新年が明けましたね

昨年は予期せぬ新型コロナウイルス感染拡大により、
学びのあり方を含め生活が変化した激動の一年でしたが、
リモートによる活動が普及したことにより、アメリカにいても日本と繋がる機会が増えたように思います。
修士課程の学業生活も残り半年となりました。本年もどうぞよろしくお願いいたいます。
動画はこちらより@はじめに今月は、社会の中でろう者に対する差別がなぜ生じるのか、
そのパワー(以下、権力)がどう働くのかについて考えてみたいと思います。
言わずもがな、ろう者は長年マイノリティとして色々な抑圧に苦しんできました。
ろう者が権力に作用されて差別に苦しむのは、単に少数民族だからというわけではありません。
大学院入学当初、先生からろう者学に重要な視座は、
権力の概念の理解、
フーコーの生権力と
デリダの音声中心主義だと言われ、
これについてずっと考えてました。
そこで今月はそれらの概念に触れながら、
ろう者を取り巻く権力とろう文化の関係について考えてみたいと思います。
今月のポイントです。
・ろうの問題を紐解くと、単純な言説とそれによって構造化された伝統や秩序から来ていることがわかる
・伝統や秩序にある見えにくいものが権力として作用しており、それを解き明かし、解体を行うことを脱構築という
・ろうにまつわる言説の脱構築がろう者学の目指すところである
・権力の存在がなければ、聴社会との分断のきっかけとなるろうコミュニティは生まれなかったかもしれないという見方もある
Aデリダの音声中心主義まず、デリダが提唱した音声中心主義(Phonocentrism:フォノセントリズム)とその解体についてみていきます。
これは文字通り
音声が優位にあり、音声中心に社会が構成されているという考え方です。
手話が言語としてなかなかみなされない一つの鍵となる考えとなります。
デリダがまず着目したのは
音声言語(Parole:パロール)と
文字言語(Ecriture:エクリチュール)の
二項対立とそこにおける力関係でした。
ギリシャ哲学者の一人であるプラトンのいた紀元前の時代、つまり約2400年前から、
ろう者が自然言語として使用している手話の存在に気づいていながらも、それはろう者たちのものであって、
言語としてみなされていなかったことがわかっています(Plato, 1998)。
そのプラトン以来、西洋では
パロールである音声が優位にあり、
エクリチュールの文字は従属したものとして下位にあるとしてきた状況を音声中心主義といい、その体制を批判しました。
さらに、
手話は文字より下位のものと位置付けられていると思われます(Bauman, 2009)。
Bフーコーの生権力
フランスの哲学者のフーコーは、抑圧に根付く権力はどこから来るのかという問に対して、言説に着目しました(Faucault, 1997)。
彼によると、
言説は
真理を正当化したものであると言っています。
透明化され、真実であると思われていることであっても、実際は他の知識を排除・禁止したもので、隠されている何かがあるというのです。
私たちが当たり前に使っている言葉の定義も何かを枠に当てはめ、そして、何かを排除しています。
例えば、何が言語で、何が言語でないのか、これは言語学のルールで定めています。
言語は恣意的であるという規則を正当化し、手話は類像的であり、恣意的ではないということから、
言語という箱=定義の枠から除外されていました。(詳細は2019年10月の
生活記録をご参照ください)
学問という正当な真理というものも結局は中立でないのです。
また、フーコーは、この
権力と紙一重である言説は、上記の学問をはじめとし、
その知識を生成する学校や刑務所など主に
施設や制度などの組織(Institution)によって形成されることに着眼しました。
組織には絶対的な権限を持つ人がいます。聴力検査などの分類を通して、特定の集団、すなわちろう者を規格化しようとします。
こうした権限を持つ人は
神格化され、周囲はその人の言うことに従順します。
神格化された人によって行われる
検査や
監視は
身体を規格化し、
訓練を通して
人々を同一化します。
このように
規格化されるプロセスが可視化されることで、あたかも公平であるように映り、
さらに
身体を通して規格化されることで、人々は
従順し、抗えなくなります。
こうして
身体の規格化を通して権力が使用されることを、
生権力と言います。
C権力の産物としてのろう文化権力の行使に気づき、それに対抗できるためには何が必要でしょうか。
権力への
対抗が具体的な実践として体現化されてできた産物がろう文化というふうに私は解釈しています。
聴者との確固たる分離があったからこそ、ろう者独特の生活様式や価値観が生まれたということです。
だから、ろう文化は単に聴者とのの違いを語るだけでよいのかと思うことがしばしばあります。
こうした言説に基づく社会構造を紐解く作業を行うところの延長線に
ろう文化があることを忘れてはいけないと個人的には思っています。
Dまとめ以上より、哲学者や言語学者といった権威ある者たちが築き上げ、正当化された知識によって、
手話は音声言語より劣っているという言説が主流となったという歴史を見ることができます。
口話主義は1880年のミラノ会議を契機に始まったとよく言い伝えられていますが、
それはあくまでも国際的かつ政策的な決定であって、その思想はその当時に始まったものではないということがわかります。
さらに、その口話主義は、生権力を行使する学校や病院といった施設や制度を通して訓練によって強化し、手話を排除しようとしました。
権力は見えない形で抑圧を生んでいるということになります。
一方で、この見えざる権力がなければ、ろう学校が設立されることはなく、
そこでろうコミュニティやろう文化が生まれることもなかったかもしれません。
つまり、皮肉にも
ろう文化は権力の産物ともいえます。
<参考文献

>
Bauman, H-D. (2008). Listening to phonocentrism with Deaf eyes: Derrida’s mute philosophy of (sign) language.
A Biannual Journal, 9(1), January.
Foucault, M. (1977). Discipline and Punish. New York: Pantheon. In Rabinow, P (Ed). (1984).
The Foucault Reader. New York: Pantheon.
Plato. (1998).
Cratylus (C. D. C. Reeve、Trans). Indianapolis, IN. Hackett Publishing Company.