました。
そして属していた商工会議所青年部で、協力してくれそうな仲間に声をかけました。それが、今もバンブーセーブジアースで一緒の活動している酒井隆幸さんや田畑さんでした。
 奥田商店街の一角で火曜に打ち合わせが始まりました。今もバンブーの打ち合わせは火曜日なのですが、この時からずっと火曜の打ち合わせが続いているのですね。

 こうしてバンブーセーブジアースは2007年にスタートしました。
 最初に仕掛けたのは、竹で花器を作って、そこに花を飾って奥田商店街の店先に飾るというものでした。商店街の竹の花器作戦は新聞にでかでかと載って、渋谷さんはアドレナリンが出まくりました。メディアをジャックするのが楽しくなって、ローカルメディアすべてにバンブーの活動が取材されました。新聞に継続的に載っていると、手伝いたいという人が現れ始め、15人超のメンバーになりました。そうしてバンブーセーブジアースをNPO法人化したのです。2010年のことでした。
 イベント関連はどれも大成功でした。しかし一方でこれをビジネスにするのは無理だとわかりました。それからは、週末活動としてのサードプレイスと割り切るようになりました。そうするとNPOの活動ももっと楽しめるようになりました。次はどんな楽しいことをやろうか、どんどん提案してそれを実現させていきました。竹のブランコを作ったり、竹でジャングルジムを作ったり、その中で次第にバンブーの認知度もアップしていきました。NPOが次々になくなっていく中で、バンブーセーブジアースは今も確実に活動を続けている団体だという自負があります。

 仕事の上では48歳の時に大きな転機が訪れます。27歳から21年間、母が代表の会社でずっと働いてきました。しかし、48歳の時に独立し、自分で会社を立ち上げたのです。最初はお母さんを説得するのが大変でした。でも、今ではお母さんも「大きい経費がかからなくなったわ」と冗談交じりに言ってくれるまでになりました。
 仕事が忙しくなり、バンブーの活動は控えざるを得なくなると、代わりに副代表の酒井さんががんばってくれるようになりました。今では、バンブーセーブジアースのほとんどの活動は酒井さんに任せるようになっています。
 バンブーの活動拠点もいくつか変わりましたが、今は八ケ山で落ち着いています。多分、ここがバンブーの終の棲家になるのではないかと思っています。酒井さんたちバンブーのメンバーもここで流しソーメンや地域の縁日を開催するなど、地域の交流の拠点になるようにがんばってくれています。

 大長谷にも2011年くらいから通うようになりました。最初は市の広報にそば畑のオーナー募集という記事を奥さんが見つけて、「あなたこれ好きそうだよね」と言ってくれたのです。もちろん飛びつきました。そうして大長谷のそば祭りや山菜祭りの手伝いをするようになって何度も行き来するうちに、大長谷の人たちとも仲良くなって大長谷そばクラブを結成しました。大長谷で作った小麦粉とそば粉を合わせた二八そばの絶品さと言ったら。(ちなみにその小麦とそばを育てたのは先日ブログにご登場いただいた杉林さんです)
 大長谷の郵便局の跡地を友達3人で買ってダッシュ村にしようという計画も立てました。
でも、大長谷に住む若い人たちは決していい給料とは言えません。何か若い人が収益を上げられることができないか、と考えたときに思いついたのが焚き火フェスでした。焚き火をしながらみんなで飲みながら語らう。今年はコロナのこともあって、あまり大きくはできませんしたが、これからもやりたいことを楽しみながらみんなでやって、大長谷のような、限界集落だけどかけがえのない魅力のある地域の宝物のような場所を大切にしていきたいと思っています。

 ヨットも趣味の一つです。富山で開催されたタモリカップには4回とも出場しています。最初に乗っていたヨットはエンジンが動かなくなって手放したのですが、その後、竜神というヨットのメンバーになりました。船のオーナーはヨットを70歳で始めたのですが、82歳になる今も海竜マリーナからロシア、チンタオへとヨットで回り、世界中の船とレースしている憧れの存在です。年を重ねると、憧れの存在がだんだん少なくなってくるけれど、そんなにすごい人が身近にいて、一緒に活動できることが本当に楽しいのです。仕事をがんばるモチベーションの一つがヨットでもあります。平日の3〜4日、ヨットに乗れるように仕事もがんばろう、そう思うのです。

 渋谷さんのポリシーのひとつに「楽しいからやろう」があります。NPO活動もそう。会社の中だけにいては到底出会うことのない人たちとも出会え、そんないろいろな人たちからたくさんの刺激をもらえるのがNPO活動のいいところ。そこを義務感だけでやっていては長続きしない。やはりやっている人たちが楽しめないとだめだ、そう思っています。

 そんな渋谷さんがご自分の会社を立ち上げたのは2018年の4月でした。その会社ではNPO精神も大いに発揮されています。渋谷さんが代表を務める有限会社hs styleは富山の会社の魅力を伝える動画を作っています。ローカル会社がハローワークに求人を出しても、人が集まりません。それは会社の魅力がちゃんと伝わらないからです。動画なら、その会社の魅力をちゃんと伝えることができる。動画の力を使って、求人の力になりたい!そう思って始めた会社です。ノエビア時代の飛び込み訪問のノウハウも生かして、飛び込みで注文をもらっていきました。富山の家族経営企業には、大手に負けない魅力があるところがたくさんあって技術もたくさん持っているのに、広告を出せないばかりに人が集まらない企業がたくさんあります。そんな企業の動画を作って、その魅力を伝えたい。そんな動画がこちらで見られます。一度ぜひご覧になってください。
https://www.youtube.com/channel/UC97w1Pn5_v9W5XKxtftfv6Q?view_as=subscriber
もちろん、渋谷さん自身の会社もどこよりも魅力のある会社にしたいと思っています。会社の理念は「富山でいちばん家族を入れたい会社づくり」そして、子どもに「俺、親父の会社に入りたい」と言ってもらえる会社にしたいのです。働き方も出社、帰社時間の縛りはなし、そして社員がみんなで顔を合わせるのは金曜の夕方だけ。ワーケーション制度を取り入れていて、沖縄に行きたかったら沖縄で働けばいいし、場所と時間を縛っていないのです。働き方の満足度をうんと高めて、どんどんとんがった人に働きに来てもらいたいと思っています。新卒じゃないと終わりみたいな風潮はもうクソくらえです。失敗した人にこそどんどん来てほしい。面接マニュアルに書いてあるようなきれいな答えは求めていない。自分の足で歩かないと自分の言葉がみつかるわけがない。自分の言葉でどんどん語って、ぶつかって、いい会社にしていきたい。渋谷さんのそんな熱い想いがガツンと伝わってきます。
そうして、これからも自分がNPOで培ってきたことを会社で活かしていきたい、そして今度はバンブーに営利的なものをフィードバックして、バンブーセーブジアースをもっと人が集まる場にしていけたらいいなと思っています。
 マルチステークホルダーの仕組み作りがうまくいけば、きっと企業もNPOもハッピーになりますね。私たちもその一端を担っていけたらいいなと感じた今回のインタビューでした。そしていつか、渋谷さんのヨットに乗せてもらえる日を楽しみにしています。
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