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「津軽」を読もう 58 [2009年05月31日(Sun)]
太宰治検定の問題は太宰作品「津軽」と「公式テキスト」から出題されます。

「津軽」は読んでいただけましたか?

引き続き、ブログ上でも「津軽」の一部分を紹介していきます。



私は今まで、Mの家に行った事は、いちども無い。木造町へ来た事も無い。或いは私の幼年時代に、誰かに連れられて遊びに来た事はあったかも知れないが、いまの私の記憶には何も残っていない。Mの家の当主は、私よりも四つ五つ年上の、にぎやかな人で、昔からちょいちょい金木へも遊びに来て私とは顔馴染である。私がいま、たずねて行っても、まさか、いやな顔はなさるまいが、どうも、しかし、私の訪ね方が唐突である。こんな薄汚いなりをして、Mさんしばらく、などと何の用も無いのに卑屈に笑って声をかけたら、Mさんはぎょっとして、こいついよいよ東京を食いつめて、金でも借りに来たんじゃないか、などと思やすまいか。死ぬまえにいちど、父の生れた家を見たくて、というのも、おそろしいくらいに気障だ。男が、いいとしをして、そんな事はとても言えたもんじゃない。いっそこのまま帰ろうか、などと悶えて歩いているうちに、またもとのM薬品問屋の前に来た。もう二度と、来る機会はないのだ。恥をかいてもかまわない。はいろう。私は、とっさに覚悟をきめて、ごめん下さい、と店の奥のほうに声をかけた。Mさんが出て来て、やあ、ほう、これは、さあさあ、とたいへんな勢いで私には何も言わせず、引っぱり上げるように座敷へ上げて、床の間の前に無理矢理座らせてしまった。ああ、これ、お酒、とお家の人たちに言いつけて、二、三分も経たぬうちに、もうお酒が出た。実に、素早かった。
「久し振り。久し振り。」とMさんはご自分でもぐいぐい飲んで、「木造は何年振りくらいです。」
「さあ、もし子供の時に来た事があるとすれば、三十年振りくらいでしょう。」
「そうだろうとも、そうだろうとも。さあさ、飲みなさい。木造へ来て遠慮する事はない。よく来た。実に、よく来た。」

【「津軽」より抜粋】
第4回 太宰治検定模擬試験&セミナー 開催 [2009年05月30日(Sat)]
今日は第4回 太宰治検定模擬試験&セミナーです。

13名の方のご参加をいただきました。ありがとうございます。
青森や弘前からも参加していただきました。



今回はちょっと難しめにしたつもりでしたが、さすが、皆さん勉強されています。
合格率も高かったです。満点の方も一人いらっしゃいました。

問題の間違いも指摘していただいたり、逆にいろいろと教えていただいたりと、充実した120分でした。


ホームページに先立ち、試験問題をこちらに公開します。

皆さん挑戦してみてください!



mogishiken2.mondai.pdf
   模擬試験2 問題


mogishiken2.kaitou.pdf
    模擬試験2 解答
「津軽」を読もう 57 [2009年05月30日(Sat)]
太宰治検定の問題は太宰作品「津軽」と「公式テキスト」から出題されます。

「津軽」は読んでいただけましたか?

引き続き、ブログ上でも「津軽」の一部分を紹介していきます。



その日も、ひどくいい天気で、停車場からただまっすぐの一本街のコンクリート路の上には薄い春霞のようなものが、もやもや煙っていて、ゴム底の靴で猫のように足音も無くのこのこ歩いているうちに春の温気にあてられ、何だか頭がぼんやりして来て、木造(きづくり)警察署の看板を、木造(もくぞう)警察署と読んで、なるほど木造(もくぞう)の建築物、と首肯き、はっと気付いて苦笑したりなどした。
 木造は、また、コモヒの町である。コモヒというのは、むかし銀座で午後の日差しが強くなれば、各商店がこぞって店先に日よけの天幕を張ったろう、そうして、読者諸君は、その天幕の下を涼しそうな顔をして歩いたろう、そうして、これはまるで即席の長い廊下みたいだと思ったろう、つまり、あの長い廊下を、天幕なんかでなく、家々の軒を一間ほど前に延長させて頑丈に永久的に作ってあるのが、北国のコモヒだと思えば、たいして間違いは無い。しかも之は、日ざしをよけるために作ったのではない。そんな、しゃれたものではない。冬、雪が深く積った時に、家と家との聯絡に便利なように、各々の軒をくっつけ、長い廊下を作って置くのである。吹雪の時などには、風雪にさらされる恐れもなく、気楽に買い物に出掛けられるので、最も重宝だし、子供の遊び場としても東京の歩道のような危険はなし、雨の日もこの長い廊下は通行人にとって大助かりだろうし、また、私のように、春の温気にまいった旅人も、ここへ飛び込むと、ひやりと涼しく、店に座っている人達からじろじろ見られるのは少し閉口だが、まあ、とにかく有難い廊下である。

