
2020年11月生活記録【第16期生 皆川愛】[2020年12月07日(Mon)]
コロナ禍で再浮上した社会の格差や不公正さについて、ろうの問題と関連づけて考えてみたいと思います。
新型コロナウイルスの感染拡大は止まらず、全世界で感染者数を伸ばしています。患者数の爆発的増加により医療ひっ迫が問題となり、助かるはずの命が助からない事態が起きています。誰を最優先に治療するのか、いわば誰を犠牲にするのか、また中には医療費の懸念から受診せず、治療を受けられないような人も現に出ています。こうして不平等と言われるようなことが起こりうります。
ワクチンに関しては異例のスピードで開発と臨床試験が行われ、今月にはいくつかの国でワクチン承認や摂取が始まることがわかっています。
病原体が確認できてから1年以内でのワクチン開発は歴史的にも初めてです。それだけ科学が進歩しているということ、またこのパンデミックがどれだけの脅威を持っているのかを実感させられます。
そしてこのワクチン接種にあたり、私は公衆衛生上のいくつかの懸念を持っています。一つの大きな問題はワクチンの分配です。まず誰に届けられるのか。市場原理に従えば、多くの投資をした者や国に先ず配給されます。欧米諸国は既にこのワクチンの開発に巨額の資金を投じています。そして、現にロシア、アメリカ、イギリスが主導権を握っています。日本も後に追う形で確保を見込んでいます。
このように先進国と発展途上国で格差が見られています。
「コンテイジョン」というハリウッド映画では、架空の新型ウイルス感染症のパンデミックにおける一つのシナリオを見ることができますが、まさにこれが現在起こっています。ワクチン接種の順番をくじ引きで誕生日順に決めるシーンがあります(これはまさか現実世界では起こらないと思いますが)。興味ある人はぜひ。
この映画では、アジアでウイルスが動物から人へ伝播し、最初に感染した存在としてアジア人が疑いをかけ、責められ、そして白人がパンデミックから救うヒーローストーリーに仕立てられています。このシナリオ自体が差別構造を生んでいるように個人的には思っています。
米国では白人警官による首を膝で押さえつけられて死亡した黒人のジョージフロイトの残忍な死をきっかけにブラック・ライブズ・スマター”Black Livrs Matter “の運動が更に盛んになりました。このムーブメントは今年始まったものではなく、黒人に対する警察の残忍行為をきっかけに2013年に始まった人種差別抗議運動です。
そして、「人種差別を公衆衛生の問題として扱うべき」という主張をよく見るようになりました。
日本でも新型コロナウイルス関連のニュースから、公衆衛生という言葉を見かけるようになったと思います。公衆衛生は文字通り、「公衆=社会の人々」の「衛生=清潔や健康」を保つことです。
感染症対策は多くの人々に影響を及ぼす疾患ですから、公衆衛生において一つの大きなイシューです。人種差別もそうなのか、ということなのですが、社会の格差や不公正に取り組む点で、公衆衛生が取り組むべき課題と言われています。これが3月の生活記録でも触れた健康格差です。
なぜ社会には格差が起きるのか、「人種」という身体的特性に起因するものではなく、「経験や環境」によって身体に取り込まれるといいます。
1800年代から人種間に健康格差があるとデータが打ち出されていますが、その理由は医師の都合のように解釈されていました。結核に感染した黒人のうち28%もの人が死亡しているのに対し、 白人は14%しか死亡していないことについて「黒人は寒い気候に向いていないから」などと、人種間の病気の差は黒人が白人に比べて劣っていることによると説明しました。生物学的特性に帰結したのです。実際は、黒人奴隷が強いられている密集した居住環境や、その他の劣悪な生活環境、すなわち衛生状態が影響していました。
こうして、人種というのは、単なる肌の違いという生物学的な分類ではなく、白人による黒人の弾圧の中で生まれた社会的な分類と考えることができます。公衆衛生は、健康格差という明白な結果について、社会の格差や不平等で説明しようとしています。差別があるところに健康格差が生じるわけです。
悲しいことに今日でも黒人の死亡率が極めて高いという1800年代の結核と同様のデータは、新型コロナウイルス感染症に起因した死亡率にも見出すことができます。
そして、この考え方はろう社会の格差にも適用できると思っています。
歴史的に語られてきた聴覚障害者が劣っているという考え方は、身体的特性に帰結したものであり、それを取り巻く教育環境や社会的システムについては無視されてきたのです。
ろう児を取り巻く音声中心の言語環境はなぜ今日も続くのか?保険が適用できる人工内耳のマーケティングと行政からの補助が一切ない手話のマーケティングとの力関係を見れば明らかです。
冒頭のワクチンの話に戻りますが、金銭的動機の市場原理に従うと、格差は間違いなく続きます。ろうの子どもたちにも補聴器や人工内耳のマーケティングが影響しており、今後はさらに格差を繰り広げる可能性があります。
世紀に稀なるパンデミックは社会における格差を改めて浮き彫りにし、私たちに投げかけているように思います。
