2010年11月生活報告 (4期生 川上恵)[2010年12月14日(Tue)]
11月上旬にキャンパス内で世界ろう映画祭(World Deaf Cinema Festival 2010)が開催された。米国だけでなく、ヨーロッパからも出品があり、日本からは、ろうの映画監督の大舘信広氏の作品であった。その映画のタイトルは「アリとキリギリス」だった。久しぶりに日本のろう映画を観たのだが、やっぱり画面越しにみる日本手話は落ち着くものである。奥深く感じ入る内容だったのにもかかわらず、受賞できず、残念だったが、そのきっかけに日本のろう映画が世界に広められることはよい事であろう。日本からまた新しい映画作品が出てくるのが今から楽しみである。
(障害学)
このクラスは、今学期で履修している科目の中で、お気に入りのクラスである。このクラスは障害についてだけでなく、哲学と倫理を通して社会の中の障害者のあり方について考えるものである。本格的に「障害学」のクラスを受講したのは、今回が初めてになる。その「障害学」クラスを通して、「ろう者学」とは又違った視点での「ろう者である」ことの意味を考えさせられた。障害学は今まで受講してきたクラスとは違い、比較方法を用いて、生徒達に考える力を引き出そうとするから、自分の経験を持ってすれば「ろう者である」ことの意味をもっと知りたいと思うなら、「障害学」のような新しい視点を学ぶことが大切であろう。「ろう者学」と「障害学」の両方の分野を学ぶことが、新しい視点を持つことにつながり、社会の中のろう者としての立場を再認識することができるという過程にたどり着くということが大切ではないだろうかと思う。授業中に興味深いお話を聞く機会が度々あった。あるろうレズビアンカップルがろう子供が欲しいという希望を持って、医者にろうの子供が欲しいと体内受精の要望を提出した。人徳的にこれは良い事なのかといった議論はここでは出すつもりはないのだが、私が興味深いと思ったのが、ろうレズビアンカップルと同じように、小人症を持つカップルが、体内受精を希望する際に子供にも小人症を持つ子供がほしいと医者に要望したケースがあったそうだ。つまり、小人症もろう者と似た立場にあり、小人症としてのアイデンティティー、また自覚・自信を持っていることがわかる。ろう者が聴者と違った生活手段(フラッシュランプなど)があるように、小人症も健常者と又違った生活手段があるのだろう。余談だが、何数年前に全員小人症を持つという家族がいたそうだ。そのように、ろう者以外の障害者の世界のように、「障害学」を学んでみないと、分からないことがよく分かる。
授業中や出された宿題などで、映画を観なければならない事があった。その目的は「映画の中の障害者」を分析するためである。普段映画を楽しみながら観ている私なのだが、一旦、見方を変えて、分析してみると社会の中の障害者のあり方が浮き出してみえる。例えば何数年前にろう女優が主演した「愛は静けさの中へ」の映画があったのが覚えているだろう。ろう女優として注目されたきっかけでその映画は大ヒットだった。しかし、他の視点からだと、ろう主演(役)の存在が聴者によって抑圧されていると見方がある。それだけでなく、トム・ハンクス主演の「フォレスト・ガップ/一期一会」ももし主演が障害者でなければその映画はヒットしたのだろうかと意見もある。映画を楽しむだけでなく、分析力を磨くことによってその時代の障害者に対する社会のあり方や、違う見方が見えてくるので、これからの映画鑑賞の楽しみの一つになる。「障害学」を学ぶことで、知らなかった世界や、見方が分かるように、知識を増やしていくことも大事である。さらに大切なことは、共に尊重しあい、お互いに押し付けることなく、お互いに理解しあった上で皆が歩み寄っていく社会、それが私達の大きな目標ではないだろうか。
2010年もあとわずかとなった。最近まで今年が平成20年と勘違いしていた私は時間の速さを改めて感じる。一日一日を大切しながら、自分なりのペースでこれまでの通り頑張っていきたい。
(障害学)
このクラスは、今学期で履修している科目の中で、お気に入りのクラスである。このクラスは障害についてだけでなく、哲学と倫理を通して社会の中の障害者のあり方について考えるものである。本格的に「障害学」のクラスを受講したのは、今回が初めてになる。その「障害学」クラスを通して、「ろう者学」とは又違った視点での「ろう者である」ことの意味を考えさせられた。障害学は今まで受講してきたクラスとは違い、比較方法を用いて、生徒達に考える力を引き出そうとするから、自分の経験を持ってすれば「ろう者である」ことの意味をもっと知りたいと思うなら、「障害学」のような新しい視点を学ぶことが大切であろう。「ろう者学」と「障害学」の両方の分野を学ぶことが、新しい視点を持つことにつながり、社会の中のろう者としての立場を再認識することができるという過程にたどり着くということが大切ではないだろうかと思う。授業中に興味深いお話を聞く機会が度々あった。あるろうレズビアンカップルがろう子供が欲しいという希望を持って、医者にろうの子供が欲しいと体内受精の要望を提出した。人徳的にこれは良い事なのかといった議論はここでは出すつもりはないのだが、私が興味深いと思ったのが、ろうレズビアンカップルと同じように、小人症を持つカップルが、体内受精を希望する際に子供にも小人症を持つ子供がほしいと医者に要望したケースがあったそうだ。つまり、小人症もろう者と似た立場にあり、小人症としてのアイデンティティー、また自覚・自信を持っていることがわかる。ろう者が聴者と違った生活手段(フラッシュランプなど)があるように、小人症も健常者と又違った生活手段があるのだろう。余談だが、何数年前に全員小人症を持つという家族がいたそうだ。そのように、ろう者以外の障害者の世界のように、「障害学」を学んでみないと、分からないことがよく分かる。
授業中や出された宿題などで、映画を観なければならない事があった。その目的は「映画の中の障害者」を分析するためである。普段映画を楽しみながら観ている私なのだが、一旦、見方を変えて、分析してみると社会の中の障害者のあり方が浮き出してみえる。例えば何数年前にろう女優が主演した「愛は静けさの中へ」の映画があったのが覚えているだろう。ろう女優として注目されたきっかけでその映画は大ヒットだった。しかし、他の視点からだと、ろう主演(役)の存在が聴者によって抑圧されていると見方がある。それだけでなく、トム・ハンクス主演の「フォレスト・ガップ/一期一会」ももし主演が障害者でなければその映画はヒットしたのだろうかと意見もある。映画を楽しむだけでなく、分析力を磨くことによってその時代の障害者に対する社会のあり方や、違う見方が見えてくるので、これからの映画鑑賞の楽しみの一つになる。「障害学」を学ぶことで、知らなかった世界や、見方が分かるように、知識を増やしていくことも大事である。さらに大切なことは、共に尊重しあい、お互いに押し付けることなく、お互いに理解しあった上で皆が歩み寄っていく社会、それが私達の大きな目標ではないだろうか。
2010年もあとわずかとなった。最近まで今年が平成20年と勘違いしていた私は時間の速さを改めて感じる。一日一日を大切しながら、自分なりのペースでこれまでの通り頑張っていきたい。