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離座敷はどこ? [2009年08月28日(Fri)]
‘「思い出」を読もう15’で、離座敷=新座敷と解説したところ、太宰ファン2号様から年代が合わないのでは?とコメントいただきました。
https://blog.canpan.info/dazaikentei/archive/357

調べてみると確かに年代が合いません。太宰ファン2号様のご指摘どおりでした。

では、離座敷とはどこなのか?

こちらは中畑慶吉さんが保存していた「斜陽館」の設計図のコピーです。
長女けいさん(87才くらい?まだまだ元気!)から借りてきました。



玄関脇の座敷はこちら



たしかに土間を挟んで離れています。

じつは旧津島邸(斜陽館)は何度かリフォームしています。この設計図と現在公開している「斜陽館」は同じではありません。

玄関わきの座敷部分は、現在は受付&事務室になっています。

戦前は次兄英治さん一家が使っていたそうです。
おそらくその時に増築したかも知れません。


はたして、この部屋を「離座敷」と呼んでいたか?または他に「離座敷」と呼ばれる部屋があったのか?

斜陽館にとてもくわしい現「斜陽館支配人」の今さんに、「離座敷」や増築や改装についての資料はないかとお尋ねしたところ、わからないとのこと。

もう一人、太宰研究者でもある五所川原市教育長の木下巽先生にも尋ねてみましたが、やはりわかりませんでした。

ならば、斜陽館で実際に暮らしていた長兄文治の長女田澤陽さんに聞いてみました。

「新座敷」は「新座敷」と呼んでいたそうですが、「離座敷」と呼んでいた部屋はなかったとのこと。

ということで、「離座敷」が玄関わきの座敷との確証は得られませんでした。



・・・結論・・・

さよは【惣助の死後、大邸宅に移ってからは、玄関わきの隠居部屋をあてがわれ、】(「津島家の人々」)とあるので、この隠居部屋が離座敷である可能性が最も高い。

太宰が幼少の頃は、津島家ではこの部屋を「離座敷」と呼んでいたかもしれないが、昭和はじめ頃には「離座敷」と呼ばれる部屋はなかった。

太宰は小説を書く上で、土間を挟んで離れているので「離座敷」と表現した。

年代は合わないが創作として「新座敷」を思い描き「離座敷」と表現した。(ちょっと無理矢理?)



今のところ、私のできる精一杯の調査でした。
何かお気づきの点や新しい情報がありましたらお知らせください。
「思い出」を読もう 17 [2009年08月27日(Thu)]
来年の「太宰治検定」とは直接関係ないかも知れませんが、小説「津軽」をより深く理解していただくためにも、この作品は一度は読んでおきたい作品です。

全文を少しずつ掲載していきます。できれば「太宰治検定ブログ」らしく、少し解説も加えていきたいと思います。(解説の多くはCD-ROM「太宰治全作品集」渡部芳紀先生監修〈マイクロテクノロジー社〉を参考にしています。)



  その学校は男と女の共学であったが、それでも私は自分から女生徒に近づいたことなどなかった。私は欲情がはげしいから、懸命にそれをおさえ、女にもたいへん臆病になっていた。私はそれまで、二人三人の女の子から思われたが、いつでも知らない振りをして来たのだった。帝展の入選画帳を父の本棚から持ち出しては、その中にひそめられた白い画に頬をほてらせて眺めいったり、私の飼っていたひとつがいの兎にしばしば交尾させ、その雄兎の背中をこんもりと丸くする容姿に胸をときめかせたり、そんなことで私はこらえていた。私は見え坊であったから、あの、あんまをさえ誰にも打ちあけなかった。その害を本で読んで、それをやめようとさまざまな苦心をしたが、駄目であった。そのうちに私はそんな遠い学校へ毎日あるいてかよったお陰で、からだも太って来た。額の辺にあわつぶのような小さい吹出物がでてきた。之も恥かしく思った。私はそれへ宝丹膏という薬を真赤に塗った。長兄はそのとし結婚して、祝言の晩に私と弟とはその新しい嫂の部屋へ忍んで行ったが、嫂は部屋の入口を背にして座って髪を結わせていた。私は鏡に映った花嫁のほのじろい笑顔をちらと見るなり、弟をひきずって逃げ帰った。そして私は、たいしたもんでねえでば! と力こめて強がりを言った。薬で赤い私の額のためによけい気もひけて、尚のことこんな反発をしたのであった。



【ちょっと解説】

なかなか解説しづらい文章が続きますな。(^◇^;)
このような内容もいやらしく、なくなんとなくユーモアのある文章に仕立て上げるのは太宰の文章力なのでしょうね。
「思い出」を読もう 16 [2009年08月26日(Wed)]
来年の「太宰治検定」とは直接関係ないかも知れませんが、小説「津軽」をより深く理解していただくためにも、この作品は一度は読んでおきたい作品です。

