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「思い出」を読もう4 [2009年07月31日(Fri)]
来年の「太宰治検定」とは直接関係ないかも知れませんが、小説「津軽」をより深く理解していただくためにも、この作品は一度は読んでおきたい作品です。

全文を少しずつ掲載していきます。できれば「太宰治検定ブログ」らしく、少し解説も加えていきたいと思います。



   やがて私は故郷の小学校へ入ったが、追憶もそれと共に一変する。たけは、いつの間にかいなくなっていた。或漁村へ嫁に行ったのであるが、私がそのあとを追うだろうという懸念からか、私には何も言わずに突然いなくなった。その翌年だかのお盆のとき、たけは私のうちへ遊びに来たが、なんだかよそよそしくしていた。私に学校の成績を聞いた。私は答えなかった。ほかの誰かが代って知らせたようだ。たけは、油断大敵でせえ、と言っただけで格別ほめもしなかった。
 同じ頃、叔母とも別れなければならぬ事情が起った。それまでに叔母の次女は嫁ぎ、三女は死に、長女は歯医者の養子をとっていた。叔母はその長女夫婦と末娘とを連れて、遠くのまちへ分家したのである。私もついて行った。それは冬のことで、私は叔母と一緒に橇の隅へうずくまっていると、橇の動きだす前に私のすぐ上の兄が、婿、婿と私を罵って橇の幌の外から私の尻を何辺もつついた。私は歯を食いしばって此の屈辱にこらえた。私は叔母に貰われたのだと思っていたが、学校にはいるようになったら、また故郷へ返されたのである。



【ちょっと解説】

・故郷の小学校−金木小学校。現在の金木病院の所にあった

・或漁村−小泊村(現中泊町)

・遠くのまち−五所川原

・それは冬のことで−大正5年(1916年)1月に叔母キヱ一家は五所川原へ分家した。小説にあるように太宰もこの時、叔母一家と共に五所川原に来ている。春になり小学校入学のために金木に戻された。

●小説は時系列が事実とはやや違っている。
大正5年に叔母キヱ一家が金木を離れ、翌年の大正6年2月に、タケが金木を離れ五所川原の津島家(キヱ一家)に使える。その翌年の大正7年にタケは小泊の越野家に嫁いでいる。

太宰は6,7才のまだ母親恋しい多感な時期に、結果として育ての母ふたりと引き離されたことになる。このことがトラウマとなり、太宰の人格形成に大きく関わったと考える研究者も多い。
採点データの訂正 [2009年07月29日(Wed)]
採点データについての訂正です。

遠方からの受検者についてですが、三鷹会場の最遠方受検者は鹿児島からご参加いただいた77才の女性でした。


以下の記事を訂正しました。
https://blog.canpan.info/dazaikentei/archive/326

訂正と共に、間違いをお詫び申し上げます。
「思い出」を読もう3 [2009年07月29日(Wed)]
来年の「太宰治検定」とは直接関係ないかも知れませんが、小説「津軽」をより深く理解していただくためにも、この作品は一度は読んでおきたい作品です。

全文を少しずつ掲載していきます。できれば「太宰治検定ブログ」らしく、少し解説も加えていきたいと思います。



  そのお寺の裏は小高い墓地になっていて、山吹かなにかの生垣に沿うてたくさんの卒塔婆が林のように立っていた。卒塔婆には、満月ほどの大きさで車のような黒い鉄の輪のついているのがあって、その輪をからから回して、やがて、そのまま止ってじっと動かないならその回した人は極楽へ行き、一旦とまりそうになってから、又からんと逆に回れば地獄へ落ちる、とたけは言った。たけが回すと、いい音をたててひとしきり回って、かならずひっそりと止るのだけれど、私が回すと後戻りすることがたまたまあるのだ。秋のころと記憶するが、私がひとりでお寺へ行ってその金輪のどれを回して見ても皆言い合せたようにからんからんと逆回りした日があったのである。私は破れかけるかんしゃくだまを抑えつつ何十回となく執拗に回しつづけた。日が暮れかけて来たので、私は絶望してその墓地から立ち去った。
 父母はその頃東京にすまっていたらしく、私は叔母に連れられて上京した。私は余程ながく東京に居たのだそうであるが、あまり記憶に残っていない。その東京の別宅へ、ときどき訪れる婆のことを覚えているだけである。私は此の婆がきらいで、婆の来る度毎に泣いた。婆は私に赤い郵便自動車の玩具をひとつ呉れたが、ちっとも面白くなかったのである。



【ちょっと解説】

・卒塔婆−死者の供養のために墓地などにたてる細い木の柱

・黒い鉄の輪−御所車(後生車)のこと




・東京に住まって−明治45年衆議院議員に当選した太宰の父、源右衛門は東大久保に別邸を構えていた
木村さんJ−WAVEで太宰を語る [2009年07月28日(Tue)]
木村綾子さんが今日の夜、J−WAVEで太宰を熱く語ります!

