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「姥捨」を読もう 5 [2009年10月29日(Thu)]
 上野駅には、ふるさとのにおいがする。誰か、郷里のひとがいないかと、嘉七には、いつもおそろしかった。わけてもその夜は、お店の手代と女中が藪入りでうろつきまわっているような身なりだったし、ずいぶん人目がはばかられた。売店で、かず枝はモダン日本の探偵小説特集号を買い、嘉七は、ウイスキイの小瓶を買った。新潟行、十時半の汽車に乗りこんだ。
 向い合って席に落ちついてから、ふたりはかすかに笑った。
「ね、あたし、こんな恰好をして、おばさん変に思わないかしら。」
「かまわないさ。ふたりで浅草へ活動見にいってその帰りに主人がよっぱらって、水上のおばさんとこに行こうってきかないから、そのまま来ましたって言えば、それでいい。」
「それも、そうね。」けろっとしていた。
 すぐ、また言い出す。
「おばさん、おどろくでしょうね。」汽車が発車するまでは、やはり落ちつかぬ様子であった。
「よろこぶだろう。きっと。」発車した。かず枝は、ふっとこわばった顔になりきょろとプラットフォームを横目で見て、これでおしまいだ。度胸が出たのか、膝の風呂敷包をほどいて雑誌を取り出し、ペエジを繰った。
 嘉七は、脚がだるく、胸だけ不快にわくわくして、薬を飲むような気持でウイスキイを口のみした。
 金があれば、なにも、この女を死なせなくてもいいのだ。相手の、あの男が、もすこしはっきりした男だったら、これはまた別な形も執れるのだ、見ちゃおられぬ。この女の自殺は、意味がない。
「おい、私は、いい子かね。」だしぬけに嘉七は、言い出した。「自分ばかり、いい子になろうと、しているのかね。」
 声が大きかったので、かず枝はあわて、それから、眉をけわしくしかめて怒った。嘉七は、気弱く、にやにや笑った。
「だけどもね、」おどけて、わざと必要以上に声を落して、「おまえは、まだ、そんなに不仕合せじゃないのだよ。だって、おまえは、ふつうの女だもの。わるくもなければよくもない、本質から、ふつうの女だ。けれども、私はちがう。たいへんな奴だ。どうやら、これは、ふつう以下だ。」
太宰萌え [2009年10月29日(Thu)]
毎日新聞社から出版された「太宰萌え」をようやく手にしました。



この本を待っていたわけは、我が「太宰治検定」実行委員でもある木村綾子さんが、「太宰萌え」について、「すぐできる太宰ごっこ・道化萌え」を書かれているからです。

「太宰ごっこ」とはいかなるものか?

もちろん反社会的な行動を真似するのではありません!

それは“道化”です。

太宰の仕草やおしゃれを真似したり、太宰作品の名台詞、名文をさりげなく使ったりと、いろいろな「太宰ごっこ」を提案されています。

カラオケのところは楽しそうですね。

「いや、それはしないでしょう、いくら太宰ファンでも・・・」とけっこう、突っ込みどころ満載の文章と思いきや、よく読むと、さすが研究者ですね、鋭い解説が随所にちりばめられています。

やはりこの人、ただ者ではありません。



ちなみに、木村さんが太宰に萌えているときの様子は、マネージャーのKさんいわく「木村、キモっ!」だそうです。

それはある意味最大の賛辞でしょう!(^◇^;)





他にも、太宰に萌えている方々が執筆されています。それぞれの萌えっぷりが・・・。



第2章では、監修された岡崎武志さんが「教科書風太宰作品のパーフェクト読解」を書かれています。

太宰作品を、国語の教科書とテスト問題のようにして紹介していますが、検定問題とはひと味違う国語試験問題は新鮮で、はまりました。


また、挿絵写真に「太宰治検定公式テキスト」も入れ込んでくれています。

木村さんのはからいでしょうか?それとも岡崎さん?

