日本の事業型の財団で100周年を迎えるものは実は少なくないのですが、ほとんどが第二次世界大戦後に学校法人や社会福祉法人に組織変更を余儀なくされています。また、病院などでも歴史ある財団があります。
これらの財団は、非営利法人としては大規模の法人も少なくはありません。
しかし、基本財産の運用益を収入源としている助成型の財団となると、戦後のインフレを乗り越えることは簡単ではありませんでした。
本ブログでも紹介した公益財団法人原田積善会などごくわずかしかありません。
大阪市の公益財団法人東教育財団は大正14(1925)年3月27日に民法34条に基づく財団法人東区教育財団として設立されました。その1年半前に発生した関東大震災の影響を受けたものと考えられています。
「大正14年3月4日に法円阪町外157 箇町区 (東財産区) の区会が 『区有金30万 円を出捐し、公益を目的とする財団法人 を設立し、これに寄附してその資財の効 用を増大せん』と議決したことを受けて、 広く 『教育其他公益に関する事業』を行 う (仮称) 『財団法人公益会』の設立を 企図したが、 文部省の指導もあり、 事業 を 『東区内の教育の発達改善を計る』 に 止め、 名称を『財団法人東区教育財団』 とすることにより、 同年3月27日、 文部省の設立許可を得た。と、90年史には記録があります。
大阪市が「大大阪」と呼ばれていた時代で、この当時、大阪市は人口や経済力において国内第1位でした。当時の大阪市は東・南・西・北の4区に分かれていたのですが、総合的な財団である「財団法人公益会」を意図したものが、なんと主務官庁の干渉により「財団法人東区教育財団」となったのです。
このように、2006年の公益法人制度改革前には、財団法人(及び社団法人)の名称、寄付行為(現在の定款)、事業内容、さらには理事の人事まで深く主務官庁が干渉していたことは周知の事実でしたが、このように正式の記録に残っていることは稀であり貴重です。
もともと大大阪時代の進取に富む方々が理事としてスタートし、初代理事長は、小西儀助(二代目)でした。小西儀助商店は道修町に現存し重要文化財となっています。また、小西儀助商店は、洋酒を手掛け、同店に丁稚奉公していた鳥井信治郎が後にサントリーを創業するのはあまりにも有名な話です。小西儀助商店は現在でも、ボンド等で有名なコニシとして続いています。
https://youtu.be/8f5tSZUxpl4?si=oP2zNgQU0CZgAYo0&t=407
小西儀助をはじめとする進取の精神をもつ理事の方々の尽力により、幾多の苦難を乗り越えて100周年を迎えています。
日本の誇りとする財団の一つと思いますので、100周年を機に多くの寄附が集まり、本当は「公益会」を目指した創業者たちの精神が花開くことを願っています。