寒さも増してきましたので、お大事にしてください。
新型コロナウイルスの感染拡大は止まらず、全世界で感染者数を伸ばしています。患者数の爆発的増加により医療ひっ迫が問題となり、助かるはずの命が助からない事態が起きています。誰を最優先に治療するのか、いわば誰を犠牲にするのか、また中には医療費の懸念から受診せず、治療を受けられないような人も現に出ています。こうして不平等と言われるようなことが起こりうります。
ワクチンに関しては異例のスピードで開発と臨床試験が行われ、今月にはいくつかの国でワクチン承認や摂取が始まることがわかっています。
病原体が確認できてから1年以内でのワクチン開発は歴史的にも初めてです。それだけ科学が進歩しているということ、またこのパンデミックがどれだけの脅威を持っているのかを実感させられます。
そしてこのワクチン接種にあたり、私は公衆衛生上のいくつかの懸念を持っています。一つの大きな問題はワクチンの分配です。まず誰に届けられるのか。市場原理に従えば、多くの投資をした者や国に先ず配給されます。欧米諸国は既にこのワクチンの開発に巨額の資金を投じています。そして、現にロシア、アメリカ、イギリスが主導権を握っています。日本も後に追う形で確保を見込んでいます。
このように先進国と発展途上国で格差が見られています。
「コンテイジョン」というハリウッド映画では、架空の新型ウイルス感染症のパンデミックにおける一つのシナリオを見ることができますが、まさにこれが現在起こっています。ワクチン接種の順番をくじ引きで誕生日順に決めるシーンがあります(これはまさか現実世界では起こらないと思いますが)。興味ある人はぜひ。
この映画では、アジアでウイルスが動物から人へ伝播し、最初に感染した存在としてアジア人が疑いをかけ、責められ、そして白人がパンデミックから救うヒーローストーリーに仕立てられています。このシナリオ自体が差別構造を生んでいるように個人的には思っています。
米国では白人警官による首を膝で押さえつけられて死亡した黒人のジョージフロイトの残忍な死をきっかけにブラック・ライブズ・スマター”Black Livrs Matter “の運動が更に盛んになりました。このムーブメントは今年始まったものではなく、黒人に対する警察の残忍行為をきっかけに2013年に始まった人種差別抗議運動です。
そして、「人種差別を公衆衛生の問題として扱うべき」という主張をよく見るようになりました。
日本でも新型コロナウイルス関連のニュースから、公衆衛生という言葉を見かけるようになったと思います。公衆衛生は文字通り、「公衆=社会の人々」の「衛生=清潔や健康」を保つことです。
感染症対策は多くの人々に影響を及ぼす疾患ですから、公衆衛生において一つの大きなイシューです。人種差別もそうなのか、ということなのですが、社会の格差や不公正に取り組む点で、公衆衛生が取り組むべき課題と言われています。これが3月の生活記録でも触れた健康格差です。
なぜ社会には格差が起きるのか、「人種」という身体的特性に起因するものではなく、「経験や環境」によって身体に取り込まれるといいます。
1800年代から人種間に健康格差があるとデータが打ち出されていますが、その理由は医師の都合のように解釈されていました。結核に感染した黒人のうち28%もの人が死亡しているのに対し、 白人は14%しか死亡していないことについて「黒人は寒い気候に向いていないから」などと、人種間の病気の差は黒人が白人に比べて劣っていることによると説明しました。生物学的特性に帰結したのです。実際は、黒人奴隷が強いられている密集した居住環境や、その他の劣悪な生活環境、すなわち衛生状態が影響していました。
こうして、人種というのは、単なる肌の違いという生物学的な分類ではなく、白人による黒人の弾圧の中で生まれた社会的な分類と考えることができます。公衆衛生は、健康格差という明白な結果について、社会の格差や不平等で説明しようとしています。差別があるところに健康格差が生じるわけです。
悲しいことに今日でも黒人の死亡率が極めて高いという1800年代の結核と同様のデータは、新型コロナウイルス感染症に起因した死亡率にも見出すことができます。
そして、この考え方はろう社会の格差にも適用できると思っています。
歴史的に語られてきた聴覚障害者が劣っているという考え方は、身体的特性に帰結したものであり、それを取り巻く教育環境や社会的システムについては無視されてきたのです。
ろう児を取り巻く音声中心の言語環境はなぜ今日も続くのか?保険が適用できる人工内耳のマーケティングと行政からの補助が一切ない手話のマーケティングとの力関係を見れば明らかです。
冒頭のワクチンの話に戻りますが、金銭的動機の市場原理に従うと、格差は間違いなく続きます。ろうの子どもたちにも補聴器や人工内耳のマーケティングが影響しており、今後はさらに格差を繰り広げる可能性があります。
世紀に稀なるパンデミックは社会における格差を改めて浮き彫りにし、私たちに投げかけているように思います。
寒さも増してきましたので、お大事にしてください。