朝日新聞社記者 辻陽明氏の遺したもの 遺志を継ぐ者
[2015年08月01日(Sat)]
110年ぶりの公益法人制度改革が実現する過程で忘れてはならない人物の一人に、辻陽明氏(故人)がいる。マスメディアが公益法人制度改革についてなかなか取りあげない中で、論点を明確にして孤軍奮闘していた記者である。その記事は間違いなく当局の方針に影響を与え、非営利組織関係者に勇気を与えた。病に倒れ53歳の若さで不帰の人となってから、もう6年が経つ。
このほど、ご家族と朝日新聞社やNPO関係者等の多くの人の手によって、故人が情熱を傾けた新聞連載「新市民伝」(2005年10月8日〜2007年2月24日)が、辻陽明+新市民伝制作プロジェクト著『新市民伝 NPOを担う人々』(講談社エディトリアル)として蘇り、上梓された。
「背広にネクタイを締めた、いい大人が大騒ぎをしている。何かが起こっている」辻氏はこう語っていた。公益法人制度改革に飛びついたときである。その後の辻氏の猛烈な取材ぶりは今でも語り草だ。毎回、朝7時30分に公益法人協会へ取材に行き、日本のどこでも飛んで行った。「混迷日本の突破口を開く鍵がここにある」(同書帯書き)という信念の賜だろう。
2003年から公益法人税制をめぐって「原則課税か原則非課税か」という些か大上段に構えすぎの二分法による議論が行われていたが、辻氏はこの問題を何度も掘り下げて記事にした。大阪から政府税制調査会に出席していた小生は、その記事の影響力を肌で感じながら東京ステーションホテルで辻氏の「取材」を最終の新幹線まで繰り返し受けていた。その手法は「取材」というよりも情熱をぶつけた議論でもあり、「多様性のコスト」(ごく少数の不届きな法人のために税制で多様性を殺してはならない。不届きな法人にかかる社会的なコストは多様性のコストとして社会が許容すべきである)という言葉を彼は何度も何度も口にした。
さらに、有識者会議が始まり制度改革が具体性を帯びると、民間の声を拾い上げる記事を頻繁にものにした。辻氏の記事は公益法人制度と税制に確かな影響を与えた。彼こそ最初の「公益法人等・公益認定ウォッチャー」だったのではないか。
制度面の議論が進展する中で「新市民伝」は朝日新聞の週末別刷り『be』に連載された異色の連載だった。そこでは非営利組織(NPO=法人格の種類にこだわらない様々な非営利組織)の人そのものに焦点を当て、日本の将来の可能性を導き出そうとするものであった。練られた短文は、NPOを担う人々の人生を端的に表現し、なぜその道に進んだのかを的確に示していた。NPO関係者を英雄や変わり者として扱うようなこともなく、誰もが人生を送っていけばNPO活動に目覚めることがあることを描いていた。そのうねりこそが社会を動かす。そういう信念だったのではないか。今回上梓されたものは、辻氏の遺志を引き継いで、連載時から現代までの時間の空白を丹念に埋めた緻密な書として仕上がっている。
同書を改めて読むと、「NPO改革の全貌を多角的に伝え」(同書)ようとする試みであるとともに、辻氏が新聞記者としての新しい記者魂を示そうとしていたように思えてならない。失礼ながら新聞というものはどう言い訳しても政官財といった社会の上層部から出された情報をもとに多くの紙面が構成されている。その中で、政官財ではない「新市民」という取材層を辻氏は「発見」し、特色ある紙面を示そうとしたのではないか。彼の「『新市民』の発見」と似たような出来事として、柳田國男の、それまでの研究者が研究対象としなかった「常民」という概念の創出とを重ねてみてしまうのは小生の職業病だろうか。
実は辻氏と小生とには浅からぬ縁がある。辻氏に初めて会ったのは、明治100年と言われた1968年4月まで遡る。70年の大阪万博を直前に控え、パビリオンの槌音が聞こえてきそうな大阪府吹田市千里の公立中学校でのことであった。東京の小学校を卒業して父の仕事の関係で大阪へ転居した小生は、誰も知る者のいない中学校へ入学し、辻氏と出会った。