全文を少しずつ掲載していきます。できれば「太宰治検定ブログ」らしく、少し解説も加えていきたいと思います。(解説の多くはCD-ROM「太宰治全作品集」渡部芳紀先生監修〈マイクロテクノロジー社〉を参考にしています。)



  この時分には、私の村にも町制が敷かれていたが、その高等小学校は私の町と付近の五六カ村と共同で出資して作られたものであって、まちから半里も離れた松林の中に在った。私は病気のためにしじゅう学校をやすんでいたのだけれどその小学校の代表者だったので、他村からの優等生がたくさん集る高等小学校でも一番になるよう努めなければいけなかったのである。しかし私はそこでも相変らず勉強をしなかった。いまに中学生に成るのだ、という私の自矜が、その高等小学校を汚く不愉快に感じさせていたのだ。私は授業中おもに連続の漫画をかいた。休憩時間になると、声色をつかってそれを生徒たちへ説明してやった。そんな漫画をかいた手帖が四五冊もたまった。机に頬杖ついて教室の外の景色をぼんやり眺めて一時間を過すこともあった。私は硝子窓の傍に座席をもっていたが、その窓の硝子板には蝿がいっぴき押しつぶされてながいことねばりついたままでいて、それが私の視野の片隅にぼんやりと大きくはいって来ると、私には雉か山鳩かのように思われ、幾たびとなく驚かされたものであった。私を愛している五六人の生徒たちと一緒に授業を逃げて、松林の裏にある沼の岸辺に寝ころびつつ、女生徒の話をしたり、皆で着物をまくってそこにうっすり生えそめた毛を較べ合ったりして遊んだのである。
演劇「津軽」 [2009年08月24日(Mon)]
来週9/2(水)から、いよいよ「津軽」の演劇舞台が始まります。



太宰治生誕百年記念公演「津軽」

昭和19年、太宰は久しぶりに故郷津軽を旅する。

その旅で太宰はそれまでマイナスのイメージしかなかった津軽に、

「そこに住む人々」をとおして新しい価値を見いだす。

それは、津軽の人々が持つ「大らかさ」であったり、「優しさ」であったら・・・。

そして、2009年、65年の時を経て、津軽を旅する女性紀行作家。

彼女は65年前の太宰と一緒に津軽半島を旅する。

65年を経て、津軽はどう変わったのか。そしてどう変わらないのか・・・。


(出演者募集パンフレットより)


主演 村田雄浩 川上麻衣子

会場は芦野公園駅特設会場!

偶然ですが、ストーリーの設定が「太宰治検定公式テキスト」と共通する部分もあってどんな舞台になるのかとっても楽しみにしています。

9/2(水)〜9/6(日)までですが、すでに売り切れの日にちも出ているそうです。

チケットはお早めに!

詳細はこちらから↓
http://www.pref.aomori.lg.jp/bunka/culture/tsugaru2.html
「思い出」を読もう 15 [2009年08月23日(Sun)]
来年の「太宰治検定」とは直接関係ないかも知れませんが、小説「津軽」をより深く理解していただくためにも、この作品は一度は読んでおきたい作品です。

全文を少しずつ掲載していきます。できれば「太宰治検定ブログ」らしく、少し解説も加えていきたいと思います。(解説の多くはCD-ROM「太宰治全作品集」渡部芳紀先生監修〈マイクロテクノロジー社〉を参考にしています。)



  この姉は女学校へはいるまでは、曾祖母とふたりで離座敷に寝起していたものだから、曾祖母の娘だとばかり私は思っていたほどであった。曾祖母は私が小学校を卒業する頃なくなったが、白い着物を着せられ小さくかじかんだ曾祖母の姿を納棺の際ちらと見た私は、この姿がこののちながく私の目にこびりついたらどうしようと心配した。
 私は程なく小学校を卒業したが、からだが弱いからと言うので、うちの人たちは私を高等小学校に一年間だけ通わせることにした。からだが丈夫になったら中学へいれてやる、それも兄たちのように東京の学校では健康に悪いから、もっと田舎の中学へいれてやる、と父が言っていた。私は中学校へなどそれほど入りたくなかったのだけれどそれでも、からだが弱くて残念に思う、と綴方へ書いて先生たちの同情を強いたりしていた。


【ちょっと解説】

・曾祖母−さよ

・離座敷−調査中///長兄文治夫妻の新居として建てられ、昭和23年までは母屋(現斜陽館)と渡り廊下でつながっていた。現在は移設され個人所有となっているが、「旧津島家新座敷」として公開されている。
http://dazai-ya.shop-pro.jp/?mode=f2///調査中