7月28日(火)22:00〜23:45
J−WAVE81.3 『PLATOn』

アンジャッシュの渡部さんがナビゲーターを務めるこちらの番組にゲスト出演です。
1時間45分も!!

太宰治検定の話題にも触れてくれると思いますよ。


青森ではJ−WAVEが聞けないので残念です。

関東地区の方はお聞きのがしなく。
扇子2 [2009年07月28日(Tue)]
扇子について、早速お問い合わせいただいております。

九郎さんからも、感想コメントをいただきました。ありがとうございます。

「もうお気に入りで、外出の際には必ず鞄の中に入れて行きます。
お香の香りが心地よく、気分的にも涼しくなります。
そして、さり気なく太宰ファンもアピール出来て、これはお勧めでございます!」


値段が間違っていました。
1500円(税込)です。

それから、期間限定ですが、青森県立美術館でも9月6日まで販売しておりますので、宜しくお願いします。


送料と代引き手数料がかかってしまいますが、事務局にご連絡いただければ代引きにて発送いたしますので、遠方の方はご連絡ください。

太宰治検定事務局
0173−33−6338
扇子 [2009年07月26日(Sun)]
暑い日が続いていますね。
九州では豪雨の被害が心配です。


以前、九郎様からのコメントで扇子が話題になりました。

そういえば、ブログで扇子のコマーシャルをやっていませんでした。

暑い毎日にぜひこの扇子を持ち歩いてください!



太宰作品がデザインされています。



ほのかなお香の香りと共に、太宰作品が織りなす風に包まれてください。


五所川原では「立佞武多の館」、三鷹では「文学サロン」で販売しております。

定価:1500円(税別)です。
「思い出」を読もう2 [2009年07月25日(Sat)]
来年の「太宰治検定」とは直接関係ないかも知れませんが、小説「津軽」をより深く理解していただくためにも、この作品は一度は読んでおきたい作品です。

全文を少しずつ掲載していきます。できれば「太宰治検定ブログ」らしく、少し解説も加えていきたいと思います。



   叔母についての追憶はいろいろとあるが、その頃の父母の思い出は生憎と一つも持ち合せない。曾祖母、祖母、父、母、兄三人、姉四人、弟一人、それに叔母と叔母の娘四人の大家族だった筈であるが、叔母を除いて他のひとたちの事は私も五六歳になるまでは殆ど知らずにいたと言ってよい。広い裏庭に、むかし林檎の大木が五六本あったようで、どんよりと曇った日、それらの木に女の子が多人数で昇って行った有様や、そのおなじ庭の一隅に菊畑があって、雨の降っていたとき、私はやはり大勢の女の子らと傘さし合って菊の花の咲きそろっているのを眺めたことなど、幽かに覚えて居るけれど、あの女の子らが私の姉や従姉たちだったかも知れない。
 六つ七つになると思い出もはっきりしている。私がたけという女中から本を読むことを教えられ二人で様々の本を読み合った。たけは私の教育に夢中であった。私は病身だったので、寝ながらたくさん本を読んだ。読む本がなくなればたけは村の日曜学校などから子供の本をどしどし借りて来て私に読ませた。私は黙読することを覚えていたので、いくら本を読んでも疲れないのだ。たけは又、私に道徳を教えた。お寺へ屡々連れて行って、地獄極楽の御絵掛地を見せて説明した。火を放けた人は赤い火のめらめら燃えている籠を背負わされ、めかけ持った人は二つの首のある青い蛇にからだを巻かれて、せつながっていた。血の池や、針の山や、無間奈落という白い煙のたちこめた底知れぬ深い穴や、到るところで、蒼白く痩せたひとたちが口を小さくあけて泣き叫んでいた。嘘を吐けば地獄へ行ってこのように鬼のために舌を抜かれるのだ、と聞かされたときには恐ろしくて泣き出した。