辻氏は隣のクラスで、二時限続きの体育だけは一緒に授業を受けた。1学期は何事もなかったのだが、小生は夏休みにふとしたことから医者に掛かり、肝臓と腎臓が悪いとレッテルを貼られてしまった(数年後に結局誤診と判明)。それ以降、体育の時間は見学するだけであった。体育の先生は600メートル競走をさせ、タイムを計っては、毎週上位者の名前を廊下に貼りだしていた。辻氏は後にオリンピック代表候補となった者とともに、そのリストの常連であり、その走る姿は羨望の的であった。また、端正なマスクと大人びた立居振舞は中学生のころから圧倒的なオーラを放っていた。
万博が開幕する直前に再び父の仕事で転校を余儀なくされた小生は、それ以来、「辻陽明」のことは気になりながらも、消息を知ることはなかった。ところが、1990年代初頭に、財界のトップを筆鋒鋭く批判する写真入りの署名記事を見つけ、朝日新聞の記者になっていたことを知った。
辻氏と再会したのは今世紀に入ってからである。卒業すらしていない転校生のことを辻氏はさすがに覚えていなかったが、共通の同級生の話になると膝を乗り出してきた。大阪が最も輝いていた70年大阪万博の時代の、万博から一番近い中学での話である。結局、転校を繰り返し3つも通ってしまった中学校のうち、時代精神を存分に浴びたその中学にだけは雨の日の記憶がない。
実は「新市民伝」を連載していたころ、同級生という関係に戻った辻君に書籍の出版を勧めたことがある。その際、彼はこう言い放った。「本?いったい何人が読むのだ。何百万部という新聞に書くことこそ一番だ」と。間違いなく辻君は筋金入りの記者であった。そして6年も熟成して今度は後世の人に読んでもらうための書籍として今蘇った。NPOで活躍する方々の姿とともに、そこに現れた辻君の「記者魂」=「公益法人等・公益認定ウォッチャー」魂をこそ見てもらいたい。
このほど、ご家族と朝日新聞社やNPO関係者等の多くの人の手によって、故人が情熱を傾けた新聞連載「新市民伝」(2005年10月8日〜2007年2月24日)が、辻陽明+新市民伝制作プロジェクト著『新市民伝 NPOを担う人々』(講談社エディトリアル)として蘇り、上梓された。
「背広にネクタイを締めた、いい大人が大騒ぎをしている。何かが起こっている」辻氏はこう語っていた。公益法人制度改革に飛びついたときである。その後の辻氏の猛烈な取材ぶりは今でも語り草だ。毎回、朝7時30分に公益法人協会へ取材に行き、日本のどこでも飛んで行った。「混迷日本の突破口を開く鍵がここにある」(同書帯書き)という信念の賜だろう。
2003年から公益法人税制をめぐって「原則課税か原則非課税か」という些か大上段に構えすぎの二分法による議論が行われていたが、辻氏はこの問題を何度も掘り下げて記事にした。大阪から政府税制調査会に出席していた小生は、その記事の影響力を肌で感じながら東京ステーションホテルで辻氏の「取材」を最終の新幹線まで繰り返し受けていた。その手法は「取材」というよりも情熱をぶつけた議論でもあり、「多様性のコスト」(ごく少数の不届きな法人のために税制で多様性を殺してはならない。不届きな法人にかかる社会的なコストは多様性のコストとして社会が許容すべきである)という言葉を彼は何度も何度も口にした。
さらに、有識者会議が始まり制度改革が具体性を帯びると、民間の声を拾い上げる記事を頻繁にものにした。辻氏の記事は公益法人制度と税制に確かな影響を与えた。彼こそ最初の「公益法人等・公益認定ウォッチャー」だったのではないか。
制度面の議論が進展する中で「新市民伝」は朝日新聞の週末別刷り『be』に連載された異色の連載だった。そこでは非営利組織(NPO=法人格の種類にこだわらない様々な非営利組織)の人そのものに焦点を当て、日本の将来の可能性を導き出そうとするものであった。練られた短文は、NPOを担う人々の人生を端的に表現し、なぜその道に進んだのかを的確に示していた。NPO関係者を英雄や変わり者として扱うようなこともなく、誰もが人生を送っていけばNPO活動に目覚めることがあることを描いていた。そのうねりこそが社会を動かす。そういう信念だったのではないか。今回上梓されたものは、辻氏の遺志を引き継いで、連載時から現代までの時間の空白を丹念に埋めた緻密な書として仕上がっている。