・なくなった−さよが亡くなったのは大正9年

・小学校を卒業−金木第一尋常小学校を大正11年に卒業

・高等小学校−明治高等小学校
「思い出」を読もう 14 [2009年08月21日(Fri)]
来年の「太宰治検定」とは直接関係ないかも知れませんが、小説「津軽」をより深く理解していただくためにも、この作品は一度は読んでおきたい作品です。

全文を少しずつ掲載していきます。できれば「太宰治検定ブログ」らしく、少し解説も加えていきたいと思います。(解説の多くはCD-ROM「太宰治全作品集」渡部芳紀先生監修〈マイクロテクノロジー社〉を参考にしています。)



  私は姉たちには可愛がられた。いちばん上の姉は死に、次の姉は嫁ぎ、あとの二人の姉はそれぞれ違うまちの女学校へ行っていた。私の村には汽車がなかったので、三里ほど離れた汽車のあるまちと往き来するのに、夏は馬車、冬は橇、春の雪解けの頃や秋のみぞれの頃は歩くより他なかったのである。姉たちは橇に酔うので、冬やすみの時も歩いて帰った。私はそのつどつど村端れの材木が積まれてあるところまで迎えに出たのである。日がとっぷり暮れても道は雪あかりで明るいのだ。やがて隣村の森のかげから姉たちの提灯がちらちら現れると、私は、おう、と大声あげて両手を振った。
 上の姉の学校は下の姉の学校よりも小さいまちにあったので、お土産も下の姉のそれに較べていつも貧しげだった。いつか上の姉が、なにもなくてえ、と顔を赤くして言いつつ線香花火を五束六束バスケットから出して私に与えたが、私はそのとき胸をしめつけられる思いがした。此の姉も亦きりょうがわるいとうちの人たちからいわれいわれしていたのである。



【ちょっと解説】

・いちばん上の姉−タマ(明治22年〜明治45年)

・次の姉−トシ(明治27年〜昭和23年)

・嫁ぎ−同じ町の∧原(ヤマハラ)と呼ばれる小間物・文具などを扱う商家に嫁いだ。息子は津島逸朗

・あとの二人の姉−あい、きょう



左から、三姉あい・太宰・母タ子(たね)・四姉きやう・弟礼治・三兄圭治
太宰治生誕百年スタンプラリー [2009年08月20日(Thu)]
こんなの見つけました。楽しそう!

http://www.jreast.co.jp/akita/topics/dazai/index.html
「思い出」を読もう 13 [2009年08月19日(Wed)]
来年の「太宰治検定」とは直接関係ないかも知れませんが、小説「津軽」をより深く理解していただくためにも、この作品は一度は読んでおきたい作品です。

全文を少しずつ掲載していきます。できれば「太宰治検定ブログ」らしく、少し解説も加えていきたいと思います。(解説の多くはCD-ROM「太宰治全作品集」渡部芳紀先生監修〈マイクロテクノロジー社〉を参考にしています。)



  私はけれども長兄より次兄に多く親しんだ。次兄は東京の商業学校を優等で出て、そのまま帰郷し、うちの銀行に勤めていたのである。次兄も亦うちの人たちに冷く取扱われていた。私は、母や祖母が、いちばん悪いおとこは私で、そのつぎに悪いのは次兄だ、と言っているのを聞いた事があるので、次兄の不人気もその容貌がもとであろうと思っていた。なんにも要らない、おとこ振りばかりでもよく生れたかった、なあ治、と半分は私をからかうように呟いた次兄の冗談口を私は記憶している。しかし私は次兄の顔をよくないと本心から感じたことが一度もないのだ。あたまも兄弟のうちではいい方だと信じている。次兄は毎日のように酒を呑んで祖母と喧嘩した。私はそのたんびひそかに祖母を憎んだ。
 末の兄と私とはお互いに反目していた。私は色々な秘密を此の兄に握られていたので、いつもけむったかった。それに、末の兄と私の弟とは、顔のつくりが似て皆から美しいとほめられていたし、私は此のふたりに上下から圧迫されるような気がしてたまらなかったのである。その兄が東京の中学に行って、私はようやくほっとした。弟は、末子で優しい顔をしていたから父にも母にも愛された。私は絶えず弟を嫉妬していて、ときどきなぐっては母に叱られ、母をうらんだ。私が十か十一のころのことと思う。私のシャツや襦袢の縫目へ胡麻をふり撒いたようにしらみがたかった時など、弟がそれを鳥渡笑ったというので、文字通り弟を殴り倒した。けれども私は矢張り心配になって、弟の頭に出来たいくつかの瘤へ不可飲という薬をつけてやった。



【ちょっと解説】

・次兄−英治。(明治34年〜昭和45年)



・うちの銀行−金木銀行。経理を担当。文治の下でヤマゲンの経理も担当した。


・末の兄−圭治(明治36年〜昭和5年)

 太宰と圭治


・弟−礼治(明治45年〜昭和4年)



