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聴覚障害者留学
 
 このブログは、2004年度より特定非営利活動法人(NPO)日本ASL協会が日本財団の助成の下実施しております「日本財団聴覚障害者海外奨学金事業」の奨学生がアメリカ留学の様子および帰国後の活動などについてお届けするものです。
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ろう者の学生生活って?その2[2009年08月16日(Sun)]
ろう者の学生生活って?その2
富田 望
 
 情報障害による弊害のない授業/講義ってなに?書いたのを覚えているだろうか?

 六月の生活記録でも書いたように、ろう者が授業/講義を受ける時の情報量の状況は,大きく二つに分かれると思う。

一つはクラスの中で、ほとんど視覚モードによるコミュニケーションを使っている状況。教授/教師が手話を知っており、情報が視覚モードとして、ダイレクトにろう生徒に伝わる。

二つ目が、音声言語を媒介としたコミュニケーションを使っている状況、つまり、ろう者は手話通訳やノートテイクを通して講義/授業を受ける。インダイレクトに情報がろう者に伝わる状況である。

 大体の例としてはインテ育ちのろう者、または一般の大学に通学し、情報保障サーピスを受けている聾者になる。これに対し、前者は手話を推進する聾学校、または聾教授、もしくは手話を知っている教授のいる筑波大学、明晴学園あたりだろうか。まぁ、その視覚モード化された情報が書記文法的であるか、手話文法的であるかは置いといてである。

 こうしてまとめてみると、ほんとうに聾者は「情報障害」だといわれる所以がよくわかる。六月の生活記録では「弊害のない授業って何?」と問題提起してみたものの、うまく結論づけることができなかった上に、締まりのない文章になってしまった。

 本来ならば、「ろう者にとって情報障害による弊害のない授業というのは、これである」といって結論づけるべきであろう。しかし、それがなかなか難しい。なぜなら、ろう者の言語力というのは、個々によって差があるからだ。手話を母語としないろう者にとっては、手話による講義/授業が逆に、しんどい時もある。

 仮に百歩ゆずって、視覚化された情報、すなわち、情報をダイレクトに受ける事の出来る状況が、ろう者によっては、弊害/障害の少ない授業であるとを主張するとしても、書記文法的であるべきか、手話文法的であるべきかに関しては、ここでは触れない。というのは、一般的に、高確率でろう者が健常者の親を持ってうまれる事、またほとんどのろう者が聾学校ではなく、健常学校へいく確率の方が高いという「事実」を考えると、ケースバイケースだからだ。
 
 とりあえず、すこしでも、どちらがろう者にとっては、弊害のない授業であるかを結論づけようと考えると、ひとつのことに気づく。

 ろう者自身が、情報障害による弊害/障害 そのもの、また自分の状況/位置を「よくわかっていない」ということはないだろうか?

「よくわかっていない」という状況とはどういうことか。二つのケースを書くので、読んで比較してほしい。

ケース1:健常学校育ち、健常者の親。健常者にどちらかというと“慣れている”ろう者。

「いままで日本語が苦手だとおもったことがない」もしくは「大変だけど、それは皆同じだとおもうし、今までも、特になにも問題はなかった。聾学校に行ったこと、もしくは手話で講義/授業をうけたことはない。でも手話は困らない程度にわかるし、聾学校でも大丈夫じゃないかな。」


何が問題?(ケース1)
 今まで自分がいた環境(聾一人+健常者)が普通。情報はいつもダイレクトではない(先生との一対一をのぞいて)ので、視覚モードとしてダイレクトに生徒に伝わる授業がどういうことなのかが、理解できない。なにが「普通」なのかが見えないが故に、自分を客観的に捉えることができないのである。

ケース2:逆に前者のケース、聾学校育ち、もしくは手話を知っている先生から講義/授業を受けるのに慣れているろう者。

「手話通訳やノートテイクを介しての授業をはじめてうけた。手話や日本語の意味は解るんだけど、内容や状況がよくわからない。要するに何って思う」


なにが問題?(ケース2)手話/聾文化と日本語、/健常文化との差異による戸惑い。それは、言語にとどまらず、概念的理解、文化的見解問題にまで及び、情報保障サービスを受ける時に「変なストレス」を感じてしまうことが多い。本人は自分の視点や認識が「普通」と思うから、「あれ、ちょっと変だぞ」と思う状況に直面した時に戸惑うのである。

 これは極端な例であって、全てのろう者がこうなるわけではない。要するに私の言いたいことは、ろう者はどっち側にしても、見方次第で、情報障害による弊害/障害が生まれるということ。そして、このように、ろう者自身も、あれ、ちょっと変だぞ、と思っても、なぜ、そう思うのかが、よくわかっていないことが多いのだ。

 一般論で、ろう者には「情報保障サービスがあれば、、、なんとかなる」というけれど、物事はそんなに単純ではないし、事実、多様の聾者のニーズに対応するのは、なかなか難しい。

サービスユーザーも、サービスユーザーである。「あーしてほしい、こーしてほしい」というだけではなく、自分たちの必要、不必要を、妥協範囲内できちんと申請できるようにしなければ、サービスの質の向上とか言う以前に、変なズレがうまれる。だからこそ、サービスユーザー、つまりろう者が自分の位置/場所をきちんと捉えることは必要で、そこに聾文化の価値が生まれるようにおもう。

 一つ確かなのは、この社会が、ろう者をマイノリティグループであると定義づける限り、ろう者が情報障害による弊害のない授業/講義に出会うのは難しいということ。だからこそ、問題が複雑化するようにおもうのだ。

 まぁ、あれこれ言ってしまったけれど、高等教育の情報保障うんぬんというのは私の専門ではないし、同期奨学生である岡田くんに、日本帰国後、うーんと頑張ってもらいたいものだ。