
ろう者の学生生活って?その2[2009年08月16日(Sun)]
ろう者の学生生活って?その2
富田 望
情報障害による弊害のない授業/講義ってなに?書いたのを覚えているだろうか?
六月の生活記録でも書いたように、ろう者が授業/講義を受ける時の情報量の状況は,大きく二つに分かれると思う。
一つはクラスの中で、ほとんど視覚モードによるコミュニケーションを使っている状況。教授/教師が手話を知っており、情報が視覚モードとして、ダイレクトにろう生徒に伝わる。
二つ目が、音声言語を媒介としたコミュニケーションを使っている状況、つまり、ろう者は手話通訳やノートテイクを通して講義/授業を受ける。インダイレクトに情報がろう者に伝わる状況である。
大体の例としてはインテ育ちのろう者、または一般の大学に通学し、情報保障サーピスを受けている聾者になる。これに対し、前者は手話を推進する聾学校、または聾教授、もしくは手話を知っている教授のいる筑波大学、明晴学園あたりだろうか。まぁ、その視覚モード化された情報が書記文法的であるか、手話文法的であるかは置いといてである。
こうしてまとめてみると、ほんとうに聾者は「情報障害」だといわれる所以がよくわかる。六月の生活記録では「弊害のない授業って何?」と問題提起してみたものの、うまく結論づけることができなかった上に、締まりのない文章になってしまった。
本来ならば、「ろう者にとって情報障害による弊害のない授業というのは、これである」といって結論づけるべきであろう。しかし、それがなかなか難しい。なぜなら、ろう者の言語力というのは、個々によって差があるからだ。手話を母語としないろう者にとっては、手話による講義/授業が逆に、しんどい時もある。
仮に百歩ゆずって、視覚化された情報、すなわち、情報をダイレクトに受ける事の出来る状況が、ろう者によっては、弊害/障害の少ない授業であるとを主張するとしても、書記文法的であるべきか、手話文法的であるべきかに関しては、ここでは触れない。というのは、一般的に、高確率でろう者が健常者の親を持ってうまれる事、またほとんどのろう者が聾学校ではなく、健常学校へいく確率の方が高いという「事実」を考えると、ケースバイケースだからだ。
とりあえず、すこしでも、どちらがろう者にとっては、弊害のない授業であるかを結論づけようと考えると、ひとつのことに気づく。
ろう者自身が、情報障害による弊害/障害 そのもの、また自分の状況/位置を「よくわかっていない」ということはないだろうか?
「よくわかっていない」という状況とはどういうことか。二つのケースを書くので、読んで比較してほしい。
ケース1:健常学校育ち、健常者の親。健常者にどちらかというと“慣れている”ろう者。
「いままで日本語が苦手だとおもったことがない」もしくは「大変だけど、それは皆同じだとおもうし、今までも、特になにも問題はなかった。聾学校に行ったこと、もしくは手話で講義/授業をうけたことはない。でも手話は困らない程度にわかるし、聾学校でも大丈夫じゃないかな。」
何が問題?(ケース1)
今まで自分がいた環境(聾一人+健常者)が普通。情報はいつもダイレクトではない(先生との一対一をのぞいて)ので、視覚モードとしてダイレクトに生徒に伝わる授業がどういうことなのかが、理解できない。なにが「普通」なのかが見えないが故に、自分を客観的に捉えることができないのである。
ケース2:逆に前者のケース、聾学校育ち、もしくは手話を知っている先生から講義/授業を受けるのに慣れているろう者。
「手話通訳やノートテイクを介しての授業をはじめてうけた。手話や日本語の意味は解るんだけど、内容や状況がよくわからない。要するに何って思う」
なにが問題?(ケース2)手話/聾文化と日本語、/健常文化との差異による戸惑い。それは、言語にとどまらず、概念的理解、文化的見解問題にまで及び、情報保障サービスを受ける時に「変なストレス」を感じてしまうことが多い。本人は自分の視点や認識が「普通」と思うから、「あれ、ちょっと変だぞ」と思う状況に直面した時に戸惑うのである。
これは極端な例であって、全てのろう者がこうなるわけではない。要するに私の言いたいことは、ろう者はどっち側にしても、見方次第で、情報障害による弊害/障害が生まれるということ。そして、このように、ろう者自身も、あれ、ちょっと変だぞ、と思っても、なぜ、そう思うのかが、よくわかっていないことが多いのだ。
一般論で、ろう者には「情報保障サービスがあれば、、、なんとかなる」というけれど、物事はそんなに単純ではないし、事実、多様の聾者のニーズに対応するのは、なかなか難しい。
サービスユーザーも、サービスユーザーである。「あーしてほしい、こーしてほしい」というだけではなく、自分たちの必要、不必要を、妥協範囲内できちんと申請できるようにしなければ、サービスの質の向上とか言う以前に、変なズレがうまれる。だからこそ、サービスユーザー、つまりろう者が自分の位置/場所をきちんと捉えることは必要で、そこに聾文化の価値が生まれるようにおもう。
一つ確かなのは、この社会が、ろう者をマイノリティグループであると定義づける限り、ろう者が情報障害による弊害のない授業/講義に出会うのは難しいということ。だからこそ、問題が複雑化するようにおもうのだ。
まぁ、あれこれ言ってしまったけれど、高等教育の情報保障うんぬんというのは私の専門ではないし、同期奨学生である岡田くんに、日本帰国後、うーんと頑張ってもらいたいものだ。
富田 望
情報障害による弊害のない授業/講義ってなに?書いたのを覚えているだろうか?