【ちょっと解説】

・曾祖母−さよ
 祖母−いし
 父−源右衛門(げんえもん)
 母−タ子(たね)
 兄三人−文治、英治、圭治
 姉四人−タマ、トシ、あい、きょう
 弟−礼治
 叔母−キヱ
 叔母の娘四人−リエ、フミ、キヌ、テイ

・たけ−越野(近村)タケ。金木生まれ。13才の時から津島家で働し、太宰が満2才の頃から約5年間、子守をした。太宰の叔母キヱが五所川原に分家した次の年からは、五所川原の津島家で働くことになる。

・日曜学校−津島家の菩提寺である南台寺でおこなわれていた「金木日曜学校」を指す。

・お寺−雲祥寺

・地獄極楽の御絵掛地(おえかけじ)−十王曼荼羅

「思い出」を読もう1 [2009年07月23日(Thu)]
来年の「太宰治検定」とは直接関係ないかも知れませんが、小説「津軽」をより深く理解していただくためにも、この作品は一度は読んでおきたい作品です。

全文を少しずつ掲載していきます。できれば「太宰治検定ブログ」らしく、少し解説も加えていきたいと思います。



  思い出


       一章

 黄昏のころ私は叔母と並んで門口に立っていた。叔母は誰かをおんぶしているらしく、ねんねこを着て居た。その時の、ほのぐらい街路の静けさを私は忘れずにいる。叔母は、てんしさまがお隠れになったのだ、と私に教えて、生き神様、と言い添えた。いきがみさま、と私も興深げに呟いたような気がする。それから、私は何か不敬なことを言ったらしい。叔母は、そんなことを言うものでない、お隠れになったと言え、と私をたしなめた。どこへお隠れになったのだろう、と私は知っていながら、わざとそう尋ねて叔母を笑わせたのを思い出す。
 私は明治四十二年の夏の生れであるから、此の大帝崩御のときは数えどしの四つをすこし越えていた。多分おなじ頃の事であったろうと思うが、私は叔母とふたりで私の村から二里ほどはなれた或る村の親類の家へ行き、そこで見た滝を忘れない。滝は村にちかい山の中にあった。青々と苔の生えた崖から幅の広い滝がしろく落ちていた。知らない男の人の肩車に乗って私はそれを眺めた。何かの社が傍にあって、その男の人が私にそこのさまざまな絵馬を見せたが私は段々とさびしくなって、がちゃ、がちゃ、と泣いた。私は叔母をがちゃと呼んでいたのである。叔母は親類のひとたちと遠くの窪地に毛氈を敷いて騒いでいたが、私の泣き声を聞いて、いそいで立ち上った。そのとき毛氈が足にひっかかったらしく、お辞儀でもするようにからだを深くよろめかした。他のひとたちはそれを見て、酔った、酔ったと叔母をはやしたてた。私は遥かはなれてこれを見おろし、口惜しくて口惜しくて、いよいよ大声を立てて泣き喚いた。またある夜、叔母が私を捨てて家を出て行く夢を見た。叔母の胸は玄関のくぐり戸いっぱいにふさがっていた。その赤くふくれた大きい胸から、つぶつぶの汗がしたたっていた。叔母は、お前がいやになった、とあらあらしく呟くのである。私は叔母のその乳房に頬をよせて、そうしないでけんせ、と願いつつしきりに涙を流した。叔母が私を揺り起した時は、私は床の中で叔母の胸に顔を押しつけて泣いていた。眼が覚めてからも、私はまだまだ悲しくて永いことすすり泣いた。けれども、その夢のことは叔母にも誰にも話さなかった。


【ちょっと解説】

・叔母−キヱ。実母タ子(たね)の妹

・幅の広い滝−金木東南にある「藤の滝」?
実行委員会反省会 [2009年07月22日(Wed)]
今日は実行委員会の反省会を行いました。

(例のごとく写真なし (+_+) )

欠席者もあり7名での反省会でしたが、欠席者からは事前に電話で意見をいただいていましたので、来年の開催に向け、様々な意見集約ができました。

最も大きな課題は組織の強化です。

少人数で、時間に追われすべてのことがいっぱいいっぱいだった今年の検定。

来年に向け、新たな体制作りが急務です。

近日中に実行委員会メンバーの募集を行いたいと思います。
ついに5万アクセス達成! [2009年07月20日(Mon)]
ついに50.000アクセスを達成しました 



検定が終わってからも毎日200〜300のアクセスをいただいております。ありがとうございます。

がんばって更新しなきゃ。f(^ー^;
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