【「津軽」より抜粋】( )内津島
第4回 「太宰治検定」模擬試験&セミナー [2009年05月30日(Sat)]
第4回 「太宰治検定」模擬試験&セミナー 開催

●日時…5/30(土) 13:30〜15:30

●会場…立佞武多の館4階

●講師…津島克正

◇ 参加費無料。太宰治検定公式テキストをお持ちください(立佞武多の館でも購入できます)。
「津軽」を読もう 56 [2009年05月28日(Thu)]
太宰治検定の問題は太宰作品「津軽」と「公式テキスト」から出題されます。

「津軽」は読んでいただけましたか?

引き続き、ブログ上でも「津軽」の一部分を紹介していきます。



しかし、だんだんとしを取るにつれて、いったい父は、どんな性格の男だったのだろう、などと無礼な忖度をしてみるようになって、東京の草屋に於ける私の仮寝の夢にも、父があらわれ、実は死んだのではなくて或る政治上の意味で姿をかくしていたのだという事がわかり、思い出の父の面影よりは少し老い疲れていて、私はその姿をひどくなつかしく思ったり、夢の話はつまらないが、とにかく、父に対する関心は最近非常に強くなって来たのは事実である。父の兄弟は皆、肺がわるくて、父も肺結核ではないが、やはり何か呼吸器の障りで吐血などして死んだのである。五十三で死んで、私は子供心にはそのとしがたいへんな老齢のように感ぜられ、まず大往生と思っていたのだが、いまは五十三の死没を頽齢の大往生どころか、ひどい若死にと考えるようになった。も少し父を生かして置いたら、津軽のためにも、もっともっと偉い事業をしたのかも知れん、などと生意気な事など考えている。その父が、どんな家に生れて、どんな町に育ったか、私はそれを一度見て置きたいと思っていたのだ。


【「津軽」より抜粋】
作家 田澤拓也さん [2009年05月27日(Wed)]
25日、当家に作家の田澤拓也さんが尋ねていらっしゃいました。

田澤さんは蟹田の出身で、現在東京でノンフィクション作家としてご活躍です。

東奥日報の「私の太宰治」で最初に執筆された方です。

そう、このブログでの掲載も快く承諾してくださったあの田澤さんです。


田澤さんは、秋頃に太宰についての本を出される予定で、その取材としていらっしゃいました。

私の父から太宰のことをいろいろと聞いていたようです。

私も昼休みに合流しました。


立佞武多の館の6F「春楡」にいきました。

5月から「太宰治生誕百年記念メニュー」の登場です。



太宰の好物だったと伝えられているモノをいろいろそろえています。

卵味噌、筋子納豆、しゃこ、根曲がり竹、ミズ、バナナ…

ご飯には若生昆布がまぶしておりました。

「春楡」のスタッフさんたちでいろいろと調べ、内容をきめたそうです。

かなりおいしかったですよ。メニュー内容の解説なんかが加わると最高ですね。



左が田澤さん。


私は田澤さんに「太宰治検定」のPR。
 

すると



かばんから検定テキストを取り出して、

「読んでますよ!」

そのテキストにはたくさんの付箋が、



ノンフィクション作家の方にこんなに付箋をつけながら読んで頂けるとは、光栄です。


秋に出版される田澤さんの本が楽しみです。
「太宰治検定」答え合わせツアー [2009年05月26日(Tue)]
発表

「太宰治検定」答え合わせツアー

開催決定!


「太宰治検定」の次の日、6月21日(日)、答え合わせツアーを開催いたします。

対象者は「太宰治検定」受検者で、定員は45名。

五所川原を朝8時に出発します。

県外からの受検者さんで、青森に宿泊の方もいらっしゃると思いますので、
9時に青森駅を経由(ここからの参加もOKです。)し、ツアーを開始します。

ガイドは小泊の「小説『津軽』の像記念館」の元館長、柳澤良知さん。答え合わせの解説は太宰治検定実行委員長の津島克正が行います。

「津軽」に書かれている場所を、柳澤さんの解説を聞きながら実際に見て回ることができる滅多にないツアー企画です。

柳澤さんは、「津軽」に登場する人物やそのご家族のほとんどに実際にお会いし、当時の様子などを詳細に記録されている方です。

秘話満載!

この機会をお見逃しなく。


申込用紙は受験票と一緒に送付いたします。
(東京会場にお申し込みの方には郵送されません。m(__)m )



5/24(日)、朝から柳澤さんと北都観光のSさん、Tさんとともに答え合わせツアーの下見を行いました。

当日と同じく朝8時の出発です。明け方まで模擬試験の準備をしていましたから私はヘロヘロ状態です。


青森駅の集合場所はこの辺かな?






