「Rebuttable Presumption(反証可能な推定)」とは、
ある主張が一応の証明が成立していると見なされるが、証拠が提出されない限り、その主張は「真だと推定」される。ただし、間違いだという証拠が出されて初めて「真だという推定」が崩れるという仕組みです。つまり、真であることを証明するのではなく、真ではない「証拠」が出てきたときに初めて「真ではない」と証明されることを言います。
国際非営利会計基準策定のIFR4NPOの議論が大詰めを迎えて、先週、いつものようにオンラインの国際会議が開催されました。その時に「Rebuttable Presumption」という重要用語が出てきました。
不覚にもこの用語を知らなかったのですが、他の参加者は当然のように議論してかなり慌てました。日本の公認会計士は「職業的懐疑心」というものを有することになっており、「Rebuttable Presumption」は、小生の理解するところ、「職業的懐疑心」とは真逆の考え方だと思いますが、あまりにも重要なことなので、会計に関してのこの用語については、もう少し研究させてください。
他方で、公益認定の現場を考えると、この発想の有無が、他国の公益法人類似の非営利団体の数の多さと日本の公益法人の少なさを説明するのに極めて有効な概念ではないかと思った次第です。日本では、年間の公益認定申請数も、公益認定数も、二桁にしかならないという非常に少ない数になっているように思います。イギリスと比べても桁が2つほど違いますし、米国と比べると、桁が3つほど異なっています。
本ブログでも何度も紹介している、第一期の委員であった大内俊身さんの主張は、申請書は真であると推定してかまわないという、まさに「Rebuttable Presumption」に基づく審査を主張していたということではなかったのではないでしょうか?私自身もそのように理解していました。
当初は内閣府では週に100件以上認定を出していたこともあったのが、今では「年間50件」に満たず、全国合わせても年間80件にしかなりません(令和4年度)。
これには大きな審査方法の転換が無意識のうちに(=十分な議論をなされることなく)行われてしまったと考えられないでしょうか?
例えば、日本の行政でも(日本だけではありませんが)、入国審査のときには、 「Rebuttable Presumption」として入国審査カードに書いてある持ち物については真だと推定されて行われます。
(全ての行政庁がそうだとは言いませんが)現在の公益認定審査は、譬えて言えば、すべての入国者に対して、スーツケースを開けさせるだけではなく、微に入り細に入り手荷物検査をしているような状況ではないでしょうか?
そんなことをすれば、入国審査に膨大な時間を擁し、最終的には誰も日本には来たくなくなってしまうでしょう。
審査の状況を見ているわけではないのですが、はっきりとつかんでいる事例からは、「Rebuttable Presumption」に基づかず、「職業的懐疑心」に基づき、公益認定申請が真であることを、次々と申請者に質問を浴びせ、ないしは、資料を要求し、申請側に真であることを挙証させようとしているのではないでしょうか?
たとえば、寄附予定者の預金通帳の残高や確定申告書の写しまで要求し、寄附できる財力があるかを確認していたことが実際に行われていました。
申請していながら、取り下げている比率が30%から50%近くにまで達していたこともうなづけます。
新ガイドラインは上記のような行き過ぎの審査に一定の歯止めをかけようとする効果も意図しているものと思います。しかし、ガイドラインで示すにも限界があり、根本のところは、委員会の委員が「Rebuttable Presumption」(申請書は真と推定する)という態度で臨むのか否かというところにかかってくるのではないでしょうか?
民間の人々が社会貢献をしたいと思って申請することに対して、仁王様のように立ちはだかって、「お前は嘘の申請書をかいているのではないか」と確認するために、わざわざ民間人による委員の構成になっているわけではないと思います。
委員が「Rebuttable Presumption」という態度で臨むのかどうかを国民的な議論で明確にしていかないと、また、苦労して作り上げた改革が、また元の黙阿弥になってしまいそうな気がします。
改めてぜひご検討をお願いします。