六月の生活記録でも書いたように、ろう者が授業/講義を受ける時の情報量の状況は,大きく二つに分かれると思う。
一つはクラスの中で、ほとんど視覚モードによるコミュニケーションを使っている状況。教授/教師が手話を知っており、情報が視覚モードとして、ダイレクトにろう生徒に伝わる。
二つ目が、音声言語を媒介としたコミュニケーションを使っている状況、つまり、ろう者は手話通訳やノートテイクを通して講義/授業を受ける。インダイレクトに情報がろう者に伝わる状況である。
大体の例としてはインテ育ちのろう者、または一般の大学に通学し、情報保障サーピスを受けている聾者になる。これに対し、前者は手話を推進する聾学校、または聾教授、もしくは手話を知っている教授のいる筑波大学、明晴学園あたりだろうか。まぁ、その視覚モード化された情報が書記文法的であるか、手話文法的であるかは置いといてである。
こうしてまとめてみると、ほんとうに聾者は「情報障害」だといわれる所以がよくわかる。六月の生活記録では「弊害のない授業って何?」と問題提起してみたものの、うまく結論づけることができなかった上に、締まりのない文章になってしまった。
本来ならば、「ろう者にとって情報障害による弊害のない授業というのは、これである」といって結論づけるべきであろう。しかし、それがなかなか難しい。なぜなら、ろう者の言語力というのは、個々によって差があるからだ。手話を母語としないろう者にとっては、手話による講義/授業が逆に、しんどい時もある。
仮に百歩ゆずって、視覚化された情報、すなわち、情報をダイレクトに受ける事の出来る状況が、ろう者によっては、弊害/障害の少ない授業であるとを主張するとしても、書記文法的であるべきか、手話文法的であるべきかに関しては、ここでは触れない。というのは、一般的に、高確率でろう者が健常者の親を持ってうまれる事、またほとんどのろう者が聾学校ではなく、健常学校へいく確率の方が高いという「事実」を考えると、ケースバイケースだからだ。
とりあえず、すこしでも、どちらがろう者にとっては、弊害のない授業であるかを結論づけようと考えると、ひとつのことに気づく。
ろう者自身が、情報障害による弊害/障害 そのもの、また自分の状況/位置を「よくわかっていない」ということはないだろうか?
「よくわかっていない」という状況とはどういうことか。二つのケースを書くので、読んで比較してほしい。
ケース1:健常学校育ち、健常者の親。健常者にどちらかというと“慣れている”ろう者。
「いままで日本語が苦手だとおもったことがない」もしくは「大変だけど、それは皆同じだとおもうし、今までも、特になにも問題はなかった。聾学校に行ったこと、もしくは手話で講義/授業をうけたことはない。でも手話は困らない程度にわかるし、聾学校でも大丈夫じゃないかな。」
何が問題?(ケース1)
今まで自分がいた環境(聾一人+健常者)が普通。情報はいつもダイレクトではない(先生との一対一をのぞいて)ので、視覚モードとしてダイレクトに生徒に伝わる授業がどういうことなのかが、理解できない。なにが「普通」なのかが見えないが故に、自分を客観的に捉えることができないのである。
ケース2:逆に前者のケース、聾学校育ち、もしくは手話を知っている先生から講義/授業を受けるのに慣れているろう者。
「手話通訳やノートテイクを介しての授業をはじめてうけた。手話や日本語の意味は解るんだけど、内容や状況がよくわからない。要するに何って思う」
なにが問題?(ケース2)手話/聾文化と日本語、/健常文化との差異による戸惑い。それは、言語にとどまらず、概念的理解、文化的見解問題にまで及び、情報保障サービスを受ける時に「変なストレス」を感じてしまうことが多い。本人は自分の視点や認識が「普通」と思うから、「あれ、ちょっと変だぞ」と思う状況に直面した時に戸惑うのである。
これは極端な例であって、全てのろう者がこうなるわけではない。要するに私の言いたいことは、ろう者はどっち側にしても、見方次第で、情報障害による弊害/障害が生まれるということ。そして、このように、ろう者自身も、あれ、ちょっと変だぞ、と思っても、なぜ、そう思うのかが、よくわかっていないことが多いのだ。
一般論で、ろう者には「情報保障サービスがあれば、、、なんとかなる」というけれど、物事はそんなに単純ではないし、事実、多様の聾者のニーズに対応するのは、なかなか難しい。
サービスユーザーも、サービスユーザーである。「あーしてほしい、こーしてほしい」というだけではなく、自分たちの必要、不必要を、妥協範囲内できちんと申請できるようにしなければ、サービスの質の向上とか言う以前に、変なズレがうまれる。だからこそ、サービスユーザー、つまりろう者が自分の位置/場所をきちんと捉えることは必要で、そこに聾文化の価値が生まれるようにおもう。
一つ確かなのは、この社会が、ろう者をマイノリティグループであると定義づける限り、ろう者が情報障害による弊害のない授業/講義に出会うのは難しいということ。だからこそ、問題が複雑化するようにおもうのだ。
まぁ、あれこれ言ってしまったけれど、高等教育の情報保障うんぬんというのは私の専門ではないし、同期奨学生である岡田くんに、日本帰国後、うーんと頑張ってもらいたいものだ。