ありがとうございました。

「姥捨」を読もう 4 [2009年10月29日(Thu)]
 笑いの波がわっと館内にひろがった。嘉七は、かず枝に目くばせして外に出た。
「水上に行こう、ね。」その前のとしのひと夏を、水上駅から徒歩で一時間ほど登って行き着ける谷川温泉という、山の中の温泉場で過した。真実くるし過ぎた一夏ではあったが、くるしすぎて、いまでは濃い色彩の着いた絵葉書のように甘美な思い出にさえなっていた。白い夕立の降りかかる山、川、かなしく死ねるように思われた。水上、と聞いて、かず枝のからだは急に生き生きして来た。
「あ、そんなら、あたし、甘栗を買って行かなくちゃ。おばさんがね、たべたいたべたい言ってたの。」その宿の老妻に、かず枝は甘えて、また、愛されてもいたようであった。ほとんど素人下宿のような宿で、部屋も三つしかなかったし、内湯も無くて、すぐ隣りの大きい旅館にお湯をもらいに行くか、雨降ってるときには傘をさし、夜なら提灯かはだか蝋燭もって、したの谷川まで降りていって川原の小さい野天風呂にひたらなければならなかった。老夫婦ふたりきりで子供もなかったようだし、それでも三つの部屋がたまにふさがることもあって、そんなときには老夫婦てんてこまいで、かず枝も台所で手伝いやら邪魔やらしていたようであった。お膳にも、筋子だの納豆だのついていて、宿屋の料理ではなかった。嘉七には居心地よかった。老妻が歯痛をわずらい、見かねて嘉七が、アスピリンを与えたところ、ききすぎて、てもなくとろとろ眠りこんでしまって、ふだんから老妻を可愛がっている主人は、心配そうにうろうろして、かず枝は大笑いであった。いちど、嘉七がひとり、頭をたれて宿ちかくの草むらをふらふら歩きまわって、ふと宿の玄関のほうを見たら、うす暗い玄関の階段の下の板の間に、老妻が小さくぺたんと座ったまま、ぼんやり嘉七の姿を眺めていて、それは嘉七の貴い秘密のひとつになった。老妻といっても、四十四、五の福々しい顔の上品におっとりしたひとであった。主人は、養子らしかった。その老妻である。かず枝は、甘栗を買い求めた。嘉七はすすめて、もすこし多く買わせた。






【ちょっと解説】

・くるし過ぎた一夏:昭和11年8月7日、パビナール中毒と肺病をなおそうと訪れ、水上村字谷川522番地、佐藤亀次郎経営の川久保屋(現・谷川温泉「たにがわ館」前駐車場付近)に投宿。(太宰治大事典より)
「姥捨」を読もう 3 [2009年10月27日(Tue)]
 嘉七は、女体の不思議を感じた。活動館を出たときには、日が暮れていた。かず枝は、すしを食いたい、と言いだした。嘉七は、すしは生臭くて好きでなかった。それに今夜は、も少し高価なものを食いたかった。
「すしは、困るな。」
「でも、あたしは、たべたい。」かず枝に、わがままの美徳を教えたのは、とうの嘉七であった、忍従のすまし顔の不純を例証して威張って教えた。
 みんなおれにはねかえって来る。
 すし屋で少しお酒を飲んだ。嘉七は牡蠣のフライをたのんだ。これが東京での最後のたべものになるのだ、と自分に言い聞かせてみて、流石に苦笑であった。妻は、てっかをたべていた。
「おいしいか。」
「まずい。」しんから憎々しそうにそう言って、また一つ頬張り、「ああまずい。」
 ふたりとも、あまり口をきかなかった。
 すし屋を出て、それから漫才館にはいった。満員で座れなかった。入口からあふれるほど一ぱいのお客が押し合いへし合いしながら立って見ていて、それでも、時々あはははと声をそろえて笑っていた。客たちにもまれもまれて、かず枝は、嘉七のところから、五間以上も遠くへ引き離された。かず枝は、背がひくいから、お客の垣の間から舞台を覗き見するのに大苦心の態であった。田舎くさい小女に見えた。嘉七も、客にもまれながら、ちょいちょい背伸びしては、かず枝のその姿を心細げに追い求めているのだ。舞台よりも、かず枝の姿のほうを多く見ていた。黒い風呂敷包を胸にしっかり抱きかかえて、そのお荷物の中には薬品も包まれて在るのだが、頭をあちこち動かして舞台の芸人の有様を見ようとあせっているかず枝も、ときたまふっと振りかえって嘉七の姿を捜し求めた。ちらと互いの視線が合っても、べつだん、ふたり微笑もしなかった。なんでもない顔をしていて、けれども、やはり、安心だった。
 あの女に、おれはずいぶん、お世話になった。それは、忘れてはならぬ。責任は、みんなおれに在るのだ。世の中のひとが、もし、あの人を指弾するなら、おれは、どんなにでもして、あのひとをかばわなければならぬ。あの女は、いいひとだ。それは、おれが知っている。信じている。
 こんどのことは? ああ、いけない、いけない。おれは、笑ってすませぬのだ。だめなのだ。あのことだけは、おれは平気でいられぬ。たまらないのだ。
 ゆるせ。これは、おれの最後のエゴイズムだ。倫理は、おれは、こらえることができる。感覚が、たまらぬのだ。とてもがまんができぬのだ。