同書を改めて読むと、「NPO改革の全貌を多角的に伝え」(同書)ようとする試みであるとともに、辻氏が新聞記者としての新しい記者魂を示そうとしていたように思えてならない。失礼ながら新聞というものはどう言い訳しても政官財といった社会の上層部から出された情報をもとに多くの紙面が構成されている。その中で、政官財ではない「新市民」という取材層を辻氏は「発見」し、特色ある紙面を示そうとしたのではないか。彼の「『新市民』の発見」と似たような出来事として、柳田國男の、それまでの研究者が研究対象としなかった「常民」という概念の創出とを重ねてみてしまうのは小生の職業病だろうか。
実は辻氏と小生とには浅からぬ縁がある。辻氏に初めて会ったのは、明治100年と言われた1968年4月まで遡る。70年の大阪万博を直前に控え、パビリオンの槌音が聞こえてきそうな大阪府吹田市千里の公立中学校でのことであった。東京の小学校を卒業して父の仕事の関係で大阪へ転居した小生は、誰も知る者のいない中学校へ入学し、辻氏と出会った。
辻氏は隣のクラスで、二時限続きの体育だけは一緒に授業を受けた。1学期は何事もなかったのだが、小生は夏休みにふとしたことから医者に掛かり、肝臓と腎臓が悪いとレッテルを貼られてしまった(数年後に結局誤診と判明)。それ以降、体育の時間は見学するだけであった。体育の先生は600メートル競走をさせ、タイムを計っては、毎週上位者の名前を廊下に貼りだしていた。辻氏は後にオリンピック代表候補となった者とともに、そのリストの常連であり、その走る姿は羨望の的であった。また、端正なマスクと大人びた立居振舞は中学生のころから圧倒的なオーラを放っていた。
万博が開幕する直前に再び父の仕事で転校を余儀なくされた小生は、それ以来、「辻陽明」のことは気になりながらも、消息を知ることはなかった。ところが、1990年代初頭に、財界のトップを筆鋒鋭く批判する写真入りの署名記事を見つけ、朝日新聞の記者になっていたことを知った。
辻氏と再会したのは今世紀に入ってからである。卒業すらしていない転校生のことを辻氏はさすがに覚えていなかったが、共通の同級生の話になると膝を乗り出してきた。大阪が最も輝いていた70年大阪万博の時代の、万博から一番近い中学での話である。結局、転校を繰り返し3つも通ってしまった中学校のうち、時代精神を存分に浴びたその中学にだけは雨の日の記憶がない。
実は「新市民伝」を連載していたころ、同級生という関係に戻った辻君に書籍の出版を勧めたことがある。その際、彼はこう言い放った。「本?いったい何人が読むのだ。何百万部という新聞に書くことこそ一番だ」と。間違いなく辻君は筋金入りの記者であった。そして6年も熟成して今度は後世の人に読んでもらうための書籍として今蘇った。NPOで活躍する方々の姿とともに、そこに現れた辻君の「記者魂」=「公益法人等・公益認定ウォッチャー」魂をこそ見てもらいたい。
コメントありがとうございます。
辻君が生きていてくれたらと思う日々です。
>伊井野 雄二さん
>
>素晴らしい。話だ。
>当方も熱心な取材を受けた者だ。当時は青少年や子どもの里山体験キャンプを日常的にやっている時期で、今でも覚えているのは、「ソーメン流し」のイベントに用意する山のようなソーメンを水でしごく仕事をエブロな姿で、奮闘した彼の姿だ。
>大新聞の編集委員がここまでするかという思いが沸き上がった。
>その夜 二人で呑み語り合ううちに、酒が切れてしまった。それほどの語り合いは、前後一度もない。
>その数日「切れた酒の埋め合わせに」と、金沢の銘酒「天狗舞」を送ってきた。そうそう飲める酒ではなものを気軽に送ってくる様は、やはりカッコよかったのは言うまでもない。
>「お別れの会」にも参加して、彼のサックスを聞きたかったと思うと同時に、あらためてなぜ死んだかと落涙した。
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