腕組みはお気に入りの決めポーズ!?
「思い出」を読もう 12 [2009年08月18日(Tue)]
来年の「太宰治検定」とは直接関係ないかも知れませんが、小説「津軽」をより深く理解していただくためにも、この作品は一度は読んでおきたい作品です。

全文を少しずつ掲載していきます。できれば「太宰治検定ブログ」らしく、少し解説も加えていきたいと思います。(解説の多くはCD-ROM「太宰治全作品集」渡部芳紀先生監修〈マイクロテクノロジー社〉を参考にしています。)



  音に就いて思い出す。私の長兄は、そのころ東京の大学にいたが、暑中休暇になって帰郷する度毎に、音楽や文学などのあたらしい趣味を田舎へひろめた。長兄は劇を勉強していた。或る郷土の雑誌に発表した「奪い合い」という一幕物は、村の若い人たちの間で評判だった。それを仕上げたとき、長兄は数多くの弟や妹たちにも読んで聞かせた。皆、判らない判らない、と言って聞いていたが、私には判った。幕切の、くらい晩だなあ、という一言に含まれた詩をさえ理解できた。私はそれに「奪い合い」でなく「あざみ草」と言う題をつけるべきだと考えたので、あとで、兄の書き損じた原稿用紙の隅へ、その私の意見を小さく書いて置いた。兄は多分それに気が付かなかったのであろう、題名をかえることなくその儘発表して了った。レコオドもかなり集めていた。私の父は、うちで何かの饗応があると必ず、遠い大きなまちからはるばる芸者を呼んで、私も五つ六つの頃から、そんな芸者たちに抱かれたりした記憶があって、「むかしむかしそのむかし」だの「あれは紀のくにみかんぶね」だのの唄や踊りを覚えているのである。そういうことから、私は兄のレコオドの洋楽よりも邦楽の方に早くなじんだ。ある夜、私が寝ていると、兄の部屋からいい音が漏れて来たので、枕から頭をもたげて耳をすました。あくる日、私は朝早く起き兄の部屋へ行って手当り次第あれこれとレコオドを掛けて見た。そしてとうとう私は見つけた。前夜、私を眠らせぬほど興奮させたそのレコオドは、蘭蝶だった。



【ちょっと解説】

・長兄−文治(明治31年〜昭和48年)。のちに政治家となるが学生時代に戯曲を書くほどの文学青年であった



・東京の大学−早稲田大学

・レコオド−「斜陽館」の文庫蔵2階の展示にレコオドがたくさんあったように記憶しています。(今度行ったときに確かめてみます。)
太宰展 [2009年08月16日(Sun)]
今日は青森県近代文学館の「太宰治特別展」と


http://www.plib.net.pref.aomori.jp/top/museum/


県立美術館の「太宰治特別展」に行ってきました。


http://www.aomori-museum.jp/ja/exhibition/26/index.html#top


どちらもなかなかみることのできない一級の資料が沢山展示されています。

近代文学館では、高校時代のノートが初公開されていました。太宰のノートの似顔絵や落書きは有名ですが、それに混じっての「細胞文藝」や「辻島衆二」の書き込みはぐぐっときます!


トピックスがひとつ。

近代文学館では大変珍しい太宰の中学生時代の写真が、今月12日から展示されています。

(許可をいただき撮影しました)

太宰が兄弟従姉妹とともに浅虫の海岸へ遊びに行ったときのスナップ写真12枚です。

きょう、圭治、礼治、テイ(従姉妹)、広田キヌ(テイの友人)さんが写っています。

圭治さんが撮していたらしいのですが、みんな揃っての「はいチーズ」写真の他に、楽しそうにしている自然な感じの写真が沢山あって、当時としてはこのような写真は大変珍しいものではないかと思います。

なかでも、太宰が左足を大きくあげておどけて歩いているような写真は「道化」の一面を思わせる貴重な写真だと思いました。

すでにこの特別展をご覧になった方も、もう一度これらの写真を見に足を運ぶ価値があると思います。



県立美術館での展示も大変充実していました。

太宰本人が書いた自画像の油絵です。「太宰治検定」公式テキストの表紙は、この絵をモチーフにしています。

  


弘前高校時代の同級生藤田本太郎氏が撮った一連のポートレートが展示されていました。モデルよろしく太宰は様々な表情をしています。

他にも太宰と関係が深かった画家の作品もたくさん展示されていました。

個人的には小舘善四郎の絵が良かったです。

あと、三兄圭治の作った仏像も展示されていました。はじめてみました。



行くたびに思うのですが、青森県立美術館はいいですよ。それほど美術館をたくさん巡ったわけではありませんが、とてもおしゃれでイケてます!

ミュージアムショップでは「太宰治検定」関連グッツも販売されていますので、そちらにも是非お立ち寄りください。
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