【ちょっと解説】

・「姥捨」は昭和12年3月下旬の谷川温泉における妻(初代)との心中事件がベースとなっている。

・あのこと:昭和11年秋、パビナール中毒治療のために入院しているあいだに、妻初代が太宰の親戚の学生と姦通をおかしたこと
「姥捨」を読もう 2 [2009年10月24日(Sat)]
    
 新宿までの切符を買った。新宿で降りて、それから薬屋に走った。そこで催眠剤の大箱を一個買い、それからほかの薬屋に行って別種の催眠剤を一箱買った。かず枝を店の外に待たせて置いて、嘉七は笑いながらその薬品を買い求めたので、別段、薬屋にあやしまれることはなかった。さいごに三越にはいり、薬品部に行き、店の雑沓ゆえに少し大胆になり、大箱を二つ求めた。黒目がち、まじめそうな細面の女店員が、ちらと狐疑の皺を眉間に浮べた。いやな顔をしたのだ。嘉七も、はっ、となった。急には微笑も、つくれなかった。薬品は、冷く手渡された。おれたちのうしろ姿を、背伸びして見ている。それを知っていながら、嘉七は、わざとかず枝にぴったり寄り添うて人ごみの中を歩いた。自身こんなに平気で歩いていても、やはり、人から見ると、どこか異様な影があるのだ。嘉七は、かなしいと思った。三越では、それからかず枝は、特売場で白足袋を一足買い、嘉七は上等の外国煙草を買って、外へ出た。自動車に乗り、浅草へ行った。活動館へはいって、そこでは荒城の月という映画をやっていた。さいしょ田舎の小学校の屋根や柵が映されて、小供の唱歌が聞えて来た。嘉七は、それに泣かされた。
「恋人どうしはね、」嘉七は暗闇のなかで笑いながら妻に話しかけた。「こうして活動を見ていながら、こうやって手を握り合っているものだそうだ。」ふびんさに、右手でもってかず枝の左手をたぐり寄せ、そのうえに嘉七のハンチングをかぶせてかくし、かず枝の小さい手をぐっと握ってみたが、流石にかかる苦しい立場に置かれて在る夫婦の間では、それは、不潔に感じられ、おそろしくなって、嘉七は、そっと手を離した。かず枝は、ひくく笑った。嘉七の不器用な冗談に笑ったのではなく、映画のつまらぬギャグに笑い興じていたのだ。
 このひとは、映画を見ていて幸福になれるつつましい、いい女だ。このひとを、ころしてはいけない。こんなひとが死ぬなんて、間違いだ。
「死ぬの、よさないか?」
「ええ、どうぞ。」うっとり映画を見つづけながら、ちゃんと答えた。「あたし、ひとりで死ぬつもりなんですから。」
「姥捨」を読もう 1 [2009年10月24日(Sat)]
「太宰治検定」のひとつに、年代別編(仮称)が決定しました。2010年は昭和13,14年がテーマとなります。



今日からは昭和13年に書かれた「姥捨」をお届けします。

「満願」とともに中期の出発点となる作品ですが、うって変わって暗く重いものがあり、前期をひきずっている感じがあります。




    姥捨(おばすて)