バスの中で「太宰治検定」の答え合わせをしながら移動します。





太宰の中学時代の下宿「豊田家」跡で解説を確認する柳澤さんとSさん







こちらは龍飛岬観光案内所「龍飛館」



なかでは太宰とN君が泊まった部屋が公開されています。
その時の様子が再現されています。



ここで、柳澤さんの口から次々と飛び出す秘話の数々!たまりません!!


さらに、三厩、竜飛、小泊、金木と続きます。

お昼ご飯は、これまたお楽しみ。太宰にちなんだスペシャル弁当です。


太宰ファンにはよだれもののツアーです。

こりゃ、スゲーや。
第3回 模擬試験&セミナー [2009年05月26日(Tue)]
5/24(日)、立佞武多の館で第3回の模擬試験&セミナーを行いました。

模擬試験問題も前回までのモノとは違うNo2です。

問題作成が遅れに遅れ、そのために講師の長内さんは解説の準備に夜中の4時半までかかっていたそうです。

私は私で、問題用紙の作成などで、これまた4時半頃までかかっていました。


参加者は14名。


平均点は 39.7点 (50点満点)でした。

みなさんお疲れ様でした。


次回は5/30(土)です。解説は津島が行います。
「太宰治検定」PRキャラクター(?)決定! [2009年05月25日(Mon)]
先週あったミラクルその2


以前このブログでご紹介したタレントの木村綾子さん
https://blog.canpan.info/dazaikentei/archive/208
が、 「太宰治検定」のPRキャラクター(?)をつとめてくださることになりました。

「太宰治検定」のPRや問題作成、様々な企画にご協力いただけるという、我々にとっては夢のようなお話し。

さっそく木村さんご自身のブログ(5/21)にこのことが書かれています。
http://people.zozo.jp/ayakokimura/diary?p=2

これからの展開がますます楽しみになりました。
「津軽」を読もう 55 [2009年05月25日(Mon)]
太宰治検定の問題は太宰作品「津軽」と「公式テキスト」から出題されます。

「津軽」は読んでいただけましたか?

引き続き、ブログ上でも「津軽」の一部分を紹介していきます。



ここは、私の父が生れた土地なのである。金木の私の家では代々、女ばかりで、たいてい婿養子を迎えている。父はこの町のMという旧家の三男かであったのを、私の家から迎えられて何代目かの当主になったのである。この父は、私の十四の時に死んだのであるから、私はこの父の「人間」に就いては、ほとんど知らないと言わざるを得ない。また自作の「思い出」の中の一説を借りるが、「私の父は非常に忙しい人で、うちにいることがあまりなかった。うちにいても子供らと一緒には居らなかった。私は此の父を恐れていた。父の万年筆をほしがっていながらそれを言い出せないで、ひとり色々と思い悩んだ末、或る晩に床の中で目をつぶったまま寝言のふりして、まんねんひつ、まんねんひつ、と隣部屋で客と対談中の父へ低く呼びかけた事があったけれど、勿論それは父の耳にも心にもはいらなかったらしい。私と弟とが米俵のぎっしり積まれたひろい米蔵に入って面白く遊んでいると、父が入口に立ちはだかって、坊主、出ろ、出ろ、と叱った。光を背から受けているので父の大きい姿がまっくろに見えた。私は、あの時の恐怖を惟うと今でも、いやな気がする。(中略)その翌春、雪のまだ深く積っていた頃、私の父は東京の病院で血を吐いて死んだ。ちかくの新聞社は父の訃を号外で報じた。私は父の死よりも、こういうセンセイションの方に興奮を感じた。遺族の名にまじって私の名も新聞に出ていた。父の死骸は大きい寝棺に横たわり橇に乗って故郷へ帰って来た。私は大勢のまちの人たちと一緒に隣村近くまで迎えに行った。やがて森の陰から幾台となく続いた橇の幌が月光を受けつつ滑って出て来たのを眺めて私は美しいと思った。つぎの日、私のうちの人たちは父の寝棺の置かれてある仏間に集った。棺の蓋が取りはらわれるとみんな声をたてて泣いた。父は眠っているようであった。高い鼻筋がすっと青白くなっていた。私は皆の泣声を聞き、さそわれて涙を流した。」まあ、だいたいこんな事だけが父に関する記憶と言っていいくらいのもので、父が死んでからは、私は現在の長兄に対して父と同様のおっかなさを感じ、またそれゆえ安心して寄りかかってもいたし、父がいないから淋しいなどと思った事はいちども無かったのである。


【「津軽」より抜粋】
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