  姥捨山(長野県)−写真:渡部芳紀先生



 そのとき、
「いいの。あたしは、きちんと仕末いたします。はじめから覚悟していたことなのです。ほんとうに、もう。」変った声で呟いたので、
「それはいけない。おまえの覚悟というのは私にわかっている。ひとりで死んでゆくつもりか、でなければ、身ひとつでやけくそに落ちてゆくか、そんなところだろうと思う。おまえには、ちゃんとした親もあれば、弟もある。私は、おまえがそんな気でいるのを、知っていながら、はいそうですかとすまして見ているわけにゆかない。」などと、ふんべつありげなことを言っていながら、嘉七も、ふっと死にたくなった。
「死のうか。一緒に死のう。神さまだってゆるしてくれる。」
 ふたり、厳粛に身支度をはじめた。
 あやまった人を愛撫した妻と、妻をそのような行為にまで追いやるほど、それほど日常の生活を荒廃させてしまった夫と、お互い身の結末を死ぬことによってつけようと思った。早春の一日である。そのつきの生活費が十四、五円あった。それを、そっくり携帯した。そのほか、ふたりの着換えの着物ありったけ、嘉七のどてらと、かず枝の袷いちまい、帯二本、それだけしか残ってなかった。それを風呂敷に包み、かず枝がかかえて、夫婦が珍らしく肩をならべての外出であった。夫にはマントがなかった。久留米絣の着物にハンチング、濃紺の絹の襟巻を首にむすんで、下駄だけは、白く新しかった。妻にもコオトがなかった。羽織も着物も同じ矢絣模様の銘仙で、うすあかい外国製の布切のショオルが、不似合いに大きくその上半身を覆っていた。質屋の少し手前で夫婦はわかれた。
 真昼の荻窪の駅には、ひそひそ人が出はいりしていた。嘉七は、駅のまえにだまって立って煙草をふかしていた。きょときょと嘉七を捜し求めて、ふいと嘉七の姿を認めるや、ほとんどころげるように駈け寄って来て、
「成功よ。大成功。」とはしゃいでいた。「十五円も貸しやがった。ばかねえ。」
 この女は死なぬ。死なせては、いけないひとだ。おれみたいに生活に圧し潰されていない。まだまだ生活する力を残している。死ぬひとではない。死ぬことを企てたというだけで、このひとの世間への申しわけが立つ筈だ。それだけで、いい。この人は、ゆるされるだろう。それでいい。おれだけ、ひとり死のう。
「それは、お手柄だ。」と微笑してほめてやって、そっと肩を叩いてやりたく思った。「あわせて三十円じゃないか。ちょっとした旅行ができるね。」



【ちょっと解説】

・「姥捨」の読み方については、太宰が「懶惰(らんだ)の歌留多」の「を」の項に「姥捨山・・・」を載せているので「お(を)ばすて」と読むのを通例としているが、正しくは「うばすて」であり、「をばすて」なら漢字表記は「姨捨」となる。(太宰治大事典より)
「満願」を読もう [2009年10月23日(Fri)]
「太宰治検定」のひとつに、年代別編(仮称)が決定しました。2010年は昭和13,14年がテーマとなります。

この時期は明るく、たのしさを感じさせてくれる作品が多いです。



今日は昭和13年に書かれた「満願」をお届けします。

中期の出発点ともいえるこの作品は原稿用紙4,5枚の短編ですが、とても印象に残る作品です。




  満願


 これは、いまから、四年まえの話である。私が伊豆の三島の知り合いのうちの二階で一夏を暮し、ロマネスクという小説を書いていたころの話である。ある夜、酔いながら自転車に乗りまちを走って、怪我をした。右足のくるぶしの上のほうを裂いた。疵は深いものではなかったが、それでも酒をのんでいたために、出血がたいへんで、あわててお医者に駈けつけた。まち医者は三十二才の、大きくふとり、西郷隆盛に似ていた。たいへん酔っていた。私と同じくらいにふらふら酔って診察室に現われたので、私は、おかしかった。治療を受けながら、私がくすくす笑ってしまった。するとお医者もくすくす笑い出し、とうとうたまりかねて、ふたり声を合せて大笑いした。
 その夜から私たちは仲良くなった。お医者は、文学よりも哲学を好んだ。私もそのほうを語るのが、気が楽で、話がはずんだ。お医者の世界観は、原始二元論ともいうべきもので、世の中の有様をすべて善玉悪玉の合戦と見て、なかなか歯切れがよかった。私は愛という単一神を信じたく内心つとめていたのであるが、それでもお医者の善玉悪玉の説を聞くと、うっとうしい胸のうちが、一味爽涼を覚えるのだ。たとえば、宵の私の訪問をもてなすのに、ただちに奥さんにビールを命ずるお医者自身は善玉であり、今宵はビールでなくブリッジ(トランプ遊戯の一種)いたしましょう、と笑いながら提議する奥さんこそは悪玉である、というお医者の例証には、私も素直に賛成した。奥さんは、小がらの、おたふくがおであったが、色が白く上品であった。子供はなかったが、奥さんの弟で沼津の商業学校にかよっているおとなしい少年がひとり、二階にいた。
 お医者の家では、五種類の新聞をとっていたので、私はそれを読ませてもらいにほとんど毎朝、散歩の途中に立ち寄って、三十分か一時間お邪魔した。裏口からまわって、座敷の縁側に腰をかけ、奥さんの持って来る冷い麦茶を飲みながら、風に吹かれてぱらぱら騒ぐ新聞を片手でしっかり押えつけて読むのであるが、縁側から二間と離れていない、青草原のあいだを水量たっぷりの小川がゆるゆる流れていて、その小川に沿った細い道を自転車で通る牛乳配達の青年が、毎朝きまって、おはようございます、と旅の私に挨拶した。その時刻に、薬をとりに来る若い女のひとがあった。簡単服に下駄をはき、清潔な感じのひとで、よくお医者と診察室で笑い合っていて、ときたまお医者が、玄関までそのひとを見送り、
「奥さま、もうすこしのご辛棒ですよ。」と大声で叱咤することがある。
 お医者の奥さんが、あるとき私に、そのわけを語って聞かせた。小学校の先生の奥さまで、先生は、三年まえに肺をわるくし、このごろずんずんよくなった。お医者は一所懸命で、その若い奥さまに、いまがだいじのところと、固く禁じた。奥さまは言いつけを守った。それでも、ときどき、なんだか、ふびんに伺うことがある。お医者は、その都度、心を鬼にして、奥さまもうすこしのご辛棒ですよ、と言外に意味をふくめて叱咤するのだそうである。
 八月のおわり、私は美しいものを見た。朝、お医者の家の縁側で新聞を読んでいると、私の傍に横座りに座っていた奥さんが、
「ああ、うれしそうね。」と小声でそっと囁いた。
 ふと顔をあげると、すぐ目のまえの小道を、簡単服を着た清潔な姿が、さっさっと飛ぶようにして歩いていった。白いパラソルをくるくるっとまわした。
「けさ、おゆるしが出たのよ。」奥さんは、また、囁く。
 三年、と一口にいっても、──胸が一ぱいになった。年つき経つほど、私には、あの女性の姿が美しく思われる。あれは、お医者の奥さんのさしがねかも知れない。



【ちょっと解説】

・初出:「文筆」昭和13年(1936)9月
太宰治と文学学習講座(9) [2009年10月20日(Tue)]
「太宰治と文学学習講座」
〜太宰文学の魅力と作品朗読〜


●10月24日(土); 13:30〜15:45
 立佞武多の館 4階会議室

◇朗読作品 太宰作品『櫻桃』
 ・朗読者 長内裕子/船水 睦子

◇内  容
 『太宰治の生涯と創作について』(その1)
 〜誕生から昭和14年頃まで〜
 ・講師 木下 巽(金木太宰会名誉会長)


主催…五所川原市教育委員会

共催…大町二丁目まちづくり協議会

後援…太宰治検定実行委員会・あおもり生涯学習協会

◎お問い合わせ先 社会教育課 内線3323

*毎月第4土曜日に開催。11月まで開催予定です。

*「県民カレッジ単位認定講座」です(1回2単位)

*講座の前に全員で『記念写真』を撮ります。

*11月の最終回に、『記念写真』と「太宰文学講座修
了証」を全員に配布します。
太宰治検定2010 概要内定 [2009年10月19日(Mon)]
太宰治検定 2010 の概要が内定しました。


日   時:2010年6月19日(土)午後

会   場:青森県五所川原市・東京都内(現在交渉中)

試験時間:90分

合格基準:100点満点中70点以上で合格と認定

出題内容:


【「津軽」編・初級】

・太宰治著「津軽」及び太宰治検定公式テキストより出題

・100問・三択式

・今年行われた「太宰治検定」と同様の内容、難易度(合格率90%)となります。



【「津軽」編・上級】

・太宰治著「津軽」及び太宰治検定公式テキストより出題

・100問・択一式、一部記述式

・ガイド育成も視野に入れた難易度の高い(合格率10〜20%)問題となります。



【年代別編(仮称)・昭和13,14年】

・昭和13,14年に書かれた作品及び「太宰治検定公式テキスト(年代別編)」(2010年発売)より出題

・100問・択一式、一部記述式

・昭和13年、14年に書かれた作品にスポットを当て、作品とその背景、その時代の太宰治に関わる内容からの問題となります。




※現在あくまでも内定の状態です。都合により内容が変更になる場合もありますので、ご了承下さい。
渋谷カフェRESPEKTに行ってきました 2 [2009年10月18日(Sun)]
・・・つづき



店内では、とってもめずらしい実も赤いリンゴから作られた「赤〜いリンゴジュース」(五所川原から持ってきました)が発売されています。美味しいですよ!


美味しいと言えば、


今回の企画の特別メニュー「椿屋のもつ煮込み」



「うまいっすね、コレ!これ食べたらごはんかビールしかないっしょ!」といつの間にかビールを注文していたのは、「太宰治検定」のポスターやロゴ、公式テキストの表紙をデザインしてくれた池田くん。



今回の企画はカフェカンパニーYさんと木村綾子さんとのコラボです。

素敵なイベントありがとうございました。

また、「太宰治検定」もPRしていただきありがとうございました。


明日10/19が最終日です。

まだ間に合いますよ。
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